■日々是ゴム消し Log25 もどる
しばらく前に大阪の書店で熊野に関する或る写真集をめくっていたところ、「かつて十津川には水葬の風習があり、それらの死体が本宮の大斎原に流れ着いた」といった記述を見つけ、胸が騒いだ。大斎原というのは明治の大水で流されるまで熊野三山の本宮大社が古来より鎮座していた中州で、かつて一遍などもかの地で霊験を覚え、いまも熊野のヘソのような特別な聖地として存る。ゆったりとした彼岸のような白く美しい河原で、私の好きな場所でもある。
十津川や、とくに熊野に関する伝承はこれまでそこそこに接してきたつもりだが、水葬の風習、そして大斎原がその夥しい死者たちを迎えた漂着地であったというのは初耳であった。それから図書館などで気がついたときに熊野や葬儀に関する本、あるいはその地方の村史や郷土資料などを漁ってみるのだが、はっきりと「水葬の風習」を語っている資料は皆無に近いのである。どうやら水葬や風葬といった風習に触れることは、ある種の禁忌=タブーであるらしい。
たとえば十津川の村史にはこんな記述が見える。
○埋葬した所(墓)にアッパ石という川原の白い石を目印に置く。あるいはそうした川原の石を、死人の名を書いた紙で包み、棺の上にのせる。
○同じ理由で、川原の白い石を家内に持ち込むことを嫌う。
○葬式の日に知らすとて、川原で白い石を拾うが、一度拾いあげれば決して捨ててはならない。これは葬式が了うてから墓の上におく。
これなどは川原が異界=非日常の空間として捉えられていたことをよく物語り、ひょっとしたら水葬の名残をとどめた風習であるかとも思えるが、確証はない。石については、たとえばこんな説明がある。
折口信夫によれば、一般に玉、石、骨、貝など、素質はそれぞれ違っていても、みな玉という語で引っくるめられるものは、いずれも神あるいは人間のたまというものと同じだと考えられており、石には魂がこもっていると考えられている。抽象的なたま(霊魂)の「しむぼる」が具体的なたま(玉)に他ならない。
(折口信夫・石に出で入るもの)
熊野地方の水葬・風葬の風習について唯一収穫だったのは、ある図書館で見つけた「神仏信仰事典シリーズ5 熊野三山信仰事典」(加藤隆久編・戎光祥出版・1998)という大部の論文集である。ふたつほど引く。補陀落渡海に象徴される熊野の常世観や、イザナミノミコトの墓の伝承がある熊野市の花の窟について論じたくだりである。
ところで、熊野地方が常世国へ通ずるとする思想を惹起するに至るその根底には、この地方に行われていたと思われる水葬の習俗が強く作用していたと言える。熊野一帯は古墳が極めて少なく死者をいかなる形で葬ったか疑問であるが、この一帯は海に近く、古来水葬が行われていたとするのが最も妥当である。
(熊野信仰の源流を探る・加藤隆久)
いまその例をあげる煩いを避けるが、この花の窟にも風葬と納骨の伝承がある。それは土地の人々によって控え目がちながら、経筒や人骨が出たそうな、といって語られる。
(熊野神話と熊野神道・五来重)
くり返すが、水葬や風葬といった(未開の?)風習に触れることはある種の禁忌=タブーであるらしい。かつてこれらの話を野迫川倶楽部のログ作業の合間に披露したところ、Keiさんは「そういうのって、とても進んだ考え方だと思う」と言った。Keiさん自身は野迫川の庭に植えた白樺の根元に散骨して欲しいのだそうだ。私の父や祖父母の墓は千葉の都営霊園にあるが、関西に来てからはほとんど墓参は行っていない。私の母は常々、墓は要らない、どこか山野に撒いてくれたらいい、と言っている。浄土真宗の信仰が厚い義母なども、それと似た考え方のようだ。「先祖の墓だから大切に参っているが、ほんとうは死んだらみんな仏様になって浄土へ行くのだから、本願寺さんに小さな骨片だけ預けたら、もうそれでいい」と。私自身も、死んだら骨は大峰山の山中にでも撒いて欲しいと思っている。そして実は、墓なんてほんとうはなくったっていいんじゃないか、とも思っている。
親しい者の遺体を川に投げたり、窟に晒して鳥たちに啄ませたりするのは、ひどく残酷で無神経で、非文明的で未開な習俗じゃないかとする意識が、現代に暮らす私たちにはあるようだ。だがほんとうにそうなんだろうか。実はそうした感性というのは、大いなる自然への信頼、雄大で円環的な自然観に裏打ちされているのではないか。人に限らずあらゆる生命は死ねば土に帰る。私たちがそれを残酷で野卑なことだと感じるのは、そのような豊かな自然観を実は自らの内から放逐し失ってしまったからではないだろうか。つまり、私たちの「上等さ」が言わせるのではなく、私たちの内なる欠落が、それらを未開で残酷な風習だと言わせるのではないか。
熊野の水葬の風習を知り私が「胸騒いだ」のは、熊野三山のひとつの重要な聖地が、かつて醜く膨れあがり腐乱した夥しい遺体の漂着地であったという、その逆転のイメージであった。私はそこに、穢れも聖なるものも共に混濁としていた、自然本来の原初の風景を夢想したのである。あるいはそのような場所では、あらゆるものを分離し境界を設け争いあう私たちの社会とはまったく異なる、別のシステムが存在したのではなかったろうか、と。
最後にもうひとつだけ、サンカという、かつて昭和の初期頃までこの国の山野を漂泊していた幻の民の葬いに関する習俗を引いておきたい。著者のサンカ論は虚実ないまぜになった代物だとの批判も多いが、近代というシステムからこぼれ落ちていったかれらの死に様に寄り添うように書かれたこの記述は、私にはとても気高く美しい文章であるように思える。
セブリ族は、明治7年ごろまでは風葬(シナドオクリ)が多かったのである。それを「アノモドリ」ともいふ。アノは天空のことである。この風葬の思想は、人間の霊魂は太陽に帰るものとして、その霊を尊び、死体をナキガラとして尊ぶのである。これを網籠に入れて、人目につかない川の上の樹上につるして風化させるのである。これが彼ら社会の死人を祭る最高の儀式であった。ここに特筆すべきことは、彼らには死を悲しんではならぬといふ慣習があることだ。死を悲しむことは、仏教入国以来のことで、生あるものはいつかは天空に帰ってゆく、それを悲しむのは真理ではないとする考え方である。だから、これを神として祭るのだといふのである。神々を「トドロキ」といふ。神は高きにも低きにも「トドク」といふ思想から、死人のことを「トドキ」になったといふ。トドロキにトドイタ意味。
「三角寛サンカ選集6 サンカ社会の研究」(三角寛・現代書館)
2002.7.2
* 子どもは朝からつれあいと大阪の病院。泌尿器科と脳神経外科とリハビリ科。私も行って話を聞きたかったのだが、まだ足がままならぬ。リハビリ科は歩行の状態が気になるので予約外で診察してもらった。成長によって装具が少しばかり合わなくなってきているらしい。あさっての木曜にもういちど業者の人にも来てもらい、現在のものを手直しするか、あたらしく作り直すか決めるという。脳外科のY先生はコトバの成長も歩くのにも驚いて「ひと月ですごい成長ぶりだ」と。泌尿器科は、おしっこを自分から言い出すのはただの興味かほんとうに尿意を感じているのかいまの段階では分からないが、強制しない限りのトイレ・トレーニングは別段構わないとのこと。今日は和歌山のつれあいの実家の両親も大阪で合流し、いっしょに天王寺の近鉄で遅い昼食も食べてきた。子どもはジイちゃんに抱っこをねだり、バアちゃんが申し出ても「ジイちゃんがいい」と言ったとか。ジイちゃん好き? と訊くと「ダイスキ ! 」と答える。
私は朝から家の網戸を掃除したり、玄関の外の地べたに置いていた椋鳥のヒナのダンボール・ハウスを猫などに襲われないように台所の窓の格子にくくりつけたりしてから、98円の特売の卵を買いに近くのサティへ買い物に行き、昼は冷凍していたカレーの残りをひとり食べ、しばらく前述の熊野の水葬に関する文章などを書き、3時頃から夕食の支度を始めた。今日は昨日スーパーで2パック百円のしめじを買ったので、季節はずれかも知れないが水上勉の「精進百選」にあったしめじご飯(しめじと揚げ)を炊き、他にじゃがいものそぼろあんかけと、納豆にシソと刻み沢庵と生卵と湯がいた豚肉を混ぜたオリジナル・スペシャル納豆をこしらえた。
夕刊で毎週欠かさず読んでいる連載「桂枝雀の人生」を読む。文芸批評を読む。日野啓三氏の「落葉 神の小さな庭で」を読んでみたいと思う。他には日曜の書評欄で見た中沢新一の「緑の資本論」と、日本の盲目のオルガニストだという武久源造という人の「新しい人は新しい音楽をする」もちょっと読んでみたい。ときどき、死ぬまでにあとどれくらいの本が読めるだろうか、と爺臭いことを考えたりする。
夕刻から、あまりの暑さに今年はじめてのクーラーを入れる。クーラーはあまり好きじゃないが、こんなむしむしとした暑さの時にはやっぱり有り難いものだと思う。つれあいも子どもも病院めぐりで疲れたのか、布団の部屋へ移ると二人ともすぐにすやすやと眠ってしまった。今夜はMacの iTunes でサンタナのCDなんぞを久しぶりに聴いている。
2002.7.2 深夜
* 差別戒名のことをはじめて知ったのは、たしか20代の頃だったと思う。関東の実家で働きもせず親の臑を囓って毎日、バイクで山へ行ったり図書館へ行ったりしていた頃に、「差別戒名の歴史」のようなタイトルの、やけに古めかしく分厚い本を借りてきて読み、衝撃を受けた。差別戒名というのは、いわゆる被差別部落などの「穢多・非人」といわれた人たちの戒名に、当時の寺の僧侶たちが一般の人間と区別するために、たとえば畜生の「畜」や(牛馬の屠殺等の革産業に従事していたことを示す)「革」の字や、通常の漢字からわざと一画抜いた文字などを入れたものである。それらはほんとうに、人間の精神の暗闇を見事なまで露呈している歴史的事実であり、そうしたいくつもの(胸がむかつくような)実物の写真を目の当たりにして、私は思わず暗澹とした気分になった。それらの無数の苔むした墓石に刻まれた文字はみな、おぞましいニンゲンの顔である。後に奇妙な縁でいまのつれあいが人権博物館などというところに勤めることになり、それがきっかけで知り合った長年差別戒名を調べている方の著書にあった、こんなエピソードがいまも忘れられない。ある地方の部落の墓地で差別戒名が見つかり、偶然お参りに来た一人の老婆にそのことを教えると彼女は「これはお寺さんから頂いた大事な戒名だから、そんなことはあるはずがない」と怒り出した。ところが後日にその老婆は改めて事実を知り、怒りの余り、墓石を地中深くに埋めてしまったという話である。
ところでそもそも私は、戒名自体に不信の念を抱いている。あんなものほんとうに必要なものなのか。まあ百歩譲って、あの世へ行ったらあの世の名前が必要なのだ、というくらいなら分かる。中には生前の人柄を偲ばせたり、幼い子どもを亡くした親の嘆きや故人に対する慈しみの情が伺えるような、味わいのある戒名もあることはある。だが金額によってその戒名にランクなどというものがあるのは、いったいどういうことなのか。そんなもの、誰が考えたっておかしくねえか。マニュアル本でテキトーな漢字を当てはめて、何万、何十万、ときには何百万といった金を平気で要求する寺の坊主というのは、いったいどんな感覚の持ち主なのか。ただの死人に群がるハイエナじゃないか。恥ずかしくないのか。
東京から越してきてしばらくして父親が死んだとき、慌てて本家の宗派を調べて曹洞宗だというので近くのおなじ宗派の寺の坊さんに葬式に来て貰った。それ以来毎年きっちりと、お盆の時期になるとその寺から供養の誘いが郵便で届いた。私は何度か母に頼まれてバイクで寺に行き、ごく事務的に(まるで役場に確定申告の書類を提出するかのごとくに)、木の板にちょこちょこと戒名等を書いたものを寺に納めて某かの金額を置いていった。そのたびに私は、こいつらはほんとうにブッダの教えを広めるために生きているのか、と訝しく思っていた。ちなみに父の戒名は「即身道得」というものである。父の名前に「得」の字があり、それとさしずめ交通事故で即死であった事情からそんな戒名を付けたのであろうが、私ははっきり言ってこんなインスタント・ラーメンのような戒名は好きでない。それは父の生涯を何一つ表していない。
少数の例外はあるだろうが(そしてそう思いたいが)、はっきり言って多くの現在の寺とそこに住む僧侶たちは、かねがね私は宗教者ではないと思っている。かれらはただの経営者で、八百屋の息子が店を継ぐのと同じである、と断言する。寺を維持していくのには檀家も必要だし、金も必要なのだと言うなら、果たしてブッダは寺や財産などというものに執着したのかと言いたい。ほんとうにブッダの教えに帰依しているのであれば、そんなものはさほど重要ではないはずだ。乞食(こつじき)をして諸国を行脚し、辻説法でもしたらいい。山に籠もって修行をしたり、あるいはアフガニスタンやパレスチナまで出かけっていったらいい。そんな勇気も気概も理想もないのなら、さっさと還俗してサラリーマンや回転寿司のおやじにでもなることだ。
戒名などなくていい。私はじぶんが死んでも戒名など要らないし、もしブッダに帰依する気持ちがあったとしても、そのときはじぶんでじぶんの戒名を書くつもりでいる。人が人を死後に至るまで差別する、あるいはランク付けをする。どちらも恥ずかしく、反吐が出るような風景だ。
2002.7.3
* 木曜は装具の件でふたたび大阪の病院。右足の底の部分をすこしあげてもらって、一週間様子を見てみる。場合によっては整形外科のH先生に診てもらい、筋肉を入れ換える手術も検討する、とか。たまたま居合わせたリハビリ担当のM先生に歩行を見てもらったところ、「ちょっと左がひきずってるなあ」と不満げであったそうだ。
今日は朝から歯医者。虫歯ではなくて、前とおなじ茶渋のようなもので、人によって付きやすい性質の場合があると。それより、子どもは乳歯が生えてきた当初から前歯二本の間に歯茎がひどく下がって付いていたのだが、これは上唇小帯というもので、歯磨きの時に痛くて不便であるし、永久歯が生えてくるときの妨げにもなるので、放っておいて治る可能性もなきにしもあらずなのだが、折を見て手術で取り除いた方が良いと言われてきた。手術といっても10分ほどで済む簡単なものなのだそうだが。
アフガニスタン、カブール。例の結婚式への米軍の「誤爆」事件で、はじめての抗議デモ。平和が戻ったとか、やれW杯だとか浮かれていても、あの国ではいまだに「不合理な虐殺」が続いているのだ。歪んだ世界はそのままで、いまも暴力が世界を支配している。新聞はそんなことを何も書かない。おなじ朝刊で「ブッシュのアメリカ 神と結びつく愛国心」と題された記事を読んだ。それによると「聖書の言葉を文字通り信じる原理主義的なキリスト教右派を支持基盤とする大統領は、自らも熱心なキリスト教信者だ」という。これはもうお笑いさえ通り越している。聖書とはあの聖書のことで、キリストとはイエス=キリストのことなのか? おまけの記事。USJが昨年から期限切れの冷凍肉などをレストラン等で調理・販売していた事実が分かった。私も見事にそいつを食わされたことになる。
今朝はつれあいが、私の足の怪我でまた仕事を探すのが遅れる、と漏らすのを聞いて腹を立て、いれたばかりのコーヒー茶碗を思わず床に叩きつけ、片足をひきずりながらバイクで家を出た。私はきっとひどい気違いなので、このじぶんをいっそ神さまというものにそっくり預けてしまった方がよいのではないか、それでみなが平和になれるのではないかと思える。
べつのときにはフランシスコは、孤独へ逃れて、人々の敬意を逃れようとした。1211年の四旬節のあいだずっと、トラジメーノの湖の無人島で過ごし、次の冬の大部分を、キウジ付近の山上のサルテアーノの庵で過ごした。二、三の兄弟たちと住んでいた木の枝で編んだ小屋は、野獣のほら穴によく似ていた。そこはとてもフランシスコの気に入ったが、「荒涼として、寂しかったからだが、なんといっても、そこから遠くアシジが見えたからだった」 かれはこの孤独の中で激しく誘惑された。そして絶望しそうになり-----内なる声がかれに「だれも救われるが、フランシスコよ、お前みたいな自虐者だけはだめだ ! 」といった-----独身をやめて結婚しようか、と思ったりした。結婚の誘惑には、まず古い隠者のやり方で対抗し、おびていたなわで裸の背をさんざん打った。だが「兄弟ろば」が-----フランシスコはじぶんの体のことをよくこう呼んでいたが-----満足しなかったので、かれは別の方法を考え出した。小屋の前には雪が積もっていたが、フランシスコは裸で雪の中に飛び出し、七つの雪だるまを作った。かれは作り終えると、じぶんに言いきかせた。「どうだ、フランシスコ、この大きいのがお前の妻だ、そばの四つが息子二人と娘二人、他の残りが下男と下女だ、みんなこごえて死にそうだ-----さっさとなにか着せてやれ ! それができなければ、神にだけしか仕えなくていいのを、喜ぶんだぞ ! 」
さて、それは月夜だった------アペニン山脈の9月の夜らしい、澄んだ秋冷の夜だった。あたり一面は明るく、物音一つせず、荒涼としていた。月光に幹のすみずみまで照らされたぶなの木は、雪が積もったようだった。月はからの小屋にさしこんでいだ。ちょっと考えたが、レオーネは橋を渡った。
かれは用心深く木の間をそっと忍んでいった------フランシスコの姿はどこにもなかった。ついに祈るようなつぶやき声が聞こえたので、その方へ行ってみると、フランシスコがみつかった。両腕を十字架の形に広げ、顔を天に向け、声高で祈っていた。レオーネは木の陰にそっと隠れると、師の祈りの声が聞こえた。肌をさす澄んだ夜気のなかで、一語一語がはっきり聞こえた。
「わたしの最愛の主なる神よ」と、フランシスコは天を向いていった。「あなたはなんでしょう。また、あなたの役立たずの虫けらのような僕(しもべ)のわたしはなんでしょう」
かれは何度かこのことばをくりかえした-----その時レオーネは身じろぎしたはずみに、思わず小枝を踏みつけて折ってしまった。この物音で、フランシスコはすぐに祈るのをやめて、立ちあがった。「イエスのみ名において」と、かれは叫んだ。「だれであろうと、じっとしておれ、そこを動くな ! 」 かれはレオーネの方へやってきた。
兄弟レオーネがあとで他の兄弟たちに言ったところでは、その瞬間恐ろしさに縮み上がってしまい、地面が裂けたら、その中に隠れてしまいたいくらいだったという。不従順の罰としてフランシスコに追放されはしないか、と恐れたからだった。フランシスコが心から好きだったので、かれなしには生きられないと思ったのである。フランシスコは木のすぐそばに来て「だれか」と尋ねた。兄弟レオーネは震えおののいて「わたしです-----レオーネです ! 」と答えた。するとフランシスコはかれに言った。「神の子羊よ、なぜ来たのか、盗み見してはならない、と言ったではないか。従順の名において、なにか聞いたかどうか言いなさい ! 」 かれは答えた「父よ、わたしはあなたが『わたしの最愛の主なる神よ、あなたはなんでしょう。また、あなたの役立たずの虫けらのような僕(しもべ)のわたしはなんでしょう』と語り、熱烈に祈るのを聞きました」 こう言って兄弟レオーネはひざまずき「父よ、お願いですから、わたしのお聞ききしたことばを説明してください」と、うやうやしく頼んだ。
フランシスコは兄弟レオーネを見つめたが、心は忠実な兄弟の愛と帰依に対する喜びにみたされた。
「おお、イエス=キリストの子羊よ」とかれは言った。「おお、わたしの忠実な兄弟レオーネよ ! あなたの聞いた祈りで、二条の光がわたしに啓示された。一方の光には、創造主を認め、他方の光には、じぶん自身を認めた。 『わたしの主なる神よ、あなたはなんでしょう。また、わたしはなんでしょう』と言ったとき、わたしは観想の光に浴し、神の善の無限の深さとじぶん自身の悲惨の悲しい深淵を見た。だからわたしは『主よ、いと高く、賢く、いと善く、いとあわれみ深いあなたは、なんなのでしょう、いともあわれな虫けら、卑小な忌むべき被造物であるわたしのところに、おいでになられるとは』と言ったのです。神の子羊よ、これがあなたの聞いたことばです。だがまたわたしをうかがってはいけない。さあ、神の祝福をもって小屋に帰りなさい ! 」「アシジの聖フランシスコ」(J.J.ヨルゲンセン・永野藤夫訳)
2002.7.5
* ときおり思い出したように新聞の片隅に、オウム真理教徒と地元住民のいざこざの記事が載る。私はときに、じぶんはこんな一見穏やかに見える家庭を営んでいるよりも、かれらのように排斥され行き場をなくし漂っている方がいっそ似つかわしかったと思うことがよくある。もっともこれは私のごく個人的な感覚だが。そのオウム信者のその後を追ったドキュメンタリー映画「A2」の映画監督が、今朝の新聞に稿を寄せていた。(02.7.6付朝日新聞 森達也・オウム信徒 排斥するしかないのか) もし私の近所にオウム信徒たちが越してきたら、私はかれらと対話をしてみたいと思う。宗教やその他の話をしてみたい。それはともかく、一般にかれらの住民票を受理しないという形で居住を拒否している自治体や地元住民の人たちの理屈は「あんな非人間的な事件を起こした集団なのだから、近くにいたらまた何をしでかすか分からない・怖ろしい。だから住民票不受理は当然の自衛対策なのだ」というものだと思う。気持ち的には分からないでもない。しかし大人のやることでもない。森氏が書いているように、それは「どこからどう見ても明確な人権侵害であり憲法違反なのだ」 感情だけが優先していいと言うのなら、(森氏も触れているように)先の関東大震災のときのデマによる在日朝鮮人虐殺も肯定されよう。不承不承でも守らなくてはいけないのが(私が言うのも似合わないけど)法律というものであり、例外が許されるというのなら(かつて三島由紀夫が切腹したパルコニーで唱えた“憲法改正”のように)その根底から崩れてしまうのではないか。かつて凶悪な犯罪を引き起こした集団に入っているというだけで、その人間の基本的人権を奪っていい権利は誰にもないし、そんな法律はどこにもない。私はかれらオウム信徒たちの状況を、いまこそ部落解放運動の人たちや各宗教団体、そしてマスコミなどがこぞってとりあげて擁護すべきだと思うのだが、結局みんなその理想云々よりも、長いものに巻かれろ主義や己の利益しか考えていないということなんだよね。ふだん立派なことを言っていても、そういうところでポロが出る。要するにそこにあるのは、あのヨーロッパの魔女狩りとおなじ質のものだ。見えない恐怖に煽られて思考が完全停止してしまう。昔は電車のなかでトラブルがあったりすると寅さんみたいなおっちゃんが出てきて「まあまあ、あんた」なんて収めていたのが、いまは誰もが見て見ぬふりをしたり、逆にその無関心が少年たちに浮浪者のオッサンたちを襲わせたりする。あるいはひとつの力ある国が他の国を勝手に「ならず者」呼ばわりして無差別に爆弾を霰の如く降らせ、そうしたことが大手を振ってまかり通ってしまう。私にはそうした風景とオウム信徒たちのおかれている状況が、じつは深いところでリンクしているのではないかとも思える。新聞の稿は次のようにしめくくられている。
「信者の住民票は受理しない」との立て看板と、「人権宣言都市」だの「守ろう人権」などのフレーズが踊るポスターとが共存するお馴染みの光景に、行政も市民もせめて立ち止まり、赤面するくらいの自覚は持とう。正と邪、善と悪などの二元論に依拠する早急な結論を求める前に、思考が止まることのグロテスクさを主体的に実感しよう。
難しいことじゃない。他者の営みを想像するだけでよい。そのうえで、やはり彼ら信者に「触れずに排斥する」しか手段がないと本当に断言できるのなら、そのときには僕も、この日本と心中する覚悟があるかを自分に問うつもりだ。
(02.7.6付朝日新聞 森達也・オウム信徒 排斥するしかないのか)
見た目は薄気味悪く、あなたの理解の範疇を超えるものだとしても、必要なら「触れて」みようじゃないか。困難はあるだろが、あなたも日本人でオウムの事件に衝撃を受けたのなら、一連の教団が起こしたあの事件をどう考えているか、そしてなぜいまも教団にとどまっているのかを、腹を割ってとことん話し合ってみようじゃないか。不快の気持ちは消えないかも知れないが、「大人のやり方」でなんとか互いの妥協点を探り合おうじゃないか。相手は宇宙人でも怪物でも魔女でもないのだから。それでも何が何でも「触れずに排斥する」と言い張るのなら、私は排斥する側よりも、いっそ排斥される側に立ちたい。かれらとおなじように石もて追われたい。
2002.7.6
* 例のわが家の居候・椋鳥のヒナは昨日ふと気がつくと、台所の窓の格子にくくりつけてあるダンボールの巣と窓ガラスの隙間に飛び出していて、そのままでは親鳥が餌を与えられないので、辺りに糞をまき散らされながらひと苦労してつかまえ、巣に戻しておいた。そして今朝、巣のなかはもぬけの空になっていた。どうやら無事、巣立っていったらしい。ギャーギャーとさんざ啼き喚いていた親鳥の姿もどこかへ消え、何やらちょっぴり淋しくもある。
午後、図書館で借りてきた映画「ドリトル先生 不思議な旅」(1967 Fox)のビデオを子どもといっしょに見る。「ドリトル先生」は幸福なことに子どもの頃、親類からもらった井伏鱒二の名訳のハードカバーが揃っていた。「ドリトル先生」も、あの「海底2万里」のネモ艦長も、世間との人づき合いが苦手で動物たちだけが仲良しだったり、あるいは世間を憎んで海底の孤独な隠者となったり、どこか「壊れた」人間たちが主人公の物語だった。そして私はそんな「はぐれもの」のかれらの素敵なファンタジーを共に共有してきたのだと、改めて思ったりする。
ジョン・リーのブルース、Tupelo を聴いている。ジョン・リーの歌声は、どうしてこんなに仄暗く、底なしに深く、やさしく、人の心を真綿のように捉えて離さないのだろう。
2002.7.6 深夜
* 3ヶ月ぶりに散髪に行ってきた。切り落とされる髪を見るたびに、勿体ない、かき集めて売り物にできないのだろうか、と貧窮した作中人物が思いつめるつげ義春の漫画の一場面を思い出す。いっそベッカム・ヘアーを頼もうかとも思ったが、あまりにキマリ過ぎても怖いのでやめておいた。
昼は小松菜のおひたし、ニラと揚げの味噌汁、沢庵とシソ入りの納豆。夜はニンニクをたっぷり利かせた鶏の照り焼き丼と寄せ豆腐。
夕方、近くの公園まで子どもを散歩に連れて行く。子どもは縦にふたつ並んだ長めのベンチの周りを、手つかずで三周歩いた。帰ってから「可愛いコックさん」を20体くらい書かされる。
夜、子どもが寝てから、図書館で借りてきたニール・サイモン脚本・ジャック・レモン主演のコメディ映画「おかしな二人 The Odd Couple」をつれあいと二人で見る。つれあいは神経質な調理好きのジャック・レモン役を、私にそっくりだと言って大いに笑い転げていた。
家人の寝静まった深夜、ひとりフランチェスコの伝記をめくることは、いまの私の魂の甘美なパンである。「天に宝を積む」ということばの意味に、想いを馳せている。
静かなる七夕の夕べに。
2002.7.7
* 真夜中に、この地上の原理一切を抛(なげう)って単車に乗り込み、あの曼陀羅胎蔵界たる深山の闇の果てへ。そこで滝口からぶら下がった髑髏(しゃれこうべ)が、赤い舌をちらちらと覗かせて喋る法螺話を聞いてみたい。おれは何を考えるでもない、ただ疾走するだけだ。失せものが出たあ、失せものが出たあ、という背後の怯えた声を振り切るように、藪だらけの暗い斜面を不様に転がり落ち、臑や肋(あばら)から突き出た骨が枝に触れてがちがちと鳴るのを聞きながら、白い米粒のような蛆が湧き出た腑(はらわた)を四方にばらまきながら、おれはやがてぬらぬらとした顔のない醜い無生物に成り果てる。それからおれは沼地の端に咲いたスミレの花を泣きながらしゃぶり尽くすだろう。それからおれは女を抱くように厚い樹皮に狂おしく頬ずりするだろう。押しつけた股間を悲しく濡らすだろう。だがきっと、おれの眼窩は冷酷に乾いているだろう。おれは立ちあがり、沼地の水を獣のように呑み干す。へらへらと笑う熊笹を薙ぎ倒して、おれはまた駆け出す。血だらけの裸の足が、まだ見ぬ景色を夢みて次の谷間へと跳躍する。嵐の中で番(つがい)を求める野性の鹿のように、敏捷に。
Neil Young の Like A Hurricane を聴きながら
2002.7.8
* つれあいは昼からひとりで難波の服地屋へ行く。生地を三枚ほど買ってきて、じぶんのブラウスやTシャツをつくるのだそうな。500円の生地が5,000円のバーゲン品に化ける。私が言うのも何だけれど、彼女は腕前もセンスもとても良い。つれあいの話では、今年のファッションはアメリカのテロ事件の影響などでフリルやギャザーなど(私もよく知らないが) ソフトで可愛らしいデザインが流行りなのだという。殺伐とした時代の雰囲気の代償に「癒し系」が求められるということらしい。なるほど、失恋したときにクレイジー・キャッツを聴くようなものか。って、ちょっと違うか。
いまレンガがグランド・ストリートに積まれ
ネオンの狂人がのぼり
みんなまったく完璧に落ちるので
ぜんぶタイミング合わせてあるのかと思う
ここにおれは辛抱強くすわり
これらのことを二度くり返さずに済むために
あんたがいくら払わなければならないか
分かるのを待っているBob Dylan ・Stuck Inside Of Mobile With Memphis Blues Again 1966
'60年代のディランの、こんなクールなスタイルが好きだ。ビートルズのサウンドとおなじように、おれはここにいていい、このままで良い、と教えてくれる。だからこうしてこのまま居続けるんだよ。代わり映えのしない時代遅れのような場所に、大便がつまって水浸しになった公衆便所のような場所に、不確かなまま、唾を吐きかけて。おれの魂はどうにも救いようがないのかも知れないが、おれはじぶんの魂の居場所くらいは知っている。おれはそいつの切れっ端をしっかりとつかまえている。たとえ新品のベンツや年金手帳やローン払いの一戸建てを積まれても、あんたの惨めな蝉の抜け殻のような魂と交換したくはない。おれはあんたとはまるっきり違う場所におれの宝を積んでいる。
午後、子どもと二人で近くの公園へ行く。クローバーの生い茂った芝の上をよたよたと笑いながら歩き回る彼女を、まるでこの世の天使のようだと思う。そう、疑いもなく、彼女は私のかけがえのない天使である。二人で地面にしゃがみ込んで、ホイットマンの輝ける息子や娘たちのように、四つ葉のクローバーを無邪気に探している。
2002.7.9
* 進研ゼミなどで有名な(じつは私も中学の頃やっていた)ベネッセの育児教材「しまじろうシリーズ」を取り始めたのは、子どもが入院をしていたときである。同室のお母さんに見せてもらったビデオ等につれあいが興味を持ち、入会の紹介をすると紹介者にプレゼントがもらえるということで「ねえ、どうかしら?」と私はつれあいより質された。私は内心、そうしたモノにはあまり乗り気ではなかったのだが、同室の当のお母さんの目の前で、しかもプレゼントがかかっているとあっては「ううん、まあ、いいんじゃないの」と答えるより他に仕方ないではないか。そういうわけで取り始めた「しまじろう」だが(一年間の料金は誕生日のプレゼントということでつれあいの実家で出してくれた)、これがまあ、あまりに見事に子どもがハマってしまったのである。実際この一年近く、挨拶を覚えたり、ハミガキやトイレに興味を覚えたり、手遊び歌をたくさん覚えたり、内容も実に巧妙でうまくできているがいろいろ役だったこともあるのだが、このごろはちょっと親の目から見るとマンネリ気味で、それに何よりこのビデオや教材ばかりに夢中になって、他の絵本や遊びにだんだん目もくれなくなってきて、「これはちょっとまずいのではないか」とつれあいも私も危機感を感じだした。で、このごろ、以前に私がビデオ屋で借りてきてダビングしたディズニーのビデオに夢中になっているのを好機とばかり、この際購読を取りやめて、「しまじろう」の一掃を図ったのである。今日、つれあいが子どもを体操教室に連れて行った隙に、私は関連のビデオや教材の類をすべて隠してしまった。
というわけででもないのだが、これを機にコンテンツに、主に子どもの玩具に関するリサイクルのページを新設した。特に乳幼児の頃の玩具というのは、使用期間がひどく短いし、なかにはほとんど使わずに終わってしまうものもある。それに私が元来ビンボー性のせいか、まだ充分使えるモノを捨ててしまうのが忍びないのである。私の数少ない友人は独身ばかりだし、つれあいの同級生たちは世代的に皆もう中学生や高校生の子どもがいるような具合で、他府県から現在の奈良に移住してきた二人とも近所にはあまり知り合いもいない。高価なモノはほとんどないが、もし使ってくれる人がいたら有り難い。送料はできたら負担して頂ければ助かるが、その代わりに謝礼等の気遣いは一切無用である。モノが生かされれば、それで嬉しいのである。ご近所・ご親戚等で誰かいましたらメールにてご連絡下さい。奈良近辺、車で一時間程度の距離であればバイクで私が直接お持ちしてもよい。どうぞご遠慮なく。
考古学者で国立歴史民族博物館前館長の佐原真氏が亡くなった。70歳、肺ガンだった。このごろテレビ等で見かけないなと思っていた矢先だったので、ああ、そうだったのか、と突然の訃報に驚きつつ得心した。「縄文時代に戦争(集団の殺し合い)はなかった(戦争は決して人間の本能ではない)」という氏の持論は、定住→富の蓄積が争いや権力・差別等を生み出したという私の歴史認識の良き支えであった。またその飾り気のない人柄や、考古学を一般の人たちにも親しみ易くという専門にとらわれない新鮮な姿勢も、好ましく思っていた。「ほんとうは平和、つまり戦いはどうしたら防げるのかを考古学で解明したいんだ」というのが口癖であったという。日本の考古学界はとても大きな才能をなくした。ささやかながら、ここに冥福を祈りたい。
2002.7.10
* 子どもがディランのビデオを引っ張り出してきて、「ぼぶ。みたい」と言う。冒頭の In The Garden を指をくわえながらじっと見つめ、Like A Rolling Stone もまだ真剣に見ている。かたわらの母に「ぼぶ。ここ」などと得意げに説明する。三曲目の Just Like A Woman の終わり頃に「ばい、ばい」と画面に向かって元気な声をかけ、短い鑑賞会は了わる。父はひきつづき It's Alright Ma (I'm Only Bleeding) を見てから、ビデオをとめる。
ずっと私が探していて、ある親切な人がじぶんの書庫から探し出して呉れたマルグリット・デュラスの「破壊しに、と彼女は言う」(田中倫郎訳・河出文庫)を読む。四人の狂人たちの会話という設定だが、私はかれらにずっと近しいものを感じる。つまり、もし私がそこにいたとしても、私はそれがじぶんにふさわしいことのように思える。かれらの滞在しているホテルの庭よりひろがる「森」は隠喩に満ちている。おそらくそれはユングのいう無意識の深みにも似た存在で、かれらはそれを怖れ、同時に憧れている。著者が「革命を表す」という終幕の朗々たる音楽(バッハの“フーガの技法”の一曲)も、もちろんその森の奥から「木立を粉砕し、壁を押し潰し」ながら押し寄せてくる。
台風一過の空と地上の色合いを眺めるのは好きだ。
2002.7.11
* つれあいは昼間いっぱい、ミシンをひろげてブラウスづくり。午前中、子どもを連れて図書館へ行く。絵本をいくつか、それとアラビアン・ナイト、アリババと40人の盗賊の紙芝居を借りてくる(子どもは「ひらけゴマ」の呪文を忘れて盗賊の巣窟を出られなくなったシーンで、私の「ひらけピーマン、違うなあ。ひらけ納豆、違うなあ」といったアレンジを大いに気に入り、その場面だけ何度も所望する)。帰りにサティへ寄って買い物。パン屋のレジのおばさんに「若いお父さんなのにエラいわねえ」などと言われる(本当はそれほど若くはないのだよ、おばはん)。午後は子どもといっしょに上々颱風のビデオを見たりする(膝の上に乗せて手をとりリズムを叩くと、熱狂して笑い転げる)。夕刻、日が傾いてからすこしだけ家の近くを散歩(ドブに葉っぱを放って眺めている)。夕食後、(たぶんディズニーの)モーセの出エジプトのアニメを見る。それから自家製のフライド・ポテトをつれあいに揚げてもらい、三人でスターウォーズのエピソード1をテレビで見る(子どもはケチャップをつけて頬ばり、熱心に見る。最後のポテトを慌ててつかみ、私と半分こしてくれる)。終わり頃につれあいと子どもは布団の上で横になったまま眠りこけてしまう。
ルー・リードの Perfect Day のような一日。あるいはRCサクセションのスロー・バラードのように、悪い予感のかけらもない。
2002.7.12
* 松山の街を訪ねたのは、あれはもう十年以上も前のことだろうか。友人を誘ってのバイク旅で、四国に渡ってからしばらくして友人は八幡浜の親類の家へ向かい、私は霊峰・石鎚山の麓を経巡ってひとり松山へ出た。宿をとり、商店街であたらしいTシャツを買い、路面電車に乗って街の北側にある正岡子規の記念館を訪ねた。子規といえばその頃の私はまだ有名な「柿食えば」の句程度しか知らなかったのだけれど、漱石との交流や学生時代の才気溢れる回覧誌などを面白く見た。なかでもとくに印象的であったのは、結核性脊椎カリエスで不自由な病床にあった晩年に描かれた「仰臥漫録」や「病牀六尺」等の絵日記である。一枚の瓜を描いた水彩にこころ奪われた。黙って写実していると自然(じねん)が見えてくる、たしか、そんなことばもあった。死を意識することによって、ひとはこれだけ透明になれるものか。いや、死が身近であるからこそ、ひとはこれだけ透明な心持ちになれるのだ、と思った。
その「仰臥漫録」の、長らく不明であった原本が見つかったというニュースを、しばらく前の新聞で読んだ。現在、兵庫県芦屋の虚子記念文学館で公開されている原本についてのレポートが、先日の新聞に載っていた。一部を引く。
煩悶に煩悶を重ね、原稿執筆はおろか、口述の筆記もままならなかった時期に「仰臥漫録」は執筆されはじめた。鎮痛剤のモルヒネで痛苦が抑えられたわずかな時間が、子規には新たに生きる喜びの時間だった。
…複製では表せなかった、文字の微妙な濃淡や墨継ぎの痕跡が明らかで、1日分をまとめて記したのではなく、小刻みに記述したことが読みとれる。7回から10回に及ぶ、時間の帯の記録となっているのである。
つまり、「仰臥漫録」は、日記を超えた「時間記」といえる。子規の呼吸音まで伝わって来そうである。高弟の碧梧桐が伝えたように、「仰向け又は右向けになりて筆をとり」「どれが絶筆になるかわからぬより、必ず書いた月日を書き入れて置くが、絶筆になるやも」という明日をも知れぬ病状が、子規に刻一刻の「時間記」を書かせたのではないか。いわば、命との競争である。
(02.7.9付 朝日新聞 和田克司・「仰臥漫録」原本の迫力)
死が生を際だたせる。生きるということは、実にそういうことではないか。ふだん忘れがちだが、わたしたちは死ぬべき存在である。無限に横たわる無時間の静けさに比べたら、生はほんの一瞬の瞬きのようなものに過ぎない。その絶対比の前では、20年の生も90年の生も、わずかな差でしかない。間近に迫り来る死を見すえた子規の一瞬一瞬は、だからこそ濃密であった。わたしたちはほんとうは、誰もがそうなのだが、誰もがそれを忘れがちだ。この世の事物のすべてを愛おしむ心持ちで、かれは身近な草花や鳥や人を見つめ、それらを写実する。死において、かれのまなざしは透明になってゆく。ほんとうが見えてくる。描かれた一葉の瓜は、だから、華厳の種子宇宙に似ている。
2002.7.13
* 深夜に、眠っていた子どもが目を覚ました。そっと添い寝をしてやると、おとうしゃん、いた。おかあしゃん、いた。いた。いた。いた。と言って、ちいさな体をすりよせてくる。なにか夢を見たのだろうか、目尻にうっすらと涙がにじんでいる。やがて、かすかな寝息。
私は、私のいのちよりも大切な“小さき花”をじっと見つめる。その花のためなら、私はこのいのちさえ惜しまないだろう。
美しいフランチェスコの伝記を読了する。かれはまさに美しき貧者であった。知識も大仰なことばも家も衣服も要らない。ただ慎ましい祈りのことばと素朴なこころ、そしてそれをひたすらに実践する頑固な意志があるだけでいい。それだけで、すべては満ち足りる。この世で必要なのは、たったそれだけ。
私は頭(こうべ)をたれる。“小さき花”の前で、そっと頭をたれる。私も名もなき貧者になりたいのだ。
ほんとうに必要なのは、この掌に乗るか乗らないかのわずかなものだけ。
2002.7.14
* 子どもは昨日から鼻水が出て熱も38度あったのだが、つれあいがレモンを搾って手製のレモネードをつくり呑ませたところ、それが効いたのか今日はほとんど治りかけている。念のため朝から近所の小児科へ連れて行ったところ、レモネードの話を聞いて医者は「そりゃあいい。まったく医者要らずだな。このごろはそうした家での工夫もしないで、風邪というとすぐに病院に連れてくる親ばかりだけど、それならどんどんやってください。薬もとくに要らないでしょう」とべた褒めだったとか。
午前中、職安の帰りに寄った中古屋で、ベット・ミドラーの Songs For The New Depression に280円の値札がついているのを見つけた。ディランとのデュエットの Buckets Of Rain が入っている '76年のアルバムである。これは儲けものとばかりさっそく手に取る。彼女のアルバムを買ったのははじめてだが、他の曲も全体的にジャージーでスタンダードな雰囲気でなかなかよい。トム・ウェイツの曲もやっている。他に狩撫麻礼+中村真理子の漫画「DAYS 2巻」(ワニブックス)と、百円で「ディズニーランドの経済学」(朝日文庫)を。
ところでリサイクルのページに出しておいたシマジローのビデオだが、さっそくご注文を頂いた。たぶん書いても差し支えないと思うのだが、「29年のサラリーマン生活を2年前にリタイアして百姓になりたくて耕作放棄地の棚田2反を借りてチャレンジして」いらっしゃるという大阪のTさんからで、2歳のお孫さんへのプレゼントということで本日、ご厚意に甘えて着払いで送らせてもらった。毎度ありがとうございます。
夜、ニュース・ステーションで田中康夫長野県知事不信任の一件を見る。私は田中康夫という人は個人的にとくに興味もないが、かれの主張は至極まっとうなものだと思うし、知事としてこれまでやってきたことも結構好意的に感じている。というか、作家をやってるより余程いいんじゃないの、面白くて。何より対する県議会のお偉いさんたちの相変わらず代わり映えのしない、しけってカビの生えた堅焼きセンベイのようなあの顔はどうだい。細かい議論云々以前に、テレビに映ったあの顔を見ればおおかた事の察しがつこうというものだ。ペット犬のような康夫ちゃんの顔がいいってわけでもないけどさ。ともかくあれら堅焼きセンベイどもを相手にする、その忍耐強さにはささやかながら敬服する。私にはけっして出来ない。
K氏より「奈良・大峰山 女人禁制 の解禁をめぐって」と題した自著の小冊子が届いた。
2002.7.15
* 暑くて脳細胞が弛緩している。「こんな暑さのときだ、スラムで暴動が起きたりするのは。理由は格別にない。ただ、暑かっただけなんだ」というあるマンガの主人公がつぶやくセリフを思い出す。ドストエフスキーやトルストイといった文学は、あの極寒の地でこそ、とも思う。
夕食後、子どもを連れて近くの公園へいく。それぞれ犬を散歩させていた30代くらいの女性三人が、ベンチに座っていた子どものまわりに犬をはべらせてくれる。しばらくマロちゃんだのアスクちゃんだののお相手をする。子どもは数日前に蝉の幼虫がつたいのぼっていたコンクリの壁を覚えていて、もういちど見に行くと言う。何もない壁面をさがす。いまごろはとうに脱皮して、夏の到来を告げる姦しい合唱に加わっていることだろう。たとえ短いいのちであったしても、このおれも蝉の幼虫のように脱皮できるものなら、と思う。
デュラスの小説の中で(「夏の夜の10時半」)、若い女との夫の浮気を黙認する主人公のアル中の女性は旅行先のある町で、ベッドの上で見つけた妻と間男を撃ち殺した男の逃亡を助け、真夜中に車を走らせる。ボロ雑巾のごとく眠り込んでしまった後部座席の殺人犯を眺め、ひとりコニャックを煽り吐き気をこらえる。これも夏の夜のこと。
夏の草いきれが女の生理のように匂う。ベット・ミドラーが歌うトム・ウェイツの美しく切ない Shiver Me Timbers を深夜に聴きながら見知らぬ麦畑のなかを、どこまでもどこまでも歩いていくような気がする。この窒息しそうなやわらかな気持ちについていけばよい。
2002.7.16
* 仮に2つの田んぼがあるとします。片方は、米が480キロとれますが、ヤゴ(トンボ)の抜け殻は50匹しか見つかりません。もう片方は、米は400キロしかとれませんが、ヤゴの抜け殻は5000匹見つかります。さて、豊かな田んぼはどちらでしょうか?
トンボなんてカネにならないものより、米が多くとれる田が豊かに決まっています。…というのが、これまでの正解(教育)でした。
これはわが家のお米を注文しているすずき産地さんが、いつもお米といっしょに届けてくれる「たまご新聞」の最近の記事から。引用をつづける。
上記は、福岡県の宇根豊氏の論文を参考にしたものです。(山崎農業研究所「耕」No.93から) 同氏は、百姓仕事を体験する目的を次のように整理しています。
1. それが、人間の仕事の原形だからです。
2. 人間と自然の関係の本質がわかるからです。
3. 決して、仕事は苦役ではないことがわかるからです。
4. 決して、仕事は効率追求が目的でないことが、また人間の思い通りにならないことがわかるからです。
5. 一方、工業労働は目的だけを追求するマニュアル化された労働だとわかるからです。
6. 生産とは、カネになるものだけを追求することではないことがわかるからです。
7. 自然は、科学だけではとらえられないことがわかるからです。その前に、感じることが大切だとわかるからです。
さらに続けて、このようにも書いています。
“現代社会は、自然の価値をカネで表現できません。それだけでなく、大切なものであってもカネにならないものを軽んじてきました。(中略) これに対抗して行くには、カネにならないものの豊かさを体で実感するしかないのです。しかも、単に感じるのではなく、仕事の成果として、人間が自然に働きかけて育てた‘めぐみ’として感じとるのです”
こう言って宇根氏は百姓体験のすすめを語るのです。大いに共感するものがあって引用したしだいです。
(すずき産地のたまご新聞 No.218 ・02.7.4)
何も農業だけの話ではない。冒頭のクイズの“田んぼ”を“人間”に置き換えて読むことだってできる。
2002.7.17
* 長年勤めた会社を先月で辞した四日市在住の友人が、来週から静岡まで林業関連の5日間の研修へ行くので、アパートに置いているプランターを預かって欲しいと持ってきた。ペットの犬や猫を預かるというのはよく聞く話だが、プランターを預かるのはあまり例がないのではないか。それもけっして丹誠込めて育てた盆栽や高価な花の類といったわけでない。三つの横長の平凡なプラスチック製プランターに幾種類かのハーブとシソとネギと、それにトウがたってひょろひょろと実をつけたパセリとキャベツなどが、まるで長屋の住民のようにつましく雑然と身を寄せ合って植わっている。それを5日も留守にしたら枯れてしまうだろうと車で約2時間の道のりを、三重から奈良へせっせと運んできた。私はこうした感覚は、けっこう好きである。空いているベランダ等に据えて、毎日欠かさず水をやることを約束した。
夕食は私が、最近の新メニューのトマトときゅうりと炒り卵の炒め物と、それにディルと塩味だけのシンプルなポテトサラダをつくった。私が台所に立っている間、クーラーの効いた奥の部屋ではつれあいと友人がサッカーのW杯の試合について何やら会話をしておる。ん。これってなんか反対じゃないの。まあいいか。私は料理をつくって人に食べてもらうのが好きなのだ。どうも、そうらしい。友人が大のお気に入りの子どもは、もう大喜びである。すっかりひっついて離れない。つれあいと風呂に行っている間も友人の名を連呼していたとか。10時頃、友人は四日市へと帰っていった。林業の研修は月曜からである。チェーンソーの扱いや下草刈りなどを実習するらしい。
昨夜は図書館で借りてきたビデオ、ルイス・ブニュエルの「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」を深夜にひとりで見た。皮肉と混沌とブラック・ジョーク、それに滋味あふれる遊び心。まさに私好みである。ブニュエルの作品は、じつははじめて見たのだが、もっと見たくなった。
2002.7.19
* 人気のない山のしずかな小径のはたに休んでいるとき、ひょっとしてじぶんは、ほんとうは植物であったのに、間違って人間に生まれてしまったのではないか、と思えてくる。
不安定だから
誰もとばっちりを受けたくないと
線から退がって、ただ見ている
その気持ちはよく分かる
時々、冗談で線を踏み出ると
驚いて鉄砲玉のように飛んで逃げていく
線はこちら側からは見えない
どうやらあるらしいと感じるだけだ
だが明確に存在しているらしい
その断崖のような線のあちら側すれすれを
みんな器用に通り抜けていく
あんまりそれが見事なので
うっとりと眺めて
どれ、おれもひとつ試してみようかと
歩いてみるが、いつも踏み外して
こちら側に転がり落ちてしまう
みんながあると思っているその線が
自分には一向に見えてこないからだ
そんな奇妙な線などありませんよ、とみんなは言い
それを信じて歩くのだが、いつもやっぱり踏み外す
そうして見回すと
線の向こう側で、みんなニヤニヤと笑っている
その笑いの意味さえ、おれにはさっぱり見当がつかないこれは十年以上もはるか昔、実家に戻りなかば閉じこもりの生活をしていた頃に私が書き殴った拙い詩のごときもの。こうした感覚は、いまも変わらず私のなかにある。私があの小学校児童大量殺人の哀れな異常者にならずに済んでいるのは、なぜだろうかと考えてみる。
同じ頃の、こんな短い書き込みを読む。
ぼくには失うものがあり
それはただ、ぼくの魂2002.7.19 深夜
* もうずいぶん以前のこと、テレビのドキュメンタリーであったかどこかの博物館で見たフィルムであったか、シベリアの永久凍土の地で昔ながらの生活を続けている少数民族の遊牧民の記録を見たことがあった。年老いた老人と孫娘の二人だけの暮らし。少女は愛くるしかった。かれらは老人が射止めた獣の毛皮などを売ることにって細々と生計を立てていた。二人でつましく、ときには朗らかに、野営の旅に暮らしていたのだが、やがて少女がある年齢に達して(ロシアの法律により)寄宿学校へ入らなくてはならなくなったのだ。老人はさみしげに孫娘の後姿をいつまでも見送っていた。私はときおり二人のことを思い出し、かれらはいまごろどうしているだろうか、などと思ったりした。それが今日、古いノートをめくっていて突然思い出したのだ。その続きを、私はたしかに見ていた。人の記憶というのは不思議なもので、私はそれを頭から消し去りたかったのかも知れない。テレビやロシア語のあふれる寄宿学校へ行った孫と「ことばが通じなくなった」と言って、老人は自殺したのだった。
2002.7.20
* 姪っ子の夏休みに合わせてつれあいとチビの二人を和歌山の実家へ送ってきた。二週間ほど滞在の予定。朝からレンタカーを借りてきて途中、まわり道をして野迫川のKeiさんたちを表敬訪問。ほんの一時間くらいお昼を呼ばれるつもりであったのが案の定、夕方までたっぷりと長居してしまった。ただでさえログ作業が遅滞している最中なのに実に申し訳がない。だがこれは私の非ではなく、歓迎しすぎるKeiさんがそもそもイケナイのである。反省してもらいたい。昼食は「韓国料理の真似事《チャプチェもどき》」、イカめし、茄子のごま油&醤油和え、枝豆、デザートにスイカ。私も後でレシピに紹介するが、ささやかながら枝豆の葛豆腐をつくって持参した。それに本をいくつかお借りした。Keiさんご夫婦おすすめのT.H.クックの文庫5冊、それに私が所望した「竹の民俗誌・日本文化の深層を探る」(沖浦和光)と「山の人生・マタギの村から」(根深誠)。チビは山道で酔ったのか野迫川に着く直前にいきなり吐いてしまい心配したが、昼のご馳走に普段では信じられないほどの旺盛な食欲をみせ(特にイカめしと枝豆。ドクダミ茶もお気に召したらしい)、実に満足げなニヤケた顔でKeiさんとイナイイナイバアに興じたり、Kiiさんと流しの川の水で遊んだり、そこいらを歩き回りながら得意なゾーサンの歌を披露したりしていた。吐瀉物で汚れたレンタルのチャイルド・カー・シートを洗濯させてもらったのも有り難かった。つれあいもトイレの壁面に積まれた本を見物して、そのうちの二冊ほどをお借りした。野迫川から丹生川沿いの玉川渓谷などを経由して橋本へ出て、実家へ着いたのは6時半頃だった。お義母さんが駐車場のところまで迎えに出ていた。チビを抱き上げながら私の顔を見て、泊まっていったらいいのに、もっと早く来て昼寝をして帰れたらよかったのに、食事の前に先にシャワーにするかい、などと屈託ない様子で話しかけてくれる。私にはそれが辛いのだ。いまのじぶんには夕食をご馳走になる資格がない、仕事が決まったら堂々と頂くから、と前もってつれあいに言っておいてくれるよう頼んでいたから、手押しの一輪に載せた荷物を運び入れてから「煙草を忘れたからとってくる」と言ってひとり車に戻り、そのままもと来た道を走らせた。高台から入り江の集落が眼下に見えたとき、柄にもなく子どもの顔が浮かんできて、まるで子どもを捨ててきたような、あるいは子どもを置いて死ににいくような、そんな得も言われぬ寂寥感に襲われた。実際、そんなものかも知れない。途中のスーパーでおにぎりを二つ買って、紀ノ川沿いの真っ暗な“道の駅”の駐車場に停めた車の中でKeiさんにもらった《チャプチェもどき》といっしょに食べた。
2002.7.21
* おお父よ
わたしはあなたの声を嵐のなかに聞き あなたの息は この世界中のすべてのものに生命を与えています
お聞きください わたしはあなたの前に あなたのたくさんいる子どもたちのひとりとして いま 立っています
私は小さくて弱く あなたの力と知恵とを必要としています どうかわたしを 美のなかに歩ませ なにとぞこの眼に 赤と紫の夕陽をお見せください この両手が あなたの創られたものを尊敬できるようにしてください この耳を あなたの声が聞こえるように 鋭くしてください
そうすればきっと あなたがわたしの一族に与えられた教えを 一枚一枚の木の葉や ひとつひとつの岩のなかにあなたが隠された教訓を このわたしも理解するかもしれません
父よ わたしは力を求めています 偉大なる敵と戦うことができるようになるための力ではなく その力で 汚れのない手と濁りのない眼でもって わたし自身があなたのもとを訪れる準備をさせてください もしそれがかなうのなら 日没の太陽が姿を消すように わたしの生命が終わりを迎えたとき いささかも恥じいることなく わたしのスピリットはあなたのもとを訪ねることができることでしょう
モホーク族の一人のインディアンの墓に刻まれている祈りの言葉
2002.7.22
* 「“脱力映画”2本」と題した新聞の夕刊記事(02.7.22付朝日新聞)に、忌野清志郎出演する映画「チキン・ハート」(清水浩監督)が紹介されていた。「何にもなりたくない」3人の男の話で、「サダさん(忌野)はクールな自由人。ティッシュ配りで生計を立てるが、配り方さえも「投げやり」だ。(中略) 清水はデビュー作となった前作のタイトルも「生きない」。両作品とも、上昇志向のない人ばかりが登場する」 最後に清志郎本人の「今回は地のまま。楽勝だった」というコメントが載っていて、思わず笑ってしまった。う---ん、見たいなあ、これは。
昨夜は何もやる気がおきず、どっぷりと底なしの穴ぼこに落ち込んでいた。手にするものすべてがむなしく、踏みつぶされたゴキブリのように横たわっていた。今夜は何か劇薬のような、強烈でリアルなモノが必要だと思い、気がついたら「ゆきゆきて神軍」(原一男・1987)のビデオを手にとっていた。この映画、いや奥崎謙三という存在は、私にとってのバイアグラのようなものかも知れない。ニューギニアの戦地における40年前のかつての部下に対する戦争犯罪を、これは法的にはすでに時効が成立しているがオレはそんなもの屁とも思わない、オレはオレの内なる真理と責任において行動する。あるいは戦争責任者たる「厚顔無恥な天皇・裕仁」を弾劾し続け、惨めに死んでいった戦友たちの墓を訪ねて飯盒を炊き黙とうし「○○君の怨霊を弔う」と墨書した碑を建てて回る。40年前にかれは地獄を見たのだ。それが激しい問いとなってかれの存在の深部に突き刺さった。そのモノ狂おしき存在の形は、あまりの過激さ故に日常から突出し世間から忌避されるが、私はその不器用な純粋形式を、ときに愛する。「何だお前らは。ロボットみたいなツラして並びやがって。人間だったらオレみたいに本気で怒って見ろ。じぶんの考えで何かやってみろ」と苛立つ奥崎に、私の萎れていたイチモツは知らずそそり立つのだ。
続いて大林宣彦監督の「廃市」を見た。かつて愛読した福永武彦原作のこの映画を、私はなぜか池袋の小さな映画館で封切り時に見たのだ。デビューしたての頃の初々しい小林聡美ちゃんが出ていて(おなじ大林作品「転校生」より前だ)その楚々としたあどけなさが、趣ある水都・柳川の不思議な浮遊感に満ちた叙景、ひと夏の淡い物語という設定と相まって、私のなかのやわらかな感覚・抒情を心地よくくすぐってくれる。この深夜のテレビで録画したビデオも、私はときおり思い出した頃に見る。自殺した岡田有希子との関係を一時取り沙汰された、この映画では美しい姉妹の愛情の板挟みとなりよその女と心中してしまう峰岸徹の役も渋い。福永武彦って、そういえば「草の花」がいちばん好きだったかな......
野迫川で汲ませてもらってきた山の水を飲む。Keiさんたちのログの背後の谷筋の湧き水を引っぱってきているものだ。以前に読んだ本のなかに、「朝早く山へ行き、それ以上人間のいない上流の水、朝日を浴びた川の水を飲む。それだけで人の精神は整えられる」というネイティブ・アメリカンの言葉があった。そういうことはきっとほんとうだろうと思う。私たちはきっと、そうした素朴で大切なカタチを、あまりに軽視し過ぎてきてしまったのではないか。水。このシンプルにして、ありきたりで、広大無辺にして、母なる海にも私たちの内にも住まう、霊妙なるもの。私が欲しているのも、そのようなものだ。冷たいコップの水を飲み干す。
2002.7.23
* はなれていると、その人の大切さがよく分かる。それでこのぼくはいったい、彼女にこれまで何をしてやれたっていうんだ。悲しみと苦痛ばかりじゃないか。なにひとつ、ぼくはまともにやれたことがない。まともな生活さえ、与えてやれない。馬鹿げた空想に逃げ込んでは、きみを傷つけてきただけ。そしてあるゆるクスリを呑んで、ぼくは別人になったようなふりをする。
みんな着飾ってるが どこにも行けない
簡単に見えるけど そうじゃないのさ
夢みているものを手に入れるのは難しいこと
でもぼくらの愛は特別だ異なる人々 異なることば
呼べばいつでもきみのそばにいるよ
ぼくらはいっしょにいるのがふさわしい 分かるよね
だってきみとぼくは特別なんだから
ぼくらの愛は特別なんだ大丈夫 きっとうまくいくさ
連中が何を言おうとぼくらはうまくやれる
それは空に輝く星とおなじくらい確かなこと
だってぼくらの愛は特別なんだから時が移れば 人も変わる
中途半端なままの人たちもいる
でもぼくは死ぬまできみを愛する
だってきみとぼくは特別なんだから
ぼくらの愛は特別なんだRandy Newman・Something Special 1988
2002.7.24
* ゴミの持ち帰り運動やダム・自動車道建設反対などで長年、尾瀬の自然保護運動の先端を担ってきた長蔵小屋が、敷地内に廃材・空き缶・ビン等の産業廃棄物を不法投棄していたという記事が今朝の新聞に載っていた(02.7.26付朝日新聞)。実は数日前におなじ朝日の「声」欄の投稿でこの長蔵小屋のこと、しかも小屋で販売している缶ジュースについて書いていた年輩の女性がいたのだが、その奇妙なタイミングに、まるでマンガのようだと思わず笑ってしまった。その女性は、何も不便なところまでせっせと缶ジュースを運んで販売することはないんじゃないか、小屋ではお茶を沸かして飲んでもらえばいいし、必要な人は各自で持ち込み持ち帰ってもらったらいい、ということを提案していた。私もそのおばあさんと同じ意見である。私が中学生のときにサイクリングなどしていた頃は、アウトドアなんてものはまだいまほどブームでなかったように思う。たいてい、私のような若い貧乏人や自然がほんとうに好きな家族なんかがつましくテントを設営し、静かに愉しんでいた。ところがブームになると、豪華なキャンピング・カーで乗りつけ、あらゆる日常の家電製品を野外に持ち込み、カーステで音楽をがなりたて、マナーもすっかり悪くなった。私は何も豪華なキャンピング・カーが妬ましいわけじゃないけれど、やっぱりそれは大きな勘違いだと思うのだ。本来、電気も冷蔵庫もシャワーもない「不便さの豊かさ」を味わうのが、アウトドアの本意だと思うのだ。それが不便だと言う人は、クーラーの効いた部屋でテレビの「生き物地球紀行」でも見ていればいい。客商売だからとせっせと人力で缶ジュースを運び入れていた長蔵小屋の経営者も、自然保護を謳いながらもどこかにそんな「勘違い」の部分が抜けきれずにいて、それが今回のマンガ的喜劇につながっていったような気が私にはする。
そういえば昔、福島県の安達太良山に登ったことがある。山頂近くの山小屋で一泊し翌日、土湯温泉の方へと下った。下山途中、同宿だった一人の中年男性に追いついた。夜遅くまでよそのおばちゃんグループと下ネタ話で盛り上がっていた人で、アルコールがまだ残っているのか足許がどこかふらふらしている。男性のリュックには、たぶん飲んでいたみんなの分を持たされたのだろう、ビールの空き缶を満載した大きなビニール袋がぶら下がっていて、足許がふらつくたびにその空き缶がカンラカンラと鳴るのである。それが何だか滑稽で、私はつい苦笑してしまう。背後の気配を感じた男性は立ち止まると、「どうぞぉ、お先にぃ」と女のような一音高い声を出して私に道を譲ってくれた。窪地のような狭い道は前日の雨でかなりぬかるんでいる。こんな足取りで大丈夫かしらとやや心配しながら先へ進むと、案の定、しばらくしてから背後で空き缶の賑やかな連打が響いた。振り向くと、男性は見事に尻餅をついている。「大丈夫ですかあ」と声をかけると、「はあ〜い」という可愛らしい返事が返ってきた。
2002.7.26
* ずっとひとりでいて、ひとりが好きであったのに、いつから私はひとりでいられなくなってしまったのだろう。彼女のミシンの音が聞こえず、チビがそこらを歩きまわっていない部屋のなかは、なんと虚ろでからっぽなんだろう。部屋ではなくて、私自身が虚ろでからっぽなのだ。私がひとりでここに立っていることは、おそらく何の価値もない。これっぽっちの価値もない。
だから今夜は、チャボのこんなラブ・ソングを聴く。かのジョン・レノンだって、ヨーコさん、あいすいません、と歌っていた。
目をこらそう 大切なきみを見失わぬように
目をこらそう 昼も夜も oh, Night and Day
滅相もない きみなしで生きるだなんて
滅相もない 滅相もない oh, Night and Day強がるばかりで すぐに図に乗るおれ
性懲りもなしの 馬鹿者 馬鹿者 馬鹿者
粋がるわりにゃ すぐにドジふむおれ
外面いいだけの 馬鹿者 馬鹿者 馬鹿者滅相もない きみなしで生きるだなんて
滅相もない 滅相もない oh, Night and Day
夏の夜 冬の朝 春の午後 秋の日暮れ
目をこらそう きみにいつも oh, Night and Day仲井戸麗市・君にNight and Day 1997
そうだよ。こんな夏の日なんだ、すべてが始まったのは。あの夏の日々、ぼくはオーティス・レディングをたっぷりウォークマンにつめて、紀伊半島を歩きまわった。那智の原生林を歩き、本宮の河原を歩いた。ある博物館で弥生時代の3Dパネルを前にためらっていたとき、制服姿の女性がそっと近寄ってきて操作の仕方を教えてくれた。それがきみだった。そう、きみだったのさ。きみはまるでポール・デルヴォーの絵画に出てくる静謐な裸婦のようだった。ぼくは持っている勇気のありったけをふりしぼってきみを食事に誘った。それから次の日も、また次の日も、ぼくは博物館へやってきた。外の芝生の上で、きみの勤務時間が終わるのを待っていた。帰ってから、ぼくはたくさんの手紙を毎日のようにきみに書いた。たまらなくなって、また夜行バスに飛び乗った。きみはすでに結婚していたのだけれど、そんなことはぼくには全然関係なかった。ぼくの好きな叔父の得意な口癖を借りるなら「カンケイねえ、っつうんだ !!」だった。ぼくには分かっていたのだ。だってビートルズが But I'll get you in the end と歌っていたからだ。あのとき、ぼくの心臓はやわらかな気持ちでいまにもはち切れそうだった。いまだってそうだ。あのとき、夜の空気は親しげで不思議な粒子が満ちていた。いまもそうだ。あのとき、腕を伸ばせば小さな木の実は手のひらに落ちてきた。いまもそうだ。そう、こんな夏の日だったよ。何も変わっちゃいない。こんなふうにオーティス・レディングが歌っていた。いまもそうだ。
2002.7.26 夜
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