027. 京都・大原 マリアの心臓

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■027. 京都・大原 マリアの心臓 (2015.5.16)

 






 

 土曜。京都の大原に何やらすごいものがあると聞き、学校の授業を予定通り2時間で済ませた子を乗せ、車で京都へ向かった。授業はまだ少し残っているが、 ナニ気にしなくてもいい。世界は学校よりも広いんだから。大阪周りで途中、高速に乗り、「鴨川西」で降りて市内を八坂神社〜京大あたりを抜けながら北へと 向かう。白川通りあたりでラーメン屋でも漠然と考えていたのだが「ラーメンは今日は重い」と子に却下され、とうとう叡山ケーブル駅まで来てしまった。そこ で急遽入ったのが、367号線沿いにある鯖寿司専門店「縹 (はなだ)」 http://www.yase-hanada.com/index.html (じつはWebで少しだけ下調べしていた)。このあたり八瀬は、かつて天皇の柩をかついだという八瀬童子たちの里で、猪瀬直樹の「天皇の影法師」に詳しい(あの頃のかれはよい仕事をしていたけどな・・)。 http://www.mbs.jp/eizou/backno/141116.shtml  山間の国道と高野川に挟まれた一般の民家のようで、駐車場の看板がひっそりと出ているだけなので、予め意識していないとたぶん通り過ぎてしまう。しかし車 を降りて門の前に立つとう〜ん、財界人の老人たちがおしのびでくる山里の割烹が料亭のようにも見えて、入るのがちょっと勇気がいる。が、ここがよかった。 品のいい60代ほどの女将さんが一人でされているようで、客はたまたまわたしたち二人だけ。玄関を上がり、お好きなところへどうぞと言われて、和洋折衷の 味わい深いアンティーク・テーブルに座ったが、向こうの座敷の窓からは高瀬川の渓流が間近で、掛け軸や屏風の墨絵など、置いているものがちと違うぞ。わた しは池波正太郎の「真田太平記」で大阪の陣のさなか、真田信之が弟の幸村と密会をした京都の小野お通の屋敷を思い出していた。小野のお通は当時、才色を世 にうたわれた女流文化人で、家康の庇護を受けたり、かつては宮中に仕え、豊臣秀吉とも交流があったともされる謎深き女性である。https://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa051022.html  テレビの「真田太平記」ではこの魅力的なお通役は竹下景子が演じていたが、ここの女将さんもあと20年若かったらいい勝負だったかも知れない。座敷の隅に イーゼルに架けられた初老の男性のモノクロ写真が飾られていて、あとでお通さんに伺うと、亡くなったご主人で、ある華道の家元であったという。むかしは夫 婦でこの家に住んでいたのが、一人になって市内に居を移し、この家を店にしたのだとの由。唯一の食事メニュー< 姫お敷 > は鯖寿司が5切れ、出汁巻き玉子、ほうれん草の胡麻和え、そして吸い物で1300円。量的にはわたしとしてはかなり厳しいのだけれど、しかしここはお通の 屋敷。餃子の王将のようにがつがつと喰らうのではなく、一品一品をゆっくりと味わい、市内の喧騒が幻のようなひっそりとした座敷の時間を味わい、やがてお 腹が満たされてゆくのであった。子はいきなり箸をつけた出汁巻き玉子に「おいし〜」と感嘆の声をあげた。鯖寿司も西友の惣菜売り場のものとはかなり違う ぞ。上品で、じつにマイルド。食べ終えた頃に女将さんがお茶のお代わりをもってきて、「お抹茶、さしあげましょうか?」と。子はもうお腹がいっぱいと言う ので、わたしだけ「じゃ、いただきます」と菓子と抹茶を頂いた(本来500円の抹茶代は勘定のとき「こちらから言ったことですから」と受け取ってくれな かった)。子は「また、ぜったいに来ようね」と大層気に入ったようだった。わたしは仄かな恋心を隠した真田信之のように、お通邸を後にしたのであった。

 さて大原、である。三千院に入る小道の手前の、茶屋が経営している一日500円の駐車場に車を止めて、今回は車椅子は降ろさず、歩いていった。しばらく 登った道沿いの店先に「柿渋染め」の文字を見て、思い出した。まだ子が産まれていない頃にYと二人で鞍馬・三千院に遊び、この店でわたしが中原中也のよう な柿渋染めの茶色い帽子を見つけて、買ったのだった。そんな話を子にしながら歩いていくと、じきに小さな石橋近くの石垣のはたに「マリアの心臓 すごそこ  ちいさな橋の左 少年と自輪車目印」とマジックで書かれた紙とポスターが足元にこっそりと置いてあるのを見つけた。新緑に包まれた、ユキノシタの群生す る石垣とちいさなせせらぎの間の小路を20メートルもすすむと、奥の棚地に昔風の農家があり、そこが「マリアの心臓」会場であった。http://www.mariacuore.jp/ 以前に大阪・中ノ島の国際美術館でやなぎみわ http://www.yanagimiwa.net/  のドールを見て買った雑誌「夜想」のドール特集でいくつか目にしていたが、恋月姫、三浦悦子、天野可淡、そして大御所の四谷シモンといった現代人形作家の 作品に加え、明治から昭和初期までのさまざまな市松人形、抱き人形、フランス人形、人形浄瑠璃やからくり人形、仕掛け人形、人形遣いの芸人がじっさいに 使っていた木偶、そのほか東西を問わず絵画、古いポスター、浮世絵、造形作品、仮面舞踏会の面、白狐の面、デッサン、キューピー人形、仏像、神像、ありと あらゆるヒトガタあるいはヒトスガタが、痛みかけた農家のそう広くもない座敷、土間、縁側、納戸にときに座り、ときに横たわり、あるいは立ち上がりして配 置されている。ある部屋には人形たちが満席のホールのようにぎっしりと埋まる。ある部屋では人形が窓に向かって背を見せている。また椅子の下で仲良く並ん で座っている姉妹のような市松人形もある。二階の天井裏にあっては、太く黒ずんだ梁が交差した空間をくぐりながらすすむと、漆喰壁が崩れ木舞下地の竹がは みだしたすき間の向こうに現代作家のドールが横たわっている。あの独特な空間をなかなかうまく言い表すことが難しいが、夜になって、たった一人であの家の 中を徘徊してみたいな。おそらく、そのまま“あっちの世界”へ行ってしまうんじゃないだろうか。ともかく二つとない空間。そんなものを眺めていたら、中世 のホムンクルスの時代から、人形とはいまも「未完成の魂の容器」なのかもしれない、という想念がわいてきた。その「未完成の魂の容器」にこわれかけたひと の精神が注がれ、やがて動き出す。だからホムンクルスはいつまでもホムンクルスだ。こうした異空間というフラスコの中でしか生きられない。であれば、ある 種の人は、みずからをフラスコの中に棲まわせるのかも知れない。この世を捨てて。「マリアの心臓」のHPにある口上をここにも写しておこう。

東京・渋谷で数多のお人形をご覧に入れ、2011年に惜しまれつつ閉館した
「人形博物館・マリアの心臓」が、京都・大原の地にて復活を遂げます。

日本人形、西洋アンティークドール、現代作家人形。
人形屋佐吉が37年に渡り、魂を注いで蒐集してきた美しいお人形たち。
そのお人形たちが最も輝きを放てる場所を求めて四年、
東に三千院、西に寂光院という、古都でも有数の神聖な地に降り立ちました。

21世紀の喧噪を忘れさせてくれる古来の空気のなか、
古都の歴史と伝統の風を感じながら、
百花繚乱人形の世界を心ゆくまでご堪能ください。

【 人形屋佐吉 経歴 】

1978年、札幌で開店。
1984年に表参道・モリハナエビルに表参道店を開店。
全国各地で人形展覧会を開催。
2001年、東京・元浅草に「人形博物館・マリアクローチェ」をオープン。
2003年に渋谷へと場所を移し「マリアの心臓」へと生まれ変わり、
多数の人形展、絵画展、ライブや映画イベントなどを開催。2011年に閉館。

 

 入口前の土間のスペースに、当主である片岡佐吉さん(受付をしていた)のプロフィールを書いた新聞記事が貼られていた。その記事中に語られていた、これ ら人形コレクションのそもそもの原点が、若い頃にヒッチハイクの旅の途上で偶然氏が出会った水俣病患者の少女――――ほとんど植物人間状態で、当時の新聞 に「眠るような少女」と記されたその少女のきれいな瞳だった、というエピソードがすごい。「こんな美しい瞳を見たことがない」 それをもういちど地上に再 現するために(少女は数年後に亡くなった)、かれは少女の人形を扱うようになったのだという。ひとにはさまざまな出会いがあり、来歴があり、表現があり、 運命がある。ところでわたしは人形単体よりも、どちらかというと古民家に展開した人形たちの演出の仕方がいちばんおもしろかった。市松人形はそれぞれこの 人形を抱きかかえていた、いまはとっくに死んでしまったはずのかつての子どもたちの存在を感じたりした。またかつて知らなかったが、小早川清という大正か ら昭和にかけて活躍した浮世絵画家の作品も、ちょっとよかった。この画家の描く女性のまなざしがいやに近しいと思ったら、つげ義春がこれとそっくりの女性 を描いていた。見に来ている客層も、中年やたまたま大原に来て立ち寄ったと言うアベックもいたけれど、多くは単身の若い男女、若しくは若い女性の小グルー プで、子に言わせると「みんな、あぶなそうな人たちばかり」って、あんたは違うんか。でも確かに昔風にいえば「オタク」というか、女の子はどこかロリータ 風のいでたちが多く、男は眼鏡をかけた葦のような草食系で、どちらも大人しめといったタイプばかりだったな。二階の狭い空間で梁をくぐりかけたわたしがふ と横を向くと、青地に白いフリルのついたスカートから細い足が伸びていて、あれ、ここにも別の作品があったかと仰ぎ見たら、生身の20歳くらいの女の子 だった。上と下で目が合って、思わずわたしは「あ、ごめんなさい」と謝った。そういう危険な空間である。

 薄暗い会場から出てきたら、子は「あ〜 疲れた〜 もう、精神が持たない〜」と。その日は夜に、中間テストに向けた家庭教師の先生の予定があったので、 「(義経・弁慶の)鞍馬山は次、来ようね。そのときにまた、今日お昼食べたところに行こうね」と言いながら、帰りは高速を使わずに主に24号線の下道をつ らつらと帰って来た。

2015.5.16

 

 

 



 

 

 

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