037. 京都光華女子大学 貞末麻哉子「ぼくは写真で世界とつながる 〜米田祐二 22歳〜」「普通に生きる」

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■037. 京都光華女子大学 貞末麻哉子「ぼくは写真で世界とつながる 〜米田祐二 22歳〜」「普通に生きる」 (2015.12.14)

 






 

 30日間ノンストップのハード・ワークを終えて帰宅した翌日の日曜。京都・五条通にある京都光華女子大学で、「ぼくは写真で世界とつながる 〜米田祐二  22歳〜」と「普通に生きる」というふたつのドキュメンタリーを見た。前者は発達障害、いわゆる自閉症の青年の沖縄旅行の記録で、後者は静岡にある介護 施設に集う重度のさまざまな障害を持った子どもたちの姿を描いたもので、どちらも最近 Facebook で知り合った貞末麻哉子さんの制作した映像作品だ。主に貞末さんのタイムライン上でわが家の娘をめぐる学校とのやりとりなどをお話させていただいた経緯か ら、貞末さんよりちょうど関西で上映会があるのでよかったら、とお誘いを受けていたものだ。

「貞末麻哉子 の 主な Produce作品紹介」 http://www.motherbird.net/~maya/

 「ぼくは写真で世界とつながる」は、一言でいえば、「笑える映画」だ。デジタル・カメラを言語として、コミュニケーション・ツールとして、世界との窓と して駆使する“祐二くん”と世界とのやりとりに、人びとは大いに笑ってくれていい。(障害を持った人に対して)「笑っちゃいけないんじゃないか・・」とい う束縛を開放する映画、と言い換えてもいい。じっさい、わたしは何度も声を出して笑った。心から笑わせてもらった。で、この笑いというのはどういうことな んだろう、どこからもたらされるものなんだろう、とあとでちょっと考えてみたら、じつは映画の最中に後ろの席でぶつぶつひとり言をいっている人がいて、 ちょっとうるせえなと思っていたらそれが何と映画の主人公・ご当人であった。映画が終わって、貞末さんからかれの撮った写真を説明して欲しいと請われて壇 上にあがった“祐二くん”は、ふたたびわたしの真後ろの席に戻った途端、大きな声で「よし、いいぞいいぞ。大成功だ〜」とうれしそうに「ひとり、つぶやい た」のだった。このときもわたしは思い切り笑わせてもらった。つまりこの映画の笑いとは、気取った世間から自由でいる“祐二くん”がその間隙を軽やかに突 いてみせることによってもたらされる笑いなのだ。人びとは笑うことによって、みずからの気取りをいっしょに跳び越える。そんな笑いだ。だから“祐二くん” の写真もおなじように気取った世間から、自由な目線をたたえている。

 お昼をはさんで「普通に生きる」は、“祐二くん”の笑いに比べると、ちと重い。わたしも娘の病気の関連で病院や介助施設などで一般の人たちよりは多少目 にしてきたつもりけれど、重度の障害を持ったとくにお母さんたちの日常はほんとうに大変だ。子どもの成人式の晴れの日に、「死にたいと思ったこともあっ た」と明かすお母さん。意思疎通さえ困難な息子の誕生日に、「誕生日なんか祝いたくない」と漏らしてしまったと懺悔するお父さん。わたしも見ていて泣きそ うになった。それでも日々は続いていく。お父さんも苦悶し、お母さんも闘い続ける。この映画でいちばん印象的な言葉は、そんな重度の心身障害者の子どもた ちが親の元を離れて自立した生活ができるようにと設立された介護施設の所長が言う「社会が育つ」という言葉。以下、作家の高橋源一郎氏の時評より一部を引 く。

「この子は私が見ないと駄目だから・・・といって囲ってしまったんでは、社会も育っていかない」

 体も動かず、ことばも発することのできない心身障害児(者)が、親を動かし、成長させる。そしてその親たちが、鈍感な社会を、また成長させてゆく。常識 とは異なり、強い者、大きな者を育てることができるのだ。ぼくは、ここに「教育」のもっとも重要な本質、相互性(互いに教え合うこと)を見た。

(2012年1月26日付朝日新聞論壇時評より)

 「社会に育ててもらう」のではなく、障害を持ったかれらが「社会を育てる」。この一見、逆転の発想が映画のタイトルである「普通に生きる」を見事に照射している。

 前後するが、もうひとつ心に残った言葉がある。それは“祐二くん”を「ヘンな奴」だといじめていたお兄ちゃんがじぶんも介護施設などに同行するように なって、そこで“祐二くん”以外にも「ヘンな奴」がたくさんいて、それを受け入れている環境があるということが、障害を持った弟に対する理解へのステップ になっていったのかも知れないと語る場面である。お兄ちゃんのじっさいの言葉では「受け入れているシチュエーションがあるということ」という言い方をした わけだが、わたしにはとても重要な言葉のように思われた。「受け入れているシチュエーション」が社会にあるか、否か。こうした言葉がまた、先の「社会を育 てる」という言葉とからまって、わたしの頭の中をぐるぐるとかけまわった。

 じつは今回の上映会、娘は出発する朝から「微熱がある」とか「胃が痛い」とか言い出して、わたしを困らせた。彼女にはわたしが長期出張に出かける前に内 容を説明して、そのときには「いっしょに見に行く」とすんなり応えてくれたのだが、つれあいの説明ではやはり同じように障害を持った子どもたちのドキュメ ンタリーというのは彼女自身、まだエネルギーが少ないこともあってしんどいようだ。前の晩も、あまり眠れなかったらしい。奈良から車で一時間。車椅子で会 場に入って、それでも“祐二くん”のフィルムはけっこう熱心に見ていて、短いお昼時間にあわてて行った近くの回転寿司屋でちょっと元気になったりしていた のだけれど、「これ以上はどうしても無理」と言うので、つれあいと相談。わたしもせっかくここまで来たから二本目も見たいし、つれあいも「これは子どもよ りも親が見るべき作品だ」と乗り気だったので、次の作品の上映時間だけ、娘には車内で寝て待っていてもらうことにした。幸い車椅子と車体のクッションに積 んでいる毛布もある。そういうわけで、最後の中山千夏さんと貞末さんとのお話会は残念ながら見ることができなかった。

2015.12.14

 

 

 



 

 

 

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