025. 高取正男『神道の成立』を読む

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■025. 高取正男『神道の成立』を読む (2013.2.7)

 






 

 高取正男「神道の成立」(平凡社ライブラリー)に、中世の王朝貴族たちの死穢に対する過敏な反応が描かれている。 964年、時の村上天皇は中宮(皇后)安子が死の病にあったときその臨終を最後まで見舞うことなく、自身は離れた清涼殿にとどまり使いにやった蔵人から臨 終の前後を様子を訊いてそれを日記に記している。死穢が天皇の身に及ぶのを避けるためである。また1025年、左大臣であった藤原道長はのちの後朱雀天皇 の妃として嫁いだ六女の嬉子が臨月に感染した麻疹(はしか)のため出産後、わずか19歳の若さで死んだとき悲嘆に暮れ、屋根に陰陽師をのぼらせて嬉子の着 物をふって魂よばいをしてまで蘇生を願ったものの、葬儀が終わり娘の遺骨を木幡の墓地まで送ろうとしたとき「それほどまでしなくてもという、人びとの意見 で思いとどまった」。 一般に遺骨を墓地まで送り埋葬するのは身分の低い者たちの仕事で、「であるから、貴族たちは自分の肉親、親の墓に詣るといういうこ とをあまりしなかったし、その場所もはっきり知らないというのが一般的であったらしい」。実際に太政大臣に昇進した藤原忠平は936年、その報告のため醍 醐先帝の後山科陵と父親の関白基経の宇治墓所に詣ったその晩、息子の師輔の前でしばらく懐旧談にふけったなかで、父の基経が養子となった前々太政大臣の叔 父良房とその祖父に当たる内麿の墓を探したけれど、ついに見つけられなかったと語っている。「藤原氏北家の当主である忠平からみて、内麿にしても良房にし てもたいせつな先祖である。大昔の大先祖というならともかく、自分の家の基礎をつくってくれた近い時代の祖先である。そのような人の墓所を、忠平は正確に は知らないと息子にむかってあたりまえのようにいっている」。

 「忌み」はかつて「斎 み」でもあった。「忌み」は“ケガレを避けてみずからの聖性を維持しようとすること”であり、一方「斎み」は“みずからのケガレ(俗)を去って浄(聖)に 近づこうとすること”である。古代から朝廷の神事を担ってきた忌部氏や土師氏が、その伝統ある一族の名を“イメージが悪いから”と改名願いを申し出てそれ ぞれ忌部氏を斎部氏、土師氏を菅原氏や秋篠氏へと変更したのも、この「吉凶相半」した表裏一体の片方だけが強調され固定化されていったことと同期してい る。

 

 “忌 む”という言葉は神的な霊威とか霊験を前にして忌み慎むことで、それ以上のことはほんらいなかった。それを“忌む”と表記すれば凶事を忌み避けることを連 想し、“斎”のほうはおなじ“いみごと”でも吉儀としての神事や斎戒を意味するようになったため、『日本書紀』以来、おそらく200年にわたって忌部と書 いてきたのを斎部に改めたものと思われる。もともと忌むべき文字でもなく、特別な意味もなかった。それがそうでなくなったという点で、ことは土師氏のばあ いに類似している。

高取正男「神道の成立」(平凡社ライブラリー)

 

 ア=プリオリな豊穣たる本質を細分化し、制度化し、固定化して利用するものたち。

  この「神道の成立」を読み終わる頃に手に取った、だいぶ以前に図書館のリサイクル市で持ち帰った「宗教以前」(NHKブックス)が同じ著者の手によるもの (橋本峰雄との共著)であったのも奇妙な偶然だった。この「宗教以前」の前半に、前述した王朝貴族たちの滑稽でネガティブな呪縛と異なり、すでにケガレと いう同じコードに縛られながらもそれをはねのけようとする市井の人々の生きる姿勢としての民俗宗教が紹介されている。流れ灌頂はかつて、お産のために死ん だ女性は血の池地獄に堕ちるといわれた頃に「小川の流れに四本の棒を立て、それに布を張って戒名や経文を書き、横に柄杓をそえて通行人に水をかけてもら う。こうして布の字が消えたときには死者は救われるといった類のものが広く行われた」習俗であった。これに続いて著者は形は変わるが名古屋の裁断橋の橋の 欄干に残された銘文を紹介している。これは豊臣秀吉の天下統一の最後の戦であった小田原の陣に参加して若干18歳の若さで戦死した息子の冥福を祈った母親 が、かつて熱田宮に参詣する人びとが禊ぎをして賑わった精進川に橋をかけて通行する人びとにどうか共に亡き息子を廻向して欲しいと頼んだものである。 「・・・十八になりたる子をたたせてより、又ふためともみざるかなしさのあまり、いまこの橋をかける成、母の身に落涙ともなり、即身成仏し給へ、“いつか んせいしゅん”(戒名)と、後の世の又のちまで、此かきつけを見る人は、念仏申給へや、卅三年の供養也。」 著者はこれも流れ灌頂の原型につながるとした 上で、次のように記す。

 

  「忌み」の意識を、穢れを忌み避ける意識に局限すると、そのための禁忌だけがつぎつぎに架上され、それを守りさえすればよいとする堕落が始まる。しかし庶 民の信仰は、けっしてそこにとどまらなかった。素朴ではあるが、はるかに深いものをみずからのうちに伝えてきたといえるだろう。しかも、聖なるものを前に してみずから慎み、ひともわれも精進によって罪と穢れを祓い、神の来臨を願おうとする思念を貫くものは、神に対して自己の信仰を訴え、その裁きを待とうと するのとは異なり、神に対してきわめて謙虚に、したがって受動的な態度で神に接しようとするものである。このことは単に宗教の問題にとどまらず、「忌みの 精神」とよべるほどの強さをもって庶民の勤労観を支え、道徳の根幹をなしてきたのではないだろうか。

高取正男・橋本峰雄共著「宗教以前」(NHKブックス)

 

 そしていまの世はといえば、王朝貴族ばかりがはびこり、「道徳の根幹をな」す庶民を久しく見ない。

2013.2.7

 

 

 



 

 

 

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