020. Zepp Osaka ボブ・ディラン

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■020. Zepp Osaka ボブ・ディラン (2010.3.15)

 






 

Mar 15, 2010 Osaka, Japan (Zepp Osaka)

Set List

1.  Watching The River Flow
2.  Senor (Tales Of Yankee Power)
3.  I'll Be Your Baby Tonight
4.  High Water (for Charlie Patton)
5.  The Levee's Gonna Break
6.  Tryin' To Get To Heaven
7.  Cold Irons Bound
8.  Desolation Row
9.  Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again
10. Man In The Long Black Coat
11. Highway 61 Revisited
12. Spirit On The Water
13. Thunder On The Mountain
14. Ballad Of A Thin Man
15. Like A Rolling Stone
16. Jolene
17. All Along The Watchtower

 

  来日を知ったときは、仕事にかまけて「まあ、いいか。行かなくても」と思った。いざ大阪公演が始まったら何だか耳の奥の、耳掻きも届かないあたりがムズム ズしてきた。ある晩、オークションでチケットを見つけてYに、「行ってもいい? 一万二千円なんだけど」と訊いていた。「わたしにダメと言う権限があるの かしら?」と彼女は答えた。

 Zepp Osaka。海の見える人工都市の夜の果ての会場前で、傘をさして立っていた。やがて門が開かれ、しばらくして暗闇の中で演奏が始まった。眩しいほどのス テージのライトに照らし出されたディランは、まるで60年代のままの若々しい青年のように見えた。けれど1941年生まれのかれは、今年69歳だ。わたし がこの世に生まれ出たその年のまさにその日に、かれはニューヨークのスタジオで Highway 61 Revisited のアルバムを完成させたのだ。

 アーティス トは歳をとらない。ましてやモリスンやディランのような人たちは(ザ・バンドやビートルズのような死んでしまった人たちは、また別の意味合いがあり、そこ で時間が永遠に止まっている)、わたしにとっては常に身近な存在であり、遠くに住んでいる親しい人の毎年の挨拶のようにアルバムが届けられることが約束で あるかのように思っているから、「69歳」などと言われると、思わず愕然としてしまう。

 アンプを 通じて増幅されたディランの声は、69年の歳月を費やしてきた男のそれのように、数百年の風雪に耐えてきた老木のように枯れ果て、ひしゃげ、まるで嵐の中 をくるくると乱舞する一枚の葉のようだった。だがその一枚の葉には、ずっしりとした重みがあった。その乱舞の危うい角度には得も言われぬ光芒を放つ鋭利 が、たしかに在った。Highway 61 Revisited や Ballad Of A Thin Man のような曲が演奏されるのを聴きながら、わたしは「この(目の前にいる)男がこの曲をつくったのだ」と思っていた。Desolation Row ではその曲がたしかにそれであることを確かめるようにメロディをじぶんで歌っていた。

  バンドの演奏を聴いているのは確かな幸福だった。チャーリー・セクストンがただ一人、まるでラスト・ワルツでのロビー・ロバートスンのように(じっさい に、かれはロビーそっくりに見えた)動き回っているかれのバンドの音は、ある種のウォール・サウンドと言える。きらきらと舞い上がる葉を押し上げている一 塊のうねりのようなサウンドだ。どんな韻でも、棒読みのようなそっけなさでもいい、この男が声を発しているそのおなじ空間に、いまじぶんがいることがひと つの幸福なのだ。そんふうに思わせるアーティストは、滅多にいない。

 「コンサートはよかった か?」と誰かに訊かれたら、わたしは躊躇なく「よかった」と答えるだろう。けれど「演奏は最高だったか?」と訊かれたら、わたしは正直、少しだけとまどっ てしまう。パフォーマーとしてのディランの声が衰えているのは紛れようもない事実だし、衝撃度といえば、たとえば最近買った友川カズキのアルバムの方がい まのわたしの心をより深くえぐる。それはどう仕様もない事実なのだ。かつて、何につけて60年代のディランを引き合いに出す評論家の手合いに反発して「い つも、現在形のディランが最高だ」と言い続けてきたわたしだが、グラミーやビルボード1位などの高評価を受けている近年のアルバムが   The Times They Are a-Changin' や Bringing It All Back Home 以上に優れている作品だとは、決して思わない。

 その晩はコンサートに付き合ってくれた 東京の友人Aと天王寺のいきつけの居酒屋で軽く飲んで帰り、次の日も話題は主にAの気になる新婚生活についてだった。Yが相手をしてくれている合間をぬっ て、わたしはAが持参したCDやDVDをせっせと○ピーし続けた。午後にAを駅まで見送り、その夜は若干の寝不足もあったから、わたしは早めに子やYと寝 てしまった。

 だが次の日の夜。わたしは急にディランの古い、若々しい、切ない恋の南無阿弥陀仏の ような Sad Eyed Lady of the Lowlands を聴きたくなった。その曲を聴きながら、かつて20代のわたしは永遠にこのディランの声が終わらないで欲しいと願ったのだった。YouTube で見つけた音源を聴き始めたわたしのがらんどうのしゃれこうべの中で、ディランの無数の曲たちが突然溢れ出してきて止まらなくなった。あるいはわたしは、 すでに家族の寝静まった深夜にひとり、泣いていたのかも知れない。わたしの寄る辺ない生の軌跡にあって、かれの曲やフレーズはいつも決まって大事な場所に 鳴り響いていた(それはわたしの航海の、いわば錨のようなものだった)。わたしの拙い生は、いつもディランの曲と共にあったのだ。それでわたしはやっと分 かった。あの日、わたしはかれにただ“ありがとう”を言いたくて、それを伝えたくてわたしはあの場所へ行ったのだ、と。

 ボブ・ディラン。わたしはあなたの曲を勝手に食べて、勝手に肥やしとして生き延びてきた。いまそれらが、たわわに咲いた竜胆の鈴のように、わたしの中で一斉に鳴り響いている。

2010.3.19

 

 

 



 

 

 

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