■日々是ゴム消し Log26 もどる
昨日は野迫川へ。朝、6時過ぎにバイクで家を出た。市街も気持ちよくすいている。橋本から丹生川の渓流沿いのコースをとる。なんて気持ちがいいんだろう。緑のトンネルのような曲がりくねった小径に、早朝の木漏れ日が小雪のように降り注いでいる。物言わぬ植物たちに囲まれているのは、私にとって、いつもしずかな祝祭だ。道すがらに見つけた“五光の滝”に立ち寄った。バイクを停めて50メートルも登ると、まるでもう深山のような小さな谷間に、すっとひと刷毛で描いたような優美な滝が流れ落ちている。川や滝の水の流れには、心地よい催眠効果があるように思う。人の五感が目覚めたまま眠りに沈むのだ。そして滝というのは、やはり山の秘所のような特別な場所なのだとも思う。高野山へ向かうコースから離れ、筒香の集落を抜け、“止山”の立て札を横目に森々と人気のない今井峠を越えて、野迫川へ着いたのは8時半頃だった。
午前中は屋根の部材のこまかな仕上げ。Kiiさんがチェーンソーでカットした部分に、曲面カンナをかけていく。それから水で濡らしたカネダワシでこすり、全体を磨き上げる。こまごまと残っていた皮や汚れが剥がれ落ちて、なめらかで美しい木肌が現れてくる。私が好きなのは、このシンプルな即物性だ。複雑なことばも理屈も何も要らない。ただそこに木があって、黙々と汗を流してそれと格闘すれば、私たちは素朴な自然の褒章を与えられる。午後はこれらの完成した部材をログの屋根に上げた。ログと足場の間に搬入用の仮板を渡して、Kiiさんがユンボで吊り上げた部材を私が上で受けとり、ロフトの中へ引き入れるのである。最後の2本は重いのでKeiさんにも手伝ってもらった。汗でしとどに濡れたTシャツの背中を、Keiさんが面白がってデジカメで撮影した。
作業の合間に、大阪に住む老ご夫婦が訪ねてきた。すぐ近くの別荘地に、Kiiさん言うところの“従来工法”で家を建てたのだそうだ。もう70に届くのではないか、好々爺然としたいかにも職人風のご主人はもともと家具などをつくる大工さんだったそうだが、家は自分でつくり、そこに入れる家具は既製のものを買ったのだという。話題は先頃行われた村の草取りの共同作業のこと。地元住人だけでなくログや別荘の人間にもお声がかかったのだが、当日の参加者は少なく、翌週になったら別荘地にはどっと人が来たというご主人の話に思わず笑ってしまう。もちろんKiiさんは腕の手術から日が浅かったにもかかわらず、きちんと参加して草刈り機をふるった。村の話と言えば、あとでKiiさんから聞いたこんな話が印象的だった。山ひとつ越えた“お隣さん”の家のおばあさんは、50年前にほんの数キロ先の別の集落から嫁いできたのだが、いまだに「わたしはよそから来た人間ですから」と言うのだという。う---ん。こういう感覚は町育ちの私には理解するのが難しい。
釣りの話も出た。Kiiさんたちはよく、いわゆるフライ・フィッシングの人たちのキャッチ・アンド・リリース(釣った魚をふたたび川に戻してやる行為)の偽善について語る。客寄せに放流した魚相手にそんなことをして自然を守るみたいな顔をしているのは大きな勘違いで、キャパシティの問題ならば、周囲の山をもっと整備(自然木を植えるなど)して魚が棲める流域を増やしてやるのが正論というものだ、と。私もいつだったかテレビで、釣り人がそのキャッチ・アンド・リリースをしてから「環境にやさしいですから」と得意げに喋っているのを見て思わず、嘘くせえなあ、と感じたものだ。野迫川から車で小一時間ほどの天川では、地元の漁業組合が釣り人のために養殖の岩魚を毎年放流して、その影響で従来種である岩魚の「キリクチ」が少なくなってしまったそうだ。だから天川の川はもう自然の川じゃない、とKiiさんは言う。私がもし魚の身であったら、何度も何度も釣り針に口をひっかけられるのは痛くて堪らないだろうし、それ以前に、じぶんたちが人間のそんな偽善の皮をかぶった終わりなきゲームの対象にされているということ自体が耐え難い屈辱であると思うことだろう。アイヌやイヌイットの人たちのように、獲ったら食うのだ。本来自然というのは、そういうものだ。なぜならかれらにとって、「食う」ことはきっと「愛する」ことと同義なのだと私は思っているから。キャッチ・アンド・リリースにあぐらをかいている調子のいい釣り人連中には、そんな「ほんとうの愛」がない。だからかれらの環境うんぬんといった類のセリフは、うすっぺらで空寒い。「愛がなくちゃね」とその昔、渡辺美奈代ちゃんも歌ってたぜ。
お昼はタラの芽などの山菜も加えた天麩羅と、ミョウガとシソをたっぷり入れたざる蕎麦。夕方になってKiiさんがドラム缶の露天風呂、いわゆる五右衛門風呂を沸かしてくれた。一応レディが一名いるので、ブルー・シートで囲いをつくって脱ぐ。こんな山中の野外で、生まれたままの素っ裸になるのは開放感があって何となく気持ちがいい。ドラム缶は側面も熱が伝わって熱いのではないかと思ってしまうが、そうでないのが不思議だ。すっぽりと湯に身を沈める。谷から引いた水は、どこかやわらかい。それにブルー・シートでやや隠れてしまっているが、見わたす限り緑と青空の絶好のロケーションだ。Kiiさんがコップに注いだビールを持ってきてくれる。いや、もう最高ですな。この次はチビも入れてやりたいものだ。いったい、どんな顔をするだろうか。そんな極楽風呂からあがって、日中は地獄のように暑かった空気もちょうど和らいできた。夕食はスペア・リブをメインにしたバーベキュー。イカの丸焼きもある。それとビール、ワイン、焼酎のオン・ザ・ロック。山の宴の夜は深くしずかに暮れていく。ランプの灯りに小さな羽虫や蛾、カミキリ虫、カメ虫、カナカナなど、多くの虫たちが吸い寄せられてくる。ときどき灯りを消して、夜空や山の暗闇を眺める。夕べは見事なほどの天の川が見れたというが、残念ながら今夜は雲が多い。私はアルコールは控え目で、途中からもっぱら自家製のドクダミ茶ばかりを頂いていた。独特の香りもすっと軽やかで、これが実に旨いのだ。Keiさんは珍しくしたたかに酔っ払ってしまい、「おい、おい。泊まって行かないのかよお。あんたの新しい布団も買ってきたんだぞお。おら、おら」とまるで愚連隊の姉ちゃんのようにからんでくる。この手の酔っ払いには、あまり関わり合いにならぬ方がよい。いや、私は今夜は、あの真夜中の熊野川の道をひとりバイクで走りたい気分なのであって、それは朝から決めていたことなのだ。
たぶん、もう11時頃だったと思うが、静かに微笑むKiiさんとすでに足許もおぼつかない愚連隊Keiさんに見送られて、野迫川を発った。いつものように熊野川にかかる橋の上にバイクを止め、玲瓏たる月明かりに照らされた深い山の静謐をしばらく眺めた。天辻の古びた長いトンネルでは、まるでアンジェ・ワイダの「地下水道」を走っているような気がした。近道をした五條郊外の暗い農道で、検問中の警察官たちに止められた。暗闇から●゛●●゛●のごとくぞろぞろと出てきた。息を吐いてくれと言われ、仕方なく従った。「どちらに行くんですか?」「奈良です」(そういえばここも奈良なのだ)。「どちらから?」「野迫川ですけど」。「そりゃ遠いところから...」「ログ・ハウスをつくってましてね。その手伝いに行った帰りで」「ほう」。それから警官のひとりが後ろのナンバーを覗き「水戸ナンバー、か」「それは前の住所で。まだ変えてないんです」(って、もう8年間もそのまんまだ)。結局、無罪放免となった。控えていたとはいえ、40度の焼酎も啜っていたからちょっと心配したのだが、私の息はきっと芳しきドクダミの薫りで充たされていたのだろう。
2002.7.28
* 昨日は夕方、四日市に住む友人が突然訪ねてきた。見当をつけて四日市から野迫川まで車を走らせたものの、午前中の作業を終えたKeiさんたちはすでに帰り支度をしていたそうで、もちろん私もいなく、こんどは預けていたプランターが気になってわが家へ立ち寄ったというわけである。プランターは、友人が8月の頭に長野の田舎へ数日帰るので、それまで引き続き預かることにした。Keiさんにもらってきたドクダミ茶を啜りながら、ひとしきり友人が静岡で受けてきた林業研修の話などを聞き、それから後はいま話題のマイナスイオンや浄水器のこと、冷房と人の汗腺や自律神経の話、水道の塩素や最近のUSJの不始末の話などで盛り上がった。友人は化学の専門的な知識があるので、たとえばマイナスイオンについても「あれはもともと滝口で落下する水の分子が....」などと詳細に説明してくれるのだが、私はたいていその半分も理解していない。友人に言わせるとマイナスイオンというのは実際は甚だ怪しいものなのだそうだ。「とかく科学的なイメージの衣をかぶせられると、人は簡単にころっと騙されてしまう」という言葉は、私も同感である。正しい知識や批判精神の欠けた科学は、たんなる信仰に過ぎない。この国では「健康」もそうだ。いくらケア・アンド・キュアしたって、魂が腐ってたら何にもならんだろ。要するに何でもイメージなんだよな。今朝の新聞でも「夢が売り物のUSJでの出来事に“お前もか”とショックを受けた」という女性客のコメントが載っていたけれど、そんな「夢」だなんてホントに信じていたわけ? 「東京ディズニーランドで、人々はチケットを買い、モノを食べ、おみやげを買う。カネを使うこと、それが消費型社会での“人間性回復”のひとときなのである。そして、そのひとときが終わると、人々のハッピー気分は消え失せる」(ディズニーランドの経済学・栗田房穂 高成田亨・朝日文庫) しょせん、そんなものだろ。お互いに了解済みで騙し騙されている関係なんだから、ショックなんてあり得ないんじゃないの。あいつらは金儲けで、おれたちは薄っぺらなハッピー気分をカネと交換する。しょせん、その程度の「夢」だろうが。今回の一連の騒ぎで取材攻勢に苛立ったUSJの担当者が「法律違反でもしてるっていうのか」と声を荒げたという話が、すべてを物語っている。 ところでマイナスイオンだが、日曜の新聞に載っていた天野祐吉氏の「CM天気図」が面白かった。
だいたいあの“マイナスイオン”とかいうのは、ナンなんだ。「あなたのお部屋はマイナスイオンが足りない」なんて、ヒトの部屋にヘンな測定器を持ち込んで空気を調べたり、ヒトの血液を採って「マイナスイオン不足であなたの血はねばねばしている」なんて顕微鏡をのぞいてみたり、朝からそんな番組が多い。
で、そんなふうに部屋のマイナスイオンを減らしているものに、家のなかの電化製品があるんだそうな。だから、部屋のなかのマイナスイオンを増やすには、電化製品を使うのをなるべくおさえながら、マイナスイオン発生機能つきの電化製品をうまく利用するといいなんて、いったい、ナンのこっちゃ、それは。
そう言えば、マイナスイオン発生機能つきのクーラーやらドライヤーやら掃除機やら浄水器やら、このところ、CMにもそのテの商品がやたら目立つ。まるで番組とCMが談合して、世の中に「マイナスイオン不安症候群」をはやらせようとしているみたいである。
(02.7.29付朝日新聞 天野祐吉・CM天気図)
これはほんとうに私が書きたいと思っていたそのまんまで、実際、これ以上書き加えることは何もない。あえてひとつだけオチを書き足すとしたら、じつはわが家でもしばらく前につれあいがマイナスイオン発生機能つきのドライヤーを、ぜひにという彼女の要望で購入したのであった。後日に友人の説明を聞いて、ややしょげていたのけれど。
野迫川で山菜入り天麩羅の残りとKeiさん特製の極辛夏野菜カレーをたっぷり頂いてきたので、昨日からそれらを交互に食べている。一日二食にして、天麩羅は卵でとじて丼にする。自家製のドクダミ茶の葉っぱもたくさん頂いたのだが、これはうちのチビのためで、内臓にいいそうだからしばらく飲み続けてみたら、というKeiさんのご配慮である。直腸障害は神経の問題であるから効き目の程はあまり期待できないと思うのだが、せっかくだから試してみようと思う。Keiさんご夫婦はうちのチビを、まるで本当の孫のように可愛がってくれる。Keiさんは「シノラー」だと自称しているが。
今日も一日、徒労に暮れた。私はときどき、かつての奴隷市場で売買される黒人のような気持ちになる。おじさん、あたいを買わない? 一回、五千円でいいからさ。と、路地の暗がりでマッチ売りの少女のご開帳。数日前、つれあいの友人の若い女性から電話があった。彼女はよくわが家にも泊まりに来たりしていたのだが、この頃はしばらくご無沙汰になっている。半年ほど前に、私の生活態度を非難して怒って帰っていった。そんなふうにつれあいの友人たちから見たら、私は家族のことを考えないひどいロクデナシに思えて仕方ないのだろう。そして実際、そのとおりなのである。私はここで、ときにエラそうなことを書いて、ときにひとかどの人間のように思われることもあるが、それらは言ってみればすべて虚像に過ぎない。人はじぶんに都合の悪いことは書かないものだし、主義主張だけで生きているわけでもない。たとえばうちのチビと同い年くらいの女の子がいるアパートの隣の夫婦は、表向きこそふつうに挨拶や会話も交わすが、長いこと家でぶらぶらしている私の存在を、なかば薄気味悪く思っているのが私には分かる。いつか公園の砂場でチビを遊ばせていたとき、やはり孫を連れていた隣家の実家のバアさんといっしょになった。そのときバアさんはうちのチビと並んで砂遊びをしていた孫に向かって「○○ちゃん、今日はお父さんは?」と尋ね、「かいちゃ、いった」と子どもが答えると、一瞬、何とも言えない爬虫類にも似た視線を無言のまま私に注いだのだった。だが私はかれらのことを悪く考えようとは思わない。それは仕方がないことだと思うのだ。ただ私は他人からそんな奇妙な目で見られると、ほんとうに自分がそんな人間で、そのままずるずると落ちていってしまいそうな気持ちになり、必死でそれに抗おうとする。落ちていくまい、と思う。
ジャクソン・ブラウンの Late For The Sky を聴いている。あのスコセッシーの映画「タクシー・ドライバー」で、この曲が流れる場面を思い出している。若きデ・ニーロが孤独なアパートの部屋で、おのれの肉体をひたすら鍛えていたあの場面を。
2002.7.29
* ひさしぶりに仏教書の類などひもといてみる。すると、こんな言葉が目にとびこんでくる。
カミは-----それをここでは魂、こころと同一視するのであるが-----生活の場の周辺に出没している。山にも、石にも、木にもカミが宿っている。カラスのカミもあれば、トカゲのカミ、ネコのカミもあるし、もちろん人間には人間のカミがある。これらのカミは、それぞれの生物、無生物のかたちと深くむすびついている。ケシ粒、ゴマ粒のようなものではない。カラスのカミはカラスそのものである。黒ずくめの衣裳をまとい、悪い声でなく鳥、それがカラスであり、カラスと呼ばれるカミである。カミは個物を離れない。それなら、カラスのカミとトカゲのカミは別なのかというと、そうではない。同じカミである。このいい方には矛盾がある。しかし、カミの場に参与して、そこから見ると、矛盾はない。柄と地の関係を思いうかべていただきたい。同じカミ、同じ地から、カラスが誕生し、トカゲが誕生したのである。大地という絨毯のなかの模様として、山があり、樹があり、鳥と魚が生きてそこにいるのである。空中から科学のフィルターをかけて写真をとれば、それらの形だけがうつる。しかし、地に参与してそこから見ると、カラスとトカゲもひとつの魂、ひとつの心を共有しているように見える。心というものを、私はこのような性質をもった場所だと思っている。個物に宿り、宇宙にひろがっている場所。
(道元の見た宇宙・岩田慶治・青土社)
カミ、こころ、魂といったものはさながら一枚の絨毯のようなもので、柄から見ればそれぞれ別々の模様を成しているが、しかしおなじ一枚の地を共有している、というのである。
なぜ、人生はすべて対立からなっているのか、疑問に思ったことがあるだろうか? なぜ、大切なものはすべて一対の対立の一半なのだろうか? なぜ、決定はすべて対立のあいだで行われるのだろうか? なぜ、あらゆる欲求は対立に基づいているのだろうか? すべての空間と方向が対立であることに、お気づきであろうか。上下、内外、高低、長短、南北、大小、ここ対そこ、頂対底、左右。また肝心なことはすべて、一対の対立のひとつの極であることにお気づきであろうか。善悪、生死、苦楽、神対悪魔、自由対束縛。
事実は単純だ。われわれが争いと対立の世界に住んでいるのは、われわれが境界の世界に住んでいるからである。すべての境界が同時に戦線だというところに、人間のおかれた苦しい立場がある。つまり、われわれが抱えている問題の大半は、境界とそれが生み出す対立の問題なのだ。
(無境界 自己成長のセラピー論・ケン・ウィルバー・天河出版社)
ケン・ウィルバーはそれを、たとえば次のような喩えで説明する。
あなたは人間であり、椅子ではない。あなたにそれが分かっているのは、意識的あるいは無意識のうちに、人間と椅子のあいだに境界線を設けているからである。つまり、「自分自身」ということばを吐くときには、自分であるものと自分でないものとのあいだに境界線を引いていることになる。要するに「あなたは誰か?」とは、「あなたはどこに境界を設けますか?」という意味である。
これとまったくおなじことを、道元の「正法眼蔵」をひいて岩田慶治は書いている。
こちら側に自分の身体があり、向こう側に山河大地、つまり自然がある。こちら側に頭と手足があり、目、耳、鼻、口があって、向こう側に森羅万象がある。世界がある。宇宙がある。そういう構図を考えた上で、こちら側、つまり主体が、向こう側、つまり客体に働きかける。主体と客体あるいは環境との相互干渉の場-----といっても近代になってからは殆ど一方的に、主体が環境を統御しようとしているのであるが-----一般にこのようにとらえられているわれわれの生活の場を、道元はそういう風には見ていない。それを見る場所がちがう。視点がちがう。したがって見え方も違うのである。
では、道元の見ていた風景とはどのようなものか。岩田は続いて「正法眼蔵」第七 一顆明珠の巻より、足指を路傍の石にぶつけて悟りを得た唐のある禅師の話をひく。
足の指と石がぶつかる。血が流れ、「痛い」と叫ぶ。そういう出来事があった。こういう現象は、よくあることで何ら怪しむことはない。日常の、ごく普通の、柄としての出来事である。しかるに、玄沙はこの出来事を、非日常の、地のなかの出来事としてとらえた。
足の指を石にぶつけて血を流し、猛烈な痛みを感じた。その痛みのなかに自分自身を放擲したのであるが、次の一瞬、その痛みのなかから自分と虚空とが同時に誕生したのである。忽然として、自分の身体と虚空とが同時に存在している事実をそのまま肯定したのである。自分を虚空がうけとめ、虚空を自分が背負っている。そういう事態の本質が疑いようのない事実として現前したのである。
だから、こちら側に身体があって、向こう側に虚空、あるいは世界があるというのではない。「忽然」という一瞬のときにおける誕生、あるいは同時存在の全肯定が出発点なのである。
興味ふかいことであるが、折口民俗学では魂の外在説をとなえている。生のエッセンスである魂-----こころといってもいいが-----が、肉体の内部にあるのではなくて外部にある、そういうのである。この折口説をさらに一段と拡大解釈すると、こころ(魂)とは右にのべた同時誕生の場所、身体の外部にあるヘソの緒の場所なのだということになって、道元の考えに近づいてくる。
はじめの玄沙大師の話にもどれば、足の指が小石にあたって血を流し、その衝撃のなかで大悟したという。その大悟の場所が、石のこころであり、玄沙のこころである。あるいは、そのこころの場所から、石と玄沙とが同時に誕生した。その事実を玄沙が肯定した。そういいたいのである。玄沙と石は兄と妹であり-----奇妙ないい方であるが-----ヘソの緒の所在を同じくするものであった。
ところで日本語の「自然」という言葉について、河合隼雄はその著書「宗教と科学の接点」のなかで次のような説明をしている。
実のところ、そのような客観的な対象としての「自然」などという概念も、また言葉も、もともと日本にはなかったものであり、nature という英語に「自然」という訳語を当てたために多くの混乱が生じることになった (柳父章・翻訳の思想「自然」とNATURE・平凡社)。
「自然」という用語は、従って、「オノズカラシカル」という意味で用いられ、それは「自然(じねん)」と発音されることとなった。(*本来的にそうであること、もしくは人間的な作為の加えられていない、あるがままの在り方を意味し、必ずしも外界としての自然の世界、人間界に対する自然界を意味しない)
他と自分とを明確に区別し、他を客観的対象とし得るような自我が成立し、その自我が「自然」を対象として観察し、そこに自然科学が発達することになったのである。このため、「自然(ネイチャー)」は西洋において科学の対象となるし、「自然(じねん)」は東洋において宗教のもっとも本質にかかわるものになったのである。
(宗教と科学の接点・河合隼雄・岩波書店)
そうして河合はあの水俣病の闘いに触れ、次のような短い、意義深い感想を述べる。
水俣の悲劇について、石牟礼道子は「文字のいらない世界と文字の世界との衝突」として捉え、いかに水俣病の被害者とチッソ側との交渉がすれ違ったものとなったかを記述している。(門脇佳吉・鶴見和子編・日本人の宗教心・講談社) それは自然(じねん)の顕れとして「海」を見ている人と、自然(ネイチャー)の一部として「海」を見ている人との間のすれ違いのくり返しなのである。
これとまったくおなじ光景、およそ百年ほど前に海の向こうの大陸で繰り広げられた光景が、いま思い浮かぶ。「合衆国」の白人たちが強大な軍事力をもとに土地を譲れと迫ったとき、あるネイティブの一族の誇り高きチーフは次のように語ったのだった。
この申し出はどういうことなのか
わしらの土地を買うだって?
白人が買おうとしているものは本当はなんなのかと
わしに従う者たちは聞くだろう
わしらには理解できないのだ
どうやったら空気を売ったり買ったりできるというのか?
大地の暖かさを売ったり買ったりできるものだろうか?
わしらには想像することさえ難しい
この甘い空気も
沸きあがっている泉も
もともとわしらのものなんかじゃないとしたら
どうやってあなたがたはわしらからそれを買うというのか?どうにもわしには理解できない
わしらの道はあなたがたの道とは違っているのだ
それでもわしらがわしらの土地を売らなくてならないのなら
あなたがただって知らなくてはならない
この空気がわしらにとって価値のあるものであることを
この空気が息となって伝わり
地上の一切の生命を今日まで保ってきていることを
わしの曾祖父に生命を与えた風
この風はまたわしらの子どもたちにも生命を与えていることを一切のものはひとつに結ばれている
一切のものはつながっている
地球に起こることは
そのまま地球の子どもたちの身の上にも起こる
人間が人生の綱を編んでいるわけではなく
かれもまたその綱の一本の糸にすぎない
人がその綱に対してすることは
とりもなおさず自分自身に向かってしていることなのだ話を冒頭の、カミ、こころ、魂のくだりにもどそう。
ユングは晩年にテレビ番組のあるインタビュアーから「神を信じていますか?」と問われ、じぶんは何も信じない、何かを知っているか、知らないかだと答え、さらに「わたしは神を信じる必要がない。知っているからです」と言った。ユングが唯一明かしているかれの神概念は次のようなものだが、それは西欧の一神教の神概念というよりも、むしろ素朴なアニミズムか、仏教の曼陀羅のイメージのそれに近い。
わたしが心に描いている、わたしの内部にもその他あらゆる所にも住んでいる、言うなれば善悪を超えた神という非正統的な実体をあえて表現するならこうです。Dens est circulus cuius centrum est ubique, cuius circumferentia vero rusquam (神は円である、その中心は偏在し、その円周はまことにどこにもない)
(ユングと聖書・W.G.ロリンズ・教文館)
晩年に書かれた自伝のなかで、ユングは次のようにも記している。私はこのかれの言葉がとても好きだ。
人生は、その根茎の上に生きている植物のように私には思われる。その真の生活は見えず、根茎に隠されている。大地の上に現れる部分は、ただ夏しかもちこたえない。それからそれは枯れる-----束の間の幻影なのである。われわれが生命と文明の限りない成長と衰退を考えるとき、絶対の無という印象から逃れることができない。それでも私は、永遠の流転の下で、生きて持続している何ものかの感覚を決して失ったことはなかった。われわれの見るものは花であり、それは過ぎ去っていく。根茎は残っているのである。
(ユング自伝・ヤッフェ編・みすず書房)
さて、いまいちど岩田の書く道元にわれわれは還る。
古仏いはく、尽大地これ解脱の門なり、尽大地これ毘盧(びるしゃな仏)の一隻眼なり、尽大地これ自己の法身なり。いわゆるこころは、真実とは、まことの身となり、尽大地を、われらが仮りにあらざりける、まことしき身にてありけるとは知るべし。(唯仏与仏)
自分のほんとうの身体(形なき真実体)は実は大地なのであり、それがそのままで毘盧舎那仏の眼だというのである。それが仮りの身体でない、真実の身体だというのである。
全身これ一隻の正法眼なり、全身これ真実体なり、全身これ一句なり、全身これ光明なり、全身これ全心なり。(一顆明珠)
柄から地に参与する。そしてそこから眺めわたす。そうするとすべての風景が一変するのである。
心とは山河大地なり、日月星辰なり。(即心是仏)
心は外在するのである。そして宇宙に偏在するのである。
ここにはものの隔てがない。争いも差別もない。柄から地に参与する。しずかな山の小径にひとり座していると、風にひるがえるあの樹々の葉も、さえずる鳥たちも、木漏れ日を浴びて輝いている濡れた地面も、この私とどれほどの違いがあるだろうか、と思う。私というものが拡散し、周囲の物象と混じり合い溶けていく心地がする。「私とは誰なのか?」と問われたら、これらすべてだ、と答えるだろう。
紫乃さん、きみに伝えたいのは、そのような世界だ。
2002.7.30
* 午後から天川・黒滝周辺の、ほとんど車も通らぬさびれた山道ばかりを気狂いのように走りまわってきた。気狂いのように、というのはまさに字義どおりで、気狂いはたいてい人界の果てた深山に、哀れな顔をして棲んでいる。
others に、「9.11 アメリカ同時多発テロについて考えたこと」をゴム消しよりまとめた。
2002.7.31
* 今月(8月)いっぱい、当サイトのすべてのページにおいて、いわば夏休みを取ることにした。Webサイトというのは言ってみればオタクの玩具のようなものである。のめり込もうと思えばいくらでものめり込める。ちょっとでも反響があれば、調子に乗ってさらにのめり込む。歯止めが効かなくなる。思えばここ一、二年ほど、私は純粋なる自己満足で書きたいことを勝手に書き継いできたわけだが、それによって多くの時間をパソコンの前に座ることに費やし、家族や生活を多少なりともないがしろにしてきた。そのようなつもりはなくとも、つい、バランスを失う。このごろは主に深夜にパソコンの前に座るのだが、そのために子どもや彼女といっしょに床に就くということがほとんどなかった。子どもに寝物語を語る余裕を失くしていた。寝ついた子どもの寝顔を眺めながら、彼女と二人でとりとめのない会話をする時間さえ惜しんだ。これはそもそも本末転倒というものだ。私は書きたいこと、考えたいこと、意思表示したいこともたくさんあるのだが、その前に私は私の家族を仕合わせにしなければならないのだ。何よりもそれが優先なのだ。そして本当の言葉は、きっとそのような場所から生まれてくる。このあまりにも単純自明なことを昨日の夕方、私はバイクで通りかかった静かな山村で、ランニングシャツ姿で小さな娘に寄り添い家の前の道端で夕涼みをする(おそらく一日の仕事を終えた)父親の姿を見たときにふいに気づかされたのだった。この一年以上もの短くはない月日の間に、私は家族の生活を不安に晒し、なけなしの蓄えを食い尽くし、しなくてもよい僅かな借金さえした。家族を慈しむことを忘れていた。私はまこと、愚かであった。気づくために遠回りをし過ぎた。しばらくパソコンの画面から離れて、私はもういちどあの鄙びた山村で見たような、あのような美しく素朴な光景に立ち戻りたい。じぶんの足元をもういちど静かに見つめ直してみたい。そうしてこんどは、無理のない形で、このような駄文をぽつぽつと書き継いでいきたいと思っている。
道元はある日説法のためにいつものように堂へあがり、ある僧より「如何なるかこれ奇特の事(この世でいちばんすばらしいことは何でしょう)」と問われたとき、次のように答えた。
百丈(ひゃくじょう)云(いわ)く、「独座大雄峯(どくざだいゆうほう)」。今日(こんにち)或(もし)人あって、永平(わたし)に如何(いか)なるかこれ奇特(きとく)の事(じ)と問わば、ただ他(かれ)に向道(い)わん、今日鼓(く)を鳴らして陞堂(しんどう)すと。
[訳文]百丈が言うには「わしが、この百丈山に独坐していることだ」と。今日もし永平(わたし)に、この世の中で、いちばんすばらしいことは何か、と聞くものがあれば、わたしはそのものに言おう。今日、法鼓を鳴らして上堂することだ。
[語義]○百丈---百丈懐海(749-814)。馬祖道一の法嗣。 ○奇特の事---いちばんすぐれたこと。すばらしいこと。 ○大雄峯---百丈山の別名。
[付記]この世の中でいちばんすばらしいことは、ただ平生(へいぜい)の生活のうちにある。百丈は百丈、永平は永平、その生き方は異なるにしても。
(道元禅師語録・鏡島元隆・講談社学術文庫)より
というわけで明日の夕方、彼女とチビを迎えに行ってくる。
2002.8.1
* 子どもは一ヶ月ぶりの脳外科と泌尿器科の定期検診。これはいわば「記録」でもあるので、「夏休み」の例外として記しておく。
脳外科は特別な話はない。ただY先生よりいきなり、「紫乃ちゃんのお父さんはホームページをつくってらっしゃるそうですね」と切り出されて、つれあいは少々面食らった。何でも、娘の病気に関する私の拙文を読んでY先生のもとを訪ねてきたおなじ二分脊椎の10ヶ月の赤ん坊を持つ親御さんがいたそうで、Y先生もこのサイトを覗いてみたらしい。病気の記述に関しては「冷静に、こちらの伝えたことをほぼ正確に書いている」とお褒めの言葉を頂いた。他にもいくつか見させてもらって、いろいろ文化的なことを書かれているけど、何かそんなお仕事をしているのか、いつ頃からそんなことを書いているのか、とあとはもっぱら私の話で終始したとか。
泌尿器科では、最初の検査ではなかった膀胱の麻痺がしばらく前の検査で認められたということは悪くなっているのかというつれあいの質問に対して、病気そのものははじめからあって、症状の出方が違ってきている、という医師の返答があった。それから泌尿器科では毎月、おしっこを取るためのカテーテルという管を200本近く、消毒薬の大きなプラスチック瓶を4本、消毒薬を浸す脱脂綿の入ったティッシュほどの箱を数箱貰ってくるのだが、これはベビーカーに子どもを乗せ、大きな手提げのママ・バッグを持ったつれあいにはかなりしんどい荷物である。それで近くの薬局で同じものを入手できないかと訊いてみたところ、カテーテル以外のものであったら、あるいは「調剤薬局」と記された薬局でなら取り寄せられるかも知れないので、近くで探して訊いてみたらよい、と言われた。
続いて三カ月ぶりのリハビリ科。今回は簡単な診察だけだが、月末よりふたたび週一回のリハビリが始まる。ところでここでも、以前に患者の会でいっしょに琵琶湖のペンションに行ったお母さんと会って話をしていたところ、もう一人の見知らぬお母さんから「紫乃ちゃんって、お父さんがHPを書いている方ですか」と言われて、ふたたびつれあいは面食らった。どうも二分脊椎の患者さんの間でうちのサイトは相当浸透しているらしい。そのうち講演の依頼でもくるかも知れない(んなもの、くるわけないだろ)。そのお母さんのお子さんはやはり脂肪腫切除の手術を二回して、さらに両足の筋肉を入れ換える手術を整形外科で最近行ったらしいのだが、もともとの変形がきつかったようで、かかとがわずかに浮いてしまう形であるらしい。脂肪腫の手術の後で張り付け着をしたとき「ああ、これが(私の拙文で読んだ)例のやつか」と思った、とか。
昨日は夕方、Keiさんご夫婦がわざわざ仕事帰りに野迫川で採れたスモモを持ってわが家へ来てくれ、いつもご馳走になってばかりだからとなかば強引に誘って、私のパスタとディル入りポテトサラダの夕食を食べて頂いた。何せグルメのお二人だから、私はいつにもまして念入りにつくったのである。チビもたくさん遊んでもらった。
そのチビは和歌山の実家にいる間に、またずいぶんいろんな言葉を喋るようになって、毎日私たちを笑わせてくれている。向こうに行ってから食事の終わりに「ごはん、ごちそうさま。さかな、ごちそうさま。まめ、ごちそうさま。おちゃ、ごちそうさま」といったえらくご丁寧なごちそうさまを覚えてきた。
最後に先日、ダメもとで送ったある美術関係の会社宛ての履歴書に添えたつまらぬ作文を、ここにあげておく。
●カンディンスキーの目
「“絵画”は一瞬のうちに視力をとおしてものの本質をあなたに示す」と、かのレオナルド・ダ・ヴィンチは言ったそうだ。あるいはセザンヌは、「本来の自分になって、絵画になる」と記した。絵を見るという行為は、まさに人が、絵画そのものになるということなのだ、と言うのである。「絵画とは“目がはまってゆくひとつの深淵、もの音たてぬ芽生え”」(セザンヌ)
若き日のカンディンスキーがクロード・モネの積み藁をモチーフとした連作に衝撃を覚え、その後のかれの抽象絵画の原点となったことは、そのような意味において多分に示唆的な光景であるように思う。モネは“何もない野原の積み藁”を、異なる季節、天候、時刻に訪れるさまざまな光の“交差する場所”として描いた。「“瞬間性”、そして何よりもその外観、おなじ光があらゆる場所に広がっている」とモネが書いたその同じような視線によって、若きカンディンスキーは素朴な積み藁の内に抽象絵画の原風景、発芽の苗床、印象の彩られた創造を、“絵画そのものになって”体験したのである。
音楽が空間(和音)と時間(旋律)によってそのドラマを成り立たせているように、カンディンスキーの絵画も空間の分割と統合、色彩の配置と組み合わせ、そして点と線と面・光と色と形といった要素などを微妙にもつれあい響き合わせながら、ひとつの大きな交響楽的空間を構成している。線のうちの最も単純な要素、毅然とした長い直線と弾力を秘めた未確定な曲線について、かれは「この二つのものの色々な組み合わせ-----ここには無限の可能性がある」と語っている。“無限の可能性”、これこそがダ・ヴィンチの言う“ものの本質”であり、あらゆる絵画が私たちに投げかける光ではないだろうか。
Jasper Johnsの中で武満徹は記している-----EYEからちっぽけなIを削りとること、と。
2002.8.6
* 和歌山県湯浅。施無畏寺の明恵が修行した山頂の大盤石に座り放心していた。蝉には蝉の宇宙が在る。不思議なものでじっと意識を寄せていると、樹の間に隠れた蝉の姿がふいと見えてくる。そのように私たちは、たくさんのものを見過ごしているのかも知れない。
昨日は京都の職安までバイクで走った。今日は頂いた野迫川のすももで午前中、ジャムをつくった。「赤毛のアンの世界みたいだね」とつれあいが覗き込んで言った。明日は朝から野迫川へ手伝いに行ってくる。棟上げが間近だ。来週末には祝いの宴がある。東京から腐れ縁の友人も新車のプジョーに乗ってやってくる。
2002.8.10
* 日曜は朝5時に起きて野迫川へ。なかなか取れない甘皮をグラインダーで削り、ロフトのホゾ穴をドリルとノミでいくつか開けた。夕方、汗と木屑だらけの身体をドラム缶風呂で洗い流してから、Keiさんがピーター・ポール・アンド・マリーの古いCDをかけた。ひさしぶりに聞くかれらの音楽に、たぶん麦酒の酔いと山の自由な空気も手伝っていたのだろうが、ぼくは何やら急にひどく懐かしく熱い気持ちに襲われて、夕食の支度をしているKeiさんに、10代の頃にはじめての武道館でピーター・ポール・アンド・マリーを聞きに行ったこと、そのときいっしょだった友人が後にクラシックのギタリストを目指したこと、ウディ・ガスリーやディランのことなどを饒舌になって喋った。Keiさんにでなく、ほんとうはぼくはじぶんの過去に向かって喋っていたのだ。話しかけずにはいられなかった。あのときいた友人たち、馬鹿騒ぎや語らい、音楽に向かって。夕闇の戸外に置かれたCDラジカセの曲が「冷たい戦争 Cruel War」に変わったとき、ぼくは急に黙りこくって、その悲しげなメロディにじっと耳を澄ました。
あのときぼくがそこにいたのが正しかったのなら、いまぼくがここにいるのも正しいことなのだろう。そしてぼくらはいつも、ひとつだけ多すぎる朝 One Too Many Mornings を抱えてきた。
2002.8.12
* 15日の木曜は前の晩から友人と二人で野迫川へ泊まり込んで、ログの建て前を手伝ってきた。午前中に屋根の骨組みがすべて組み合わさった。中空にそそり立つ真新しい杉の柱は、まるで古代の神殿のように美しかった。みんなで生ビールで乾杯した。
Kieさんより無農薬100%の柚子酢を頂いた。焼酎に氷を入れ、この柚子酢を注ぎ、野迫川で汲んできた湧き水で割ると、これが格別に旨い。
送った履歴書が戻ってくるたびに、私はときにじぶんの全人格を否定されたような気持ちになる。この世でおれは不必要な人間なんだな、と思う。そして不思議だが、それが正しいことのようにも思える。私が企業の経営者であったら、私はきっとじぶんを採用しないだろうと思うのだ。つれあいの実家へ行ったときに義母から、見返してやろうという気概はないのか、と言われた。そう言われてみると、私にはそんなものは微塵もないのだった。浮き世のことだという感覚なのかも知れない。
ディランのフォーク時代の曲に It Ain't Me, Babe という歌がある。「会えばいつも花を用意して、心までも差し出してくれる、おれはそんな男じゃない。おれはきみが望んでいるような、そんな男じゃないんだ。だからこの窓から好きなように出ていってくれ」という歌詞だ。ディランの歌はいつも、のっぴきならない場所から、己を救い出すための切実で悲しい歌だ。ぎりぎりの譲歩だ。
私は他人の期待には何も応えられない。私はただ、じぶんの心に誠実でいることしかできない。
「とうしゃん、おいで。いっしょに、ネンネ」と布団に寝転がったちいさな娘が微笑んで言う。彼女のこんな無邪気な期待にだけ、私はいつも応えられる。
2002.8.16
* 17日より東京の悪友が愛車のプジョーに乗って泊まりに来ていた。18日は野迫川にて宴会。20リットルの生ビールをみんなで飲み干し、夕刻には娘とドラム缶風呂に入った。酔っ払った悪友とKeiさんの「男と女について」の壮絶なバトルにみな笑いころげた。19日はわが家と悪友で吉野山へ。奥千本のさらに深山にある侘びしい西行庵を訪ねた。霧深い大峰の奥駆けに連なる山道はすでに異界の趣だった。先を行く友人とつれあいから離れて、幽明なる杉木立の間を娘と二人で歩いた。20日は橿原にある被差別部落の資料館と神武天皇陵に隣接する強制移住させられた80年前の村の跡、益田の岩船などを案内した。連日、夜更けまで酒を飲み交わし、悪友は20日の深夜にひとり帰っていった。
金欠の身を憐れんで友人がヴァン・モリスンの新しいアルバムをプレゼントしてくれた。「あの心配性で孤独なホームシック・ジョーンズが待ちかまえる道。ニューオーリンズのブルースにつかまってしまった道。ジプシーの声が呼びかける道。その道をすすんでいく」 モリスンは何も変わらない。いつものブルース、いつもの抗い、いつもの憧れと確信だ。目新しいものは何もない。いつかとおなじブルースを、またべつの勇気と軽やかさで跳びこえる。おなじ魂を抱いていた古い音楽たちが踵をそっと持ち上げてくれる。新しい何かを見つけるのでなく、古ぼけた己を再発見する。そしてやわらかな円周をなぞるように、馴染みの道にいつも帰っていく。「かれには他に何もないから、かれのままであり続けるしかない。長い一日をもがき続けなくてはならない」 だが目指す場所は決まっている。憧れは麦畑を吹き渡る風のように駆けていく。モリスンの音楽は、そのような音楽だ。そしてそれ以外、何があるだろうか。
2002.8.22
* 20日には3ヶ月ぶりに子どものリハビリがあった。歩いている子どもの姿を見たM先生は、予定通りだ、と。足の成長と共に装具が合わなくなってきたので、新しい装具を作ってもらうことになり、それまで装具は付けなくていことになった。外を歩かせるときは靴の中に装具を付けていて(それをしないと足首が安定せずよく転ぶ)、その靴もやや窮屈になってきたので買い換えようかと言っていたのだが、それもしばらく見合わせることにした。代わりに、左足の親指が人差し指にかぶさってしまう癖を矯正するために、両方の指の間に脱脂綿様のものをはさんでテープで固定するように指示された。これは昨日つれあいが、余り切れで親指にサックをするような工夫をこしらえたのだが、すり足で歩いているうちに外れてきてしまうために、今日はさらに紐をつけて足首で結わえるようにしてみた。他にはやはり左足の踵を左右からつまみながら土踏まずを押し上げるマッサージも教えてもらってきた。
リハビリ室でつれあいは、手術の時におなじ病室だった懐かしい顔に再会した。出生後に水頭症と二分脊椎の手術を受けたK君とまだ若いお母さんである。いまは岡山から新幹線で病院に通っている。K君のお母さんは再会をひどく喜んで、とってもお話がしたかったんです、とつれあいを病院内の食堂に誘った。K君は脳から脊髄に渡したシャント(管)の具合はその後良くなったが、喘息とアトピーが出てきたのだという。それから、うちとおなじように導尿も始まった。K君のお母さんはこの導尿にひどくショックを受けたようで、きっと何かの誤解もあると思うのだが、地元の病院で親しかった母親がK君が二分脊椎だと知ってから話をしてくれなくなった、と言う。そして足の装具も、なるべく人前で見せないようにしているのだという。うちはどこででも装具を見せているし、病気のことを知っているスイミング教室の他のお母さんたちも子どもをひどく可愛がって親切にしてしてくれている。そんなことを書いたつれあいの年賀状を見てK君のお母さんは、じぶんもそんなふうに強くならなくちゃいけない、と思ったそうだ。またK君の両親は子どもがふつうの小学校に入れるかどうかということも調べたのだが、(K君のお母さんいわく)岡山では福祉政策が遅れていて、導尿は医療行為と見なされるために学校内ですることができず、従って入学が認められないのだという。わが家でもそろそろ幼稚園のことを考えているが、やはり導尿があるために二時間おきにつれあいが幼稚園へ行かなくてはならない。またそろそろこの年齢ならオムツ離れもして自由に歩けるようになり親の手荷物も軽くなるところだが、導尿があるためにどこへでかけるにもオムツと導尿の支度が要り歩行もまだ自在ではないので、結局いつまでもベビー・カーをついて重い荷物を持って移動しなくてはならない。小学校の方は、あるいはそれまでに子どもがじぶんで導尿をできるようになれば問題なくなるかも知れない。ともかくK君の両親は、岡山でいちばんはじめに二分脊椎で入学が認められる子になるよう頑張ろうね、と言い合っているのだという。
来月には2歳になり、さいしょの反抗期を迎えているチビはこのごろ、じぶんの主張というものが強固になってきた。叱られたり、夜中に突然「アイスが食べたい」と言い出してダメだと言われたりすると、遊んでいた玩具をそこら中に放り投げて抵抗の意思を見せる。「そんな感情的になってモノを放り投げたって何にもならないだろ」と言いきかせながら、父は逆に言っている己が恥ずかしくなってくるのである。
昨日は夕食後、台所にじぶんで運んできた椅子の上に立って私が皿を洗っているのをじっと眺めていたのだが、やおら「おとうしゃん ! 」と叫び、「キレイキレイ、します」と言ったのには驚いた。
2002.8.23
* 大峰の修験道につらなる奥吉野のいにしえの道を娘と手をつないで二人きりで歩いていたとき、それは同行したつれあいと友人が先で立ち止まり待っていたほんの数分のことだったが、深山の苔むした杉木立は霊気のような霧に包まれ、さながらこの世あらざる異界のとば口のようだった。小さな娘は道端から私が引き抜いて与えた笹の一枝を片手で振りまわし歩いた。私はまるで、私たち親子は鬼の子のようだ、と思ったのだった。そして鬼の子なら、これ以上堕ちることはあるまい。何だって好きなことをやってやるさ、とうそぶいた。
2002.8.23 深夜
* モリスンのアルバムを聞いていると、気持ちが軽くなる。それは代わり映えのない親しい音楽たちが、これまでと変わらず新鮮にシャッフルしているからだ。それは20年ぶりに出くわした小学校の同級生が昔とちっとも変わらないままでいたのと似ている。それは土に埋もれた縄文時代の石片がいまも何かを語りかけてくるのに似ている。人が死んだときに見あげた夏空が毎年のように蘇ってくることと似ている。そういえばもうじき父の命日だ。命日などどうでもいいが、あのとき見あげた夏空は覚えている。暑く、ぎらぎらした、狂おしい夏空だった。The Beauty Of The Days Gone By だった。いまもあのときとおなじ風に吹かれている。のっぴきならない場所で風に吹かれている。
2002.8.24
* もういちどこの身を、あの吹きさらしの荒野に置いてみようか。満月の下で砂を噛み酩酊しようか。Georgia On My Mind をそこで口ずさもうか。それともディランの Don't Think Twice, It's All Right で軽く流してみせようか。熊笹に身を臥し、朝露を啜ろうか。それだけの価値が、まだこのおれには残されているのか。アブサンを飲んで帰った夜更け。この心の臓を皿に乗せて窓辺に置き、ひとりしずかに眺めている。
2002.8.25
* ひとり山道を歩いていたら、ふと足元に生き死にの深い亀裂が横たわり、頭上にもまた生の儚く狂おしい衝撃が在る。木枠で括った古眼鏡で見れば、単に死んだミミズに蟻が群がっていて、蝉が鳴いていただけのことなのだが、昔、上野の博物館で買ったベーコン展の図録で、画家が道端の犬の糞を見て深い哲学的洞察を行うというくだりなんぞを思い出す。そんなことは実はどうでもいいのだが、先日の野迫川の宴でしとどに酔っ払ったわが悪友が「男をなめるから塩釜港に捨てられちまうんだ」と無惨に殺された女子高生を哀悼していたのは正しかった。男、というよりも、すべての人間が抱えている闇、である。おれだって女子高生くらい殺せるぜ、と叫びながらドブにはまった今宵。救いを期待したが毒を盛られた、純心を捧げたが軽蔑で報われた、というディランの歌の一節がなぜか脳裏に浮かんだ。
2002.8.26
* 山へ行くのは本物を感じたいからだ。山には本物しかないからだ。ニセモノのじぶんをそこで朽ちさせたいのだ。たぶん、しらじらと屹立する骨になりたいのだ。
2002.8.27
* 子どもは火曜はリハビリ、木曜の今日は新しくつくる装具のサイズ合わせだった。装具は二週間後には仕上がる予定。こんどのは丈が膝下まであるブーツのようなもので、ベルトも頑丈な革製、さらに足と膝下におそらく鉄製の支柱を入れて踵でとめ角度を固定するものになるらしい。皮膚に負担がかからないように足全体に布を巻いて装着することになるから、夏場はさぞや暑かろうと思う。この形はあくまで一過性のものだと思うが、リハビリの先生いわく、子どもはおそらく一生装具が必要になるらしい。やっぱり付けないと駄目なんですかとつれあいが訊くと、つけなくても歩けることは歩けるだろうが本人がしんどいでしょう、との答えが返ってきた。
排尿と排便、そして装具。子どもはこの三つと一生涯つきあっていかなくてはならない。陽気にふざけている子どもの顔を見るたびに、それが思い出されて、不憫に思う。それを知ったあとでも、この無邪気さを失わずにいて欲しい、と思う。そんなふうに、強くなってくれよ、と願う。
夜、NHKのにんげんドキュメント「ムツばあさんの花物語」を見る。過疎化が進む秩父山中の小さな集落。戸数5、住人9人、平均年齢73歳。昭和40年代に上流に建設されたダムへ続く道が出来て以来、人々は町へ仕事を求め、若者もまたその道を通ってむらを捨てていった。かつては養蚕で栄えたそんな村の先祖伝来の桑畑に、78歳と76歳の老夫婦は毎年せっせとさまざまな木や花を植え、山を自然へ還そうとしている。自然は可愛い、何もかも忘れさせてくれる、いつか通りがかった人が足を止めて愛でてくれたらいい、と老婆は呟く。まるでこの世の桃源郷のような、うつくしく悲しい風景だった。
職安を覗きに行った天王寺の本屋で中上健次の文庫を一冊、買った。ひさしぶりにかれの文章を、骨にすり込むように読みたい、と思ったのだった。
山から切り出した材木を、ふもとに運ぶ。皮をはぎ取った丸太を山の斜面にそってふもとまで並べた。それも一仕事だった。なるたけ、曲がり角がなく丸太を並べた軌道が直線になるようにしなくては、何十石もの材木の重さの木馬は、角を曲がりそこねると、木馬ごと軌道からとび出し、谷底に落ちてしまう。それで、何人もの木馬引きは死んだ。頭をくだき、腹を裂き、肉のかたまりになった。軌道を案配よくつくると、次は木馬の組み立てだった。軌道に木馬台を置き、材木を積み上げ、かずらでくくる。それだけだった。肩引きで引く。後は死ぬも生きるも、木馬棒一本にかかった。その棒で梶(かじ)を取り、ブレーキをかける。
「これじゃ、これ」と彼は笑って、木馬棒をふる。「死ぬも生きるも、これのためじゃ」
「生命あって木馬棒も使えるのと違うんかい」
「なにを、怖(お)じくそは」彼は言った。「カカも、女郎も、この木馬棒を待っとんのよ。男は、なんのために、男じゃ」彼はそう答えた。ひとつ間違うと、生命を落とす。片輪になる。なり手のない仕事だった。くいつめ者かハンパ者の仕事だった。いつも瀬戸際に立っていた。生きるか、死ぬか。生きてまた女を抱くか、死んで肉のかたまりになるか。
(中上健次・浮島 1975)
2002.8.29
* ざらざらとしたモノが首筋をつたう感触で目が覚めた。ざらざらとしたモノは細い手首にくくりつけられた藁草履だった。手の平には指がなかった。死装束のような白い巡礼姿の女が身を屈めている。女は目の部分に穴を穿った袋のようなものを頭からすっぽり被っていた。かったいの巡礼か。男は心中、呟いた。湯の峯はここから一昼夜も歩けば着く。女の手首にくくりつけられた湿った藁草履が男の身体を拭っていた。女の背後に、暗い木立から覗いた灰色の空が見えた。あるかなきかの尾根道も見えた。あそこから滑り落ちたのだな。男は思い出した。そしてこの谷底でしばらく気を失っていたのだ。落ちるところまで落ちたのだから、と男は考えた、もうこれ以上落ちることもあるまい。蝉の声ががらんどうのような男の内部で響いた。透明な悲しみが樹の間からしんしんと降ってきた。地面は昨夜の雨でぬかるんでいた。しけった杉の皮の匂いが立ちこめている。女の手首の藁草履が、男の股間をまさぐっていた。どうせ嬲られるのなら嬲ってやろうとでもいうように、身体中の鈍い痛みに呻きながら、男はやおら女の上にのしかかった。男の中の何かが爆ぜた。嫌がる女の手を払いのけて頭巾を無理矢理剥ぎ取った。女の顔は、目も当てられなかった。鼻が落ち、片方の目が潰れてかさぶたのようなもので固まっていた。構わず男は女の中へ割って入った。女のそこは潤っていた。乳房は歓びで張りつめていた。ああ、いやでございます、こんな穢れ、かったい。女がはじめて声を洩らした。おれもおなじようなものだ。男は答えた。いや、おまえより劣る犬畜生だ。あるはずもない女の指が男のふぐりを撫でている。あるはずもない女の鼻や耳朶を、男の舌がまさぐっている。男は愛しくなった。切なくなった。そして、泣いた。おれはおまえとおなじようなものだ。いや、おまえ以下だ。おれを助けてくれ。救ってくれ。ああ、いやでございます、こんな穢れ、かったい。噎せるような杉の匂いがした。熊笹がざわざわと怪しく騒いだ。男はかたわらの苔むした大きな石をつかみ、女の頭を何度も激しく打ちつけた。たいし様あ、しょうにん様あ。女は最後にそれだけ呟いて、果てた。死んだ女の中で長々と射精した。蝉の声ががらんどうのような男の内部で響いた。男の髑髏からあふれ出た。
2002.8.30
* 公営団地が当たったのである。昭和50年代の古物件で、子どもの足のこともあってこれまでは1階かせいぜい2階3階までの部屋を希望していたのだが、今回は4階と5階の部屋しか出物がなく、どうせこんども当たらないだろうからととりあえずの気分で4階の部屋で出しておいたらそれが当たってしまった。しかも明日の食い扶持さえ定かでないこんな最悪の時期に。人生とはだいたいそんなふうに出来ている。で、早速日曜に、四日市の友人が出してくれた車で改めて現地の見学に行き、ちょうど内装替えをしていた室内を覗かせてもらい、もより駅や幼稚園までの道のりなどを辿った。
つれあいがいちばん気にしているのは、大阪への通院と3歳から始まる幼稚園までの道のり、それとリハビリ代わりに通っているスイミング教室が近くにあるかということである。通院は最寄りのJRの駅までバスが出ている。校区内の公立の幼稚園及び小学校までは1キロほどで、雨の日などは少々大変だろうが自転車に子どもを乗せて通えないことはない。問題はスイミング教室で、近在のいくつかの施設に電話で聞いてみたのだが、どれも2歳半か3歳にならないと送迎バスがなくて、どこもバスや電車を乗り継いでも不便なところにある。スイミングの効果はリハビリの医師も認めていて、つれあいは折角子どもが乗り気になっているのでブランクを空けずにこのまま継続したいのだが、要するにベビーのクラスはみな母親がマイ・カーで乗りつけているということなのだろう。そしてわが家は車を持たない。おそらくこれから車というモノはどうしても必要になっていくのだろうな。
引っ越しというものは金もかかるものだが、今より一部屋増えて家賃が格段に安くなるのは貧民層のわが家には実に魅力なので、何とか支度金を捻出しようと現在コンビニ強盗あたりを秘かに目論んでいる。さらに公営住宅というものは風呂釜・浴槽・湯沸かし器などは自前で、これも新品で揃えると結構な値段がするので中古品やリサイクル品などで何とか間に合わせられないかと考えている。引っ越し代も金額に差があるようなら友人の手も借りて能う限り自前でやりたいと思っているのだが、つれあいが前の結婚で揃えた高価な紫檀のタンスや鏡台やサイドボードなどは素人ではチト難しい。数日後に書類審査があり、入居は10月からの予定。
というわけで現在わが家では、公営団地サイズの風呂釜・浴槽、それに湯沸かし器の中古品を所望している。どなたか転居に当たってロハか格安で譲ってやってもいいという上記の不要品が出そうな方がいたらぜひご連絡いただきたい。関西近郊なら親類の軽トラでも借りてこちらから取りに伺います。また自分でも探しているが、それらの品を扱っているWebサイトやリサイクルの掲示板などがあったらご教示いただけたら有り難い。また調子ついでに、買い換え等で、どんなボロでもよいから軽自動車をこれもロハか格安で譲ってくれるという神さまのような方がいたらこちらも一報頂きたい。抽選でもれなく私のサイン入り生尻写真を進呈します。
このごろは台所でモリスンの新譜の他に、東京の友人がダビングさせてくれた元ちとせのアルバム「ハイヌミカゼ」をよく聴いている。「いのちがことばにならない」 はじめてそれを聴いたとき、あるいは窒息しかけた現代の巫女の声かも知れないと思った。祈りしか残されていないから、祈りが生きることであるかのように歌う。ただ、欲を言わせてもらえば私は彼女には光でなくもっと闇に、流行でない沖縄という土地の暗がりに沈潜してもらいたい、と願うのだ。根の国に下っていって、ひりひりするルサンチマンを身にまとったような、そんな逆照射の曲をいつか、彼女に歌って欲しい。
図書館で雑誌「世界」9月号に掲載されている高橋哲哉・辺見庸の対談「再論・私たちはどのような時代に生きているのか」を読む。高橋いわく、映画「ゆきゆきて神軍」における奥崎謙三の異様な突出様を批判するのは「後ろ向きの手続き論」に過ぎず、結局「何もできない」ということで収まってしまう。いまさらあえて天皇制を撃とうなどという者なぞいない。むしろいま私たちが必要としているのは、まさに奥崎のような毒なのではないか。9.11の悲惨なテロが世界の取り澄ました表皮を見事に引き剥がしたように。過激なテロに向かって単純にノーと言いきってしまうことが、デタラメな「正義」を臆面もなくふりかざすアメリカ=ブッシュの価値観に組み込まれてしまうことなのだということを、私たちはもっと意識した方がよい。「こんなでたらめに抵抗するのに、“穏当”だとか“バランス”だとか言っているほうが、自分の意味を奪われているのです」(辺見) 「冷静に常軌を逸する」という辺見庸の言葉が腹に刺さった。必読。
子どもが導尿を嫌がって泣いた。次第に興奮してきて、手を引くつれあいの顔を怒って叩き始める。つれあいはされるがままにして子どもを見つめていた。あえて拒みもせず、駄目だとも言わない。我慢して子どもに顔を叩かせている。急に子どもの手が止まったかと思うと、彼女はそれまで叩いていた母親の身体をぎゅっと抱きしめた。じぶんが悪いことをしていたのを、ほんとうは知っていたのだ。小さな身体に抱きつかれながら、つれあいは思わず涙をこぼしていた。
2002.9.2
* 日付が前後するが、先週末の土曜はぶらりと野迫川まで行ってきた。天辻峠にある大塔村郷土館にはじめて立ち寄った。入場料200円の蔵程度の小規模な展示だが、天誅組の歴史や杣人たちの道具、祭りの伝承など、いろいろ興味深かった。花火の掛け声で有名な「鍵屋」がこの大塔村内にある、木地師の里といわれる深山の集落(篠原)の出身だったというのは初耳だった。道の駅から道を挟んだ資料館は隣の茶屋にひかれて時折人が覗くが、有料と知ってたいてい引き返してしまう。丹念に展示を見て回り館を出ると、受付の地元の男性が「えらい、じっくり見てもらって」と嬉しそうに笑い、ありがとうを二度もくり返して言った。
アポなしで立ち寄った野迫川のKeiさんのところでは折しも昼食時で、おにぎりを持参していたのだが、いっしょに煮麺入りの豚汁をご馳走になってしまった。しばらくして車で一時間ほどの別荘地に夕食に招かれているのだが、Keiさんはあまり乗り気でなく、できたらお茶だけで済ませてさっさと帰ってくるから、と言う。夕飯の支度を任された。二人の乗った車を見送ってから、薪をすこしばかり割り、ログの軒先でしばらく昼寝をして、ドラム缶風呂に水を入れ火を焚きつける。夕食はあり合わせの材を見て、ひとつはプチ・トマトで代用した卵ときゅうりの手軽な夏野菜の中華炒めにした。きゅうりは畑からもいでくる。もう一品はすでに解凍していたスズキを使わなくてはならないのだが、そんな高級な魚なぞ私は扱ったことがない。(Kiiさんに言わせると「スズキ」というのは全国でいちばん多いそうだが) シンプルに塩焼きにしていいかと訊くとKeiさんは、単純すぎる、とクレームをつける。ではそもそもKeiさん自身は如何様に調理するばすだったのかと問えば、塩焼き、と言う。............. 。悩みに悩んで、手元にあった西吉野の特大豆腐やエリンギ・しめじなどといっしょにコンソメ・スープにほうり込むことにした。スズキは途中から戻ってきたKiiさんにさばいてもらった。ダシをとるために頭もぶち込む。仕上がりにKeiさんの提案で花ニラを散らした。結果としてこのレシピはおおむね好評であった。他にKeiさんが輪切りにしたレンコンに味噌入りの挽肉を乗せて焼いた酒呑みのつまみを一品。それと畑で採ってきたコゴミの葉をごま油と醤油に浸し、それで白ご飯を包んで食べるのも美味しかった。結局、いつもの40度の焼酎も飲んでしまい、その晩はログで同衾させて貰い、翌日朝風呂を浴びて町へ帰り、すでに来ていた友人の車に乗ってそのまま県営団地の見学に向かったのであった。今回はほとんど何も手伝いもせずに、只食いをしただけだった。気が弛むと私は図々しくなるので反省しなくてはならない。もっともログの方はすでに棟上げを終え、これからしばらくロフトの壁面に使う板引きが続くのだけれど、この板引き台が手製のためにちょっぴり危険で難しい作業でもあって、Kiiさんたちは将来有望な若者の身を案じて手伝わせたものかどうかためらいがあるようなのだ。素人が丸太から板を引くのは至難の業なのだが、これも手元の杉をなるべく活用したいというKiiさんたちのこだわりである。詳しい作業の様子は野迫川倶楽部の週末開拓民のページで見れる。
2002.9.3
* 泌尿器科の待合室で先日、つれあいが話を聞いてきた。一人は29才になる息子の尿を持ってきた母親、もう一人は幼稚園生くらいの子を連れた母親、そしてひとりで来ていた中学生の女の子。みな、うちの子どもとおなじ二分脊椎の病気を抱えている患者である。症状もだいたいおなじような程度で、話も自ずと似通っている。29才の息子さんの場合は、小さい頃から装具を付けて歩くのは痛いといって嫌がり、小学校に上がるときに、本人の希望で車椅子にしてしまった。その際、大阪市の教育委員会と掛け合い、小学校側はかれひとりの入学のために校舎内の各場所にスロープを設置してくれた。またかれが保育園に通うときも行政の担当者が、そのような障害を持った子どもならなおさら早い時期から外部との交流を持たせた方がよいと助言してくれ、実際、大阪ではそのような見地から障害者の子どもの場合、母親が働いていなくても3才から無料で保育園に通えるのだそうだ。
これらの話は、私たち夫婦に二つのことを考えさせた。
ひとつはいま装具を付けてよたよたと歩き始めたうちの娘も、必ずしもこのまま順調にいくものではない、ということである。成長に伴って身体が大きくなれば、それを支える足への負担も増してくる。去年の夏の患者同士の交流会で装具も付けずに軽快に歩きまわっていた小さな男の子が、その後病院で金属の支柱の付いた大層な装具をがしゃがしゃと鳴らして歩いているのを私たちは見た。そしてそのような不自然な補助具は、やはり肉体にとっては苦痛でしんどいものなのである。リハビリの医師によれば、同じ距離を歩くのも健常者より数倍疲れるものだという。私もつれあいも、いまは得意げに歩きまわっている娘の将来の姿を思って、やはり暗澹とした気持ちになる。
もうひとつは、居住地(自治体)における福祉行政の差だ。たとえば先日、引っ越し予定先の役場につれあいが電話をして保育園のことなどを訊いた際、「そういうお子さんなら無理して3才から保育園に入れなくても、家でお母さんが教育をしてからゆっくりと入れてもいいんじゃないか」と担当者が言ったそうだ。本人は親切で言ったのかも知れないが、その奥底にはやはり、規格外の人間はなるべく排除したい、健常者のレベルに合わせてからやってこい、といった意識が透けて見える。なにより前述の大阪市の担当者の話と比べても見事に対照的で、意識のレベルが格段に違う。大阪はやはり人権に関する意識のレベルが高く、それは長い歴史を持った積極的な同和活動や、あるいは在日朝鮮人や沖縄出身の人たちが多く暮らす土地柄なども関係していると私は思うのだが、それに比べると残念ながら奈良は大きく遅れていると言わなくてはならない。実際に障害者手帳における補助も、もろもろの事項で無視できない隔たりがあるのである。また地域的に奈良では障害者の存在は点でしかないが大阪では横のつながりもあり、さまざまな活動や交流も多くある。住環境として私たちはこののどかな奈良の生活を気に入っているけれど、子どもにとっては大阪がいちばん暮らしやすく学びやすいのではないか、今回当たった県営住宅はステップにして後々は大阪へ移ることも考えようか、何よりこの子の将来がいちばん大事なことだから、とそんなことを深夜まで夫婦で話し合ったのだった。
その後つれあいは、以前に書いた岡山から通っているK君の家族にまた病院で出会った。K君はこの暑さにも係わらず、悪い両足部分をすっぽりオクルミでくるまれていたという。あれじゃ子どもが可哀相だわ、周囲の目なんか気にせず親はもっと強くならなくちゃ、とつれあいは言った。彼女も、強くなろうとしているのだ。
引っ越しがほぼ確実となり、いろいろとごたごたしている。先日は役場まで書類審査に行って書類の不備で二度も往復したし、今日明日と複数の引っ越し業者が見積もりに来る。月末には入居説明会があり、鍵が渡される。引っ越しは10月の頭を予定している。もろもろの手続きが現れ、もろもろの書類が入り用になり、もろもろの用事ができる。風呂釜も探さにゃならんし、引っ越し費用も工面しなくてはならない。仕事も早いとこ決めなきゃならぬ。ついでに腐りきったこの魂も切り刻んで、臓物煮にでもしなきゃならぬ。
2002.9.7
■日々是ゴム消し Log26 もどる