035. 神戸「大英博物館展」と榎並和春個展

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■035. 神戸「大英博物館展」と榎並和春個展 (2015.10.10)

 






 

 朝から車で神戸へ。わたしとY、子、そして今回は子の友人のHちゃんも同行。いわば娘「二人」を連れた気分で。

 神戸市立博物館で開催中の「大英博物館展」。(駐車場は南隣のデビスパーキングが便利。土日でも最大1500円) サブ・タイトルの「100のモノが語 る世界の歴史」のとおり、世界各地の大英帝国の簒奪品を200万年前から現代まで、年代順に100のターニング・ポイントのように切りとって置いた、まず はその「見せ方」がナイスだった。「道具にやどる言語の息吹」 「エジプト名君のイメージ戦略」 「冥界の神々との交渉人」 「17世紀の「クールジャパ ン」」 等々、それぞれのタイトルのつけ方も洒落ている。ちょっと目線を変えた解説も妙。それぞれにみな面白かったけれど、そうだな。たとえば140万 〜120万年前、タンザニアのオルドヴァイ渓谷から発見された握り斧。完成形をあらかじめイメージしてつくることは何らかの言語能力を必要とした。つまり 石器の造型が言語の萌芽をもたらした、という説明が興味深かった。コトバというものはモノと密接につながっている、ということ(逆を言えば、モノとのつな がりを失ったコトバは狂う、ということ)。。また紀元300年頃のイエメン。みずからの右手を精巧に模した象りに神への祈りの言葉を刻んだ奉納品。「ぼく の右手を知りませんか。行方不明になりました」と歌ったブルーハーツの曲をふと思い出した。アメリカ先住民のパイプや、聖書以前の「ノアの箱舟」やヨナの 伝説を伝える遺物などキリスト教以前の、キリスト教文明が破壊してしまった文明の名残がわたしには近しく感じられた。そういう意味では『キリスト教の隆盛 とともに消えた宗教』として置かれていた「ミトラス神像」――――ミトラス神が雄牛に剣を突き刺し、あふれ出した生き血を犬と蛇がすすっている――――こ れがキリスト教のパン(雄牛)とワイン(生き血)のいわば裏返しの象徴であることをキリスト教徒たちが怖れた、という解説が興味深かった。ヨーロッパ文明 が意識の領域から追い出し、無意識の暗闇へと放逐したもの。わたしはそうしたものにいつも惹かれるな。そうして最後の方の「工業化と大量生産が変えた世 界」で登場した「アメリカの選挙バッジ」。ここではじめてアメリカのモノが登場するわけだが、それが「使い捨て文化」の始まりでもあるというのも何やら皮 肉なことだ。最後に101番目のモノをあなた自身が選んでくださいというコーナーがあって、人工心臓だとか、カーナビだとか、スマホだとかいろいろあっ て、市立博物館が今回選んだ101番目は3億年データを保存できる石英ガラス(英ガラス内部にBlu-ray Disc並みの記録密度となる100層デジタルデータを記録・再生することができる)であったようだが、わたしはそのどれも違うと思った。まだ現れていな いのかも知れない、もっと人の精神の変革をうながすたとえば生命と植物と鉱物とを横断するような、もっとやわらかで、沁みいるようなモノ。そう、言葉でい えばたとえば「苦界浄土」で石牟礼道子氏が水俣病患者を物語るような、そんな言語。

 たっぷり二時間近くを見てから、神戸元町の商店街近くで昼食。前回、「チューリッヒ美術館展」のときと同じ伊藤グリルの姉妹店「アシェット」でおなじハ ンバーグセットを食べ、おなじ向かいのスイーツ店でデザートのジェラートというのも芸がないが、あちこち物色するのがじつはあまり好きでない。

 さて、はるさん(榎並和春氏)の個展だ。調べてみると前回は2009年だったから、じつに6年ぶりとなる。わたしの長期出張が見事なほどはるさんの関西 での個展に重なったこともあったのだが、それだけでなかった。2011年、あの東日本大震災が起きて、わたしは以来、何やらじぶんのコトバと現実がどうし ても乖離してしまうように感じられて、いわばコトバを失った。書いてもじぶんで空々しかった。それが、人を遠ざけた。わたしは己が、画家の作品に対峙する だけの価値がないと、そう思ったのだった。わたしはそうしてよく、人を、世間を遮蔽する。それが友人に誘われたSNS(facebook)をきっかけに、 またひょんなことから言葉を交わすようになった。己の価値があがったわけではないのだが、ひさしぶりに見に行こうかなという心持になったのである。不登校 の娘を連れて。はるさんの作品をはじめて実際に見たのは、歴史を紐解けば2003年、子がまだ3歳のときだ。よって以来12年間、わたしなりに画家の作品 に寄り添ってきたことになる。「寄り添ってきた」という表現は不遜かも知れないが、わたしの心持のどこか深いところにはるさんの絵を求める・共振する要素 があるので、ある意味、12年間の拙いわたしの生はおなじではないかも知れないが、並行する線路のように画家の作品と生きてきたと言えるのではないか。は るさんの絵は、反復と回遊のバリエーションである。砂漠の遊牧民のように、アフリカの戦士たちのように、羊や牛を引き連れて旅をし、そうして季節ごとにい つもの場所へもどってくる。青があり、深緑があり、記憶の叙景があり、モダンな抽象があったりするのだが、いつも戻ってくるのは、砂漠の膨大な砂の底で 眠っている太古の地層を削り、かぶせ、また削りながら探している原像のようなまだ見ぬ形で、それがわたしと画家との間で、けっして同じではないのだけれ ど、案外と近しい。はるさんの絵は、やっぱり赤だと思う。「赤」と表記してしまうとちょっと違い、水銀の朱のような赤であり、禁忌(タブー)の赤であり、 あの世の赤であり、抵抗の赤だ。同時に現世の供養という意味では「閼伽」であってもいいかも知れない。はるさんの絵はやっぱり赤だと思っているのだけれ ど、不思議なことにわたしがいつも辿りつくのは、鉱物のような黄土色の作品であることが多い。赤や閼伽はその地層の下に隠れている。画家が天上の霊感を得 てささっと描いてしまったものよりも、むしろ半分俗に足をつっこんで迷いながら、苦闘しながら、疑いながら、地層を削り、剥ぎ取り、上塗りし、ひっかきし てまだ道半ばでついに誰かに明け渡した、そんな作品に惹かれるような気がする。そしてそれは遊牧民が回遊の中で必ず立ち寄り、いっときの小屋掛けをするよ うな、そんな反復なのだ。以前にもいつか見たことがあるのだけれど、なにかが違い、それでいて根は変わらない。神戸の閑静な住宅街に囲まれたひそやかな画 廊で、「絵はそのときの見ている人の内面を写すものだ」と画家が訪問客の女性に話しているとき、わたしが見ていたのは疲れた黒い影のような騾馬と寄り添い ヴァイオリンを、おそらくだれに聴かせるわけでもなくただ己の慰みのためだけに弾いているこれも黒い影のようなひとりの男の姿で、けれどもわたしはその男 は負けていない、まだ負けてはいないという矜持の音色をその男の弾くヴァイオリンからたしかに聴いたのだった。その音はとても力強かった。

2015.10.10

 

 

 



 

 

 

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