022. 大和郡山市・光慶寺 高史明 講演会

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■022. 大和郡山市・光慶寺 高史明 講演会 (2011.7.10)

 






 午後から子と二人でぶらぶらと歩いて、近くの浄土真宗の寺での高史明さんの講演会。そこそこの広さの本堂は溢れんばか りの人だかり。つい数日前に訪れたという福島の被災地での思念と親鸞の「自然(じねん)」を絡ませた法話はときおり仏典の原文を引く大人でもときに少々難 しいくらいの内容で、予想以上だった約2時間の長丁場を、子はよくこらえた。まっしろな長いあごひげを蓄えた高史明氏は、いかにも老子か荘子かといった風 情で一見気難しそうにも見えたが、いざ話し出してみると、とつとつと滋味深い言語が意外と明るい色調でリズムを刻みながら流れ出てくるような語り口で、魅 了された。内容については、できたら後日に改めて。

2011.7.10

 

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  高史明翁は此処へ来る数日前、福島の被災地を訪ねたばかりだと言った。そこで見たのはどこまでも続く海原にも似た瓦礫の原だった。その瓦礫の地平に流れ着 いた屋根だけが見知らぬ惑星に漂着した宇宙船のようにぽつねんと在って、その屋根の上で老人がひとり、山の方を凝視して動かなかった。異様な雰囲気にため らいながらも、高翁はその老人に声をかけた。あの3月11日の日、地震の後で、ここから老人の娘が山の麓の家にいる老人の伴侶を助けに走っていった。その まま娘も老いた伴侶も引き潮にさらわれてまだ遺体も見つからない。それ以来、どうしようもないと分かっているのだが、気がつくと毎日のようにこの屋根の上 にあがってひねもす、娘が走っていった山の方角を凝視している。果てしない瓦礫の原のその先を。高翁はそんな被災地で出会った老人の話をして、「でもわた しは、こういうところから、人はきっと立ち直れるのだと、なぜか確信をしたのです」と言う。屋根の上の老人と別れてもうしばらく進むと、小学校があって、 校庭から子どもたちが体操をする声が響いてきた。それを夢のような不思議な心地で聴きながら、瓦礫の中でも子どもたちはこうして体操をして、学校生活をは じめているのだと新鮮な気持ちがした。一切を容赦なく流された瓦礫の原からは、以前は無数の建物や防潮堤や松林などに隠れて見えなかった海が、見えた。瓦 礫のゼロ地点から、海が見える。海岸沿いの高台には、都会から定年後を過すために別荘を建てて移住してきた人々が多くいた。そのうちのほとんどの人は津波 の怖さも知らず、避難をしないまま流されてしまった。瓦礫のゼロ地点から海を見たとき、高翁はこう思ったという。「海とともに生きていない生活。山ととも に生きていない生活。さらに云えば土の上、大地の上で生きているという感覚がない生活。」が問われているのではないか。わたしたちの生活には「自然ととも に生きていく豊かさ」がなかった。みずから海を見えなくして、幸福をきずいていた。水そのものがいのちであった。大地そのものがいのちであった。阿弥陀の いのちであった。最愛の一人息子を自死によって失ってから浄土真宗の教えに深く帰依するようになった高翁は、親鸞の「自然(じねん)」をこれらの景色にか らめて語ったのだった。、親鸞のいう「自然(じねん)」とは、人間の分別を超えたほとけの計らいのことである。「「自 然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひに あらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。」(末灯鈔) 「私たち人間の近代文明は、自然の大地に逆立ちして、頭で立っているのでした」(高史明「念仏往生の大地に生きる」(東本願寺伝道ブックス53) もはや、と高翁は云った。一人で助かることができないのが原子力の時代です。一億分の一の原子力をつきとめた“手柄”のその「真裏」を、人間は考えなければいけない、と。

 
2011.7.18

 

 

 



 

 

 

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