030. 寮美千子FB「トラウマを抱えた国・日本」に関連して

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■030. 寮美千子FB「トラウマを抱えた国・日本」に関連して (2015.6.23)

 






 

 月曜の深夜。寮さんが Facebook にアップした投稿(「トラウマを抱えた国・日本」 ・・犯罪を犯した少年たちの心の闇とこの国のいわゆる“自虐史観”を重ね合わせた話)について、「被害者側の感情を考えていない。殺人を犯すような奴は死 刑が相当」だと主張する人と寮さんとの間で深夜にかなりヒートアップした対話がつづいていたのを眺めていた。どこかで割って入ろうかと思ったのだけれど、 ベッドに行く嫁さんを追っかけて寝室へ行ってしまいました(^^) 今日、先の健康診断で出た再検査を受けに行った病院のロビーで、待ち時間の間にタブ レットとブルートゥース・キーボードを膝に置いて打ったのが下の文章。Facebookより、ここにも転載しておく。

 こういう話になると必ず出てくるのが「被害者遺族の気持ちを考えたことがあるのか」という意見。私事だが、わたしの父はわたしが20才のときに、無免 許・未成年・定員オーバー・スピード違反・飲酒運転の若者たちが運転する車がセンターラインを越えて正面から突っ込んできて衝突、帰宅途中であった父は即 死し、若者たちは怪我だけで全員生き残った。わたしはこれは、紛うことなき「殺人」だと思っている。そのとき、わたしは加害者側にどんな気持ちを抱いた か。もちろん激しい怒りを感じた。これは言葉では言い尽くせない。後日に葬式の会場に現れた若者たちの複数の親たちに向けて、まだ若かったわたしは思わず 式場のパイプ椅子を投げつけて、親類の叔母たちに止められた。わたしはそのまま式場を抜け、海の見える斜面の青々とした夏草を凝視した。わたしが父を殺し た加害者側と対面したのはそのときだけで、わたしが加害者側を強烈に意識したのは、たぶんそのときくらいであったと思う。こういう言い方が適切であるか分 からないが、言ってみればかれらは糞味噌といっしょだった。何をしても、たとえ彼らを殺して復讐しても、死んだ父はもう永遠に生き返らない。父が永遠に生 き返らないという絶望の方があんまり深すぎて、それ以外のことはすべて虚しいまぼろしのようで、要するに暴走車を運転していた馬鹿どももその親たちも、わ たしにとってはもうどうでもいい存在でしかなかった。存在価値すらなかった。パイプ椅子を投げつけたら、もうオシマイ。これ以上、邪魔しないでくれ。おれ の目の前から消えてくれ。そんな感じだ。わたしは、そうだった。しかし長年連れ添った夫を失った母や、高校生の多感な時期に父親を奪われた妹が、それぞれ 何を感じ、何を考えたかは知らない。(祖母はこの息子の死から徐々に呆けていった) 親兄弟であってもその深さは計り知れない。つまり被害者遺族といって も、一人一人がみな違うということだ。そしてその内面の思いは、どれも容易には表現しきれない。許せないのは当たり前だろう。殺してしまいたいとも思うの も当然だろう。3年経っても5年経っても「死刑の執行」を望み続ける遺族もいるだろう。あるいは年月がお互いを変え、刑務所に収監されている加害者と手紙 のやりとりを始める遺族もいるだろう。生きて一生自問し、罪を償って欲しいと願うようになる遺族もいるだろうし、一刻もはやく死刑にして欲しい、そうでな ければこの手で制裁を加えてやると決意する遺族もいるだろう。そしてそのだれもに共通しているのは、その思いは余人には想像できぬほどの混乱と葛藤と痛み を常に抱えているということだ。満ち引きする波に永遠に晒され続けているということだ。「生きて罪を償って欲しい」と思うようになった遺族も、加害者を許 したわけではない。絶対に許せない、殺してしまいたい、という気持ちと常に葛藤している。葛藤しながら、じぶんの愛する人の命を理不尽にも奪った加害者に 言葉を投げ、相手の言葉を読み、なぜそのようなことが起きたのか、命について自問を繰り返す。無明の暗闇にあえかな明かりを灯そうとする。答えはないのだ と思う。これは答えだというものはおそらく、ついにない。生きている間、永遠に苦しみ続け、問い続け、葛藤を抱え、何か信じるに値するものを掴みたいとも がき続ける。「おまえは経験していないのだから黙っていろ」とは言わない。そんなことを言ったら世の言論は成り立たない。わたしは実際の戦争を経験してい ないが、二度と悲惨な過ちを犯さないように残された記録や遺跡をたどり、想像力を働かせて、それらを追体験し、語り続けなければならない。けれども犯罪や 死刑制度にまつわる会話の中で、「被害者遺族の気持ちを考えたことがあるのか?」といきり立つ人に対しては、「遺族の気持ちというのはあんた方が考えるよ うな単純なものではないよ」と言いたい。「100人あったら100人、千人あったら千人の気持ちがあるんだよ」と言いたい。持てるだけの想像力をフルに駆 使して思い測ったとしても、まだ容易に届かない。「被害者遺族の気持ちを考えたことがあるのか?」という主張は、あまりにもステロタイプで、幼稚な思考 だ。(だからこそ、おおぜいの感情を“乗せやすい”) 「じぶんの子どもが殺されたら・・」と言うことは、また「じぶんの子どもが殺してしまったら・・」 という想像も含んでいる。ある意味、だれもが「被害者の遺族」になる可能性があるように、同時に「加害者の遺族」になる可能性もゼロではないということ だ。後者の場合、親として、わが子を死刑にしてくれと言い切ることができるのか。割り切ることができるのか。そんな子どもでも、生きながらえて、命の償い をして欲しいとは願わないか。むかし10代だった頃、懇意にしていた近所の大学生のアパートの部屋のテレビで、鉄道に身投げ自殺した人のニュースが流れ た。都会ではよくあるニュースだ。珍しくもない。ニュースはそのとき、自殺の理由を「仕事のことで悩んでいた」とさらりと伝えていた。そのとき件の大学生 が「自殺の理由を探すのは、残されたものが安心するため」とぽつりと言った。わたしはそのコトバをずっと忘れないで持ち続けた。「被害者遺族の気持ちを考 えたことがあるのか?」という発言は、そういうこととも似ているような気がする。

寮美千子 on Facebook https://www.facebook.com/ryomichico

2015.6.23

 

 

 



 

 

 

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