9.11 アメリカ同時多発テロについて考えたこと もどる

 

 

 2001年9月に起こった同時多発テロとその後のアフガニスタンにおけるアメリカの軍事行動についての発言を「ゴム消し」よりまとめた。

 

 

 

 火曜は待望のディランの新譜を発売日前日に買った。その夜、偶然つけたテレビでニューヨークの高層ビルに旅客機が突っ込むリアルな映像を見た。深夜の1時頃までテレビに釘付けになり、それから後は音を消したブラウン管の風景を眺めながら、ヘッドホンでディランの歌声を聞き続けた。どうしようもない酷い無力感を感じていた。(「ぼくらはテレビの中の暴力にはとても勝てそうにない」Brian Wilson )

 

 一週間の前半は退院したこどもに寄り添いたいという気持ちだった。後半はテレビの衝撃的な映像がずっと頭にこびりついて離れない。報道のとおり中東問題が根にあるとしたら、確かにテロは非人道的な手段だが、正義をふりかざすアメリカだってその同じ暴力をただ巧妙に用いているに過ぎない。ディランの昔の歌にあった、「すこし盗めば罪人で、多くを盗めば王様」だ。「暴力は、持たざるものの最後の武器じゃないか」という言葉さえ浮かぶ。つまり全世界に流された今回の映像は、正義や秩序でない暴力がまさに満ちあふれているこの世界の実像を露わにしたに過ぎない。

 そして私はそれらのリアルな暴力の前で、何もかもがむなしく思えて仕方ない。

 

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 テレビのなか、瓦礫の上で大統領が一人の消防士の肩を抱き「きみの声をやがて犯人たちも聞くだろう」と言い、周囲の群衆たちからU.S.Aの熱い連呼が沸きあがる。アメリカという国は、ほんとうに劇場のような国だ、と思う。根のないこの国は、それ故にいつもスターや物語を必要とした。ケネディ、モンロー、ディズニー、ハリウッド。雑多な人種の集まりであるこの巨大な国を束ねるために、それらの虚飾に満ちた装置が必要だった。私はこの国の一部の文化 (ブルースやカントリー、ジャズなどの音楽、フォークナーやマーク・トゥエインなどの文学等) は大好きだが、反面、ハリウッドやマクドナルドといった文化は毛嫌いする。この国の言う、しばしば独りよがりの「正義」とやらにも反吐が出る。ハイジャックした飛行機を高層ビルに突入させて自爆する。多くの人はこれをイスラムという、西欧文明から見ると得体の知れない国の宗教のなせる狂気だという。なるほど、狂気であるに違いない。だが私に言わせたら、無人のミサイルを飛ばしてまるでテレビ・ゲームのような冷徹さで殺人を行う風景も狂気に思える。さらに言わせてもらうなら、高層ビルの一室でほんの少しキーを叩いて巨額の資金を動かしたり、リストラで家のローンを払えずに自殺する風景もまた、狂気に近いのではないかとすら思える。要するにみんな気違いなのだ。暴力というものは例えどんな理由づけをしたところで気違いの行為であって、それを「正義」にすり替えるのは政治のかけひきに過ぎない。そしていつの世も、複雑なパズルを知性や理性や冷静さによって根気よく読み解いていくよりも、集団による気違いの祝祭に身を委ねた方がひとはたやすいものだ。その昂揚のなかで、やわらかな感性というものは常に押し潰される。

 

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 新聞もテレビのニュースも連日アメリカのテロ事件に関する報道で、いつどのように「報復」が始まるのかという一点に話題は集中している。なかでもアメリカ国民の異様とも思える好戦的な過熱ぶりが目に余る。昨日は新聞の小さなコラムで「勝利をするのは軍人(あるいは国家)で、犠牲になるのはいつも市民だ」という今福龍太氏のことばが載っていた。一方、街角のインタビューでは「絶対に報復だ。一回では足りない」と声を荒げるアメリカのおばちゃんの姿がテレビに写っていた。憎しみによって国中が結束して昂揚するなんて情けないじゃないか。私は、アメリカ人というのは歴史が浅い故か根がひどく単純で、それが彼らの時には長所でもあり欠点でもあり、例えばディランの音楽を聴くたびにふと「こういう繊細な人間は、あの国ではひどく孤独なのだろうな」と思ったりしたことが幾度かあった。しかしことはアメリカ人に限らず、ニンゲンというものは所詮、その程度の生き物なのかも知れない。テレビの陰鬱な風景を見るたびに、「他の生物のために人間は滅んでしまった方がいい」というある友人の口癖を思い出している。

 アメリカよ、ホイットマンの国よ、ハックルベリィフィンのこどもたちよ、私を失望させないで欲しい。多様性への寛容と差別への闘いの歴史こそが、あなたたちの国の真の力と美徳ではなかったか。

 

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 今日はテレビをつけたらアフガニスタンと国境を接しているパキスタンの町で、武器商人と父親から銃の撃ち方を習う幼いこどもの姿が映った。生きるためにこどもたちでさえ武器を手にする国。だが日本のこどもたちだって、ひょっとしたら別の銃を手にしたいのかも知れない。「見えない自由が欲しくて 見えない銃を撃ちまくる ほんとうの声を聞かせておくれよ」とブルーハーツが歌っていた。こんなふやけた国より、「貧しい」アフガニスタンの方があるいは「ほんとうの声」があるかも知れない。新聞で建築家の安藤忠雄氏が今回の事件は「米国のスタンダードの押しつけによる経済至上主義や西欧文明と、非西欧文明の衝突ではないか」とまえおきをし、旅客機が突っ込んだ世界貿易センタービルは「同じ規格のスペースが積み上げられた構造で、経済合理主義の権化のようなビルだ。建築学用語で「均質空間」と呼ぶ。いわば米国流のスタンダードともいえる」と言っていたのが興味深かった。テレビの画面は続けて、こどもの未来のために闘うと言ってあどけない男の子の手をとるタリバンの兵士を映していた。金魚の糞よろしく何の思想もなくアメリカに追随して、法をねじ曲げてまで軍隊を送ろうとしている馬鹿げたこの国より、気持ちとしては私はかのタリバンの兵士の方がずっと近い。ヨーロッパの農民たちだって自国のマクドナルドを襲撃したのをもう忘れちまったのかい。私はモスバーガーの方が好きだけど、それより茶粥の方がもっと好きなんよ。日の丸は別にどうでもいいけどさ。

 

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 とうとうアフガニスタンへの空爆が始まってしまった。ブッシュのおっさん、あんたはやっぱりこのHPを読んでくれてなかったんだね。午前1時半というから、奇しくも私が熊野川にバイクを止めてあの玲瓏たる月を眺めていた頃に「かれら」は出撃間近であたふたしていたというわけだ。

 確認しておきたい。ぼんくらで無力な教師のクラスに、先生の前では巧みに優等生のふりをしているいじめっ子とその取り巻き連中がいる。かれらのいじめかたは実に巧妙で陰湿なのだが、ある日、いじめられていた生徒のひとりがとうとう思いあまって背後から、いじめっ子を階段より突き落として怪我をさせた。さあ大変だ。ホームルームの時間にいじめっ子は包帯を巻いた片腕を大げさに振り回して、今回の事件の卑怯な手口と自らの正義を主張する。取り巻き連中はそうだそうだと意気込み、弱い層は怖くて何も言えず、中間層はまったくそのとおりだと思うかあるいは表向きだけとりあえず同調して、黙認を決め込んだ教師の前でいじめっ子を突き落とした生徒の弾劾裁判が始まる。つるしあげを食った形の「かれ」は、まったくもやしのようなひ弱な外見なのだが、目だけはするどい光を放っていじめっ子をじっと見据えている。私は今回の一連の事件は、およそそんな構図だと思っている。「ぼんくらで無力な教師」はさしずめ国連とでもしておこうか。そしてその場合、ただ階段の一件だけをとりあげて、被害者であるいじめっ子の主張する正義の側に立つか、卑怯にもかれを背後から突き落とした「悪行」の側に立つか、と二者択一を迫るのはあまりに粗暴な論理といわなくてはならない。

 「暴力は持たざる者の最後の武器じゃないか」ということばに含まれた「痛み」は、結局、「持たざる者」の側にしか分からないのだろう。分からないひとたちが「テロは酷い=かれらは悪人だ」という短絡的なことを善人ぶって宣う。「テロリスト」たちがアメリカと同じくらいの「暴力」を持っていたら、かれらだって何も好んでカミカゼみたいなチャチな真似はしまい。いわゆる先進国とおなじようにその「暴力」をちらつかせながら「ごく紳士的に」、ワインでも傾けながら優雅に「交渉」をしたことだろう。タリバンが麻薬の取引で資金づくりをしている、なんていう今朝のニュースで流れたイギリス首相の談話も同じこと。だからかれらはやっぱり悪者だとブレアのおっさんは言うわけだけど、多数の経済システムからつまはじきにされた者が金を稼ぐといったら、そんな裏家業しかないだろう。真っ当な商売をできなくさせた方にも責任の一環はあるんじゃないの。

 どこのチャンネルだったか忘れてしまったが、生物化学兵器の話題のひとつとして、3年前、アメリカがスーダンにあるテロリストと関係の深い生物化学兵器の工場を爆撃したという写真付きの説明があった。だが今朝の朝日新聞に載せられたある評論家の投稿では「米国は朝鮮戦争以来、ベトナム、イラクなど20カ国以上の国々に無差別爆撃を行ってきた。湾岸戦争当時、米軍がイラクに投下した劣化ウラン弾はどれほどの放射能被害をもたらしているか。続く経済制裁では、多くの子どもたちが栄養失調で死んでいる」とまえおきした後で、スーダンへの爆撃も「医薬品工場への誤爆」であり、次のように続ける「その結果、予防ワクチンが不足し、2万人の子どもたちが死んだことに、米国はどう責任をとるのか。米国こそ最大のテロ国家ではないのか」(北沢洋子・10月9日付朝日新聞) このようにマスコミの側が大本営発表よろしく、欧米の側に立った報道をそのまま垂れ流しているのも気になる点だ。だってそもそも今回のビンラディンくんの「犯罪」だって、悪そうなイメージばかりで、きちんとした証拠っていまだ何も提示されてないわけじゃないの。言ってみりゃあ、集団によるリンチに等しい。そんなんで盛り上がってるんだからさ、「文明国」とか「先進国」とか「法と正義と自由の国」とか言ったって、ちゃんちゃらおかしいんだよ。

 もうひとつだけ、同じ今朝の朝日新聞より、私の好きな作家で元共同通信の記者であった辺見庸氏の投稿の一部を紹介したい。もちろん私は、このかれの主張に心より同調するものだ。

 

 そろそろ米国というものの実像をわれわれは見直さなければならないのかも知れない。建国以来、200回以上もの対外出兵を繰り返し、原爆投下をふくむ、ほとんどの戦闘行動に国家的反省というものをしたことのないこの戦争超大国に、世界の裁定権を、こうまでゆだねていいものだろうか。おそらく、われわれは、長く「米国の眼で見られた世界」ばかりを見過ぎたのである。今度こそは、自前の眼で戦いの惨禍を直視し、人倫の根源について、自分の頭で判断すべきである。米国はすでにして、新たな帝国主義と化している兆候が著しいのだから。

 今回の報復攻撃は、絶対多数の「国家」に支持されてはいるが、絶対多数の「人間」の良心に、まちがいなく逆らうものである。問題は、「米国の側につくのか、テロリストの側につくのか」(ブッシュ大統領) ではない。いまこそ、国家ではなく、爆弾の下にいる人間の側に立たなくてはならない。

(辺見庸・10月9日付朝日新聞)

 

 ついでだけれど、もしこの国に徴兵制があって、逃げる間もなく無理矢理に銃を持たされてアフガニスタンの前線まで連れて行かれたら、私はあるいは勝ち目のないタリバン側に寝返り「アメリカに死を」「天下分け目の壇ノ浦」などとわけの分からないことを叫びながら、竹槍を構え自衛隊へ突っ込むかも知れない。そして映画「明日に向かって撃て」のラスト・シーンのように滑稽にくたばる。どうせ死ぬんだったら、せめてそんな死に方がいい。

 しかし幸いにしてと言うべきか、あるいは不幸にしてと言うべきか、この国には徴兵制はない。そのうちにアホどもが制定してくれるかも知れないが、いまはまだない。だから私はロバート・レッドフォードのように死ぬことはできない。ではこの私に、いったい何ができるのだろうか。アメリカ大使館へ押しかけてプラカードを掲げるほどの情熱もないし、抗議のチェーン・メールを送ったりその手の掲示板で議論を交わすほどマメでもない。私はいつものように職安へ通い、赤ん坊のおむつを取り替え、夕飯の玉葱を刻む。そしてこの世界で何が起こり、何がなされていくのかをただじっと見つめる。目を背けず凝視する。それだけだ。それしかないように思う。

 

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 こどもとつれあいが寝静まった深夜に、ディランの Masters Of War の歌詞を辞書を片手に訳す。湾岸戦争のときに、ディランはこの曲をテレビで歌った。だからこんどは私が、この曲の詩をひそかになぞってみる。かれはいまごろ、何を思っているだろう。かつてあの国で、かれの Blowin' In The Wind がいくど唱和されたことか。あのときのあのひとたちは、みなどこへ行ってしまったのだろう。人間はそんなものさ、とかれはさびしく答えるかも知れない。人間というものは移ろいやすく、そして愚かだ。ガス室でユダヤ人を殺戮したあとで、自室でモーツァルトの音楽を聴いて涙したゲシュタポを、きっと何人も非難することなどできないのではないか。こんな狂気と暴力の支配する世界で、どうやって生きていけるのだろう。愚かな爆弾の降り注ぐ遠いあの町にいた方が、いっそ眠れるかも知れない、と。明日でなく、今日を生きられない、というジミ・ヘンのブルースがあった。叩きつけるような、絶望的なビートが躍動していた。ミサイルがひとつ着弾するたびに、どこか気の抜けて平和な場所にいる自分が、透明になってかすれていく気持ちがするのだ。何が世界の裏側で、この狂気と暴力を支えているのだろうか。明日、私がスーパーのレジの前でつまみあげる硬貨の感触や踏んづけたキャベツの切れ端も、それらとどこかでつながっているのだろうか。

 

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 テレビをつけたら瓦礫と化した砂漠の村が写っていた。ベッドに横たわり「4人の家族が死んだ」と言う男や、焼け跡の無惨な死体が写し出された。アフガニスタンのカブールに近いちいさな村。米軍の爆撃(誤爆?) によるもので、タリバンがはじめて外国の報道陣に取材をオープンにしたのだという。ところがそのある民放局のスタジオに集まったゲストたちは一様に「まあ、タリバン側の情報操作ということもあるから、どこまで本当か分からないですねぇ」などと宣う。目の前に焼けこげた死体や家族を失って嘆く人間が現実に写っているのに、だ。私はこうした連中の精神を疑う。心が麻痺しているのだと思う。そのくせ彼らは、アメリカ側の報道はほとんど無批判のまま受け入れて、今後の軍事行動を熱心に予想したり、ビンラディンのおっさんを極悪人と決めてつけて犯罪者呼ばわりしている。情報操作だとか偉そうに言うんなら、アメリカの方だって疑えよ。ビンラディン犯人説だって、おまえらブッシュのおっさんから確たる証拠でも見せて貰ったんかい、おら。そういうぼんくらな手合いが、テレビで偉そうに喋っている。有名な弁護士だったり評論家だったり偉そうな肩書きをつけていたりする。そんな奴らに限って、圧倒的な暴力のもとで無抵抗に殺されていく人間を見ても、涙ひとつ出てこない。おそらくすでに狂牛病の牛でも食して、脳ミソがスポンジ化してしまっているのだろう。哀れなことだ。

 今回の空爆でアメリカは、爆弾やミサイルといっしょに3万7500パックの「人道的」食料をアフガニスタンに投下した、という。「中身はビスケットと野菜など、それに薬。英語とフランス語の説明書が添付され、パッケージにはでかでかと星条旗のマークがついていて、Humanitarian Daily Ration と書いてある」 要するに「私たちはアフガニスタンの民衆を敵視しているわけではない。さあ、これがその証(あかし)、心優しきアメリカ国民からの善意のプレゼントです ! 」というわけだ。作家の池澤夏樹氏はかれのメールマガジンでこのマンガのような一件を適切に批判して、最後に「それに、プレゼントというのは投げ与えるものではなく、手渡すものです」とその文章を締めくくっている (新世紀へようこそ・016 )。私は考えてしまうのだが、アメリカのテレビではこの食料投下の映像が爆撃シーンと併せて放送されているらしいが、アメリカの市民たちはそれを見て「ああ、なんて素敵な人道的配慮だろう。さすがアメリカだ」とでも本当に思っているのだろうか。もしそうだとしたら、こちらも相当にイカレている。池澤氏の言うとおり「プレゼントというのは手渡すもの」だ。いっそミッキー・マウスやダンボの旗でも掲げて、本当に手渡しでアフガニスタンまで持っていったらいい。土埃にまみれた彼の地の人々がどんな顔をして迎えるか、自分の眼で確かめてきたらいい。

 ところで今朝の新聞のあるコラムで、ドイツを訪問したイタリア首相のベルルスコーニとかいうおっさんが、今回の一連のテロ事件に絡めて「西欧文明の優越性」発言をして物議を醸しているという記事を読んだ (10月16日付朝日新聞6面「地球儀」)。おっさんいわく「イスラム諸国では人権も宗教の自由も尊重されない、私たちの文明は勝っている」「1400年前の段階にとどまっている国もある」、そしてさらに「西欧は世界を西欧化し、人々を征服する宿命がある」。いやあ、凄いね。この白痴的な尊大さは。でも欧米文明というものは、そんな非白人・非キリスト教文化圏に対する岩のような優越感がどこか深い根っこのほうに拭いがたく存在しているのだと思う。しかしそんな言葉を聞いたら、江戸っ子のあちきも黙っちゃいられねえ。タリバンやひげ親父フセインらとイスラム=仏教のスクラムを組んで、ついでにネイティブ・アメリカンやイヌイット、アイヌや沖縄の人々、シベリアのモンゴロイドたち、これまで西欧文明にさんざ虐げられてきた全世界の民族たちとも結集して、聖なる戦い=ジハードに挑んでやろうじゃないか。っていうのも何か疲れるから、とりあえずうちの近所のマクドナルドに粉末のヴィオヘルミンを入れた封筒でも送りつけておこう。

 

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 ボブ・ディランの古いアルバムに、With God On Our Side という素朴なメロディの曲が収められている。1963年、ディラン、21歳。公民権運動や反戦活動のさなか、時代の寵児として祭り上げられていた頃の作品である。それからおよそ30年の歳月を経てかれは「MTV Unplugged」と題された音楽番組収録用のコンサートのアンコールでこの曲を歌っている。アメリカのあの衝撃的なテロ事件が起こってから (それは奇しくも、ディランの21世紀はじめてのアルバムが発売された日でもあったが)、私はテレビのニュースを見るたびに、米国人であるディランはいまどんな気持ちでいることだろう、としばしば思いを馳せていた。そしてそれはきっと、前述したライブでのかれの演奏に近い気持ちではないか、と思っていたのだった。原曲より、さらにテンポを落として、歌はまるで教会の祈りの聖句のように、さりげなく、だがある種の侵しがたい緊迫感と最後の切実さをもって歌われる。(そう、バトンを渡されるあの厳かな瞬間だ。勇気のあるものは手をのばし、かれの顫える指先からそれを受け取りたまえ ! ) 曲が終わり、気力のすべてを使い果たした歌い手は、ステージの奥へ帰っていく。あとには淋しい残像と問いがひっそりとカケラのように散らばっている。「わたしはひどく疲れ果てた / わたしの感じている混乱は、とても言葉では言い表せない」 それはあの日以来ずっと感じている、わたしの気持ちと同じものだ。だからわたしは今宵、しずかな月夜の晩に、その歌 With God On Our Side を祈りの聖句のように訳した。この歌の語り手とおなじように、私には何ひとつ、なすすべがない。

 

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 まずは先月末ごろ、新聞のコラムに書かれていたこんな話を紹介したい。アメリカのある中学校の教師が、こんなメールを生徒たちに送ったという話だ。

 

 世界を100人の村に縮小するとどうなるか。その村には「57人のアジア人、21人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人、8人のアフリカ人がいます。70人が有色人種で、30人が白人。70人がキリスト教以外の人で、30人がキリスト教」に始まってこう続く。

 「89人が異性愛者で、11人が同性愛者。6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍。80人は標準以下の居住環境に住み、50人は栄養失調に苦しみ、1人が瀕死の状態にあり、1人はいま、生まれようとしています」

 さらに「1人 (そう、たった1人) は大学の教育を受け、そしてたった1人だけがコンピューターを所有しています」と続く。そのうえで「自分と違う人を理解すること、そのための教育がいかに必要か」を説く。

 この縮図の数字の根拠ははっきりしない。少々変な数字も交じっているようだ。しかし、こうやって考えてみることの重要さはよくわかる。先生はまた「もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのなら、あなたは世界の75%の人たちより恵まれています」といった解説を加えていく。

(10月27日付 朝日新聞・天声人語)

 

 ひどく歪んだ世界だ。いまかの地で行われている戦争も、自由を守るだの何なのとほざいてみても、端的に言うならば、世界一富んだ国が世界一貧しい国の大地に爆弾を撒き散らしている、ということに過ぎない。これも歪んだ戦争だ。

 

 「現代イスラムの潮流」(宮田律・集英社新書) を読んだ。この類の本はこのごろ雨後のタケノコの如く巷に溢れているが、これはその中でも量的にわりと手軽で、内容も実直で分かりやすい入門書ではないかと思う。この本でイスラム世界の歴史を辿ると、いかに欧米の文明が自分たちのエゴイズムでかれらの地域をぐちゃぐちゃにしてきたかが、いまさらながら再確認できる。そしてまたかれらにとってイスラム運動とはまず、ナショナリズムや市場経済、資本主義といった西欧文明の価値観によって蹂躙され、貶められた、かつての気高い遊牧民のプライドを取り戻すための精神的な戦い (葛藤) であることも得心できる。著者によるとそもそもイスラム教の教えの本質とは社会的な相互扶助を目指した変革の倫理であり、現実に多くのイスラムの国では政府がないがしろにしてきた教育や福祉の活動を、そうしたイスラム(ムスリム)同胞団が代わりに担い、地道な活動を続けているという事実がある。そうしたイスラムの本来の姿から、わたしたち、欧米のメディアと価値観によってすっかり毒された目は盲になっていないだろうか。

 

 やはり朝日新聞からだが、京都大学で現代アラプ文学を教えている岡真理という人の論説が心に残った。

 

 82年、レバノン。イスラエルの侵攻にともない、9月16日から18日にかけて、ベイルートの二つのパレスチナ難民キャンプ、サブラーとシャティーラでイスラエル軍に支援されたレバノン右派勢力に、2千人を超える難民たちが虐殺された。さらにその6年前の76年には、ベイルート郊外のタッル・ザアタル難民キャンプがレバノン右派勢力に半年間にわたり包囲封鎖され、集中砲火を浴び、2万人いた住民のうち4千人が殺されたという。

 私たちは2001年9月11日ニューヨークを記憶するだろう。人間の歴史に刻まれた悲劇として。「私たち」の出来事として。しかし、1976年タッル・ザアタルの名を、1982年サブラー、シャティーラの名を記憶する者はほとんどいない。

(10月29日付 朝日新聞・私の視点)

 

 岡氏はそれを「この記憶の偏在と地球規模の富の偏在は、同じ一つの暴力的な構造に由来している」と書き、それが「私たち」から見た「かれら」の死の遠さであり、そのようにして「私たち」が歴史の外部に「かれら」の記憶を暴力的に葬り去り続けるかぎり、その暴力は別の形で「私たち」を復讐する、そして「数千人の死を贖(あがな)いうる術がもしあるとしたら、記憶の埒外に棄ておかれ、不条理に殺され続ける難民たちの死を私たちが悼み、その出来事を「私たち」の経験、人間の歴史として、私たちの記憶に刻むことによってではないのだろうか」と結ぶ。

 ここで指摘されているのは、自衛隊を派遣するしない・弾道ミサイルの発射は戦争行為か否かといった、上っ面だけの下等な論議を繰り返しているこの国の国会でのノーテンキな論議よりももっと根の深い、ある意味で神話的ともいうべき「死者の記憶」に関する人間の内的な精神のあり方である。その意味で私には、あのナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の記憶を丹念に取材した映画「ショアー」を思い起こさせる。

 

 続けてふたつ、心に残った理性的な言葉の発信をここに記す。

 

 これ以上に皮肉なことがあるだろうか、アフガニスタンを破壊し直すためにアメリカとロシアが手を結び合うなんて? 質問、あなたたちは破壊を破壊できるのですか?

 9月11日の攻撃はおそるべきひどい状態になった世界からの途方もない挨拶状だった。そのメッセージはビンラディンが書いたのかもしれない (だれが知ってるの?)、そして彼のお供が配達したのかもしれない。でも、それはアメリカのかつての戦争による犠牲者たちの亡霊によって、署名されているにちがいないのだ

(インドの女性作家アルンダティ・ロイ氏が「ガーディアン・オブ・ロンドン」紙に発表した文章の一部)

 

 ...いよいよグローバル・スタンダード (世界基準) として強行され始めたアメリカ的価値基準 (正しくはアメリカ共和党的か?) に対する真っ向からの異議申し立て、劇的な疑問提出ではないか。その疑問はビンラーディン個人のものでも特定の戦闘的宗教組織『タリバン』だけのものでもない。

 私の個人的な言葉を使えば、人類の無意識の意識が、いまとても不安にざわめき波立ち始めたのだ。このままだと人類の未来が危ない、と。

(「すばる」11月号掲載の作家・日野啓三氏による短篇連作『新たなマンハッタン風景を』の一部)

 

 ふと思ったのは、あの孤独で勇敢で変わり者のT.E.ロレンス、いわゆるアラビアのロレンスのことだ。あの長い映画は好きで何度も繰り返し見て、私の20代のある時期の狂おしい精神の支え、いま思えば旧約聖書的な世界だった。ロレンスの葛藤は、高貴で自由な遊牧民としてのアラブ的なものに己の精神が憧れ共感しながらも、遂にアラブ人になりきれなかったことだ。白人が黒人の音楽であるブルースを演奏することの苦悩に似ている。その歪みがかれを自閉的なスピードに追い立て、疾走するバイクにまたがったままあの世へ走り去らせた。かれがアラブの大義を信じ戦うなかで、母国イギリスは政治的な駆け引きでアラブ世界を裏切っていた。つまりふたつの異なる文明のはざまで、ロレンスは己の身体を引き裂いてしまったのかも知れない。

 そのように私はロレンスのことを想う。アフガニスタンで行われている戦争は、けっして遠い国の対岸の火事ではない。歪んだ私たちが暮らしているこの世界・文明のひずみがぎりぎりと嫌な音をたてて露わな亀裂を走らせようとしている、そんな戦争なのだと思う。「文明の衝突」ではなく、「文明の自壊」に、私たちはいままさに立ち会っているのかも知れない。

 

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 友人が置いていった司馬遼太郎の『坂の上の雲』、文庫で全七巻を少しづつ読み継いでいる。今宵、読み終えたのが巻の二。この時代、日本はイギリスと手を組み、ロシアはドイツと組んで、それにフランスやイタリアなどヨーロッパ諸国が連なって疲弊した中国大陸をハイエナのごとく食い物にしている。当時日本の最大の脅威であり、中国 (清) と朝鮮半島を虎視眈々と狙っているそのロシアにしたって、ほんの少し歴史を下れば大モンゴル帝国の支配を受けまだろくな国の体裁もなかった。もちろんその頃にはアメリカなど影も形もない。やがて日本はアメリカに原爆を落とされて帝国主義に幕を下ろし、いまはそのアメリカの尻を追いかけてひょいひょいと中東くんだりまで軍艦を派遣している。長い歴史の目から見たらそんな国家のあれこれは、すべて儚くむなしい影絵劇のようにも思える。

 

 ナジーラは頭が割れ、脳が飛び出していた。賢くて可愛くて自慢の娘だった。遺体があまりに痛んでいたのでだれも棺を見なかった。

 

 今朝新聞をひらいたら、アメリカの空爆で5歳になる娘を失ったというアフガニスタン男性の言葉が載っていた。タリバンが逃げカブールが解放されたなどと報道されているが、いったい取り返しのつかないこの理不尽な悲しみはどこへ向けたらいいのか。「ナジーラ」は何のために死んだのか。ただの無駄死にではないのか。テロ撲滅とアメリカの正義のためには仕方のない死であったのか。

 「目的のためなら手段を選ばない、罪のない人間の多少の犠牲も致し方ない」というのがテロリストの論理であるなら、いまやアメリカもビルラディンの一派と同じく確実にテロリストである。正義の多国籍軍を集結して、こんどはアメリカを空爆しなくてはならない。いまこそ日本のイージス艦をワシントンへ向けて派遣してやれ。

 歴史は、こんな物言わぬ死者たちの無数の屍で累々としている。人間は何も変わらない。正義だとか経済だとか政治だとか馬鹿なことを偉そうに喋っている大人たちの後ろで、ナジーラのような罪のない幼いこどもたちが頭を割られ脳味噌を飛び出させて物言わず死んでいく。おれはもうこんな世界はうんざりだ。

 

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 タリバンが敗退し、アメリカ軍の支援を受けた北部同盟がアフガニスタンの領土にひろがっていく。メディアは「自由への解放」を演出する。だが、ほんとうにそうなのだろうか。「解放」後に人々によって語られるタリバン支配下での圧制や陰惨な虐殺などは、たしかにあったのだろうと思う。だが今回アフガニスタンを「解放」した北部同盟にしたってかつては互いに醜い勢力争いを演じ、その政治下では略奪やレイプや民族間での殺し合いなどが横行していた。敬虔な神学生たちによるタリバンの活動がひろがっていったのはちょうどその頃だ。人々はかれらの内に清廉さやイスラムによる古き良き秩序の再生を夢見て、それに期待した。少なくとも初期のタリバンとはそのような存在であった、と思う。水戸黄門が長寿番組になっているせいでもないだろうが、日本人はもともと分かりやすい勧善懲悪のストーリーが好きだ。だが現実はそれほど単純なものではない。評論家の加藤周一氏が新聞のエッセイでこんな引用をしていた。

 

 インドの女性作家、アルンダティ・ロイ氏 (Arundhati Roy) は「戦争は平和である」という論文の中で (インドの週刊誌 OUTLOOK,29th Oct.2001 掲載) 、アフガニスタン爆撃を発表した時にブッシュ大統領の言った「われわれは平和な国民である」という言葉と、「人気高いアメリカの大使で、英国の首相も兼ねる」ブレア氏の「われわれは平和な人民である」という言葉を引用している。彼女はその後につづけて、「これでよく解った。豚は馬である、少女は少年である、戦争は平和である」と書いた。

(朝日新聞 20001.11.22 夕刊 夕陽妄語)

 

 かりに「国連主導の民主的な政府」がアフガニスタンに成立し、アメリカがお尋ね者ビンラディンの首を手にしたとしても、テロリズムの根が断たれるわけでは無論ない。「ビンラディン」というのは暗い地下茎より連綿と吹き出してくる、ひとつのイメージのようなものだ。イメージはそれを生成する根が存続する限り死なない。

 評論家の内橋克人氏はあるインタビューに答えて、今回のテロが世界を変えたわけではないが、テロによって世界の構造があぶり出されたとは言える、と語っている。それは「冷戦構造の崩壊後、世界が市場によって一元的に支配された構造」だ、と。そして、それを主導するアメリカ的価値観、「世界をおおう金融システムに乗って、自己増殖しながら疾走する」マネー資本主義=グローバリズムに対抗する思想がイスラム社会にあることを指摘している。

 

 イスラムでは労働の対価以外の報酬を受け取ってはならない。人もカネも神が与えたものであり、イスラムの金融機関は利子、利息の概念そのものを禁じている。預金にも利子はつきません。ゼロコストの資金を集め、自ら生産設備をあがなって起業家に提供しています。リスクも成果も事業家と共有する。基本にあるのは喜捨の考えです。利が利を生むマネー資本主義に対するアンチテーゼがイスラムにある。

 イスラム銀行はすでに世界20カ国に広まっています。マネー資本主義とは異なる価値観であり、いま、世界に台頭している地域通貨などの思想とも通底するところがあります。世界市場化への対抗思潮として、その対極にあるものにとっては根元的な脅威と映るでしょう。(イスラムが資本主義に)とってかわるのではなく、市場経済をより健全なものにする上で価値の高い対抗思潮だと思います。

(朝日新聞 20001.11.24 テロは世界を変えたか)

 

 以前に紹介した宮田律氏の「現代イスラムの潮流」(集英社新書) には、西欧文明的な価値観や市場原理の進出によって蹂躙されプライドを失い疲弊した、かつての誇り高き遊牧民族たちの悲しい歴史的経緯が描かれている。テロリズムを含むイスラム世界の運動にはじつは意識の深い部分で、内橋氏の言うような、アメリカ的マネー資本主義にノンと言い、自分たちのプライドを自分たちのやり方によって取り戻したい、人間的な生活を取り戻したいという切なる思いがあり、それをテロリストたちが巧みに吸い上げていく構造があるのではないかと私には思われるのだ。

 ところで作家の池澤夏樹氏が、最近のかれのメールマガジンで次のようなことを記していた。少し長いが引用する。

 

 .....この流星群が感動的だったのは、単に派手な珍しい見物だったからではありません。

 それは人間が仕掛けたイベントではなかった。何かのコマーシャルでもなかった。宇宙が勝手にやっていることを見せてもらっただけ。

 そんなことはあたりまえと言う前に、今、先進国の人々がどれほどコマーシャル・メッセージに包まれて暮らしているか、自分の周囲を見なおしてみてください。

 テレビはCMと抱き合わせ、新聞雑誌の紙面の半分近くは広告、町を歩けば無数の看板とポスターが、買ってくださいと訴えている。電話が鳴るから取ってみれば、一方的な電話セールスの声。

 社会ぜんたいが、あらゆる心理的詐術を駆使して、あなたにものを買うことを強要しています。

 今や人は夫や妻、父や母、日本人、ある職業に就く者、一つの思想の持ち主、などなどである前に、まずもって消費者です。

 子供はものごころつくのも待たずに、キャラクター攻勢で消費者に仕立てられます。子供には充分な判断力がない。だから売り込みやすい。

 要約すれば、いかなる消費者であるかが、あなたという人を定義している、ということになります。

 どのブランドを着ているか、どの会社のケータイを持っているか、どの外食店で昼食をとるか、どんな家に住み、どの車に乗っているか……そういうことが、あなたが誰であるかを決める。

 もう10年以上前の車のテレビ・コマーシャルで、「彼はシーマに乗っている。彼はそういう人だ」というのがありました。

 あの頃から、人は身に着けたもの、つまり買ったもので、評価される傾向がいよいよ強まった。

***

 これを社会の側から見れば、みなが商品をどんどん買うと、つまり消費の優等生になってくれると、景気が向上してみながうるおうということです。

 消費の動向が社会の雰囲気を決める。ものがよく売れるのはよい社会である。

 これが表から見た図です。裏に回れば、ものが売れるほど資源が使われ、温室効果ガスや環境ホルモンなどが放出され、放射性廃棄物の蓄積が増える。途上国を踏み台にして先進国ばかりがうるおう。

 大量消費にはその分だけ負の要素がついてまわります。そして、コマーシャル・メッセージは決してそのことを言わない。

 最も深刻な影響は、人間がお互いを消費者としてしか評価しなくなることです。

 友だち同士が、お互い何を着ているか、何を買ったか、いくらで買ったか、次は何を買おうとしているか、そういうことでそれぞれ人としての値打ちを決める。それを基準に友だちを選ぶ。いわばお互いを買い合う。

 倫理的な判断までを広告代理店に任せる。

 今はそういう時代です。

( 新世紀へようこそ 053 )

 

 私たちの誰もが、今回のテロ事件にはすでにたっぷりその身を浸らせている。

 

*

 

 10日ほど前であったか、一通の短いメールがフランスより届いた。ディランの Masters Of War の日本語訳を探しているとの内容で、教えてもらったアフガニスタン関連のサイトを興味深く見た。それからしばらくして、そのMさんが翻訳をしているアメリカの月刊誌の記事にオーデンの詩が載っていて、私ならどんな訳をするか見てみたいと仰る。普段は無精で無愛想な私が、なぜか不思議に同意したのである。それでここ数日間、私は手の空いた時間のほとんどを使って、その詩の翻訳にいそしんだ。家人の眠った夜更けにひとり机に向かい、この60年前に詩人が書いた精神に、2001年の師走に生きる私の孤独な魂は完全に同調することができた。とても愉しく、勇気づけられる時間だった。もともと役に立つか解らないMさんのささやかな参考までにと始めた手すさびだが、訳し終えてみれば愛着も湧いてくるのでここにあげておくことにした。

 なお翻訳にあたって、たまたま図書館で見つけた『オーデン詩集』(中桐雅夫訳・福間健二編・小沢書店 1993)を参考にした。この一冊がなかったら、素養に貧しい私はもう少し難儀しなければならなかっただろう。作品中の注釈はこの本からそのまま流用している。最後に図らずもこの素敵な機会を与えてくれた、ジャックダニエルを古き友とするMさんに感謝を。オーデンによって私は少しばかり、粗末なこの魂を取り戻せた。

 

1939年9月1日 *1   W.H.オーデン

*1 ドイツ軍は1939年9月1日、ポーランドに侵入し、第二次大戦はその二日後に始まった。

52番街のとある安酒場に *2
ぼくはすわっている。
卑しくも不誠実な10年間の *3
よい希望さえ息絶える
ぼんやりとした不安。
怒りと恐怖の波が
地上の明るく、また暗い土地々々をめぐり
ぼくらの私生活にとりついている。
口にするのも憚られる死の臭気が
この9月の夜を蝕む。

*2 52番街はニューヨークの通り。安アパートや倉庫が多い。
*3 1930年代をさす。

正しい学問なら
ルターから今日まで *4
ひとつの文化を狂気へと導いた
犯罪のすべてを白日の下に晒すことができよう。
リンツで何が起こり、 *5
どんな巨大な心像が
一人の精神病の神を作り上げたか、を。 *6
ぼくも大衆も承知だ
小学生でも学ぶこと、
悪をなされるものは
悪をもって報いる。

*4 ドイツの文化をさす。
*5 リンツはオーストリアの町で、ヒトラーの父はここで税吏をしていた。
*6 imago/心像は心理学用語で、子供時代に愛されたもの、とくに父母を表象する、無意識に理想化した幻想。psychopathic god/精神病の神はヒトラーをさす。あるいはかれが訴えたドイツ人の精神のうちの病める部分。

追放されたツキジデスはよく分かっていた *7
民主主義について
言論がどれだけのことを言えるか、
また独裁者たちが何をやらかすか、
そして無表情の墓場に語りかける
老人たちの戯言を。
すべてかれの本の中で分析済みだ、
追ん出された啓蒙運動や、
慢性的な苦痛や、
やりそこない、悲嘆。
そうしたものすべてにぼくらはふたたび、苦しまなければならない。

*7 ツキジデスはアテナイの歴史家。透徹した史観と公平正確な叙述で、西洋歴史学の始祖といわれる。簡潔な文体で、ペロポネソス戦後の歴史を書いたが、自身は海軍指揮官としての失敗により、約20年間、亡命生活を送った。

「集団的ニンゲン」の力を示威しようと
(めしい)の摩天楼が
精一杯に背伸びをしている
このくすんだ空へと、
それぞれの言葉が
虚しい力ずくの弁明を殺到させる。
だが誰がいつまでも
仕合わせな夢の中に住んでいられようか。
鏡の中から奴らが凝視している、
帝国主義の顔と
国際的な悪が。

 

酒場にならんだ顔は
世間並みの日常にしがみついている。
灯りはけして消すなかれ、
音楽は絶やすなかれ、
あらゆる因習が共謀して
この砦をまるで
家庭の家具のように装わせている。
ぼくらのいる場所を気づかせたくないのだ、
お化けの棲む森に迷い、
愉快であったことも幸福であったこともない
夜に怯えるこどもであることを。

 

好戦的なノータリンの戯言や
重要人物とやらの叫びにしたって
ぼくらの願望ほど粗野ではない。
狂ったニジンスキーが
ディアギレフについて記したことは
正常な精神にとっても真実だ。 *8
なぜなら、持ち得ないものを渇望することがそもそも
男と女のそれぞれが
もって生まれた誤解なのだから、
万物の愛でなく
ただひとり愛されること。

*8 ニジンスキー(1890-1950)はポーランド系ロシア人で、世界的バレエの名手。病気と狂気のため早く引退した。ディアギレフはロシアのバレエ演出家で、ニジンスキーはかれについて「政治家のうちには、ディアギレフのような偽善家がいる。かれは普遍的な愛ではなくて、ただひとり愛されることを望むのだ」と書いた。

保守的な暗やみから
道徳的生活へと
おしあいへしあいの通勤者がなだれ込み
朝の誓いを復唱する。
「女房に嘘はつくまい
仕事にさらに精を出そう」
無能な亭主どもは目を覚まし
義務的なゲームをくりかえす。
いまや誰が連中を自由にしてやれるのか、
誰がつんぼの耳に届くことができようか、
誰がおしに代わって話してやれるのか?

 

ぼくにはたったひとつの声しかない、
包まれた嘘を開いてやる声だ、
好色で平凡な人間の
脳みそに巣くう絵空事の嘘を、
手さぐりで空を求めるビル群の
権威ぶった嘘を。
国家なんてものはありはしないし
誰だってひとりで存在しているわけでもない。
餓えは、市民も警官も
分け隔てをしない。
ぼくらは互いに愛し合わなくてはならない、でなければ死だ。

 

夜のもと、無防備に
ぼくらの世界は呆然と横たわっている。
それでも、 そこかしこで
光のアイロニックな粒が
どこであろうと、正しき者たちが
そのメッセージを取り交わすのを一瞬
浮かびあがらせる。
かれらとおなじように
灰とエロスからできているこのぼく、
おなじ否定と絶望に苛まれているこのぼくに
もしできることなら、
ひとつの肯定の炎を見せてやりたい。

 

(September 1, 1939 W. H. Auden / 2001.12.24 まれびと訳す)

 

*

 

 前述のオーデンの詩を教えてくれたMさんが翻訳した「ロバート・フィスク:文明戦争パート2に備えて、奮起せよ。《合衆国空爆は、ハイジャックによって引き起こされたヨーロピアンとその他の死者より多数のアフガン人をこれまでに殺している。》2001年12月22日」のレポート(英文)の草稿を拝読する。あちらのジャーナリストらしく、なかなかひねりの効いた内容だった。この翻訳はそのうちどこかのサイトに載る、のかな。今回の事件でとにかく私が思うのは、当の事件の衝撃はもとより(ひょっとしたらそれ以上に)、この一連の騒ぎによって見事に露わになった自分をとりまくこの世界の実相である。正直に言ってアメリカの国民があれほど一致団結して盲目になれるとは予想していなかった。はりぼてのようなインチキ臭い「正義」や「自由」がこれほど堂々と大手を振ってまかり通ってしまえるとは思わなかった。そしてこの国の主要なメディアがこぞって、まさかこれほどノータリンであるとは思ってもいなかった。テレビのニュースも新聞も、アメリカ側の報道垂れ流しか、都合の良い、あるいは当たり障りのないことしか伝えない。NHKの土曜の「こどもニュース」も、タリバンが去ってカブールに平和が戻りました、なとどと平気で喋っている。まさに嘘と屈辱にまみれた世界だ。ディランがまさに歌ったように、生きることがまぼろしで、死が銀行の入り口へ消えていく世界だ。だれもほんとうのことを話さない。

 

*

 

 夜はテレビでテロ事件に関連したNHKスペシャル「世界はどこへ向かうのか・新たな秩序への模索」をやはり炬燵に寝転がって見る。アメリカの歴史学者やアラブの知識人たちが出てきて喋っている。だが「新たな秩序」など、どこにも見えてこない。

 

 ある人が夕べ、メールに書いてきた。アフガニスタンの人々のことだ。

 

しかし、なんであそこの男たちはこんなに sexy なのか? 何であんなに笑えるんだ? なんであそこの子供たちは本当の子供たちなんだ? なんでみんな詩を歌い上げるのだ?

体を張って生きているからだね? 違うかな。

でも私たちはいったいどこに行こうとしているのか?

 

*

 

 NHKのテレビで「対論“テロ後の世界”を読む」という番組を見る。イタリアの大学教授であるアガンベンという人の話はなかなか興味深かった。ひとつは古代のギリシア人がかつて人間の生を身体的な生と政治的な生とのふたつに分けて考えていたという話をベースに、ナチス時代のユダヤ人の強制収容所や現在の難民キャンプでの極限的な環境においてはこれが混在してしまっている、そしてその図式は奇妙なことにわれわれの現代の生活にも当て嵌まる、という話。もうひとつは「古典的な国家間の戦争」が幕を閉じた現在、国家は市民の生活を守るという命題の下に無制限な警察国家へと変貌する。もともと重農主義から派生した Security という言葉は、法や道徳によって秩序を打ち立てるのではなく、無秩序なところへ介入してそれを支配するという性格を有している。つまり「グローバル化した世界的内戦」において、国家は支配のために目に見えないテロリズムという口実を常に必要とする。そんな話である。

 

*

 

 あの9.11のテロが起こり、アメリカによるアフガニスタンへの空爆が始まってから、この人の意見 (いま何を感じ、何を考えているのか) を聞いてみたいという人間が私には幾人かいたが、作家の辺見庸はその一人であった。今日、NHKの夜の番組でその辺見庸の出演した「アフガニスタンをめぐる対話」と題された対談が放送された。相手はタリバン政権下でのアフガニスタンを題材にした映画「カンダハール」を撮り、あのバーミヤンの石仏が破壊されたときに「石仏は破壊されたのではない、恥のために自ら崩れたのだ」とコメントした、イランの映画監督マフマルバフである。二人の対話は、あたかも深い川の流れのようで、私はそのすべてに共感できた。世界にはあまりにも過剰に語られ過ぎていることと、あまりにも少ししか語られていないことがあって、それはひどくバランスを欠いている。メディアは常に満腹の人間の痛みしか語らない。辺見庸は最近訪れたアフガニスタンで拾ってきたというアメリカの最新型の殺傷爆弾の破片・溶解し歪んだ金属の塊を新聞紙の包みからひろげて見せ、これが数キロ四方に渡って至る所に散らばっていた、これがタリバンの兵士やアルカイダだけでなくアフガニスタンの一般の人々・老人やこどもたちの肉体を貫いたのだ、と語る。誰も言っていないことだが、もし今後おなじ状況下でどこかの国がテロリストを匿ったとしたら、アメリカは、たとえばそれがイタリアやドイツであっても空爆をするのだろうかという疑問が残る、と言う。それから二人は、あのニューヨークでの衝撃的な映像が喚起したハリウッド映画について語った。辺見庸が語る。自分はあれを見たとき、これを計画した者はよっぽどハリウッド映画に毒されている、と思った。作曲家のシュトックハウゼンが「あれは最高の芸術作品だ」と語ったけれど、私にはそれほど上等のものではないという思いがある。ついでマフマルバフが語る。映画は鏡のようなもので、あれはハリウッド映画が産み出してきた暴力が写されたものだ。ハリウッド映画は人生に大切なものを何も描いていない。人々はポップコーンを食べ、コカ・コーラを飲み、やがてハリウッド映画のように思考するようになる。二人が口を揃えて言ったのは、こんな言葉だ。人間の存在というものはハリウッド映画やブッシュの言うような悪と善の単純な図式ではない、それはもっと複雑で、もっと深いものだ。マフマルバフの言ったこんな言葉が忘れられない。「人間性があるとしたら、恥ずべきことだ」 かれのある作品はやはりアフガニスタンからの難民が主人公で、その初老の貧しい男は死にかけた妻の治療費を稼ぐために7日間眠らずに自転車に乗り続けるという見せ物に挑む。まだ幼い息子が車上で朦朧としている父親の顔を悲鳴をあげながら叩く。この映画はすべてのイラン人が見たというほどの大ヒットになったという。私はなぜか唐突に思ったものだ。こんな腐りきった日本より、たとえブルカを着てもイランの人々の方が本物の魂を持ち、本物の映画に感動する心をいまだ持ち続けている、と。最後にマフマルバフがこんなふうに締めくくってくれた。「芸術と現実の間に線を引くことはできない」 かれは思慮深い遊牧民の末裔の詩人だった。いつかあれらの国々を訪ねてみたくなった。

 

*

 

 ところで作家の池澤夏樹氏がかれのメール・マガジンで、前述したイランの映画監督の作品「カンダハール」を見た映画館で買ってきたというマフマルバフの著書について触れているので、そのくだりをここに転載しておく。

 

 映画館で彼の著書を売っていたので買いました。

 本の方はもっと直接的に、具体的に、アフガニスタンの惨状を訴えます。

 長いタイトルが、この本の内容を雄弁に説明しています──『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(刊行は現代企画室、定価1300円+税)。刊行されたのは2001年の初め、つまり9月11日の前、全世界がアフガニスタンに注目する以前のことです。

 マフマルバフは映画制作者になる前にまず作家になった人物ですから、文章がうまい。簡潔に真実を伝えるのがうまい。これを書く前に1万ページの資料を読んで勉強したと言っていますが、その成果をわずか150ページの中に見事に要約している。

 このような、エッセンスだけを収めた本は、書評者の立場から言うと、実は紹介しにくい。それ以上の要約は不可能だからです。こういう本はさわりを引用するしかない。英語でいうところの quotable な本の典型です。

 二か所だけ引きます──

 「このレポートを最後まで読むには、一時間ほどかかるだろう。その一時間のあいだに、アフガニスタンでは少なくとも一二人の人びとが戦争や飢餓で死に、さらに六〇人がアフガニスタンから他の国へ難民となって出ていく。このレポートは、その死と難民の原因について述べようとするものである。この苦い題材が、あなたの心地よい生活に無関係だと思うなら、どうか読まずにいてください。」

 「私は、ヘラートの町のはずれで、二万人もの男女や子どもが、飢えで死んでいくのを目のあたりにした。彼らはもはや歩く気力もなく、皆が地面に倒れている。ただ死を待つだけだった。この大量死の原因は、アフガニスタンの最近の干魃である。同じ日に、国連の難民高等弁務官である日本女性(訳注 緒方貞子氏)もこの二万人のもとを訪れ、世界は彼らのために手を尽くすと約束した。三カ月後、イランのラジオで、この国連難民高等弁務官の日本女性が、アフガニスタン中で餓死に直面している人びとの数は一〇〇万人だと言うのを私は聞いた。

 ついに私は、仏像は、誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は、恥辱のあまり崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人びとに対し世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ。」

 この部分を読みながら、ぼくは最近、バーミアンの磨崖仏を復元するプランがあるという記事を読んだことを思い出しました。恥辱の思いで自ら崩れ落ちた仏像は、恥辱の事態が解消されないかぎり、ただのコピーに過ぎないだろう、というのがぼくの感想です。

新世紀へようこそ 067

 

*

 

 金曜に大阪の職安を覗いた折り、最近出た「反定義 新たな想像力へ」(辺見庸+坂本龍一・朝日新聞社) を買って、帰りの電車の中で貪るように読んだ。

 

 ソマリアに行く前は、世界というものをひとつの場だとしたら、ぼくは中心概念というものを無意識に持ってたわけです。中心とは、たとえば東京だったり、ニューヨークだったり、ワシントンDCだったり、ロンドンだったりしたわけですね。しかし、飢えて死んでいく子供たちを見て、中心概念は全部崩れました。餓死したって新聞に一行だって記事が出るわけじゃない。お墓がつくられるわけでもない。世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意も向けられず餓死していく子供たちがたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあるんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。これを中心概念として、世界と戦うという方法もあっていいのではないかと考えました。餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないかとも考えました。

 

 世界はもともと、そして、いま現在も、それほど慈愛に満ちているわけではない。そして、すべては米国による戦争犯罪の免罪の上に成り立っている。じつにおかしな話なのですよ。情報の非対称の恐ろしさというのは、これだと思う。アメリカで起きた屁のようにつまらないことが、まるで自国のことのように日本でも報道される。けれども、エチオピアで起きている深刻なことや、一人あたりの国民総生産がたった130ドルのシエラレオネで起きている大事なことは、まず日本では報じられない。この国では、どこのレストランが美味いか、どこのホテルが快適か、どこで買うとブランド商品が安いか、何を食えば健康にいいのか、逮捕された殺人容疑者の性格がいかに凶悪か、タレントの誰と誰がいい仲になっているか....といった情報の洪水のなかでぼくらは生きています。伝えられるべきことは、さほどに伝えられなくてもいいことがらにもみ消されています。アフガンもそうやってもみ消されてきたのです。

 

 そのときに、言説、情報、報道というものはこれほどまでに不公平だ、この土台をなんとかしない限りは、ものをいっても有効性は持ちえない、どちらかというと無効なんだと思いましたね。同質のことをいま、ぼくはまたアフガンで見ざるをえない。若い人は、まだ報じられていない、語られていない、分類されていない人の悩みや苦しみに新たな想像力を向けていったり、深い関心をはらってほしい。ブッシュやラムズフェルドやチェイニーの貧困な想像力で暴力的に定義されてしまった世界、しかもその惨憺たる定義が定着しつつある世界を、新しい豊かな想像力でなんとか定義しなおしてほしい。それには相当の闘争も覚悟せさざるをえない。でも、そうしないと、ブッシュたちの定義にならされていくと思います。

 

 それとぼくがアメリカの巨大な軍産複合体における不可思議な事実として注目しているのは、あそこの技術者とか幹部職員たちってエコロジストが結構多いっていうことです。皮肉だなあって思う。軍事産業にいて兵器開発をしながら、じつは民主党の支持者だったりもする。もちろん嫌煙派で,健康食品を食い、日曜ミサに欠かさず行き、休日には子供とバートウォッチングなんかをしているんです。そういう連中が、アフガンで人間をバラバラに吹き飛ばしたバンカーバスターやクラスター爆弾の強化型の開発・生産をやっているわけですね。劣化ウラン弾をつくったりね。もうそういう時代に来ていると思うんですね。あの連中の品性も、兵器の愚劣さ、残虐さと同じような低劣かというと、かならずしもそうじゃない。私的には妙に清潔な生活を営んでいたりする。世界から憎悪がなくなりますように、なんて教会で祈りをささげたりしている。それがいやですね。それがたまらない。そこにいちばんの問題があると思う。

 

 これらは辺見庸の発言からだが、私はこれらすべてに激しく同意し、さらに改めて激しく揺さぶられる。「餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないか」 ほんとうにそうだ、と頷く。尖鋭になりすぎても、きっとまだ足りない。「世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意も向けられず餓死していく」「ただ餓死するために生まれてくるような子供」の存在に対峙するためには、日常のやけに取り澄ました良識さえしゃらくさい。

 おそらく、世界は収拾もつかないほど複雑になりすぎてしまった。最後に引用した軍事産業の技術者の話は、まさに私が感じている、個人のささやかな良識が集合体としての悪意に転ずる究極の見本である。これらの風景は私たちの身近な日常に当たり前の顔をして確かに存在している。私たちはそれらすべてを問い直さなくてはならない。この異様な世界を成り立たせているすべてのものを破壊しなくてはならない。そしてまず手始めに、気づかなくてはならない。正気に戻らなくてはいけない。正気というものがまだこの世界に残っているのだとしたら。

 

*

 

 私は政治談義は苦手だし、じぶんの拙い生活に即した言葉しか言えない。おそらく私の世界はとても狭く、私はそこでちっぽけなじぶんだけの穴を下へ下へと掘り続けて暮らしている。だがそんな砂中の貝のごとき私でも、感じていることがある。異様な、音もなくひたひたと広がっていく、ひどく空気の薄い圧迫感だ。「反定義 新たな想像力へ」からの引用を、もうすこしだけ続ける。

 

 で、それがベトナム戦争だったら、たとえばスウェーデンのパルメ首相やバートランド・ラッセルやサルトルや、次から次へと、きわめて重大な重い反戦メッセージを発する。パルメは1968年の教育相時代にはベトナム反戦デモにも参加している。われわれはそれで勇気づけられてきた。それが、今回は皆無に等しい。もちろん、チョムスキーとか.... (坂本 : 数えるほどしかいない) 数えるほどだし、発言の強さからいっても、かつてとはくらべものにならない。それがショックだったんです。

 世界中にね、いわば同志というのか、ぼくも気が弱いから同じ発想の人間を一生懸命で探すわけです。いまでもさがしている。(坂本 : ほとんどいないんですよ) いないですね。で、ぼくは怒り心頭に発して原稿を書いたり喋ったりする。それがどんどん浮いていくわけですよ。気がついたら、誰もまわりにいない。いつの間にかものすごい座標軸が変わってる。いつの間にそんなになっちゃったんだと思う。

 

 日本の言論というものはあからさまな権力の介入ではなくて、自主的に転向しちゃってます。責任主体がはっきりしないまま、自分で自分を抑圧するんです。まさに抵抗せずして安楽死しつつある。ヌエのような全体主義は相当深刻です。言説の世界で生きている人間が、誰も体を張ってないですね。ちょっとでも体を張らなきゃ、言葉はだめですよ。

 そうね。それと言説は身体を重ねた場合、必ず「死」に向かうと思うんですよ。三島由紀夫がそうだったようにね。吉本隆明がいってるでしょ。三島の自死で「思想は死んだな、無効だったな」って。彼は連合赤軍が浅間山荘事件で銃撃戦のすえ逮捕されたことについても「命がけの思想は死んだな」というのです。そのことについては、吉本さんだって関係がないわけじゃない。吉本さん自身「ぼくは戦中派ですが、まだ生き延びています。その理由は、うまくやったからです」(大状況論) と白状している。うまくやったやつらだけが、いまへらへらしゃべって空しく生きてるのですよ。けれども、いまという時代は、思想に自分の死を組み込むこと自体がむずかしい。権力の弾圧もないのに、思想家が自主的に武装解除しているような状況ですからね。抵抗の暴力は組織しようにもきわめてむずかしい。だから、理屈が面白くても身体的訴求力はない。商品化はしますけどね。つまり、表現者が無意識に暴力を否定しちゃってしまっている。表現者が完全に暴力や死を否定したら、表現なんて干からびた海牛みたいなものにしかならない。

 いまは、国家と暴力の問題について深く魅力のある表現をできる人が死に絶えたともいえるのではないでしょうか。そんななかで、突如 9.11が起きたのです。ことの本質が善かれ悪しかれ、自己身体を破砕してまで何かを表現しようとするテロリストがね。当方が周章狼狽するのは当然です。で、死ぬ気で表現しようとする者に対し、死ぬ気どころか怪我するのも怖がっているようなオヤジどもが何をいったって無効だなってぼくは思っているんです。論理が面白かろうが正しかろうが無効なんです。だって、このテーマは暴力が正しいかどうかを超えているわけですし、テロ反対なんて犬でもいえるのです。それに、犬がテロ反対をいおうが、人がそういおうが、テロは確実にまた起きるはずです。

 

 ある枠で、いままでのロー・アンド・オーダーみたいな枠のなかで国民国家というものを信用して、まがりなりにも司法制度というものをぼくらが前提としつつ話すことは結構なんだけれども、じつはその根幹をブッシュや小泉たちは平気で破っちゃってる。憲法もへちまもない。ぼくとしてはそれを認めたら、いままでまがりなりにも世界とつきあってきた思想というほどのこともないけれど、生きる構えのようなものが成り立たなくなります。そうだとしたら、そこにぼくらが対抗する言説というか、ぼくらの主張はもっとリアルでなければいかんと、じつは思ってるんです。

 そうしたらぼくらの言説は、古い言葉でいえばもっとちゃんとした戦闘性を持たなきゃいけない。あるいは、もっとリアリティーを持たなければいかんと思う。そうか、そんな国家テロというものがいくらでも許される、一国家の大統領に暗殺権は許されている、だとしたら刑事犯なんて規定はありえないじゃないかという切り返しも、どこからかあってもしかるべきだと思うんです。それをみんな押さえ込んでいると思うんですが、それは違うという気がする。

 

 毎日、毎日、ぼくらのこの世界はテロリストを養成してる。自爆テロ志願者を生み、育てているみたいなものでしょう。ブッシュたちがテロ概念を無限に拡大し、国家暴力を発動すればするほど、彼らが根絶したいと夢想するものが育ち、増殖する。対抗的な思索と想像力はそこから出発すべきだとぼくは思います。そして、それは国家的な呪縛から自由であるべきです。ただ、国家的呪縛から限りなく自由であるためには、相当のことを覚悟せさるをえない時期にきているなと思います。今後は、しっかりと話したり表現したりすることが肉体的な痛みとか、理不尽な目にあうということを、ある程度考慮に入れざるをえないと思いますね。

 

 ぼくは若い人たちに期待したいのです。これまでとまったく違う発想があっていい。シアトルやジェノヴァでデモをした若者のなかには資本主義反対を叫ぶ人もいましたが、唖然とするほど大きすぎるスローガンですね。でもぼくにはそれが新鮮に聞こえます。たぶん、彼らはマルクス主義者じゃない。それが面白いと思います。

 

 私は三島由紀夫は卓越した文章家だと思うが、かれの小説は綺麗な色紙で飾った空虚な箱のようなものだと思っている。だがかれの死に様は、肯定はしないけれど、何か揺さぶる力を持って迫ってくる。あるいは野党の代議士を刺殺して獄中で自死した、ほの冥い右翼の少年の想念にもどこか惹かれるものがある。誤解を恐れずに言えば、いま、一人の少年(話題の17歳がいい)が自爆テロで小泉首相か閣僚の誰かを殺傷したら、それはひどく時代錯誤で原始的な行為故に、逆にひどく新鮮な事件であるだろうと思う。あるいはかの麻原ショーコーが突如法廷で口を開き、厳かに、おれは確かにじぶんの理想のために多くの人々を殺戮したが、ではあの「正義」を唱えるブッシュのアメリカはどうなのだ、おれを裁くなら奴もおなじ土俵で裁け、と主張し出したらさぞや面白かろうにと夢想する。

 

坂本------そう思います。人類の歴史なんていうおおげさなことではなく、ついこの50年ぐらいのことを考えるだけでも、死者の数もはっきりしない。誰が死んだかも分からないという人間が、何千万人もいるわけですね。この10年でいっても、イラクで何人死んだかも分からないし、誰も調べようともしない。百万人といわれ、その半分の50万人が子供だといわれている。それも明確な数字ではない。あるいはレバノンでも、イスラエルが侵攻して何万人かが殺されたということです。誰も調べようがない。死の重み、あるいは生の軽さということかもしれないけれども、湾岸戦争のときもそうでした。25万人のイラク兵が死んだとかいわれているけれども、誰も埋葬もしてないでしょう。焼けてなくなってしまって砂漠に埋もれてしまった。
 アメリカのほうは、湾岸戦争で70人ぐらい死んだのでしたか。大統領やジェシー・ジャクソンまで葬式に行く。この非対称というか不公平というか、それにぼくはすごく傷ついたんです。それで、イラクの父親、母親が埋葬もされない自分たちの息子の骨を探して砂漠をさまよって歩くという曲を作ったんです。誰も弔わないから、せめてぼくぐらいが弔いたいと思って。ずうっとそういうことが続いているわけですね。一体どうしたらいいのか....

辺見------その考え、ぼくは好きですね。非対称の、話にならないほど不利な側に立って個人的にものを考える。それが好きですね。

 

 私は、いまやこの世のどこにも存在しない、ニューヨークの高層ビルに旅客機を突っ込ませたあのテロリスト犯たちのことを考える。「表現者が完全に暴力や死を否定したら、表現なんて干からびた海牛みたいなものにしかならない」という辺見氏のことばに、私は深く同意する。

 

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 以前は、そんな価値などあるだろうか、死んじまったらお終いだぜ、と冷ややかな目で眺めていた。ベトナム反戦を唱えて抗議の焼身自殺する僧侶や、爆弾を身体にまきつけて自爆するテロリストたちのことだ。あるいは憲法改正を主張して割腹自殺する哀れな作家のことだ。だが世界があからさまに歪んでいくこの状況にあって、そんな秘めたる死の決意、辺見庸の表現を借りれば「思想に自分の死を組み込むこと」に、もっと正面から向き合うべきではないかと私は考え始めている。そこまで己を追いつめて考えるべきではないか。自殺をするとか馬鹿げたことではなく、言ってみるならば、世界のありように向き合いながら己の死の深度を見据えるといった意味において。

 

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 昨夜はたまたまつけたテレビ、ニュース・ステーションの特集で、アフガンで除雪作業などをしているスウェーデンのボランティア・グループの活動を見た。みな自主的に参加を決めた一般の市民で、建築作業員やタクシーの運転手や、なかには失業中の者までいる。スウェーデンは今回の一連の空爆には加わらず、かれらを国が公的な援助隊として送り出す。カネや軍艦や兵を送って得意げになっているこの国とは大違いだ。参加した一人の若者が言う。「おれたちはごくふつうの人間だ。そしてここにいることは自分にとってパーフェクトだ」と。テレビに見入っている私につれあいが、どこまで本気か知らないが「○○さん。もしアフガニスタンに行きたいなら、行って来てもいいよ。私は紫乃さんと二人で待っているから」と言う。あるいは、もし自分たちに子供がいなかったら夫婦でこんな活動に加わりたいものだ、と言う。私にもし医療や土木等の何らかの技術があって、それを個人的にアフガニスタンで役立てることができたなら、私はそのことによって、逆にアフガニスタンの人々によって救われるだろう、と思う。たとえ地雷を踏んだとしても、私はこの憂鬱な気持ちから救われるだろうと思う。ディランの曲にこんな歌詞があった。You can't walk the streets in a war きみは戦争のただ中の通りを歩けやしない (Driftin' Too Far From Shore. 1986)

 昨日の朝日新聞の夕刊にスーザン・ソンタグというアメリカの作家のインタビュー記事が載っていた。しばらく前、おなじ朝日紙上で大江健三郎と往復書簡を交わしていた。彼女は言う。「アフガンの民間人に犠牲が出たことは非常に残念だが、アメリカ人はアルカイダ本部を破壊するために軍事行動をおこす権利があった。その付随的恩恵として、タリバーン政権が転覆したのはよかった。おそらく世界最悪の政府だったからだ」 この愚かしいほどの傲慢。では、「誤爆」によって頭をかち割られた赤ん坊や、空爆の音で気が触れた老人や、クラスター爆弾の残滓で片足を吹き飛ばされた少年や、木の皮を食べ続けて栄養失調で死んでいくこどもたちは、いったいどうなるのか。それが彼女の言う「物事の複雑な様相を示す作家の仕事」なのか。可笑しくてヘソで茶が沸くぜ。こんな基本的な想像力の欠如した発言が、世界の知性などといわれる人たちのものなのかと思うと、私はほんとうに暗澹とした気持ちになる。辺見庸や坂本龍一が語っていた「知性の敗北 / 言説の敗北」というものを、失望と不安のなかで実感する。

 

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 いま、物語なんか何も面白くない。80年代は10年かけて大きな物語を徹底的に嘲笑し、否定しましたしね。ポストモダンは「反物語」だったんだと思います。それと、徹底した「反身体」だったでしょう。連中は体臭さえ嫌がったじゃないですか。反物語も反身体も、新世紀まで続いている流れです。ぼくはね、それに風穴をあけたのが、9・11なんだと思っている。湾岸戦争というのが徹底して人間身体を隠蔽し消去したハイテク映像として記憶するほかないのに対し、9・11は濃い体臭を帯びた身体と大きな物語とローテクが反身体と反物語とハイテクをいっとき圧倒してしまったんですから。表現者が激しく動揺するのは当然ですね。(*1)

 

 あのニューヨークでの惨劇に対する、辺見庸のこのような直観は鋭く、私には見事に的を射ているように思われる。あの巨大な摩天楼への激突は世界に対する激しいルサンチマンの表現であり、そこには己の身体がばらばらに砕け散ることさえ厭わなかった表現者たちがいたということだ。

 偶然、テレビであのリアル・タイムな画像を目の当たりにしたとき、私は正直に告白するが、ひそかに胸の内で「やったぞ」といった小さな快哉をたしかに叫んでいた。さらに不謹慎を承知で言うなら、あの神戸の地震で横倒しになった高速道路の映像をテレビで見たときも、それに近い感覚で胸が騒いだ。大阪の西成・愛隣地区のまるでパレスチナの光景のような暴動が写されたときもそうだった。

 私はおそらく破壊が好きだ。いやもっと正確に言うならば、でたらめのまま平気で紳士ぶった顔をしている世界よりも、露わになった裂け目からその耐え難い悪臭を放つ膿が噴出する世界のほうが、いっそ良い。

 

 テロリズムとは、こちら側の条理と感傷を遠く超えて存在する、彼方の条理なのであり、崇高なる確信でもあり、ときには、究極の愛ですらある。こちら側の生活圏で、テロルは狂気であり、いかなる理由にせよ、正当化されてはならない、というのは、べつにまちがってはいないけれど、あまりに容易すぎて、ほとんど意味をなさない。そのようにいおうがいうまいが、米国による覇権的な一極支配がつづくかぎり、また、南北間の格差が開けば開くほど、テロルが増えていくのは火を見るよりも明らかなのだ。

 世界は、じつは、そのことに深く傷ついたといっていい。抜群の財力とフィクション構成力をもつ者たちの手になる歴史的スペクタクル映像も、学者らの示す世界観も、革命運動の従来型の方法も、あの実際に立ち上げられたスペクタクルに、すべて突き抜けられてしまい、いまは寂(せき)として声なし、というありさまなのである。あらゆる誤解を覚悟していうなら、私はそのことに、内心、快哉を叫んだのである。(*2)

 

 その破壊の衝動において、私は心情的には、あのテロリスト犯たちに限りなく近いメンタリティを所有している、とあるいは言えるかも知れない。その手段の違いこそあれ、私の撃ちたいものはかれらと似ている。言ってみれば、人間の歴史における「勝者」の価値観、それも暴力的な「勝者」の価値観。それらはいまや私たちの周囲に息苦しいばかりに満ちあふれている。そして私たちはその上にあぐらをかいてきた。しかし一方で、これはもっと認めたくないことだが、あのブッシュに代表される事物を単純に分類し定義づけそれらを暴力的に支配したいという冥(くら)い欲望も、私のなかにたしかに存在している。

 

 それは、各分野の表現が政治的になれという意味ではまったくない。メッセージを持てということでは全然ない。そんなことは関係ない。そうじゃなくて、現実にある、このでたらめさに対してどれだけ自分たちの表現行為が対抗的でありうるのか、あるいは国家的なものに吸収されないでいられるか、ということです。そのことを真剣に考えなくてはならないんだと思うんです。

 じゃあ、そうではないものは何かといえば、単に字面が反国家的だとかいうことではないような気がするんです。もっと人というものの古井戸のように謎めいたところとか、国家という枠組みのなかにどうしても納まらない人間の無限の欲望や表現欲、行動欲などを認めたものでないといけない。国家とどこまでもなじまないもの、いかなる国家とも和解しないもの、それをどれほど本気で言葉として紡いでいけるのか。それはけっして言説が政治化するという意味ではない。むしろ逆だと思ってるんです。(*3)

 

辺見庸 (*1,3)「反定義」(朝日新聞社) (*2)「単独発言」(角川書店)

 

 つまり、私はブッシュでもあり、テロリスト犯でもある。私のなかにかれらは存在する。他を批判するのは容易い。だが、自分自身の内なる〈他者〉を見据えること。かつて拙い差別に対する論考の最後にも記したが、そのように、アフガニスタンの問題とはけっして政治的なものではなく、それぞれ個人の極めて内面的な自問として語られなくてはならないものだと私は考えている。浅間山荘のあの陰惨な殺戮も、そのような視点の欠如から起こったのだと思う。私のなかの古井戸を掘り下げていくと、暗い闇のなかに、無数のうめき声をあげている顔たちが浮かびあがってくる。

 

*

 

 相変わらず辺見庸を読み続けている。先日、整形外科でのこどものレントゲンに同行した際に大阪で買ってきた「単独発言 99年の反動からアフガン報復戦争まで(角川書店 @1,100) である。個人情報保護法、ガイドライン関連法、メディアの機能不全、ほんとうにこの国はこのごろ俄にきな臭くなってきている。国家権力だけでなく、メディアの側も世論も右傾化・反動化している。微妙なニュアンスやロジックは切り捨てられ、「感動した」なぞといった低脳単純な言葉が受けたりする。その思考停止の先に待ちかまえているのは、たとえば徴兵制だろうが、当の若者たちは携帯電話に夢中だ。右傾化・反動化しているのは何もこの国だけではない。いまや世界中のあちこちで火種が噴き出し、少数の特権者たちは紳士の仮面をかなぐり捨て、さらに暴力的にそれらを制圧しようと躍起になっている。そもそも資本主義というのが人間の欲望を無制限に肯定するものであるなら、現在の修羅的状況は自明なことであったのかも知れない。世界の「自由」とは、繰り返すが歴史における勝者の「自由」であり、それはいつも暴力によって支えられてきた。「自由」が理性によって支えられたものでないことは、アフガニスタンに爆弾を降り注いでいるアメリカや、パレスチナに対する強圧的なイスラエルの例を見ても明らかだ。この世を支配しているシステムはかれら強者がもたらしたものであり、私はときどき、これは叶うことのない夢想だけれども、アイヌやモンゴルの遊牧民や極北のイヌイットたちのような「歴史的な敗者」たちの育んでいたシステムがもし世界中に多様な文様で広がっていたとしたら、世界はあるいはこのような暗澹たる状況にならなかったのではないかと思ったりするのだ。かれらは敗れるべくして敗れたのであり、所詮投石、あるいは棟方志功がその版画に描いた“花矢”などは銃やミサイルには敵わない。それはこの世界では紛うかたなき自明のことなのであり、だからこそ私はその自明を憎む。

 

 国家とはいったい何だろうか、と辺見庸は自問する。

 

 国家は、じつのところ、外在せず、われわれがわれわの内面に棲まわせているなにかなのではないか。それは、M・フーコーのいう「国家というものに向かわざるをえないような巨大な渇望」とか「国家への欲望」とかいう、無意識の欲動に関係があるかもしれない。ともあれ、われわれは、それぞれの胸底の暗がりに「内面の国家」をもち、それを、行政機関や司法や議会や諸々の公的暴力装置に投象しているのではないか。つまり、政府と国家は以て非なる二つのものであって、前者は実体、後者は非在の観念なのだが、たがいが補完しあって、海市のように彼方に揺らめく国家像を立ち上げ、人の眼をだますのである。そのような作業仮説もあっていいと私は思う。

 

 エンゲルスは前述の序文(ドイツ版『フランスにおける内乱』第三版) のなかで書いている。「もっともよい場合でも、国家はひとつのわざわいである」と。内面の国家についても、外在する国家についても、これ以上正確な表現はない。にもかかわらず、わざわいとしての国家は存続する。ならば、私は、せめて、私のなかの国家を、時間をかけて死滅させてやろうと思う。

(単独発言・国家について)

 

 「私のなかの国家を死滅させてやろう」 私は、かれのこのアプローチに同意する。何故ならたしかに、ある部分において、私は世界の投影であり、世界は私の投影である。この眼をそむけたくなるような世界は、私の似姿でもあるのだ。すべてはそこから始めなければならず、それを無いものとした人道援助もボランティアも環境保護も反戦も、私は成り立たないと思う。「ならば、せめて、私のなかの国家を、時間をかけて死滅させてやろう」

 

 

 

■ 9.11テロ 関連リンク

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宮内勝典・海亀通信 > 海亀日記 > 第12章

作家・小田実のホームページ > アメリカ合州国の「報復戦争」に対する声明

藤原新也オフィシャル・サイト > Talk & Diary > 2001.9.15 文明の火葬

“突破者”宮崎学のホームページ > 事態は信じられんぐらいアホらしい方向に暴走しとるな

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