006. 高橋哲哉 「靖国問題」(ちくま新書)

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■006. 高橋哲哉 「靖国問題」(ちくま新書) (2005.7.4)

 






 「靖国問題」(高橋哲哉・ちくま新書)を買った。

 日清戦争直後の1835年、福沢諭吉が創設した「時事新報」に「戦死者の大祭典を挙行す可し」なる論説が載った。いわく、日清戦争で凱旋した将兵 は国中から歓呼の声で迎えられ勲章や報奨金といった名誉に与しているのに、戦死者は何の恩恵も受けないまま忘れ去られようとしている。「これはおかしい。 このままではいけない」と云うのである。

 

 特に東洋の形勢は日に切迫して、何時如何なる変を生ずるやも測る可から ず。万一不幸にして再び干戈の動くを見るに至らば、何者に依頼して国を衛る可きか。矢張り夫の勇往無前、死を視る帰るが如き精神に依らざる可らざることな れば、益々此精神を養うこそ護国の要務にして、之を養ふには及ぶ限りの光栄を戦死者並に其遺族に与へて、以て戦場に斃るるの幸福を感ぜしめざる可らず。

 

 【以て戦場に斃るるの幸福を感ぜしめざる可らず】 「ここには、国家が戦死者に対して、“国のために死んだ名誉の死者”としてなぜ最大の栄誉を与 えられるのかについての、最も重要と思われる説明が見いだされる」と高橋は指摘する。そして、まさにこれに呼応するようにこの論説の一月後、述べ三日間に わたり日清戦争の臨時大祭が行われ、明治天皇自らが靖国神社に参拝した。靖国神社はこの国の戦没者祭祀の中心施設として君臨し、やがて次のような「誉れの 母」たちの言葉を産み出していく。

 

「あの白い御輿が、靖国神社へ入りなはった晩な、ありがとうて、ありがとうてたまりませなんだ。間に合わん子をなあ、こないに間にあわしとてつかあさってなあ、結構でございます」
「みな泣きましたわいな」
「よろこび涙だわね、泣くということは、うれしゅうても泣くんだしな」
「なんともいえんいい音でしたなあ。あんな結構な御輿に入れていただいて、うちの子はほんとうにしあわせ者だ、つねでは、ああいうふうに祀ってもらえません」

「息子も冥土からよろこんでくりょうぞ。死に方がよかっただ。泣いた顔など見せちゃ、天子様に申しわけがねえ。みんなお国のためだがね、おら、そう思って、ほんとにいつも元気だがね」
「ほんとうになあ、もう子供は帰らんと思や、さびしくなって仕方がないが、お国のために死んで、天子様にほめていただいとると思うと、何もかも忘れるほどうれしゅうて元気が出ますあんばいどすわいな」
「間に合わん子を、よう間に合わしてつかあさって、お礼を申します」

(1936年、日中戦争の初期に雑誌「主婦の友」に掲載された“母一人子一人の愛児を御国に捧げた誉れの母の感涙座談会”)

 

 遠い昔の話ばかりではない。2001年、小泉首相の靖国参拝の是非を巡って争われた訴訟において、首相の参拝を支持する人々が神社側弁明のために陳述書を提出した。そのうちの一人のある女性は、長い陳述書の最後を次のような激しい口調で締めくくる。

 

「私にとって夫が生前、戦死すれば必ずそこに祀られると信じて死地に赴いた その靖国神社を汚されることは、私自身を汚されることの何億倍の屈辱です。愛する夫のためにも絶対に許すことの出来ない出来事です。靖国神社を汚すくらい なら私自身を百万回殺して下さい。たった一言靖国神社を罵倒する言葉を聞くだけで、私自身の身が切り裂かれ、全身の血が逆流してあふれだし、それが見渡す 限り、戦士達の血の海となって広がって行くのが見えるようです」

 

 わたしは、この人の気持ちがよく分かるような気がする。その感情の方向ではなく、感情そのものが痛いほど伝わる。愛する者が理不尽に死んだとき 「なぜなのか」と人は問う。その意味を見つけ出そうと懸命にもがく。そのとき、「国」という個人を超えた領域から意味づけが与えられる。それによって彼女 はかろうじて愛する者の死を受け入れてきたのだ。それをいまさらどうして否定できようか。否定をするなら、いっそわが身を引き裂け。彼女が「たった一言靖 国神社を罵倒する言葉を聞くだけで、私自身の身が切り裂かれ、全身の血が逆流してあふれだし、それが見渡す限り、戦士達の血の海となって広がって行くのが 見えるよう」だと記すのは、ほんとうにそのまま真実のことだとわたしは思う。

 高橋が「靖国信仰を成立させている“感情の錬金術”」と表現し、「愛する者の理不尽な(受け入れがたい)死」という生者にとってある意味最大の感情に関わるが故に、靖国問題はいまもなお複雑に絡み合い容易にほどけそうにない。わたしは先日新聞で死亡記事を見た、あの「ゆきゆきて神軍」 の奥崎謙三のことを思うのだ。戦場で見た地獄の意味を戦後も問い続け、惨めに死んでいった戦友たちの墓に飯盒メシを捧げ回り、部下殺しの上官を問いただ し、派手な外宣カーを皇居につけて「天皇はこのおれの前で土下座しろ」と絶叫した奥崎の過激さは、前述の陳述書を書いた女性のそれと、それが発する源にお いては、じつは同じなのではないか。どちらも「愛する者の理不尽な(受け入れがたい)死」の意味を問い続け、何十年もの間、喪に服し続けてきた。

 

 「靖国の母」、「靖国の妻」は、「日本人のすべて」が「ひとしく堅持すべき」「日本精神」としての靖国の精神を分有しなければならない。そしてそれは、遺族としての悲しみを喜びに転化することによってのみ可能になる。

 もしそうだとすれば、靖国信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としないことになる。 一言でいえば、悲しいのに嬉しいと言わないこと。それだけで十分なのだ。まずは家族の戦死を、最も自然な感情にしたがって悲しむだけ悲しむこと。十分に悲 しむこと。本当は悲しいのに、無理をして喜ぶことをしないこと。悲しさやむなしさやわりきれなさを埋めるために、国家の物語、国家の意味づけを決して受け 入れないことである。「喪の作業」を性急に終わらせようとしないこと。とりわけ国家が提供する物語、意味づけによって「喪」の状態を終わらせようとしない こと。このことだけによっても、もはや国家は人々を次の戦争に動員することができなくなるだろう。戦争主体としての国家は、機能不全をきたすだろう。

 靖国の祭り(祀り)を、「悲しみ」の祭り(祀り)と考えることは困難である。それは、悲しみを抑圧して戦死を顕彰せずにはいられない「国家の祭祀」なのである。

 

 高橋は第一章をこのように締めくくる。

 「“喪の作業”を性急に終わらせない」とは、なべておのれ一人の深い穴底で永遠に格闘し続けること、用意されたものに安住するのではなく、明け渡 してしまうのではなく、自らの手によって「永遠の未完成」を反復し続ける、その決意をいうのだろう。思えばこれは、靖国のことだけではない。

2005.7.4

 

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 結局、「靖国神社」とは何か。1879年、東京招魂社を「靖国神社」と改称し、別格官弊社に格付けしたときの「祭文」が端的にそれを物語っている。

 

 天皇の大命に坐せ、此の広前に式部助兼一等掌典正六位丸岡完爾を使と為て、告げ給はくとも白さく、 掛けまくも畏き畝傍の橿原宮に肇国知食し天国の御代、天日嗣高御座の業と知食し来る食国天下の政の衰頽たるを古へに復し給ひ、明治元年と云ふ年より以降、 内外の国の荒振るを寇等を刑罰め、服はぬ人を言和し給ふ時に、汝命等の赤き直き真心を以て、家を忘れ身を擲て、名も死亡せにし其の大き高き勲功に依りて し、大皇国をば知食す事ぞと思食すが故に、靖国神社と改め称へ、別格官弊社と定め奉りて、御幣帛奉り斎ひ奉りらせ給ひ、今より後弥遠永に、怠る事無く祭給 はむとす。故是の状を告げ給はくと白し給ふ天皇の大命を聞食せと、恐み恐みも白す。

 

 わかりやすく「翻訳」してみれば、こうなるだろうか。明治維新より今日まで、天皇が内外の国の暴虐 なる敵たちを懲らしめ、反抗するものたちを服従させてきた際に、お前たちが私心なき忠誠心を持って、家を忘れ身を投げ捨てて名誉の戦死を遂げた「大き高き 勲功」によってこそ、「大皇国」を統治することができるのだ、と思し召したがゆえに、今後、お前たちを永遠に「怠る事無く」祭祀することにしよう、と。

 見られるとおり、ここには戦死者の遺族への哀悼も共感も一切存在しない。ただ、天皇の軍隊の一員として敵と戦って戦死した者たちの「大き高き勲功」を讃え、永遠にそれを顕彰するとの「意志」が見られるのみである。

「靖国問題」(高橋哲哉・ちくま新書)

 

 たとえば1968年、プロテスタントのある牧師が遺族として「明治以来はじめて」靖国神社に祀られている二人の兄の「霊璽簿抹消要求」を求めた が、靖国神社側に拒否された。その話し合いの席上で靖国神社の宮司が言ったという理由がふるっている。「天皇の意志により戦死者の合祀は行われたのであ り、遺族の意志にかかわりなく行われたのであるから抹消をすることはできない」

 

 「天皇の意志により戦死者の合祀は行われたのであり、遺族の意志にかかわりなく行われたのであるか ら抹消をすることはできない」という池田権宮司の発言によくよく注意しなければならない。もしそうであるとするなら、無視されているのは合祀絶止を求める 遺族の意志・感情だけではない。戦死した家族の合祀を求める遺族の意志・感情も、いわばたまたま「天皇の意志」に合致しているにすぎないのである。本質的 には、無視されていることに変わりはないのだ。

 つまり、靖国神社は本質的に遺族の意志・感情を無視する施設である。それが尊重するのは「天皇の意 志」のみである。靖国神社への合祀を名誉と感じる人々の遺族感情が尊重されているように見えるのは、それがたまたま「天皇の意志」に合致しているからであ り、いずれにせよ靖国神社は、「天皇と国家のために戦争で死ぬことは名誉である」、「戦場で死ぬことは幸福である」という感情を押しつけてくるのである。

 靖国神社の「祭神」は、単なる「戦争の死者」ではない。日本国家の政治的意志によって選ばれた特殊な戦死者なのである。

 

 靖国神社の歴史を冷徹にひもとけば、この異様な「宗教施設」がいかに政治的なシステムに貫かれているかは一目瞭然だ。そこには無惨に殺し殺されて いった個への反省も哀惜も寄り添う感情の一片すらもなく、ただただ奇怪な太古の妖獣のような血に飢えた化け物が暗闇のずっと奥の方で静かに冷笑しているの である。ロックンロールやブルースに己を明け渡すのは格好いいかもしれない。ロビー・ロバートソンは「そんな人生は不可能だ」と言ったけれど。けれどきみ は、こんな訳の分からぬアナクロな化け物に己を明け渡したいか。靖国神社とは、宗教の皮をかぶった「政治」である。それは太古のまぼろしではなく、わたし たちの前に歴然として在る。わたしたちの弱い心・怠惰な心に蛇のように忍び込んでくる。

 高橋はこれらの検証に継いで、ナチスの反省に立ったドイツの国立中央戦没者追悼所「ノイエ・ヴァッヘ」や沖縄の「平和の礎」でさえ「第二の靖国 化」となる危険性を孕んでいることに触れ、靖国に替わる無宗教の新国立追悼施設の建設や千鳥ヶ渕戦没者墓苑の活用にも警鐘を鳴らす。

 

 石原昌家は、沖縄県政の転換と共に、「慰霊の日」に行われる全戦没者追悼 式に米軍や自衛隊の高官が軍服姿で招待されるようになったこと、「礎」の前で演説したクリントン米国大統領が日米(軍事)同盟によって平和が守られている という趣旨を述べたこと、靖国参拝を繰り返す小泉首相が「平和の礎」の前で「仰々しく手を合わせるという「参拝」」を行ったこと、「礎」を訪れる日本政府 首脳が平和祈念資料館を決して訪問しないことなどを挙げて、「平和の礎」の「変質化」に警告を発している。1999年夏に起こった新平和祈念資料館展示改 竄事件も、この流れに位置づけられる。

 ここに示されているのは、「平和の礎」のような施設についてさえ、決定的なことは施設そのものでは なく施設を利用する政治であることにほかならない。戦争遂行の主体にはなりえない非国家的集団の追悼施設であっても、国家の政治(ナショナル・ポリティク ス)に取り込まれ、「靖国化」することがつねにありうることを忘れてはならないのである。

 

 要は形ではなく中身次第だという高橋の論は、えてして感情論や宗教論に流れやすい靖国問題の中で分かりやすく、そしておそらく本質を射ている。わたしは次のようなかれの結論にも、従って同意するものだ。

 

  もう一度、確認しよう。非戦の意志と戦争責任を明示した国立追悼施設 が、真に戦争との回路を絶つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法九条を現実化して、実質的に軍事力を廃棄する必要が ある。現実はこの条件からかけ離れているため、いつこの条件が満たされるのかは見通すことが困難である。しかし、この条件からかけ離れた現実のなかで国立 追悼施設の建設を進めるならば、それは容易に「第二の靖国」になりうる。したがって、国家に戦争責任を取らせ、将来の戦争の廃絶をめざすのならば、まずな すべきことは国立追悼施設の建設ではなく、この国の政治的現実そのものを変えるための努力である。

 

 思えば昨年の夏頃から、いや遡ればきっとあの9.11やアメリカのアフガニスタン殺戮の頃から、わたしは戦争というものにずっととらわれ続けてい る。戦争を知らないわたしはこの国が戦争のただ中であった時代、広島で、沖縄で、無数のアジアの国々で、そしてこの国の内側で、いったい何が起きていたの か、人々は何を考えどんなことを感じていたのか、いまこの2005年の夏の実時間において辿り直さなくてはいけないという焦燥にも似た感覚を、より一層強 く感じている。辿り直さなくてはいけない。それがわたしなりの、見知らぬ無数の死者たちへのせめてもの追悼になるはずだ。そう思いたい。

2005.7.9

 

 

 



 

 

 

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