010. 榎並和春個展・神戸「色はにほへと2」

体感する

 

 

■010. 榎並和春個展・神戸「色はにほへと2」 (2006.7.20)

 






 三宮、4時過ぎ。子の本棚につける洒落たコンセントの金具でもないかと駅前のロフトに立ち寄ったのだがめぼしい物もなかった。はるさんの 個展(榎並和春個展・神戸「色はにほへと2」)は2年ぶりだ。6時に画廊を仕舞い、二人で以前入ったイタリアンの店に移った。「角笛」と題された絵があっ た。道化師のような顔をした男がうつむいて角笛を吹いている。この男の奏でる音に耳を傾ける者は誰もいないのだろうと思った。(おそらく)世間から見捨て られた男はひとり、あえかな、ささやきのような音を奏でる。わたしはその音色を空想してみた。すると宮沢賢治の「告別」という詩が 浮かんできた。そんな音を、この男の角笛は奏でているに違いない。私はその音色に耳をすました。さみしさの原石のような調べ。誰もがたったひとりで死んで いくのだが、誰もが最後に何かを伝えたいと願っている。それは神でもいい、一本の草木でもいい、愛する者でもいい。個の記憶はいつか消滅していくが、死に ゆく前に、わたしは大いなる記憶とこのちっぽけで儚い己をリンクさせたいのだ。おそらく、わたしの願いとはそのようなものだ。個の記憶など過ぎ去ってし まってよい。もろもろの事象は流れてゆけばよい。わたしと子が微笑みあった記憶は、河原の石のはざまに溶け込む泡沫のように大いなる流れに呑み込まれてゆ く。それでいい。流れを間違えなければ、あとはこの身を委ねるだけだ。そうであるなら、この底なしのさみしさも泡沫が思わず漏らす溜息のようなものだ。ワ インの貯蔵庫のような薄暗い地下の店を出たのは9時頃だった。会話はワインのようだった。おぼろで、夢見心地で、他愛ない。それもまた、やがて大いなる流 れに溶けこんでゆく泡沫だ。それもいい。きっと、すべてがよい。奈良に帰り着いたのは11時過ぎだ。駅からのどしゃ降りの夜道をモリスンの幸福なカント リー・ソングを聴きながら歩いた。 

2006.7.20

 

 

 



 

 

 

体感する