■日々是ゴム消し Log46 もどる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 木曜。幼稚園での生活発表会(学芸会)。前々夜にも39度の発熱があった子は何とか間に合った。もちろんわたしも休みを取ってある。ことしの演目は「青い鳥」。子の役は「ベルおばあさん」。劇中に「夜の女王」という怖い女王が出てきて、ストーリーの中で「夜の女王」と接触しないのは唯一、この「ベルおばあさん」だけなのだ。おばあさんは劇の冒頭でチルチルとミチルを訪ね病気の孫のために青い鳥を探してきてほしいと頼み、それから劇の最後にチルチルとミチルが探してきた青い鳥を受けとって礼を言う。おばあさん役をやりたい子どもはいなかったらしくて、子は希望通り「ベルおばあさん」の役をもらえた。

 子をバスに乗せてから、Yと幼稚園へ向かう。ちょうど1年前にも同じことを記した(ゴム消しLog42・2005.2.19の項)。客席からぞろぞろと顔を出すビデオ・カメラの液晶画面はどれもわが子のアップばかりが延々と続く。「じぶんの子ども」だけがあって「他者」は存在しない。限られた「部分」だけを見て「全体」が見えない。「私は一人一人についての特別な愛情といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さふいう愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから」と書いた宮沢賢治が思い浮かぶ。道具は、なるほど便利なものだろうが、使い方によっては世界を狭くする。エゴを強める道具ではなくて、世界をひろげる道具がほしい。

 どの子どもも、見ていて愉しい。5才にして数学者のような風貌の男の子がいる。5才にしてしっかりもののお母さんのような女の子もいる。総じて女の子はしっかり見えて、照れたり甘えたり我が儘だったりしているのはたいてい男の方だな。たくさんの顔を見ながら、わたしはたとえば最近映像で見た、米軍の爆撃で殺されていったイラクの子どもや、ゴミの山で暮らすフィリピンの子どもたちのことなどを思い出す。また、目の前のこの無邪気な子らがいつか、人を憎んだり欺いたり、富や権力を望み、殺したり殺されたりするのだろうか、とも考える。そのことが、信じられない。

 

 

 昨夜は不思議な夢を見た。わたしは透明な「熊野のたましい」になって、空中を自在に飛んでいる。かつて聖山だった山が、人間のために穿たれコンクリートで固められ、炭坑の廃墟のような無惨な姿に変わり果ててしまった、その場所を飛んでいる。暗がりに茶色の水たまりが点在するトンネルを、地面すれすれに滑空しながら慟哭するような酷い痛みを感じていた。

 

 アパラチアの山の人びとのいままでを語り伝える本で読んだ、かつて山の少年だった一人の老人の回想。夢を見るには、目をきれいにしなければならないと、少年の父はよく少年にいった。父はいつも、山を見ていた。山を見ていると、目がきれいになる。いい夢を見ることができる。これは信じていいことだ、と父は少年にいった。少年は信じなかった。そのことを、老人は後悔している。山はいまでも、そこにある。しかし、いまでは、父のように、誰ももうゆっくりと山を見ない、と老人はいう。われわれは夢の見かたを、いつか忘れてしまったのだ。

長田弘「詩は友人を数える方法」(講談社)

 

2006.2.16

 

*

 

 昨夜は土曜の夜で、明け方までの勤務だった。今日は昼近くまで寝ていた。Yと子は午前中は教会。午後から子と机の材の簡単な補修。加工過程で割れたりささくれたりしてしまった部分や天板の虫食い穴等を埋める。ほんらいは砥の粉を使うんだろうが、ドリル作業などで出た細かい木屑をふるいにかけて木工ボンドで練った手製の即席「砥の粉」で。二日ほど乾かせてからヤスリで磨く。今日はまた夜から出勤。次の休みには、いよいよ抽斗の材料を買ってくる予定だ。

 

 アマゾンで「世界でいちばん美しい物語 宇宙と生命と人類の誕生」ユベール・リーブス他(ちくま文庫 @735)と「俺と悪魔のブルーズ」平本アキラ(アフタヌーンKC @699)の1・2巻を注文する。

2006.2.19

 

*

 

 幼稚園の帰り。いつか死んだ鳩を隠した植え込みの陰に、子はときおり枯れ草を集めてきて撒く。枯れ草で十字をつくろうとする。この鳩をわたしの鳩にする、とつめたい亡骸をかかえて彼女は宣言した。そこはおそらく彼女にとっての“聖地”なのだろう、と思う。のぞきこむと、鳩の体は羽の部分をのぞいてみな土に溶けてしまったようだ。

 いつかわたしも死んで、埋められる。土に溶けてすっかり消えてしまうだろう。彼女がわたしの墓の上に枯れ草を撒いてくれる。

 

 

 どこまでもトウモロコシ畑のつづく風景の、ひろびろとのびやかな感じ。トウモロコシ畑のあいだの道を走っていると、そのひろがりののびやかな感じに、五感がゆっくりとつつまれてゆく。トウモロコシは、どんなトウモロコシをとっても、まったくおなじものは一つとしてありません。みんなちがうのです。ひたすらトウモロコシとつきあって生涯をおくった、バーバラ・マクリントックという分子生物学者の言葉をおもいだす。

 一本のトウモロコシの固有な性質から一粒の実の性質へ、さらに一本の染色体の性質へ、トウモロコシという一本の植物を全体として成り立たせている原理を究めていって、とうとう「動く遺伝子」の秘密を突きとめて、81歳でノーベル賞にきまったときも、やはりたった一人で、トウモロコシ畑のなかにいた人だ。トウモロコシと心をかよいあわせた人、トウモロコシの一本一本の伝記が書ける人、とまでいわれた。

 自然は「自然という本」なのです、とトウモロコシ畑の分子生物学者はいった。その本を読むには、私たちは時間をかけてものを見なければなりません。そして、じぶんの扱ってる対象が語りかけるところに耳をかたむける辛抱づよさを、また、対象のほうからわれわれを訪れるようにさせる開かれた心をもたなければなりません。人がどんなことを考えついてみたところで、それはもともと自然のなかに存在していたものなのです。‥‥‥

「自然という本」を読むこと。自然のなかに書きこまれた文章を読むこと。トウモロコシ畑の分子生物学者のそうした態度、ものの感受のしかた、考えかたのすすめかたをささえたのは、科学者自身との対話にもとづく伝記によれば、「事物の全一性に対する自覚」なしには、科学は自然という世界を理解することができないだろうという深い確信だ。物事のあいだに線を引く理由はどこにもありません、と彼女はいった。

 根本的にいって、すべてのものは一つなのです。ところが、私たちがすることといえば、細分化をおこなうことなのです。しかし、分けられたものは真実とはちがいます。私たちの物を見る見かたは人為的で、実際にはあるはずのない細分化に満ちています。仮定を立ててはならないことに、私たちは仮定を立ててきました。おおきな危険はドグマから生まれます、と彼女はいった。モデルが現実ととりちがえられてしまうのです。そうして私たちは、細分化された科学の技術をもちいて、今日じぶんたちがその一部である世界をおそろしく損ないながら、それでも平然としているのです。‥‥‥

長田弘「詩は友人を数える方法」(講談社)

 

 

 

 ところで最近はAにもらったディランの The Bootleg Series, Vol. 7: No Direction Home をよく聴いている。60年代のアウトテイク集だ。はじめは初期の弾き語りの、素朴な語り口に耳をすませていた。いまはバンド・スタイルになってからの Highway 61 Revisited や Blonde On Blonde のアウトテイクがぴったりくる。とくに後者の曲たちはミキシングの過程で隠されてしまった荒削りな、刃(やいば)の切っ先のような感覚が伝わってきて心地よい。肉を裂くのではない、こころを彫刻するための刃だ。曲がこぼれおちたときの、さいしょの荒削りな手触り。それが、聴ける。

 一昨夜、風呂のなかでこんなアメリカの詩を読んだ。これはまるっきり Subterranean Homesick Blues じゃないか。

 

目先の利益を愛せ。白書はそういいたてる。
有給休暇だ。既製品すべてを
もっと欲しがれ。隣人と知りあいになるな。
死ぬことを怖れろ。そうすれば、
頭の風通しがずっとよくなる。
未来なんてもう、謎でも何でもなくなる。
心がカードにパンチされて、
小さな引出しに蔵いこまれる。
何か買わせたければ、やつらは
きみに電話してくる。利益をあげるために、
死んでほしければ、やつらはきみにそういう。
だから、友よ、けっして見積もられることのない
何かを、日々になせ。神を愛するとか、
この世を愛するとか、無のために働くとか。
持ちものをぜんぶ手にしろ。貧乏であれ。
愛するに価しないものを愛せ。
政府を非難して、国旗を抱きしめろ。
自由な共和国に暮らすことをねがえ。
その国のために、国旗は掲げられている。
理解できないものすべてを承認しろ。
無知をたたえろ。なぜなら、人が
手をくださなかったものは、何も破壊しない。
答えのない質問をしろ。
千年の至福に投資しろ。セコイアを植えろ。
主な作物は、森だといえ。
森は、人が育てたのではない。
森は、畑ではない。
わくら葉を集めて、木枠のなかに積みあげろ。
その利益と、報酬をかんがえてみろ。
千年で、2インチの腐植土が
樹の下にできる。その腐植土のなかに
じぶんの信念を埋めろ。
腐ってゆくものに耳かたむけろ。
耳を塞いで、まだ聴こえない歌の
微かなざわめきを聴け。
世界の終わりを楽しみにしろ。笑え。
笑うやつは当てにされない。現実が
何から何まで悩ましくても、楽しくしろ。
男たちのよろこびよりも、権力に
すりよらない女たちのよろこびが何か、
自問しろ。
これは、子どもを生むことをよろこぶ
女がよろこぶことか、これは、
臨月まぢかの女の眠りを妨げるか、と。
愛するやつと野っ原にゆけ。木陰で
ゆっくりしろ。愛するやつの膝で
頭を休めろ。じぶんの考えに
もっとも近いものに忠誠を誓え。
さっさと姿をくらませ、こころの動きを、
軍隊の連中や政治屋に読まれたら。
ただし、これはまちがった足跡であり、
じぶんはその道をゆかなかったという
しるしをのこせ。狐のようであれ。
狐は、必要以上にたくさんの足跡を、
まちがった方向にもわざとのこす。
死んでも復活する練習をしろ。

ウェンデル・ベリー「マニフェスト、怒る農夫の自由のための」 長田弘訳(前掲書より孫引)

 

 

 職場の飲み会。清掃のおばさんに「みだれ髪」をリクエストする。詰まったトイレやひとの汚物を嫌な顔ひとつ見せず黙々と処理しているおばさんたちの仕事をぼくはいつも気高いものだと思う。ぼくは十八番のクレージー・キャッツをいくつか歌った。ブルーハーツの「リンダ・リンダ」と「チェイン・ギャング」を歌った。「チェイン・ギャング」の高音部分で声がつぶれてしまったとき、清掃のおばさんたちとインフォメーションの女の子たちが悲鳴のような声をあげた。彼女たちの顔はどれも輝いていた。歌で輝いていたのだ。歌の力で。「魂の伝達は可能だ。おれはそう信じている」 そのとき、ぼくは昔読んだ漫画の主人公が言うそんなセリフをちらと思い出した。

 

 

僕の話を聞いてくれ 笑いとばしてもいいから
ブルースにとりつかれたら チェインギャングは歌いだす
仮面をつけて生きるのは 息苦しくてしょうがない
どこでもいつも誰とでも 笑顔でなんかいられない

 

人を騙したりするのは とってもいけないことです
モノを盗んだりするのは とってもいけないことです
それでも僕は騙したり モノを盗んだりしてきた
世界が歪んでいるのは 僕のしわざかもしれない

 

過ぎていく時間の中で ピーターパンにもなれずに
一人ぼっちがこわいから ハンパに成長してきた
何だかとても苦しいよ 一人ぼっちでかまわない
キリストを殺したものは そんな僕の罪のせいだ

 

生きているっていうことは カッコ悪いかもしれない
死んでしまうという事は とってもみじめなものだろう
だから親愛なる人よ その間にほんの少し
人を愛するってことを しっかりとつかまえるんだ

 

一人ぼっちがこわいから ハンパに成長してきた
一人ぼっちがこわいから ハンパに成長してきた

ザ・ブルーハーツ「チェインギャング」

 

2006.2.24

 

*

 

 ひさしぶりに子をスイミング教室へ連れていく。駐車場が満杯で停めるところがない。受付の女性にその旨を伝える。「クラスの入れ替わりでじきに空きますから」「それは何度も聞きました。入れ替わりでダブるのははじめから分かっていることなんだから、その分のキャパを計算しておく必要があるんじゃないですか」「上の者に伝えますので」「いや、もう何ヶ月も前から同じことを言っているのに何も変わってないんです。直接、責任者の方に話ができませんか」「分かりました。では、ちょっとお待ち下さい。話して来ますんで」「もう始まるんで、さいしょにこの子を連れていきます」 子と二人で廊下を歩み出すと、おとうさん、“ことば”ってすごいねえ、と子が感嘆した様子で言ってきた。それを聞いた途端、わたしはじぶんがこれまでずっと、ひどい失敗をし続けてきたような気分に襲われた。

 

 ゴールデン・レインツリーは、沈黙をいっぱいもった、とても静かな樹だった。樹のおおきさは、樹がつつみもつ沈黙の容量なのだ。

長田弘「詩は友人を数える方法」(講談社)

 

 

 子はいま「ジャングル大帝レオ」に夢中だ。レンタル屋のDVD全13巻(テレビ版)をすべて見終え、先日、最後に残った劇場版のビデオも見た。レオってすごいねえ。彼女は“白いライオン”に全幅の信頼をおいている。テレビ版の最終章では、森を脅かす人間を前にレオは非暴力を叫び、身を挺したその叫びが森の中心にそびえる老樹から出る不思議な波動となって人間たちのこころを変える。レオが大人になった設定の劇場版では、未来への希望を託せる一人の人間の命を救うためにレオは自らの命を捧げてその肉と毛皮をかれに提供して果てる(子はぼろぼろと涙を流した)。前者はかのガンジーの思想であり、後者は餓えたライオンに身を捧げたという仏典に描かれたブッダの姿である。手塚治虫の描く「ジャングル大帝レオ」の底流には、その大きな二筋の大河が滔々と流れている。

 わたしはべつのことを考えていた。むろん、焼身供養したクアン・ドゥック師のことだ。

 

 

 プールが終わり、着替えも済んでみなが立ち去ったホールの片隅で子を寝かせてオシッコを摂る。濡れた髪を念入りに拭きながら、みながいなくなるのをいつも待つのだ。母親が隣のファミレスにいて、長女のスイミングが終わったら迎えに来るという姉妹が「何をしているの?」と覗きに来る。ふだんなら違う受け答えもできたろうが、なぜかその日は姉妹の他意のないその無遠慮さが腹立たしく、病気だからと簡単な説明をしてやってから「じぶんだったら恥ずかしいだろ。ちょっとだけ、むこうに行っててくれない?」と頼む。姉妹はいったんは素直に離れるが、じきにまた覗き込みにくる。いろいろと質問をくり返す。「さっき言ったこと、覚えている?」とわたしは言う。「耳は聞こえてるから覚えてるよ。ビョーキじゃないんだから」と姉の方が答える。殴ってやろうかと思うのをこらえて、二人を無視する。気配を感じたのか姉妹はホールを出ていく。あとで子から「プールが終わってから遊ぼうねと約束していた」と聞いて、悪いことをしたなと思う。もっとも子は帰ってから母親に「お父さんがね、“きみなら恥ずかしいと思うだろ”とか○○ちゃんにいろいろ言って、すごく面白かった」なぞとけらけらと笑っていたのだけれども。

 

 

ぼくらは束の間、生きのびて、そして死ぬ。
歩きまわっているあいだは、純粋に、自由だと感じる。
斧は他の誰かに振りおろされるのだ、と考えている。
希望にみちた胸が、やがて切迫した思いに跳びあがる。
木のように静かに立っているものは、誰もいない。
誰の顔をかがやかすのも、失うしかないかがやきだ。

ぼくらはじぶんを強いと思う。だが、より強い何かが
ぼくらの切望する秩序の感覚を根こそぎにする。
花々は咲いたときには、もう散ってしまっている。
ぼくらはもう少し歩きまわるけれど、心がおとろえる。
時は、浪費するが、倹約はしない。
年老いたどの鹿も、かつては子鹿だった。

リチャード・エバハート「顔、斧、そして時」 長田弘訳

 

 

 世上のあらゆる罪を悔いて十一面観音に許しを請うという、奈良・東大寺二月堂の修二会(お水取り)の行が始まった。お水取りが終わると、奈良盆地もじき春の訪れだ。

2006.3.2

 

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 日曜。お弁当をもって平城宮跡へ行く。遺構展示館のパーキング。中世の塔のように落葉樹が数本、寄り添っている下にレジャー・シートをひろげて昼食。空気はまだすこしばかり冬の名残りだが、ぽかぽかとした陽差しはもう春の陽気だ。Yは木陰でヘルマン・ヘッセをひろげる。ブライアン・ウィルソンのソロ・アルバムが似合いそうな色彩だな。せっかくひろい場所にきたのに、子ははじめ、樹下のちいさな空間でばかり遊んでいる。小枝をひろって小刀で削る。葉っぱや石ころで食卓をつくる。ガウディのソファーのような木の根元に身体をもたれて風景を眺めている。あの王様のお城のところまで行ってみようよ。ボールを追いかけながら駆けていく。大極殿跡にのぼる。“王様”はやさしい人だったにちがいない、と子は言う。家並みは変わってもむかしの人はいまとおんなじ山を見ていたんだ、とわたしが言う。大極殿のまわりでかくれんぼをする。木立に囲まれた公衆トイレのわきに野宿者のテントが二張り。「あの人たちはいいねえ」「どうして?」「だっていつもテントで寝れるもん」 子どもと凧揚げをしている父親が多い。凧揚げには、ここは最高の場所だろう。たちどまって、子と二人で見あげる。青空を泳ぐ凧のとなりに昼の三日月。雲母をほそく裂いて貼りつけた空のペンダントのような。

 

 たったいま通りすぎてきたばかりのような事故は、この人間のいない風景にとって何だったのか。しかし、“それが何だったか”という以上の意味を、おそらくひとはこの世にもっていないのだ。信じられないほど真っ白な、目の前の塩の砂漠。あたかも誰も以前にそこにいなかったように、そしていまも誰もいないかのように、ただただ明るい光景のひろがりがある。ひろがりが神だといったのは、確かスピノザだったとおもうが、風景のひろがりのなかには、ぼーっとしてくるきれいな無のほかに、どんな意味もなかった。それが神だとおもう。そうでない理由があるだろうか。

長田弘「詩は友人を数える方法」(講談社)

 

2006.3.5

 

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 火曜。子はYと大阪の病院。脳外科でリハビリと整形外科の予約。リハビリ科で合わなくなった装具の相談。さいきん、歩く姿勢がわるくなった、とY。右足の小指側が内へ巻くような形になってきて、ちょっと小走りになると左足を軸に、右足はまるでサイドスローの投手の腕のようなのだ。ときとして右は甲の部分が地面に向いてつんのめりそうにも見える。神経の麻痺がつよいのは左足の方で、足首も右はかすかに動かせるのに対し左はぴくりともしないのだが、筋肉のバランスがわるいのは右足の方なのだ。右足首を下方へ動かす力がつよすぎるために内へ巻く形になる。まこと人の身体というものは(そう、“自然”とおなじように)微妙なバランスから成り立っている。そんな状態であるから、左右の足の大きさもまた微妙に異なる。踵をしっかりと留められる靴ならいいが、長靴だと、左に合わせれば右が抜け、右に合わせれば左が入れづらい。ちょうど中間のサイズで折り合って、詰め物などで工夫し、あと抜けるようであれば片側だけ、上からバンドのようなもので締めるしかないなとYと話し合った。なにか可愛い色と柄のバンドで。そんなふうに平城宮跡にピクニックへ行った帰りにあたらしい長靴を買ったのだった。“ウサハナ”がいいと言う子のために、靴屋を三軒はしごした。ふだんは装具を履かなきゃならないから、こんなときくらい、じぶんで好きなものを選ばせてやりたいの、とYが言う。右足の変形がつよくなってきているという見たては、リハビリ科のI先生もおなじだ。装具で抑えられなくなってきたら、あるいはそろそろ筋肉を入れ換える手術をする時期なのかもしれない。そのへんはまた来週の整形外科のH先生にも診てもらうことになった。風呂の湯のなかで、あるいは眠ってしまった布団のなかで、かたいパン生地をこねるように、いのるように、ちいさな足首を両手で包み込んでストレッチをする。かたくなった筋肉をほぐし、緊張している足指をほぐす。毎晩10分。それだけでも忙しい毎日のなかで精一杯だとわたしも思うんですが、それでもがんばって20分はやってください、とI先生は言う。三カ月毎に再開するリハビリも、次回からは週にいちど、20分だけになるという。あるくこともできない重度の患者もいるから、子に割り当てられる時間はそれだけなのだそうだ。バイオリンとおなじじゃないか。週に30分だけおしえてもらって、あとは家で練習してくる。わたしが言った。飽きないように子の好きなビデオをかけて、わたしがつくった手製のリハビリ器の上に立たせる。外へ重心のかかっている右足をうしろから、内側へ押し戻した格好でおさえ続ける。全身の体重がかかっているので、おとなでもけっこう力が要る。それで20〜30分間。子は立ったまま一心にビデオの画面を見つめる。少女が眠っている間に、騎士と天使の人形が冒険をするセリフのないアニメーションだ。わたしはおさえている子の足首を見つめる。

2006.3.9

 

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 amazon からソーガイドが届く。VIC's D.I.Y.さんのサイトで知ったもので、近所のホームセンターでは取り扱っていなかったものが、こうして手早く入手できるのだからインターネットというのはやっぱり便利だね。値段も手頃で、これで家でも手ノコで正確な直角カットが可能だ。眺めているだけで思わずにんまりしてしまうおれはやはり相当か。それにしても木工道具がたまる。

 数日前、やはり amazon から並川 孝儀 「ゴータマ・ブッダ考」(大蔵出版  @2940)が届く。

 

 夜勤明けの今朝、巡回時にひとり眺めた早朝の金剛山は美しかった。山の谷筋から朝もやが立ちのぼり、まるで古代の神話の世界のようだった。

 今夜は明日のDSライト発売を控えて、立体駐車場は寝袋や毛布にくるまって座り込む輩で溢れている。そんなやつらは放っておくさ。おれとは住んでいる世界が違う。

 明日は土曜日で、子どもと弁当をもって山へいくんだ。サンダーと完成が近いヤスリがけの机の部材ももっていく。おれがサンダーを響かせている間、彼女は小枝や木の実を拾って微笑むだろう。人気のない山のなか、サンダーをかけているおれのかたわらで、おれのちいさな天使が子羊のようにあるきまわりながら微笑む。それだけでおれは幸福だ。

 

 

ねがわくば、あなたたちが心をいっぱいに開くことを。
空に。大地に。太陽に。月に。
ひとつの完全な声に。それがあなたたちなのだから。
そうすれば、わかるはずだ。見ることの
できないもの、聴くことのできないもの、知ることの
できないものが、まだまだあるのだということが。
着実に育つものの時のあいだにあるものが。
動きの輪である言葉のなかにあるものが。
日曜日の朝、青空のなか、風のなか、
輪をえがいて、神のつくった翼のなか、
私たちの心をきれいにぬぐって、
ソルト・リヴァーを越えて飛ぶ鷲のように。
私たちは、あなたたちを見て、私たちを自身を見る。
そして、知るのだ。できるかぎりの注意をはらって、
ありとあらゆるもののなかにひそむ優しさを、
私たちはわがものにしなければならないということを。
息を吸いこむ。すべてが私たちをつくっているから。
息を吐く。すべてに私たちはまもられているから。
なぜなら、この世に生まれて、やがて、
動きの本当の輪のなかで、私たちは死ぬのだから。
私たちの心のなかに
朝をつくりだす鷲のように。
ねがわくば、
うるわしさのなかに。
うるわしさのなかに。

ジョイ・ハージョ「鷲の詩」

2006.3.10

 

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 今夜はディランの The Bootleg Series, Vol. 7: No Direction Home と、この二篇の詩だけだ。それだけがしっくりとくる。ジョン・コーンフォードはアダムの伯父だ。スペインの内戦で戦い、21歳の誕生日に死んだ。ディランが糞のようなオーディエンスを I Don't Believe You と突き放したような礫がぼくらには必要だ。

 

 

鋭い刃で断ち割った木の挟み罠に
引っ掛かって脚のよじれた鶉(うずら)。
糸に吊した血の気の失せた肉。
そして、あとは火に掛けるだけの、
山盛りの黒いいんげん豆。-----それが
ぼくには一篇の詩だ。-----顔を顰(しか)めればいい。
詩を頭で理解しようたってだめだ。

ルー・ブロックコルスキ「詩」

 

 

 

詩人の方程式において礫(つぶて)は言葉にひとしい
詩人はいう 礫はきみの目のすぐまえにそろっている
われわれの周りじゅうにあるのはべつの代数だ
それは利ざやを搾りとるための代数だ
指を失くし目を失くし肺を失くす
組み立て作業にはまたべつの幾何学がある
油のべっとり付いた飛べない翼の算数は
風船の算数だ それは針一本で爆発する算数だ
オーヴンに頭を突っ込んで目を閉じた一人の女性が
皿のあいだに手つかずのままにのこした
それが定理だ
何もかも根こそぎにする市場には
灰になって飛び散る数字がある
礫はきみの目のすぐまえにそろっている
どんなにきみが言葉をもとめても言葉は言葉ではない
叫び声と汚れた埃りでいっぱいの街が
どうしたらちゃんと立ってダンスができるか
語るのは壁だ 壁を読め
礫はきみの目のすぐまえにそろっている
だから 立派な窓には覆いがあるのだ
広告宣伝板のうえのにやにや笑い
秩序維持のための防御マスクの下のにやにや笑い
礫はきみの目のすぐまえにそろっている
礫を一つ択べ 礫はきみの手にぴったりとおさまる

アダム・コーンフォード「任意の選択」

 

2006.3.11

 

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 寝床で子に絵本を読む。子が持ってきたのは絵の美しい「マッチ売りの少女」。「わたし、これが好きやねん」 マッチの炎のなかで、死んだ祖母に抱かれて少女は天へのぼっていく。少女が死んだ朝、だれもそのことを知らない。「おとうさんやおかあさんも?」 「そうだろうね。女の子とおばあさんと、それから神さまだけだ、知っているのは」 うん、と子は確認したようにうなづく。それからこちらに身を寄せてきて、目を閉じる。わたしはビートルズの I Will を囁くようにうたう。子はじきに眠ってしまう。わたしは子の髪を撫でながら Let It Be Me をうたう。リチャード・マニュエルの Lonesome Suzie とモリスンの Be Thou My Vision をうたいつづける。眠りのなかでも聴いているはずだと思う。死んだ者にも、わたしはこうしてうたうだろうと思う。

2006.3.13

 

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 雪が降る。ことしさいごの雪だろう。年長組の卒園式で休みだった子と公園で雪玉をぶつけあってあそぶ。ひょうたんとドングリの呼び鈴と、竹筒の打楽器(?)をふたりでつくる。ドリルで穴をあけたり、糸をとおしたり。

 

 amazon で 安部司「食品の裏側―みんな大好きな食品添加物」(東洋経済新報社 @1470)と、辺見庸「自分自身への審問」(毎日新聞社 @1200)を注文。

2006.3.14

 

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 物語を話す。物語を聴く。それは物語のもつ「歴史的な」時を、“私の時”として経験するということだ。

 わたしたちは、“私の時”を生きるための物語を必要としている。ル = グウィンのいうように、「荒廃してゆくじぶんをささえてゆく」方法として。

 

 

 「きょうは日曜日で、とてもいい天気で、ぽかぽかと暖かいからどうかなあ。“ひみつのばしょ”もこんな日は誰かが来ているかもしれないね」 「誰かが来ていたらどうするの?」 「そうだな。二、三人くらいだったら“こんにちわ”と挨拶をしよう。もしも二十人も来ていたら、邪魔をしたら悪いからべつのいい場所をさがそう。ほかにもいい場所をお父さんはたくさん知ってるからね」 そんな会話をしてから車がうねうねとした山道をのぼっていく間、いつのまに子は助手席で目を瞑って手を合わせている。わたしは気づかないふりをしてハンドルを握る。やがて坂を登り切ったあたり、“ひみつのばしょ”の入口が見えてくる。「だいじょうぶみたいだ。今日もだれもきていないみたいだよ」 子はぱっと顔をかがやかせて、はじめてひみつをはなすように得意げに言う。「よかった。わたしね、だれもいないようにってお祈りしていたんだよ」 「そう。それは知らなかったな」

 

 

腐敗は、近代が積みかさねてきた口実は、
そのあげくに嘘をつく。われわれが
手にしているものはもはや無用のものだと。

死を信じる人たちは、
わが身のために礼拝をする。
ぼく自身についていえば、ちがう。
われわれは持ちこたえる。

明かりにうつしだされる
古い傷痕が、われわれのトランペットだ。
何も見えない人たちのつくった旗の下で
死んでいった人たちの眼にむかって旅をする
われわれは、棘をまとった巡礼だ。
一つの拳は、

ほろんでゆく言葉を握りしめている。
掌をひらくと、そこに三つの言葉。

寛容。帰郷。
はじめる。

W. S. マーウィン「われわれは持ちこたえる」

 

 

 ぼくらはもちこたえる。ぼくらはだいじょうぶだ、しの。ぼくらは「方法」を知っているから。きみを通して、おかあさんを通して、かみさまを通して。ぼくらはいつもはじめる。一枚の落ち葉から、ひとつぶの石ころから。ぼくらはいつも“ちいさな場所”からはじめる。道にそって、風の通い路にそって。だからぼくらはいつもうまくゆく。ぼくらはもちこたえる。

 

引用はすべて長田弘「詩は友人を数える方法」(講談社)より

2006.3.15

 

*

 

 子が手術をすることになった。木曜、整形外科での診察。要は足の変形がすすみ、装具だけでは抑えが効かなくなってきているのである。このごろは何ヶ月もかけて装具を修正し(その間、いくども病院へ足をはこび)、やっと仕上がってもひと月ほどでまた合わなくなって足に傷ができる。そんなことを繰りかえしていた。今回の手術は、おもに両方の足首付近各所の筋肉を付け替え、人為的にバランスを回復させて、足を正常に近い形へ修正しようというものである。つまり強い部分の筋肉の一部を弱い部分へ移植する。来月末、執刀するH先生のスケジュールとすりあわせをしてからだが、時期はおそらく5月頃を予定。小学校へあがる前、幼稚園での催し等の少ないその頃がいいだろうという話になった。手術自体はこれまで二度行われた脊髄の神経周辺をいじる脳外科のものに比べたら、べつだん困難なものではない。入院は3、4日ほどで、術後に些少のリハビリは必要になるやもしれないが、すぐに立ったりあるいたりできるという。あえて困難といえば、移植する筋肉の配分や使い方である。今回の手術の後、成長期がおわってからの様子次第では、もういちど手術をして修正をする場合もある。それはするかもしれないし、うまくいけばせずに済むかもしれない。あまり変形のすすみぐあいが酷く歩行に困難をもたらしているようであれば、筋肉だけでなく足の骨を削ったり加えたりして修正する。どちらにしろ、それが最終だ。その「第二次手術」をも視野に入れて、残す筋肉は残し、移す筋肉は移し、またどれをどこへ配分するといった段取りが、執刀医の腕の見せどころなのだ。要するに強すぎて足の変形を誘発している筋肉は、あくまで対する逆側の筋肉が弱いためにそうなっているだけで、それ自体が悪いわけではない。むしろその筋肉自体は「健康に働いている」。それをどこまで温存させるか、あるいは見切りをつけて一部へ移植するか。「手駒」という言い方をH先生はする。唯一心配なのは、筋肉の全体へのバランス配分を優先することによって今回、これまで変形を進行させる形ではあっても機能していた、たとえば走るときに地面を蹴る甲の筋肉などといった部分的な力が衰えるかもしれないというものだ。まあ、そのへんは贅沢をいっても仕方がないし、H先生におまかせするしかない。世に三大瀑布や三大鍾乳洞といったものがあるが、一説によるとH先生は日本三大整形外科医であるそうだから。

 

 帰りは東大阪にあるカルフールなるショッピングセンターに立ち寄った。フランス資本で参入した外資店だが、日本の消費者に馴染めなかったか経営がふるわず、最近イオン・グループの傘下に入った。そこで子の好きなリボンや貝殻の形をしたショート・パスタやココナッツ・パウダー(ものすごく安い)などを買った。生駒山を越え、こんどは地元の魚の安くて新鮮なSCで夕食のお刺身。店内でレンタル落ちらしいCDやビデオの棚売りを発見。「1枚500円・3枚で1000円」の貼り紙があり、店員に「2枚組でも1枚で数えていいのか」と訊けばウィという。結局わたしが選んだのはビートルズの「ホワイト・アルバム」と「アンソロジー2」、それにグールドがバッハのイギリス組曲全曲を弾いたもので、どれもCD2枚組全6枚でしめて千円ぽっきり也。とくに「ホワイト・アルバム」はパッケージを破っていない輸入盤で、他のふたつもほとんどさらに近い。いやあ、うれしいねえ。こういう買い物は。

 

 夜。風呂上がりにわたしが、台所でひとりビールを呑みながら洗った食器の片づけをしていると、子と先に寝ていたはずのYがガウンを羽織って起きてきた。子の足がきれいな形になるのがうれしい、と言ってうれし涙を見せる。それから、復活祭の洗礼を受けるかどうか迷っている、という話になる。さいしょの結婚と離婚のこと、障害をもった子をさずかったこと、日本で三本指にも入る優秀な先生たちが手術をしてくれること等々に、なにかじぶんの力を越えたおおきなながれのようなものを感じる。そればかりではないが。それから夫婦で3時半ころまで、信仰について、組織について、回心について、あれこれと語り合った。

2006.3.17

 

*

 

 深夜の0時にびしょ濡れで帰宅する。湯舟の中でひとり長田弘「詩は友人を数える方法」(講談社)を読みすすむ。12章、ベイシック・オブ・ラヴ。失うことによって得るしかなかった人生を送った一人の男のストーリーを読む。その男がつくった地図にもないアメリカの小さな町のことをウェイロン・ジェニングスとウィリー・ネルソンが歌ったのが1977年のヒット曲 Luckenbach, Texas (Back to the Basics of Love) だ。風呂上がりにその曲の入ったCDを探してアマゾンで注文する。Luckenbach, Texas は「ここにくれば、すくなくとも数時間は、じぶんはこの世でたいした価値がないという、こころの奥の苦い思いをわすれることができる」場所だ。ビールを飲み、木漏れ日を浴びる。木漏れ日はこころの襞にすべりこむ。

 

 

 アメリカの道を走ることは、ホイットマンのいった「行くことはわかっているが、どこへ行くかは知らない」道を走ることだった。「行くことはわかっているが、どこへ行くかは知らない」というのは、道に新しい私、新しいアイディンティティをもとめるということだ。道は、私に表現できる私自身よりも、もっと十分に私自身を表現してくれる。ホイットマンはそういって、アメリカの道の本質を、オープン・ロード(大道)とよんだ。

 

大道(オープン・ロード)に
ぼくはもどりたい。
見えるかぎり
遠くまでゆく道だ。
大道(オープン・ロード)が
ぼくの恋人で、
「どこか」というところで、
ぼくを待っている。

街の通り(ストリート)は
ぼくには他人だ。
裏通り(アリ)となら
友人になれるかもしれない。
大通り(ブールヴァード)は終わりのない
歩道でくだまく
おいぼれの酔払いだ。

黒ずんだ道を
オートバイで走って、
たった一人で、
ぼくはきみと旅をした。
ぼくのきみは、
大道(オープン・ロード)だった。
いまは、どこにも
オートバイをとめる場所がない。

大道(オープン・ロード)に
ぼくはもどりたい。
見えるかぎり
遠くまでゆく道だ。

ジョン・ハートフォード「オープン・ロード・オード」

長田弘「詩は友人を数える方法」(講談社)

2006.3.22

 

*

 

 深夜、家に帰る。精魂尽きてといった感じで布団にくるまって動かないYの横で、子が電気スタンドの明かりを点け、こちらは一心不乱といったふうに本を読んでいる。いまは東北に住むわたしの友人が送ってくれた「小さな山神スズナ姫」(富安陽子・偕成社)だ。挿し絵もわずかな文字ばかりの頁を子はまるで未知の方程式にとりくんでいる数学者のような小難しい顔でめくりつづけ、わたしが風呂から上がってきた頃に本をぱたんと閉じ、ふうっと満足げに大きな息をついた。本に夢中なのはいいけど、もう12時半だよ。

 数日前から、子はひとりでトイレができるようになった。消毒液を浸したカットペーパーを納めた箱と導尿用の管(カテーテル)を入れた布袋を大きなクリップで腰につけてはいり、パンツを脱いで便座に腰かけ、腰の布袋から取り出したカットペーパーで手を拭き、陰部を拭き、カテーテルを袋から出して、消毒をしてから前屈みにみずからの尿道に挿し込む。「ほら、でたよ」 カテーテルの先からおしっこが流れ出る。おしっこが出なくなるとカテーテルを抜いて元の袋に入れ、それを上手に折り畳んでトイレの汚物入れに捨てる。

 Yは今日は教会で聖書の勉強会だった。帰りに向かいの幼稚園へ立ち寄り、幼稚園のトイレを使う際の段取りを先生たちとしてきた。専用のウエストバッグをつくる。トイレにゴミ箱を置いてもらう。とりあえずは洋式のトイレから始めて、馴れてきたら園児たちがふだんつかっている和式のトイレも挑戦してみる。遠足等でよそのトイレを使う際は、使い捨てのシートのようなものを用意して床に敷く、等々。幼稚園にいたほとんどの先生たちがあつまってきて話を聞いてくれたそうだ。

 職場のYくんの依頼で数日前からつくっていたYくん宅のPCラックが完成した。真鍮のダボで高さ調節ができる棚がついていて、ダボ用の穴を開けたり、受け側の溝をルーターで掘ったり。また棚部の背後をベニヤ板で隠したり。これらはまた後日につくる予定のわが家のテレビ台のいい練習にもなった。これでまた明日から中断していた子の机製作に戻れる。

 休憩時間に目を閉じ、モリスンの Have I Told You Lately をMP3プレイヤーのイヤホンで聴く。この美しい曲をリアルタイムで聴いていたのは20代の頃だ。親類の叔父と従兄とわたしの3人で南アルプスを縦走した帰路に伯父が脱水症になって麓の病院へ運ばれた。仕事のある従兄は先に東京へ帰り、わたしは病院の待合室のソファーに寝て叔父の経過を見守った。鄙びた山里の病院だった。昼にはちかくの丘陵沿いの小径を散歩してまわった。小さな村の雑貨屋でノートを一冊買い、道端で思いついた言葉を書き散らした。停止したような間延びした田舎の時間と、遺失物のような陽の光と、名も知らぬ黄色い野花の色彩が心地よかった。そんな思いがけない“休暇(ドロップアウト)”を終えて、回復した叔父と東京へ帰る電車の座席に腰かけ、わたしはウォークマンで当時出たばかりのモリスンのこの曲を聴いたのだ。わたしは無為徒食で、あてもなかった。どこかの詩人がうたっていた哀れな驢馬のようだった。これからどこへいって、なにをしたいのか、じぶんでも分からなかった。モリスンの曲は美しすぎた。わたしは胸が破裂しそうだった。叔父は向かいの座席で眠りこけていた。窓の外を奥多摩あたりの景色が走るように過ぎていった。わたしはじぶんが何者であるかさえ分からなかった。ライフルに弾を込めて口にくわえ、思い切って引き金を引いた方がよかったかも知れなかった。

 わたしは相変わらず無為徒食だ。怠惰に草を食(は)んでいる哀れな驢馬だ。ひろげた掌からこぼれたのは三つの言葉だった。「寛容。帰郷。はじめる。」 わたしの手のなかには、そのひとつもない。モリスンの曲は美しすぎる。わたしはいまも胸が破裂しそうになる。

2006.3.23

 

*

 

 屋上階の駐車場はきょうは閉鎖だ。一台の車も停まっていない、人っ子ひとりいないハイウェイの小島のようなコンクリートの地面をわたしはひっそりとあるく。空へ張り出した電飾看板の上に一羽の鴉が留まっている。鴉はわたしをいちどだけふり向き、物怖じもしない。ふたたび正面を見据える。鴉の前にひろがっているのは、広大な空間だ。山も空も街並みも呑み込んだ無窮の草原だ。かれはそのすべての所有者であり、熱と風の領土の王だ。わたしという存在はその足下にも及ばない。

2006.3.26

 

*

 

 Yは子のおしっこを持っていつもの泌尿器科の定期受診。トイレがひとりでできるようになったことを報告すると、年齢的に早いので驚いていたようだ。そのための手製のウェストポーチ(消毒のカット綿を入れた容器とカテーテル(おしっこを取るときの管)を装着して腰に巻く。カット綿の容器の蓋が体の外向きに開くように、青と白のマジックテープで子が向きを間違えず取りつけられるようにしてある)も「よく工夫してつくっている」と感心していたとか。来月の17日にふたたび、全体的な検査をすることになった。その三日ほど前から、尿漏れを抑制している薬の服用を控えて様子をみてみるとのこと。難波で幼稚園のスモックの布地と、先日東大阪のカルフールで購入して家族で気に入っているベルギーのコーンフレークを買ってくる。後者はほとんどスナック菓子のような味つけをした日本製に比べ、自然な素材風なのがよい。蜂蜜を加えて味を調整する。

 わたしは休日で、子と半日留守番。子がPCの学習ソフトをしている間に机の天板以外の材をダボで組み固定し、それから抽斗の前板部などをあつらえる。いよいよ後は天板を据えたら、抽斗を組んで完成だ。とはいえ天板は反り予防の蟻桟を施すか否か思案中だし、抽斗の微調整も案外手こずりそうで、まだまだそう容易にはいきそうにないけれど。

 夕方、帰宅したYとヴァイオリン教室へ。「びっくりするくらい仕上がりがいい」とお褒めの言葉。この調子なら夏の発表会で曲をやれそうだとのこと。次の予約の子が休みだったため、しばらく先生と雑談をする。

 明日一日仕事へ行ったら、明後日から三日間休みをとって和歌山の義父母宅へ泊まりに行く。中日は「ジャングル大帝レオ」にはまっている子のために白浜のサファリパークで遊ぶ予定。サファリパーク以外で和歌山で何をしたいかと子に問えば「おばあちゃんちの畑で蜜柑をたくさんとってねえ、畑でとった蜜柑を食べたい」

2006.3.28

 

*

 

 白浜アドベンチャーワールド。子はポニーの背に揺られたり、カバの大きな口にエサを放りこんだり、ペンギンの行列についてはしったり。サファリはちょっと期待はずれだったけれど、イルカのショーは見事だったね。イルカとウエットスーツに身を包んだ女の子たちは海の戦士たちのようにイカしていた。昼食はとれとれ市場で、マグロの解体を見てから。翌朝、枕元に動物たちを描いた絵が一枚。「きょうはたのしいいちにちでした」

 

 翌日の夕刻。子を連れて義父母の家の近所を散歩した。しずかな港のへりを歩いているときに集落の放送。葬式の連絡だ。わたしたちの滞在中にこの集落で二人の老人が亡くなった。一人は山手の畑で倒れていた。港のへりから子と様々なものを覗き込む。小さな魚影。海面に沈んでいる石段。ゆらゆらとゆれる藻草。貝殻。捨てられた雑魚。浮かんでいるひしゃげた空き缶。コンクリートに模様になって貼りついたクラゲと、浮かんでいるクラゲを見ながら話をする。「クラゲは人間よりも古い生物なんだよ」とわたしが言うと、子は「その後に神さまが人間をつくったんだね」と言う。Yから携帯電話に夕食の支度ができたと知らせが入る。子とひっそりとした路地へもどる。「おとうさん、いろんなものを観察しながら帰ろうよ」と子が言う。「この道はまるく曲がっているだろ。昔はここが海岸だったんだよ」とわたしが言う。ジャングルのように繁ったアロエに咲いた紅い花。昔の宿屋の看板。猫の通い道。物音もしないあばら屋の奥の仄かな灯り。子が先にはしって両手をひろげ通せんぼをする。「ここは緑のものを持った人しか通れません」 わたしはポケットのなかを探る。義父からもらった「○○海運」の刺繍のついた作業用ジャンパーだ。どこかの家の軒先で二人で拾った何かの植物の肉厚な葉が一枚出てくる。笑いながら玄関をくぐり抜ける。コマ送りのスローモーションだ。わたしがもし映画を撮るとしたら、そんな映画を撮りたい。平凡な日常のなかのさりげない一瞬。わたしはこの瞬間をいつか死ぬときに、駆けめぐる走馬灯の一場面として思い出すだろうなと思う。生きていることは夢のようなものだ。わたしはそのささやかな夢のなかに、永遠を刻み続けるだろう。

 

 死は性と同じほど重要なもので、自然が発展し続けるのに必要な原子、分子、無機塩などを再循環させる働きをします。宇宙にある原子の総数はビッグバン以来一定なので、死によって原子の大がかりなリサイクルが行われ、新たな生命の蘇りが可能になっているのです。

世界でいちばん美しい物語 宇宙と生命と人類の誕生」ユベール・リーブス他(ちくま文庫)

 

 

 長田弘「詩は友人を数える方法」(講談社)を読了する。

 

詩は彼に思いださせた。じぶんがどれほどまでに
じぶん自身の方向へ、行く場所を必要としてきたか。

ウォレス・スティーヴンス「一つの山になりかわった詩」

 

2006.4.2

 

*

 

 辺見庸「自分自身への審問」(毎日新聞社 @1200)を読み始める。

 

 いま気に入っている曲は Waylon Jennings の Drinkin And Dreamin。じぶんでも分からぬ何かを求めている男。ボーダーラインであがいている男。仕事を見つけても長続きせず、女もそんな男を理解できない。酒場で酒を呑み、車を駆って“約束の地”を夢見る。河島英伍の「酒と涙と男と女」だ。男の歌だね。ギターを手にコードをつまびいてみるのだが、うまく歌えない。

2006.4.4

 

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午前中は固定していた机本体のクランプをはずし、一部のダボをノコで落としてやすりをかける。抽斗の材を一枚づつ枠部にはめながらカンナで微調整する。

 

 夜勤に備えて昼から夕方まで炬燵で寝る。

2006.4.6

 

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 二日続きの夜勤明けの朝帰り。昼を食べて炬燵で2時間ほど寝る。明日は家族で一日、のんびり花見など愉しみたいので、夜までかかって抽斗二函を組み立ててしまう。ドリルでダボ穴を開けて接合。案外うまくいった。取っ手の固定だけ残っているが、後日に手製のクサビをかますつもり。あとは塗装だけ。子が使うものなので自然素材のオスモかワトコのオイルフィニッシュを考えている。くたびれて風呂に入り、湯舟で「世界でいちばん美しい物語 宇宙と生命と人類の誕生」ユベール・リーブス他(ちくま文庫)を読み続ける。無機物からさいしょの生命がうまれ動き出した、あるいはネアンデルタール人が貝殻の首飾りをつくっていた、そんな揺籃の心持ちに浸りながら。子の机つくりにいそしみ、宇宙の物語に浸る。いまのわたしはそれだけ。

2006.4.8

 

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 日曜、休日。お城まつりの花見。無愛想なテキヤの屋台で子は大好きな綿菓子、500円。わたしは300円の広島焼き。水っぽいキャベツだらけでひどく不味かった。あまりの人いきれでウンザリしてしまう。桜を愛でるどころじゃない、場所を変えよう、とわたしはひとり苛立つ。アポロでパンを買って、ひみつの工房でもある法隆寺裏手の山の谷間へいく。山桜が三本ほど、離れて立っている。だれもいない山の端で家族三人、アポロのパンをおいしいおいしいと食べる。それからわたしは子と林の中をハッケンしにいく。Yはベンチに腰かけて持ってきた図書館の本を読む。帰りに寄ったブックオフで約2時間を過ごす。子に「長靴下のピッピ」を100円で買ってやる。帰ってから読み聞かせると、子はたちまちピッピの虜になってしまう。風呂で読み、寝床で読み、そのまま子といっしょに寝てしまう。

2006.4.10

 

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 朝から職場で消防署によるAED(自動体外式除細動器)の取り扱いを含む救命講習。3時間の講習と1時間の実技・筆記のテスト。無事修了証をもらう。午後から大阪の某ショッピングセンターへ見学会。撮影許可証を腕にカメラで館内外の標示物や防火施設などを撮る。夜は鶴橋のガード下でうまいキムチや串焼きで反省会+飲み会。11時頃に帰宅。

 

 子は総ルビのついた国語辞典と漢字の成り立ちの本を買ってもらい、今日一日、分からなかったことばを引いたり漢字を覚えたりに夢中だったとか。「なりたち」とか「かみなり」とか「あいことば」とか附箋に書いて、ひいた頁に貼っている。

はじめての国語辞典 小学館 学習国語新辞典 全訂第2版(@1890)

下村式 唱えておぼえる漢字の本 (偕成社・@735)

 

鶴橋からの帰りの電車のなかで「世界でいちばん美しい物語 宇宙と生命と人類の誕生」を読了する。

2006.4.11

 

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 12日、さいごの塗装を了えて子の勉強机が完成する。ふりかえってみれば足かけ半年、である。せわしない日常の合間にせっせと時間を工面し、その間中、頭の中ではいつも次なる工程が駆けめぐっていた。ときに夢のなかでも図面を引いていた。いや、冗談ではない。机ひとつ作るのにも様々な工程がある。わたしは案外、場当たり的な性格だから、さいしょからきちんとした図面を引いたり、綿密な計画を立てたりなどしない。ひとつの工程を終えて、さあ次の部分をどんなふうにやろうか。それを考えるのが苦しくもあり、楽しくもあった。そうしてできあがった机は、子細に眺めれば、無論完璧ではなく随所にほころびもある。それはそのまま素人大工の苦労の痕跡である。わたしが実家で長年使っていた机は、わたしの父が若い頃、じぶんの働いた給料で買ったものだそうだ。親子二代、40年ほどの歳月がその机の上を流れた。わたしは子の机も、彼女のその子にも使ってほしいと願ってつくった。わたしの父がそうであったように、わたしも、あるいはその子を見ることはできないかも知れない。しかし机はわたしの死んだ後も残る。わたしの子がいつか母親になって、その机の来歴を物語ってくれるだろう。だからわたしは今回、昨夏の帰省の折に母に頼まれてチェーンソーで解体した実家の庭で雨ざらしになっていた父の机からその材の一部を持ち帰り、この机に転用した。抽斗の取っ手がそれだ。いわばこの机は、父、わたし、子、まだ見ぬその子への、ささやかなバトンである。そんな気持ちをこめてつくった。だから、あえてネジ釘の類は一切つかわなかった。こだわった。そうしてものをつくっていると、書くべき言葉がすくなくなった。それは、いいことなのかも知れないとも思った。手をつかっていると、余計なことは考えなくなる。どうでもいいことが多いから、それはきっといいことなのだろう。子はときにわたしの作業を見つめ、わたしが作業するかたわらで遊び、ときに机の製作をいっしょに手伝った。それがわたしにはいちばんうれしかったことだ。机ができあがった日の晩、子は矢田丘陵で拾った竹筒をやはりどこかの山道で拾った小枝で叩き、「さあ、今夜は“机のお祭り”ですよ。いらっしゃい、いらっしゃい」と唱えつづけた。

2006.4.15

 

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 日曜。子の勉強机に合わせた椅子を近所のアンティーク家具の店・inhi(インハイ)で購入する。40代くらいの店の主人はアンティーク家具の選び方のコツを教えてくれながら、十数脚列んでいたスクール・チェアの中から程度のいいものを選んでくれた。1万5千円。約100年前の椅子だが、手入れさえしっかりとしていればまだ100年、200年はもつという。座板の背面に「MEALING BRO***」「*IGH WYCOM**」という刻印があって、こうした刻印が残っているものは珍しいらしいのだが、主人の話では前者はメーカー名で、後者はおそらく「HIGH WYCOM??」でその所在地であった地名だろうという。さっそくネットで検索して調べたところ、「HIGH WYCOMBE」は Buckinghamshire 州にある英国有数の家具産地であり、ウィンザーチェアの故郷として有名な街の名であることが判明した。これがまた、わたしのつくった机によく似合うんだな。

2006.4.17

 

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 火曜は泌尿器科の検査。膀胱の抑制剤を数日控えて検査に臨んだが結果は思わしくない。前回の手術による改善は認められない、と。「一生薬を飲み続けなければなりませんか?」とY。「そうだろうなあ」と医師。「副作用が心配です」 「副作用は70パーセントだけど、こっち(服用しなければ)は100パーセントだよ」。仕方がない。なにもかもいい話ばかりとは限らない。

 今日は昼頃に幼稚園へ行き、来月予定されている若草山ハイキングの件で先生方と話し合う。わたしはネットからプリントアウトした若草山近辺の、Googleの衛星画像と国土地理院の等高線の入った地図を用意して、下見に行ってきた先生の撮影した写真を見ながら説明を聞いた。要は斜面や階段を他の子どもたちとおなじように歩けるか補助が要るのかといったことなのだけれど、ちょうど明日の整形外科の診察で次回の足の手術の日程がおよそ決まる予定なので、遠足と重ならなければ近いうちにいちど子を連れて現地を見てくるつもり。

 机に続いて休む間もなく、サイド・チェストというかサイド本棚というか、そんなのの構想を練りながら午前中はホームセンターの材木売場をうろうろと。顔馴染みになった店のおじさんらに携帯の机画像などを見せたり。

2006.4.19

 

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 子の手術の日程が決まった。6月7日入院及び手術の説明、9日手術。入院は約1週間から10日ほどで、術後6週間は24時間ギブス、さらに6週間は24時間装具を着用とのこと。

「ふびんな子ゆえにいっそうかわいい」と、ひとむかし前の人ならそんな言い方をするのだろう。ときにわたしもそんなふうに感じる。けれど彼女は、聡明で、がまん強い。なにより、いつもにこにこわらっている。彼女ならやりこなせるだろう。

 

 並川 孝儀 「ゴータマ・ブッダ考」(大蔵出版  @2940)を読み始める。

2006.4.20

 

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 どこか地方の古びた街道筋をひとり歩いている。意図したものでない旅の帰路なのだが、東も西も分からない。駅のあるのはこちらでよかったか、まるっきり反対へ向かっているのではないかと訝しみながら、出鱈目な方角へ見知らぬ街を歩きつづけている。やがて急に道幅がせまくなって、気がつけば田舎風の路地へはいりこんでいた。それをすこしほど歩くと、家並みの切れた田圃の畝がまるで発掘現場のような浅い四角形の縁取りをいくつも並べていて、そこに教師に連れられた小学生のまだ幼い少女たちが大勢しゃがみこみ、そのうちの幾人かの手には粗末なプラスティック製の人形が抱かれている。その人形たちは不幸にも亡くなったクラスメイトであり、いま彼女たちは弔いの儀式をしているところなのだとわたしにはわかった。都会では死を隠蔽しようとするが、ここでは逆のやり方で大人たちは子どもたちに確かな死の意味をおしえている、と思った。

 そんな夢を見た。

 

 

 アマゾンより注文していた早川謙之輔「木工の世界」(新潮選書 @1100)早川謙之輔「木工のはなし」(新潮文庫 @476)「Tables and Chairs (The Best of Fine Woodworking)」(Taunton @1688)が届いた。

2006.4.21

 

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 日曜。母のリクエストで吉野山の奥千本へ桜を見にいく。小雨。金峯神社の奥の尾根筋に停めた車の中で手弁当のベーコンとアボガドの海苔巻きを食べる。洞川へ抜ける道は土砂崩れで通行止め。西行庵までのぬかるみの道でみなへとへとになる。雨が降って大勢の花見客がこねた道だ。子は「靴の泥だか泥の靴だか分からない」と言ったわたしのセリフが気に入り大いに笑う。西行庵で子といっしょに倒れていた巨木の年輪を数える。帰路に大淀の道の駅で厚さ45mm・幅125mmの国産のヒノキ材を含む板3枚を900円で買う。ごっつい厚さだ。帰ってから満足げに材を眺めている私を見てYは首をふる。「これがぜんぶチーズ・ケーキだったらわたしにも価値が分かるんだけどなあ」

 月曜。好天。午前中、母を矢田寺へ連れていく。紫陽花のシーズンを控えた寺は人気もなく、静寂であった。裏山から引いた霊水、竹細工、暗闇の中の閻魔像、古い石仏や墓石たち、修繕もままならぬ土壁。父方の祖父が消防署へ勤める前に「こまい」という仕事をしていたという話をはじめて聞く。「こまい」は「木舞・小舞」と書き、壁の下地に用いる縦横に組んだ竹や細木の細工のことをいうらしい。そういえば祖父母と住んでいた東京の家には色褪せた竹塀があったが、あれも祖父がむかしとった杵柄でこしらえたものであったか。石段を下りながら、その頃のことを知っている人間はもうだれもいない、と母と語り合う。また境内に「三尺組 ○代目」という墓石がやけに列んでいるので、帰ってネット検索をしたところこんな文章に行きついた。大阪の生野あたりで少年は職にあぶれた父親が作った折りたたみ椅子を路上で売る。ショバ代の取り立てに来た日焼けした40男が少年の乏しい売り上げを見て、だれかが何か言ってきたら“三尺のおじさん”にいうてあると言え、と何もとらずに立ち去った。この自伝を記した「山内宥厳」とは何者だろうとさらに検索を続ければ、これが奈良の桜井にある東光寺なる寺の住職で、なにやらおもしろそうな坊さんなのであった。矢田寺の参道わきで1パック100円の小粒な苺を2パック買う。ついでに郡山城も案内する。午後から子の机の下に置く収納箱と、机横の本棚の材料を買いにいく。夜はわたしが茄子とピーマンのパスタをつくる。子が寝てから、母とYと三人で深夜の2時までビールなんぞ飲みながら話し合う。死んだらどうして欲しいか。母「死んだらなにも分からないから葬式も墓も要らない。遺骨は(古里である)和歌山の海に流して欲しい」 わたし「深沢七郎のように好きだった音楽と参会者への挨拶をみずから吹き込んだテープを録音しておく。大峰山への散骨を望む」 Y「賛美歌が好きだから、賛美歌の聞こえる場所に葬られたい」

 今日、火曜。朝、関東へ帰る母を学園前の松柏美術館まで車で送り、ついでにわたしも入る。庭木が多彩な池のほとりの瀟洒な建物。わたしは日本画(特に大和絵というのかな)はよく分からない。きれいすぎてだめなのだ。ただ息子の上村松篁が木蓮を描いた作品は北斎の肉筆画のようで魅せられた。静謐のなかに死の匂いがあった。母が好きだという上村松園は、裸で化粧をする女を描いたのがよかった。こんな風俗画ならもっと見てみたい。とまれ明治の時代に女が筆一本で名を成したというのも凄いね。母を西大寺の駅まで送り、泥だらけの車を洗車して帰宅する。Yは朝から子のおしっこをもって大阪の泌尿器科へ。幼稚園から帰ってきた子と二人で昼を食べてから、いっしょにベランダで収納箱にオイルを塗り丁番をとりつけて完成させる。松柏美術館で買ったみやげの、花と美人画を施したクリアファイル2枚を見せると「わあ、きれい!」と感嘆して、「このきれいな女の人のがいい」と一方を選んだ。母の滞在中、連日夜遅くまではしゃいでいた子は夕飯を済ませると風呂も入らずに寝てしまった。

2006.4.25

 

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 前にも書いたことがあるが、わたしの机の上には三輪山の縄文祭祀跡の神域で拾った黒い溶岩様の石と、二上山で拾ったサヌカイト石、それに熊野本宮の旧大社地の川原から持ち帰った白い玉石が置いてある。それを真似したか、子もじぶんの机に石をふたつみっつ並べている。もっともこちらは近所の駐車場ちかくで拾ってきた由緒もない石のようだが、スタンドの明かりにかざすときらきら光る、と大事にしているらしい。わたしは木も好きでこのごろは気がつけば木のことばかり考えているが、石はもっと以前から好きであった。たとえば縄文は石の文化であった。山の中腹にいまものこる磐座はその名残だ。石はわたしたちの古層の記憶を宿している。「世界でいちばん美しい物語 宇宙と生命と人類の誕生」は、生命の萌芽は果てしない物質進化によってもたらされたことを語っている。石はその秘められた来歴を物語っているのかもしれない。とまれ石の何がわたしを魅了するのか、結局はよく分からない。直立する木の肌に頬を寄せれば、物言わぬ賢者のぬくもりと沈黙を感じ取れる。手の平に握った石は、またべつの感触だ。冷たくもあるが、同時に懐かしくもある。不思議なやすらぎさえ感ずる。封印された、何か途方もない禁忌(タブー)を隠しているようにも思われる。むかしバイクでこの国のあちこちを旅してまわっていた若い頃、旅先の気に入った場所で石をミヤゲ代わりに拾ってくるのが好きだった。そんな石たちを、マジックで場所と日付を記して本棚にしまった空き箱にたくさん収めていた。海亀が産卵のため群をなして上陸するという熊野の海岸にバイクを停め、日暮れまでゆっくりと、無数にある石の中からひとつだけじぶんの気に入った石を探し回ったことがあった。人っ子ひとり見えぬ広大な海と空だけの空間だ。石のひとつひとつを手に持ち、己の心持ちと共鳴させてみた。ひどく真剣でいて、そのくせ無邪気だ。知らぬ人が見たら何をしているかと訝しく思ったかもしれない。童心に帰ったように、ひどく幸福な時間であった。

2006.4.27

 

*

 

 金曜。机、収納箱に続いて休む間もなく、机の横に置く小さめの本棚の製作にとりかかる。すでに設計図は書き、一部の材は収納箱のときにいっしょに購入してあった。午前中はダボ用の穴をドリルで開けたところで昼飯になった。午後からベランダでトリマーを使い薄板をはめる溝を掘った。これらが側面の板になる。

 それから家族三人で子の遠足の下見に若草山へ登りにいった。千円を払って春日大社の駐車場に車を停めゲートまで歩く。大人150円、子ども80円。チケット売場のおばさんは事情を聞いて、障害者手帳は持ってきていなかったのだがYと子の分を戻してくれた。実はしばらく前に左足の親指に血豆ができて破れ、皮がめくれた。そこは硬くなったのだが、吉野山の泥道で隣にまた水ぶくれができた。装具を履いていないせいで当たるのだ。右足の装具が合わなくなって今回の手術になった経緯は以前に書いた。放置すれば褥創になる。近所の皮膚科へ行き、大阪の整形外科のH先生にも相談したが、手術まで片方の装具だけで何とか誤魔化すしか方策はないという。それで子はいま、外出のときは左だけ装具と装具用の靴(装具カバー)を履き、右足は市販の靴を履いている。若草山の上り始めはかなりきつい傾斜だった。体操の一環で子どもたちを斜めに歩かせるという先生の話だったが、斜めでもまっすぐでも、子はひとりでは無理なようだ。装具をつけた足は踵を固定されているのだから対応ができないのは無理もない。それから傾斜地の草原から右手にとりついた自然石の階段。これも高さがあって手をつないでいないと危ない。子は先生から、遠足ではみんなの先頭を歩くと言われたらしい。子のペースにみんなを合わせようという先生たちの配慮なのだろう。じぶんが先頭と聞いて子ははりきっている。それでもきつい傾斜地ではころがりそうになってけらけらと笑う。石段の途中で息がついて、「そんなんじゃ、みんなとあるけないぞ」と叱咤する。コンクリ製の丸太で区切った階段は低いのでひとりで大丈夫だ。「二重目」まで来たら、あとは広いなだらかな傾斜だから問題はないだろう。上からの眺めはバツグンだ。足下の東大寺から遠く平城京跡、銀の帷のようにきらきらと輝く矢田丘陵や生駒山まで見渡せる。日の沈みかけた夕刻だからほとんど人影もない。平たい岩に腰かけて持ってきたお菓子を食べてくつろぐ。こうしていると方舟に乗って家族三人だけで海原を漂っているようだ。

 

 Yが聖書の勉強会で長崎のみやげ話を聞いてきた。永井隆は戦前に放射線医学を学んだ長崎の医師・そして敬虔なキリスト者である。長崎に投下された原爆で妻をなくし、みずからも被爆した身体を抱えて原爆障害の研究に取り組んだが、やがて寝たきりの生活となる。浦上の人々がかれのために二畳一間の小さな家を建ててくれた。一畳に父の寝台が置かれ、一畳に母をなくした幼い兄妹が寝た。「おのれのごとくひとを愛せ」というキリストの教えからそこを「如己堂」と名づけた。昭和26年、幼い兄妹を残しかれは死んだ。「この子を残して」というかれが病床で記した著書を、わたしは読みたいと言った。翌日、Yが図書館で見つけてきてくれた。

 

己の如く人を愛した人 永井隆 http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/nagai/nagae01.html

永井隆博士の人生と長崎との出会い http://base.mng.nias.ac.jp/k15/Nagai.html

2006.4.30

 

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 休日。朝から子の本棚の製作。ベランダでトリマー作業。薄板をはめる溝掘りを完了。

 子の親指の傷が思わしくないので、幼稚園を休ませてYが以前にも褥瘡を診てもらった生駒のK大付属病院へ連れていく。結果は「手術をとるか遠足をとるか」。昼過ぎに幼稚園の先生から電話がかかってきて、Yは若草山の頂上裏の駐車場まで親が車で連れて行ってのぼってきた皆とお弁当を食べるのに合流させる案を提案する。

 いまは福島に住む友人が久しぶりに訪ねてくる。昼は二人で「いごっそう」のラーメンを食べにいく。DNAの発生やヒモ理論の話なんぞをする。病院から帰ってきた子もたっぷり遊んでもらう。Yは友人と食習慣について話す。夜はわたしが餃子をつくるつもりでいたのだが、子が「もう飽きた」と言うので4人で近くの回転寿司へ食べにいく。

 友人が帰ってから風呂上がり、子は水色の色鉛筆でさっそく友人へ手紙を書きはじめる。

 

おのちへ

すごくすごくかなしいです
おのちがいなくなったら しーんとしたへやだけです
すごくすごくかなしいから みずいろなんだよ!!
わたしは おのちをおくってから はしりだしました
それから このてがみをかきました

しのより

 

2006.5.2

 

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 職場で弁当を喰いながら「この子を残して」を読みすすめる。かれがどれだけ他人に尽くした偉大な医師であったかといった部分は、じつはわたしにはどうでもよい。原爆で一瞬にして妻をなくし、わが身を蝕まれ、じきに孤児となってこの世へ置いていく幼い子どもたちへの遺言、「心臓をねじ切られるような」その思いをただなぞりたい。そこでかれの「信仰」がどのような形を成していたのかを知りたい。じつに、わたしたちはだれも、このような一期一会の瞬間に存るのではないか。深夜に帰宅して、Yと生活を共にしていることの不思議を噛みしめながら珍しく、これもしておこうかと昼と夜の弁当箱を洗って置く。風呂の中で山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読了する。「運命の年暮るる。日本は亡国として存在す。われもまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。いまだすべてを信ぜず」 MASKED AND ANONYMOUS のなかでディランが I'll Remember You をうたうのを聴く。一本の丸太からまじりけのないかたちを刻み出したい。それを心の臓の代わりに抱(いだ)きたい。

2006.5.5

 

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 夢のなかでわたしはYの前夫を殺したのだ。その秘められた過去の殺人の上に現在の幸福があるのだがYはそのことを知らない。どこかに仕舞ってあった長い木箱のようなテーブルの中に前夫の死体は密閉されているのだがどこからか彼女がそれを引っぱり出してくるのでわたしは冷や汗が出る思いだ。それにしても己が人を殺めてしまったというモチーフはわたしの夢のなかでいくどもくり返される。あの逃れがたい絶望感、焦燥、底なしの嗚咽にも似た鈍い痛苦はいったいどこからやって来るのだろうかと思う。

 

 妻をなくし、まだ幼い子らをあとに死んでいく者にとって、残された最後の価値は何か。「この子を残して」の文章はすべて、この世の価値を神へ、あるいは信仰へと還元する急ぎ足の作業である。

 

 誠一をいちばん愛しているのはだれであろうか? 誠一自身であろうか? 父の私であろうか? それとも創造者たる神であろうか?

 私は注射器であった。私がこわれて亡くなっても、私を使っていた神がそのままおられるのだから、何かの手段でこの子の苦しみを癒してくださる。私は綱にすぎなかった。私がついに水底に沈んでも、私を投げた神がそのままここにおられるのだから、必ずこの子を荒波から救い上げてくださる。

 誠一という人間は、孤児として一生を送るほうが、いちばんいい人生となる。-----そう神は見透していなさるのだ。全知だから。
 カヤノという人間は孤児として一生を送るほうが、親のある子として送る一生よりも光栄に満ちるのだ。-----こう神は予知していらっしゃるから、その大いなる愛によって、孤児とならしめる。
 誠一よ。お前が飲むその苦い杯-----それは神さまの愛の処方なのだよ。
 カヤノよ。その杯は苦いでしょう。苦いけれども神さまのくださったお薬だよ。それを飲むと、きっと永遠の幸福があります。その苦い杯をいただいたことを神さまにありがとうしましょうね。

2006.5.6

 

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 東京の友人から借りた FESTIVAL EXPRESS を深夜にひとり見た。いちばん懐かしかったのはジャニス・ジョプリンを横に酩酊して Ain't No More Cain を歌う幸福そうなリック・ダンコだ。いちばん神々しかったのは I Shall Be Released を歌うリチャード・マニュエルだ。そしていちばん愛おしかったのは風のなかを駆け抜けるジャニス・ジョプリンだ。バイクに飛び乗って彼女を探しに走り出したくなった。みな死んでしまった。

2006.5.8

 

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 昨日は子は遠足。快晴だったが若草山は涼しいくらいだったそうだ。褥創は完治せず、風呂上がりには深い穴の底から血が滲んでくる。ふつうなら飛び上がるほどの痛さのはずだ。予定通りYが山頂裏の駐車場まで子を車で運び、お弁当を食べるところまでいったら、みなはもう着いていた。みんながトイレへ行く間、子は園長先生と二人で「鹿に食べられないように」みんなのお弁当の見張りをしていたそうだ。

 

 今日は休日。朝から子の本棚の部材をダボで接合し、前日に組んでいた別の材をルーターで枠取りする。ヒョウタン・ビットをはじめて使用。午後からは天理へ。職場のYさん、Tさんらと天理参考館を見学、夜はすぎ乃で酒宴の予定。

2006.5.10

 

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 水曜、午後1時半。Yさんと天理駅の改札を抜けると、酒好きのTさんはすでにコンビニで缶ビールと日本酒、いなり寿司などを買い込み一杯やって待っていた。三人でアーケードの商店街を歩き出す。「ちょっと参っていきましょう」と信者のYさんに誘われ、教会本部の神殿に立ち寄り参拝。それからお茶処といわれる休憩所でTさんのいなり寿司を頂く。2時になった。敷地内のスピーカーから素朴なメロディが一斉に流れる。お茶処で雑談をしていた高校生らしい女の子たちも話を止め、向こうの芝生を歩いていた中年の男性も立ち止まり、頭を垂れて黙祷している。2時は教祖の中山みきが亡くなった時間で、流されるメロディは「かぐらづとめ」と言われる天理教の教えのエッセンスのような踊りの音楽だという。「みんな、何を祈っているのか」とYさんに訊けば、教祖個人の死に対する追悼ではなく、己の身を捧げたその教えに対する激しさに心を寄せるのだという。ちなみに中山みきの墓は近くの山の上の霊園にあるのだが、彼女の魂が鎮座するという教祖殿、そしてあらゆる生命の根源の地と言われるこの神殿ほど信仰の対象ではないようだ。肉体は魂の容れ物にすぎず、死は“たてなおし”のときであるからという。(詳しくは天理教の教えを参照されたし) さて、リニューアルした参考館である。大人一人400円だが、今回はYさんが三人分のチケットを用意しておいてくれた。もう何年も昔にわたしがバイクでひとり訪ねたときは、古い木造校舎の教室中に列べたガラスケースにまるで骨董屋のように手書きの説明を添えて埃さえ積もっていそうな風情であったのだが、数年前に移築をしてモダンな展示施設に生まれ変わった。もともと国立博物館に匹敵するような膨大な収蔵物を抱えていたのだから、とても2時間やそこらでは見切れたものでない。平日のせいかほとんど人の気配もなくひっそりとしていて、わたしなどは二、三日ここに寝泊まりして堪能したいくらいだ。これら参考館の世界各地に及ぶ民俗資料は昭和初期から、布教のためにはその土地土地の文化を理解する必要があるとの考えから収集された。朝鮮半島の仮面劇に使われたひょうたん製の面など、いまでは現地でさえ余り残っていない貴重な資料も多くあると聞く。アイヌの魔除けの文様、朝鮮の道祖神、台湾やインドの影絵人形、北京市街を彩っていた画や絵の看板、羊の胴体を浮き輪代わりに使ったチベットの筏、台湾の竹製の帆掛け筏、台湾の先住民の祖霊信仰、「本来のバリ人」を意味するバリ先住民の村やメキシコ・グアテマラの女たちの織物、パブアニューギニアの多彩な森の精霊像、ブラジル移民の歴史、貝殻や石ころやブリキでつくられた神社の祈願奉納品、遊牧民たちの青銅の羊のランプ、ロシアのふいご、素堀りの穴に焼いた石を投げ込み調理をした跡という縄文時代の遺跡..... うーむ、目眩がしそうだ。工夫のされた生活用具(とくに携帯の品)、猥雑なハレの風景、神話、石の記憶、女たちの手仕事、わたしはどうもそんなものが好きなようだ。モノに宿ったニンゲンの精神の変遷、とでもいったらいいか。とにかく参考館はイラクの油田なんぞより魅力的な宝物がぎっしりだ。まだ訪ねたことがない人にはぜひおすすめしたい。閉館間際の売店で、「失われゆく文化 ニューギニア セピック丘陵の民具」と「変貌の道具 仮面」の図録を求めた。どちらも参考館の過去の企画展時に編まれたもので前者は100円、後者は100ページもの豊富なボリュームながらわずか400円である。この良心的というか、ほとんどボランティアのような値段も素晴らしい。予約していた飲み屋の時間まで、商店街の喫茶店でコーヒーなど飲みながらYさんからふたたび天理教の教理について話を聞く。すぎ乃はYさんの行きつけの店で、ちっと小洒落たおでんと酒が美味しい。小さな店だが、居心地がよい。ここもおすすめです。

 

天理教 http://www.tenrikyo.or.jp/ja/top.html

天理参考館 http://www.sankokan.jp/

2006.5.11

 

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 たとえば、こんなときだ。

 夕飯をおえて、二人してベランダの丸太の椅子にならんで坐っている。蝙蝠が飛び交っている。それとまるい暈をかぶった月。プランターのすみに転がっているどんぐり。きみに重力の話をする。もし重力が無かったら、地球の下側にきたものは人も木も石ころも建物もみないっせいに落ちてしまうだろう? と言うと、きみはそのことを考えて笑いがとまらなくなる。

 

 たとえば、こんなときだ。

 ぼくの部屋の机に二人して坐っている。きみはぼくの膝の上だ。ふたりでぼくが博物館で買ってきた木霊や祖霊や仮面劇など世界中の面が載っている図録を眺めながらこの世のふしぎなことについて、目には見えぬものについて話し合う。

 

 また、たとえばこんなときだ。

 机の上でつくりかけのきみの本棚の設計図を見せてセツメイをする。きみはひとしきり聞いてから、こんどはじぶんで考えた設計図を別の紙に書く。目覚まし時計や犬の置物を書いて、扉になる板の上に小さな人型の彫刻を書く。これはだれ? とぼくが訊く。赤ちゃんのイエスさまが指をしゃぶっているところ、ときみは答えてまた笑いがとまらなくなる。

 

 

 そんなときだ。

 目眩がするほど残酷な宇宙の時間とそんなささやかな一瞬とを、ぼくは手のひらの上でそっと推し量ってみる。

 

2006.5.12

 

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 夜勤の休憩時に新約聖書をぱらぱらとめくっていたら、こんな言葉が目に飛び込んできた。「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」(ヨハネ4章27節) 仮眠ベッドに横たわりながら、わたしはふかく得心した。ミヒャエル・エンデさんがおなじようなことを言っていた。「まさにね、プレゼントされなければ手にはいりっこないものがたしかにある。そんなとき、プレゼントされる者は、プレゼントを受けとるにふさわしい態度をするだけでいい」 わたしはずっとそれを、それだけを思って生きてきたような気がする。そしてプレゼントはすでにじゅうぶん、受けとっているような気もする。

2006.5.15

 

*

 

 見ろよ、あたりを見まわせばくだらないことばかりだ。おれはきょう一日、何をしてきた? 夜ふけに家に帰れば、手術の前にあたらしいパジャマを買ってやりたいと泊まりに来たじいちゃん・ばあちゃんの間で子がばんざいをして眠っている。まぎれもなく、こいつはおれの宝だ。かけがえのない宝だ。まずは妻子を喰わせてやらにゃいかん。それは最優先だ。たとえ泥にまみれようが、それは至上命題だ。だがおれはいったい、何をしている? なにをやりたい? 貧乏になれば時間ができる。その時間を神のために使う。そう書いた奴がいた。永遠の前で、おれはいったい何をしている? ある姉妹の家をイエスが訪ねた。姉はご馳走をふるまうのに大わらわだった。妹はイエスの横にすわりじっと話を聞いていた。姉が何もしない妹を怒った。するとイエスが言ったものだ。彼女はいちばん大切なものを知っている、と。 

2006.5.18

 

*

 

 

 人は、この世に残していくすべてのものを失いますが、愛徳の報いと行った施しとを携えて行くことができ、これについて主から褒美とふさわしい報いをいただきます。

フランチェスコ・全キリスト者への手紙

 

 

 

上昇していくカーブの上
自然の手口によって心の隅々まで試される所では
受けるに値しないものは何ひとつ得ることが出来ない
僕達が生れあわせた所では

Bob Dylan・Born In Time (木原さんの訳

 

 

 

 無辺の砂丘の上。風のなかでひとり立ちつづける者が想うかたちをイエスと呼んだか。

 

2006.5.20

 

*

 

 たとえば Willie Nelson が奏でる敬虔な信仰曲を聴く。甘美な芳香がこの身をつつみ、わたしは知れず陶酔する。不思議な静寂のなかに気高いかぐわしさがある。ときに、涙が溢れてきそうにもなる。わたしはそこにいる。わたしはそこにいない。フランチェスコのすぐれた伝記や、かれ自身の遺されたことばに触れるときもそうだ。わたしのあゆみのひとつひとつが、つつまれて、さなぎになるような心地だ。あるいは息をひそめたおどろきのなかで、わたしはじっと耳をすませている。夢のなかにいるようだが、眠ってはいない。わたしはそこにいる。わたしはそこにいない。わたしはその甘美な芳香にあくがれる。わたしの魂はそれを渇望している。わたしの杯は充たされる。だのに、それらをあらしめている「信仰」がわたしにはない。わたしはそこにいる。わたしはそこにいない。

2006.5.21

 

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 休日。朝いちばんでバイクに乗って飛鳥へ。飛鳥資料館で28日まで公開しているキトラ古墳の白虎を見てきた。薄明かりの下、ガラスケースの奥をまじまじと覗き込んだ。漆喰の表面にのこされた淡墨の絵筆のはこび。流麗ではないが、どこか異質なあやかしを秘めた強靭さ。じっと凝視していると、ふっと真っ白な死の世界から浮かびあがってくるものを感じた。こいつは千年以上もの間、闇の中で朽ちた亡骸を見つめ続けていたのだ。怖ろしかった。

 

キトラ古墳の壁画「白虎」の公開始まる http://www.asahi.com/culture/update/0512/008.html?ref=rss

キトラ古墳のはなし http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~kazu/kitora/kitora.html

飛鳥資料館 http://www.asukanet.gr.jp/

2006.5.22

 

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 わたしはちいさな世界が好きだ。いつごろからであったか。たとえば長靴下のピッピが庭の楡の木のなかに見つけた洞のなかにもぐりこみ、そこから外の明るい世界を覗いているような。わたしは人に会うのが苦手だ。じぶんの膿が噴き出すようで嫌なのだ。できればだれにも会わずに一生を過ごしたい。バイクに乗って山道を奥へ奥へと分け入っていく。当時、わたしは世間ではキチガイであった。隣家のおばさんは得も言われぬ冷笑を浮かべてわたしを見た。道のない斜面をころがって落ち葉と抱き合った。ねそべって岩の上の美しい苔に陽が射し込むのを飽きもせず眺めた。ニンゲンに出会わぬことが心地よかった。源流をどこまでも遡行して、滝の上で石を積んだ。夜の河原で紅葉を焼いた。気高い倒木のようにしずかに朽ちていきたかった。わたしはたくさんの友人などいらない。友人の数だけ、わたしはきっと人を裏切るだろう。有名になどなりたくない。賑やかなパーティーの主役など怖ろしいかぎりだ。わたしは妻と子だけいればいい。わたしはちいさな世界が好きだ。そこから出ていきたくない。出ていってろくな目にあわなかったことがない。深夜、寝入った子の髪に月光が射し込んでいるさま。それをこの地上でわたしだけが見つめている。あるいは「この足はせかいいちステキな足だわ」と子がものがたりのようにひとり喋っているのを聴く。妻が泣きながらわたしに肩を叩かれている。わたしにとって大切なものはそうしたものたちだけだ。わたしはわたし自身でさえ大切だとは思わない。ひとりきりであったなら、わたしはじぶんを殺してしまった方がましだと思うだろう。親切だった人が急にわたしを疎んじるようになったら、わたしはむべなるかなと得心する。わたしはちいさな世界が好きだ。いつごろからであったか。ビートルズやジョン・レノンの歌を聞きだしてからであったような気がする。わたしはちいさな世界が好きだ。ちいさな世界でずっと生きていたい。そこから一歩も出ていきはしまい。

 

 

苦労なんか知らない 恐いものもない
あんまり大事なものもない そんなぼくなのさ

世間知らずと笑われ 君は若いよとあしらわれ
だけどいまも夢を見てる そんなぼくなのさ

部屋の中で いまはもう馴れた
一人きりで ボンヤリ外をながめているだけ

世間知らずと笑われ 礼儀知らずとつまはじき
今さら外には出たくない 誰かがむかえに来ても

世間知らず・忌野清志郎

 

2006.5.24

 

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 休日。朝から幼稚園のPTAのお母さんたちのメールアドレスを入力する。YのPCのアドレスのお知らせをBCCで送信。いまどき携帯電話を持っていない母親はいないそうだ。「妻のメールアドレスのご連絡です。わが家では浮気防止のため妻に携帯電話を持たせておりません。以下はPCの妻専用のアドレスですが、見知らぬ男性からのメールが紛れていないか、時折私が検閲する場合もございます。ご了承下さい」 子を幼稚園のバス停までおくる。「あしたはお母さんの誕生日だよ。幼稚園へむかえにいくから、ないしょで花を買いにいこう」と打ち合わせする。近所のKさんから韓国の苗字(夫婦別姓や子どもの名前の付け方)についての話を聞きながら帰ってくる。入れ代わりにYは聖書の勉強会へ出かける。「たった一人の生徒が遅れちゃ大変だ」とあわてて出ていく。子の本棚の製作。上部の棚の形がなかなか定まらない。とりあえず可変式棚のニッケルダボ用の穴をドリルであける。釘のでっぱりを金づちに木槌をあてて修正する。しばらく前、工房にしているベランダのすみの空調室外機の後ろを掃除しようとしたら、藁屑の中に鳩の卵を見つけた。1個を箒のさきで潰してしまった。なおも掻き出しているともうすこし小さめで茶色の雀の卵もころがり出てきた。ぴいぴいと雛の声まで聞こえてくる。そこでさすがに掃除を中断して、塞いだ入口の板をずらした。鳩と雀のつがいが入れ代わり、それにいまでは椋鳥までもせっせと藁屑を口にくわえて出入りしている。ディランがグレイトフルデッドをバックに Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again を歌うのを聴く。「そしておれはここに辛抱づよくすわり これらのことを繰りかえさずにすむまで あんたがいくら払わなきゃならないのか 分かるのをまっている」 昨日は病的な万引き女を捕まえた。抱えきれないほどの紙袋をロッカーに詰め込んで「鍵は捨てた」とうそぶいた。警察へ連れて行かれて3時間後にやっと出てきた。尻の穴にでも入れていたのかも知れない。おれたちが尻の穴に大事に隠しているものは何だ? 「あんたが依頼した道化役者たちがみんな 戦いで死んだり、無駄死にをして あんたがそうしたことの繰り返しに反吐が出るようなら おれに会いにこないか、クイーン・ジェーン?」 Webで Thich Quang Duc師の資料を漁る。黒焦げの写真も見る。死ぬということは、生きるということと同義語かも知れない。たんなるあべこべが笑っているだけなのかも知れない。尻の穴も鼻先も大差はないのかも知れん。

 

 そのとき私は、自分自身も〈死に近づいていく〉かのような心的状態に入り、たしかにある大きな、私を超えたものを生きている。しかしその聖なるなにかを〈こういうものだ〉と捉えきれない。どうしても区切れず、語れない部分がある。

 このような経験の特性はなにだろうか。それを生きる者〈信じる者、愛す者〉だけにしか感じ取れない密かなものがある、と言えばよいだろうか。それをリアルに体験した者である私にしかわからない秘密、それゆえ私だけが証言することのできる秘密がある、と。

 それは、ひとが日常的に生きている時間が途切れた、裂け目の時間である。時間はその関節から外れ、〈いま〉が線状につながり合った時間ではなくなっている。そういう瞬間、主体としての定立性は中断され、宙吊りになってしまう。私は私である、とは言いきれない。

湯浅博雄「聖なるものと〈永遠回帰〉」(ちくま学芸文庫)

 

2006.5.25

 

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 「あしたはお母さんの誕生日だよ。幼稚園へむかえにいくから、ないしょで花を買いにいこう」 Yには本棚に付ける金具を子と選んでくると言って車で家を出る。幼稚園で子を乗せて、わたしの職場の某ショッピング・センターへ。顔見知りの花屋の店長が選んでくれたのはスパティフィラムなる観葉植物。花のように見えるのはじつは花を包んでいる仏炎苞(ぶつえんほう)というものだという。仏の炎、である。それから別の店で苺がたくさん載ったケーキも買う。それらを抱えて、家路へつく。

 以前に友人にもらった掃除機の吸引力が落ちてきたため、アマゾンで新しい掃除機を購入する。Yの念願の Electrolux のサイクロン式クリーナー。それが今日、さっそく届く。

 

 おのれを超える何か大きな存在がじぶんの身にふりそそいできたとき、「わたし」はそれをただ受けとめるしかない。まさに「私は深く受動的であって、判明に対象化して捉える限界はもう破られている」(湯浅博雄・聖なるものと〈永遠回帰〉) 「そんなとき、プレゼントされる者は、プレゼントを受けとるにふさわしい態度をするだけでいい」というのは、そのことだろう。「傷ついた医者だけが患者を治すことができる」(ユング)というのは、そのことだろう。Van Morrison が Come in the garden and look at the flowers that's what you were saying, right ? (“庭に来て、花を見て” きみはそう言ったね)と読経のようにくりかえし歌うのも、そのことだろう。

2006.5.27

 

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 子は幼稚園を休んでYと大阪の整形外科へ、手術前の血液検査等。先月にできた足の褥瘡はまだ完治していない。しばらくは風呂に入ると深い穴の底からちろちろと血が流れた。血の巡りが悪いから回復も遅いのだ。やっと穴がふさがったと思ったら、どこからか菌が入って傷の周りが化膿してきた。本人は痛みを感じないのだが、手術に影響はないか、それも相談にいく。ここに至るまで何度か園を休み近所の皮膚科を受診した。が、二分脊椎や褥瘡の専門ではないので、どうも処方がおぼつかないようだ。電車の時間まで子と二人で「銀河鉄道の夜」のアニメを見る。今日は昼からの出勤だ。銀河鉄道は死者たちの列車なのだとあらためて思う。生きながらにして死者たちと交流できる唯一の空間だ。その死には、ほのかな憧憬と甘美さえ感じる。湯浅博雄が「聖なるものと〈永遠回帰〉」で語っているように、それは「〈あたかも死にゆくかのように〉模擬する」場であったかも知れない。昨夜、風呂の中でアウグスティヌスの「告白」を読んでいた。古びた栞に「いわき市平・○○書店」とあったのを見て、ふと奥付をのぞいてみたらそこに、12年前のわたしの鉛筆書きで「1994.12.5 アイヌモシリ・坂田明の共演を見た日に。いわきの古本屋で」とあった。いわきは福島県のいわき市で、当時妹夫婦が住んでいた。おそらく実家から、バイクで小一時間はしってコンサートを見に行ったのだろうが、いまではすっかり記憶もない。

 「告白」の原題は Confessio である。Confessio は動詞の Confiteri に由来する。Confiteri はふたつの意味をもつ。
   1. ことがらを、あるがままみとめる。
   2. みとめたことを、ことばによっていいあらわす。
 罪を Confiteri すれば「懺悔」である。
 恵みを Confiteri すれば「感謝」である。
 神を Confiteri すれば「賛美」となる。

2006.5.30

 

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 手術の執刀医のH先生は休診だったが、看護婦さんが電話で取り次いでくれた。H先生の指示は手術の日まで「歩くな」。Yは病院で貸し出してくれた車椅子をいったん駅に預けて自転車で帰宅し、また車で取りにいった。それからこんどは幼稚園へ電話し、実際に車椅子を持って先生方と相談をしてきたらしい。というのも、しばらくは職場からわたしがいくら電話をかけても出なかったから。しばらくして家のPCからメールが来た。幼稚園へは車椅子で通園することになった。車は向かいの教会に停められる許可をいただいた。子はしばらく車椅子に乗って園での一日を過ごすのである。Yからのメールは、もうひとつ。入院の日、H先生が傷の具合を見て経過が思わしくなければ手術は延期。「すごすごと帰らなければなりません」

2006.5.30 深夜

 

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 ひょんなこともあるものだ。「歩くな」とH先生の指示が出た整形外科で、病院に入っている装具屋さんで以前働いていたKさんに偶然会った。はじめの頃から子の装具をずっと担当してくれていた快活な若い女性だ。退職して田舎に帰ると聞いていたのだが、じつはその後、友人たちと装具の会社をたちあげた。それがどういう縁か、かつての職場と競合する(?)立場でこの病院へ参入していたのである。たいしたもんだね。子はさいしょは松葉杖の予定だったらしい。子の扱いに危惧したYが「車椅子はないんですか?」と訊いたところ、この久しぶりに再会したKさんが、向かいのO整肢学園で買い換えのため下取りしてこちらの病院へ仮置きしていた子ども用の車椅子をロハで調達してくれた。車椅子の貸出は通常、有料である。加えて高さ調節のクッションまでこしらえてくれたのである。有り難いことである。なかなか血が採れずに時間がかかった採血も子はさいごまで泣かずに、5歳でたいしたもんだ、と看護婦さんは感心していたらしい。いっぽう耳朶を切る止血検査では、年くった男の医者はのっけから「大人しくしとかんとおじさん怖いからな」と脅かし、それだけで子は泣き出しそうになったとか。こういう医者はひとこと言ってやりたいとこだね。さて、借りてきた車椅子は後部座席を倒して車におさまった。子ども用なので何とかYの力でも取り出せる。今朝はPTAの役員会のあるYがいっしょに乗せていった。平日の間は幼稚園に置かせてもらって、休日だけ持ってくることになった。子は変わらず元気そうだ。車椅子は車椅子で乗るのが面白いのだろう。「いつもいじわるする○○くんが来たら、車椅子で轢いてやれ」とわたしが言うとけらけらと笑った。

 

 新聞で見つけた面白そうな本を2冊、紹介。ジャレド・ダイアモンド「文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの」 (草思社・上下巻各@2100) は値段が高いのでそのうち図書館で購入を頼もうかな。6月は手術でいろいろ出費もある。本田 哲郎 「釜ケ崎と福音 神は貧しく小さくされた者と共に」 (岩波書店 @2625) は朝日の28日の書評にあったもので、以下の評者のくだりに惹かれた。

 

 イエスだけではない。マリアは律法に背いて父親のわからぬ子を身ごもった罪深い女だから出産の場さえ与えられなかったのだし、そこに駆けつけた「東方の三博士」が怪しい異教徒の占師なら、羊飼いも卑しい職業。12人の弟子だって大半は漁師、あとは徴税人マタイ、極右の過激派くずれというべき熱心党のシモン。いずれも当時のユダヤ社会では「罪人」とされる賤業で、つまりイエスは社会から排斥、差別される貧困層に属していたのだっ!

(朝日新聞2006年5月28日・斎藤美奈子)

2006.5.31

 

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 まっぴるま。出勤。高速道路の下の二車線の道を時速70キロで走る。ヘルメットの中でブルーハーツの「キスしてほしい(トゥー・トゥー・トゥー)」をうたう。なみだが出そうになる。ブルーハーツをうたうと、いつもそうだ。熱いなみだが身体の奥からあふれてくる。「肯定」のなみだだ。「たったひとつのけっして負けない強い力」を秘めたなみだだ。身体の奥からあふれてくる奔流だ。「社会福祉法人 愛の恵み学園」なぞと書いた車が臭い黒煙をふかして走っていくぜ。くそったれ。まっぴるまから、なみだがあふれてとまらない。高速道路の下の二車線の道を時速70キロで走る。

 

どこまで行くの ぼくたち今夜
このままずっと ここにいるのか
はちきれそうだ とび出しそうだ
生きているのが すばらしすぎる

キスして欲しい キスして欲しい
キスして欲しい キスして欲しい
ふたりが夢に近づくように キスして欲しい

もううごけない 朝がきても
ぼくはあなたの そばにいるから
雨がふっても 風がふいても
ぼくはあなたを まもってあげる

おしえてほしい おしえてほしい
おしえてほしい おしえてほしい
終わることなどあるのでしょうか おしえてほしい

 

2006.5.31 深夜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■日々是ゴム消し Log46  もどる