■日々是ゴム消し Log32 もどる
ジョニ・ミッチェルの HEJIRA を聴いている。「ラスト・ワルツ」でも演奏していた Coyote が入っているやつだ。ケルアックの On The Road のようなモノクロのジャケット。黒いコートに二重写しにされた雲とだだっ広い路面。
つれあいとチビが和歌山の実家へ行ってから、もうひと月になる。昨夜はおかしな夢を見た。夢のなかで、じぶんに家族がいたと思っていたのは、あれは夢を見ていたんだな、そんなことが現実であったと思っていたなんて、こうして目覚めてみるとひどく奇妙な感じがする、と思っていた。ほんとうに目が覚めてからしばらく、いったいどちらが現実で、どちらが夢なのか、区別がつかなかった。
昼は昨夜買った半額のヒレカツを卵でとじた丼。夜は昨夜買った半額の鶏もも肉にもやしとネギを添えた丼。
日野啓三氏の小説「Living Zero」(集英社)を読み始めた。近所の古い商店街にある、パチンコ屋の両替所の四角い穴を眺めていて「私」は、かつて特派員として行ったベトナムで見た反政府ゲリラの公開銃殺の場面を思い出す。広場の舗道の敷石を一枚はがして若者をくくりつけた棒杭を立てていた穴のなかに、数日後、破り捨てられた宝くじのはずれ券が風に吹かれて何枚もたまっているのを見つけて、「笑い出したくなるほど痛切にむなしい」気持ちに襲われる。
テレビのニュース特集で、アメリカのテレヴァンジェリスト(TV伝道師)たちの恰幅のいい、自信と覇気に満ちた姿を見る。衛星回線を通じ、たくさんの教会の信者たちを前にして「フセインよ、お前がどこに隠れようと、アメリカのテキサス人が必ずお前を打ち倒すだろう」と演説をし、熱狂的な拍手を浴びている。
雨が降ってきた。冬の夜のつめたい、匂いも音もない雨。廃品回収があった団地のグランドで、人が集まってドラム缶の焚き火を囲んでいる。雨に濡れた公園のベンチやジャングルジムのところどころが、爬虫類の表皮のように白くぬらりと光っている。
ふたたび「Living Zero」から。
ニッチという言葉がある。生態的地位と訳されているが、生物がそれぞれに棲みわけている場所のことだ。世界とはさまざまなニッチのモザイク模様だともいえる。
その模様には偶然、空白ができる。たとえば噴火や空襲のあとや、人間が集まって住みついて野生動物が追い払われたあとなど。あるいは生物がすべて海中に生きていた時代の陸地、地上にだけ棲んでいたときの空中、大気圏内だけを飛んでいたときの大気圏外宇宙のように、新たに発見される空白もある。
そういった空白のニッチを埋めるようにして、新しい種の生物が進化する。新しいニッチに適合するように体を変化させながら。トリたちは体を軽くするために、折角つくった歯をなくし、膀胱をなくし......。
観念世界のニッチというものもあるだろう。これまでの観念では、からっぽとか向こう側とか不可視の領域とかとしか言えない空白の場。見えない場。だが強烈な索引力があり、親しみがあり、懐かしささえもある。それを埋めるようにして新しい言葉が生まれ、新しい意識が進化する。
だが実は、最初に陸に上がった魚のユーステノプテロンも、最初に空を飛んだ動物のランフォリンクスや始祖鳥も、新しいニッチへの好奇心と探求心に燃えてというより、甲冑魚や大型肉食恐竜に追いまわされて、怯えきって、逃げ場を探しただけかもしれない。
(中略)
逃げるのはいいことだ。その結果、新しいニッチが発見、開拓されて、新しい種、新しい意識が生まれるのはもっといいことだ。
進化は空白から生まれる。
日野啓三「Living Zero」(集英社)
ベランダに出て、何本目かの煙草を喫っている。いまは雨の音がはっきりと聞こえる。街灯に照らされた公園の芝生が森のように見える。プランターに植わっている三つ葉の一部が寒さで茶色く変色している。あしたは山の端に美しい朝焼けを見よう。晴れていたら、だけれど。
ジョニ・ミッチェルのボーカルは、まるで雲のなかを漂っているようだ。路面からほんの数センチ上の雲のなかを。自由で、切ない。あるいは、薄衣の表面だけをなぞり肉体には触れないまま、誰かを抱擁しようとしているかのようだ。
2003.1.26 深夜
* 私たちは、生物としての私たちの存在に対する誤った、ゆがめられた感覚や幻想のために苦しんでいる。「私自身」というのは、肉体の内側で生き、その肉体に縛られた、感情や行動の孤立した中心である----肌合いのちがうよそよそしい宇宙と五感を感じて接触しながら、人々や事物からなる「外側の」世界に「直面する」中心である、という感覚を私たちの大多数がもっているのだ。日常会話の言いまわしがこの幻想を反映している。「私はこの世に生まれ落ちた」「あなたは現実に“立ち向かわ”なければならない」「自然の征服」
孤独だとか、宇宙のかりそめの過客であるというこの感情は、人(そしてその他すべての生物)に関する科学のあらゆる認識と完全に矛盾するものだ。私たちはこの世界に「生まれ落ちた」のではない。私たちは、樹から木の葉が萌え出るように、その“なか”から出てきたのだ。大洋が「波打つ」ように、宇宙は「生起する」。どんな個人も、自然界全体のひとつの表現、全宇宙のユニークなふるまいだ。
私たちに必要なのは、新しい宗教や新しい聖書ではない。私たちが必要とするのは、新しい経験、新しい「私」感覚である。生に関する極秘事項(それはもちろん、内密の奥深い見解である)とは、通常の自己感覚はくわせものであるということである。あるいはせいぜいよくて、催眠術にかけられる人がみな基本的に自ら好んでそうされているように、自己感覚は自らの暗黙の承認をもって私たちが演じているかりそめの役柄、そう演じるよう指揮されてきたかりそめの役柄にすぎない、ということである。
アラン・ワッツ「タブーの書」(めるくまーる社)
私の車、私の身体、私の子ども、私のお金、私の思想.....。それら諸々の「自明なるもの」を疑うことは、馬鹿らしいことだろうか。宮沢賢治の「銀河鉄道」のなかで、一匹のいたちに食べられそうになって井戸に落ち、溺れかけたさそりはこんなふうに祈った「ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい」 さそりのからだはいつしかまっ赤な炎に包まれ、天に昇って、うつくしい星になった。
人知れぬ山のなかの小径を、植物や鉱物に囲まれて黙々とひとり歩いてゆくと、ふと立ち止まって木々の梢を見あげたとき、ゆるい風を感じたその一瞬、じぶんと周囲との隔てが溶け出して、心地よくじぶんの五感がひろがって周囲のものと交じり合うような、そんな感覚を覚える。町にいると逆に私は、私と世界との城壁を固め、それを守ろうと、ときに傷つき、ときに苛立つ。
クリシュナムルティという人は、もう何年か前に亡くなってしまったけれど、まるで透明な知性をたたえたブッダのような人だ。ブッダがもし現代に生きていたら、このような人だったんじゃないかと私はよく思った。インドのバラモンの家に生まれ、幼い頃に神智学協会の指導者に見出されて霊的な指導者となるべく育てられるが、やがてそんな教団も捨て去ってしまう。あるとき、そのクリシュナムルティのもとに、最愛のつれあいを亡くしてずっと悲しみに沈んでいるという婦人が訪ねてきた。死んだ夫にもう一度再会したいのだという婦人の話を黙って聞いていたクリシュナムルティは、やがて口を開いた。「あなたはいつのときのご主人に会いたいのですか」 婦人は何を言われたのか分からないというふうに口をつぐむ。「若いときのご主人ですか。それとも死ぬ間際のご主人ですか。なぜならその二人のご主人は、まったく別の人間だからです」
あなたが掴まえたものは、すでに死んで去ってしまった“それ”の記憶にすぎない。あなたが掴まえるものはリアルではない。あなたの心や精神は小さすぎて、思考による物事しか掴めない。そんなものは不毛だ。もっと遠くへ、遙か遠くへ、すべてを置き去りにして谷から離れていきなさい。そうしようと思えばいつでも帰ってこれるし、置き去りにしたものを拾い上げることもできるのだ。しかし、すべてがもとの重要性を失っているだろう。あなた自身が変わっているはずだ。
あなたは独りで、樹々や草地や川の流れと共にいなければならない。思考やイメージで、いろんな問題を持ち込んだら独りでいられない。地上の岩や暗雲で、心がいっぱいになってはいけない。できたばかりの器のように空っぽでいるべきだ。そうすれば、これまでになかったなにかをトータルに見るだろう。もしあなたというものが内在すれば、これを見ることはできない。見るためには、あなたは死ななければならない。この世界で自分は重要なものだと考えているかもしれないが、それは違う。あなたは思考が組み立ててきたものをすべて所有しているかもしれないが、そんなものは全部古くさく、使いふるしでぼろぼろになりはじめている。
J・クリシュナムルティ「クリシュナムルティの日記」
(宮内勝典訳・めるくまーる社)高校生のときに、親が建て売りの家を購入して、住み慣れた東京の下町から太平洋に面した北関東の小さな町へ引っ越した。田舎の人間関係にはなかなか馴染めなかったが、海や山は好きだった。よく学校をさぼって海岸の砂浜で弁当を開き、海に突き出したテトラポットの上で潮風に吹かれて文庫本をめくっていた。その頃からそうだったが、文庫本を閉じて、目の前の広い海を黙って眺めていると、何も考えられなかった。いま読んでいた本の内容さえ忘れた。あまりに広大で、深く、とらえようがない、その圧倒的な存在を前にして、心はいつもからっぽになった。それが、心地よかった。
時間というものは、「私」と深い関係があるのではないか。「今日のじぶん」が、「昨日のじぶん」と違ったまったく新しい存在であったら、私たちは何かを「所有する」ということが果たして可能だろうか。「私」は「連続する私」としてい続けられるだろうか。じぶんと他者を区別するということができるだろうか。「所有すること」が時間によって生み出されるのだとしたら、「死」というものもまた、時間によって生み出される概念なのかも知れない。時間が「私」に連続性を与え、「私」は私に関する記憶というものを貯め込んでいく。やがて、「私」の時間が終着点に辿りつく。「私」はそれまで貯め込んできた「私に関する記憶」を放棄せざるを得ない。それが「死」と呼ばれるものだ。だが、時間はほんとうに直線なのだろうか。起点があり、最後に必ず終点がある、まっすぐな川の流れのようなものなのか。実は、「時間」は、ときにゆがんだり、終点が起点にひっくり返ったりすることも、ひょっとしたらあるのではないか。そのような裂け目が、ほんとうは日常のそこかしこに塵のように潜んでいて、ただ私たちがそれに気づかないだけではないのだろうか。
岡山の奈義という町の美術館に、1994年、荒川修作とマドリン・ギンズの二人のアーティストによって制作された「遍在の場・奈義の龍安寺・心」という、奇妙な円筒形の建造物がある。(二人の作品については建築的身体と題された刺激的なWebサイトや、代表作「養老天命反転地」を含む岐阜の養老公園の紹介サイトもあるので、ぜひ参照されたい) もうだいぶ以前に呼んだ新聞の小さなエッセイだが、その体験的オブジェを訪ねた文化史家の塚原史氏がこんなエッセイを寄せていた。
「世紀末だ、世紀末だって、君たちはまだ言ってるのか」、NYから戻った荒川修作さんと東京で会ったとき、何かの話の途中で、彼がちょっと不満そうに突然つぶやいたのは、もう二ヶ月も前のことだったろうか。
そういえば、地震、大量殺人、核爆発等々、黙示録ふうの出来事の無秩序な出現に直面して、私たちが終わりの接近の不気味な予感にとらえられがちなのは、時間は直線上に進むという固定観念から逃れられないせいかもしれない、発想を逆転させて時間を巨大な円環とみなすなら、そこには始めも終わりもありはしないのだから、と思った。
この夏、岡山県の奈義町現代美術館まで車を走らせる気になったのは、あの荒川さんの言葉のせいだった。そこにある、磯崎新氏が設計した横倒しの円柱状の建築物中の、荒川/ギンス「偏在の場・心」を体験するためである。
せまいらせん階段を登って円柱の内部に入りこむと、どこかで見たような、だがここにしか存在しない風景に出会う。シリンダー状に湾曲した左右の側面に竜安寺の石庭が張りつけられ、上下には公園のベンチと小学校の鉄棒が固定されている。既知の部分の集合が未知の全体を構成しているのだ。フラットな平面がないので、近くの壁に触ろうと足を踏み出したとたんに身体がふらつき、ひどい場合には転んでしまう。仰向けになって眼を開くと、シンメトリックに反転された世界が、私を見下ろしている。
そうだ、これが時間という円環のかたちなのだ、と直観してしまった。これ以上先に進めないという感覚がもたらす終末の彼方では、じつは空間が曲がっていて、そこには記憶のさまざまな断片が投げ出されていたのである。
塚原史「時間という円環」(朝日新聞・出会いの風景)
つまり私は、こんなことを思ってみるのだ。そう、たとえば私たちがまだ小さな小さな子どもだった頃、時計なんか誰も気にしなかったし、あしたのことを考えて悩んだりなんかしなかった。心の中はいつもあたらしいものでいっぱいで、それらは気まぐれに出たり入ったり、ゴム毬のようにしょっちゅう入れ替わっていた。だから誰かとけんかをしても、すぐに仲直りできた。台風のあとで窓に張りついた葉っぱがお化けに見えたように、ちょっとしたことで、見馴れたものや景色が何かとても不思議なものに見えることがあった。ひとりでかくれんぼをすることもできたし、草むらにかくれている神さまとこっそり話をすることもできた。
つまり私は、こんなふうに思ってみるのだ。私たちが当たり前だと思っている時間の概念というものは、それは「事実」ではなくて、たんなる「習慣」に過ぎないのではないか、と。もしも時間が直線ではなくて、輪っかのようなものだとしたらどうだろう。いろんなものが変わって見えてくるのではないか。ほんとうにたくさんのものが。もしも宇宙やいのちに、始まりも終わりもないのだとしたら。私たちはもっと世界や他人にやさしくなれるのではないか。じぶんと世界の間に城壁を設けて争うことなどなくなるのではないか。死の恐怖に怯えたり、じぶんの財産を守ることに躍起になったりすることも。どんな生命も、もともとはひとつで、神さまがそれらのなかで、ゴム毬のように出たり入ったり、かくれんぼをしているのだとしたら。
もちろんそれは、他愛のない空想にすぎない。だが私たちは、ほんとうは、そんな新しい神話をこそ必要としているのではないだろうか。新しい経験と、新しい世界を測る物差しのようなものを。
たとえば私は、アラン・ワッツが子どもたちに話して聞かせた、こんな素朴なおとぎ話を聴くのが好きだ。
世界が始まった時というのはないんだ。どうしてって、それは輪っかみたいにぐるぐるまわっていて、輪っかには始まりの場所というものがないからさ。私の時計を見てこらん。これが時間を教えてくれる。時間はぐるぐるまわっているね。世界もそれと同じように、何度も何度も同じことを繰り返しているんだ。でも、ちょうど時計の短い針が12のところまで上がって6のところまで下がるみたいに、世界にも、昼や夜、寝たり起きたりすること、生きたり死んだりすること、夏や冬などがある。こういったことは、どちらか片一方だけというわけにはいかない。白と並べて見たことがなかったら黒がどういう色なのかはわからないし、白だって黒と並べて見なければわからないだろう。
そういうふうに、世界が在るときもあればないときもある。もし世界が休まずにいつまでもいつまでも在りつづけていたら、自分にうんざりして飽きちゃうからね。世界はやって来ては行ってしまう。いま見えたかと思うともう見えない。そうやって、世界はまだ自分に飽きずにいるから、いつでも消えてしまうとまた戻ってくるんだ。きみの息と同じように、出たり入ったり、出たり入ったり。もし息をずっと止めようとしたら、気分が悪くなる。かくれんぼとも似ているね。新しい隠れ方を見つけたり、けっして同じところには隠れない人を見つけ出したりするからこそ、いつもそれがおもしろいわけだ。
神さまもかくれんぼをするのが好きだ。でも、神さまの他には何もないから、自分としか遊べない。それでも彼は、自分が自分ではないふりをすることで、この問題を乗りこえている。それが、自分から隠れる彼のやり方なんだ。彼は、きみや私や世界のあらゆる人たち、あらゆる動物やあらゆる植物、あらゆる岩、あらゆる星になったふりをする。そうやって、彼は不思議なすばらしい冒険をする。ときには恐ろしいものやひどいものになることもあるが、そういうのは悪い夢みたいなもので、彼が目を覚ませば消えてしまうんだ。
で、神さまが隠れる側になってきみや私のふりをするときにはすごくうまくやるから、自分がどこにどうやって隠れたのかを思い出すのに長い時間がかかる。でも、そこがおもしろいところなんだ-----彼はそれをやりたかったのさ。彼は、自分をあんまり簡単には見つけたくない。遊びが台なしになってしまうからね。私たちは変装して自分ではないふりをしている神さまなんだということに気づくのが、きみや私にとってこんなにむずかしいのはそのためなんだよ。でも、この遊びがうんと長くつづいたなら、やがて私たちはみんな目を覚まして、もうふりをするのをやめるだろうし、私たち全員がただひとつの〈自己〉なんだ------そこにあるすべての物である神さま、いつまでも生きつづけるあの神さまなんだということを思い出すだろう。
もちろん、神さまは人間の形はしていないということを覚えておかなくちゃいけない。人間には皮膚があって、その皮膚の外側にはいつも何かがある。もしも皮膚というものがなかったら、私たちはからだの内側と外側にあるものの区別がつかないだろうね。だけど、神さまには外側というものがないのだから、皮膚も形もないんだ。神さまの内側と外側は(メビウスの輪のように)同じものだ。そして、私は神さまを「彼女」ではなく「彼」と呼んで話をしてきたけど、神さまは男でも女でもないんだ。私は「それ」とも言わなかった。「それ」というのは、普通、生きていないものに対して言うことだからね。
神さまというのは「世界の〈自己〉」だ。でも、鏡がなかったら自分の眼を見ることはできないし、自分の歯をかむなんてことも絶対にできないし、自分の頭のなかを見ることもできないのと同じ理由で、きみは神さまを見ることができない。きみの自己は、上手に隠されている「世界の〈自己〉」なんだ。だって、それは隠れている神さまのことだからね。
どうして神さまは、ときどきこわーい人たちのかっこうで隠れたり、ひどい病気や痛みに苦しむ人たちのふりをしたりするんだろう、ときみは訊くかもしれないね。実を言うと、彼はそういうことを自分にしているのであって、他の誰かにしているわけじゃないんだ、ということをまず覚えておきなさい。それから、きみが楽しめるほとんど全部のお話には、良い人たちと同じくらい悪い人たちが出てこなくちゃいけない、ということも。それはね、物語のスリルというのは、良い人たちがどうやって悪人をこらしめていくのかを見つけ出すことにあるからだ。トランプをするときも同じだ。ゲームをはじめるとき私たちは、カード全部を切ってバラバラにするよね、その一枚一枚は世の中の悪い物事みたいなものだ。でも、ゲームで大切なのは、そのバラバラをうまい順序に並べることで、それをいちばんうまくやった人が勝つんだ。それからカードをもう一度切ってまた遊ぶ。だから、世界とおんなじだ。
アラン・ワッツ「タブーの書」(めるくまーる社)
2003.1.27
* 障害者支援費制度のホームヘルプサービス上限撤廃については、どうやら国と関係諸団体との間で合意に至ったらしい(27日)。「厚生労働省との間で、現行のサービス水準の維持と、サービス利用当事者を含めた検討委員会の設置を確認」とのこと。詳しく言うと「白紙撤回」ではなく、「現状維持への方向を(厚生労働省が)示した」ということのようで、「今後も運動の課題を残す」という含みがあるものの、まあ、とりあえずは良かったということではないか。詳しくはDPI日本会議の「合意に至る判断根拠」(http://homepage2.nifty.com/dpi-japan/2issues/2-1/023.htm) 私もこうした「運動」の類は、これまであまり縁がなかったし、どこかメンド臭く思う向きもあったのだけど、回覧したメールやBBSへの張りつけを見たいろいろな人たちから嬉しい反響をたくさん頂き、草の根の声がじわじわと広がっていく様が感じ取れるようで、いろいろな意味で私自身、いい勉強をさせてもらったような気がする。やはり声を上げるということは必要なんだなあ、と思ったりした。ともあれ、ご協力頂いたみなさん、どうもありがとうございました。
ところでBBSでいま清志郎のチャリンコ・ツアーの話題が出ていて、ケルビムの自転車とかキヨシロー部隊特製のウェアとか、あれこれ見ていたら、何だか懐かしい気分になってしまった。もとはといえば私もサイクリング少年で、現在のバイクも、言ってみればその延長に過ぎない。もととも自転車で東京のごみごみした下町をあちこち散策するのは小学生の頃から好きだったが、中学にあがって従兄の房総半島一周に誘われたのがきっかけで、それから友人といっしょに高尾山や、神奈川の方や、富士五湖、甲府くんだりまで走ったりした。宿泊先のユースホステルでスタンプを集めてたのも、何だか懐かしいね。その頃は「サイクル・スポーツ」なんて専門雑誌も毎月買っていた。クラスに一人、自転車が趣味のやつがいて、何十万もするような高級自転車にキヨシローが着ているみたいなウェア姿で近所の土手を走ってたけど、そいつは「あちこち行くこと」より「自転車そのものが好き」みたいな感じだったんだな。もちろん私にはそんな高級品は買えるはずはなく、まあそこそこの値段の、たしかミヤタだと思ったけど、黄色いドロップ・ハンドルのサイクリング車が私の愛車だった。股の下にお決まりのペットボトルをつけて、あと名前は失念したがペダルのつま先を固定するホルダーみたいなの(あんなのはもう今はないのかな)、それとフロント・バックと後輪の両サイドにバックをぶら下げ、その上にテントを積んで。そんな格好で「富士には月見草がよく似合う」なんて、太宰が「富岳百景」を書いた御坂峠の茶屋を訪ねたりした。横浜で間違えて高速道路に入っちゃったこともあったっけな。あのときは途中のサービス・エリアの裏口からおばちゃんに出してもらった。大雪に遭遇して、自転車をばらして電車で帰ってきたこともあった。いやいや、懐かしいねえ、どれもこれも。要するにキヨシローは、いつも新しく、懐かしい。というわけで、今日は他愛のない自転車の思い出話でした。ところで私の愛車はその後、東京で一人暮らしをしていたとき、亀有駅の近くにうっかり鍵をかけ忘れて置いてたのを盗まれてしまったのだった。あの自転車はあれから、どんな道を走ったのだろう。
これから明日にかけて、関西は雪になるらしい。
2003.1.28
* 受話器の向こうできみは泣いていた。チビは二階で眠っている。義母も義父も。きみは暗い階段をひとりでそっと降りてきて、ダイヤルを回したのだ。毛糸のカーディガンなんかをその華奢な肩に羽織って。昼間とは別の顔で。「あれだけ路頭に迷わせるようなことはしないと言ってたくせに、路頭に迷わせているじゃないか」と義父が怒りを露わにしているという。わたしが無理を言ってあなたといっしょになりたいと言ったから、だからそんなわたしが腹立たしいのだと、きみは泣きながら言った。そうだ。ぼくは地獄に堕ちるべきだろうな。口先だけの、その場逃れの、はったり野郎なのだから。ほんとうにそのとおりなのだから、きみが辛い目に会っている間、ぼくはここでひとりでへらへら笑いながら暮らしていたのさ。そうだ。ぼくは地獄に堕ちるべきだ。雪のなかへ飛び出して、七つの雪だるまをこしらえたあのフランチェスコのように、ぼくもこんなふうに叫ぶべきだったんだろうな。「どうだ、フランシスコ、この大きいのがお前の妻だ、そばの四つが息子二人と娘二人、他の残りが下男と下女だ、みんなこごえて死にそうだ-----さっさとなにか着せてやれ ! それができなければ、神にだけしか仕えなくていいのを、喜ぶんだぞ ! 」 受話器の向こうできみはいつまでも泣き続けた。それから、子どもが起きてくるかも知れないからと言って、おやすみなさいと言って、電話は切れた。
2003.1.28 深夜
* 平和に暮らす恋人たちもいるし、そうでない恋人たちもいる
叫び、どなり合う恋人たちもいるし、そうでない恋人たちもいる
でも、きみが言ったことはぼくには忘れられない
それは鉛の銃弾のようにぼくの頭のなかで響いている叫び、どなり合う恋人たちもいるし、そうでない恋人たちもいる
じぶんの人生を犠牲にする人もいれば、そうでない人もいる
問題が立ち去ってくれることを願いながら
誘われるように眠りにつくのを待つ人もいれば
はてしなく本を読む人もいるすべてがうまくいくようにと、きみが願っているのは知っているよ
ぼくらは互いにどなり合うタイプではない
きみが寝室で眠っている間
ぼくは廊下を行ったり来たりしている
ぼくたちの赤ん坊がぼくらの両方を見ている
どちらに声をかけたらいいのか困惑しながらすべてのマッチが明るく輝くとは限らない、というのはほんとうなんだろう
ぼくの言うことがみんなでたらめだというのも、ほんとうなんだろうな
きみが言ったことが、いまもぼくの頭のなかで跳びはねている
ぼくらにこんなことが起こるなんて、いったい誰が思ったろう
ぼくらがはじめてベットを共にしたあのときLou Reed・Tatter・2000
日曜の朝ともなれば団地のベランダから、駐車場に停めた車に向かって小走りに駆けていく子どもたちや、その後を笑いながらゆっくり歩いていく若い夫婦の姿が見える。朝、会社に出かけ、夜遅く残業から帰ってくる。休日にはローンで買った車でドライブにでかけ、ファミリー・レストランで食事をする。マイホームを手に入れるための頭金も少しづつだが貯まってきたし、夫婦の生命保険にも子どもの学資保険にも加入している。どうしてぼくは、そんなふつうの生活ができないのだろう。みんながしているおなじことができないのだろう。ぼくはきっと、病気なのに違いない。みんながしていることで、ぼくにはできないことがたくさんあるのだ。そう思うと、ぼくはもう玄関から一歩も出れなくなってしまう。
ぼくといっしょになってから、きみはいいことなんか何ひとつなかった。これまでずっとそうだったのだから、これからだって、きっとそうだろう。「そうだ」と言う人は、きっとたくさんいることだろう。ぼくは、「そうだ」と言うことはできる。「そうではない」と言うこともできる。でもきっと、どちらも大して違いはないんだろうな。
昨夜、読みかけの小説のなかでこんな文章を見つけたよ。海中に棲む小さな動物プランクトン、放散虫類についての短い話だ。
水の中にも無数の小さな生物が群がっている。
日光の射しこむ百メートルほどまでの海水一立方メートル中に十万、二十万の微小植物と微小動物。いわゆる植物プランクトンと動物プランクトンである。
葉緑素をもつ植物プランクトンは日光を利用して、海水中の単純な無機物質から複雑な有機分子をつくる。動物プランクトンがそれを食べる。彼らの小さな体は炭酸カルシウムや二酸化珪素の殻に包まれていて、その殻は実にさまざまな奇怪で絶妙な形をしている。何本もの尖ったトゲをつけているもの、雪の結晶のようなもの、正確な正何十面体をしたもの、ビルマの仏塔に似たもの、中世の城壁崩しに使われた鋭い錐みたいなものを一方に突き出したもの、釣鐘状のもの、無意味としか言いようのない装飾をまとったもの。
とくに放散虫類のオパールの精密に放射状の殻は、この地球上で最も美しい形のひとつだ。オパールは二酸化珪素が宝石状になったもので、砂や石英の主成分である。つまり放散虫は生きている水晶、比類ない美的センスをそなえて水中を浮かび漂う砂の微粒である。
彼らは川から流れこむ二酸化珪素を使って精妙極まるガラス細工状の体をつくり、短命な生涯を終えると静かに海底に降り沈んで堆積岩の材料になる。土中の微小生物たちは岩石の細片と共存しているだけだが、海水中のプランクトン類はより自由に無機物との境界を往き来している。
なるほど、私はもうあと十年ぐらいしか生きないつもりだが、今度生まれてくるなら、放散虫になりたいね。この宇宙で恐らく最も美しい姿。透きとおって、静かに冷たくきらめいて。
放散虫以上に生命は進化すべきでなかったのかもしれない。あるいは究極まで進化した知的生命体、超意識存在は、きっと放散虫の形をとるにちがいないと思ってるよ。
日野啓三「Living Zero」(集英社)
ぼくはWebで見つけた美しい放散虫の写真をプリントアウトして、それをピンで部屋の壁に貼りつけて眺めた。それからぼくは布団のなかで放散虫のようにまるくなって眠った。放散虫のようにまるくなって眠った。
2003.1.29
* Hard Times by Ray Charles
My mother told me Well I soon found out I had a woman Lord,
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死ぬ前に 母さんの言っていたことは かつて女がいた ああ、主よ |
* 目には目を、歯には歯を、そしてブルースにはブルースを。鉛のような重さを抱えてとめどなく沈んでいきそうな魂が、おなじ重さにあえいでいる魂に救われるというのは、不思議だがほんとうだ。眠れない夜。明け方までヘッドホンでジャニス・ジョプリンを聴き続けて持ちこたえる。Ball and Chain、Summertime、Kozmic Blues。それらの歌のもつ底なしの重力が、なぜか浮力を与えてくれる。暗い博物館の部屋の干からびた標本のようになっていた心が、絶望的なシャウトによって蘇生する。二度と動くことはないだろうと思われた指先にほんのりと体温がもどってくる。ジャニス・ジョプリン。彼女はいつも私の恋人だった。地下室のくしゃくしゃのベットの上で、ぼくらは何度も激しく愛し合った。二人とも、狂おしいほどの飢えと虚しさに突き動かされて。彼女の貪欲な愛し方はときに常軌を逸することもあったけれど、それでもぼくにはいつも優しくしてくれたし、ぼくを満足させてくれた。ぼくが彼女を満足させてあげられていたかどうかは分からない。なぜなら彼女はこの世のすべての男のものだったからだ。彼女はいつも孤独で、愛情に飢えていた。ときどき彼女は不遜な女王のようだった。また別のときには怯えた小さな女の子のようだった。一度彼女に、ぼくと結婚しないか、と言ったことがある。きみは素敵なお嫁さんになって、台所で夕食の支度をしてぼくの帰りを待っているんだよ。すると彼女は吐き捨てるように言ったものだ。「わたしはあなたの素敵なお嫁さんなんかにはなれないわ。だってわたしはじぶんに妥協することなんてできないもの。わたしはいつも何かが足りない。いつも何かが足りないのよ。あなたの愛だけじゃ足りないわ」 そう言うと彼女は出ていってしまった。いつか夏の間中、二人でずっと旅をしたことがある。はちゃめちゃな旅だったけど、すごく愉しかったな。いろんなとこへ行った。ふつうの旅行者は行かないようなところばかりへね。金も荷物も失くして捨てられたトラックの荷台に二人して寝ころがっていたとき、途方に暮れているぼくに彼女はこう言ったものだ。「自由ってことは、失うものが何もないってことね。自由でなけりゃ、なんにも意味がないわ」 あのときの彼女の横顔はいまも覚えている。それからぼくらはつまらない喧嘩の果てに別れて、それぞれの道を行った。彼女が死んだことはしばらくして風の噂で聞いた。ぼくはレコード屋で彼女の最後のレコードを買ってきた。Trust Me Baby という曲のなかに、ぼくの知っているままの素直な彼女がいた。笑うことが好きで、チャーミングで、淋しがり屋で、いつもいまだけを見て、けっして挫けなかった彼女が、だ。彼女の死を聞いたときには不思議と涙は出なかったのに、その曲を聴いていて、ぼくは不覚にも泣いてしまった。ぼくは失ってしまったものの大きさを思い知らされたのだ。いまも彼女とあの広い大陸のあちこちを旅をしているような気分になるときがある。いまもときどき彼女のレコードをかけて、二人で激しく愛し合ったときのことを思い出す。彼女がぼくの髪をかきあげる仕草や、煙草をはさんだ指の動きや、火照ったようなその肌のぬくもりを。涙で濡れた顔や、窓際のソファーでいつまでも雨を見つめていた孤独な情景を。「自由ってことは、失うものが何もないってことね。自由でなけりゃ、なんにも意味がないわ」 いまもぼくは彼女を愛している。彼女と二人で見あげていたあのときの空を覚えている。
じぶんの魂は、みずから手を伸ばしてつかまえなくちゃならないのさ。
2003.1.30
* 和歌山へつれあいとチビを迎えに行くことになった。昨日の夕方、いつものトヨタ・レンタカーに軽自動車がなかったので、ニッポン・レンタカーで軽を一台予約した。トヨタの方が料金が少し安い。今日の夕方に出て、向こうで一泊し、日曜の夕方に帰ってくる。チビはこの頃、私の小さいときに似て車酔いをするようになったので、帰りは高速かな。というわけで今日は一ヶ月分の怠惰を挽回すべく、洗濯や、トイレ・風呂・洗面所・台所周り・部屋中の掃除、ゴミの整理等々、朝から大忙しである。
昼、sawaさん伝授の半永久機関的ビンボー鍋の残りをかき込みながらテレビをつけたら、富士の樹海が映った。ちょうど日野氏の「Living Zoro」で先日、そんなくだりを読んだ。「富士山の中は溶岩の固まった隙間だらけで、幾らもぐってもきりがありませんよ」という、日本でケービング(ケーブは洞穴の意)の草分けといわれる人物の言葉が紹介されていた。土がほとんどない樹海では苔が水分を貯え、それを木が吸い上げて成長してゆく。やがて倒れた樹木は自身が土の代わりとなって、そこへ苔が生え、植物が育つ。そういえば昨日の日記で榎並和春さんがちょっと触れていた。リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」(紀伊国屋書店)はかつて、友人に借りて読んだことがある。けれど樹海のそんな光景を眺めていると自然には単に個々のプログラムだけではない、それを超えたある共通の認識、いのちはひとつで神さまがあちこちでかくれんぼをしているだけみたいな、じつはそんな見えざる“大いなる智慧”でつながっているんじゃないかという気にもなってくる。もっとも人間が、まだその場所にとどまっているかどうかは知らないけれども。
ところで障害者支援費の件。E ちゃんからお礼のメールが届いた。
いろいろありがとうございました。
結果の報告をします。これからは、長期戦に成りそうです。今回、人間の力は偉大だと実感しました。
こんなに短期間で、国を動かせるんですね。
それから、私は、「人に支えられてるなぁ」「良い人間関係の中で生きてるんだなぁ」ということも、改めて発見しました。怒涛の2週間、たいへんでしたが、収穫も大きかったです。
これからも、たびたび支援をお願いすると思いますが、どうぞ、よろしく。
もちろん、私のほうが助けることもあると思うので、いつでも、なんでも言ってきてください。で、以下のような添付ファイルがあったので、最後にこれを紹介しておく。文章は彼女自身が起こしたものらしい。
緊急行動の最終報告 ◎ひとまず、決着しました 新聞やTV、また口コミなどで、みなさんに情報が流れていることと思います。1月27日、厚生労働省から、妥協案が提示され、私たち障害者団体側との一応の合意が取れました。完全勝利ではなく、あくまでも妥協ではありますが、最低限、求めていた部分での保障がされたので、これ以上の正面衝突はかえって得策ではないと、判断したようです。(その辺りの詳細は、DPIのホームページをみてください。http://homepage2.nifty.com/dpi-japan/dpi-japan.htm) したがって、28日に予定されていた厚生労働省前での抗議集会(2000人以上の障害当事者・関係者が集まる予定だった)は、報告集会にかわり、今回、私たちが成し得たこと、今後、私たちがどう行動を起こすかについて、報告がありました。(それもDPIのホームページに載ってます) 今回、あれほど頑なだった国を動かしたのは、まさしく、一人一人の障害当事者と支援者が、今、自分に出来ることを行動に移したからだと思います。また、普段は別々に活動を進める障害者団体同士が、手を取り合ったからこそ実現したのだと思います。 厚生労働省への抗議行動、ビラまきやマスコミでの市民への呼びかけ、政治家への働きかけ、市町村への働きかけ等、全国の障害者が、この短期間に、想像以上にたくさんの人を巻き込んで、運動を展開しました。あらためて、私たち障害者の力強さを、つくづく実感しました。しかし、こうやってすぐに運動を起こせる力も、普段から闘わなければ生きられない障害者のサガかと思うと、複雑な思いは残ります。いつまでも闘わなくてもすむようにしたいもんです。
◎署名活動へのご協力、ありがとうございました たくさんの方のご協力の下に行ってきた署名活動ですが、ここでひとまず、終了させたいと思います。なんと、現在、集計できているだけで、1848名の署名を集めることが出来ました。まだ、回収できていない分を含めると、恐らく、2000人近くの署名を頂いていると思います。署名活動を始めて未だ10日ほどで、それだけの数を集められたことは、とても心強いです。多くの人が、地域で暮らす障害者の生活を切り捨てようとする行政に、反対意見をもっているということが分かり、このことは、これから神戸や兵庫県下の各地域で交渉を進めて行く上でも、大きな励みになります。
◎問題点のまとめ 今回、厚生労働省側は、以下のことを約束しました。 1.支援費制度になっても、今よりサービスを引き下げない。そのためのお金を別に確保する。 2.利用者一人一人の上限が4時間なのではないと、各市町村にもちゃんと伝える。 3.ホームヘルプを利用する障害者もメンバーにいれて検討委員会を作って、今後について話し合うようにする。
しかし、次のような問題点が残されました。 1.あくまでも計算の目安といいながらも、一人1日4時間という数字が明記されてしまった。 2.今までのサービスは下がらなくても、これから増やしたい人は、今まで以上に交渉が難しくなった。
◎私たちがこれから地域でするべきことは・・・ いよいよ、市町村への働きかけです。 これは、その地域に住む人にしか出来ないことですから、人任せにしていられません。一人一人が積極的に、自分の問題として、声をあげていきましょう。
1.市町村に、国が言っているとおり、「支援費になってもサービスを下げない」ことを確認する 2.これから自立する人、まだサービスが足りていない人も、必要なサービスを受けられるように市町村に働きかける。そして、お金が足りてないことを、市町村から国に言ってもらう。(「お金が足りないので、これ以上のサービスは提供できない」と市町村に言われても、あきらめて帰らない。うまく言えなくても良いので、必要だということを、自分の言葉で伝えましょう。その後の補足説明は、説明のうまい人に手伝ってもらっても良いので、まずは一人一人の気迫が大事。それでも、だめだったときは、少なくとも、「足りないという書類」が国に届くようにする。) 3.地域で自立生活する重度の障害者をたくさんつくっていく。そして、どんなサービスのシステムが自分たちに一番あっているかのイメージをつくっていく。 4.国が今後、どういう態度に出ても、市町村が、財源を責任をもって獲得し、サービスをさげないように、普段から言っておく。 5.政治家や、マスコミ、市民にも声をかけ、私たちの言っていることを知ってもらう。そして、行政に、いっしょに働きかけてもらう。
参考までに、以下はDPI発信の行動提起です。 ■行動提起 ・検討委員会の早期開催、自立生活推進の立場の委員の多数参画を ・一人ひとりの必要に応じた支給決定を。市町村に対して働きかけよう! ・パーソナルアシスタントサービス実現に向けて、全国各地で取り組みを進めよう! ・市町村障害者計画に介護サービス、地域生活支援の数値目標を ・全国各地で脱施設・地域での自立生活の取り組みを進めよう ・地域での自立生活確立のための財源確保に向けた取り組みを ・真に脱施設・地域での自立生活が進むような法制度、システムの確立を
これからの闘いは長くなりそうですが、一人一人が自分の力を信じて、あきらめ悪くいきましょう。どんな小さな運動も、活動も、無駄ということはありません。やった方が良いと思ったことは何でもやってください。 私たち障害者が当たり前に生きられる社会は、誰にとっても暮らしやすい、良い社会のはずです。私たちが人に呼びかけ、人と助け合いながら生きていく姿を、生き易い社会のモデルとして、みんなに見せていきましょう。 (文責 自立生活センターリングリング ○○○○ )
【呼びかけ人】 障害者支援費問題緊急委員会 ・2003年を考える障害者の会 ・障害者問題を考える兵庫県連絡会議 ・社会福祉法人えんぴつの家デイケアセンター ・社会福祉法人えんぴつの家六甲デイケアセンター ・自立生活センター神戸Beすけっと ・自立生活センターリングリング |
2003.2.1
* あれは保育園に入る少し前くらいだったろうか、上野公園の、噴水と国立博物館の間にある植え込みの木陰で幼い私は遊んでいた。父か母のどちらかに促されて、私は手にしていた頃合いの木の枝を持って行こうとしたのだが、そんなものは置いていきなさいと地面へ捨てられた。父か母の手に引かれながら振り向いた、ひんやりと仄暗い木陰をいまもはっきりと思い出せる。あの木の枝は私の心のなかで、いまもあの場所に置き捨てられたままだ。大事な木の枝。子どもの頃は何気ないものがとても大切に思えたりするものだ。だから私の子どもが道端で拾ってきたものは、何の変哲もない石ころであれ小枝であれ、破れた葉っぱであれ、泥のついたジュースのフタであれ、しばらくはそのまま取っておく。
昨日の夕方、ゴミ出しのついでにチビと公園に寄った。ふと足をとめて、グランドの乾いた土の上に誰かが丸や三角を描いていったのを見つけた。落ちていた枯れ枝を折って、これで描けるよと渡してやると、「シノちゃんも、描いてみようかなあ」と目をきらきら輝かせる。しばらくそれであちこちの地面の上に前屈みになり、出鱈目の模様を描いて回っていた。いつまでも飽きもせず、愉しそうに白い息を吐いて、地面に小枝を遊ばせている。やがてあたり一面が大きな一枚のキャンバスになる。私は彼女からたくさんのものを教わっているような気がする。懐かしく、大切な何かを。
「おとうさん、ずっとここにいようね」と、薄暮のなかで彼女が言う。
2003.2.4
* 昨日は家族の気分転換に西大寺に行ってきた。自転車で15分ほど走った近鉄の駅から急行でひと駅。まず駅前の銀行ビルにある書店に入り、図書券でチビに「そらまめくんとめだかちゃん」(福音館書店)と「キャサリンとライオン」(小峰書店)という二冊の絵本を買う。前者は図書館で借りてきたお気に入りで、後者は私が選んだ。チビは私たちが本を見ている間、勝手にそこらの本をとってきてイスの上に広げ、適当なストーリーを読み上げている。それから近接する奈良ファミリーへ。近鉄百貨店とジャスコと専門店街がひとつになっている複合ビル。チビはこの頃ひとりで歩くのが好きで、「ちょっとそこで待っててね」と私たちの足を止めさせ、好き勝手な方角にずんずんと歩いていく。出てきたのが遅かったので、先に昼を食べることにする。最上階のレストラン街を見ていたら、とあるBBSで最近ある人から教えてもらった(最近、人気の)鶴橋の風月というお好み焼き屋があったので入ってみた。すべての具が入った風月焼きとえび・豚玉に麺を加えたモダン焼きを頼んだのだが、たしかにお話にあったように小麦粉がちょっぴりでほとんどキャベツの玉という感じ。店員がすべてやってくれ、最後に鰹節と、マヨネーズ、ソースをたっぷり載せて出来上がり。やや味がしつこいかなという気もしたが、キャベツも柔らかく、モダン焼きもボリュームがあって結構おいしかった。チビももりもり食べていた。それからつれあいが婦人売り場を見ている間、私はチビと屋上の遊園地を覗いてきた。百円で回転するぞうさんの小さなメリー・ゴーランドによその子が乗っているのを見てチビも乗りたいと言う。動き出したらしばらくは呆然とした顔で、何だつまらないのかなと思っていたら、三週目でいきなり顔をくしゃくしゃにして「停めてよお」と泣き出した。それからは何を見ても「乗んない」「いんない」の一点張りである。興味はあるのであちこち見て回って「キティちゃん」とか「アンパンマン」とか言っているのだが、こちらが「乗ってみる?」と誘うと「乗んない」ときびすを返す。つれあいのところへ戻り、しばらく婦人服やバックの売り場を見て歩いてから、ジャスコで買い物をして、行きがけに見た銀行ビルの洒落たパン屋でパンを少し買って電車に乗った。橿原方面行きを待っていたのだが、同じホームに先に入ってきた奈良行きに間違えて乗ってしまい、新大宮で慌てて引き返してくる。その間にチビは疲れて眠ってしまった。何とか目を覚まして、すっかり日の暮れた冬の田圃道を二台の自転車で帰っていく。チビが眠ってしまわないように、歌をうたったり話をしながら。夕食は何を食べたいかと訊くと、つれあいはシンプルなきつねうどんと林檎、チビはトマトと言う。林檎は家にあったので、近所のAコープでうどん玉とトマトを一玉買って帰った。揚げを載せただけのきつねうどんを私がつくり、つれあいが林檎を剥き、私とチビでトマトを切って、遅い夕食を済ませた。
ところでチビはこの頃、和歌山の実家で貰ってきた「アルプスの少女ハイジ」のビデオが大のお気に入りである。ハイジ中毒と言ってもいい。たとえばハイジがはじめておじいさんの山小屋に来たとき、じぶんの椅子の高さが合わなくて「あら」と呟く場面があるのだが、お好み焼き屋でテーブルに座るとそれを真似する。婦人服の通路のすみにしゃがみ込んでせっせと手を動かし「ピッチ(ハイジの拾ってきた鳥のヒナ)の餌をとってるの」と言う。バックの売り場で「あら、雨が降ってきたわ。冷たくて気持ちいい」とそこらを踊って回る。ジャスコの売り場で「おとうさん、おいでぇ」と叫んで指を二本口に入れ、口笛を吹く真似をする(オレは山羊かい)。ホームで出ていく電車に向かってバイバイを叫んでいたら、それがいつの間にか「ユキちゃん(ペーターの飼っている子山羊)、ばいばあい」になっている(しかも私とつれあいが恥ずかしくなるくらいの馬鹿でかい声で)。昼寝をするときに「山羊さんを集めておかなくちゃ」と言うのは、ペーターが山で昼寝をするときにじぶんの周りに山羊を呼び集めておくからである。その他に毎週土曜日の朝にテレビでやっている「名犬ラッシー」も混じっていて、お風呂場で手を洗うときは「ラッシーも呼んでくるね」といったん居間の方へ戻り、見えないラッシーを連れてきて「ラッシー、ほら、お手々を出して」と言いながらラッシーといっしょに手を洗う。そんなこんなで、まあ、見ていてじつに面白い。
一応というか、仕事が決まった。某大学の夜間警備で、夕方に入り、朝に帰ってくる。月20万、賞与はなし。保険等を差し引けば手取りで17万くらいか。贅沢はできないが、まあ何とか家族三人で食っていくことはできる。休みは隔週で週休2日だが、日曜が24時間勤務なのでうち一日は半日の休日みたいなもの。有給休暇も盆・正月の休みもない。バイクで片道30分ほど。先日、現場を見てきた。かなり広い建物の中を夜はひとりで見回る。いま働いているのは75歳のお爺さんで、高齢だからそろそろ世代交代をという大学側の要望らしい。事務所の話では「相当頑固な爺さん」とのことだが、印象は別に悪くもなかった。昔気質ということなんだろう。話好きで、結構面白そうな爺さんだった。明日から土日の休みを挟んで4日間、事務所で警備の研修を受け、それから現場でしばらく件の爺さんについて教わりながら仕事を引き継ぐ。ふだんは昼間家に寝に帰るようなものだし、夕食を共にしたり寝しなにチビに本を読んだりという家族といっしょに過ごす時間も減るが、出稼ぎや船の仕事をしている人に比べたらまだマシというものだろう。いい条件ではないが、不平を言えるほど優秀な人材でもない。ともかくとりあえずはこれで、潰れかけた生活を立て直さなくてはならないってこった。
2003.2.6
* 昨日は研修初日。いっしょに受けるのは京都の木津町から来た50代半ばのトウ小平似の男性で、かれは競輪場の現場を任されるらしい。日給は6,500円で、もちろん競輪の開催日しか働けない。研修は退屈なビデオを見たりテキストを読んだり。夕方の帰り際、30数年間勤めた大丸をリストラされたというやはり50代ほどの男性が面接に来た。木津町の男性と事務所を出たところ「コーヒーを飲みにいこう」と誘われ、内心渋々着いていくと喫茶店ではなく角の自販機へ。缶コーヒーを手にしばらく立ち話をした。男性は長年地元の工場で三交代勤務をしていたがやはりリストラに会った。「会社はおれを辞めさせたくなかったと思うが、新しく入った人間がうまくやれているかいまも心配だ」と言う。子供が二人いて、大学生の長男はフリーターで、夜間高校を出た長女は看護婦の試験を受けたが通らなかった。「こんな仕事でも馴れるには3年はかかると思う。まあ、お互いに頑張ろう」と言われ、煙草を一本もらって別れた。
昼休みに駅前の書店で「荒野のロマネスク」(今福龍太・岩波現代文庫)を買って、休憩中につらつらと読んだ。今福はかつて異文化を旅した民俗誌家が自明のものとしていた安定した客体による実証主義的科学性、「切り取ることのできる静止した全体像」といったものに疑問を投げかけ、フランスの詩人・作家・考古学者ヴィクトル・セガレンの「エキゾティスム論」のなかの言葉を紹介し、次のように記す。
「新しい旅人はたんに彼の見たものを書きとめるだけではない。彼は瞬間的かつ持続的な移動を通じて、自己の存在の反響(エコー)をも書きしるそうとするのである」
瞬間的かつ持続的な「移動」は、だからヴィジョンの確定を避けるために意図的に導入された秘密の戦略なのだ。目まぐるしく動き回り、視線が投射される定点をスピードを持った動的な線に拡張すること。
今日は三重に住む友人の0氏が遊びに来た。これはあまり書く気分になれない話なのだが、長年勤めた会社を辞めて念願の山仕事の職を得た友人は、年が明けて数日後の作業中に片足膝に異常を感じ、半月板が切れているために膝に負担がかかるような仕事は不可能との検査結果を受け、退職を余儀なくされた。とりあえずは実家近くの関東へいったん戻り、これまでと同じ理系の研究分野の派遣の仕事などを探すつもりだという。そんな友人が、今日は私の就職祝いにと奈良市郊外のサンマルクというレストランで食事を奢ってくれた。もちろんつれあいとチビもいっしょである。夜は私が手製の肉団子に大根おろしをふんだんに載せた「雪見鍋」をつくり、チビといっしょにハイジのビデオを見てから8時過ぎ頃、友人は転居したばかりの亀山近くのアパートへひとり帰っていった。友人の心中を思うとまこと言葉もない。
私は苦し紛れの職を得て、友人は満を持して望んだ職を失った。だがじつはこんなことはべつに何でもない。何でもないことだ。人の魂の深さに比べたら、じつに表層的なちっぽけなことだ。職を得たからといって魂が救われるわけではない。職を失ったからといって魂が失われるわけではない。少なくとも、私はそうだ。両者には何の関係もない。ディランの Maggie's Farm の叫びをなくしたわけではないということだ。
チビといっしょに見る「アルプスの少女ハイジ」のビデオのなかで、アルムの山で孤独に暮らすおじいさんは麓の村の人々に、教会にも行かず、偏屈で恐ろしく、昔は人殺しもしたらしいなどと陰口を囁かれている。そこへハイジがやってくる。彼女が屋根裏部屋の干し草を積んでベッドをつくり、これなら王様だって泊まれるくらいの立派なベッドだわ、と嬉しそうに言う言葉を聞いて、おじいさんはしずかにうなずく。そして己に言いきかせるように言う。そうだ、これは王様のベッドだ。そしてここは王様の住む城だ、と。
この頃はなるべく家族とともに過ごしたい。つれあいととりとめのない話をしたり、家の用事をしたり、チビといっしょに戯れたり笑ったりしていたい。そう思うようになってきたら、どこかPCのスイッチを入れるのがいささか面倒くさくなってきた。
2003.2.8
* 午前中はチビの注文に応えて粘土でハイジ・ファミリーをこさえる。ハイジ、ペーター、子山羊のユキちゃん、ヨーゼフ、巣入りの小鳥のピッチなど。チビはひどく気に入ってそれを人形代わりにして遊ぶのだが、小麦粘土だとじきに乾いてひび割れてしまう。この次は紙粘土でつくって、彩色をしてみようかとも思う。
つれあいが少々風邪気味というので、昼からはチビを外へ連れ出す。郡山城へでも連れていこうと思って自転車に乗せかけると、ジテンシャは乗んない、団地の前の公園がいいと言う。砂場に落ちていたポテトチップスの袋に枯葉や枯れ枝、壊れた洗濯バサミ、ジュースのフタなどを詰め込んで「ピッチの餌」だという。そいつを大事に持って、団地内のいくつかの公園を経巡る。舗道のわきに「ちょっと休憩しましょ」と座り込み、ブランコから滑り落ちてズボンを泥だらけにする。最後に辿りついたAコープの裏手に集っていた野良猫たちに「ピッチの餌」を差し出して無視される。
夜、テレビでNHKスペシャル「こども・輝けいのち 第1集 父ちゃん母ちゃん、生きるんや 〜大阪・西成こどもの里〜」をつれあいと二人で見る。大阪・西成、ドヤ街の真ん中にある家族と暮らせない子どもたちの施設を巡る風景。アルコール中毒の病床で両手をふるわせ8歳の娘の面会を受ける父親。日本人の父親を亡くし淋しさからやはりアルコール中毒になったフィリピン人の母親を介護しながら幼い弟や妹たちとの生活を夢みる高校生の長男。一度はじぶんを捨てて脳溢血で不自由な身体になった父親を許しふたたび共に暮らし始める高校生の息子。つれあいはずっと涙を流しつづけていた。
2003.2.9
* バックに文庫本を入れ忘れた手持ちぶさたに買い求めた「荒野のロマネスク」(今福龍太・岩波現代文庫)だが、私が長いこと漠然と感じていた(このような表現が許されるのであれば)来るべき世界観をまさに「精神にじかに掘られた奇妙な運河を通じて」(アントナン・アルトー・演劇とその分身)示してくれるかのような一冊だ。出会いはたいてい、そんな気まぐれな偶然から転がり込んでくる。「シュールレアリスム運動と決別し、ヨーロッパの二元論的理性に死を宣告してメキシコにやってきた」アントナン・アルトー、メキシコのインディオのペヨーテ・ダンスを垣間見たかれの経験を「分化した器官を欠いた、流動的で輝かしく燃え上がるアルトー的身体」と呼ぶ著者が、そのような「フィールドのアクションのなかで得られた事物の世界へのかぎりない親和性」について「科学」と「宗教」のはざまを巧みにかいくぐってモノ語るとき、私の精神は共鳴ししずかに高揚してゆく。
帰国する前に、メキシコの新聞に残した「わたしがメキシコに来てしようとしたこと」という記事のなかで、古代メキシコのトルテカ族やマヤ族の汎神論的自然観に触れながらアルトーは書いた。
日々新しい原理を発見しつつある近代科学の展開の背後で、別の知られざる力が胎動している。それはいまだ科学の領域に所属していないが、いつの日かそこに仲間入りをはたすような力だ。これらの力は、未開人が知りつくしていた自然のヴァイタルな領域の一部であった。これらの深遠な叡智に対して人々は形式を与えることになったが、そのなかで人間は自分を、一種の「宇宙の触媒」であるとみなしたのである。.....ともかく、ここではそれらの太古の聖なるイデアを復活させることが問題なのだ。それらの偉大な自然崇拝の思想は、しかしいま、もはや宗教的形式としてではなく、科学的なかたちにおいて再生させられねばならないだろう。真の自然崇拝とは哲学的システムではない。それは宇宙のダイナミックな科学的研究手段のひとつなのである。
忘れてはいけない。冒険とは不意に訪れしもののホーリー・ネームである。
不意に訪れ、エスノグラファーの精神を活気づける民族文化の輝くような〈華麗さ(フランボワイアンス)〉。その〈フランボワイアンス〉を、エスノグラファーの個別性が「世界」とつながるその接触点において書きとめること。そして言葉に、それが立ち向かうリアリティーの深度と強度を伝えうる火炎樹(フランボワイアン)のような輝きと力を与えること。
2003.2.10
* 研修最終日。無線の模擬練習。役柄を取っ替え引っ替えしているうちに50代半ばのスギモトさんは緊張のあまり頭がパニクってしまう。「こちらまれびとです。スギモトさんどうぞ」「スギモトです。まれびとくん、どうぞ」「地下駐車場で迷子のお子さんを発見しました。いかがいたしましょうか。どうぞ」 (しばらく沈黙の後)「....三才の女の子。え--と、名前はミユキちゃん」(おいおい、なんであんたが知っとるんじゃ)
あるいは競輪場警備での隠語。「209 泥酔者」「206 スリ」「303 判定不服」「305 苦情者」「204 さわぎ屋」「205 暴力団」「207 コーチ屋」「301 八百長」「202 車券師」「501 現金搬送」「110 爆破予告」.....
そんな頃、チビは自転車の荷台で「おとうさん、シノちゃんに会いたいなあって思ってるかなあ」と呟いていた。
2003.2.12
* いやはや何というか参った。現場の77才になるTさんが今回の退職を不服としていて、「これまでじぶんは一生懸命この仕事に尽くしてきたのに、会社は何の誠実さもない。あほらしくて、正直言ってわしはあんたに仕事を教える気はない」と言うのである。Tさんは昭和元年に岡山の山村で生まれた。3才の頃に母親を亡くし、大阪の叔父の家で育てられた。戦争が始まり、赤紙を受け取る直前にほんとうに父親がいるとはじめて知らされたそうである。その後、大阪の叔父さんとおばさんは空襲で亡くなり、岡山の父親も復員して10日後に病で亡くなった。それからTさんは親類の世話でどこかの寮の賄いの仕事に就き、そこで奥さんと知り合った。鹿児島の気性の荒い女性だったが、あんたのこういうところは良いからずっと大切にした方がいい、だけどこういうところはもう少し直した方がいいと指摘してくれたことが、その後の人生でとても役立ったという。子どもはなかったが、連休をとって夫婦で日本全国をドライブするのが趣味だった。唱和40年頃には二人で東京へ出て一週間、はとバスを乗りつづけた。はとバスのガイドを手に、明日はこのコースに乗ってみようと話し合ったのが愉しかったという。現在の職場に就いたのがいまから9年前で、すでに奥さんはなく、天涯孤独の身だった。それから今日に至るまで、Tさんは盆・正月の休みも返上して深夜の大学の校内を歩き続けた。警備室の奥にある4畳半の休憩室に家財道具を持ち込み、そこがTさんのつつましい自宅となった。大学側もそれを便利として、警備以外の便所掃除や電球の取り替えや教室のセッティングなどのあらゆる雑務をおしつけ、ときおり昼間にTさんが自転車で食料の買い出しに行くときもジャスコの館内放送で呼び出すことも幾度かあったという。会社側もそうした業務内容も勤務状態も把握せず、長いことほったらかしの状態であったようだ。「わしは会社のためや、銭金のために働いてきたわけじゃない。学校のみんなのためと思ってずっと働いてきたのだ」とTさんは言う。いわば、天涯孤独のTさんにとって、大学はわが家のような存在なのだ。おなじ下請けで入っているクリーニングの業者や食堂関係の人たちは親しき友人であり、帰りがけに気軽に声をかけていく教授たちは優秀な息子であり、巡回の途中でひとりひとりドアをノックし「なにか異常はないか。風邪引くなよ」と声をかける寮の学生たちは孫のようなものなのだ。今回のTさんの退職話にあたって、教職員組合と下請け業者の人たちの間でTさんに仕事を続けて貰えるよう嘆願書を出す話ももちあがっているという。そもそも今回の話は、去年の春に新しく赴任した総務課長とTさんとの折り合いが悪くなったことに端を発しているという。私は話をしているうちに、このTさんが好きになった。できることなら、この人に仕事を続けさせてあげたいと思うようになった。クライアントである大学側が高齢を理由に交代を希望し、雇用している会社側がそれに同意した状況ではTさんの退職はすでに避けられないものなのかも知れないが、少なくともじぶんがTさんから仕事を奪い取る役目はしたくないという気持ちが強くなった。Tさんは、じぶんがほんとうに体力的にも限界を感じたら、じぶんからそれを申し出て、潔く後任の者に後を譲る。だがこれまで積み重ねてきたこの仕事を一方的にじぶんから取り上げようとするのは納得ができない、と言う。Tさんにとって、大学はたんなる職場ではなく、いまや家庭であり、生きる糧のようなものなのだ。いつかは誰かが、バトンを手渡さなければならないのだろう。それは今なのかもしれない。けれども私はTさんがこのまま深夜の校内を歩き続けて、いつかどこかの暗がりで人知れずくたばる光景を夢見たのだった。つれあいにも相談し、悩んだ挙げ句、私は職を辞することにした。会社側は再度Tさんに退職と仕事の引き継ぎの件を納得させたと言ったが、私の気持ちは変わらなかった。理由を聞いた事務所の若い担当者のFさんは訳が分からないといった顔をしていた。制服を返還した事務所からの帰り道、若草山を間近に望むだだっ広い平城宮跡地の公園にバイクをとめ、しばらくぼんやりと煙草をふかした。願わくば例の嘆願書が功を奏して、Tさんがあと1年でも2年でも、いまの場所にいられることができたらと思った。帰ったら、滞納している家賃と電気料金の督促状が郵便で届いていた。私はきっと大馬鹿者なのだろう。
2003.2.15
* 深夜の静まりかえった警備室の明かりの下で、あのじいさんが夫婦ではとバスを乗り回した遠い昔をなかば涙を浮かべながら話すのを聴いた私には「どうせじいさんは辞めさせられるのだから」というようには考えられなかったよ。じいさんを馬鹿にしている? あるいはそうかも知れない。私は逃げただけなのかも知れない。くだらん感傷に過ぎない? 結構だ。何とでも好きなように言ったらいいさ。「どうしたの。とても暗い顔をしているわ。いい仕事が見つからなかったから?」 彼女が遠慮がちに訊いてきた。「もしもだよ。もしも他に何の理由もなくて、ただあの人に対する気持ちだけでぼくが辞めたいと言っていたら、きみはそれでも賛成した?」 しばらく考え込んでから、彼女は顔を上げた。「きっと、おんなじだと思うわ」 私は糞の如く愚かで無価値な人間だが、この人を路頭に迷わせるようなことは絶対にしない。この気持ちは、あのじいさんに対する気持ちとおなじ種類のものだ。笑わば笑えよ。どちらにしろ、この不様な荷物はきみが背負うものではあるまいて。私の気持ちは変わらない。
2003.2.18
* あれから退職した警備会社の担当氏から、せっかく4日間の研修を受けたのにこれではお互いにモッタイナイからアルバイトで駐車場の仕事があるんだがやらないか、という電話を頂いた。そもそも会社の指定先を珍妙な理由で拒否したのだからクビになって当然なのだが、有り難いお話である。私と同年代らしい独身の担当氏は研修の昼休みに私とつれあいの馴れ初め話を聞いて「師匠ができた」と喜んでいたのでもしやその辺の絡みによる温情ではないかという勘繰りはもちろん冗談だけれど、今回の一連の騒動で生じた会社への一抹の不信感は残るもののこちらも生活が火の車でまこと明日をも知れぬ身だから、しばらく考えてから結局これを受けることにした。担当氏はさっそくスケジュールを組んでくれ、一日おいてあさってから、車で30分ほどの某ベビー用品店駐車場での勤務である(以前にチビの買い物に何度か行ったところだ)。これでまた辞めてきたら、こんどは石でも卵でも何でも好きなものを投げつけてくれ。
今日からつれあいの両親が泊まりに来ている。昼前に着いて、西大寺の方の喜光寺というお寺で盆梅展をやっているのを見に行きたいと言うので、私もちょうど(一度は返した)警備の制服を西大寺にある事務所へ貰いに行く約束があったので、バイクで合流していっしょに見てきた。場所は西大寺の南、第二阪奈道の入り口付近、駅で言うと近鉄の尼ヶ辻がいちばん近い。喜光寺は721年に行基によって創建され、東大寺造営に際してこの寺の本堂を参考にしたという言い伝えから「大仏殿の試みの堂」として知られているという。盆梅展はこの喜光寺と、道を挟んだ反対側にある菅原天満宮の二カ所に会場を分け、それぞれ参観料500円づつを払う。私は盆梅などという高尚な趣味は分からないので義父母らと並んで歩きながらひたすら「ウーーム。ウーーム」と唸っていただけで、あとは平安時代の阿弥陀仏を覗いたり、境内にある石仏を人形に見たててチビを遊ばせたりしていた。寺の名前がつけられた味噌煎餅の出店のおばちゃんがチビをひどく気に入ってくれて、試食の煎餅を両手に持ちきれないほど握らされたチビは至ってご満悦であった。
2003.2.19
* 若い父親であった私の話。
ある年の秋の夜、私はやっと歩き始めたばかりの幼い息子と海岸に出ました。いまにも大粒の雨が落ちかかってきそうな天候でした。風が強く海も荒れていて、暗い水平線の向こうから大波がどうどうととどろきながら、岸に押し寄せていました。
どうしてそんな嵐の前のような夜の海岸に、幼児を連れて行ったのか、自分でもよくわからないのですが、その当時、私は世の荒波にさらされ続けて、顔を上げて生き続ける気力を失いかけていたのです。何となく海を見たくなり、幼い息子を連れて行きました。
海岸道路に車をとめ、息子を抱いて砂浜に降りたとき、息子に海は初めてだ、と気づきました。しかも荒れる暗い海。きっと怯えて泣き出すだろう、と思いました。
ところが砂浜を波打際へと近づいてゆくにつれて、息子は一向にこわがらないどころか、激しく動く波と雲をおもしろがって、私の腕の中から上体を海の方に乗り出すのです。とくに大波が水際でどおっと砕けて、白いしぶきと泡が濡れた黒い砂の上にひろがるのを、息子はよろこびました。
下におろしてくれ、という様子です。砂浜の高いところにおろそうとすると、もっと波打際へ、という身振り。波打際まで三メートルほどのところに息子をおろしました。もし予想外の大波が来たら、すぐ抱きかかえられるように、傍に立って。
息子は暗い波打際に立って、じっと海を、次々と押し寄せる波を、波が音をたてて砕けるのを、見つめていました。
と不意に、息子が笑い出したのです。小さな体をゆすりながら(波の動きのリズムに合わせて)、声をあげて笑いました。心からうれしそうな、そう文字通り弾けるような明るい笑いでした。
日頃ょく笑ぅ子ですが、こんな心からの、というより体じゅうでの笑い声を聞いたことはありませんでした。すばらしい笑い声でした。おとなを喜ばせるための笑いではなく、本当に自然な、純粋な笑い声そのもの。私もそれほどの笑いを笑ったことは一度もなかった。
いつのまにか私も息子と一緒に、海に向かって、波に向かって、風に向かって、渦巻く雲に向かって、笑い出していました。一緒に声をあげて笑ってみると、息子がなぜ笑い出したか、わかるような気がしてきました。
おもしろいからでも、おかしいからでも、うれしいからでもなくて、いま海と空を駆りたてている自然の生き生きと激しいナマの力が、自分のなかにひそんだ力と同調し、強め、弾けさせるのです。いつのまにか自分が意識のまわりに見えない壁を幾重にも張りめぐらしているのがわかりました。その壁が笑い声とともに、次々と砕けて散りました。するといっそう生き生きと、荒れる夜の海と空に漲る力が私のなかに入りこんでくる。
息子の高く細い笑い声が、海のとどろき、風のうなりより少しも弱くない。おされもかき消されもしない。同質だからです。海を荒れさせる力と息子を笑わせる力とが、同じものだということが、はっきりと感じとられました。波の音が息子の笑いを誘い、息子の笑い声がさらに風を呼ぶのです。さらさらと打ち震える息子のやわらかい髪の動きが、部厚い雨雲をいっそう激しく渦巻かせるのです。
それは音であり声であり力であり震動であり、どんな大きな波の砕ける音よりさらに大きな、力強い、そして途切れることのない何かです。それが海を、夜を、人間を生かしている。この世界を成り立たせている。
大波の間を滑らかに泳ぎまわるイルカのように、海と空のとどろきのなかを自在に縫って聞こえてくる息子の笑い声。人間は本来、この世界とその変化を成り立たせている深い力と交感できる能力をもっている。それは決して優しくも美しくも明るいだけでもないけれど、心の底から、体じゅうで、私たちを笑わせることのできるような生き生きと弾んだリズムなのだ。
そんなことを鮮やかに感じました。
その夜から私は顔を上げて生きるようになりました、どんな運命の風にも。
一歳の息子の思いがけない笑い声のために。
日野啓三「Living Zero」世界という音---ブライアン・イーノ
2003.2.20
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