■こどもの脂肪腫を介在した二分脊椎症・手術と入院の記録 もどる

 

 

 長女は9ヶ月のときに「脂肪腫を介在した二分脊椎症」と診断され、脊髄の脂肪腫を切除する手術を受け、現在もリハビリを続けている。おなじ病気を持ったこどもの親御さんのささやかな参考になったらと思い、ここでは「ゴム消し」より、その手術前後の関連する記述(約2ヶ月間)をまとめた。

 

 

 

 

 土曜。赤ん坊を連れてつれあいと、朝から某医大病院へ行って来た。赤ん坊の便秘を診てもらいに行った近所の小児科の病院でたまたま背中の疵の話になり、医大病院に最近小児外科ができたから一度見て貰った方がいい、と紹介状を書いてくれたのである。で、医大病院の医師の診断はこれまで私たちが聞いていた「毛巣洞(もうそうとう)」でなく、「仙骨腫瘤」あるいは「二分脊椎」というものであった。これは要するに背骨からずっと下がった腰骨のあたりの仙骨の、本来脊髄の神経を包む管が胎児期の未分化のためにきちんとした管状にならず、酷い場合は神経が外へはみ出したり、あるいは骨髄液が浸み出したりして何らかの障害をもたらす、そのような状態であるらしい。医師いわく「まあ、この子の場合はあまり心配するような酷いものではなく、せいぜい力を入れたときに軽い失禁をする程度のものだろう」とのことだが、とりあえずはMRIで検査をしてみて処置等はそれから、ということだった。それで言われるままMRIの予約を月末にして帰った来たのだが、これまで赤ん坊が生まれた県立病院、そして念のため先月に行った天理病院の医者はそれぞれ「毛巣洞か、それに類似した毛穴の病気」であり、「穴も脊髄までは達していないようだから、それほど心配するものでない。後はむしろ見かけの問題だけ」といった診断であった。ちなみに毛巣洞というのは、やはり胎児期に骨と皮膚の分化がうまくいかず、骨が皮膚をひきずるような形で空洞を形成するもので、この空洞が脊髄まで達しているとのっぴきならないが、それ以外はあまり心配はないというものであった。家へ帰って試みにインターネットで「仙骨腫瘤」「二分脊椎」を検索してみると、出てくる病例やレポートは「下半身麻痺」や「骨髄液の循環不全による脳神経障害」「水頭症」などといったものばかりで、私はいつの間にかいらいらしていたらしい、「ショックを受けているのは○○さんだけじゃないんだからね」とつれあいに涙声で言われ、はっと気がついた。医師の診断は二つに分かれて、私たち素人にはどちらが正確なのか判断する能力も知識もない。それとMRIの問題がある。これは従来のX線などの放射線と違って磁力によって画像を得るという最新の医療機械だが、県立病院の医師は毛巣洞の診断のために幼い乳児にMRIを使うことに関してはあまり気が進まないという口振りであった。一般的には人体には無害とされているが、一定の磁場に長時間身体を晒すことが果たしてどれだけ生物に影響を与えるかまだデータがないだけで、実際胎児を含む妊婦には現在のところ控えられているという事実がある。このごろ盛んに言われている携帯電話やパソコン等が発生する電磁波の危険と同種のもので、つまりは食品添加物や農薬がどの程度危険と思っているかという「認識の違い」なのだろう、とも思う。そして私もつれあいも、電磁波についてはあまり好ましくない認識を持っているのである。なんにせよ、自然でないものが微妙な生物のシステムに対してやはり某かの影響を与えないわけはあり得ない。つまりレントゲンも含めて、こうしたものは一種の「必要悪」だと思うのだ。リスクを伴うわけだけれど、そのリスクを上回る事態の解決のためには致し方ない、という種類の。そして今回のわが家の赤ん坊の場合、そのリスクの計算をするための医師の示したデータが相反するということがそもそも混乱の原因なのである。医大病院の医師の言う「仙骨腫瘤」「二分脊椎」であるなら早期のMRIによる診断は必要であるし、あまり心配のいらない毛巣洞であるならわざわざリスクを負う必要がない。というわけで昨日は夜になってからも、つれあいの実家から親しい医者がこう言ってたとか、私の実家から友達の妹さんの看護婦さんの意見を聞いた・知り合いの(共産党の)市議に病院関係を当たって貰うよう依頼したとか、私の妹からは「お母さんからすぐ電話しろって留守電が入っててかけてもずっと話し中だし、逆に千葉のおじさんの家から紫乃ちゃんに何があったのかって電話がかかってくるし、いったい何があったの?」と電話がかかってきたりで、まあ夜遅くまで何かとごたごたしていたのであった。

  

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 午後からつれあいと赤ん坊を連れて、出生児から診て貰っている県立病院の皮膚科へ相談に行く。担当の医師いわく、実は初見では自分も「二分脊椎」を疑ったので「二分脊椎」が専門である整形外科へ回したのだが、「異常なし」ということであったため、消去法的にあとは「毛巣洞」の可能性しかないだろうと診断を下した、と。ところが当時のカルテを再確認したところ、看護婦に案内されて赤ん坊を連れて行ったつれあいが「この背中の疵のことで」と説明したにもかかわらず、カルテに残っている検査エコーは新生児なら誰もがチェックされる股関節の映像のみで、「二分脊椎」についての検査・確認については何も記されていなかった。「何も異常はないですね」との整形外科の言葉をそのままつれあいも皮膚科の医師に伝え、皮膚科の医師はそれを「二分脊椎の可能性はなし」と受け取ったのである。つまりはじめに疑われた「二分脊椎」はまともな検査もされないまま、そのままうやむやにされたと言って良い。私たちは「二分脊椎」という言葉さえ知らされないまま、病院の指示通りに小児科-皮膚科-整形外科と赤ん坊を連れて回り、結果として「毛巣洞」であるという診断のみを知らされた。皮膚科から整形外科への連絡が不備であったのか、あるいは整形外科の不手際で「二分脊椎の疑い」が見過ごされなきものにされたのか。まったくこれでは私たちとしては承服しかねる。木曜に当の整形外科へ行って理由を訊くつもりだが、説明及びその対応如何によってはこれ以上の県立病院での診察の中断も考えている。また場合によっては病院名と整形外科の担当医師の実名もここで公表するつもりだ。つれあいは不安げな顔で「だからといって、二分脊椎の可能性が高くなったわけじゃないよね」と私に言う。「振り出しに戻ったということだよ」と私は答えた。気休めにはなっていないだろうが、そう言うより他にないではないか。

 

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 赤ん坊がはじめて熱を出した。はじめは37度4分の微熱で、しばらくはぐったり死んだような感じで、夜には38度くらいまで熱が上がり、咳と鼻水がひどくなった。ひきつけがあるかも知れないから注意するようにと医者に言われたつれあいは、昨夜はろくに眠らずに、一時間おきに熱を測ったり温度調節をしたりしていたらしい。幸いまだ微熱はあるものの今日あたりから赤ん坊も次第に元気になってきたのだが、こんどはつれあいの方が風邪を貰ってしまったようだ。それにしてもふだんは疲れ知らずの元気なやんちゃ娘が、母親の腕の中で死んだ小動物のようにうずくまっている姿はなんともいたわしい。

 

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 「二分脊椎」のことでやおら周辺が慌ただしくなってきた。私の実家が知り合いを通じて東京の聖路加病院の医師に聞いてもらった話では「二分脊椎なら障害が出ない早いうちに手術をした方がよい。障害が出てからでは何らかの後遺症が残る可能性が高くなる」とのこと。つれあいは「もしそれが本当なら、初期の検査を怠った県立病院は絶対に許せない」と語気を強めて言う。家事の合間に、インターネットの検索で二分脊椎を扱う病院などを探す。日本二分脊椎協会のホームページというサイトも見つけたのだが、現実的に支障があるのだろう、特定の病院・医師の紹介は避けられている。彼女は良い病院があるなら東京でもどこでもいい、お金がかかってもいい、この子の一生のことだからなるべく悔いのない治療を受けさせてやりたい、と言う。彼女の実家はほぼ彼女と同意見だが、私の実家では「医療レベルはそれほど違わないだろうから、無理して遠くの病院までかからなくてもよいのでは..」と言う。私は何やらいろいろありすぎて、頭が少々混濁としている。

 

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 火曜、県立病院の整形外科へ行く。前述した件はやはり皮膚科と整形外科間での連絡不備らしい。メンドー臭くなって、それ以上は追求しないでおく。どらにしろ医者や病院に対する信頼は必要だが、100%信頼してはいけない、ということだ。医者の話では、県立病院には脊椎の専門家はいない、またおなじ外科でもやはり小児外科の方が小児医療には長けているから、心配ならそちらで診て貰った方がよい、というので結局、某医大でMRIを撮ってもらうことにした。何にしろ、ここまできたら白黒がはっきりしないと先へ進まない。

 水曜、いつもの県立病院の皮膚科の定期検診へ。皮膚科の定期検診はとりあえずこれで了。

 木曜、医大でMRIの検査。シロップの麻酔剤で眠らされ、検査台に幾重ものベルトで固定され、約40分。「やっぱり二分脊椎ですかね...」とそれとなく訊くが、案の定「担当の医師に聞いてください」の紋切り型の返事しか返ってこない。検査の間、つれあいと二人してドア越しに見えるモニター画像を懸命に追っていたのだが、素人には何も分からない。結果は土曜。

 

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 今日も暑い一日だった。結果はやはり、二分脊椎。MRIで撮った輪切りの画像を見ながら説明を聞く。脂肪腫が脊髄まで入り込んで神経を圧迫している。いまはまだ悪い状態ではないが、成長にともなって歩行困難等の障害を引き起こす可能性があるので、やはり手術が必要。手術は脂肪腫を取り除いて、開いた骨の部分をなんらかの手段で塞ぐ。脂肪腫は悪性のものではないが、場所が場所だけに易しい手術でもない。術後のリハビリなどは必要ない。後遺症は軽い失禁症状くらいがあるかも知れない。手術を含めた今後の予定は、月曜に脳神経科の診断を受けてから。雨の予報だったので今日はベビーカーでなく、紫乃さんを抱いていった。

 

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 朝から某医大の脳神経外科へ行く。前回の小児外科より見立てはさらに悪くなった。医者は赤ん坊の下肢を検診して、左足の動きが少し鈍く足首の骨が硬い、また、微妙なことだが足の変形が始まっているようだ、と言う。これらのものは症状が出てしまってからの完治は難しく(つまり、歩行障害の可能性もある、ということだ)、おそらく排尿排便も自分で制御することができなくなるだろう。今後、整形外科で変形を矯正するための装具をつけたり、術後は排尿排便の訓練や長いスタンスでのリハビリが必要となる。手術自体は難しいものではないが、脂肪腫が神経を巻き込んでいるため、電気信号を流して神経と脂肪を肉眼で識別しながら取り除いていくことになる。そのために手術は一度で終わらない場合もある。(同時にまた、脂肪腫によって固着されている神経が成長するに従って引っ張られるために、成長が止まるまでの年齢に応じたケアも必要になるかも知れない) そして手術に際して今後さらにCTによるスキャン、整形外科での診断、水頭症を合併していないかどうかの頭部の検査などをするために1〜2週間程度の検査入院が必要で、これは空きベッドが出来次第、病院より連絡がくることになった。

 同時にあるところより、東北の某医大の脳神経外科が二分脊椎の治療に秀でているという情報を耳にして、電話での問い合わせやわずかなつてを使い現在調べている。また大阪の(二分脊椎を含む)小児の整肢治療を主とした某病院をインターネットの検索で見つけ、今日つれあいが電話で聞いたところ、そこの二分脊椎担当の医師が「二分脊椎を守る会」のような活動をしていて様々な情報が集まっているので一度話を聞きに来たらよいと電話に出た看護婦に言われたので、とりあえず明日、朝から行って来ることになった。今日の医大で撮ったMRIの画像をポジフィルムとして別に出力して貰ったので、それも持参して見てもらうつもり。

 とにかく毎日、めまぐるしく、重苦しい時間の連続である。数日前からわが家へ泊まりに来ているつれあいの両親と共に朝からあちこちの病院へ行き、夜は両家双方の拙い人脈や電話やインターネットやその日の診察結果から得た情報をまとめて、就寝時間まで素人ばかり雁首揃えて侃々諤々の議論をしている。関東にいる私の母は私の妹への電話口で柄にもなく涙声になっていたといい、つれあいの両親はときおり凍りついたような深刻な表情を見せ、つれあいは無理に陽気に振る舞い、私は私でこれが運命ならば仕方ないが、せめて出来るだけの精一杯のことをしてやりたい、と考えている。が、ひとり何も知らず、じいちゃんばあちゃんに囲まれていつも以上に無邪気にはしゃぎ回っている赤ん坊が、誰よりいちばん不憫に思えてしまって仕方ない。

 

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参考・「のぶの二分脊椎症に関するホームページ」より抜粋させて頂いた

 

 二分脊椎症とは、生まれたときに脊椎に生じる病気の一種です。これになるといろいろな部位に‘障害’が生じ、多くの方は身体障害者になります。

 人の体は脳と、脳からの命令を伝える神経組織によって動いていますが、そのメインの神経の束を脊髄をいい、脊柱(脊椎骨)の中に納まっています。

 二分脊椎と言うのは、その脊椎骨が先天的に形成不全となり、本来ならば脊椎の管の中にあるべき脊髄が脊椎の外に出て癒着や損傷しているために起こる様々な神経障害の状態を言います。主に仙椎、腰椎に発生しますが、稀に胸椎、頚椎にも生じ、その発生部位から下の運動機能と知覚が麻痺し、内臓の機能にも大きく影響を及ぼします。

 出生後速やかに脳神経外科医か小児外科医によって手術をします。二分脊椎の半数以上に水頭症が合併します。脳や脊髄は脳脊髄液が満たされた骨の中にあるのですが、この脳脊髄液の循環器機能が阻害されて脳圧が上がってしまうと脳神経に重大な障害を引き起こすため、脳圧を一定に保てる様に「シャント」という管で脳室と心臓または腹腔を短絡し、脳脊髄液を逃がす手術をします。

 二分脊椎に因る運動機能障害は多岐にわたり、特に下肢の麻痺や変形、膀胱・直腸障害に因る排泄障害が見られ、その為、二分脊椎の治療、医療管理には脳神経外科、小児外科、泌尿器科、整形外科、リハビリテーション科を中心に眼科、皮膚科、内科等を含め、トータルなケアが必要とされています。また、様々な障害の程度があり、各々に合わせた適切な医療、教育、就職、結婚の問題までケースワークが求められています。

 

 

 

 朝から大阪・中央区の法円坂にある大手前整肢学園へ行く。大阪府が赤十字に委託して設立した下肢に障害をもつ小児のためのセンターで、見ると院内学級のような施設も隣接している。玄関口で5,6歳児らしい男の子が膝立ちの姿勢でぺったんと座っている。母親らしい女性が入ってくると、嬉しそうな顔をして女性の後をカエルのように四つん這いのまま跳ねてついていく。靴箱の前にもう少し小さな女の子も立っているが、よく見るとその両足の形は幾分奇妙に歪んでいる。しばらく待たされてから、尿の検査と、レントゲン写真、エコーなどを撮られた後、泌尿器科の先生の前に通される。泌尿器についていえば、いまのところ顕著な異常は見当たらないと言う。二分脊椎の場合、失禁などはまだ良い方で、重いケースになると尿を排泄することができずに腎不全を起こし命を落とす危険もある、と。手術後にもう一度診てもらい、場合によっては奈良県内の二分脊椎の子供の処置に長けた医師を紹介してくれると言う。短くはない話の最後に、手術をする病院を迷っているのであれば、と整肢学園の真向かいにある国立大阪病院に二分脊椎を専門にやってきた知り合いの医師がいるから相談してみたらどうか、とその場で電話で連絡を取り、紹介状をしたためてくれた。婦長さんが寄ってきて、ふだんは滅多に紹介状なんて書かない先生なんですよ、とそっと耳打ちをする。

 指定された午前中の受付がぎりぎりだったので、私だけ先に走って初診の手続きを済ませる。建物は新しくはないが、さすがに国立だけあって広く堂々としている。あとでつれあいの父が、作家の司馬遼太郎がここで亡くなったという記念のプレートを見つけて教えてくれた。脳神経外科のY先生は50歳くらいの女医さんである。はじめに妊娠中と出生時の状況を詳しく聞き、両足の太さをメジャーで測る。右足より左足の方が2センチ細い。ゴムの金槌のようなもので足のあちこちを叩く。次に紫乃さんを腹這いにして遊ばせ、両足の動きをしばらく観察する。持参したMRIの画像を指しながら、説明してくれた。

 二分脊椎を介在した脂肪腫脊椎、というのが正式な病名である。脂肪腫自体は良性のものであるが、この脂肪腫が脊椎の神経を巻き込んだ形で癒着しているため、成長するに従って神経を引っ張り様々な障害を引き起こすことになる。この子の月齢ではそうした成長過程にはいまだ至らないので、現在出ている、とくに左足の膝下部分の神経麻痺による運動障害などの症状は、形成時に脂肪腫が神経の発達を阻害したためと思われ、先天的なものである。故に発見がもっと早かったとしても避けられない類のものであったし、現在は分からないが今後このような異常がさらに見いだされる可能性もありうる。これらはリハビリによる回復の可能性もあるが、完治は望めない。この子の場合は、おそらく軽い歩行障害は避けられないと思われる。足に装具(補助具)を取り付けることにもなるかも知れない。また脂肪腫脊椎の場合、排尿排便の困難も同時に見受けられるケースが多い。排尿は失禁、排便は便秘の形で現れる。水頭症を併発した場合は知的障害などの脳神経への影響も出るが、一般に脂肪腫の場合は水頭症の併発は少なく、この子の場合も見たところたぶんないだろうと思う。つまり手術は、すでに発症している症状を治すものではなく、これ以上の症状を出さないための予防処置だと考えて欲しい。手術の時期は医者によっても様々な見解があり、個々のケースにもよるが、すでに症状が現れ始めている現状を見ると、私はもうすぐにでも処置をした方が良いと思う。

 某医大の医師が「手術自体はそう難しいものではない」と言っていたことを告げると、とんでもない、と頭を振った。肉眼で絡み合った神経と脂肪を判別しながら取り除いていくので、医師には細心の注意が要求されるし、通常7時間近くかかる大変難しい手術である。脂肪腫をあまり後追いしすぎても誤って神経を切断してしまう危険がある。そこまで進んで、ふと話の間合いが空く。背後で立って聞いていたつれあいの母が、“私に任せてください”と言ってくれやんのかね、とそっと私に耳打ちする。そんな空気を感じとったのだろうか、一瞬の沈黙の後、「もしこちらに任せてもらえるようでしたら、私としても精一杯やらせてもらうつもりです」とのY先生の言葉。これはあくまで、しろうとの直観のようなものである。私はなぜか、この先生ならきっと、と思った。経験に裏打ちされた真摯な姿勢を感じたのだ。つれあいと顔を見合わせて肯き、「では先生、お願いします」と言っていた。そう口にしたとたん、何か得体の知れない感情がぐいと喉元へこみ上げてきて、思わず噛みとどめた。それが悲しみなのか、祈りなのか、一抹の安堵であったのか、よく分からない。ただオネガイシマスという無音の言葉をもう二つほど、震える奥歯で噛みしめて、それは去った。

 入院予約の申し込みをした。目安は今月(7月)中で、手術の際のモニター担当を専門としている阪大の医師も呼ぶので、そのかねあいと空き部屋の状況を含めて手術日を決め、その一週間前より入院をしてもらい、手術日までに必要な諸々の検査を行う。脂肪腫はそのすべてではなく、障害を引き起こさない必要最低限を切断・除去し、最後にゴアテックス素材の薄い膜を被せて縫合する。元々の膜の切れ端が周囲に残っていればそこへ縫いつけるが、切れ端が残っておらず細胞に直接貼り付けるしかない場合は、稀に骨髄液が漏れる心配もある。術後の入院は順調にいって通常、約一月が必要。そのうち最初の二週間は、(脊椎の開口部を上にして)手術箇所の保護や骨髄液の液漏れを防ぐために、患者にはうつ伏せの姿勢を保持することが強制される。入院は基本的に完全看護なので付き添いは認められないが、子供の状況によっては手術日前後に特別に許されることもある。その辺りは婦長さんなどと相談して欲しい、とのこと。

 天王寺へ出て、駅ビルのうどん屋でやや遅い昼食を済ませ、近鉄百貨店でつれあいの両親に、入院時に着る紫乃さんの夏のパジャマを数枚買ってもらう。ディズニー関連の店先で“くまのプーさん”のぬいぐるみが目に入り、紫乃さんに買ってやろうと入っていったのだが、これも払いはお義父さんに押し切られてしまった。絵本を見ていても、この子はクマの出てくる場面がとくに好きなのだ。「アメリカ文化には触れさせないって言ってたのに」とつれあいがいじわるく私に言う。紫乃さんはプーさんの鼻を囓りながら、やがてベビー・カーの中で眠ってしまった。

 和歌山へ帰るつれあいの両親とホームで別れて、大和路快速に乗り込む。いつもの見慣れた景色が窓の外を流れていくのを漫然と眺めながらふと、この子はもうふつうの子供のように、野原を駆けまわったり、子羊のように無邪気に跳んだり跳ねたりすることはできないのだな、と思う。正直に言って、悲しかった。とめどなく悲しかった。心の奥にぶらさがった頭陀袋に無数の穴が空いて、そこから涙が噴き出すように溢れ出る。空っぽになってもまだ果てしなく流れ出ていく。そんな悲しみだった。だが、と思い直してみる。人には与えられなければ手に入れられないものが確かにある。私はこの子が産まれたときにそれを思った。ならばこの病気も、おなじように与えられた「意味のある何か」ではないのか。今日、整肢学園で見た子供たちの姿は、自分の子供がこのような病気を持って生まれてこなかったら、おそらく生涯出会うことのなかったろうまた別の世界の風景だ。紫乃さんもやがて成長するに従って、自分の身体が他の子供たちと少しだけ違うということに気づくことだろう。私は彼女が、それをきっかけに物事を深く考え、さまざまなことを感じ、さまざまな風景を見、学び、そしてそのことによって特に社会の弱い立場にいる人たちのことを考え、また他人の痛みが分かるような人間になってくれたらと願う。「欠損」ではなく、与えられたまた別の意味ある形なのだと教えてやりたい。そして親子でこれからずっと、その「財産」を共有していきたい。私は、そのように受け取りたい。

 

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 前の晩に彼女はこう言う。いまは気が張っていて、いろいろ忙しいし、悲しみにふけっている余裕もないわ。私はこれからこの子にずっと専念して、いろいろ頑張らなくちゃいけないんだもの。

 昼に彼女は言う。悲しくならないのは、気が張っているからじゃなくて、この子はきっとちゃんとふつうに歩けるようになる、何故かそんな気がするからなの。そう言うと見開いた両眼から涙があふれてきて、慌ててティッシュを引き抜く。

 そして夜に彼女は、まとわりついてきた子供の背をさすりながら言う。大丈夫、お母さんがきっと治してあげるよ。お母さんの神通力は、すごいんだぞ。

 

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 私の実家からの提言で、紫乃さんの入院中に大阪のウィークリー・マンションを一月ほど借りて身内で共同使用することにした。つれあいも病院での付き添いが認められるかどうか分からないし、関東からは私の母と妹がしばらく滞在し、それにつれあいの実家も和歌山からこまめに通うのも大変だから便利なときもあろう。なるべくなら病院まで歩いていけるくらいの距離がよい。現在インターネット検索などで調べているところだが、今年はUSJなどもあるから夏休みにはいると結構混むかも知れない。

 今日は夕方、つれあいが以前勤めていた派遣会社より、前の職場の博物館で欠員が出て一日だけ手伝ってもらえないだろうか、と電話があった。紫乃さんは見てるから行きたいんなら行ってきなよ、こっちは構わないよ、とそばで私は答え、結局彼女は受けることにした。少しは気分転換になっていいかも知れない。

 ここまできたら、早いところ病院から連絡が来て手術の日取りが決まって欲しい、と思う。一日でも早く処置をして欲しいというのもあるし、物事が進み出して自分たちがその忙しさに気を紛らせたいという気持ちもある。合間があくと、何だかいろんなことばかり考えてしまう。彼女は昨日あたりから紫乃さんを抱えて、立ち歩きの練習をしきりとさせている。医者の説明では左足首を動かす神経が麻痺しているために左足がよじれてきちんと着地しないのだが、それを矯正しながら歩ませ、少しづつ良くなってきたような気がする、と言う。

 昨夜はつれあいのリクエストで見たNHKの番組で、作家の瀬戸内寂聴が「神さま・仏様はその人が耐えられないような苦しみはけっして与えない」といったことを話していた。ああ、確か聖書にも同じような言葉があった、とぼんやりと思った。私だけのことなら、そう受け取りもしよう。どんな理不尽な苦しみでも甘受しよう。だがまだ何も分からず微笑んでいる無垢な赤子の身に科すには、あまりにも酷な仕業ではないか。ならば私のこの両足を切断してくれた方がずっと、よかった。

 

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 昨夜はこんな夢を見た。以前の葬儀関連の花屋の仕事に自分は戻っていて、数台の軽トラを連ねて下町の町工場のような敷地へ入っていく。煉瓦造りの雑然とした建物の地下へ入っていくと、まだ産まれて間もないような赤ん坊が裸のまま運ばれてきて、パイプベッドの上で大きなビニールの袋を被せられて窒息死させられる。自分たちはこの赤ん坊の葬式の仕事に来たのだと私は気づき、「なんてことをするんだ、やめろ!」と叫んだところで目が覚めた。夢の中の赤ん坊のように、私の中でも何かがひとつ死んでしまったように思ったのだった。かつては赤ん坊の無邪気な仕草を見てこちらもおなじくらいに無邪気な幸福を感じていただけであったが、いまは微笑みの中にも、痛みがある。

 これを読まれている、特につれあいの身内や知り合い関係のひとたちにこの場を借りてお願いしたいことがある。心配をしてわざわざ電話をかけてきてくれるのは有り難いことなのだが、そのときに彼女に病気に関する説明をあまりさせないで欲しい。それらはこの拙文を読んで済ませて欲しい。あちこちで同じような説明を、無理に陽気にふるまって話そうとしている彼女を見るのが忍びないのだ。病気に関する詳細なら私が承るので、どうかお願いします。

 日曜の今日は昼前につれあいが家の掃除をしている間、紫乃さんを連れてふたりで近くの小さな公園へ行って来た。水飲み場の蛇口をひねると、赤ん坊は差し出したちいさな手でその水を受け、自分の足に水滴をかけてはけらけらとしきりに笑っていた。往生際が悪いと言われるかも知れない。私はときどきいまも、すべては夢の中のことで、いつかこの夢は覚めるのではないかと思う。

 午後からは近くのサティへ三人で買い物に行き、つれあいは病院で使う500円のスリッパをひとつ買った。

 

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 赤ん坊の湿疹が少し目立ってきたので念のために、昼からつれあいが県立病院の皮膚科へ連れて行く。私は午前中にバイクで職安をまわって、昼過ぎに隣町の図書館で合流。セサミストリートの英語の歌やミッフィーなどの、紫乃さんのビデオ数本に、折り紙の本などを借りた。

 ところで今日は私の実家から、日本二分脊椎症協会から発行されている「二分脊椎症の手引き」という冊子が郵便で届いた。私の母親が世話になっている共産党の市議さんの奥さんがわざわざ取り寄せてくれたものだという。母親いわく「読んでると憂鬱になってくる」内容らしい。ともあれ、さまざまな人たちの有り難いご厚意に感謝、です。

 

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 入院及び手術の日程が決まった。入院は来週の17日(火)、手術はその翌週23日(月)。

 

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 うちのホームページでもうだいぶ以前からリンクもしているヒサアキさんのサイトがある。写真関係のサイトを辿っているうちに偶然見つけたのだが、アマチュアのカメラマンで長崎の定時制高校の教師をしているヒサアキさんには実は重度の障害者の娘さんがいて、その娘さんを撮った作品が土門拳文化賞を受賞した。しばらく前にヒサアキさんの愛読する哲学者ドゥルーズについての本を囓り読んだ。ご本人に確かめたことはないけれど、ドゥルーズのいう「差異」についての解説を読み私は、ヒサアキさんの中でドゥルーズと娘さんの存在は深く結びついているのだろうな、と漠然と思った。本の方は第2章の「高等数学」ではやくも躓きそのまま投げ出していたのたが、またそれを手に取り読み直してみた。たとえばこんなくだりだ。少し長いが引用したい。

 

 健常者と障害者は、身体において違う。違いはどこにあるのか。違いは、両者の間にある。差異が、両者の間にある。太郎には手がなくて、花子には手が二本あるとしよう。両者を比較すると、私たちは、どうしても太郎には手が「ない」と否定形で書いてしまう。そして太郎に欠如があって、太郎の側に間違いがあると語ってしまう。しかし現実はそのようになってはいない。現実には、太郎と花子の間に、手の数量の差異があるだけだ。0本と2本の差異としての2、2-0としての2があるだけだ。それなのに私たちは、肯定的な差異を、否定や欠如にすり替えてしまう。こんな思考習慣を捨てなければ、差異を肯定的に認識することはできない。健常者と障害者は、身体の内部においても違う。内蔵の機能に差異があるし、内蔵が産出する酵素の濃度に差異がある。ところが私たちは、一方を健康と評価し、他方を病気と評価する。一方を正常と、他方を異常と評価する。こんな思考習慣を捨てなければ、差異を科学的に認識することはできないし、健康と病気の差異、正常と異常の差異について、まともに考えることはできない。

 肌の色の違いがある。ところが人びとは、そこに対立や否定しか見ない。「一人は黒い(白い)。しかしもう一人は黒く(白く)ない」というわけだ。文化の違いがある。ところが人びとは、文化の差異は文化の間にあるのに、対立や否定を認知しては騒ぎ立て、類似や相違をあげつらっては悦に入る。これに対して、差異の哲学は、肌色の差異や文化の差異が、どこから出現するのかを探求する。そうしなければ、民族や文化について、まともに考えることはできない。

 

 そうしてドゥルーズは「生物学の知見によれば、ダウン症候群を発現する人間の染色体の中で、二十一番染色体に形態と数量の異常が見られる。正確に言い直せば、二人の人間の二十一番染色体の間に、形質の差異と数量の差異がある」と言ったあとで、次のように記す。

 

 繰り返すが、顔面の差異を認知することと、染色体の差異を知覚することは、まったく等価である。したがって、染色体の差異を理由として胚細胞を流すことと、顔面の差異を理由にして人間を殺すことは、まったく等価である。もちろん人びとは、理屈を並べて両者の道徳的価値の違いを言い立てるだろう。そのとき何が見失われるか。染色体の差異を発生させる場、顔面の差異を発生させる場が見失われる。差異を発生させて二つの個体を分化する原理、二つの個体を個体化する原理、要するに、生きる力が見失われるのだ。

(以上、小泉義之・ドゥルーズの哲学・講談社現代新書 より)

 

 最後の強調部分は、私が読みながら傍線を引いていた箇所である。そのときどんな気持ちでここに線を引いたのか、よく覚えていない。とにかく鉛筆で何気なく引いた線が残り、いままた別の気持ちと温度でそれらの文字を静かにたどりなおす。

 ドゥルーズは私にとっても大切な存在になるだろうという予感を胸に。

 

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 この間、新聞の書評で、現在世界に五千から六千七百くらいあるといわれる言語の内、大部分は一万人以下の話者しかいない少数言語で、さらにそのうちの50人から300人くらいの話者しかいない小言語がニューギニアに約一千、アフリカに約二千密集している、という記述を読んだ。特筆すべきは、それらの密集地帯が植物や動物の種が高い密度で分布しているところであり、つまり「生物の多様性と言語の多様性は密接に連動しているらしい」というのである。(消えゆく言語たち・Daniel Nettle/Suzanne Romaine・島村宣男訳・新曜社) さもありなん、と私は思う。言葉も、植物や動物や昆虫とおなじ生命の円環から派生した。人の魂も、またしかり。そして書評の文章は次のように続く。この言語と生命の多様性が、経済的要求から単一言語を目指すグローバリズムのもとで急激に失われつつある、と。

 前述したドゥルーズの哲学は、さまざまなものとものとの狭間に横たわる違い=差異を、一方が正しいとか劣っているとか正常だとかいった二元的な対立で色分けする認識の習慣をわれわれは捨て去らなければならない。なぜならばそのような差異=多様性こそが私たちの世界を豊かに動かしていく「生きる力」のみなもとなのだから。差異=違いから命の運動は生まれ、互いの差異を理解し合うことから愛情が生まれる。そんなふうに言っているように思える。

 森の中で、一抹の風が木々の間を吹き抜けていくとき、私の言葉もまたふるえる。そのようなものと、私はつながっていたい。

 

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 看護に使うウィークリー・マンションを確保した。病院から近い物件は二件あったのだが、ひとつは料金がかなり高いので見合わせ、もうひとつはすでに満室であった。やはり夏休みのせいか特にツインの部屋は8月までどこも満室で、結局、天王寺に近い環状線の駅に近いシングル・ルームを、入院の日よりとりあえず二週間借りることにした。保証金を含めて二週間で78,000円は高いのか安いのか。それと別途でレンタルの布団を一組手配した。こちらは5,000円くらい。私の実家から母と妹が手術日の数日前に来て約一週間滞在することになっている。病院でのつれあいの付き添いが認められるかどうか分からないが、状況を見ながら適当に人数を振り分けて使うことになるだろう。

 今日は和歌山のつれあいの妹さん宅より桃が届き、中に小学生になる姪っ子のSちゃんからの手紙と、紫乃さんに宛てた手製のお守りが入っていた。夕方にはつれあいの実家より電話が来て、入院を二日前に控えた日曜にお母さんがこちらへ泊まりに来るという。いてもたってもいられない、というところだろうか。

 夜、つれあいとテレビでエディ・マーフィーのコメディ映画を見ているうちに、遊び疲れて赤ん坊は先に眠ってしまった。抱き移した布団の上で、三角のあどけない口を開けてすやすやと眠っている。気がつくとふたりして黙ったまま、その寝顔をじっと見つめている。しばらくしてつれあいが、手術をしたらよくなるような気がしない? と静かに口を開く。少しの沈黙の後で私は、ん、そうだな、とつぶやく。あとはまた黙っておだやかな寝顔を眺めている。

 

*

 

 彼女と赤ん坊が先に眠りに就いて、ひとり机に向かって浮かんでくるのは、いつも行き止まりのおなじ思いばかりだ。これがいっそ夢であってくれたなら。奇跡が起こってふつうのこどものように歩いてくれたなら。だが一方で理性が、これは受け入れなければならない確かな現実であり、医者が告げた完治は望めないということばを覚えている。告白しよう。はじめて診断を聞いた日の夜、私は、これは自分の業(ごう)がもたらしたものではないか、と思った。私の悪業がこどもに災いを転化したのだと思った。いや、馬鹿らしい。そんな迷信じみたことなど信じない、と思いながらもそれを拭いきれなかった。それもあり得る、と思ったのだった。受け入れようと覚悟をしながら、一方で受け入れることの出来ない弱い自分がいる。現実に背を向け、できることなら忘れてしまいたいと願っている自分がいる。私はいまだ神を信じることはできないが、神を呪うことはできる。表面ではきれいごとも言うが、心の奥では答えのない問いと醜い呪いの言葉でいっぱいだ。

 

われわれは神から幸いをうけるのだから
災いをも、うけるべきではないか

(旧約・ヨブ記)

 

 理不尽な苦しみを受けたヨブが、なぜ神と和解できたのかと考えている。

 

*

 

 いよいよ明日から入院である。私も時折、大阪のマンションに泊まり込むこともしばらくはあるかと思うので、この項も自宅へ戻ったときに書き継いでいくことになるだろう。

 ところでふたたびこの場をお借りして身内の業務連絡、である。入院中の見舞いであるが、手術の内容もあり、環境の変化で赤ん坊も精神的にも不安定になるなど、どんな状況になるか分からないので、基本的に病室への見舞いは遠慮して頂きたい。また退院後に落ち着いてからいらして下さい。それでもどうしてもという方は、メールか留守電にてあらかじめこちらへ連絡をください。また念のためですが見舞いの、特に金銭に類するものは辞退させて貰いたいと思っているので、その旨どうかお酌み取り頂きたい。

 

*

 

 手術に必要な検査の類をすべて終え、金曜から連休になるので日曜の夕方までの一時帰宅を許されて、木曜の夕方に赤ん坊を連れて自宅へ帰ってきた。

 病室は紫乃さんとほぼ同じくらいの月齢の赤ん坊ばかりで、4人部屋を5人のベットが占有している。一人はすぐに退院し、残る3人はすべて同じ病気=股関節脱臼で、みなベットの外に投げ出された重しに両足をくくった状態で仰向けに寝かされている。付き添いの方は結局認められず、私もつれあいもマンションからの通いとなった。赤ん坊は病院でのはじめての朝は涙と鼻水にまみれて眠っていて、二日目の朝は目を覚ましてぼうっとしていたらしい。病院の看護というものも実際、大変なものだ。朝は7時に病院へ入り、夜の10時か11時頃にやっと赤ん坊を寝かしつけて後ろ髪を引かれる思いでマンションへ寝に戻る。病院から環状線内のマンションへは20分くらい。水曜は麻酔科の医師と手術を執刀する脳神経外科のY先生らが来て、手術に関する説明をしてくれた。当日は朝8時過ぎに手術室に移り、9時より手術。一応目安は5時までだが、場合によっては伸びる場合もある。慎重な手術なので時間が長くなることは悪いことだと思わないで欲しい。家族のものは手術中は病室かロビー等で待機していて、手術が終了後、医師からの説明がある。赤ん坊は一時的に面会をした後、その夜は術後の回復室へ移される。木曜は朝から私だけ奈良へ戻り、医療費助成金制度の手続き等のために地元の保健所や役所を午前中に回ってきた。難病の手術のための国の制度で、本来保険適用外になる入院中の食費なども対象になるという。そして金曜の今日は、関東から私の母と妹が飛行機でこちらへ来て、昼からわが家で赤ん坊の姿を見た後、今夜は大阪のマンションに泊まってもらっている。

 参考まで、木曜に同意捺印後、提出をした手術承諾書の一部をここに写しておく。

 

手術承諾書 説明内容部分

 

 ○○紫乃ちゃんは、脊髄脂肪種があります。脂肪種は皮下腫瘤と連続して脊髄管の中におよびます。いわゆる移行型で脊髄円錐に癒着し腹側尾側は馬尾神経にからんでいます。現在それにより、左下肢の内反尖足、便秘を認めていると思われます。放置すれば脊髄係留によって下肢の麻痺・膀胱直腸障害の出現する可能性は高いです。

 手術の目的は、脊髄と脂肪種の癒着を剥離し、脊髄の末端を遊離することです。手術は顕微鏡下で脊髄神経をモニターしながら行いますので、7〜8時間かかる見込みです。また腹臥位にして行わなければなりません。この手術で生じうる合併症としては、脊髄神経の損傷による下肢の麻痺・膀胱直腸障害の出現・髄液漏です。また将来的に稀に脂肪種の再増大による再癒着の可能性もあります。全身麻酔の影響、感染・けいれんを起こすことなどです。以上のほかに、薬による副作用や、予想外の合併症が生じる危険性もありますので、あらかじめご了承ください。

 以上の内容にご同意いただけるのであれば7月23日に手術を施行させていただきます。

 

 ところで入院二日目、先に退院した子供と入れ替わるように別の赤ん坊が病室に入ってきた。まだ若いお母さんで、ふとした会話からやっぱり股関節脱臼ですか? と訊かれたつれあいが、いやうちの子は二分脊椎で... と言ったところ、え、うちも同じなんです、との答えが返ってきたという。赤ん坊はまだ生後一ヶ月で、すでに三度の手術を受けたらしい。同じ二分脊椎でもかなり重い症状らしく、一時は生命も危ぶまれ、いまはシャントという脊髄液の圧を調整する管を頭部に埋め込んでいて(私も見たが管の盛り上がりがはっきりと分かる)、両足は内側に不自然に反っている。また下痢状の便がほぼ30分おきに出るために、そのたびに紙おむつを換えなくてはならず(それを手伝ったつれあいによると、ために臀部が赤く皮がめくれていて痛いのだろう、赤ん坊は号泣していたという)、将来的には人工肛門を付けなくてはならないかも知れない。やっとここの病院へ来れたが、この先いったいどうなるのか分からない。そして彼女は里帰り出産で京都の実家へ戻ってきたのだが、出産後はいったいどうしてこんなことになったのか、どちらの血が悪かったのかという話になって、岡山にいる夫は出産から一度も姿を見せず、周囲の身内もやっと最近になって赤ん坊を可愛いと言ってくれるようになったくらいで、私もいまだ友達にも出産したことを伝えられずにいる。きっと同じ病気と聞いて気が弛んだのだろう、そう言ってつれあいの前で泣き出してしまったらしい。

 ほんの数日前、深夜に玄関先のアパートの通路でひとり夜風に吹かれ煙草を吸いながら私は、我が子より数ヶ月早く産まれた隣室のこどものことを思って、いままでテレビや新聞の記事を読んで自分たちが思っていたように、隣の紫乃ちゃんは可哀相に、うちは健康でよかったね、なぞと話しているのだろう、それが逆だということもあり得たのだ、などと思ってその己の考えを恥じた。だがいま私は、その逆の立場を感じている。他との比較によって慰められる心があるとしたら、それは卑しいことだと私は思い知ったのだった。紫乃さんがたとえどのような形になろうとも私たちの宝、かけがえのない命であることが変わらないように、京都の若いお母さんにとっても、それは同じことなのだと思う。

 

*

 

 ウィークリー・マンションのある大阪の下町の商店街で夕刻、不自然にびっこをひいて歩く女性の姿が目に止まり、この人も赤ん坊とおなじ病気だったろうかと思った。小学生くらいの男の子に何かを叱っているのを見て、思う。そうだ、紫乃さんだっていつか結婚をして、こんなふうにふつうの生活を送れるようになるんだ。

 結婚できなくても心配することはない、おれが紫乃さんと結婚するから、と私はつれあいに言う。つれあいは笑って、そうだね、紫乃さんを選んでくれる人がいたら、それはきっと優しい人だろうから、と応える。

 電話口で何気なく母が言った。紫乃ちゃんができたことを後悔していないだろうね、と。私はそれを笑い飛ばした。例えどんな形になろうとも、彼女が私たちにとってかけがえのない宝物のような存在であるということは揺るぎもしない。例え芋虫のような姿であったとしても、一瞬の微笑みがあれば、他のどんな健康なこどもと交換したいとも思わない。

 ふと覗いた店先で、吉田拓郎の2枚組の中古ベスト盤を900円で見つけて買った。「落陽」「人生を語らず」「暮らし」などの曲が好きだ。いつも、のっぴきならない場所が好きだった。のっぴきならない場所で軽やかに笑ってみせるのが好きだった。希望を抱きながら覚悟を秘めて、目の前にあるものをひとつづつ越えていくだけだ。いままでしてきたように、この旅を続けていくだけだ。

 迷いながら躓きながら、いまだ人生を語らず。

 

*

 

 午後から、大阪のウィークリー・マンションより来た私の妹と母にも荷物を持ってもらい、夕食前に再入院。クリップ式の簡易扇風機や激突防止のクッション(キャンプ用具の寝袋の下に敷くシートを縦に切ったもの)などをベット周りの柵にとりつける。離乳食を済ませ、浣腸。夜は結局10半頃まで眠ってくれず、妹と母も最後までつきあい、私たちもぎりぎり最終の電車で11時半に帰宅した。

 奥の部屋に自分たちだけの布団を敷きながら、この部屋に紫乃さんがいないっていうのもなんか変な感じだな、と私がつぶやくと、そうだよね、前はこれがふつうだったのにね、とつれあいが応え、タオルを手に、うん、もう完全に家族になってる、と言って浴室へ向かっていった。

 明日はいよいよ手術である。目が覚める前に行ってやりたいという彼女の希望で、5時起き、6時の電車で病院へ向かう。

 

*

 

 9時開始、20時20分終了。延べ11時間20分に及ぶ長い手術が終わった。だが脂肪種の周囲への癒着がかなり酷かったためにすべてを取り除くことができず、赤ん坊の体力の回復を待って二週間後に再手術をすることになった。

 面会は三人だけということで私とつれあい、それに私の妹が白衣を着て集中治療室へ入った。赤ん坊は手術後にいちど目を覚まして大きな声で泣いたというが、また眠ってしまっていた。気がつくと、つれあいと妹がそれぞれ落涙していた。計器を取りつけられはだけた胸と、呼吸器を口にあてがい、いくぶん浮腫(むく)んだ白い顔を傾げ呼吸している姿は、どこか生々しく、痛々しく、いたいけで、ひどく愛おしい。その感情はとても言葉では言い尽くせない。

 紫乃さん、頑張ったな。

 

*

 

 7時過ギ、病院着
 8時前ニ目ガ覚メル
 8時半、抱ッコヲシテ手術室ノ前マデ連レテイク
 夕方4時20分、執刀医ノY先生ヨリナース室ヘ電話ガ有リ、手術ハモウ少シカカルガ、順調ニ進ンデイル、トノ伝言。
 夜8時20分、手術終了ノ報セ入ル。

 

 今回の手術の目的は、脊髄に癒着した脂肪腫を切り離して、成長と共に上へ上がっていく神経管を下へ引っぱり今後神経に様々な障害をもたらすだろう現状を解消することと、脂肪腫を取り除くことによって脊髄への圧迫をなくすことの二点にあった。前者については執刀医のY先生によれば、思っていたより癒着の状態が酷く強固であったために手間取り、側面はほぼ切り離したが底部はまだ残っている。脂肪腫にからみついた神経もまだ見えない状態である。皮膚と脊髄の間の脂肪腫はすべて取り除いた。また後者については、特に脊髄の左側への圧迫がかなり強かった。そのため、脂肪腫を取り除くことによって現在現れている症状がいくらか良くなる可能性もある。今回の手術で症状が改善されることはないが、現状より悪化することもない。内部に数カ所、目安となる“メルクマール”をつけておいたので、ふたたびMRIを撮り、今回確認した情報と合わせて再検討し次の手術に臨みたい。再手術は8月の6日か8日頃を考えている。だいたい以上のような話であった。何より「失敗しない」ことを最優先させる、手堅い慎重な姿勢が感じられたのが好ましかった。ちなみに手術前につれあいが別の若い医師に、手術中は先生たちは食事も摂らないんですか、と訊ねたところ、手術が始まると集中しているので時間があっという間に過ぎてしまう、長時間の手術の場合は夕刻に集中力を回復させるために飲み物を飲んだりして短い休憩を取ることはある、との返答であったらしい。

 手術の日の夜は、自宅に帰ってからつれあいはひどく涙もろくなって、あんな大きな手術をしても紫乃さんの足は治らないんだね、と呟いたり、部屋の中を元気よく這い回って悪戯ばかりしていた姿を言って、ふだん何でもないと思っている小さなことが、ほんとうはとっても大切なものなんだというのがよく分かった、などと言う。

 手術の翌朝、回復室から戻ってくる赤ん坊を迎えに行った。赤ん坊はそれまで大人しかったのが、私たちの顔を見るなり大きな声で泣き出した。病室のベッドには婦長さんが考案した特製の「磔(はりつけ)着」がすでに準備されている。ベッドの両側に大きなバスタオル様の布を渡らせてくくり、布の真ん中に後ろ半分のベストと半ズボンが縫いつけられていて、そこへうつ伏せのまま体をくぐらせて紐を結わえて留めるのである。長時間の麻酔の影響だろう、赤ん坊は顔が全体に少し浮腫んでいて、とくに瞼がひどく腫れ上がって目を開けようとするのだが潰れていて開かない。栄養と感染を防ぐための抗生物質を入れた点滴を左足にしていて、おしっこも尿道に細い管を差して排出させられている。やはり衰弱しているのか、ときおり頭を持ち上げて悲鳴のような泣き声を出すが、すぐに力尽きて頭を垂れてしまう。熱も39度近くあり、氷嚢や座薬を用いるのだがなかなか下がってくれない。私かつれあいのどちらかが常に手を握ったり腕枕をしてやったりしていないと泣きじゃくるのである。ふだんはあれだけ活発でお転婆娘であったのが、手術後はすっかり笑いも失せてしまっているのが不憫で、見ていてとてもいたたまれない。

 今日はひさしぶりに職安も覗いておこうと、朝からつれあいと分かれて私だけひとり奈良へ帰ってきた。というか半分は病室の空気がどうも居心地悪くて、ちょっと気分転換に逃れてきたのである。長期の入院ともなればどうしても狭い病室内においてお互いが一種の運命共同体のようなものになりがちで、それが同じ年頃のこどもを持つ親同士ならなおさらで、私はどうも性格的に(あるいは東京人のクールさで?)その“濃さ”がどうにも苦手なのである。たとえばあるベッドのこどもの私と同い年らしい旦那などは、我が子を抱きながらよそのベッドをやたら巡回して「ほら、○○くんですよ〜」なぞと言って母親たちと話し込むのだが、私にはあんな真似はどう逆立ちをしても出来ない。おまけに風邪を引いているよそのこどもの汚したハンケチを率先して洗っているような場面を見ると、男のくせにおばさんみたいな真似をするなこの馬鹿が、などと思ってしまう。また就寝時間を過ぎてもこどもとじゃれて興奮させたり、親同士で騒いで写真を撮り合ったり、自分のこどもを寝かすためによそのベッドはお構いなく鳴り物の玩具を鳴らしたりするたびに、こちらが手術後で熱を出しているから余計に腹が立ち、もう少し節度が持てないものかといらだつ。昨夜は大阪は天神祭りで、ちょうど病室の窓のビルの谷間から少しだけ花火が覗けたのだが、うちのベッドと隣り合っている窓側のこどもの母親がうつ伏せに固定されている紫乃さんに「これなら紫乃ちゃんも見れて良かったねえ」なぞと優しく声をかけたりしていたのだが、その母親はいざ花火が本番になると我が子を抱きあげ「ほら、○○ちゃん、花火よ、見える?」と窓の前に見事に立ちふさがり、私は思わず苦笑したのだった。子供を持った親は強いのかも知れないが、同時に子供を持った親ほど馬鹿になるものもいない、と私は自戒の意も込めて思った。というわけで看護婦さんや医師を除き、私は病室内では至って没交流的で愛想がない。これは性格なのだから仕方ない。

 と、これを書いている最中に大阪のマンションに帰宅したつれあいから電話があり、今日は赤ん坊は昼から熱も37度5分に落ち着き、また看護婦さんの置いていってくれた聴診器で遊んでいるときに、手術後にはじめてニコッと笑った、と。

 

*

 

 隣のおなじ二分脊椎の赤ん坊のベッドへ今日は朝から旦那の母親がひとりで来ていたのだが、このおなじ奈良の吉野村から来ているバアさんが手持ちぶさたなのかやたらと今日はウチにからんできて、回診に来た医師の隣で昼のテイクアウトのパスタを立ち食いしている私にあっちの窓際で食べたらいいとか忠言したり、紫乃さんの背中のガーゼを取り替えながら医師が私たちに説明をしている最中に紫乃さんの「磔(はりつけ)着」を見てこんなのを老人ホームでも使ったらいいのにねなどと馬鹿な口を挟み込んできたり、抜糸が遅れてうつ伏せ状態が長引きそうだと言われ「可哀相だなあ」とつれあいと話していると「こどもの傷がそんなに早く治るわけがない」「赤ん坊はそんな姿勢は何とも思わない」なぞと矢継ぎ早に要らぬ口を入れてくるので私はとうとうキレてしまい、「悪いけど今日はもう俺、帰るわ」とつれあいに告げ、「あら、もうお帰りですか、お忙しいんですね」なぞとまだ喋っているババアを無視してさっさと病室を出てきたのであった。だがこんな話など、本当はどうでもいいようなくだらない話だ。私はただ赤ん坊を静かに見守っていたいだけなのに、いつも世間の間抜けな雑音が入りこんできて頭に来る。つれあいはきっと、そんな私を子供のようだと思っているのだろうけど。

 手術が終わってから三日目の木曜あたりから赤ん坊は熱も下がり、うつ伏せの窮屈な姿勢は相変わらずだが、それでも笑い声をあげたり、べらべらと饒舌になったり、枕元の玩具をなぎ倒したり、食事の最中にぐずったり、見かけはすっかり家にいた頃と同じ感じになってきた。今日も昼頃に担当の女の先生が来て傷口のガーゼを交換している間、ふてぶてしいのか鈍感なのかうつ伏せのまま両手を伸ばし平然としていて、先生が「まあ、そんなにリラックスして。ちょっとは泣いてよ、紫乃ちゃん」と思わず苦笑するほどであった。ただ夜は私たちが帰ってから、何度か目が覚めて泣いたりしているときがあるらしい。

 点滴は二日ほど前に取れた(というか、足を動かして外してしまい、以後は代わりに抗生剤の飲み薬を服用している)。傷口の経過は良好で、こんもりとその部分が腫れていて、あるいは中で髄液が若干漏れている可能性もあるが心配するほどのものではない。抜糸は急ぐ必要もないのでゆっくり数日をかけて抜いていきましょうということで、結局再手術の日までこの磔状態が続くようで、せめて手術前に二三日くらい自由な姿勢になって抱っこもしてやれたらと思っていたのだが、考えようによっては手術をしたらどうせまたこの状態に戻るのだから、馴れてきたこの姿勢のままでいさせる方があるいは良いのかも知れない、とも思う。明日はMRIを撮る予定である。

 また二週間レンタルしたウィークリー・マンションの部屋も今朝引き払ってきた。契約の延長も考えたのだが、終電の早い家の前の近鉄電車一駅分はタクシーを使えば病院に12時近くまでいても何とか帰ってこれるし、また自宅の方がちょっとした離乳食を拵えたり洗濯やその他雑事も何かと便が良く、気分的にもほっとするというので、二人で話し合った結果、明日からここ奈良の自宅から病院へ通うことにした。家からは一時間もあれば行けるので、つれあいはきっと朝の6時に出かけていくことになるだろう。病院の付き添いも毎日朝早くから夜遅くまで、結構体力勝負なので、なるべく連携してお互いにダウンしないようにと思っている。ま、私は実際、赤ん坊と遊んでいる以外はほとんど何もしていないのだけども。

 

 ところで前にこの項に書いたヒサアキさんに数日前、私はひさしぶりにメールを書いたのだが、留守にしている間にさっそく返事が届いていた。それがとても嬉しい、また真摯な内容だったので、私信ながらここに私の送ったメールとあわせて紹介しておきたい。

 

 

ごぶさたしてます。

HPの方、最近はプライベートな写真が多くて、愉しんで拝見しております。

実は私ごとですが、最近こどもに脊髄の先天異常があることが分かり、先日大阪の病院で一度目の手術を受けました。排便排尿と歩行の障害が残るだろうと言われています。
ドゥルーズの差異についての思想に耳を傾けたいと思いました。はからずも改めて、挫折していた例の新書をふたたび読み始めているこの夏です。

いかがお過ごしですか。「山は山の児を生む時節もある」 いまごろ、夏山を闊歩しておられるでしょうか。こちらも別の山を登るか下るかしています。

ふと思いつき、お便り差し上げたくなりました。
どうぞ微分的な夏を、なんて。

 

7月27日  まれびとのメール

 

 

 

 

異常に暑い日が続きます。
「便り」さきほど拝読。
驚きました。

本当に大変ですね。
「ゴム消し」をDLして詳しい事情を拝見しました。
女房と一緒に。
かつての僕らの経験と似たような気分のお二人じゃないかと思います。

それこそこれからのまれびとさんはまさに「リゾーム」を生きることになるんだと思う。
なあに、まれびとさん、生きてやるさ。
ね。
右往左往しながら、拡散と収縮を繰り返しながら、
しかしどこにも回収されることなく
まれびとさんは「生成」を遂げるだろうと、僕は妙に確信してます。

紫乃ちゃんと「つれあい」さんと、やれるとこまでがんばって生きてください。
なんにもできないけど(ホントなんにもできないんだもんね)
ウチにはソルジェっていう「大物」がいてますので
参考になることがないとも限らない、そんなときは遠慮なくどうぞ。

長女が今年から医大に勤務していて
たまたま今日会いに行く予定です。
「ゴム消し」を読ませてみます。

ちょっとぶしつけな記述かもしれない。
ご容赦のほどを。
だいじょうぶ、あなたの知性はあなたを見捨てたりなんかしない。

 

7月28日  ヒサアキ氏からの返信

 

 

*

 

 つれあいは朝5時に起きて6時の電車で病院へ向かう。私はすこし遅れて起きて、午前中は洗濯や風呂の掃除、買い物等の家事をこなし、職安を覗きに行く。昼食を済まし、しばらく新聞などを眺めてから、病室で二人で食べる夕食のお弁当をこしらえ、午後の3時頃に病院へ向かう。つれあいは赤ん坊の夕食を食べさせ、片づけなどをしてから先に家へ帰る。私は赤ん坊を寝かしつけてから、10時半頃の最終の電車に乗り込み帰ってくる。奇しくも前の会社で毎日残業をして帰っていた電車とおなじで、病院は会社より僅かひとつだけ手前の駅だ。かつての自分とおなじようなくたびれた顔のサラリーマンたちに混じって、いまは別の顔をして吊革にぶら下がっている。見える景色がすこしだけスライドしている。

 

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 つれあいがとうとう風邪でダウン。二日ほど前から喉が痛いと言っていたのだが、今日は早めに帰らせて近所の病院で注射を打って貰った。和歌山のお義母さんはお盆が近いので手伝いに来れないと言うので、私の実家へ電話をして、もしもの場合は妹に来てくれるよう頼む。赤ん坊は元気である。だが相変わらずミルク以外の食事は小食で、お菓子やゼリーなどの類しか喜んで口を開けないし、洗い物や交換したオムツを捨てるためにちょっと側を離れてもぐずる。これも病人の我が儘かと思う。昨日のMRIの画像によると、皮膚の内側で漏れた脊髄液が少しばかり溜まっているらしい。病院では旧約のヨブ記をめくり、電車の中では幼い娘を連れてアフリカへ移住した写真家の妻の手記を読みながら家路へ就く。

 それと今日は午前中、こちらの大和高田にある保健所に行って、難病などの手術に対する育成医療の申請手続きをしてきた。医師の書いてくれた意見書では入院治療費等が延べ410万円(但し、当初予定の一回の手術での計算)の見積もりだが、このほとんどを国が負担してくれて、わが家が病院へ支払うのは一月あたりわずか2,200円で、これも後日に自治体より還付されるとのこと。はからずも「国」に大きな借りをつくってしまったわけで、私としては多少居心地が悪い気がしないでもないが、しかし大助かりだ。というわけで、明日に備えて今日は早めに寝ておく。

 

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 二度目の手術の日にちが決まった。来週、8月8日の水曜日である。月曜の午後に医師からの説明がある予定。心配していたつれあいの風邪は一日で治ってしまった。ひき始めに注射をしてもらったのが良かった、と本人いわく。今朝もいつも通り6時に家を出て(但し乗り越して難波まで行ってしまったらしい)、赤ん坊の夕食が済んでから先に帰らせたのだが、少し咳があるもののわりと元気そうだ。夜になってから担当の若い(つれあいに言わせると「とても美人の」)K先生が傷口のガーゼの交換に来てくれた。この先生は自分がいつも子供に泣かれる嫌な役まわりなのに、紫乃さんがちっとも泣かずにいるのが嬉しいらしい。手術の前から見ているが「紫乃ちゃんは何か“ほんわか”としていて」「おおらかに育てられたんだなあって思う」と言ってくれる。「おおらか」かどうかは分からないが、そのふてぶてしさで彼女(赤ん坊)は看護婦さんたちの首に掛かっている聴診器を見事せしめて、よく玩具にして遊んでいる。

 ところで今日はつれあいの実家の両親が彼女の姪っ子であるSちゃんを連れて久しぶりに病院へ来た。和歌山のお義母さんは今回の赤ん坊の入院を近所には内緒にしていて、そのために本当は毎日でも来たいのを我慢して、今日も夏休みで泊まりに来たSちゃんを「プールに連れて行く」という名目で家を出てきたのである。お義母さんが内緒にしている理由は、ひとつは見舞いやお返しなどの煩わしさを避けるためだが、もうひとつは(多分それが一番なのだと思うが)隣町に住んでいるつれあいの前の夫の実家に話が伝わって、向こうの母親に「歳をとって産んだ子だから、それみろ」と思われるのが癪だという奇妙なプライドに拠るものなのである。私はつれあいの両親は結構大好きなのだが、お義母さんのそういう考えは実にくだらないし理解しがたい、と思う。すると私の妹が私に言う。「そういう世の中の仕組みはお兄ちゃんには分からないんだよ」と。結構。私はそんな「仕組み」など分からないし、未来永劫分かりたいとも思わない。だってそんなふうに「隠さなくちゃならない」なんて、紫乃さんがいちばん可哀相じゃないか。たとえダウン症だろうとハンセン病だろうと、恥ずかしいことなど何もない。誰にでも堂々としていればいいじゃないか。くだらないことを言いたい奴には勝手に言わせておけばいいじゃないか。そんな低レベルの奴と張り合うことこそ、そもそもくだらないことじゃないか。私はそんなふうに呟くのだが、世の中の仕組みの方は大抵びくともしない。

  

*

 

 こどもと同じ病気をもつ生後一ヶ月の赤ん坊が隣のベッドに入ってきた頃、私は要らぬ親切心からまだ若いその母親に、手元にあった二分脊椎の手引き書を手渡したことがあった。母親は礼を言い母乳を与えるときの仕切の向こうで、ベッドに眠っている赤ん坊の足下あたりに体を凭れてその冊子を捲っていたようだったが、しばらくして微かなすすり泣きの声が漏れてきた。私はまだ時期尚早だったか、渡さなければよかったか、と己に舌打ちした。この子はきっとよくなる、と自分に言い聞かせこらえていたものが、針の穴ほどの小さなほころびから糸をひいてつたいこぼれたのだ。

 昨日、午前中につれあいがひとりでいるときに担当のK先生が来て、9月に二分脊椎のこどもをもつ家族で滋賀の方へ泊まりに行く交流会があるのだがよかったら参加しないか、というY先生からの伝言を持ってきたという。Y先生たちは医師として長らく、そうした患者たちを含む活動にも参加してきたのである。あとで私にそれを伝えたつれあいはあまり乗り気でないようだ。言い方は悪いかも知れないが、そうした団体や活動に属するということはわが子の障害を認めてしまうことになる。この人は認めたくないのだ。いまもまだ、奇跡の類が起きてこどもの足はすっかり良くなるのではないかという思いを捨てきれないでいる。母親というのは、そういうものかも知れない。

 真昼。台所で病院へ持っていく夕食のおにぎりを握り終え、おかずに使う牛肉の下味をつけたところで、開けっ放しにしてある玄関からひょいと外へ出て煙草に火をつけた。ちょうど台所のラジカセの曲が変わり、モリスンの Raglan Road が流れ出す。アイルランドの懐かしい故郷の調べが、夏のもの悲しく屈強な光と戯れて雪のようにきらきらと輝いている。私はそれを見る。それを見つめる。

 

*

 

 今日は午後に、執刀医のY先生より水曜の再手術の説明があった。先日撮影したMRIの画像を見ると、かつて脂肪腫が広がっていた脊椎から背中側の皮膚の間に脊髄液が溜まって膨らみ、同時に脊髄への圧迫がだいぶ解消された様が見て取れた。背中側の脂肪腫で、全体の4割近くは切除されたという。あとは脊髄に癒着した脂肪腫を完全に切り離すことと、脊髄液が漏れないようにしっかりした縫合処置をすること。前者に関しては稀に10人に一人二人くらいのケースで脂肪腫が増大して再癒着を引き起こす場合があるので、手術後は毎月一回の検査と半年に一回程度のMRIによる定期的なフォローが必要となる。再癒着以外に残された脂肪腫が害となるようなことはない。脊髄への圧迫軽減による何らかの症状の改善は(あり得るとしたら)リハビリを含むある程度の長いスタンスにおいて現れるだろう。また今回の手術もまた、大体前回とおなじ程度の時間が見込まれる。おおよそ以上のような内容であった。

 ただつれあいの風邪がうつったのか、赤ん坊は昨日あたりから多少熱があり、今朝も38度近く(午後からは37度半ばに下がったが)、そしてくしゃみと鼻水が顕著で、続いて説明に来た麻酔科の医師によると手術延期の可能性もあり、若干微妙なところである。

 

*

 

 赤ん坊は風邪薬が効いたのか、鼻水はだいぶ少なくなってきた。熱は37度5分くらいで、手術にあたってはその辺がボーダーラインという。見かけはふだんと変わらず元気で、よく喋るし、ノリすぎて素っ頓狂な声も出す。夕飯には私のテイクアウトのパスタを欲しがって食べた。麻酔科の医師は微妙なところだと唸り、脳神経外科のK先生たちは現状なら予定通りいきましょうと言う。どらちにしろ翌朝までの様子次第で、判断は先生方に任してある。微熱があるせいか、あるいは薬のためか、今日は9時頃に眠った。

 つれあいは手術となるとナーバスになる。昨日は帰りの電車のなかで遠足帰りの元気な幼稚園児たちの姿を目にしたと言って、見開かれた両眼から涙が溢れそうになるのを、さりげなく話題を変えて落ち着かせた。

 私は私で赤ん坊を寝かしつけてから病院を出て、ひとり帰りの電車のなかで読むドゥルーズの微分哲学の中にかすかな光明(慰み)を見いだそうとしている。

 考えることは山のごとくあるが、いまは明日の手術が無事に終わること、とりあえず、ただそれだけを祈るしかあるまい。

2001.8.7

 

*

 

 手術、無事済ンダ。朝9時開始、夜7時20分了。執刀医ノY先生ハ「目的ハスベテ達セラレタ」ト。集中治療室ノベッドノ上デ情ケナサソウナ顔ヲ向ケ、点滴ヲツケタ手デコチラノ顔ヲ触リニキタ。ヒトツ終ワリ、マタ新シイ始マリ。家ニ帰ッタ途端、二人共ドット疲レガ出タ。

2001.8.8

 

*

 

 当日の朝は7時過ぎ頃に麻酔科の医師が検診に来て、しばらく腕組みをしていたが、結局「積極的に中止とする理由が見当たらない」ということで、予定通り8時半に別のベッドに移して手術室へ運ばれた。夕方5時半頃にナース室の婦長さんが手術室に電話を入れてくれるが、中には入れず「まだ手術はやっている模様」との報告のみ。ナース室に手術終了の電話連絡が入ったのは7時25分。前回より1時間短い、延べ10時間25分の手術だった。

 手術後、手術室に近い別室にて執刀医のY先生より受けた説明は主に次のとおり。

●脂肪腫の脊髄への癒着は、当初の目的通りすべて解消された(つまり脊髄から完全に切り離された)。脂肪腫はほぼ半分ほどの大きさになり、かなりスリムになった。

●残された脂肪腫は「深追い」をして神経を損傷する危険を避けたためで、それ自体は害はない。ただ稀に(これまでの経験では10人に1人か2人くらいの割合で)脂肪腫が増殖して再癒着を起こす可能性もあり、その場合はふたたび手術によって剥離しなくてはならない。そのためにある程度の成長期までは定期的な検査を必要とする。

●脊髄から各所へ伸びた神経は、背中側が感覚、お腹側が運動機能を担っている。今回の手術で、背中側の神経は脂肪腫が絡んでいたわけだが、お腹側の神経は問題がないように見受けられた。よってあくまで推論だが、現在出ている左足麻痺等の症状は、あるいは酷かった脂肪腫による脊髄への圧迫が原因であったかも知れず、そうであるなら(圧迫が取り除かれた今回の手術による)回復の可能性は残されている。ここ3,4ヶ月がひとつの見極めとなるだろう。

●手術部は内側にゴアテックス素材の膜を貼りつけ(これは脂肪腫の再癒着を防ぐため)、その外側に赤ん坊自身の臀部の筋膜を移植して縫合した。髄液が漏れないようにしっかり縫合したつもりだが、万が一漏れても自然吸収されるか、あるいは漏れがひどい場合は(注射器のようなもので)抜き取るかして、次第に膜も癒着してくるはず。漏れが皮膚の外側までしみだすような場合は、傷口をふたたび縫合し直すケースも稀にある。

●今回の手術では医師の判断により20ccの輸血がされた。(前回は輸血はされなかった)

●手術後、肺の検査も行われたが、風邪による悪影響等はいまのところ見受けられない。

 

 手術の翌日は、朝10時頃に集中治療室より病室へ移された。情けない顔は相変わらずだが、浮腫(むくみ)は前回ほど酷くはなく、顔をあげてべらべらと喋ったり、つれあいの両親が買ってきたキティちゃんのキーボードで遊んだりと意外に元気なので驚き、ひと安心した。だが午後から急に熱が40度近くまで上がり、座薬や氷嚢を使って夜には何とか38度くらいまで下がった。食事は病院食はまったく受け付けず、その代わりに初めて与えてみたポカリスエットをよく飲んだ。他に隣のベッドのお母さんから頂いた三色団子等を少し食べた。前回と同様、採尿の管と点滴を付けられているが、点滴が今回は足ではなく利き腕の右手につけられているために左手で引っ張ったり噛んだりして、夜には靴下のような手袋を巻き付けられてしまった。やはり疲れているのか、夕食後もべらべらと喋っていたが9時頃に部屋の電気が消されるとすぐに眠ってしまい、10時まで様子を見て帰ってきた。

 つれあいの風邪がうつったらしい。昨夜は帰宅後、シャワーを浴びてこちらもすぐに寝てしまい、今日は午前中に近所の病院で薬を貰ってきた。病院からのつれあいの電話では、赤ん坊は今日は熱は37度5分で、見舞いに来たつれあいの両親と遊んでいてびっくりするくらい元気だという。昼に薬を飲み、少し寝てマシになったので、つれあいと交替するするためにこれから病院へ向かう。

 昨日は病室に、まだ若い夫婦らしい、おなじ二分脊椎の生後一ヶ月の赤ん坊が入ってきた。

 Y先生から初めて「回復の可能性もある」と言ってもらい、つれあいは見違えるほど表情も明るくなり、そして張り切っている。覚悟も必要だが、希望も必要だろう。

2001.8.10

 

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 座薬と氷嚢のおかげで熱も微熱程度で落ち着いてきた。ただし、赤ん坊はこれまでいつも右手の親指を吸って寝入るのが癖だったので、その右手を点滴に奪われ自由にならず、少しいらついているらしい。これまでで一番ぐずり方がひどい。そりゃあ、そうだろう。入院をして3週間目、不自由なうつ伏せ状態は2週間前からずっとで、その間に大きな手術を二度もこなし、鼻先でしか遊べないオモチャもそろそろ飽きて、その上精神統一に欠かせない右手親指まで奪われたら、いい加減自棄も起ころうというものだ。唯一動かせるのは首と左手のみ。そのせいか、いや心身ともに疲れているのだろうが、ときおりぴくりとも動かなくなって抜け殻のようにぼうっと目だけ開けていることがあるのだが、それが何だかはやくも人生を諦念した枯山水のようで、私もつれあいも見ていて可哀相になる。とりあえず点滴だけでも早く取れてくれたら、と思うのだが。

 今日は私も風邪気味で少し短気になっていたらしく、ささいなことでつれあいと言い合いになり、ぴりぴりしながら紫乃さんに夕食を食べさせたり寝かしつけようとするのだが、酷くぐずってうまくいかない。しばらくして交替したつれあいが赤ん坊に手枕をしながらそっと、親がぴりぴりして言い合っていると赤ん坊にもそれが分かって伝わるんだよ、と言う。彼女の手枕に頭をもたげて赤ん坊はうつらうつらと安らぎ始めている。誰よりもこの子がいちばん辛いのだ、と私は思い頭(こうべ)を垂れる。

 落ち着かない赤ん坊が気になるのか、今日はつれあいも最後の10時までいて、いっしょに11時に帰宅した。

2001.8.10 深夜

 

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 赤ん坊が入院以来はじめて吐いた。朝と昼過ぎに一度づつ。洗濯や買い物を終えた昼頃につれあいから電話があり、今日は早めに来て欲しいと言うので、昼食もおいて病院へ急いだ。熱は37度少しで治まっている。吐き気止めの座薬を二度入れた。食欲は低下する一方で、ミルクを少しばかり飲むが、それ以外はほとんど口に入れようともしない。窓の外の最後の一葉を待つ者のように、無表情な視線をあらぬ方へじっと向けたまま、である。外の世界にまるっきり無頓着、というふうにも見れる。回診に来たK先生は、手術の疲れが出ているようですね、と言う。が、私たちにはそればかりでなく、何か精神的に途切れてしまったような感じさえ受ける。せめて右手の点滴を足に移してもらえないかと頼んでみたのだが、赤ん坊の血管を探るのは難しいらしい、やんわりと却下された。医者の判断であるなら、仕方ないのだろう。

 

 

 大抵のこどもはみな、健康に生まれてくるのに、どうして自分たちの子だけ、こんなふうになってしまったのでしょうね。

 深夜、おなじ病室の母親にそう言われて、私は思わず沈黙した。差異の発生についてのドゥルーズの論述が頭をよぎったが、それを平明な、生きた智慧に置き換えることばを、私はまだ持たなかったのだ。同時にそれは私自身が問い続け、いまだ答えを得ないものであったが故に。

 母親は荷物をまとめ、お先に、と挨拶をして静かに病室を出ていった。赤ん坊は私の目の前でときおり首の向きを違(たが)えては眠り続けている。窓ガラスの向こうに、大阪城の天守閣が浮き出た血管のようにぼうっと光っている。私は人気のない教会のベンチに腰かけ、ひとりじっと耳を澄ましているかのようだ。音のないことばを探して。

2001.8.11 深夜

 

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 赤ん坊はいつもの調子が戻ってきた。つれあいの両親が買ってくれたキティちゃんのキーボードを鳴らしては、どうだ、と得意そうな顔でいちいちこちらを見る。前日までの生気のなさは、やはり手術の疲れだったのだろうか。熱は37度くらいを保っている。病院食等の固形物は相変わらず食べないが、ミルクの量が平常に戻ってきた。とにかくひと安心。

 

 深夜、眠っていたと思っていたつれあいが目を開けている。そして、家にいても紫乃さんの声が聞こえる、と言って泣き出す。昼間、袖をひっぱってくるから頭を抱くように私の身体をおおいかぶせたらとても喜んで、脇の下に手をいれてけらけらと笑っていた。抱っこをして欲しいのよ。はやく良くなって、あの子を抱っこしてあげられたらいいのに。

2001.8.13

 

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 赤ん坊がとうとう実力行使に出た。明け方に袋状の手覆いを脱ぎ、テーピングを剥がし、点滴の管を自ら引き抜いたのだ。残すところ二日半の予定だったのだが、体調が安定してきたこともあるのだろう、担当のK先生の判断であとは抗生剤の飲み薬でいくこととなった。赤ん坊の勝利、である。というわけで、今日は昨日にさらに輪をかけていたってご機嫌がよろしい。様子を見に来たじいちゃんの手からアイスクリームを「もっと!」と要求し、看護婦さんから聴診器や血圧計を奪いとって舐め回し、キティちゃんキーボードをグールドよろしく華麗に弾いては悦に入り、おやつのウエハースをはむはむと頬張り、夜は夜で阿呆陀羅経を独経してやまず、まさに王者復活といった感である。9時過ぎに何とか寝かしつけて、10時に病院を後にした。

 ところで今日は数日前に入ってきた生後一ヶ月のおなじ二分脊椎らしい女の子が朝から手術だった。まだ若い夫婦で、父親は朝からずっとベッドの端で雑誌のクロスワード・パズルを睨んでいるのだが、予定していた時間を過ぎても手術は終わらず、母親は気が気でないといった様子である。思わず近寄って、自分たちも一日がかりの手術を二回受けたこと、そしてY先生は無理をしないタイプだから、時間がかかるのはそれだけ慎重にやっていることだろうから心配することはないのでは、と声をかけた。どうやら私もここへ来て、すこしだけ変わってきたようだ。やはり二分脊椎で紫乃さんより症状の重い隣のベッドの二ヶ月のKくんは、こんどの金曜に「試験的」な退院を予定しているのだが、脊髄液を通すために頭に入れたシャントという人工的な管が詰まりかけている。詰まってしまったら24時間以内に手術をしなければ助からない。股関節脱臼で紫乃さんと同じ日に手術をした最古参の7ヶ月のRくんは、入院以来ずっと体調が思わしくなく、今日も血液検査で傷口の感染が疑われ、今週に予定していた退院がまた延期になってしまった。ナニワのカアチャンといった感じのRくんのママは思わずRくんに添い寝して、なあ、こんだけ頑張ってるんだから、もうあとはいいことばかり待ってるよ、と言っているのが聞こえてくる。

2001.8.13 深夜

 

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 赤ん坊はひきつづき絶好調。病院食もすこしづつだが口にするようになってきた。先週から看護婦の実習生がひとりついてくれているのだが、今日は昼間、その実習生仲間がみんな紫乃さんを見に来て遊んでくれ、「バイバイ」を教えてくれたらしい。また今日ははじめて手にしたクッキーを自分で口に運んで食べることを覚えた。いままでは握らせても手のなかで弄んでいるだけだったのである。そうそうそれから数日前だが、これまでの下の二本に加えて、上の歯も生え出してきた。歯茎からほんちのちょっぴり顔を覗かせている。こうして病院のベットでうつぶせに固定されていても、確実に成長しているんだなあと改めて思う。手術の傷口の具合もきれいについているそうで、この分ならもう抜糸をしても良いくらいだとK先生が言ったという。心配される脊髄液の漏れも、いまのところ見当たらない。

 今日は夕飯に、湯がいたホウレンソウとかいわれを敷いた上に豚肉を載せてごまだれをかけた菜とバジル入りのガーリック・ライスをつくって持っていった。いつものように赤ん坊を寝かしつけ、10時の電車でドゥルーズを読みながら帰ってきた。

2001.8.14 深夜

 

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 朝から頭痛があり(風邪のぶりかえしか)、それでも夕方には病院へ行こうと洗濯や夕飯の弁当をこしらえたのだが、どうにも体調が戻らず、仕方なく今日はつれあいに頼むことにした。一日顔を見れないとなるとさみしくて、寝っ転がって赤ん坊のビデオを見ながら時折うつらうつらとしていた。

2001.8.15

 

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 隣のベッドの生後二ヶ月になるKくんのお母さんとつれあい、ふたりの母親が出産のときの体験を話し合っている。陣痛は男の人にはとても耐えられないと言われ、SEXのときに女性がイク時の快感を男が感じたら死んでしまうっていいますものね、と私が合いの手をいれ、つれあいに背中を叩かれる。つれあいとおなじく破水から始まったが、陣痛促進剤を使わなかったために出産が丸一日かかった、というあたりから話はKくんのことへ移っていった。

 Kくんは産まれたときに、頭は脊髄液が漏れる水頭症を併発していて異様に膨れあがり、背中には脊髄の神経を巻き込んだ形で骨髄瘤といわれるおおきな瘤があったそうだ。そして両足首はいまもそうだが、内側へ不自然に曲がっていた。Kくんのお母さんは顔だけを見せられて、そのまま疲れで眠ってしまったらしい。あとで夜中に保育器を見に行ってわが子の姿を知ったのだが、ショックでお乳が出なくなるのを心配した家族が病気に関する事実を伏せ、当初は治るものだと聞かされていたらしい。それから日を追って、少しづつ少しづつ本当のことを知らされていった。手術は出産の翌日に行われた。頭部と背中と腹部の三カ所を同時に開いて、骨髄瘤を切除し、頭からお腹にかけて脊髄液を安定して通すためのシャントといわれる人口の管をいれるのである。これが二度、行われた。だがこのシャントは幼児のうちは詰まりやすく、いまもKくんの側頭部は詰まりかけた管のためにぽっこりと一部が盛り上がっている。完全に詰まってしまったら、24時間以内に手術をしないと生命が危ぶまれる。Kくんはそのような状態で、明日、試験的に退院の予定である。

 Kくんの不自然に反った両足は後日、整形外科の手術で形だけは治るそうだが、麻痺した神経までは治せないらしい。誰も口に出しては言わないが、おそらく車椅子での生活は避けられないものと推測される。わが家の紫乃さんは、まだ分からないが、装具をつけて何とか歩けるようになる感じだろうか。私は、たとえどんな形でもひとりで歩けるなら結構と思わなくてはいけない、と言うのだが、ふたりの母親は、でもできるならビッコもひかずにスムーズにあるけるようになって欲しいと思いますよね、と言って肯き合う。それからなぜか三人とも、行き止まりの道に出くわしたようにふいと黙り込んでしまう。

 9月の頭に予定されている「二分脊椎の親子の交流会」へは、わが家もKくんのところも参加する意向である。今日、その話の詳細を持ってきてくれた(若くて美人の)K先生によると、バスは昼に病院から出て、2時間ほどで滋賀県内の現地へ着く。バリアフリーが完備された、やはり二分脊椎の子どもをもつ家族の経営するペンションに宿泊するのだが、今回は人数が多いために女性とこどもだけ相部屋でペンションに泊まり、男どもは近くの教会に寝袋を持参して雑魚寝だそうである。ぼくはK先生といっしょでもいいですわ、と私は言うのだが、私は寝相がひどいからきっとびっくりされますよ、とやんわり断られてしまう。しばらくそんな交流会の話で盛り上がり、Hちゃんのところもまた落ち着かれたら一緒に行けるかも知れませんね、とつれあいが数日前に入院してきた生後一ヶ月のこどものベッドに向かって言うが、母親はベッドに顔を伏せたまま何も返事は帰ってこない。日が浅い故に、まだそんな話をする余裕がないのだろう。つれあいとそっと目で肯き合う。

 紫乃さんは相変わらず絶好調である。いまや病室の中でいちばん元気で、ジャングルに棲む野生動物のごときおたけびをあげて悦に入っている。K先生は回診にくるたびに、紫乃ちゃんはお母さんの雰囲気そっくりですねえ、とてもほんわか・のんびりしている、と言ってくれるらしい。生まれてしばらくは何処へ行っても口を揃えて父親似だと言われていたのだが、入院をしてからは誰もがつれあいにそっくりだと言う。私が見ていても、このごろは特に目の辺りの表情がつれあいによく似てきたように思う。何にしろ女の子だから、やっぱりその方が良いというものだ。

2001.8.16 深夜

 

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 生後二ヶ月のKくんのところが退院をして、入れ替わりに一歳八ヶ月のSくんが病室に入ってきた。水頭症で、知的障害があるらしい。頭の形もすこしいびつに歪んでいる。長男に続いておなじ病気であるという。だからもう何を聞いてもおどろかない、と言う母親は入院生活も手慣れているようで、また前述した今回の滋賀での交流会のとりまとめ役をしていて、夕方から行った私も詳しい話を伺ったのだが、ちょっとクセのある感じだなあという気がしていた。その感触は当たっていて、このお母さん、入ってきて早々つれあいに紫乃さんの病状を聞き、え、水頭症はないの? 二分脊椎なら大抵の子は水頭症を併発するものなのに、こんな言い草であったという。またRくんに対しては股関節脱臼を軽んじるような態度で、後でRくんのお母さんが廊下で会っても知らぬふりをされた、とか。

 つれあいは家に帰ってきてから、退院したKくんのお母さんが病院でも毎日小綺麗な格好をしていたこと、またお尻の湿疹に貼るテープをいつも花びらの形に切っていて、問われると恥ずかしげに「これも気分転換みたいなもので」と応えていたことなどを言い、自分たちはみなああした病気のこどもを抱えて、でもすこしでも明るく希望を持ってふつうに過ごそうと努めているのに、あのSくんのお母さんは深刻な病気の話ばかりで何だか聞いていると気持ちが暗くなってきて、滋賀の交流会も今年の夏は何にも思い出がなかったからペンションに泊まってバーベキューをして... って愉しみに考えていたのに、私、こんなのだったらもう交流会も行きたくない、と言いながら泣き出してしまった。

 私は、あのお母さんも二人目のこどももまたおなじ病気で、きっととてもショックだったに違いない。だから他の軽症のこどもは許せないという妬みもあるだろうし、逆に自分の背負った苦痛を歪んだプライドにしなければ自分が保てないということもあるのだろう。そういう意味ではあのお母さんも可哀相な人かも知れない。交流会でおなじ障害を持った人たちがおなじ気持ちを分かち合えるというのは幻想に過ぎないわけで、やはり色々な人がいるのだから、今回はちょっと覗いてみて、どうしても嫌な雰囲気だったら来年からは行かなければいい。それにああいうお母さんのような人ばかりでもないかも知れない。今後の入院生活に関しては、あまり無神経なことばかり言うようであるなら、私から婦長さんか、あるいは本人にきっちり言ってやるから心配しなくていい。何にせよ、くだらないことを言う奴に心を乱される必要はない。適当にあしらっておけばいい。そう言って、なだめたのだった。

 ところで明日はわがMacドクターの友人・O氏が四日市から車で来て、昼から私といっしょに電車で病院へ、紫乃さんの見舞いに来てくれる予定。赤ん坊はなぜかこの友人がお気に入りで、きっと喜ぶことだろう。同時にSくんのお母さんからの防波堤にもなろうというものだ。なるべく早めに行ってあげよう。

2001.8.17 深夜

  

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 病気も、最近世間を賑わす少年犯罪も、すべてご先祖様の供養が足りないからだと言う89歳のお婆さんに、売店近くの喫煙所でつかまり延々40分ほど話を聞かされた。高野山で遭遇した白い蛇も、朝のお勤めのときに目の前に坐していた仏様も、あるいは法華寺の秘仏開扉の翌日にぽろりと落ちた足のイボも、お婆さんにとっては紛うことなき真実である。天上の階段に坐した仏様をはっきりと見たから、いまはもう身・口・意をきれいさっぱりして、ただ静かな心持ちでお迎えの来る日を待っている、と言う。

 赤ん坊は友人に遊んでもらって大はしゃぎである。ベッドの友人の方ばかり頭を向けていた。親の顔も毎日でそろそろ飽いてきたか。つれあいだけ先に帰らせ、友人と二人でいつもの10時の電車で帰ってきた。ドゥルーズの話をするのだが、私自身まだ茫洋としたイメージでうまく説明できない。ただこんな哲学の講義なら、もういちど大学に入り直して勉強してみたいものだと互いにうなずきながら帰ってきた。林業への転職の夢を捨てきれない友人は、深夜の名阪道をさらに四日市へ向けて帰っていった。

 気がつけばすり足で、だが確実に、秋の気配。だが私の夏は、すこしだけ足取りも重たい。もうすこしだけ、この夏をひきずって歩いていこう。

2001.8.18 深夜

  

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 大型の台風が近づいているようで、朝から強風が吹き荒れている。夜の弁当に豚肉とニンニクの芽の炒めもの、もやし炒め、ポテトサラダ、キャベツの千切り、おにぎり4個をつくって病院へいく。夕方にK先生が回診に来て、明日から抜糸を始めましょうか、と言う。月曜から三回に分けて様子を見ながら糸を抜き、早ければ水曜には、すでに一月近くにもなるうつ伏せ固定がようやく解かれるかも知れない。現状では皮膚下での脊髄液の漏れもないようで、うまく接着してくれたと判断して構わないという。つれあいはうつ伏せから解放される日が間近になってとても喜び、もう一日中でも抱っこをしてあげると言う。私は、言葉が理解できたら「おい、もうあと三日の辛抱だぞ」と赤ん坊に伝えてやりたいものだ、と言ってK先生に笑われる。

2001.8.19 深夜

 

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 午前中、郵便局でこどもにかけておいた学資保険の説明を聞く。今回の入院に際して、(まだ加入一年未満のため僅かだが)お金が出るというのだが、果たして先天性の病気はその適用範囲かどうかが不明なのだ。センターに問い合わせたら、とりあえず入院証明書を提出してもらって判断材料とするというのだが、入院証明書を書いてもらうのも金がいるので、提出をしてダメだったら損をすることになる。私が直接センターに聞くからと連絡先を問うと、奥から局長が出てきて、加入時に病気の存在を知らなかったことが確認されたらまず大丈夫です、退院の時に証明書を依頼して、あとは何時でもざっくばらんに相談にきてください、こちらもなるべく良いようにフォローしますから、と言う。この郵便局では以前に杓子定規な証明書の提出に私が立腹したことがあって、局長氏はあのときのように直接センターへもめごとを持ち込まれるのを恐れたらしい。べつにそんなつもりじゃないんだがと思いつつ、今回は素直に従うことにする。

 10時半の電車に乗り、途中天王寺の王将で餃子弁当と麻婆豆腐丼弁当を買って病院へ行く。今日は昼からつれあいの両親が、また3時頃からつれあいの博物館時代の友人が見舞いに来てくれた。午前中に抜糸が行われた。等間隔に半分。赤ん坊はさいしょに一言、ほおっーと声をあげただけで泣かなかったらしい。残りは様子を見て明日か明後日に。

 台風が接近中。近畿は明日の夜から朝にかけてが山場らしい。電車が止まる恐れもあるので、どちらかが病院で一泊しようかとつれあいと話すが、彼女は前の大型台風のときにわが家のアパートがひどく揺れたのが怖かったらしく、家でひとりでいるなら病院の方がいいと言う。

2001.8.20 深夜

 

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 台風渦中の昨日で抜糸は終わり、今日の夕方、赤ん坊はようやっと一ヶ月近くに及んだ窮屈なうつ伏せ状態から解放された。傷口を保護するテープを貼るために、いったんナース室の奥の処置室へ連れて行かれたのだが、出てきたとたんナース室に居合わせたほぼ全員の看護婦さんや研修生たちに代わる代わる抱っこの祝福を受け、最後にK先生の腕に抱かれて病室へと戻ってきた。そのときの赤ん坊の嬉しそうな顔といったらない。そうして親の手元に渡されたのだが、つれあいは、やっとこの子を抱いてあげることができた、と紫乃さんを抱きしめながら思わず涙を浮かべていた。

 明日からぼちぼちと、退院へ向けてのリハビリである。ひとつの幕が閉じて、またあたらしい別の幕がひらくのだろう。

 夕食の後、赤ん坊をプレイ・ルームに連れていった。入院前に比べるとやはり脚力がいくぶん劣った感じだが、それでも憂鬱な拘束衣から解かれた解放感からか、嬉々とした様子でプレイ・ルームの硬いカーペットの上を“ハイハイ”で懸命にかけずりまわっている。久しく見ることのなかったそんなわが子の姿を前に、私の胸も何か熱い気持ちが膨らんできてしまう。

 今日はとても嬉しいからと、つれあいも最後の夜の10時まで私といっしょに病院に居続けた。帰りの地下鉄のホームで、こどもを虐待する親は病気のこどもを持ったらどんなにこどもが大切かよく分かるだろう、病気ゆえに健康なこどもの何十倍もわが子がいとおしくてならない、と言ったおなじ病室のRくんのお母さんのことばを、つれあいは私に話す。紫乃さんが普通のこどもと同じく歩いても何とも思わなかったろうが、いまは何とか歩けるようになって欲しいというその気持ちでいっぱいだ、と。

2001.8.22 深夜

 

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 昼の11時頃、台所で自分の昼食と病院へ持っていく夕飯のこしらえをしていたらつれあいから電話があり、今日はリハビリテーション科での診察があるらしいからなるべく早く来て一緒に話を聞いて欲しい、また付添用の椅子が減らされて各ベッドにひとつになったので折り畳みの椅子を調達して欲しい旨の連絡があった。予定していた夕食の菜はもう少し時間がかかりそうだったので明日に回すことにして途中の食材をすべて冷蔵庫に押し込み、急ぎ身支度をして電車に飛び乗った。途中の天王寺でいつもの王将の弁当をふたつ買い、椅子は後で船場のセンター・ビルにでも行って安いやつを探してこようかと思っていたのだが、そういえば前に病院の裏手に粗大ゴミが捨ててあったのを見たなと思い出して地下鉄の出口を上がってからちょいと覗いてみたら、うまいことに事務用の椅子がふたつ並んでいた。そのうちの状態の良い方を片手に抱えて、病室へ上がっていったという次第。

 

 リハビリテーション科での診察は3時頃に行われた。

 赤ん坊は内反尖足といって左足首が内向きに反り、またバレリーナのようにつま先立ってしまう変形がこれまで見られていたのだが、今回の診察で、右足の方も左足ほどではないものの、やや内側へ反りがちであることが判明した。これは骨の変形ではなく、神経が麻痺をしてしているために使われずにいる筋肉が硬くなり、結果としてそのような形になってしまうものらしい。よって今回のリハビリは動きを回復させるものではなく (リハビリで麻痺した動きが回復される可能性は少ないという) 要するに装具等の着用によって歩く練習をするために、足が正常の形をとりやすいように硬くなった筋肉をほぐしてやる、ということが主な目的であるとのこと。

 医師の見立てでは、両足とも蹴る力はかなりあるようだし、右足は足首の動きもだいぶ良いので、現状で予想される状態としては、まあ装具等を着用して自力で歩けるようにはなるのではないか、と言う。運動会の競技のように走ることはできないが、「横断歩道を小走りに進む」程度なら可能だろう。坂の上り下りは若干しんどいだろうが、できないわけではない、と。

 また整形外科の方でも後日診てもらい (ちなみに担当のH先生は、日本でも三本の指に入る整形外科の名医だそうな)、リハビリの様子を見て、あるいは足首の筋肉を何らかの形で処置して形を矯正するための手術が数ヶ月後に持たれるかも知れない。リハビリは入院中に毎日、二週間の予定、退院後は週二回通院して行われるそうだ。

 ただし前に手術のくだりで書いたように、現在見られる症状が脂肪腫の脊髄に対する圧迫が理由によるものであったとしたら、脂肪腫の切除によって圧迫は取り除かれたわけで、現在麻痺している神経の回復の可能性は残されており、その場合は上記の限りではない。私たちとしては覚悟はしつつも、後はその可能性にかけるより他にない。

 リハビリテーション科で診察を待っている間、ちょうど我々のすぐはたで、中学生らしい女の子が医師の両手で腰を支えられて歩行訓練をしているところだったのだが、つれあいは目に涙を浮かべてそれをじっと食い入るように眺めていた。そしてあとで、自分たちは何気なくしていることだが、歩くというのは本当はとても複雑で難しいことなんだね、と繰り返し話していた。

 ともあれいまは奇跡が起こることを、その可能性を、つれあいも私も、ただひたすら祈ってやまない。

2001.8.23 深夜

 

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 午後から、今日は天満橋にある松坂屋内の本屋に立ち寄って、こどもの絵本をいくつか買って病院へ向かった。ひとつは戸田デザイン研究室から出ているシンプルな絵本で、もうひとつはクレー風の抽象楽譜的な絵にジャズ・ピアニストの山下洋輔が「もけら もけら もけら んば」といった面妖な擬音語・擬態語を散りばめたもの。それから詩人の谷川俊太郎の「かっぱ かっぱらった」のような言葉遊びの絵本を続編と合わせて、計4冊。またこどもの本に便乗して私も一冊、柄谷行人を中心に浅田彰・坂本龍一・村上龍らが集った『NAM生成』(太田出版) を購入した。ひさしく遠ざかっていた現代思想の知の現場をちょっと覗いてみたくなったのだ。

 赤ん坊の方は、午後から初回のリハビリがあった。担当してくれるのは (昨日の診察時の医師とは違い) 大阪市内のBという全国的に有名なリハビリ専門の病院から来ている医師で、あとで回診に来たK先生はつれあいに「良い先生に当たりましたねえ」と教えてくれた。何でも「魔法の手を持つドクター」と言われる優秀なリハビリ医なのだそうだ。そして医師はつれあいに、レントゲンを見ましたが、ぼくの経験ではこの子はふつうに歩けるようになるんじゃないかと思います、と言ってくれたらしい。走るのは無理だが、リハビリによって装具を使わなくてもスムーズな形で歩けるようになる可能性がある、という意味だ。つれあいが大喜びをしたのは言うまでもない。

 リハビリの時間は30分程度だが、こどもの扱いに馴れた先生のようで、赤ん坊はとくに嫌がりもせずに無事こなしたようだ。なるべく赤ん坊本人に、足を意識させるよう促すこと。上体を立たせるためには腹とお尻の筋肉の力が必要であること。足の皮膚の新陳代謝を活発にするために、常に皮膚をこすって清潔にしておくこと。またリハビリはくれぐれも赤ん坊が嫌がらないように、嫌がったら即座に中止すること、など。(刷毛で足をくすぐると、両足とも退けた。それから赤ん坊は医師の手から刷毛を取り、自分で足をなぞってみせた。「ほう、この子は頭がいいね。すぐ覚えるな」と医師)

 赤ん坊は身体が自由になった解放感からだろうか、昨日からひどく機嫌がよくて、何でもないことでもけらけらとよく笑う。今日も何とか10時前に寝かしつけて帰ってきた。ただ今日は見舞いに来たつれあいの両親を送って彼女が抱っこをして病院の裏門まで出たとき、ちょうど外の通りを喧しい馬鹿右翼の宣伝カーが大音量で通り、驚いて泣き出してしまったそうだ。つれあいが帰るときにこんどは私が抱っこをして送ったのだが、夜で交通も割合静かだったにも係わらず、門へ近づくと昼間の記憶が蘇るのかひどく怯えて愚図りだした。こんなところも案外、入院生活で精神的に敏感になっている部分もあるのかも知れない、とも思う。

 明日から二日間は土日のためにリハビリは休みである。来週の週末には外泊が許されそうなので、金曜の夜からひさしぶりに家族三人揃ってわが家で過ごせそうだ。つれあいはその日がくるのを、いまからとても楽しみにしている。

 夜、つれあいと、赤ん坊にはいろんなことをやらせてあげたい、生まれる前からいろんなことをやらせてあげたいと思っていたが、不自由な身体になってそれ以上に出来るだけいろんなことをやらせてあげたいと思う、リハビリの一環として赤ん坊のうちからスイミングにも通わせたい、そんな話を交わした。そうして彼女は布団に横たわったまま、「だって、わたしたちがつくったんだから」「紫乃さんが、生まれてきて良かった、と言ってくれるようにしてあげたい」 そう言って、また涙をぬぐう。

2001.8.24 深夜

 

*

 

 今朝は永らく病室を共にしてきたRくんが退院をしていった。独身時代は雑貨屋や古着屋などをやっていたという、いかにもナニワのお母ちゃんといった風のまだ若いRくんの母親は、私は当初、就寝時間後でも大きな声で喋ったりする粗雑な感じが好きではなかったのだが、いつの間にやら家族ぐるみで仲良しになっていた。Rくんの看護に対するナース室との確執がもとで退院を数日前に控えてもめ事が起きたときには、つれあいは婦長さんとの仲介役に回り、私は私で激怒しているRくんのパパを深夜の喫煙室でなだめたりしたのだが、そんなこともあってか今日の退院に際して、手書きの真摯な手紙と共に紫乃さんに安くはない玩具を一箱置いていってくれたのだった。Rくんが退院して、病室はだいぶひっそりとさみしくなった。

 午後、同じ病室のSくんのお母さんから、Sくんの使っている足の矯正のための装具を見せてもらった。その他にリハビリや障害者手帳の申請についての話など。1歳8ヶ月のSくんは、水頭症ために重い知的障害がある。私はこのSくんに対して初めの頃、遠慮がちで他のベッドのこどものようになかなか面と向かって接することができなかったのだが、このごろはやっとふつうに声をかけたりできるようになった。

 土日は診察が休みなので、看護婦さんの人数も少なく、病室はのんびりとしている。今日は弁当にチャーハンと鶏肉の香草焼き、カイワレとセロリのサラダなどをつくって持っていった。紫乃さんは相変わらず、病室内でもナース室の看護婦さんたちの間でもひどく人気者だ。どこかのほほんとした愛嬌があるらしい。私がプレイ・ルームで遊ばせていても、通りかかった若い看護婦さんたちの誰もが笑みを浮かべて近寄ってくる。この人徳は確実に私ではなく、つれあいから受け継いだものだ。だから赤ん坊はきっと、つれあいと同じように、私と世間のあわいをつなぎとめるやわらかな皮膜でいてくれるだろう。磁石のように偏屈なこの私と世界の物象を結びつけてくれることだろう。

2001.8.25 深夜

 

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 手術以来、はじめての外出許可をもらい、午後から赤ん坊を連れて隣駅のアカチャンホンポへ行った。赤ん坊にとっては一月ぶりの外の世界だ。ベビー・カーの中でたのしそうに周囲を見回している。だが日曜の、おまけに何かのセールの日であったらしく、12階ある店内はどこも子連れで大混雑。私も確実にその一人なのだが、うんざりして不機嫌になる。つれあいがいつもの親切心を振る舞い同じ病室のお母さんたちからの注文も取ってきたため、よその家の買い物も探し回る。わが家は紫乃さんのおやつの野菜クッキーと、秋物の服を二着買った。最後の頃に赤ん坊を連れて私は店外へ避難する。自動販売機でカルピス・ウォーターを買い、シャッターの閉まった店の前で紫乃さんと二人で仲良く飲む。赤ん坊は空になった缶を両手で大事に抱えて通り行く人々を眺めながら、うにゃうにゃとご機嫌に喋り続けている。

 今日は昼に私が行くと、つれあいが「Sくんのお母さんがね」と声をひそめて言う。例の水頭症のこどもの母親が二分脊椎で入院している二ヶ月のHちゃんの母親に、いまは症状が出なくてもHちゃんもそのうち足の変形が出てくるかも知れない、なぞと言ってHちゃんの母親が怒ってしまったのだそうだ。Sくんの母親はときどきそんな無神経な物言いをして、他の母親から嫌がられている。今日も別のベッドの母親との会話で、自分の二人のこどもを選挙カーの連呼のように障害児、障害児と誇示するように呼ぶので、「何もそんな言い方をしなくたって...」と相手の母親も困惑していた。もう何が起こっても驚かない、と平静を装っているこの母親も、内心は叫びたくて堪らないのだろう、と見ていて私は思ってしまう。ただこのお母さんの場合、それがある種の自虐も交えて奇妙に歪んだプライドとなり、他の病気のこどもを抱えた母親たちの心情に対するこまやかな配慮を失ってしまっているのが悲しく、困ったところだ。このSくんの母親はそんなふうに暗い病気の話題ばかりしたがるし、もう一人の股関節脱臼で入院しているHちゃんの母親は口を開けば病院に対する苦情と身内の悪口ばかり言っている。そういう光景というのは、端から見ていてとても見苦しい。

 

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 今日は午後の2時40分より一時間ほどリハビリがあり、私も見学させてもらった。玩具を持たせて、飽きさせず、嫌がらせず、実に手慣れている。赤ん坊もすっかり先生を気に入っていて、次は何を始めるのかと興味津々である。話を再度伺ったところでは、3歳くらいには歩けるようになるのではないか、ということ。ただ装具をつけた形かどうかはまだ分からないようだ。階段の上り下りなんかはどうでしょうかと訊くと、いまはとにかく立つことが先決でしょう、あとはそれから、と言う。現時点では、とりあえず自力で歩くことはできるだろう、ということらしい。

 リハビリから戻ってから、約一月ぶりに看護婦さんにお風呂に入れてもらった。ところが水をひどく怖がって泣いてしまったらしい。病室に戻ってきても、何かとてつもなく怖ろしいものを見てきたようにすっかり怯えて、ときおり悲鳴をあげる。ひさしぶり、ということもあるのだろうが、こんな怖がり方は以前にはなかった。二度の手術を含めた入院生活で、心のどこかに「恐怖」という観念が植え付けられてしまったのではないか、という気さえする。それを思うと、心が痛む。つれあいと二人で何とか落ち着かせたあとは、昼寝もしなかったせいもあるのだろうが夕食も忘れて眠りこけてしまい、そのために時間がずれ込んで、夜は寝かしつけるのが一苦労だった。

 赤ん坊の担当の看護婦のKさんが、夏休みの北海道旅行のおみやげにと、紫乃さんにペンダントにもなる素焼きの小さなオカリナを買ってきてくれた。ほんとうは禁止されていることなので、内緒で、と。

2001.8.27 深夜

  

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 週末の一時帰宅が一日早くなり、明日の午後のリハビリを終えてから帰宅できることになった。金曜のリハビリが担当医の休みでなくなったためである。次は月曜のおなじ時間のリハビリに間に合うよう戻ればよく、延べ4泊5日、約ひと月ぶりに紫乃さんはわが家に帰ってくる。プランターの朝顔もなんとか間に合った。

2001.8.29 深夜

 

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 リハビリはいつもリハビリ室の奥の、床が革張りになっている20畳ほどのスペースの上で行われるのだが、たいていわが家の赤ん坊と同じ時間・同じ場所でリハビリにくる女の子がいる。車椅子に乗ってきて、付き添いの父親か母親と医師に抱えられ、革張りの床へ降ろされる。全身はだらしなく折れ曲がり、表情も不自然に歪んでいる。私は当初、先天的なダウン症か何らかの知的障害かと思っていたのだが、あとでつれあいが母親から聞いた話では、ミドリちゃんというその少女は、中学生のときに交通事故で頭を打ち、以後3週間意識不明であったのだという。ある一瞬を境に、そんな姿に変わってしまったのだ。両親の嘆きは如何ばかりであったか、とても計り知れない。

 ミドリちゃんはいつも、上半身をあげている練習をしている。「今日は3分」と言うのだが、たいてい1分くらいでダウンしてしまう。そのたびに医師や両親が「ほら紫乃ちゃんは頑張ってリハビリやってるよ。ミドリちゃんも負けないように頑張らなくちゃ」と励ますのだ。

 一時帰宅を許された木曜の午後も、そんな光景だった。ミドリちゃんがダウンをしたところで、リハビリを終了した紫乃さんが、ちょうどミドリちゃんの頭の近くへはいはいをして近寄っていった。ミドリちゃんは口は利けないのだが、筆記で会話ができる。父親が差し出した画用紙に、仰向けのままふるえる手で何かを書き出した。父親がそれを声に出して読み上げる。「しのちゃんのかわいさにまけた」 父親も医師も私もつれあいも、みんな思わず大笑いをした。

 比べるということでなく、何かもっと別の意味で、こちらが慰められ励まされることもあるのだということを知った。

 「みどりちゃんのあかるさにまけた」

2001.9.1

 

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 4泊の一時帰宅もあっという間に終わってしまい、昼からふたたび病院へ。建物に入った途端、ベビー・カーの上で上機嫌に喋り出したのは、病院を避暑地の別宅くらいに思っているのだろうか。今日から病室が変わった。ナース室からやや離れた、いわば退院予備軍に編入された具合だ。ところでこんどの病室には、物を食っているかテレビを見ている以外は腹の底から絞り出すような声でだだをこねる関取の如き3歳の男の子がいる。紫乃さんは当初、かの悪魔の咆吼を聞いて怯え出し、親も食べかけの弁当を捨てて病室を逃げ出すほどであった。この子がまた私とおなじ名前なのだ。つれあいは、我が儘なところは○○さんと似てるわ、と意地悪なことを言う。やれやれ、ともかくどうなることやら。

 二度目の手術を終えてから、そろそろ4週間になる。うつ伏せ2週間、その後リハビリ2週間の予定で、もう今週あたり退院だろうとつれあいとも話しているのだが、まだ正式な話は来ていない。整形外科の診察も残っている。午後のリハビリでは、だいぶ右足が安定してきた、身体を支えられるようになってきた、と言われた。こちらが見ていても、確かに進歩が分かる。

 夜、なかなか寝つかない紫乃さんを抱いて廊下を歩いていたら、車椅子に乗ったミドリちゃんが手を振ってきた。はじめて筆談を交わしたが、すでに書かれた文字の上に速いスピードで重ねて書くので、彼女の父親のようにうまく判読できない。もう少しゆっくり、とお願いしたら、新しい紙に改めて書いてくれた。リハビリでいつもおなじ時間だね、と書いてから紫乃さんに手を差し出すのだが、赤ん坊はミドリちゃんの不自然な動作につい身を引いてしまう。恥ずかしいのかな、と慌ててフォローをした。ミドリちゃんは明るくてほんとうに可愛い。もし事故に出会っていなかったら、きっともっと可愛かったろうと思うと、胸が痛む。だが逆説のようだが、私の知らないかつての健康な彼女より、いまのミドリちゃんの存在はもっと輝いている、となぜか思う。いや、比較の問題ではないのだ。どんな形であれ、いま、彼女が存在しているということの素晴らしさのようなもの、だ。

 帰りの電車の中でつれあいと、紫乃さんが病気にならなかったら、これまで出会ったたくさんのひとたちとも出会うことはなかったろう、といった類の話をした。たくさんの病気と闘うこどもたち、その親たち。つれあいはそして、わが子のように回復を願ったり、悔しい思いをするような気持ちも持てなかったろう、と続けた。それらはみんな、きっと赤ん坊が私たちに呉れたプレゼントなのだろう。

2001.9.3 深夜

 

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 退院が決まった。今週の金曜日の朝、明後日である。明日はリハビリの他に整形外科の診察があり、MRI等の術後の各種の検査は通いで追々やっていくそうだ。ちなみに翌土曜日は前述した患者の集いの一泊旅行で、昼に病院に集合である。退院後の通いのリハビリは、当初は週二日と聞いていたのだが、担当の先生が多忙で週一日、木曜日しか取れないとのこと。プールでの運動も良いというので、つれあいは近所のサティに併設されているスイミング(赤ちゃんコースがあるのだ)も行かせたいと言う。無論、異論はない。

 ところで心配していた病室の絶叫ボーイは、紫乃さんが入室してからすっかり良い子に変貌してしまった。「お兄ちゃん」の自覚が芽生えたようで、病室が変わった翌朝、つれあいが行くと紫乃さんは看護婦さんにお茶とビスケットを与えて貰っていて、絶叫ボーイがつれあいに「紫乃ちゃんが泣いてたからね、ぼく、ナース・コールで看護婦さんを呼んであげたの」と言ったという。それから毎朝、「きょうは泣いてなかったよ」とか、あるいは給食係のおばさんに「早く紫乃ちゃんのごはんを持ってきてあげて」とか言ってくれるらしい。住めば都で、うまいこと回るものだ。ちなみに絶叫ボーイを含む同室の二人の男の子は「ネフローゼ」という病気で、もう長いこと入院しているらしい。

 今週から三人目の研修生がついた。うちは何かの手違いで今回は男性、22歳の看護士見習いが担当になり、ナース室の副婦長さんより構わないだろうかとお伺いがきた。赤ん坊とはいえ、女の子でオムツの取り替えや入浴なども見られるので、中には嫌がる親もいるのだそうだ。私はそうした感覚はないのだが全く個人的な気持ちで、「できたら若い女の子の方がいいんだけどなあ」と呟いたところ、つれあいはそれをそのままナース室に伝えた。後で廊下ですれ違った副婦長さんに「お父さん、このたびはご協力有り難うございます」と丁寧に挨拶され、照れ笑いを浮かべたのである。

 駅のホームや電車の中でちいさな女の子を見かけるたびに、このごろは足下ばかりに目がいってしまう。そして三日にいっぺんくらい、病院へ出る地下鉄の階段を登りながら、ふと思い出したように「足首を使わずに階段を上れるだろうか」と考える。立ち止まり、試してみるが無意識に使っている。こうじゃない、とやり直して、ふだん使っている動作を意識的に止めるのは案外難しいものだ、と思う。膝の動きだけで登るようにして、こんな感じだろうか、だいぶスローになるな、これじゃ混雑した通勤時には不便かも知れない、なぞとあれこれ考えながら、病院の門の前へ出てくる。

 ともかく、一月半に及んだ入院生活もあとわずかで終わる。紫乃さんを家に迎えて、またあたらしい始まりだ。平凡な言い様かも知れないが、リハビリも、これからの生活も、家族三人でひとつのいのちのように支え合っていく。

 今日はつれあいが帰ってから、紫乃さんをベビー・カーに乗せてこっそり、病院に隣接する難波宮跡の広い公園の敷地に連れていった。ここは大昔には大きな都があったんだよ、大きくなったらもっとたくさん教えてあげるからね、などと言いながら、ときおり誰かがあげる打ち上げ花火を赤ん坊と二人で眺めていた。はや、秋の気配が。

2001.9.5 深夜

 

 

 

●参照

二分脊椎ウェブサイト(厚生労働省 班研究ウェブサイト)

日本二分脊椎症協会ホームページ

日本二分脊椎・水頭症研究振興財団

のぶの二分脊椎症に関するホームページ

大手前整肢学園

 

 

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