■日々是ゴム消し Log52 もどる
子は教会(+元の幼稚園)の土曜学校のお泊まり会。大きなリュックを背負って懐かしい幼稚園の先生たちのもとへ。みんなでカレーをつくり、お化け屋敷の催しがあり、翌朝にはお祈りの祭儀をして、明日の昼前に帰ってくる。送っていく車の助手席で窓を開き、田植えの田圃を渡ってきた風に吹かれて「胸がどきどきして、息ができないくらいなのよ」 子は数日前からじぶんの机の置いてある居間で夜、ひとりで寝ている。「じぶんの部屋」がある友だちの影響かな、とYと。「ひとりで怖くないのか」と訊けば、「そりゃもう、とっても静かでステキ。お父さんの寝言もいびきもなくて・・」なぞと仰る。長いこと恒例だった寝床での本の読み聞かせもいまでは「じぶんで読んだ方が早い」とすっかり廃れて、成長してきた証なんだろうけど、何やらちょっぴりさみしいね。
後に残された水入らずの夫婦は、このときとばかり映画の連続鑑賞会。夕方から簡単な夕食をはさみ深夜まで(職場の同僚に借りた)「パイレーツ・オブ・カリビアン」、「ミッション・インポシブル 3」、そしてキューブリックの「バリー・リンドン」とたてつづけに。「パイレーツ・オブ・カリビアン」は現在三作目が上映中のようだけれど、飄々とした海賊らしからぬ道化のジョニー・デップがはまり役なんだろうな。こちらが助走だとしたら、続いて見た「ミッション・インポシブル 3」は全編、息もつかせぬ全力疾走。こうしたスピード感は年々増していくような気がして、逆にキューブリックが18世紀ヨーロッパの農村や上流階級を描いた「バリー・リンドン」の画面が何やらひどく間延びしているような錯覚を覚えてしまう。森に差し込むやわらかな陽光やローソクの灯りや沈黙や静寂などが、どこか奇妙にまどろっこしい。作品のタイプが異なるので同じ土俵で論じるのは愚かしいんだけれども、スピードというのは観る者の思考を奪う。マインド・コントロールにコツがあるとすれば、それは「相手に考えさせる余地を与えない」ことだ。一見なにもないような風景が、立ちどまり、静寂の中で問いかけてくるような、そんな画面がいい。もちろん「パイレーツ〜」も「ミッション〜」も後腐れのない娯楽としてはサイコーで、他のシリーズも観てみたいけどね。結局、わたしがほんとうの意味で映画に求めているのは、「空疎な娯楽」ではないんだな。ちなみに「バリー・リンドン」はYいわく「サイテーの男でむかむかする」。
ときおり二人して、「いまごろ、夕飯だねえ」「布団に入った頃だねえ」なぞと言い合いながら。
2007.6.2
* えっちらおっちら、子が本の束を抱えて歩いていく。シノちゃん、がんばれ。カウンターで図書館司書の若い女性が手招きをしている。子がカウンターの上に本の束をおく。シノちゃんはこんな小さな頃からずっと来てくれてるもんねえ。どれ、いままでの本の数を数えてみようか。司書の若い女性がパソコンの画面を操作すると「521冊、のべ129回の利用」。もっとも冊数の方は、ときに両親のカードも使っているから実際は倍近くあるかも知れない。
2007.6.3
* 夜勤明けで夕方、目を覚ますと、Yが今朝担任の先生から渡されたという「学校生活管理指導表」なる書類をもってきた。小学校の6年間に行う主に体育の項目を「運動強度」別に分けたもので、これに医師(整形外科)の確認・サインが要る。提出までは来週から始まる予定のプールに参加できない、という。Yはさっそく大阪の病院へ連絡を取り段取りをつけていたが、先生の都合等で書類が整うのは月末になってしまう。「それはナットクしかねる」と、わたしはさっそく学校に電話をして、担任のT先生にその旨を伝えた。入学前に教育委員会で指定した地元の整形外科の医師の診断を受けたのは、あれは何であったのか。よしんば別個に書類が必要であるとしても、それは入学時に分かっていたことで、なぜプールの始まるわずか一週間前にとつぜん言ってくるのか。大人の都合のために、子が、みながプールに入っているのを一人我慢しなくてはならないというのは、申し訳ないけれど承服しかねます、とわたしは先生に伝えたのだった。折り返し教頭先生から電話が来て、わたしが夜勤明けで帰宅する明日の午後、子を迎えに行った際に学校で話をすることになった。
2007.6.4
* 校長室での話し合いは教頭先生、保健の先生、担任のT先生、そしてわたしの四人で(校長先生は所用で欠席だった)。子は職員室のT先生の机にひとりすわって待っていた(手元の人権問題の本を読んでいたとか)。まず教育委員会による入学前の事情聴取・園の見学(体操)・医師の診断書・地元の整形外科による検診等の資料は、入学決定後は何ら学校側に引き継がれていないとの由。今回のプール開始に当たって(おそらく学校からの問い合わせで)唯一、脳神経外科の診断書がFAXで送られてきたのみ、と。この辺の横のつながりの悪さは、やっぱり「お役所的」ですな。「教育委員会のは入学審査のものだから」と教頭先生が仰るので、それでもわざわざ整形の医師が検診をするからには、プールも含めた学校生活全般を考慮して判断しているのだろうから、それが何にも学校に伝わってないというのは一般の感覚として首を傾げてしまうけれど、とわたし(実際、学校側は整形外科の検診があったことさえ知らされていなかった)。まあ、教育委員会の自己完結はこの際、どーでもよい。要は今回のプール開始にあたって、学校側は子がどの程度まで対応できるのか、事前に配布した連絡にあったように----そこには「心臓病・腎臓病・てんかん等の慢性的な持病を持ち、継続的な通院をしている児童は医師の許可証を提出して欲しい」旨が記されていたのだが、Yは子がそれに含まれないと判断していた----子の障害がプールの授業にどのような差し障りがあるのかないのか、その辺の感触がまったく掴めていなかった、というのがそもそもの発端らしい。それまでも前半は、当たり障りのない一般論ばかり聞かされていたので、今回の医師の診断書の提出を指示した保健の先生(女性)が「私たちもそのへんのところがまったく分からなかったので・・・」と性急な調子で言いかけた途端、こちらは夜勤明けの睡眠不足もあったか、ついむっときて「分からないんなら、訊いて下さいよ。子どものためなら、こっちはいくらでも時間を作りますよ。それを話も訊かずに急に書類を出してくれ、出すまではプールに参加ならず、と一方的に伝えてくるのはどうなんですかね」と思わず声を荒らげてしまう場面もあったりしたのだった。結果を言えば、「今回こうやってお父さんの話を聞くかぎりではプールには支障がないと見られるので」プール開き初日からの子の参加は認める、そして、書類提出の告知が遅くなったことは申し訳なかったと謝罪を頂いた。わが家の方も月末になるが、整形外科の診断書は提出しますと改めて約束をした。最後にこれからもいろいろな事があると思うので、書類云々といった形式的なことだけじゃなくて、もっとお互いにコミュニケーションをとりましょう、と再確認をして校長室を辞したのだった。ママチャリのうしろに子を乗せて走らせながら、わたしはひどく疲れていた。わたしは冷静に正論を言ったのか、やり方は正しかったか、それとも子ども愛しいで過剰反応するたんなるバカ親だったのか。学校側との相互理解は深まったのか、壁を作ってしまっただけか。教育委員会、校長、教頭、担任の先生、保健の先生、それぞれの思惑もあるようでいて、何だか腹を割って話したという感触にはイマイチ遠いんだな。話し合うということは難しいことだ。それでも「プールははじめから、みんなといっしょに入れるよ」と伝えた子が嬉しそうな顔をしているのを見ると、まあ、これはこれでいいか、とも思うのだった。
「子どもの脳を守る―小児脳神経外科医の報告」 (山崎麻美・集英社新書) を夜勤勤務中の夜明け頃に読み終える。病院でごく身近に接していて、十数時間に及ぶ子の手術を二度(延べ三回)執刀してくれた先生だけあって、語られる言葉のひとつひとつが感慨深い。のっけから親の虐待で硬膜下血腫と脳挫傷で運ばれてきた3才の女の子の話が出てくる。手術の甲斐なく数週間後に亡くなったこの幼い命について著者は「この子の無念だけは、なんとしてでも晴らしてあげたい」と激しく思う。それがひとつの出発点。それから幼児の脳について、幼児虐待の判断の難しさについて、なぜそのような虐待が起こるのか、親との交渉やときにメディカル・ソ−シャル・ワーカーや行政機関を通じた対応について、語られる。あるとき、虐待を受けて入院した子どもの一時的保護を通告する際に、父親が暴れる可能性があったため病院に警察官を待機させようとしたところ、病院の「事務方の責任者」がそれは医療外のことだから病院の外でやればいいと異を唱えた。著者はこうした「事なかれ主義」に真っ向から反論する。「虐待を受けた子どもの退院後の生活を考えるのは、まぎれもなく医療の一環であり、もし、状況がなんら解決されないまま同じ環境に子どもを戻し、その子どもが再び虐待を受けて病院に運び込まれてきたら、それは医療の責任だ」と。結局、とどのつまりは「人間」なのだ。人が人として他者にどれだけ寄り添えるか、あるいは寄り添ってやりたいと決意するのか。そうした意味で著者がときに悩みとまどいながらも寄り添い続けた医師としての日々はとてつもなく重たく、わたしはその重みを想像してみて呆然とする。同時に著者はみずからが幼い子どもを抱えて働いていた頃に、ついいらいらして子どもにきつく当たるときがあった、そんなとき周囲のサポートや助言がなかったら、あるいはじぶんも幼児虐待をしていたかも知れないと告白する。そのときの経験が、虐待する親はもともとが「鬼のような人間」ではないという著者自身の視点となり、後には(主に子どもを抱えた)女性医師の労働環境改善の取り組みへとつらなっていく。またこの本には、出生前診断や遺伝病の話にからみ、障害を抱えた子どもを授かった多くの親たちのエピソードが紹介されている。そのどれもが、同じような病気の子どもを持つ父親であるわたし自身を映し出した多面体の鏡の鏡像のようで、先日も食卓である母親のセリフをYに伝えているとき思わず落涙しかけ言葉につまってしまった。とまれこの本の魅力は、そうした個人的な思い入れを引いたとしても、その平明で真摯な語り口が医師活動30年を通じて、医療現場という軸から子育てや家庭、働く女性、差別、生死や病といった様々な事柄へその思考の触手を広げていくさまは、障害や病気といったものに(とりあえず)無縁な一般の人々が読んでも遜色がない。そもそも本書は「ニンゲン」についての、含蓄のある一冊だからだ。ぜひ多くの人に読んで頂きたい。なお、著者であるY先生に敬意と感謝を込めて、アマゾンのカスタマー・レビューに一筆投稿した。読了後の明け方、寝不足でやや混濁とした脳細胞による業だからあまり大した文章にならなかったけれど、参考まで以下にも引いておく。
ボブ・ディランというアメリカのシンガーがいます。かれは若いときに、スタインベックをして「偉大な民衆詩人」と言わしめたウディ・ガスリーという一人のフォーク歌手に大きな影響を受けるのですが、そのときの出会いを後に次のように表現しました。「かれ(ウディ・ガスリー)はニンゲンという一冊の本を持ってきて、これを読めと言った」と。当初、小児医療、脳神経外科といった興味から読み始めた私が、本書を読み終え最後のページを閉じながら、いま感じているのはそれと似たような感慨です。まさに本書は「ニンゲン」について書かれた大きな一冊です。紹介したいエピソードはいくらでもあります。そのどれもが平易な、等身大の言葉で語られながらも、生と死のはざまにあって、または困難な病気を抱え、ときに大きな手術を目前にして、幼い子どもの死を間近にして、苦悩し、身もだえし、格闘し、乗り越えていった母親や父親、家族、そして子どもたち自身の、重たい記録です。それらに30年間寄り添い、医師として治療に尽力してきた、自らも二児の母親であり妻である著者が考えてきたこと。それが幼児虐待であったり、家族の形や子育てであったり、死や最新の医療現場、出生前診断や遺伝病、障害者や差別のことであり、また医師の労働環境の改善であったりして、さながら深い思いに染め抜かれたさまざまな模様のようなそれらをまとった一枚の大きな藍染布が本書であり、そこには「ニンゲン」がくるまっています。その顔はときに、理不尽な虐待を受けて無念に死んでいった子どもの顔であったり、短い生を懸命に輝かせて死んでいった子どもの顔であったり、または「次の子も同じ病気でも大丈夫。だって大ちゃんはこんなにかわいいもん」と健気に言ってみせる母親であったりして、本書を読む者はその一人一人の顔を通して結局、著者が最終章に記している「違いや多様性を、切り捨てない社会、見捨てない社会」について、きっと思いをはせるのでしょう。
2007.6.5
* 休日。夫婦揃って自転車で子を迎えに行き、旧市街にある良玄禅寺へ、クラスから選ばれた子の絵を見に行く。寺の夏祭りのイベントの一環だとかで「綿菓子の屋台もあるかも」などと子と言っていたのだが、昼間は弁財天の堂で老人二人が茶飲み話をしているだけで、ひっそりとしてた。ちなみに明治元年、新政府に捕らえられ流罪となった長崎浦上村のキリシタン男女計86名が郡山藩預けとなった際、この良玄禅寺(当時の雲幻寺)本堂に収容されたという。その5年間に及ぶ収容生活で亡くなった6名の信徒を供養した碑が後に、子が通っていた幼稚園の教会内に移され安置されているのも何やら不思議な縁だ。屋台がなかったのでたこ焼きでも食べようかと、豆パン・アポロ御用達の幻のたこ焼き屋を狭い路地に探す。たしかこのあたりだったが・・・ と道ばたのおばちゃんに訊ねると、「ああ、もう閉まってるわあ。いつも10時から2時くらいまでで、年寄りだから長い時間、でけへんのや」と。「教えとくわ。あの角を入ったところ、ちいちゃい屋台がある。また行ってやってなあ」 おばちゃんの声に送られ、仕方なく駅前のスーパーでアイスクリームを買い、帰り道の途中にある土饅頭の墓地のはたの土手に腰かけて食べた。アイスを囓りながら子は最近本で読んだ、闇の世界に襲われる学校の子どもたちの奮闘の話を聞かせてくれる。食べ終わってから、子と二人で雑草に覆われた墓地の中をしばらく散策する。散乱したお供えの茶碗を直したり、裏手の竹林を覗いたり、蝶を追いかけたり。Yは土手で学校の連絡帳などを読んでいる。
夕食はこれからわたしがキュウリとトマトと炒り卵の中華風夏野菜炒めをつくる。Yが子のヴァイオリンをみているあいだに。
夜、寝床で子に宮沢賢治の「虔十公園林」を読み聞かせる。読み終えて「なぜみんなは虔十の林にお金や手紙を送ったのだろう」と問うと、子は「虔十にベンショウした」のだと言う。ほんとうに、その通りだった。
2007.6.6
* いつも子を迎えに行く小学校の裏門のはたに広い敷地を持った大きな家がある。しばらく前であったか、Yが子とおなじ小学校に通っているその家の女の子に会った。子とおなじ1年生で、子を待っているときにひょんな偶然から言葉を交わし「わたし、この家に住んでいるんです」と教えてくれたのだという。「それがねえ、とても礼儀正しい子で、話し方も違うのよ」とYは感嘆したように言うので、わたしはいつもの天の邪鬼で「大きな家とその子の礼儀正しいのは、別に関係ないだろう」と答えたものだった。それから数日後、わたしはいつものように門のはたに自転車を止めて子を待っていた。別の父親らしきおじさん(って、わたしもおじさんか)が50ccのバイクをわたしの後ろに止めて、学校の網のフェンス越しに下駄箱のある方を眺めた。そこは例の「大きな家」につらなっていて、学校の前の曲がりくねった道のために細い三角の中途半端な空間になっている。砂利が敷かれ、背の低い植栽が真ん中にぼつりと植えられ、道との境にふたつほど、錆びた工事用の進入禁止看板が置かれている。わが子を待つおじさんはそこに立っていたのだ。そこへ一人のランドセルを背負った小さな女の子が門から出てくるなり、「どうしてそこに入っているの?」とおじさんに詰問した。おじさんは一瞬のことでよく聞こえなかったらしい。なんだい? というように女の子の方へ体を向けた。「そこはウチの敷地なのよ。どうしてそこに入っているの?」 女の子はまるで領主が百姓を諫めるような口調だ。おじさんは、ああ、そうか、といった感じでのろのろと神聖なる王国領から退去する。小さな領主はそれを見届け、そそくさとお辞儀をひとつして、すたすたと「大きな家」の門へ入っていった。わたしは帰ってさっそくYに「きみのお気に入りのお屋敷の女王様に今日、会ったよ」と報告した。するとYも後日に、女の子が同級生たちと「三角の王国領」の前で戯れているのを見たのだという。女の子はおじさんに言ったのと同じように「ここはウチの敷地なのよ」とみなに宣言し、そして誰々ちゃんは入ってもいい、誰々ちゃんは入ったらダメ、と言っていたとか・・・ たぶん、家の大人たちが「ウチの敷地に人が入って困る」みたいなことを女の子の前でふだんから言ったりしているのだろうけれど、それにしてもわたしは唖然としたな。幼子の心を浸食する「所有」という概念を憎む。
ときどきこんなことを考える。もし、じぶんの命が明日までしかないとしたら、人はこの世に富を積むだろうか。それとも50年・100年育つ樹木の小さな苗を植えるだろうか。樹木の成長をじぶんは見ることができないとして。
2007.6.7
* 陸上自衛隊の情報保全隊とやらの機関がイラク派兵に反対する情報を収集・纏めていたとの報道。「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」及び「情報資料」と銘打たれたその内容は「調査対象は03年から04年にかけてで、自衛隊のイラク派遣への反対運動ばかりでなく、医療費の負担増や年金改革をテーマとする団体も含まれている。対象は41都道府県の290以上の団体や個人に及んでいる。文書には映画監督の山田洋次氏ら著名人、国会議員、地方議員、仏教やキリスト教などの宗教団体も登場する。報道機関や高校生の反戦グループ、日本国内のイスラム教徒も対象となっていた」(07年6月7日・朝日新聞社説) イラクの子どもたちの惨状を伝えた報道写真家の森住卓氏も入っている。前出の映画監督の山田洋次氏については「市民レベルでの自衛隊応援・支持の動きを、有名人の名声を利用し封じ込めようとする企図があると思われる」という記述で、これはほとんどもう戦前の特高警察活動といっしょだね。その意味で朝日新聞が社説に掲げた「自衛隊は国民を監視するのか」という見出しは実に正しい。歴史をしっかりと検証した人がこれまであちこちで言い続けてきたように、軍隊というものは国家という体制あるいは権力構造を守るものであって、国民を守るものではない。沖縄戦が、敗戦後の満州やシベリアでの悲劇が、それを明白に物語っている。だから「行き行きて神軍」の奥崎謙三は、地獄のようなジャングルから生きて帰ってきて天皇に「おれの前で土下座して謝れ!」と絶叫したのだ。生き地獄の中で死んで蛆に喰われていった戦友の墓に「怨霊」の文字を刻んだ卒塔婆を建てて飯盒を炊き黙祷したのだ。沖縄で、満州で、かつてのこの国の軍隊は身を挺して勇敢に民間人を守っただろうか? シベリアで死の淵のような厳寒のさなかでの重労働を強いられていたかつての兵士たちを、この国は救い出しただろうか? そんなことは一度もなかった。考えてみたらいい。権力を持ち、あるいはその体制に依存している者たちは、それらの権力や体制が永続することを願う。力があるのだから、それを現在の体制に反対する「不穏分子」どもの封じ込めに用いたくなるのは、人の心理として当然だろう。ましてや国家機密だとか情報漏洩防止といったお題目でもあれば、あとはやりたい放題だ。要するに今回の報道は、そういう意味では別段驚くに値しない「当たり前のこと」だともいえる。軍隊というものは、それが反体制のゲリラ闘争でもなければ、じぶんたちが拠って立つ体制からの要請によって、あるいはみずからの組織の保身のために、じぶんたちの意にそぐわない存在を常に敵視し監視する。かれらには暴力と権力がある。このわたしにもし何かがあるとしたら、それは言論だけだろう。だからかれらはそれを憂慮するのだ。もちろんわたしのような何の影響力もない無名の人間は箸にも棒にもかからないだろうが、ある程度社会的な影響が推し量られるものについては、その一挙一動が五月蠅く、恐ろしい。刃(やいば)はいつでも適切な機会さえあれば(しかるべき法整備が整えば、と言い換えてもいいが)、わたしたちひとりひとりに向かってくる。きっとディズニー映画のような森の中でテレビのコマーシャルを見ているリスたちの一匹が、みながおどけた天下太平のCMソングに夢中になっている隙にさっと上空から滑空した鷲に音もなく連れ去られるみたいに。もういちど繰り返そう。「帝国」は「帝国」の永続と保身のためにのみ存在する。だがそれは暗黙の合意というやつで、かれらがテレビで流すメッセージはいつも「みなさんの平和と将来のために」というものだ。日本JC(日本青年会議所)のホームページが「青年会議所は“明るい豊かな社会”の実現を目指した、次代の担い手たる責任感を持った20歳から40歳までの青年の団体です」と謳っているようにね。ところで作家の寮美千子氏が数日前、奈良市の航空自衛隊によって開催された航空ショーの模様を書いている。これも併せて読まれたし。当日の昼、わたしは初夏の風抜ける自宅の畳の上でひろげた新聞を腹に乗せて心地よい惰眠を貪っていたところを突然、空をつんざくような爆音ではたと目を覚ましたのだった。自衛隊員コスプレコーナー とやらで迷彩服を着たわが子に「○○ちゃん。かっこええわーっ! 」と七色の嬌声をあげる馬鹿親がいまのこの国の等身大の姿なのであったら、いいんじゃないの。そいつらが将来、中東か中南米かアフリカあたりの戦場に行って殺したり殺されたり刻んだり刻まれたりしても、それがこの国の若年性痴呆症たる運命であるのなら、仕方あるまい。馬鹿が多数でも民主主義だ。おれはとりあえずゲバラTシャツ着て熊野の山中で、孤島に流されたジョニー・デップのようにラム酒ならぬドブロク呑んで寝とくわ。
森住卓 > 自衛隊の内部文書についての緊急声明
2007.6.8
* 月曜(11日)、夜12時過ぎ。仕事を終えた同僚三人と寝ずの夜釣りツアーへ旅立つ。深夜の名阪国道をひた走り、3時頃には目的地である三重県津市の御殿場海岸へ到着。キス釣りを試みたが成果はキス3匹と小さなカレイが1匹のみ。日の出と共に潮干狩りへ突入。遠浅の沖の方まで足を浸せば貝がすくい放題で男4人、短パンやパンツ一丁(わたしだ)の姿でまるで砂金でも見つけた海賊のように、誰もいない水平線上にきらきらと狂喜して乱舞する。いわゆるバカ貝が三分の二、あさりが三分の一、それにマテ貝と赤貝少々で、大きめのクーラーボックスのたっぷりを埋める。10時頃、これも他に客のいない閑散とした海の家でビールを呑む。七輪で貝盛りとイカを焼いて喰う。「バカ貝の下の層にあさりがあるが、みな知らずに上のバカ貝ばかり採って喜んでいる」と海の家のばあちゃんは言い、バカ貝のむき身、それにしぐれ煮を食べさせてくれる。昼前に海岸を引き上げ、じぶんと同じ姓の神社を見たいというY君の要望で市内の結城神社に立ち寄る。東北の蝦夷平定に活躍した福島白川の武将が後醍醐天皇に請われて南朝へ味方する途上で船が難破しこの地に漂着して病死した。長らくそこは結城の森と呼ばれ塚があったが、明治の御代に立派な官弊社が建てられた。このへんに結城という姓は多いのかと問えば、社務所の老婦人は「ほとんどいない。うちもよそから赴任してきた。むしろ福島からたくさんお参りに来る」と言う。思ったより広い整然とした境内で、季節には枝垂れ梅で賑わうという。それから磨洞温泉へ海水を落としにいく。かつて磨き砂を採掘していたという坑道内に設けた座敷での食事と鍾乳洞を模した“洞窟風呂”(共に別料金)が売りで芸能人も大勢来ているようだが、今回は一般¥700の日帰り風呂のみ利用。スパティ・フィラムの咲きそろった露天風呂は貸切状態で、生き返る心地。さすがにこの歳で寝ずの徹夜遊びは少々しんどいね。帰りの車中はうとうとと。3時過ぎにわが家に着き、家の前で貝の山分け。ほぼ一人あたりバケツ半杯。呼び寄せた子は貝に紛れていたワタリガニの子どもを見つけ、貝殻に乗せて大事に持っている。金魚鉢に入れて“ハマちゃん”と名付けたが、3日後に死んでしまった。砂を吐かせ下茹でしたあさりはまず朝食の味噌汁に登場、明日はあさりご飯とバカ貝のバター焼きの予定。
御殿場海岸 http://www.kankomie.or.jp/db/result.php?id=3498
潮干狩りの勧め http://homepage2.nifty.com/NG/siohigari/index.htm
結城神社 http://www.genbu.net/data/ise/yuuki_title.htm
磨洞温泉涼風荘 http://www.ryoufu.com/
*後日に寮さんからこんなメールを頂いた。参考までご紹介(実に旨そうだ)。
バカ貝は千葉の富津の海岸でも大漁に採れ、名物になっています。
「青柳」として出荷されています。
砂を噛んでいるので食べにくいのですが、
地元の人に食べ方を教えてもらいました。
砂抜きの必要はありません。1 洗った貝を、鍋に入れる。
2 酒を半カップほど入れる。
3 蓋をして、そのまま火にかける。
4 しばらくして、貝がぱかっと開いたら、火を止める。
貝が潮をふいて、汁っぽくなっている。5 汁が砂ダラケなので、その汁を布巾などで濾す。
6 貝のむき身を、汁につけて砂を洗いながら食べる。
これぞ、正調富津式アオヤギの食し方です。
やってみたら、実においしかったです。2007.6.14
* 夜、寝床で、アマゾンで取り寄せた寮さんの「父は空 母は大地〜インディアンからの手紙」(寮美千子編・訳、篠崎正喜画 ・パロル舎)を子に読み聞かせる。絵とことばが響き合う、とても美しい本。まるで極北の氷の上を飛翔するワタリガラスの魂のような。「それは 命の歓びに満ちた暮らしの終わり」というシアトルのことばが痛切に突き刺さる。丁寧に解説を加え、問いを繰り返しながら読み聞かせた。
寝しなに子が、学校で「四人の天使が続いている絵」を書いたと、半分閉じかけた目のままささやく。「どうしてその絵を描こうと思ったの?」とわたし。「・・・何となく。思い浮かんだから」と子はしゃぶった指のすきまから。「ふっと思い浮かんだっていうのは、きっと見えない世界からの信号みたいなものだな。何かを気づかせようと思ってやってくるのだけど、ぼんやりしていたら受け損ねちゃう。それをうまく受け取って絵や文章や音楽にできる人が、絵描きや本を書く人や音楽をつくる人になるんだろうな」 うなずきながら眠りについた。
アマゾンでもうひとつ取り寄せたのは、ドキュメンタリー映像「A」を撮った森達也氏の「世界を信じるためのメソッド」(理論社)。
2007.6.15
* 職場から、ある日の子との携帯メールのやりとり。
15:55 紫乃はお利口にしているのかな?
16:02 ふつう、じゃない。しの は、ふつうだよ。しのより。
16:41 ふつうっていうのはお利口ってことか。バイオリンはもう終わったの?
16:47 バカ。りこうとダメのあいだだい。
16:47 で、バイオリンは終わったのか?
16:50 ちがわい。
17:07 バイオリンはやったのか?
17:13 何度も、おなじ、しつもんをすんなー!
17:54 おまえが答えないからだ。バイオリンはやったのか? やってないのか?
18:28 だって、お父さん、それは自分で考えてくださいよ。どれもこれもわたしはちがうといったでしょう? ちがう?
(結局、バイオリンの練習はやっていなかった)
2007.6.17
* 金曜日、子の右足の親指関節あたりが出血しているのを見つける。靴下を脱がせると、靴ずれのように丸く皮が剥けている。左足のおなじ部分はもともと外反母趾で内側へ湾曲していたのだが、おなじ変形が右足にも現れたようだ。学校で上履きとして使っているピンクの靴(装具カバー)の内を見ると、ちょうどそのあたりがこすれていて、指先に力を込めると間接部が外側へ持ち上がって(通常は真上に持ち上がるわけだが)靴のその部分に当たるらしい。「これはもういちど手術をするように思うわ」とYが言う。土日は学校も病院も休みのため、今日、月曜になって、とりあえず子の指には絆創膏を貼り、上履きよりは多少素材の柔らかそうな(これが当たっているかどうかは見た目では分からない)ふだん下履きとして使っている別の靴(装具カバー)を上履き兼用に履かせてもらえるよう、送りに行ったわたしが教室のY先生へ伝え了承して頂いた。帰ってからYが整形外科に電話を入れ、急遽診察の予約が取れないか確認をする。臨時的な装具や靴(装具カバー)の加工が必要になるだろうから、月曜と木曜の装具屋さんが常駐している日がいいだろうと、これまでずっと診てもらって足の手術もして頂いたH先生とは別の先生になるが、今日の予約に割り込ませてもらうことになった。「3時半までに受付を」ということで、当初は午後から予定していた授業参観(体育)をキャンセルし、給食を終えた頃に迎えに行ってそのまま病院へと担任の先生へ伝えたものの、「子も楽しみにしていた参観だから、ぎりぎりまでやらせてあげようか」とYとそんな話になり、もういちど学校の先生に電話を入れ直す。帰り支度は予め済ませておいて、病院までの所要時間約1時間前の2時半頃まで引っ張り、途中で抜けさせてもらう。装具や靴(装具カバー)の部分修正で済むのか、あるいは靴(装具カバー)を新たに作り直さなくてはならないのか。今日はおそらく帰りは夜になるだろう。待たされる時間もあるから、子は本をたっぷり持っていく。子が本の好きな所以かも知れない。
2007.6.18
* 昨日の病院。右足の親指に関しては成長に伴って正常な神経とそうでない神経を経由した筋肉のアンバランスによるもので、医者の間では「鷲の指」と言われているとか。最終的にすべてが出揃った成長期の終わりに、もういちど筋肉を入れ替えたり骨を矯正したりする手術をして対応するしかないわけで、それまでは対処的に対応するしかない。よって今回は靴(装具カバー)の当たる部分に低反発のクッションをはさむことにした。また小さくなってきた就寝用の装具もついでに加工により広げてもらった。今回の問題はそれでクリアされたわけだけれど、診察の際、前回の手術のときに筋肉を入れ替えた箇所が妙に盛り上がっているのが気になるという話になって、レントゲンを撮ることになった。左足の足裏の強い筋肉を甲に付け変えた部分だ。撮影したレントゲンを見ると、筋肉を輪っか状にしてくくった中指の骨の一部がそこだけ極端に細くなっている。これは要するに甲を上げるたびに輪っか状の筋肉が骨をこすって摩耗させるためで、手術を執刀したH先生はこの方法を好むが、デメリットは摩耗して細くなった部分が折れやすくなることと、折れたりゆるんだりしてせっかく取り付けた筋肉の張りが弛緩して役目を果たさなくなることもあるとの由。H先生はこれまでそういった事例はないと言っているらしいが、今回診察してもらったK先生は稀なケースだがそうした事例に接したことがあるという。で、かくいうK先生のやり方は、根元のもっと太い骨の中央に穴を開けてそこに筋肉の一端を挿入し癒着させてしまうという方法とのこと。その辺はそれぞれメリット・デメリットがあって、最終的に医者の好みや見解の相違があるんだろうなきっと。素人のわたしたちにはそのあたりは用意に判断がつけにくいし、それに子の手術はもう一度すでに済んでしまった。結果、骨折等はなく、また手術の4ヶ月後に撮ったレントゲンと比べて骨の摩耗が進んでいる様子もなかったので、あとは強い衝撃等で骨折するのを注意することと、その辺も含めて(10月に予定されている)次回のH先生の診察時に改めて相談するようにとのことであった。万が一に骨折をしても外見からは判別がつけにくく、特に支障もなく、気づかないまま治ってしまうこともあるとか。もしも輪っか状の筋肉がはずれるような事態になった場合は(やり直しの)再手術をすることになるかも知れない、とも。H先生は実は何か「人生最終の新しいビジネス」を準備しているとかで、近いうちに退職することが決まっており、今後の子の整形外科の担当は今回のK先生へ徐々に移行していくのだが、わたしたちもいつまでもH先生にこだわるより(というのはH先生はその筋では国内でも有数な名医との評判なので)、K先生への移行を受け入れるべきだし、また別の医師の診察によってこれまでと異なる見方を聞くのも、それはそれでいいことなのかも知れないとYと話し合う。当日の予約の最終でもあり、レントゲンを撮ったり、靴(装具カバー)や装具の治しがあったりして、すべてが終わったのはもう病院内も閑散とした夜の7時頃であった。
2007.6.19
* 「ほら、息して、息」
横たわる松元洋人さん(32)に、母紀子さん(57)がほおずりするように顔を寄せた。強くやさしく、肩をたたく。洋人さんの体が、こわばりがとけるように、震えた。
鹿児島県鹿屋市。04年11月10日午前4時過ぎ、洋人さんのうめき声に紀子さんが気づいた。就寝中に心臓に異変が起き、病院に運ばれた時は心肺停止状態だった。命はとりとめたが意識は戻らず、寝たきりに。
03年9月、29歳でレストランチェーンの支配人になり、すしや和食を出す店を切り盛りしていた。別の飲食店を経て、01年にパートで入社し、半年足らずで正社員になった。
午前9時ごろ出勤し、食材の搬入。午後10時の閉店後も売り上げを電話で上司に報告。午前1時を過ぎる帰宅もざらだった。倒れるまで半年間、時間外労働は月平均200時間を超えた。
6人いた社員が転勤などで3人となり、売り上げを打つパソコンが扱えたのは洋人さんだけだったという。パートらは約30人。入れ替わりの激しいパートの面接や、シフト表つくりもこなした。
「お前は休むな」。上司にそう言われたと、前にいた店の同僚(57)にこぼしていた。同僚も、日々の目標に届かなくて上司に「店閉めろ」と怒鳴られたことがあり、胃薬が手放せなかった。
「こんな働き方おかしい」と言う紀子さんに、「自分だけ逃げられない」と、仕事を続けた。
「泣きながら仕事する松元さんを見た」。30代の元パートの女性は害う。別のパートは午後11時過ぎに店に給料明細を取りに来て、洋人さんに会った。片道約1時間半かけて会議に出ていたのに戻ってきていた。「ほかに人がいないから」と笑った。
倒れたのは、それから5時間ほどあとだ。同じ日付で振り込まれた給料は18万7057円。通帳に、毎月17万〜20万円の数字が並んでいた。
横浜市で生まれ育った。土地家産調査士の父美幸さん(63)の故郷・鹿児島を気に入って、就職先に選んだ。両親が鹿屋に120坪の土地を買って家を建て、越してきたのは倒れる約1年前。ゆくゆくは孫らと暮らせれはという夢があった。
夢は壊れた。
両親は仕事をやめ、24時間、たんを吸引し、呼吸を見守る。
労災は認められた。両親は今、会社に対し、未払い残業代などを求めて訴訟を起こしている。「一人でも過労で倒れる人が減ってくれたら」という思いからだ。
第1回弁論は19日。美幸さんは意見陳述の下書きにこうしたためた。
「先の明かりが見えない、暗い、長いトンネルの中にいます。一生懸命出口を探しています」
会社側は「ちゃんとパート等を補充していた。対応はできたはずだと考えており、判断は裁判所に任せたい」としている。
07年6月18日・朝日新聞「壊れる30代 底なし残業の果て」
こうした記事を読むといつもそうだが「新聞はなぜこの飲食チェーン店の名を書かないのか」と思う。「社長の顔写真を大きく貼ってな、“こいつがこんなふうに言っています”と載せたらいいんだ」とわたしはYに言う。こういうのはもう労災とか何とかいう以前に立派な「殺人未遂」ではないのか。新聞は企業名を書けない事情があるのか、書けない規則でもあるのか、あるいは自主規制をしているのか。いつも不思議に思う。まあ、新聞社がこの飲食チェーン店から広告収入を頂戴しているように、おれたちもおなじ店で家族団らんの食事風景を繰り広げているのだろうな。よく見れば駐車場のすみっこの暗がりに「怨霊」の文字が墨書されたでっかい幻の卒塔婆が立っている。
しかし18万7057円というのは何とも悲しい数字だね。勘定に入らぬ残業を入れた毎月300時間以上を働き詰めてたったそれっぽっち。それっぽっちと交換の命の値段。やめちまえばよかったのに、とは安易な言葉なんだろう。写真を見れば木訥とした真面目そうな顔だ。真面目で、責任感のある人間が孤立し、追いつめられて自壊する。辞めれば再就職はない。人間失格だ。悩みをうち明ける人間関係を育む余裕もないし、労働組合を結成して声を上げる気力もない。ましてや世の中のこと、どこかよその国で無惨に殺されていく人々のことなどどうして考えられよう? 働き続け、ボロ切れのように眠るだけで精一杯なのだ。時間に追われ、仕事に追われ、責務に追われ、ノルマに追われ、人間らしさは剥奪されていく。いまやじぶんがどこにいて、なにをしているのかすら分からない。そう、考えてみたらかく言うおれも毎月270〜280時間は働いているんだよな。回転寿司屋のカウンターで生ビールを傾け幸福そうな家族を演じているとき、これは欺瞞じゃないかと思うことがあるよ。
一方、おなじ日付の新聞に、「フリーターの希望は『戦争』か?」と題して非正規雇用者の若者たちが集った東京・渋谷のトークライブの模様を伝える記事が載っていた(ポリティカにっぽん・早野透)。いわく「平和な社会なんてろくなもんじゃない。夜遅くバイトにいってろくな休憩もとらずに明け方帰ってきて、テレビとネット、昼ごろ寝て、またバイトにいくくり返し」「戦争は社会の秩序を破壊して流動化させる」「平和な社会で差別と屈辱に苦しむよりも、戦争になってみんなが平等に苦しむ方がいい」 アメリカによるアフガニスタン空爆が迫っている頃であったか、「アフガンの男たちの顔はなんであんなに輝いているのか? そう、身体をはって生きているからだね」とメールに書いて寄こした人がいた。この国に身体をはって生きるに値するものが果たしてあるのか。18万7057円と植物人間のなれの果てか。回転寿司の奇形魚喰って生ビール呑んで家族と微笑んでそれだけでお前はほんとうに満足なのか、ってこれはわたしの内なる自問だから気にするな。
オールニートニッポン・ニートのためのインターネットラジオ&マガジン http://www.allneetnippon.jp/
深夜のシマネコ・赤木智弘 http://t-job.vis.ne.jp/
雨宮処凛公式ホームページ http://www3.tokai.or.jp/amamiya/
マガジン9条 http://www.magazine9.jp/index.html
2007.6.20
* 休日。朝、Yは鼻血が出て遅れた子を学校へ送り、そのまま教会で聖書の勉強会。昼は二人でざるそば。ベランダの紫蘇をたっぷり盛って。小一時間、ソファーで昼寝。自転車で子を迎えに行き、オイル交換でバイク屋へ。待っている間、隣の古本屋でF・K・ディックの短編集と宮沢賢治「ポラーノの広場」の文庫を買う。帰って子とベランダでトマトの苗の植え替え。夜は白身魚のフライとシュウマイ。子といっしょにシャワーを浴び、添い寝する。「わたし、メイソウができるんだよ」と子がささやく。学校で、「頭をカラッポにするのだ」とやってみせる。こちらは座禅の話をして、呼吸法を教えてやり、かしこまったわたしの姿が可笑しいと子は吹き出す。二人して布団の上で印を結び胡座をかいている。子が眠ってから、 YouTube で岡田有希子自殺のニュース画像を見る。
2007.6.21
* 気持ちよく眠ってしまった。ひんやりと暗い仏壇を置いた部屋は、ドンファンの言うわたしの「自分の場所」なのかも知れない。仄かに灯った仏壇の前の畳で小さくなったからと持ち帰った子の布団を枕にして、線香の匂いに包まれまるで幼子のように夢も見ずに眠ったのだ。時計を見ればいつの間にやら深夜だ。Yも子もじいちゃん・ばあちゃんたちととっくに二階へ寝に行ったのだろう。家の中はまったりと静まりかえっている。古いモノたちが居場所もそのままに息づいているしずけさだ。立ち上がって風呂の湯を浴び、パジャマに着替え、缶ビールと煙草を手に玄関を出て道から二段ほどの階段に腰をおろした。山の上の小学校から下りてくるうねうねと曲がった石畳の階段道が、ちょうど義父母たちの家を通り過ぎたあたりで三方の路地へと分かれる。ゆるやかに湾曲した内ふたつの道はかつての海岸線の名残だ。小学校建設の費用を造るために村で埋め立てて宅地にした。その小学校もことしの一年生はわずか一人で、隣町の学校への統廃合がすでに決まっている。残り一方の路地沿いにあった、かつて小遣い銭を握りしめた子どもたちで賑わった駄菓子屋も昨年、ついに店を閉じた。平地の少ない集落だから急斜面に建った家は青みがかった割石を平らに積んだ石垣で地面を支えている。それらのごつごつとした割石の壁が曲がりくねった小径に沿って斜地を這いのぼっている様は、ふとどこか異国の海民たちの隠れ里なぞ思わせる。深夜、人気の途絶えひっそりと静まりかえったこの路地を行き交うのは猫ばかりだ。その数のやたらと多いこと。まるで朔太郎の猫町のようにあちらの路地から、こちらの家の玄関先から、家々の隙間の暗がりから、かれらはあらわれ、集い、またどこぞへと消えていく。まるで人間どもが眠りこけた後に忽然と現れる別次元の幻の町のようで、わたしは寝ぼけまなこの闖入者というわけだ。するといつしか不思議な心持ちになってきて妙な空想に取り憑かれる。この猫たちは亡くなったかつての住民たちで、いまもこの集落に暮らしているのではないだろうか? あれは家の柿の木で縊れて死んだYの同級生ではないか? あれは釣り舟が転覆して亡骸が御坊のあたりに漂着した○○という家の親父さんではないか? あの猫は拾ってきた石を「ゆうこさん」と呼んで大事に神棚に祀っていたMのお婆さんではないか? この集落には生者と死者が共に棲んでいて、昼と夜の両方の世界から互いに支え合っているのではないか? 缶ビールがからになった。わたしは猫町に背を向け、玄関の引き戸を閉める。狭い階段の暗がりをのろのろと上っていく。
土日。一泊でYの実家へ滞在してきた。子は畑でナメクジやミミズに悲鳴をあげながらジャガイモを掘り、蜜柑を摘み、小さなキュウリをひとつもいだ。わたしは分厚い地元の町史を腹に乗せて昼寝をし、新鮮な刺身や鯛の塩焼きを頬張り、職場のY君が今年も呉れた熊野産の新生姜を義母の台所を借りて漬けた。
2007.6.24
* 連休三日目。車で子を小学校へ送ったその足でYと二人、大阪の病院へ、子のおしっこのサンプルを持って。脳外科のY先生の定期診断で、ひとしきり先生が最近出した本の話など。尿の検査は異常なし。先の右足の変形のことなどもあり、念のため来月末にMRの検査をしてもらうことにする、病院が早めに済んだので、しばらく前に奈良市の北部に出来た大型ショッピング・センターなぞ覗いて来ようかとデート気分で。Yのリクエストで昼食に一軒のイタリアンの店に入るが一口食べたとたん互いに顔をしかめる。Yが口を開き「まるで主婦の手抜き料理」と。まさに史上最悪のパスタであった(しかしみんなそいつを嬉々として食べている。あんなニセモノ料理に金を払って平気でいる神経がわたしには分からんなあ)。おまけに話をしようとするたびに店員が入れ替わり立ち替わり(食べ放題の)ピッツァのお代わりを訊きに来て、三人目で堪りかねて「欲しいときはこっちから頼むから放っておいてくれ」とわたしが文句を言う始末。その後ごちゃごちゃと並んだショッピング・モールを見て回るがさしてめぼしいものもなし。わたしがチト気に入ったのは、小洒落た雑貨屋のアクセントで置いていた小林ケンタロウ氏の丼レシピ本と、ベネチアのガラスペンくらいかな。あとは雑貨にしてもどれもこれも雰囲気だけの薄っぺらなフェイク物に見えて、感動する本物というのが何もないんだな。二人して「何もないね〜」と呟きながら、結局何も買わずに出てくる。帰りに子を拾って帰宅。夕食にYの実家からもらってきた食べ残しの鯛の塩焼きと、わたしが赤味噌と生姜で即席につくった豚汁もどきにすずき産地のお米を並べたら、これが何と旨いことか。子と二人でシャワーを浴びて、涼しい夜風の吹き抜ける灯りを落とした布団の上で顔をくっつけながら一時間もおしゃべりをする。これも極上の時間。結局、ショッピング・モールなぞというものはわが家には不要なんだと改めて分かった一日。もう行かね。
2007.6.25
* 深夜、帰宅。シャワーを浴びて、子のおしっこを摂る。靴下を履かせ、装具をつける。
食器棚の上で与那国のソテツがまるまった葉をひろげようとしている。子の机の上に読み差しの本が背を上に閉じている。今日借りてきたらしいクルド人の少年が主人公の物語。
わたしは壁に飾ったフランチェスコの絵葉書を黙って眺めている。
mp3プレイヤーでビートルズの Let It Be を聴く。むかしの由無し事が思われる。
2007.6.26
* 木曜。同僚のY君より「正式に」Wndows XP を譲り受け、「工事」のために夜勤明けのY君が来宅する。メモリ256MBを二枚、LANケーブル、LANケーブル用のハブなどを新たに購入する。結果、Wndows はネット接続が可能になったが、Macとどちらか先に起動した一方しか IPアドレスの取得ができない。これは現在使用している Yahoo! のモデムにルーター機能がないためと判明し、後日にY君が余っているルーターを提供してくれることで対応。増設予定の購入したメモリはマザーボードへかますためにアダプタが必要と判明し、これも後日にY君が大阪・日本橋あたりで入手してきてくれることに。ほかにCDからの起動用にY君の中古の内蔵CDドライブとLANカードを取り付け、最終的には高性能のグラフィック・カードとビデオ・カード、メモリ768MB、ハードディスク180GBの仕様になる予定。これに現在は30日間限定だが最終的にオンライン購入予定のウィルス・バスターズを加えて、わたし的には充分な内容でしょう。これから徐々に Wndows へ移行していくのかな。さて、中途半端なオールド・マックは如何に使うべきか。お礼にY君にそば楽で昼食を奢る。
2007.6.29
* 職場にYから電話が入る。子が学校の生活何たらでいろいろなシャボン玉の輪を工作するのでこんどの休みに手伝ってやってくれないかとのこと。図書館で参考になる本を借りてきたから机の上に置いておく、と。遊びも創意と工夫だ。わたしは器用にそれをつくるだろう。子はそれを真似、ハサミや小刀を持って手伝い、満足する。わたしはときどき、じぶんがいままで生きてきたことのすべてはこうしたことのためではなかったかと思う。話をするときもそうだ。わが家はほとんどテレビを見ないせいもあるのか、寝物語を子は喜ぶ。「今日は何の話を聞きたい?」 冷たい気持ちのいい布団に寝そべって、子のリクエストはわたしの旅の話であったり、小さい頃のわたしと妹の話であったり、ときにわたしの方から神さまの話や、アイヌやイヌイットの神話や、わたしが小学生のときに死んだ祖父の話や、子どもの頃の思い出を話すこともある。それは風のきらめきや、さみしさや、もろもろの感情や、この世の成り立ちのようなものであったりする。結局それらは、わたしがこれまでの不器用な生の中で溜め続けてきたものがさまざまに色形を変えたエッセンスであるわけで、わたしはそれを子に伝えるためにいままで生きてきたのではないかと(錯覚する)。(それはそうであるはずもないのだが、結局はそのようなものなのかも知れない) 「私は注射器であった。私がこわれて亡くなっても、私を使っていた神がそのままおられるのだから、何かの手段でこの子の苦しみを癒してくださる。私は綱にすぎなかった。私がついに水底に沈んでも、私を投げた神がそのままここにおられるのだから、必ずこの子を荒波から救い上げてくださる。」 長崎の原爆で被爆し幼い姉弟を残して死んでいった永井隆はそのように記した。わたしは子に何かを伝えるために生きてきた。わたしは注射器であり、わたしは網だ。わたしの父や祖父も、きっと同じようにしてきたのだろう。注射器や網の向こうにあるものは、変わらない。
2007.6.30
* 休日。子を自転車で学校へ送ってから、車を近所のディーラーへ持っていく。給油口の凹み部分の排水孔が小さく水が溜まりやすく、場合によっては腐食してエンジンに支障を来すという内容でリコール(無償修理)の案内葉書をもらったのである。鍵を渡し、受付のおネエちゃんが持ってきてくれたホット・コーヒーを一口すすり、持ってきた森達也「世界を信じるためのメソッド」(理論社)を二、三頁読み始めたら、もう終わりました、という。郵便局とスーパーでYから頼まれた用事を済ませて帰ってから、こんどはベランダの鳥の巣の回収掃除。室外機の裏に椋鳥が巣をこしらえていて、このごろの暑さで悪臭がするというYからの依頼(要請)である。しばらく前まではヒナのさえずりも賑やかで、親鳥がせっせと虫餌を運んでいたものだったが、いつの間にか巣立ったらしい。周辺の植木などを移動、大きなゴミ袋にいっぱいの藁屑を回収し、水で洗い流し、汗だくになったが夏の汗が気持ちいい。Yの入れてくれた冷やした梅ジュースが旨い。昼はわたしのリクエストでお好み焼き。午後から昼寝。グルーガンで網戸の破れ目を補修する。学校から帰ってきた子と例のシャボン玉の輪っかをつくる。ひとつは細い針金を三つ編みにした輪で、こんなサイトを参照した。「針金と針金の隙間にシャボン玉液を蓄えさせる」というもので、輪はやや大きめに。もうひとつはやや太めの針金の一筆書きで三つの小さめの輪を交差させ(交差した部分は細い針金でとめ)、針金全体に子がYと毛糸を巻いたもの。それぞれ拾ってきた自然木の枝に針金を巻き、持ち手部分とした。結果は上々で、前者は大きなシャボン玉ができ、後者は小さなシャボン玉が一度に大量生産できる。水に洗剤を溶いただけの自家製シャボン玉液は当初膜を張りにくかったが、ネット検索の「グリセリン」を見て子に使っている浣腸液を足したところばっちり。子の浣腸液がこんなところで役に立つとはね。ちなみにこんな「人が入る」巨大シャボン玉もあるぞ。夕食はわたしの十八番、鶏肉のステーキとポテトと人参。バター、ニンニク、塩・胡椒で。
2007.7.2
* 連休二日目。ひとりバイクで井氷鹿の井戸跡を訪ねようと朝6時前に目を覚ますが、生憎昼過ぎまで土砂降り模様。諦めて子を学校へ送ってから、職場のK氏より拝借していた「ベティ・ブルー 37-2 Le Matin」 (1986・仏) の3時間完全版をYと二人で見た。ベティというのはつまり、「日常を侵犯する力」だな。だからこの映画は、いわゆる巷で語られる「熱烈な恋愛物語」というより精神分析的な物語といっていい。彼女はときに自己実現の達成に助力を与え、ときに破滅に引きずり込む、ユング風に言うならば両刃の剣としての機能を備えた「冥い無意識の領域の力」のようなもので、映画が終わってみれば、ベティという存在はじつはこの世のものではなかったのだ。本来の自己を失っていた男の前にそれは「気づき」として現れ、最後には(冥府に引きずり込もうとする力に抗い)みずからの手でそれを殺すことによって男は生き残る。そんなふうにも受け取れる。連続としての日常にある日ふらり現れて、なぜか心くすぐる不思議に懐かしい魅力を湛え、色褪せたバンガローに火を放ち颯爽と男を逃避行へと連れ出したベティは、だから私たちの人生にも幾度となく現れているはずだ。
午後はYの洋箪笥(わたしの部屋にある)の上に置いているG3Mac 箱内の整理。(箪笥の上には物を置きたくないというYの嘆願で) ロシアのマトリョーシカ人形のように箱の中にさらにPC機器や電化製品の小箱が詰まっていて、その中に電話線や様々なコード類やネジや蝶番や釣り竿のリールやキーホルダーや電球などがごちゃごちゃと放り込んであるのだが、不要なものを思い切って捨てて整理をしたら、ほとんどは箱のための箱であったことが判明する。中からインドのスカーフに包まれた、むかしわたしがあちこちの旅先で拾ってきた石ころがたくさん出てきて、荷物からこんなのが出てくるなんて、まるで子どもみたいだ、とYは可笑しそうに笑う。両親の声を聞いてやってきた子が「わあ、おとうさん。この石、すごくいいねえ」と目を輝かせひとつひとつ拾い上げては撫でている。よしよし、お前にはお父さんの高級なセンスが分かるようだな。
2007.7.3
* 一食230円也の学校給食を食べに行く。図書室に集合した抽選当選者50名の父兄のうち男親はわたし一人で、少々居心地が悪いですな。知り合いのNちゃんとYくんのお母さんが気を遣ってくれてかわたしの前の席に座ってくれたのだが、母親同士の会話というのは父親はどうも入って行きにくいのだよ。学校行事から男親が離れていく要因のひとつだろう。校長先生の挨拶から始まり、給食センターの栄養士2名による配布テキスト棒読み説明と質疑応答。「子どもたちの嫌いなものの献立リストに、卵焼きが入っているのが不思議なんですが?」とのあるお母さんからの質問に、卵は殻に附着した細菌が怖いので生卵から調理するということはしていない、よって卵料理はすべて加工された冷凍ものを使っているので風味的には落ちるのかも知れない、という回答は結構驚いたね。わたしの頭の中にはずっと「いのちを食べる」という言葉がなぜか浮き沈みしていて、それは着地点がないまま窓の外のグランドの空中あたりをいつまでもふわふわと漂っているのだった。わたしは「いのちを食べる」現場を子に見せてやりたい。鶏の首をひねったり、アザラシの腑(はらわた)に手を突っ込むような現場を。辺見庸の「もの喰う人びと」(角川文庫)のような世界を。わたしが教師だったら屠殺場や食肉工場などの見学や、あるいはあーす農場のようなところへの一日体験も企画してみたい。だけどまあ現実、例えば安全な食材の調達にしても230円でどこまでやれるのか。給食費を滞納する親も多いそうで、給食センターに従事する人たちもいろいろと大変なんだろうな。さて今回の献立は次の如し。味付けパン(結構大きい)、パック牛乳(200ml)、ビーフシチュー(肉・ジャガイモ・人参・玉葱・ネギ)、鹿の子えび団子(唐揚げ大2個)、ひよこ豆(小袋・約10粒入り)。ビーフシチューはあっさり風味で案外おいしい。今回は洋食メニューであったが、ほんとうはお米をメインとした和食献立も食べて見たかった。試食が終わってから、それぞれじぶんの子がいるクラスへ移動して「給食参観」。みんな割烹着を付けて準備万端だが、プールから戻ったばかりという子はこれからこれから導尿だと養護学級のトイレへ消えていく。T先生も二度ほど様子を見に行き、「もう他のクラスは食べ始めているし、一人のためにみんなが待っていてくれなくてもいいですから。もう食べ始めて下さい」と二度目に戻ってきた先生に言うが、先生いわく「いつも、全員が揃ってから」との由。給食が始まると、最初は廊下の窓越しに覗いていたわたしは段々図々しくなって、いつの間にやらKちゃんの班(4人で机を向き合わせる)の後ろから首を突っ込み「ひよこ豆は嫌いなのか」とか「えび団子が苦手な子はどうするのか?」と質問したり、豆パン屋のNちゃんのとこへ行って「台北旅行は楽しかった?」などと訊いてお土産のアクセサリーを見せてもらったり。Kちゃんの隣の子がわたしのTシャツを指して「この写真はなあに?」と訊く。「これはな、戦争で食べ物がなくて死んじゃった赤ちゃんだよ。これからお爺さんたちがこの子をお墓に埋めるところだ」と言うと、「へえー」とみな驚いた顔でまじまじと眺めている。最後は(みなが食べ終わってお昼休みになってからだが)バイクのヘルメットを男の子たちの頭に順番にかぶせて遊んだりして(子が「おとーさん、大人気だね」と遠くから叫ぶ)帰ってきたのだった。帰ったら結構疲れていて、夕方までソファーで昼寝をした。
アマゾンで「白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい」(共同通信社)と福岡 伸一「生物と無生物のあいだ 」(講談社現代新書)を注文した。前者は新聞記事で知った、子ども向けに売れているという漢字学者・白川静氏監修のイラスト付き漢字の成り立ち本。高校の副読本にもなったが、親が説明すれば小学生でも楽しめるとか。後者はこれも今朝の新聞広告に載っていたもの。
夜。子と二人でシャワーを浴びて、寝床で「ちいさいおしろ」(サムイル=マルシャーク・学習研究社)を配役を決めて読み合う。そのあと灯りを消して、「寝るのにどんな体勢が好きか」というのをお互いの格好を真似て「うーん、これもいいねえ」なぞと言い合っているうちに、いつしか二人とも眠ってしまった。
2007.7.5
* どうして「青々とした草原」って言うの? 草は青じゃなくて緑なのに。
子に質され、父はググッてみた。
古来、この国の人々は「青」や「緑」といった区別を持たなかった。「赤」は「あかし」で、「明かし」からきている。「白」は「しろし・顕し」で、はっきりしているという意。「黒」は「くろし・暗し」。じゃあ「黄」はどうだろう?
はっきりとはわかりませんが、おそらく「生」からきていると思いますよ。練っていないもともとの色、さらしていない色――つまり「生成り」の色という意味なんじゃないかしら。
そして「青」は「あをし」。これには「漠し」という字が充てられた。「あかし」「しろし」「くろし」――つまり明るいもの、はっきりしたもの、暗いもの以外の茫漠とした色は「緑」でも「青」でもなべて「あおし」。だから「緑児」、「緑の黒髪」、「青信号」、「青菜」、「青汁」。そんな言葉が残った。
ほら、おなじ「緑」でもこんなにたくさんの「緑」の名前があるんだよ。父は本棚から「日本の傳統色」(長崎盛輝・京都書院アーツコレクション)なる図版を出して見せてやる。「萌黄」、「松葉色」、「若竹色」、「豆がら茶」、「緑青(ろくしょう)」、「木賊(とくさ)色」、「柳染」。しばらく紫乃に貸してあげるから、持っていていいよ。子は「ありがとう」と顔を輝かせて受け取った。
ところでイヌイットの人々は真っ白な「雪」を表すことばを数十語も持つという。モンゴルの人々も馬について数え切れないほどの呼び方を持っている。それらは秘密のことば。生きるための。生き物や大地と魂を取り交わすための。モノを統べるのではなく、ヒトを統べるための。「1」と「2」や、「青」と「緑」では区別できない、あえかな息遣い。
イヌイットのたくさんの雪の名前を子に教えてやりたいと調べてみたが、どうも web上には載っていないようだ。どなたかご存じの方がいたら、ご教示頂けたら有り難い。
*****
後日、さる人よりこんな英語サイトの紹介を頂いた。消えてしまったら勿体ないので、ここに無断転載しておく。いつか、ぜんぶを日本語に訳せたらいいな。
The Eskimos' Hundred Words for Snow by Phil James
tlapa ------- powder snow
tlacringit --- snow that is crusted on the surface
kayi -------- drifting snow
tlapat ------ still snow
klin -------- remembered snow
naklin ------ forgotten snow
tlamo ------ snow that falls in large wet flakes
tlatim ----- snow that falls in small flakes
tlaslo ------ now that falls slowly
tlapinti ----- snow that falls quickly
kripya ------ snow that has melted and refrozen
tliyel ------- snow that has been marked by wolves
tliyelin ----- snow that has been marked by Eskimos
blotla ------- blowing snow
pactla ------ snow that has been packed down
hiryla ------ snow in beards
wa-ter ----- melted snow
tlayinq ----- snow mixed with mud
quinaya ----- snow mixed with Husky shit
quinyaya ---- snow mixed with the shit of a lead dog
slimtla ----- snow that is crusted on top but soft underneath
kriplyana ---- snow that looks blue in the early morning
puntla ------ a mouthful of snow because you fibbed
allatla ------ baked snow
fritla ------ fried snow
gristla ----- deep fried snow
MacTla ---- snow burgers
jatla ------ snow between your fingers or toes, or in groin-folds
dinliltla ---- little balls of snow that cling to Husky fur
sulitlana --- green snow
mentlana --- pink snow
tidtla ------ snow used for cleaning
ertla ------ snow used by Eskimo teenagers for exquisite erotic rituals
kriyantli --- snow bricks
hahatla ---- small packages of snow given as gag gifts
semtla ---- partially melted snow
ontla ------ snow on objects
intla ------ snow that has drifted indoors
shlim ------ slush
warintla ---- snow used to make Eskimo daiquiris
mextla ----- snow used to make Eskimo Margaritas
penstla ---- the idea of snow
mortla ---- snow mounded on dead bodies
ylaipi ------ tomorrow's snow
nylaipin ---- the snows of yesteryear ("neiges d'antan")
pritla ----- our children's snow
nootlin ---- snow that doesn't stick
rotlana ---- quickly accumulating snow
skriniya --- snow that never reaches the ground
bluwid ---- snow that's shaken down from objects in the wind
tlanid ----- snow that's shaken down and then mixes with sky-falling snow
ever-tla -- a spirit made from mashed fermented snow, popular among Eskimo men
talini ----- snow angels
priyakli --- snow that looks like it's falling upward
chiup ----- snow that makes halos
blontla --- snow that's shaken off in the mudroom
tlalman --- snow sold to German tourists
tlalam --- snow sold to American tourists
tlanip ---- snow sold to Japanese tourists
protla ---- snow packed around caribou meat
attla ---- snow that as it falls seems to create nice pictures in the air
sotla ---- snow sparkling with sunlight
tlun ----- snow sparkling with moonlight
astrila --- snow sparkling with starlight
clim ----- snow sparkling with flashlight or headlight
tlapi ---- summer snow
krikaya --- snow mixed with breath
ashtla ---- expected snow that's wagered on (depth, size of flakes)
huantla --- special snow rolled into "snow reefers" and smoked by wild Eskimo youth
tla-na-na -- snow mixed with the sound of old rock and roll from a portable radio
depptla --- a small snowball, preserved in Lucite, that had been handled by Johnny Depp
trinkyi --- first snow of the year
tronkyin -- last snow of the year
shiya ----- snow at dawn
katiyana --- night snow
tlinro ---- snow vapor
nyik ----- snow with flakes of widely varying size
ragnitla --- two snowfalls at once, creating moire patterns
akitla ----- snow falling on water
privtla ---- snow melting in the spring rain
chahatlin --- snow that makes a sizzling sound as it falls on water
hootlin ---- snow that makes a hissing sound as the individual flakes brush
geltla ----- snow dollars
briktla ---- good building snow
striktla ---- snow that's no good for building
erolinyat -- snow drifts containing the imprint of crazy lovers
chachat --- swirling snow that drives you nuts
krotla ---- snow that blinds you
tlarin ----- snow that can be sculpted into the delicate corsages Eskimo girls pin to their whale parkas at prom time
motla ---- snow in the mouth
sotla ----- snow in the south
maxtla ---- snow that hides the whole village
tlayopi ---- snow drifts you fall into and die
truyi ----- avalanche of snow
tlapripta --snow that burns your scalp and eyelids
carpitla --- snow glazed with ice
tla -------- ordinary snow
2007.7.7
* 日曜、朝。子がいう。大きな景色が見たい。ほら、おにぎりみたいのを包んでいた葉っぱが風で飛ばされちゃったところ。(ゴム消し40 2004.8.2) 飛鳥を抜け、吉野川をわたり、子とわたしを乗せた車は吉野山へと駆け上がる。しばらく前までたくさんの人で賑わったのだろう、名残の紫陽花が斜面のそちこちにぱらぱらと咲き残っている。日曜日だけれど、土産物屋の並んだ参道を歩く人はそれほど多くない。奥千本の金峯神社からさらに奥の、黒滝、洞川、川上村へ抜ける林道をすすむ。道ばたの道路情報の「落石注意・通行止め」はいつも出っぱなしだ。が、とくに道が閉鎖されているわけでもない。自己責任で行けよ、ということかと得心する。途中、青根ヶ峰のあたりで白装束の男と行き交う。髭を生やしているがまだ若い。いつか新聞で読んだ、9年がかりで「大峰千日回峰行」を満行したという金峰山寺の行者か。吉野から山上ケ岳までの往復48キロを14時間かけてひたすら歩き続ける。山に伏すと書くように、血はさらさらと山に溶け入り、白骨ばかりが突っ伏している。あれはもうひとりのわが身か。知らず、運転席から会釈をする。幽体離脱かドッペンゲルガー現象の如きもうひとりのじぶんがしずかに目線を落とす。重畳たる峰々を仰ぐカクレ平に着いた。車を止め、尾根筋に設けられた木の柵に腰かけ、持ってきたおにぎりの昼食を食べる。すこし離れたところで車のわきに大きなアンテナを立て、野外用のテーブルを前にイスに沈み込んだ男がアマチュア無線を飛ばしている。「こちらはジェイエヌワンピーシーエー・ジュリエット・・」そんな専門用語を間断なく喋り続けている。「ひょっとしたら宇宙人と話しているのかもね」と子とささやき合う。ほんとうに、熊野の魂が電波に乗って山々に隠れた異形のモノたちへ決起を促しているのかも知れない。果てしない山並みを眺めながら、そんな空想にこころ踊らせた。この山襞を分け入っていくもうひとりのじぶんが見える。晴れていたら、あの山の上に海が見えるときがあるよ。山の上に海があるの? そう、亀の甲羅に乗っかっている星だってあるさ。星の王子さまみたいだね。四寸岩山の峰を過ぎたあたりの(広い公園のような)棚地まで車をすすめて、そこで子は虫取り網を振り回し、しばらくトンボや蝶を追いかけた。わたしは伐採された檜の木屑などをいくつか拾う。大天井ヶ岳のふところ、洞川へ下りていくさびれたトンネルの手前に大きな滝がある。5人制限の小さな鉄橋を渡って、滝壺まで子の手を引いてのぼる。山紫陽花があたりに点在している。人気のない滝壺の前で子としばし佇む。紫乃、見てご覧、ウンチが落ちてる。ころころとした丸い粒だ。シカのウンチだ。そうだね、そんな形だね。ほら、滝の流れる音はオーケストラみたいだな。もしかしたら夜になると鹿たちはみんなここに集まって、水の音楽会を聴きに来るのかも知れないよ。うんうん。滝の落下口に出て子を驚かしてやろうと斜面をよじのぼっていく。子は滝壺の前に黙ってすわっている。下からは容易に見えたのだが、張り出した大岩が邪魔をしてなかなか回りきれない。残してきた子も心配で、諦めてもどる。紫乃、駄目だったわ。案外に難しい。お父さん、こうして木のツルにつかまってゆっくりのぼってたね。洞川へ下りて、神泉洞のゴロゴロ水を汲む。ここはいまでは有料で、パーキングと合わせて300円要る。整理のおっちゃんがトランクから出したタンクを見て「それひとつだけか。なら100円でいいわ」と言う。汲み終えた頃にぱらぱらと雨が降ってきた。慌てて車に乗り込む。滝で身体が冷えたらしい子は、(当初愉しみにしていた)川遊びはもういい、温泉に入りたいと言う。それで天川村の弁財天近くの村営の温泉へ。日曜だけれど客はちらほら。他の客が出ていって二人だけになると、露天風呂で子は嬉々として泳ぎ出す。巨大な壁のように屹立した山肌の緑。仄かな樹々の匂い。白魚のように湯の中で戯れている子の裸身。口元まで湯に浸かる。休憩室の畳の上、座布団を二つ折りにした枕に頭をふたつ乗せてごろりとする。ペットボトルのお茶を呑んで談笑しているじいさん・ばあさんのグループ。アベックと、若い女性二人の旅人。お父さん、かき氷を食べにいこうよ。起こされて、時計を見たらすでに夕刻だ。隣接する食堂が閉まっていたので、黒滝の道の駅でいちご練乳のみぞれアイスをひとつ買う。帰り道、子はシートを倒した助手席で寝てばかりいる。ラーメンを食べて帰ろうよと言うのだが、額に触れると何やら熱っぽい。夜8時頃、家に帰り着いて体温を測れば38度5分。
翌日、子は学校を休んでYが病院へ連れて行った。結果は水疱瘡。にわかにぽつぽつと体中が賑やかになってきた。深夜、わたしが仕事から帰ると枕元に、絵だけまだ描きかけの紙芝居が散らばっていた。
■サクラちゃんとくまのぬいぐるみのポン
ぬいぐるみのくまのポンは、あるおもちゃやさんにうられていました。そこへサクラちゃんという女の子がとおりかかって、おかあさんに「あのこぐまをかってかって。」といったので、しかたなくおかあさんは、五百円もだして、こぐまのポンをかいました。
サクラちゃんはおうちにかえるといきなりいいました。「おかあさん、おなかすいたよ。」 おかあさんはおちついて「はい、はい、すぐに、めだまやきをやきますからね。」といいました。サクラちゃんんはポンを、じぶんのへやにつれていって、まどにこしをかけて、ききました。「あなたはなんていうなまえ?」 ポンはちいさいこえで「ぼくはこぐまのポンっていうんだよ。おとながみてないときだけ、しゃべれるんだよ」といいました。サクラちゃんは「じゃあ、わたしのおともだちにもはなしてくれるの?」とききました。ポンは「いいや、あんたとここのにんぎょうたちとそとのせかいのどうぶつたちとそとのせかいのにんぎょうたち。ぬいぐるみもね。まあ、かんたんにいったら人間一人とぬいぐるみとにんぎょう、どうぶつたち、というわけだね。」といいました。「そうね。」クスリとわらってサクラちゃんもいいました。「ポン。わたしのなまえは、サクラよ。」とサクラちゃんはいいました。
それから、こどもべやにいって、「これはねむれるもりのびじょのオローラ。こっちはゲンおじいさんにつくってもらったぎんいろのこじかとくろいもくば。こっちもゲンおじいさんにつくってもらった、いぬとねことあかげのりす。みんな、まんげつのよるだけうごけるの。ポンもそうなるわ。あっ、ばんごはんだわ。じゃあ、あしたは、ポンとこのくまのおひめさまとのけっこんしきよ。じゃあね。」といいました。そしてへやからでていきました。
つぎの日になりました。いよいよポン王子とくまのリエ王女のけっこんしきです。サクラちゃんは、へやにはいってきていいました。「ポン、リエ、さぁ、けっこんしきよ。ドレスをきせるからちょっとまってね。」といって「さぁ、これでどう?」とききました。「うん、それでいいよ。」とポンとリエは、いいました。「さあ、このかみにかいてることをしたりいったりするのよ。」サクラちゃんはいいました。ポンとリエは、けっこんしきをあげました。そのときだけは、おかあさんもみていいことになりました。それからポン王子とリエ王女はしあわせにくらしました。
(おわり)
2007.7.9
* 休日。水疱瘡の子と“みことば”カルタをしたり、ローマ字を教えたり、(子の障害者手帳による)自動車重量税の減免申請の更新を書いたり、家賃更新の収入申告書を書いたり、昼寝をしたり、食器を拭いたり、Yと買い物へ行ったり、PCの Mac から Win への移行作業をしたり。夜から仕事へ出かける。テナントの管球交換作業での警備立哨で、2時間ほど立って三千円(+交通費)になる。来月はわたしの実家への帰省も予定しているので、お金はすこしでも欲しい。雨模様だったので車で、ビートルズの Stawberry Feilds Forever や I Am The Walrus を聴きながら夜の国道を走る。一人で来た業者さんは下請けで、二メートル近い脚立を運んで空調の停まった店内を汗だくになりながら作業している。みな、生きるのに懸命だ。深夜の1時に帰宅して、明日はまた朝の7時に家を出る。
2007.7.10
* ふたつの心臓、とは子とYである。夜半に、薄っぺらな布団の上で体を寄り添いしずかに眠っている姿を見て、そう思ったのだ。あいうえおすら言えなかった朝に、わたしのそばにこの二人の姿はなかった。わたしはサン=ダミアーノの模造のイエス像をいまだ正視することができない。わたしの視線はふらふらと泳ぎ、どうせ俺の思想夢が覗かれたら、と弱々しくうそぶく。わたしの魂はいまだ“兄弟:蠅”ですらない。わたしの血管に血を送り続けているのは明らかにこのふたつの心臓である。これがなければわたしの息ははすみやかに事切れるだろう。夜中の無数のトラックに轢かれてアスファルトにかろうじてこびりついた畜生の亡骸のようなものだろう。わたしは彼女たちをそんな不様な亡骸よりも大事に思っているのだが、わたしのふるまいはまるで残虐な暴君のようだ。わたしは底なしの沼の瘴気に包まれた密林をはいずり回りながら、Yと子がわたしのふたつの心臓で、わたしがアスファルトにこびりついた不様な亡骸であるなら、流れる血はいったい何だろうかと考えている。思わず、血は溢れて雨に流れた。涙はこぼれて、花となった。ふたつの心臓を抱えるさみしい男。大峰の山中で拾ってきた木っ端の切り口が、何やらそんなふうに見えたのである。
2007.7.12
* 就学援助費の申請が認定されたという通知が市の教育委員会より届いた。内訳は1年生で、給食費とPTA会費が全額免除、ほかに「学用品・通学用品費」として年11,100円、「新入学児童・生徒学用品」として19,900円が支給される。4月1日からの認定で、すでに払い込みの分は返金されるという。駄目もとのつもりで出した申請書類には昨年度の所得の申告も添付しており、「リッパに基準をクリアしています」ということなんだろうけれど、Yは「嬉しいような、寂しいような」とメールで書いて寄こした。わたしは職場から「得しているところもあれば損しているところもある。事務的な手続きとして割り切ったらいいんじゃないの」と返信した。せめて子どもの給食費くらいは、と思わぬでもない。一方で、貰えるものは貰っておけば、とも思う。最近、職場では県民税・市民税が異様に上がったという話題がよく出る。聞けば年間でだいたいみな従来の倍以上の金額に跳ね上がっているようだ。子どものいないNさんにしても、独身のY君にしても、昨年まで年4, 5万円程度だった県民税・市民税が今年は十数万円になった。きついきつい、と言っている。ちなみにわが家の今年度の課税額はわずか年4,500円である。基礎控除が33万、配偶者・扶養が89万、保健等で40万、これに子の障害者控除30万を合算した金額から、算出された(税金対象の)給与所得額を引くとマイナスになる。ここでもわたしの低収入と子の障害者認定がわが家の家計を助けている実状となっている。子の病気絡みではその他に自動車重量税が免除、高速代は半額、子の医療費は定められた月の自己負担額を越えた分については無料、紙おむつ等介護用品の支給、公営団地の駐車場代の免除等々がある(じつはわたしもすべてを把握しているわけでない)。それに今回の就学援助費、である。そう考えるとわが家はずいぶんと国や自治体に助けてもらっているわけだ。これからは毎日、玄関先に日の丸でも掲揚しておこうか。だが一方で、医療費の自己負担額も近年じわじわと上がってきているし、装具も全額一時立て替えしなければならないし、靴(装具カバー)にあっては補助対象から外されて、一足につき数万円を自己負担しなければならなくなった。(福祉縮小のしわ寄せは、おそらく子のような軽度の障害者よりも24時間介護を必要とする重度の障害を持った人々に先に現れているのだろうと思う) それに毎月の通院にかかる費用や時間、面倒な申請書類の作成、手術になったときの入院費以外の出費、もろもろの精神的負担を考え併せたら、どうなんだろうね。もちろん当たり前のことだけれど、羅列した補助・優遇措置のすべてよりも子の病気が治る方が当然いい。それは自明すぎるほど当たり前のことなのだけれど、援助される側というのは常に複雑な気持ちを抱きながらそれらを受け取る。子の障害者認定については、そういうことだ。わたしの稼ぎが悪いのは、これは致し方ない。
2007.7.13
* 台風の迫り来る休日。
子は朝からYと病院。水疱瘡の通学許可をもらう。鼻血が多いのはオシッコの薬の副作用もあるかも知れないが、体質的にYとおなじく上半身が熱く下半身が冷たい「のぼせやすい」体質も影響しているのかも知れないと。改善のための漢方薬もあるのだが、オシッコの薬と長期に併用できるか微妙なところなので、年齢的にもうすこし様子を見たらどうかというアドバイス。
昼のお好み焼きを食べてから、留守番をしているという子を残してYと買い物へ行く。あれこれ五月蠅く言われないのが留守番の醍醐味らしい。
図書館で子のリクエストの「ハチドリのひとしずく」(辻信一・光文社)を借りる。昨日行った西友の袋にこのストーリーが書いてあって子が読みたいと。坂本龍一やC.W.ニコル氏などが一文を寄せている。子にはもう一冊、わたしが「はちうえはぼくにまかせて」(ジーン・ジオン・ペンギン社)をえらぶ。夏休みにあちこちの家から鉢植えを預かった男の子の話。Yは映画「シャイン」の原作、わたしは「円空への旅」(早坂暁・日本放送出版協会)を借りる。
近所のショッピング・センター。書店でYは子の学習ドリルを取り寄せする。わたしはログハウス造りの雑誌を立ち読みする。ホーム・センターで園芸用の有機石灰・赤玉土・鹿沼土・バーミキュライトなどを買う。食料品売り場で発泡酒一ケースと夜の焼肉用の肉を買って帰る。
子はじぶんの机の上にノートPCをひろげ、幼稚園のときの学習ソフトのゲームをしていた。訊くと、しばらくローセキでベランダに絵を描いてから、あとはずっとゲームをしていたと言う。まだやりたいと言うのを、Yにもういい加減にしなさいと叱られる。
子がヴァイオリンの練習をしている間、わたしは別室に寝ころび、借りてきた「円空への旅」をぱらぱらとめくる。冒頭に図版が多くあり、後半に円空仏の実際の彫刻手引きが載っているのは面白いのだが、あとは以前にNHKで放送されたドラマのシナリオがメインで、やや薄味の一冊。円空で検索したら図書館にはこの一冊しかなかったのだ。梅原猛の「歓喜する円空」(新潮社)でも購入しようかと考えながら、うつらうつらと。
夕食後、子とユーチューブでビートルズのマジカル・ミステリー・ツアーやイエロー・サブマリンのアニメ版などの映像を見る。「ポールはふつうの男の子の顔だね」なぞと言う。
2007.7.14
* 夜中に突然降り出した豪雨の中を帰ってきた。道が川のように波を打っていて、半分浸水したタイヤがままならぬ。重たい飛沫がバイク・シューズにたっぷりとかかり、水をかぶったエンジンは信号待ちの間にいちど停まってしまう。一瞬の真昼のような雷の光の明滅がまるでニール・ヤングの Like A Hurricane のようだが、雨粒に乱打されたヘルメットの中でわたしが知らず口ずさんでいたのは、意外にものほほんとしたビートルズの All You Need Is Love であった。チューインガムをくちゃくちゃと噛みながら歌うジョン・レノンのように、どこか醒めていて、シュールで、切実だ。そういえば昨日の台風もそうだった。気圧の乱れがひとの精神に及ぶのか。わたしは台風が好きだ。むらむらと妙に興奮が高まってきて、隣で眠っている妻の胸元を手でまさぐったが「眠い」の一言で一蹴された。古代、台風とは始源の祭りであったに違いない。台風が過ぎ去った後の、大きなとぐろを巻いて静かに眠っている大蛇のような天空を、神聖な心持ちで仰ぎ見るのもわたしは好きだ。昨夜の夕刻、馬鹿どもの車をひとしきり回した後で見た光景も素晴らしかった。生まれ立ての星雲のような仄かな光を湛えた雲を背後にして、清冽な青の二上山がすっくと聳え立っている。そこから伸びてくる頭上の雲は目も眩むほどの鮮やかなオレンジと紫の筋だ。荷捌き場のトラックのはたに立ち、わたしはほとんど恍惚とする。そしてわたしは思うのだ。いつか大台ヶ原の深い山中で出会った気高いあの野生の鹿の群も、みなこんな敬虔な表情を湛えて険しい峰々からおなじこの空を眺めているだろうと。生物はネイチャーのなかにあって、ときにネイチャーと高貴な交感をする。
2007.7.16
* バイクのブレーキ・パッドを交換する。工賃込みで約5千円。待ち時間の間にホームセンターで単四の充電式電池4本と、防水のペンライト(これまで使っていたのが壊れた)をひとつ買う。後者はアルミ・ボディのLEDで、単四電池ひとつなのがいい。ブック・オフで古本や中古CDを眺める。ドクター・ジョンのデューク・エリントン全曲カバー・アルバムに食指が動いたが、千円を超えていたので我慢する。バイクはあと二千キロ走ったら、前後のタイヤとディスク・ブレーキの交換で4万円弱也と。
夏のキャンプ用のテントを楽天市場で購入する。余裕があればスリー・シーズンを使いこなせるタフな奴にこだわりたかったが、現状、テントに3万も5万も出すのはチト厳しい。ネットであれこれ調べた末、ぎりぎりの素材とメーカーのネーム・バリューでロゴス(LOGOS) のラルーサ200UV−Zを選んだ 。送料込みで約8千円。大人二人と子ども一人で、大きさ的にはこれくらいで充分だろう。二、三日で届くらしい。わたしがこれまで使ってきたテントはツーリングの一人用のものだ。10代の終わり頃にお茶の水のアルペンで買ったものだから、20年以上も昔の話だ。折れたフレームをいちど交換して、シーズン前に縫い目の防水処理をしただけでずいぶんともった。天井の低い棺桶のようなそのテントで、わたしは眠れぬ幾晩かを過ごし、そして朝を迎えたわけだ。ディランの One Too Many Mornings のように。
ことしの夏はイベントが満載だ。今月末には子のヴァイオリンの発表会があるし、来月は子と東京から来る友人と三人でキャンプ、お盆には恒例でYが子を連れて和歌山の実家へ行くし、月末は一週間の休みをとって2年ぶりにわたしの関東の実家へ帰省する。地元のホールに来るレニングラード・サーカスのチケットも購入した。9月で車の車検も切れるため、わたしの実家へ帰省する前に車検を済ませてから行こうと、整備工場への予約も先日手配した。
水疱瘡も治り昨日から学校へ復帰した子は、算盤を習うことになった。何でもテレビで子どもたちがやっている映像を見て「あれをやりたい」と言ったらしい。老夫婦がやっている近所の教室を見学に行き、Yの実家からお古のソロバンが送られ、昨日から通い始めている。夕方の週に二日か三日ほどで月4千円。わたしは昨今の低年齢からの習い事てんこ盛りには懐疑的で「おれが子どもの頃には遊んでばかりいた。子どもには遊びが大事だ。あまり詰め込みすぎるな」とYに言うのだが、「本人がやりたいと言うのだから仕方ない」と彼女は仰る。たしかにヴァイオリンもベネッセの通信教材も本人のリクエストで始まり、それなりに一生懸命やって長続きしている。スイミングと公民館の合唱団は辞めたが現在、ヴァイオリンと算盤教室、土曜には教会の土曜学校へ行き、学校の毎日の宿題と赤ペン添削の通信教材があり、その合間に病院へ通う。子はある意味で、わたしより忙しい。学校で手紙のやりとりをしている上級生の女の子は先日子の机にあった手紙を覗き見たが「紫乃ちゃんはヴァイオリンのほかに何かやってるの。わたしはピアノとバレエと公文と英会話をやっています」とか書いてあったけれど、わたしだったらきっと死んじまうな。そうしてローセキで道に絵を描いたり、ドブの中のザリガニを拾い上げたり、夕焼けを見上げたりする子どもがいなくなっていくわけか。夜中にYと相談した結果、一学年上を取っている通信教材はとりあえずやめて、教材の中の理科や社会のページも好きだからいわゆる受験勉強には関係のない、たとえば学研の科学雑誌なんかの定期購読はどうだろうかなぞと話している。
祝日明けの火曜日。前夜からの豪雨とそれに伴う県北部に発令された大雨注意報のため、小学校が休校となった。携帯電話をマナー・モードにしたままだったYは子を学校へ送って帰宅してから気づいて、こんどはわたしが迎えに行ったのだった。子は図書室の前の廊下でよそのクラスの先生と二人して、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ「二十面相の呪い」を小脇にかかえて立っていた。先日の給食試食会の際にわたしが調べて、棚の場所を教えておいたのだ。十数冊あったシリーズは夏休みの貸し出しのためか、すでに二冊しか残っていなかったという。小学校の頃、わたしは近所の本屋に毎月二冊づつを頼んで、この少年探偵団シリーズ全46巻を揃えたのだった。子は家へ帰るとソファーに寝そべり、あっという間に「二十面相の呪い」を読んでしまった。「どうだ、小林少年は子どもなのに凄いだろ」「うん、魔法博士と対決するのよ。そのときのシカケがね・・」と親子で二十面相談義を熱く語り合っているのを台所でYがやれやれという顔で眺めている。
2007.7.19
* 木曜は小学校で担任の先生と懇談会だった。子を留守番させて、夫婦で自転車に乗って行った。勉強はどれもとてもよく出来ます。むしろ出来すぎて、こちらが教えることがないくらい。ちょっと気になるのはあまり積極的に挨拶をしないのと、給食の食べる量がいつも少ないこと。翌日は終業式だった。やや心配でもあった新生活のスタートはまずますの形できれたというべきだろう。ハンディを負いながらも、いまのところ、子は新たな集団生活に溶け込んでいるように見える。いやむしろときとして気を遣ってくれているのは周囲の子どもたちの方で、子はそんな気遣いを結構淡泊に受けとめているように見えることもある。オシッコに行っている子をクラス中がじっと待っていても、暢気に戻ってきた子が「もう、みんな、先にやっててよ」と悠然と言ってのけたりする。気が回らないのか、マイ・ペースなのか。「まあ、それも人徳というか、嫌な子だったら誰も手伝ったり気を遣ったりしませんよ」と先生は笑って仰るのだが。愛想はないのだが、愛嬌はあるらしいのだ。
マイ・ペースでいられるというのはいいことだ、と思う。子はいまのところ、じぶんと他者との差異を巧く処理しているように思える。じぶんと他者との差異を受け入れた上で、おなじ土俵に立って他の子どもたちと接することができているように思う。それはときに鈍感さのように見えることもあるが、きっと本人の中ではとても努力をして、負けまいと思って、そして覚悟をした上でやり過ごしていることなのだろう。
送信:紫乃、一学期終了ご苦労様。はじめての学校でいろいろ頑張ったね。夏休みはダラダラしないよう、目標を持って有意義に過ごそう。
返信:校長先生からのメールかな? しのは今そろばんに行ったところ。
2007.7.21
* 石がおちる
なみだの重みで日が爆ぜる
喉の渇きで山川草木の仏を裏切る
2007.7.22
* 子は大阪の病院で MRI の検査。脂肪腫は増えている様子は見受けられないが、一部が脊髄に附着しているようにも見える。ただ、いまのところ顕著な影響や症状の進行も見られないので、しばらく様子を見ましょう、とのY先生の見解。
鶴田浩二の「傷だらけの人生」を歌いながら時速90キロで飛ばして帰ってきた夜ふけ。
2007.7.23
* 休日。午前中、子を誘って矢田山へテントの試着ならぬ「試張」に行く。ひとつひとつ手順を子に教えながら。いいねえ、いいねえと二人して幕内で寝そべったあと、それぞれ雑木林の中から木の実やキノコや葉っぱなどを拾い集めてシダの葉の皿に載せ“山のレストラン”ごっこをする。デザートは紫陽花の“森の風のいちごアイス”。「山の風をたっぷり吸った葉がアイスに風を送ってとっぷりとおいしいのでございます・・・」とは店主のうんちく。 夜、同僚のY氏より貸りたオリバー・ストーン監督作品「ワールド・トレード・センター」をYと二人で見る。「9.11」で崩壊したビルの瓦礫に埋もれた二人の警官の救出劇を描いた「愛と勇気と感動」のクズ映画。最後に「あれは悪意に満ちた行為だったがあの日、ふだんは気づかない人々の善意も見せてくれた」うんたらかんたらのテロップが臆面もなく流れるが、その輝かしき善意がその後アフガンやイラクで罪のない無数の少女や赤ん坊の脳味噌を砕いたのか、と言いたい。オリバー・ストーンのこの白痴的感性には呆れるより他はない。あえて付け加えるなら、この国の北朝鮮による拉致事件問題もある意味、おなじライン上にあるとも言える。お涙頂戴・思考停止の情動的賛歌はほとんどアウシュビッツの狂気か吉本喜劇に値する。こんなクズ映画を見るくらいなら、金正日やオサマ・ビンラディンの演説を聞く方がずっと得るものは多いかもよ。
2007.7.24
* いまいちばんのお気に入りミュージックは、同僚のK氏より頂いた台湾の女性アーティスト・張懸(チャン・シュエン)の2006年アルバム「My Life Will...... 」。遠いむかしに聞いた童歌のような素朴な楽曲と、その上をとつとつと滑っていくしっとりとした、どこかたどたどしい息遣いの歌声。古い、子ども時代の忘れていた細胞膜に水があふれ、ふくらむ。いわゆる今風の曲もあるが、そちらもなかなか愉しい。夏の陽差しの中で氷を浮かべたリンゴ酢を流し込む、そんな感じ。等身大の息をしている、そんな感じ。
張懸.com http://www.sonymusic.com.tw/pop/deserts/p1.php
2007.7.25
* 休日。午前中はPCに向かい、Windows からウィルスバスターの残骸を一掃し、無料のアンチ・ウィルス・ソフト avast! 4 をインストールする。アバストについては「おじいちゃんのメモ」(http://www.iso-g.com/)が分かりやすく参考になった。ウィルスバスターの完全削除についてはこちら→http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3189571.html
個人ユーザーは無料、企業・団体の使用には有償というのは、公共性という土壌に根ざした企業の「良心」あるいは「倫理」のようなものを感じる。掲示板である人が書いていたように「この国のように基本的にどんな小額でもムシリトリタイという精神とはやっぱり違う」とわたしも思うな。その先に、アマゾンやグーグルなどの一極集中とは異なる Web の理想型が、あるいはあるのかも知れないなぞとも思う。
avast! 4 Home Edition は ご家庭での非営利使用のために デザインされたフル機能を備えたアンチウイルスのパッケージです。 この 2つの 条件を満たしていないとご利用になれません!
私たちは、有効な予防法があればコンピュータウィルスが世界中に蔓延するのを 防止できると考えます。 ただ、ユーザのほとんどがアンチウイルスソフトを購入できない・購入したくないと考えているのも事実です。 このページでは Home Edition の最も重要な特徴を示してあります。
企業・団体 (非営利組織を含む) は avast! Home Edition をご利用になれません。しかしALWIL Software は 非営利組織、チャリティー団体、教育・政府機関に対して avast! アンチウイルス製品を特別割引料金でご提供しています。 詳しくは 価格表 をご覧ください。
昼はいごっそうのラーメンを食べに行く。ここのラーメンは、ふだん小食の子も“息が止まりそうなくらいおいしいおいしい”と一人前を食べる。子どもはほんとうにおいしいものを知っている。おっちゃんは相変わらず寡黙にちゃきちゃきと動いていて、大きな鍋の中で丸ごとのキャベツやその他の野菜がぐつぐつと煮えている。昼前にオープンで、カウンターは今日もすでに満席だ。
ラーメンを食べ終えた頃に職場のY君から電話がかかってくる。Y君はもともとプログラムの仕事をしていた。いまも小遣い稼ぎで時折、県内の風俗店や焼肉屋のホームページをつくったりしているようだが、職場でもたとえば日報の様々な集計や駐車台数の予想プログラム、事務所から依頼された来客エリアの集計プログラムなどをマクロを駆使して作成してくれる貴重な人材だ。そのY君が、3年も働いているのに時給が10円さえ上がらない、このままの待遇が続くなら退職して、しばらく屋久島でも行ってのんびりしてくると数ヶ月前に宣言したのである。いわばたった一人の労働争議だ。現場の中には年齢的に再就職も難しく、そこまで強硬な態度に出られない者もいる。わたしは(全員に対する)責任者としてただ「かれはとても貴重な人材で、うちの現場にはもったいないくらいです。ただそれを会社がどう評価するかはお任せします」と意見するに止めた。そして宣言した期限ぎりぎりの今月、最近代わったばかりの営業所長がいちど話をしたいと言って、Y君の夜勤明けの今日に両者による話し合いが持たれたのだった。結果は「館内勤務者の全員に、1日の勤務あたり400円前後の手当、夜勤勤務にはそれとは別に数百円の夜勤手当をつける」という会社側からの申し出で、一人頭、およそ月額一万円弱のアップとなる計算だという。「おれにしては切れないで結構、頑張ったでしょ」と受話器の向こうでY君は笑っている。何でも営業所長が相談をした取締役のHさんが「○○(わたしたちの現場名)なら、なるべくのことをしてやれ」と答えたとか。「みんなは喜んでいるだろうな。ただ、これでY君がこの職場に残ることがY君にとってほんとうによかったのかどうか、個人的には分からないけどね。でもまあ、ともかくご苦労さん」とわたしは言った。Y君が職場を去るのは実際に相当な戦力ダウンだし、個人的にも淋しいことだが、わたしとしては(職場を離れた個人的な意見として)「屋久島プラン」も悪くないと思い、「いつまでもここにいても大した将来はないし、ある意味、いい機会じゃないのか」とY君本人にも常々言っていたのだった。
帰りは大安寺のショッピング・センターやホームセンター、靴屋などに立ち寄って、キャンプ用のミニ・コンロや炭やクーラーボックス、食材や鉢植えの花(子は自分用に“おじぎそう”を買った)、100円の小さな花火セット、発表会用の子の靴などを買って帰った。午後はわたしは先日買った福岡 伸一「生物と無生物のあいだ 」(講談社現代新書)を読みながらじきに昼寝、子はYと発表会の練習。夕食にYのつくった夏野菜カレーを食べてから、近くの土手の上で子と花火をした。シャワーを浴びて、布団の上で子と「座禅道場ごっこ」をしてしばらく笑い転げる。じきに眠くなってきたのか、子は「お父さん、カントリー・ロードの歌、覚えてる?」と言う。うろ覚えの英語の歌詞を歌っているうちにすやすやと眠ってしまった。
2007.7.26
* 子は大阪の病院で血液検査の結果。鼻血がたびたびなのでいちど診てもらった。結果は貧血で、ラインが10とすると6程度しかない。身体的にけっこうしんどいのではないかと医師は言う。原因は鼻血で大量の血が出たせいか、あるいは内部の出血で血便や血痰等がないかと訊かれたがそんな心当たりもない。念のため便の検査も追加し、また近いうちに近所の耳鼻科でも受診してもらうことにする。鼻血が頻発することについては、血が止まりにくい病気もあるが、それはこれまでの手術のときにも調べているはずだからないだろうと。帰りに寄った百貨店で、子は紙細工で蝶や動物をつくる実演コーナーの正面に陣取り、一時間も見続けたという。家に帰ってうろ覚えの記憶を辿って蝶を一匹、つくった。
しばらく前から始めたソロバンは「手はじめの1」の教本を終わって次に「2」がもらえるのだろうと思っていたら、また別の教本をもらった。呑み込みがいいので小学校3年生の初心者が使うテキストにしてくれたのだとのこと。
夏休みが始まってから、子は近所の公園でやっているラジオ体操に参加している。毎朝6時過ぎに母親に起こされて、朝食を済ませ、7時から5分間だけの体操へ馳せ参じる。いつもはYがついていくのだが、今日はわたしの弁当をつくるのに忙しくて母がひとりで行かせた。途中に車道をひとつ横切らなくてはならないのを夫婦でベランダから眺めた。「危なくないかな」「あの子は慎重だから、大丈夫よ」「はるか遠くで車が動いているのが見えるだけで止まってるのものな」 職場に着いてからYに電話をかけた。「紫乃は無事に帰ってきたか」 はたで聞いていた子は「お父さんったらバカねえ。わたしが死んだらお母さんが電話してるじゃないの」と言ったとか。
2007.7.27
* 日曜はヴァイオリンの発表会。昼ごろ、お腹が痛いと言い出す。残尿感があるようで、何度もおしっこをとってくれと言う。休日診療の市立病院で検査を受け、膀胱炎との診断で抗生物質の薬をもらってくる。そんなごたごたのあと、慌てて会場へ。曲はモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ(1781)ハ長調Kv403の第二楽章。(これはモーツァルトの死後に発見された未完の断章で、後に Maximilian Stadler(1748-1833)により補筆完成され出版されたもの。今回、子が演奏したのはモーツァルトが書き残した部分まで) テンポを落とした全体にしっとりと聞かせる曲で、ピアノを待って絡んでいくところなどもあり、小学一年生にしてはけっこう難しいと思うのだが、無難に弾ききった。
夜は義父母たちといっしょに田原本にある豆腐料理の店・豆仙坊で食事。豪奢な旧家を改装した部屋は落ち着いていて、懐石風コースも1500円〜2000円程度でお手頃な価格。Yは「これならお金を払う価値がある」と大変気に入った様子。子は「庭もいいし、トイレがまたねえ・・」なぞとしゃべっている。
この日は参議院の選挙で自民党が大敗、民主党が参院第一党になった。サテ、二大政党制は「健全な政権交代」への一歩か、あるいは平成の大政翼賛会へのまえふりか。
2007.7.30
* 発表会の翌日、わたしは朝から工事の警備立哨で二時間だけのアルバイト。Yは子を改めて近所の小児科へ連れて行く。おしっこの再検査をしてもらい、感染はすでになくなっているとのこと。午後から車で義父母を和歌山へ送っていく。子は行きの車中で、以前にわたしが買い与えた300ページの「星からきた少女」をぜんぶ読んでしまった。仏壇の間で一眠りしてから、夕食に刺身をたらふく食べ、寝転がって義父母の話す親類同士の海運経営の歴史を聞く。「渡る世間は鬼ばかり」のような高視聴率のテレビ・ドラマが出来そうだ、とわたしの寸評。夜の高速道路をひた走って夜中に帰ってくると、ポストに作家の寮美千子氏から子へ宛てた小包が届いていた。今日の昼間、封を開けた子から職場へ電話が来た。「お父さんねえ、きれいな十字架のネックレスだよ。でもヒモのところが汚れそうだから、どろんこ遊びのときはつけていけないの」 寮さん自身による手編みの水晶のロザリオであった。
2007.7.31
* 深夜。子の透明なオシッコがカテーテルの細い管からなみだのように流れ出て、紙おむつに吸い込まれていくのを見ている。左手で押さえた膀胱のレバーのような固いしこりも分かる。こいつが思うようにいかないんだな。オシッコが紙おむつに吸い込まれていくのを眺めながら、ぼくは子どもの頃を思い出していた。親しい誰かにひどい裏切りをして、夕暮れの路地裏をとぼとぼと歩いていくじぶんの姿だ。熟れた巨大なトマトのような夕焼けがどこまでもつづく家々のかすれた屋根を押しつぶしていた。ぼくは思わず駆け出した。どこまで走っても逃れられない。極北のワタリガラスがぼくの眼をえぐり、ぼくのはらわたを啄(ついば)むだろう。
2007.8.1
* さて、発表会も終わり、いよいよヴァイオリンの買い換え時期が来たようだ。現在の1/8のサイズから1/4へ。いまのところ、以前にも記した天満橋のヴァイオリン工房(Liuteria-BATO)での購入を考えている(ゴムログ50・2007.2.15を参照)。予算は最低、本体30万円に弓やケースを入れてぜんぶで40〜50万ってとこか。中古車一台が買えるな。わが家には貯蓄なぞといった優雅なものはほとんどないが、幸い、子がこれまでにもらったお年玉やお祝い・お見舞い金などを貯めた金がぎりぎりそれくらいは、ある。これは突然の入院費用や装具費用の一時立て替え用に置いている金でもあるのだが、しばらくそうした予定はないので、まあ、何とかなるだろう。子がどこまでヴァイオリンをやり続けるのかは分からない。やめたくなったらやめたらいいだけだが、続けたいと思っている限りはできるだけのことはしてやりたい。子がはじめてヴァイオリンをやりたいと言い出したのは、仲良しだったリンゴの木が倒れ、その幹を削ってつくったヴァイオリンを町へ下りて弾く猿の絵本を読んだ3歳の頃だ。いまでは親が驚くような難しい曲も弾きこなす。音楽で英才教育をさせたいわけではない。三味線でもエレキ・ギターでも何でもいいわけだ。機織り機や彫刻刀やろくろでもよかった。夢中になれるもの、心の支えになれるものが見つけられたらそれでいい。ひとつののことをやり続けることの難しさと歓びを子が知ってくれたらそれでいい。ハンディ・キャップの負い目を吹き飛ばすだけの強靱さとしなやかさと矜持をそれによって育むことができたらいい。ヴァイオリンは、そのための武器だ。
2007.8.2
* 市民ホールでレニングラード国立舞台サーカスを見る。子は呆然としたり、はっと息を呑んだり、「おーっ」と思わず声を出したり、こちらを覗き見ているのも舞台と同じくらいに面白い。サーカスというのは、いいね。バーチャルな世界の対極にある、リアルな肉体による非日常・ハレのステージだ。大道芸人やサーカス、ジプシーといった存在には、いつも奇妙に心をくすぐられる。開演前に車のウィンドウ越しに見かけた、熊の曲芸をやった男女の団員がラフなジャージ姿で西友の買い物袋を下げて歩いていた姿を、終演後に何故かふいと思い出した。
夜、ビデオで録画しておいた東京大空襲のアニメ作品「あした元気にな〜れ! 〜半分のさつまいも」(教育テレビ)を三人で見る。雨あられの如く降り注ぐ焼夷弾の場面で子は「やりすぎだよ!」と思わず声を荒らげる。
図書館で町田宗鳳「縄文からアイヌへ 感覚的叡智の系譜」(せりか書房)を借りてきた。
ロシアサーカスの歴史 http://www.bolshoicircus.com/history/russian.html
見物広場 http://www.chansuke.net/index.html
2007.8.4
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