047. 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』を読む

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■047. 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』を読む (2016.12.30)

 






 

 そうか。みんな、おのれの正露丸(内なる東条)に「穏健派」という「糖衣」をかぶせて呑み込み、済ましてきたのが「正露丸糖衣A」だったか。

 年末に出張先の現場近くのブック・オフでたまたま買った吉田裕「昭和天皇の終戦史」(岩波新書)はじつに興味深かった。おのれの身命が問われる、まさにそんなときにこそ、人は真実の顔を露呈する。

 あの東京裁判のフィルムで東条の禿頭をうしろからぺしっと叩く場面で有名な思想家の大川周明は昭和22年12月20日の日記に、こう記した。「いずれに もせよ、戦争は東条一人で始めたような具合になってしまった。誰も彼も反対したが戦争が始まったというのだから、こんな馬鹿げた話はない。日本を代表する A級戦犯の連中、実に永久の恥さらしどもだ」 じつにまっとうなご意見。

 軍人、文官、宮中グループ、そして天皇までもがアメリカ占領下の日本で、おのれの保身のためにGHQに取り入り、協力をし、必死で画策を試みた。この本 の中で浮き彫りにされるそうしたかれらの姿を見ていると、ひたすらみずからが敬愛する天皇(と天皇制)を護るために戦争責任のすべてを引き受け、おのれの 保身のためには一切の弁明をせずに絞首台へあがった東条英機の方が、皮肉だがいっそ潔く見える。

 天皇の戦争責任の問題が封印され、タブー視され、そうして一切合財を少数の軍人たちに押しつけて、結局、だれも、300万もの自国民が死に、その何倍も のアジアの人々が殺された戦争の責任を取らず、責任論の国民的な広がりを欠いたまま、この国は長い戦後をあいまいなままやり過ごしてきた。ずっと。

 もうひとつは「すべての戦争責任を軍部に押しつけることによって政治的なサバイバルに成功した「穏健派」のなかから、戦後の保守政治をになう主体が成長 してきたことである。この結果、パワー・エリートの人的構成という面では、戦前=戦後の「断絶」より、「連続」が主たる側面となった」

 大川の言う「永久の恥さらしども」がしたり顔でこの国の戦後の政治を主導していった。すなわち、この国はなにも、なにひとつ清算しなかった。その歪みが いまもこの国の歴史認識として、責任主体の不在として、上から下に至るすべてに染みつき、蔓延し、放り出されたままでいる。気が遠くなるほどの命が奪われ たはずなのに、殺した側はだれひとりとして、返り血すら浴びていない。

 それと、「平和と国民のことを常に考え続けてきた天皇」という幻想にしがみつくのは、もうやめようじゃないか。敗戦が必至であった昭和20年頃から連合 国による占領に至る間、つまり天皇制自体の存続が危機的であったとき、天皇とその側近たちが常に最優先で考えたのは「国民のこと」ではなく、天皇制の存続 (国体護持)であり、三種の神器であり、「皇祖皇宗」(天皇の先祖及び歴代天皇)への責任であり、みずからの進退問題(退位)であった。当たり前といえ ば、当たり前のこと。 (※昭和20年8月12日の皇族会議の席で「講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか」との朝香宮の質問に「勿 論だと答え」、また皇位の正当性を保証する三種の神器への固執については「敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の 移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい」という判断もポツダム宣言を受諾にふみきらせた要因であると天皇自ら「独白 録」で回想している)

  車の通行量もどこかさびしげな年の暮れに、こんなふうにこの国の来し方に思いをはせるのも悪くないのでは。

 ちなみに子どもの頃から胃腸が弱かったおれにとって正露丸は長いこと心の友だったけれど、クレオソート、とくにフェノールの毒性を言われるようになってからはビオフェルミンに変えた。だから「正露丸糖衣A」は一度として飲んだことがない。

 

 すなわち、十五年戦争の時期に「親英米派」「現状維持派」などと呼ばれたこのグループは、本来、軍部、とくに陸軍の推進する対内・対外政策に対して批判 的な集団であり、対外的には英米との協調を重視し、対内的には「高度国防国家」の構築という軍部の要求に慎重な姿勢をとった。彼らは、対英米関係を悪化さ せる可能性のある軍事冒険政策に対しては、たしかに抑止的な態度をとったが、日本をアジアにおける「盟主」の位置に置き、「大日本帝国」のアジアにおける 権益の維持・拡大のためには軍事力の行使も辞さないと考える点では、軍部の強硬派とも共通する面をもつ、「帝国意識」の持ち主である。同時に、彼らは、思 想的には強烈な反共主義に裏打ちされた国体至上主義者のグループであり、その社会的出自も概して高い。

 この「穏健派」の評価いかんによって、日本の近代史はまったく異なった像をむすぶが、私見によれば、当初、対米英協調路線と政党内閣制を支持していたこ のグループは、十五年戦争の経過のなかで次第にそのスタンスを変化させ、軍部の路線との間の距離を締めていった。そして、そのなかのかなりの部分は、天皇 =木戸を中心にした宮中グループも含めて、最終的には軍部との間にゆるやかな政治ブロックを形成したと考えられる。一般には、十五年戦争の時期は、「軍部 独裁」が成立してゆく時期と考えられているが、軍部とてオールマイティの権力を握っていたわけではなく、この「穏健派」の黙認や追認、あるいは支持や協力 がなければ、軍部の推進する路線は国策とはなりえなかったのである。

 さらに、敗戦という危機的状況のなかで「穏健派」は、東京裁判への積極的協力にみられるように、すべての戦争責任を軍部を中心にした勢力に押しつけ、彼 らを切り捨てることによって生き残りをはかろうとした。その意味では東京裁判は、日本の保守勢力の再編成の一環として位置づけることができる。そして、こ の「穏健派」のなかから、アメリカの対日政策の転換に呼応するかたちで、占領政策の「受け皿」となる勢力が成長してくるのである。四八年一〇月の第二次吉 田茂内閣の成立は、そうした「受け皿」の形成を意味していた。

 以上のことを歴史認識の問題としてとらえ直してみると、わたしたち日本人は、あまりにも安易に次のような歴史認識に寄りかかりながら、戦後史を生きてき たといえるだろう。すなわち、一方の極に常に軍刀をガチャつかせながら威圧をくわえる粗野で粗暴な軍人を置き、他方の極には国家の前途を憂慮して苦悩する リベラルで合理主義的なシビリアンを置くような歴史認識、そして、良心的ではあるが政治的には非力である後者の人々が、軍人グループに力でもってねじ伏せ られていくなかで、戦争への通が準備されていったとするような歴史認識である。そして、その際、多くの人々は、後者のグループに自己の心情を仮託すること によって、戦争責任や加害責任という苦い現実を飲みくだす、いわば「糖衣」としてきた。

 しかしそのような、「穏健派」 の立場に身を置いた歴史認識白体が、国際的にも大きく問い直される時代をわたしたちはむかえている。すなわち、社会主義 諸国の崩壊に起因した冷戦体制の解体によって、そもそも冷戦期の産物である「穏健派」史観そのものの見直しが不可避となった。また、アジア諸国との関係 も、東京裁判の段階とは大きく変った。東京裁判の段階では、日本の侵略の主たる対象となったアジア諸国は、いまだ独立か建国の途上にあって、その国際的発 言力もきわめて小さなものでしかなかった。東京裁判ほ、これらの諸国の意向をほとんど無視することによって初めて成立することができたのである。しかし、 そのアジア諸国もその後しだいに国際的な発言権を強め、アジア諸国との関係の安定化を求める日本政府としても、これらの国々の対日要求にある程度の考慮を 払わざるをえない状況になってきている。そうしたなかで、これらの国々の間から、日本の「戦後処理」に対する批判の声が急速に高まりつつあるのが現状であ る。
 こうした声に誠実に対応しようとするかぎり、わたしたちは、日本の戦後処理を支えた歴史認識そのものを、みずからの手で問い直さなければならないのだと思う。

▼吉田裕「昭和天皇の終戦史」(岩波新書) https://www.amazon.co.jp/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5…/…/4004302579

▼近衛文麿と昭和天皇の暗闘 | 世に倦む日日 http://critic20.exblog.jp/23972790/ 

2016.12.30

 



 

 

 

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