050. 大阪シネ・ヌーヴォ 映画「ゴンドラ」を見る

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■050. 大阪シネ・ヌーヴォ 映画「ゴンドラ」を見る (2017.5.1)

 





 のっけから、都市が海に溶ける。少女の日常は牛乳瓶の底から見たようなおぼろな景色だ。視線は水着を洗う泡に、母親が食べ置いた食器から浮かびあがる水 面の油汚れに立ち尽くす。空間はゆがみ、音は妙に間延びして増幅され、なにひとつ意味はない。少女がときおり打ち鳴らす音叉は、本来は楽器の音合わせのた めに使われるもの。だが音はどれにも合わない。共鳴するものもない。ただ音叉の純音だけが、むなしく取り残される。映画はそうした場所―――大都市・東京 で偶然出会った(共鳴した)ふたつの純音(少女と少年)の物話、ともいえる。

 むかし、ある心理学のテキストのなかで紹介されていたこんな症例が忘れられない。小学生低学年の男の子が死について考え、じぶんは死んでしまったらどう なってしまうのか? と母親に訊く。考えると苦しいけれど、考えずにはいられない、と毎晩のように泣きながら母に死の話をし続ける。ところがある日、お母 さん、分かった、と明るい顔で言い出した。死んだらもういちど赤ん坊になって、お母さんのお腹から生まれてきたらいいんだ、と。それっきり、その男の子は もう死の話をしなくなった。

 この映画も、それに似ていると思った。純音の神話づくり、だ。共鳴するものがない音叉を持って、つぶされそうだった魂をかかえて、二人は少年の故郷であ る北の海へ翔ぶ。少女が海に流したきれいな色紙で飾った死んだ小鳥の棺おけも、少年が落魄する以前の立派な漁師だった父の残像を重ねながら釘を打ち据えて いくボロ舟も、他人にとってはつまらないことかも知れないが、二人が生きるための神話づくりなのだ。「死んだらもういちど赤ん坊になって、お母さんのお腹 から生まれてきたらいいんだ」と言った男の子の神話はかれが大人になったらもう通用しないだろう。神話とはそうして更新されていくものだ。そうして生きる ために何度でも神話を更新していく、更新していけばいいのだ、ということがこの映画の最大のメッセージであるような気がする。

 それにしてもひとつひとつの映像が印象的だ。こんな小賢しい理屈をこねなくたって、少女と少年の寡黙な眼をとおして映像をたどっていけば結局、おなじ結 論に導かれる。わけても下北半島の場面はどれも美しい。牛乳瓶の底から覗いたような風景はもう存在しない。ひとうひとつが自立して、なおかつ連なってい る。不機嫌な少女が、ここでは笑っている。共鳴するものがあるからだ。だから少女はもう音叉を叩く必要もない。かつてミヒャエル・エンデが、かれの「果て しない物語」の主人公・バスチアンについて語っていたこととおなじだ。「彼はだから、ファンタージェンからもとへ戻ったときに、ある意味で一種の詩人に なったわけです。なぜなら、詩人が古今東西において果たしてきた役割は、すべての事柄に意味を与えることでしたから。言葉をもういちど、見つけなおす、つ くりなおすことです。」

 30年後でも100年後でも、生きる意味を見い出したいと欲する者がいる限り、この映画は見続けられるだろう。まれにみるピュアな映画だと思った。ス トーリーも、俳優も、演技も、風景も、強いて言えばどれもきわどいバランスで成立している。わたしがひとつだけ危惧することがあるとしたら、30年前はこ のすばらしいバランスが成立した。では2010年代の現在にあって、このような純音の物語をつむぐことは可能か。

※大阪・シネ・ヌーヴォで映画「ゴンドラ」を見た。

2017.5.1

 


 


 



 

 

 

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