017. 沖浦和光・宮田登「ケガレ 差別思想の深層」を読む

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■017. 沖浦和光・宮田登「ケガレ 差別思想の深層」を読む (2009.8.29)

 






 沖浦和光と宮田登の対談を収めた共著「ケガレ 差別思想の深層」(解放出版社)を読んで、高取正男「神道の成立」(平凡社ライブラリー)を注文する。

 

【沖浦】 死穢については、宮田さんの『ケガレの民俗誌』(人文書院)でも、高取正男さんの提出した葬制論を受けて、死穢についての禁忌意識が国家権力によって人為的につくられたと述べておられましたね。(高取正男『神道の成立』、平凡社、1979年)

【宮 田】 これはきわめて重要な民俗的事実に基づく議論でして、高取さんは、家屋敷の中あるいは屋敷に付属した場所に墓を作る例が、民俗としてはかなり普遍的 であったことに注目されました。死穢との関連からいえば、『延書式』にあるように死穢は強力な汚染源ですから、死穢のこもる空間に接近して日常生活空間が あることは考えられません。もし死穢を怖れるならば、葬地は人家を離れた場所に設けるのが本来の姿でしょうが、その逆の傾向を示していたわけですね。屋敷 の付属地に旧墓地がありながら、明治に入って、中央政府の行政指導によって、遠隔の新墓地へ移転させられた事例などから、「屋敷の近くに埋葬地をもつこと も、由来ある古い習俗」だと高取さんは考えたのですね。

【沖浦】 つまり、民衆はもともと死穢を怖れていなかったということですね。

【宮 田】 そうです。『日本後紀』797年(延暦16年)正月25日の条には、山城国(京都府中・南部)の愛宕・葛野郡の人が、死者あるごとに、家側に葬るこ と「積習常となす」状態だった。ところが、天皇など貴人たちの住む都に接近しているため凶穢は避けねばならないことから、その民俗を禁止したと記されてい るんですね。この点に高取さんは注目した。そして、古代律令政府も近代明治政府も同じ態度で、死穢をケガレとして臨んでいるとして、「平安初頭以来、死の 忌みについて神経質であったのは中央政府の側であり、庶民のほうは死者を家のそばに埋葬してもべつだんなんとも思わないというのが本来の姿であったらし い」 と強調した。

【沖浦】 これは死穢観の発生史についての重要な指摘ですね。「死のケガレ」のイデオロギー性がはっきり語られています。

【宮 田】 高取さんが指摘したように、庶民の日常次元で、死穢に対する忌避や嫌悪感があまり強烈ではなかったとすると、『延書式』以後からしだいに強化されて いった「触穢」に関する民俗知識は、明らかに、国家次元における人為的操作に基づく結果であるといっても過言ではないと思います。

沖浦和光・宮田登「ケガレ 差別思想の深層」(解放出版社)

 

  続けて沖浦は、インドネシアのスラウェシ島の先住民トラジャ族を訪ねたとき、かれらが身内の遺体を収めた棺を二年間、じぶんたちのベッドの横に安置してい たことなどを紹介している。かれらにとって葬儀は一大イベントであってその準備に1〜2年を要するため、昔は薬草で、現在は化学薬品で遺体に防腐処理を施 して生者と「添い寝」をするわけだ。考えてみれば古代の天皇家などでも、殯(もがり)といって数ヶ月、時には数年にも及んで遺体を家屋内に安置していたの は周知の記録だ。その間にもちろん、生者は遺体の腐敗・白骨化などの変遷を目の当たりにすることになる。おなじように白骨化していく遺体の前で酒を呑み、 歌をうたい死者を哀悼する沖縄のかつての風習もそうだし、さらに遡れば、たとえば縄文人は生後まもなく死亡した幼児の遺体を甕に入れ、みずからの住居の入 口に埋めていた。

 話を女性の月のもの(月経)に移す。いわゆる三不浄のもうひとつである「血穢」によって、女性の生理現象はいつからか「穢れているもの」とされた。ところが記紀における次のようなヤマトタケルとミヤズヒメの話を沖浦は紹介する。

 

【沖 浦】 女性の月のもの----そのケガレを考える時には、記紀に出てくる有名な話ですが、ミヤズヒメ (美夜受比売・宮簀媛) とヤマトタケル (日本武 尊・倭建命) のやりとりが、まず挙げられます。ミヤヅヒメは訪れたヤマトタケルに、馳走を用意して捧げるのですが、ヤマトタケルはその時点でまだ彼女が 一人前の成人した女性ではないということで、性行為をしないで、戦争に行ってしまう。そしてタケルが帰ってきたところで、ミヤヅヒメがまたご馳走を用意す るのですが、その時、裳裾に「月のもの」 のしるLがみえた。それを知ったタケルはその夜彼女と交わるわけですね。これはよく知られた話です。この事例は 民俗学でもよく取りあげられます。月経そのものは「神のしるし」であって、ヤマトタケルは来訪神の一種だったと考えるのです。巫女に月のものがあるとき、 それは神の啓示だという、尊いものとしてとらえられているわけです。

(同掲書)

 

 つまりここには「価値の逆転」がある。ことはもうひとつの三不浄、「産穢」についてもおなじようなことが言えるだろう。次は宮田の言を引く。

 

【宮 田】 産穢の問題を考えるとき、血に対する恐怖感は、人類共通のものではないかと思うわけです。概して出血は死とつながるものですから、血椀、産穢、月 経、それらが死穢へとつながっていきます。ケガレというふうに考えた場合、ケガレという状態が血を不浄なものとみるのか、生命の誕生に結びつく尊厳なもの とみるかその違いによって、意識が決定的に異なってきます。プラスの方向で考えるとすると、たとえば出産の時には大量の出血があって危険だから、ちゃんと 隔離して安全なところで子どもを産んでもらわなくてはいけない、そういった配慮で生じてきた-----それを産穢だとすると、それはそれで筋が通るわけで す。ところが、不浄なものとして排除しなくてはいけないので、産穢や血穢として日常社会から差別するという思想が生じてくると、たとえば仏教の「血盆経」 のような、「血の池地獄」のようなものになります。

(同掲書)

 

  ここで面白いのは、鎮護国家の仏教や国家神道の仏や神々たちが出産をケガレとして見なして避けているとき、生命の危険を冒して産屋で奮闘している女性のも とへ顕れる神がいたということだ。それは土地の「産神(うぶがみ)」であり、もともとは山の神、血穢を恐れない狩猟民の神であった、と宮田は述べている。 山の神が産神となって出産に立ち会う。ケガレなどものともせず、新しい生命誕生の瞬間に付き添ってくれる。産小屋について、もう少し二人のやりとりを引き たい。

 

【宮 田】 産小屋は、神話の時代から海辺に設けられていて、そこで赤ん坊を産んだようです。トヨタマヒメが海辺の小屋で産んだという有名な故事が記紀神話にあ りますね。海辺の砂は白い砂で、その砂にまみれて赤ん坊を産む。ウブスナ (産土) という言い方がありますが、出産のときに海と陸との境目に小屋が設け られて、そして別な世界から生命が誕生するという厳粛な行事だった-----そう神話は伝えているのです。

【沖浦】 南西諸島のニライ・カナイ信仰に近いですね。新しい生命は、海の彼方の楽土であるニライ・カナイからやってくるという……。

【宮 田】 ええ、そうですね。この神話の舞台は南九州ですから、南西諸島の民俗文化と深い関わりがあったと考えられますね。話は変わりますが、赤ん坊が生まれ たのは橋の下からとよく言いますね。「おまえは橋の下で拾われた」などと、小さい女の子が母親から言われて、ショックを受けて、大きくなっても自分は本当 に親の子か、なんて考えているという話はよくあります。赤ん坊の生命は、川のほとり、橋の下という水際の境から、こっち側の世界にやってくるという考え が、日本文化の中に潜在的にあったんですね。海辺の水も同様だと思います。

【沖 浦】 私が知っている限りでは、産小屋はたいてい河原にあります。やはり水辺ですね。古代では海辺のような聖なる水際だったわけですが、近世ではケガレが 多い河原に隔離されて出産する。そこで出産前後の何十日間、つまりケガレがとれるまで、男の前に顔を見せないで自炊して生活する。京都府のどこでしたか、 そこの河原にそれが現存しており、重要文化財となっています。

【宮田】 河原にあったということは、ケガレを水に流せるという……。

【沖 浦】 それもあったでしょうが、賎民の多くが河原に住んでいたから、河原そのものが穢れた場所というイメージも作用していたのではないか……。それが産の ケガレと結び付けられたのではないか、そのようにも考えられます。そういう意味では、聖なる水辺にある「河原」は、<聖>と<ケガレ >にまたがる両義的な存在だったと言えるかもしれません。よく考えてみると、「産小屋」そのものが両義的な性格をもっていますね。

(同掲書)

 

  ここで触れられている京都府下に現存する産小屋というのは、福知山市三和町大原にあり、大正時代まで実際に使用されていた。いくつか下にリンクを置いてお く。このうち京都新聞のサイトにある、出産の夜に「産屋の柱をゆっくりと上がっていく」蛇を見たというのが産神の化身である。近くに鎮座する大原神社の宮 司が語る「出産は危険が伴う行為。新しい命は先祖の力を借りて生まれてくる。人知を超えたものだった」 「産屋は大地との境、川との境界にあり、水平垂直 に接点の場所にあるのです」といった言葉も感慨深い。(ちなみにこの大原神社では毎年2月の「鬼迎え」なる節分行事で「鬼は内 福は外」という一般とは逆のかけ声と共に豆まきが行われる。江戸期の綾部藩主であった九鬼氏に配慮したという説もあるようだが、かつての九鬼水軍の末裔の 領地にこのような古層を秘めた産小屋が残されていることに、わたし的には興味を覚える)

京都新聞・ふるさと昔語り http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/070628.html

京都丹波のたそがれトンボ http://blog.goo.ne.jp/karakurikonkuri/e/b102b0c92d93f132fe926e4c336055d8

歴史楽 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page551.html

 

  多少長々と引用してきたけれど、つまりわたしが言いたいのはわたしたちがふだん従っている慣習、要は「伝統」だとか「ならわし」だとか「しきたり」などと いったものでとらわれている価値観の中には、もちろんそ長年の民衆の知恵の集積のようなものもたくさんあるだろうけれど、実はそうした底辺からの自然発生 的なものではない、国家権力などによる操作で歪められ、本来の価値をぐるりと180度ひっくり返されてしまったものもまた多くあるのではないか、というこ とである。それがいつの間にか1万年もの昔からそこにいたかのような顔でふんぞり返っている。先日花粉症の薬をもらいに行った耳鼻科の待合室で読んだ 「ゴーマニズム宣言」の小林よしのりなども、とくに彼が好んで言う「公」や「国」などといった言葉の射程は、残念ながらそうしたものにまで届いていないよ うに思える。けれどもわたしはそうしたものにいちいち噛み付きたいわけではない。そうではなくて、わたし自身の内奥に幾重にも張られているそれらの歪んだ 既成の蜘蛛の巣をすべて取り払い、強烈な陽射しに照射された原初の景色を垣間見たいのだ。この世の生と死の、本来の形を取り戻したいだけだ。わたしはそれ らのものに餓えているから。息が詰まりそうだから。地べたを取り戻したいから。

 最後にこの「ケガレ  差別思想の深層」の中で知った、前述のインドネシアのスラウェシ島の先住民トラジャ族の葬送のかたちについて記しておきたい。これも敬愛する沖浦「先生」 の言を引こう。(ちなみにこれはネット検索で偶然見つけたPDF資料だが、平成15年10月に奈良で行われた「全国医師会勤務医部会連絡協議会」での沖浦 氏の「野巫医者の源流を巡って 旅する「寅さん」の実像」と題された講演の一部である。興味のある方はこちらのP54→http://www.med.or.jp/kinmu/kb15.pdf

 

  それから死生観ですが、どうやら仏教に、非常に大きな問題があるんじゃないかと思っています。地獄、極楽とやりまして、それで死は怖いという恐怖感を植え つけてきたということですね。これは日本の通俗仏教の責任ですよ。さっき言った先住民族のところへ行ってごらんなさい。アニミズムですから、この世は仮の 世というわけ。死んで極楽へ行くことになっています。そこに先祖が待っている。だから、お葬式はすごい、バンパンパンと花火を上げて、闘鶏や大舞踏会、3 日間ぐらいすばらしい葬送儀礼をやる。まあお祭りですね。それでにぎやかにあの世に送り出す。あっちがほんとうの世、こっちは仮の世。そう思っていたら、 そんなに死なんて恐れることはない。もっと私は自然の寿命ということをみなに納得させないといかんと思います。ヒトは無限に生きれるものではない。

  だから、インドネシアの先住民族は、特に赤ちゃんが死んだ場合、赤ちゃんの死は非常にかわいそうです。「生命の木」というのがあるんですね。ごっつい大き な木。まだ乳歯の生えていない赤ちゃんだけは、その木に埋め込む。木が年々大きくなるでしょう。それはミルクの木ともいう。ミルクも出る。それを吸って、 樹液をミルク代わりに吸って、木が大きく生長するにつれて赤ちゃんは育っていく。だから、埋めたところはパッチワークのごとくなっていていてすぐわかりま す。一番上がもう1,000年前の赤ちゃん。それが天高くそびえて、永遠にふるさとを見守ってくれる。それで、お母さんは、毎日ああやって木の霊に抱かれ て生きておると、死んではいないと、こういう考え方なんです。

全国医師会勤務医部会連絡協議会報告書 [H.15.10.18](PDF:1.52MB)

 

インドネシアるんるん留学日記 http://blog.goo.ne.jp/aiaimelody/e/51591bdc829955bf6f5aedf74255171b

なかやんのアジア旅 http://www1.bbiq.jp/y.naka/tanatoraja.html

 

  幾体もの赤ん坊の遺体をその洞に抱えて青々とした枝葉をひろげて成長する大樹。それはおぞましく、けがらわしく、正視に耐えない光景だろうか。わたしは、 そうは思わない。その大樹の写真を見、説明を読んだとき、わたしは思わず身を震わせた。世界を包み込むようなその“いのちの解釈”に、わたしの心が震えた のだ。

2009.8.29

 

 

 



 

 

 

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