043. 関ケ原合戦場と青墓

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■043. 関ケ原合戦場と青墓 (2016.8.23)

 






 

 はじめて行った関ヶ原の合戦場跡は、もっと広大なエリアで戦闘が繰り広げられたのかと思いきや、意外とこじんまりした印象だったな。奈良から高速をつ かって二時間少々。歴史にとんと弱いつれあいのために町の「歴史民俗資料館」でおさらいをしてから向かった笹尾山の石田三成陣跡に登ったら、毛利の布陣し た南宮山から小早川の松尾山まで、まさに天下分け目の合戦図がすっぽりと収まってしまう。戦の終盤に業を煮やした家康が進めた資料館隣にある陣跡も、三成 の陣からわずか1キロの近距離だ。そしてJRの線路に近い若宮八幡宮の山手にひっそりと位置する娘の待望の大谷吉継の陣跡は逆に三成の笹尾山からは見え ず、ただ結果的に裏切り者となった小早川の布陣する松尾山山頂だけをしっかと見据えている。こういう地理感というのは現地に立って見なければ分からない。 そして男というのは合戦ごっこが好きなんだな。なんかわくわくしてくるじぶんがいる。でも結局、なべての歴史というものは「フィクション」なのだと思う。 勝者と生き残ったもの、そして後世により常に更新される「フィクション」。ほんとうにじっさいのところはタイムトリップでもしなければ分からない。けれど たいていのそうした「フィクション」は、じつは「事実」ではなく、そこに人々が何を仮託して語り継がれてきたか、というところが面白いのではないか。わず かな実証の小石に足をかけて、われわれはそうして編み出された「フィクション」に乗ることで、さまざまな人のこころの有り様を愉しむ。そういうことではな いのかな。だから「史実」である関ヶ原の合戦も、「フィクション」であるたとえば説教節の小栗判官も、わたしのなかではそれほど違いはない。

 車椅子を積んでいったので資料館は車椅子に乗って回ったが、あとは杖を頼りに丸太の階段や山道を娘もがんばってよくあるいた。資料館以外のところも、ピ ンポイントで無料の駐車スペースがあるのも助かった。回ったのは資料館のほか、徳川家康の最後の陣跡、笹尾山の石田三成の陣跡、戦後の首実検などの西軍の 骸を埋めたという東首塚、そして大谷吉継の陣跡と敵方の藤堂高虎が建てたと伝わる山中の墓。娘がどうして大谷吉継に心惹かれたのか、聞いたことはないが、 清廉実直と伝わる人柄と晩年に癩病を病んでいたことなども、あるいはわが身に重なるものがあるのかも知れない。吉継の墓は陣跡からさらに山すその背後、ゆ るやかな尾根筋をいったん下ってもういちどのぼった東向きの棚地にある。ほどよく木漏れ日が射し込むほどの間隔の雑木林で、不思議とおだやかで、心地よ い。娘はその墓の前で長いこと呆けたようにすわっていた。なんだかここはずっといたいような心落ち着く場所だ、と言った。どこぞからひらひらと舞ってきた 白い蝶を、吉継の魂であるかのようにいとおしく見つめた。吉継の墓の隣には「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」との命を受けて主の首を隠したと伝わる湯浅五 助の墓もなかよく並んでいる。そちらは大正時代に子孫が建てたものである。ところでひとつ面白かったのは墓の前の「史蹟 関ヶ原古戦場 大谷吉隆墓」の堂 々たる石柱、こちらは昭和14年に文部大臣の史蹟指定により建てられている。そして墓の左手の斜面の上に建てられたこちらも立派な自然石の顕彰碑「大谷刑 部少輔吉隆碑」、こちらは昭和15年に東大の神道学者・宮地直一の撰文のもと古跡保存会によって建立されたと。昭和15年は1940年。いみじくも辺見庸 が1937(イクミナ)と記した日中戦争がはじまった年の3年後。日独伊三国同盟が成り、翌年には太平洋戦争へと突入していく。このような時代の最中に 「義によって死んだ」歴史の英雄を讃える碑が続けざまに建てられたことはじつに興味深い。これもまた「史実」と「フィクション」のあわいに人々が仮託した 何ものかの形象である。

 夕刻。幸いに時間が少々あまったので、わたしのリクエストで数キロ東の大垣市にある青墓へ立ち寄った。中世には東山道の宿駅として賑わったこの青墓は、 かつて遊女や傀儡子(くぐつ)が多くいたことで知られる。わたしが青墓の名をはじめて見たのはたしか、山中から忽然と現れる「更級日記」に描かれた足柄山 のこころ沁みる遊女たちを語った脇田晴子氏の「女性芸能の源流 傀儡子・曲舞・白拍子」(角川選書)あたりだったろうか。あるいはわたしを説教節のめくる めくパラレル・ワールドに誘い込んだ岩崎武夫氏の「さんせい太夫考 中世の説教語り」(平凡社)であったか。あるいは網野善彦氏がどこかに記した中世にお ける女性職能集団の記述であったかも知れない。遊女と傀儡子とは、互いを内包する合わせ鏡の名称である。旅に暮らし、うたをうたい、踊り、舞い、ときに春 をひさぐ。わたしの好きな「更級日記」の一節についてかつて記した文章をここに引く。

 

 ・・「更級日記」は1020年、菅原孝標の娘が13歳の時、父の任地上総の国から上京する道中記からはじまる。この中に「生涯を通じて忘れられない思い 出」として、足柄山の暗夜の山中で遭遇した三人の遊女についての記述がある。わたしはこの話に、ほとんど心を奪われる。

 

 足柄山(あしがらやま)といふは、四、五日かねて、恐ろしげに暗がり渡れり。やうやう入り立つふもとのほどだに、空のけしき、はかばかしくも見えず。えもいはず茂り渡りて、いと恐ろしげなり。
 
 ふもとに宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女(あそびめ)三人(みたり)、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなるひとり、 二十ばかりなる、十四、五なるとあり。庵(いほ)の前にからかさをささせて据ゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔、こはたと言ひけむが孫といふ。 髪いと長く、額(ひたひ)いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕(しもづか)へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、声 すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、「西国(にしくに)の遊女はえかから じ」など言ふを聞きて、「難波(なには)わたりに比ぶれば」とめでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなく歌ひて、さばかり恐ろし げなる山中(やまなか)に立ちて行くを、人々飽かず思ひて皆泣くを、幼き心地には、ましてこの宿りを立たむことさへ飽かず覚ゆ。
 
 まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中の恐ろしげなること言はむかたなし。雲は足の下に踏まる。山の半(なか)らばかりの、木の下のわづかなるに、葵(あ ふひ)のただ三筋(みすぢ)ばかりあるを、世離れてかかる山中にしも生(お)ひけむよと、人々あはれがる。水はその山に三所(みところ)ぞ流れたる。
 
 からうじて越えいでて、関山(せきやま)にとどまりぬ。これよりは駿河なり。横走(よこはしり)の関のかたはらに、岩壺(いはつぼ)といふ所あり。えもいはず大きなる石の、四方(よはう)なる、中に穴のあきたる、中よりいづる水の、清く冷たきこと限りなし。 

【現代語訳】

 足柄山というのは、四、五日前から、恐ろしそうなほどに暗い道が続いていた。しだいに山に入り込むふもとの辺りでさえ、空のようすがはっきり見えない。言いようがないほど木々が茂り、ほんとうにおそろしげだ。
 
 ふもとに宿泊したところ、月もなく暗い夜で、暗闇に迷いそうになっていると、遊女が三人、どこからともなく出てきた。五十歳くらいの一人と、二十歳くら いと十四、五歳くらいのがいた。仮小屋の前に唐傘をささせて、その下に座らせた。男たちが火をともして見ると、二十歳くらいの遊女は、昔、こはたとかいう 名の知れた遊女の孫だという。髪がとても長く、額髪がたいそう美しく顔に垂れかかっていて、色は白くあかぬけしているので、このままでもかなりの下仕えと して都で通用するだろうなどと人々は感心した。すると、その遊女は、比べ物がないほどの声で、空に澄み上がるように見事に歌を歌った。人々はとても感心 し、その遊女を身近に呼び寄せて、みんなでうち興じていると、誰かが、「西国の遊女はこのように上手には歌えまい」と言えば、遊女がそれを聞いて、「難波 の辺りの遊女に比べたらとても及びません」と、即興で見事に歌った。見た目がとてもあかぬけしている上に、声までもが比べようがないほど上手く歌いなが ら、あれほど恐ろしげな山の中に立ち去って行くのを人々は名残惜しく思って皆嘆いた。幼い私の心には、それ以上にこの宿を立ち去るのが名残惜しく思われ た。
 
 まだ夜が明けきらないうちから足柄を越えた。ふもとにまして山中の恐ろしさといったらない。雲は足の下となる。山の中腹あたりの木の下の狭い場所に、葵 がほんの三本ほど生えているのを見つけて、こんな山の中によくまあ生えたものだと人々が感心している。水はその山には三か所流れていた。
 
 やっとのことで足柄山を越え、関山に泊まった。ここからは駿河の国だ。横走の関のそばに岩壺という所がある。そこには何ともいいようがないほど大きくて、四角で中に穴の開いた石があって、中から湧き出る水の清らかで冷たいことといったら、この上もなかった。

 

 物の怪が棲むような真っ暗闇の山中深くでこのような遊女たちに出会ったら、わたしは畏ろしくもあり、同時におなじくらい激しく魅惑されもするだろう。か つてこのような一所不在の漂泊の身であった遊女たちは、やがて赤坂憲雄のいう「近世権力によって“制度的にひかれた / 去勢された”境界」に囲い込まれ、その過程で不即不離であった聖性を落剥していき、やがて「祝祭の中ではなく、「俗」の中で」商品化された性のみを売る存 在へと転落していった。それはわたしたちにとってもまた同じように、近代の価値観や制度や個人といった狭い枠の中で性を切り離し矮小化し、古代の祝祭の力 を完全に失っていった過程でなかったか。

 わたしが遊里に惹かれるのは、そんな失った過去への憧憬なのかも知れない。ほんとうのいのちを取り戻したいからかも知れない。足柄山へ、いまから遊女に逢いにいく。

(以上、後半の引用は佐伯 順子「遊女の文化史」(中公新書)による)

2009.9 http://www.geocities.jp/marebit/gomu63.htm 

 

 「梁塵秘抄」に残る“今様(いまよう)”を愛した後白河法皇は全国の遊女・傀儡子を召し集めて彼女たちに伝わる今様や古曲を謡わせ習ったが、中でも美濃 青墓の乙前(おとまえ)を気に入って師弟関係をむすび、乙前が84歳で亡くなるまで世話をしたという。一方で青墓にはそうした「河竹の流れの身」であった 白拍子女の人身売買文書も残っている。説教節「小栗判官」で夫と生き別れた照手姫が売られていった青墓宿は、そのような人買いを介して身請けした遊女たち を供する宿によって富を得た長者たちが栄えた場所でもある。その際、「小栗判官」がフィクションであるかどうかはどうでもよい。高野聖その他の廻国聖、山 伏、御師、盲僧、絵解法師、熊野比丘尼、各地の巫女などの最下層の、折口のいう「漂遊者の文学」「巡游伶人の文学」の担い手が語りあるいたそれらの物語の 変奏(さまざまなヴァリエーション)には、じっさいに照手姫のように売られてきた無数の遊女たちがいたということ。そんな彼女らがきっと夢見たのが、客に 身体を売るよう強要する主人の要請を突っぱね、最後まで夫・小栗への貞節を守り通す照手姫の姿であった。説教節にはそんな社会の底辺でもがき、悲しみ、笑 い、突き抜けようとした名もなき人々が残していった無数の思いがあふれている。繰り返すが、それが「史実」と「フィクション」のあわいに人々が仮託した何 ものかの形象であったとしても、わたしには温もりも手触りもあるたしかな「現実」である。青墓宿はいまでは何もない。のどかな田園風景のなかにばらばらと 点在する住宅地のみで、往古の影は微塵も伺えないけれど、わたしはその土地にじっさいにじぶんの足で立ってみたかった。青墓に渡る風をこの身体で感じてみ たかった。

関ヶ原観光Web  http://www.kanko-sekigahara.jp/jp/index.html

関ケ原町歴史民俗資料館 http://www.rekimin-sekigahara.jp/ 

まちもよう(大垣市青墓地区) http://www.matimoyou.com/kamakurakaidoua2.html 

2016.8.23

 

 



 

 

 

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