■日々是ゴム消し Log24 もどる
沖縄ブーム、オバァ・ブームだそうである。今日の新聞の夕刊、「イメージに蝕まれる沖縄 消費される“癒しの楽園”」と題した投稿の末尾は次のような文章で結ばれていた。筆者は私と同世代の、沖縄在住の編集者・コラムニストである。
不思議なことに、「癒やし」を求めるまなざしは、マジョリティーからマイノリティーへと向けられる。マイノリティーとは数の問題ではなくて、「政治的・経済的な弱さ」のことだ。その力関係を意識的に避けたうえで成り立つ「癒やしの島」のイメージは、これからの沖縄を深く静かに蝕んでいくだろう。
(2002.6.11 朝日新聞夕刊)
「政治的・経済的」に続いて「社会的」を加えてもよい。忌憚なく言わせてもらえば、たとえば障害者の“けなげな明るさに満ちた”本がベストセラーになる背景に、私はそんな一抹のきな臭さを感じる。前にこの稿で触れた日木流奈君を紹介したテレビ番組でも、かれの文章を読んだ多くの大人たちが流奈君に人生について問いかけ(まるでグルに教えを請うかのように)、「勇気づけられた」とか「癒された」などと答えていた。私にはそれらの風景が、「沖縄の癒し」にも重なるように思える。沖縄の基地問題を語らず、障害者の差別的環境を語らず、都合の良いパラダイスや奇蹟のイメージをこしらえて安易に癒しだなどとほざいている。お気楽な上澄みだけが、成熟した経済システムの俎上で見事に消費されていく。だから私は「ブーム」に背を向けたくなる。そもそも「癒し」なんてのはそんな簡単お手軽なものじゃないだろ、と私は呟くのである。そんな簡単なものならオレも癒されてみたいわ。
ところでこれも前に紹介した、うちの娘とおなじ病気の子供さんを持つ東京のMさんよりその後、保険の加入拒否を巡ってこんな内容のメールを頂いた。障害を持った子どもの親がどんなことを考えるか、その良い例なので許可を頂いてここに転載する。一部を編集してある。
学資保険については、ご推察の通り郵便局のものです。 つまり、私がショックだったのは保険に入れるか、入れないか、などと二つに別れるとき、●●は入れない、という分類にされてしまうのだなあ、、ということだったのです。 世の中二つに一つっていうことってたくさんありますよね。例えば足の速さでいえば50メートルを5秒で走る人から15秒かかる人までいろいろな人がいるかと思いますが、7秒くらいで走れば足が速いね、と言われ、13秒で走ればちょっと遅いね、と言われるでしょう。そのようにはやかろうとおそかろうと、自分の能力を正しく認識されればそれでいいのです。 もちろん速いにこしたことはないですけどね。今まで●●の問題というのはふつうに生活していくのを50メートル走にたとえたら、ちょっと不便かもしれないけど別にふつうに生活を送れるのだから、人よりちょっと時間はかかるかもしれないけど走れる、と思っていたわけです。でもそうじゃなくて、ドクターストップで走れない子だった、、、という感じでしょうか。。(この例え、わかっていただけるでしょうか?) その延長でもし手帳をもっていたとしたら、その級は軽くても、そして軽い級であれば健常者とかわりなく生活を送れるのだとしても、世間の認識というのは”あの人は排泄にちょっと障害があるんだ”(”あの子は足が遅いんだ”)ではなくて”あの人はショウガイシャなんだ”(”あの子は走れないんだ”)になってしまうのかな、、ということなのかな、、と思ったわけです。 |
このMさんの悲しみというのは私にも無論、よく分かる。つまり世間はじぶんに理解できないものにはレッテルを強要し、こまやかなニュアンスは削ぎ落とされる。小さな差異をひとつずつ消していけば、健常者と障害者という区分も消えてしまうはずである。さらにキリスト教徒とイスラム教徒、黒人と白人、部落民と天皇といった区分も、消え失せる。金子みすずじゃないが「みんなちがって、みんないい」ということになる。しかし他者への想像力の欠如した安易なレッテル貼りは、それとは逆の作用で絶え間ない差別を分泌する。障害を持った子どもの親は、子どもの病気以上に、そのような社会的偏見に恐怖するのである。これらの構図もまた、前述のお手軽な「癒し」の風景と確実にリンクしているように私には思える。
最後に、この稿でも何度か登場している秋田在住のお医者さんであるgotoさんより、子どもの経過についてこんな励ましのメールも最近頂いたので、併せて紹介しておく。
こんばんわ、gotoです。紫乃ちゃんの導尿、上手くいっていますでしょうか。2時間おきでは大変でしょう。でも、きっと、きっと慣れます。完全に膀胱機能が廃絶しているわけではないので、他の子よりは良いのではと思います。今は2時間おきになっているけど、将来的にはもっと少ない回数でいいのではとも思います。 gotoとしては残尿が早くわかってほっとしているような部分があります。紫乃ちゃんの排便機能では、きっと排尿機能も多少はやられているだろうと思っていたので。 小学生で導尿摘便している二分脊椎の女の子を昔診ていました。小さいときからやっているので、本人はそれほど負担を感じていない様子でした。長い目で見れば、逆流性の腎盂腎炎や膀胱炎を予防する手段が大切です。子どもはとても柔軟です。紫乃ちゃんは理解がとても良いような気がします。今はただいやがるだけだけど、年齢が進んできちんと理解すればもっと楽にやれるはずです。しばらくの辛抱だと思います。大変だけど、続けていってください。 野迫川の作業を終えて帰ったとき、紫乃ちゃんが「とお、とお」ってとすり寄ってきた、その匂いが愛おしいっていうゴム消しの文章に、あー、羨ましいと思いました。いっぱい手が掛かる子は、そのぶん可愛くなってゆきます。紫乃ちゃんが病気でなかったら、まれびとさんはその匂いをほんの少ししか味わえなかったかもしれません。紫乃ちゃんの熱や風邪はだいたい平均的のようです。いえ、むしろ強いほうかも。でも、幼稚園など集団に入ったら、きっともっとたびたび熱を上げるでしょうね。幼児期はそんなものです。どうせそうなのだから、熱を上げたときはとことんつきあってあげてください。わがままにもなるし。子どもが大きくなったとき「愛された」っていう思い出は、熱をあげたとき親がとことんつきあってくれたことっていう人が多いです。十分に愛された子どもは幸いです。ほかの人に分ける愛情も貯金されています。あー、gotoもすり寄ってくる子が欲しい! あの肌の感触、あの匂い、たまらないです(だから仕事が楽しい)。 では! |
文中の「いっぱい手が掛かる子は、そのぶん可愛くなってゆきます」というくだりを読んで、つれあいが「ほんとうにそう」だと、しみじみと頷いていた。それにしてもgotoさんが、そんな重症の「赤ん坊フェチ」だとは知らなかったです。
2002.6.11
* 橿原市に今年3月に開館した「おおくぼまちづくり館」を見てきた。大正時代に神武天皇陵の拡張整備に伴い、被差別部落がまるごと集団移転させられた旧洞(ほら)村の歴史を伝える貴重な資料館である。
留意しておきたいが、もともと天皇陵より前に洞村はすでに存在していた。歴史の彼方に消えていた神武陵が現在の地に比定されたのはやっと幕末の頃である。「畝傍山の東北陵」という書紀の記述より、近在の塚山、丸山(洞村の最上部)、神武田(じぶでん・ミサンザイともいう)の3カ所が候補地とされ、当初は塚山が比定されたがこれは後に二代綏靖陵へ変更され、結局、神武田が神武陵となったが、丸山もなお可能性が残るということで「宮」の文字を入れた石柱で囲まれ祀られていた。しかしこの神武田にしても、洞村の古老の話では「ここは直径10mくらいの小塚が2つ並んでいて、もともと地元では糞田(くそだ)と呼んでいた。ひょっとすると牛馬の処理場で、掘ると牛や馬の骨が出るかも」というくらいで、そもそも紀元前660年に即位して127才まで生きたなどという伝説上の人物の墓がどこにあるかなんて分かるはずもない。現在ではうっかりすると、二千年以上の神代の昔からあの地に鎮座していたように錯覚してしまうが、亡き住井すゑ氏がかつて言っていたようにまこと「嘘も長いことつき続ければ本当になる」のである。
この江戸時代にはささやかに祀られていた神武田が、俄に現在のような立派な形に整備されていくのは明治維新後であって、そこには無論、天皇制を軸とした国家権力装置としての象徴的な目論みがあったことは言うまでもない。俄仕立ての神武陵に隣接する形で畝傍山の北東山麓に位置していた洞村が、天皇陵よりやや小高い地勢にあったことから「御陵を見下ろすのはけしからん」という声が出始めたのは、大正天皇の神武陵参拝がきっかけであったらしい。以下に資料館の展示より書き抜きした、当時書かれた「皇陵史稿」なる研究書の一部くだりをあげる。
... 驚くべし。神地、聖蹟、この畝傍山は無上極点の汚辱を受けている。知るや、知らずや、政府も、人民も、平気な顔で澄ましている。事実はこうである。畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して新平民の墓がある。それが古いのではない、今現に埋葬しつつある。しかもそれが土葬で、新平民の醜骸はそのままこの神山に埋められ、霊山の中に爛れ、腐れ、そして千万世に白骨を残すのである。どだい、神山と、御陵の間に、新平民の一団を住まわせるのが、不都合この上なきに、これを許して神山の一部を埋葬地となすは、ことここに至りて言語道断なり。聖蹟図志には、この穢多村、戸数百二十と記す。五十余年にして今やほとんど倍数に達す。こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵の間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、おいおい霊山の全部を浸蝕する。
後藤秀穂「皇陵史稿」(1913・大正2年)
こうした世論の圧力に押され、旧洞村の住民たちは長年住み慣れた村を土地ごと宮内省に「自主的に献納」する形で移転を決める。(御下賜金として当時の金額で総額31万5千円が支給され、住民はそれを移転費用に充てた) はじめは隣接する山本村への移転を希望したが同村より拒否され、最終的に約1キロ東の大久保地区と四条地区にまたがった1万坪の土地に移り住んだ。しかしこれらの地区から「墓地ハ両大字領ニ設置セザルコト」との条件をつけられ、村の墓地は別に前記の山本村内に移された。この墓地の移転に際しては「一片の骨さえも残してはならない」といった徹底さで掘り返されたという。
「おおくぼまちづくり館」の建物はこのときに旧村より移築したもので、築100年を超すなかなか立派な木造2階建てである。移転に伴い村の面積は約4分の1に激減したために、多くの家は規模を縮小せざるを得なかったらしい。館内ではDVDによる映像の他、1階に移転に際する資料、2階に村の主産業であった草履表や皮靴づくりの様子が展示されている。一見するとパネル展示の解説などは移転がおだやかに、あるいは環境改善のために進められたかのように書かれているが、よくよく資料に目を凝らせば、やはりそこには不条理な言いがかりによって住み慣れた村を追い出された者たちの恨み、そして天皇制への複雑なまなざしがしずかに滲み出ている。たまたまどこかの小学校の教師たちが団体で見学に来ていたのだが、案内をしていた男性の言葉の端々にもそれらは嗅ぎとれた。実際に、昭和天皇崩御の際には機動隊が村中を巡回したり、天皇が参拝のときに乗ってくる「お召し列車」の線路沿い(現在の部落に接している)に警官と近鉄の職員が立ち並んだりと、いまもこの村が権力の監視の対象となっているという話なども聞く。「ここほど天皇制を日常的に感じられる場所はない」とも。
村内のほぼ中央にある、旧村より移築された生魂神社に立ち寄ってから、その足で旧洞村の跡地を訪ねてみた。資料館の受付にいたおばちゃんの話では、現在は神武陵の一部であるため、団体の見学のときにはいちいち宮内庁の事務所に連絡をするのだそうだが、一人くらいなら別段構わないだろう、とのことであった。資料館から歩いてもほんの数分、橿原神宮に隣接する神武陵の入り口からだだっ広い砂利道の参道を右へカーブするようにしばらく進むと、神武陵の鳥居が正面に見えた頃に、左へ入っていく小径がある。これは陵をなぞるように山本村へ続くひっそりとした道で、仮にここでは「山本道」としておく。山本村にじきに抜け出る手前左の「危ない」という注意板が木にくくりつけられた小径を上るとすぐに、水不足で苦労した旧洞村の住民たちが自力で造成した広い溜池に出る。私はこのほとりにしばらく佇み、近くのスーパーで買っておいたおにぎりの昼食を食べた。これだけの池をせっかく苦労して造りながら村を捨てなければならなかったのはさぞ無念であったろう、と思わず当時の村人たちの気持ちが偲ばれるような立派な灌漑用池である。池の場所が分かったので、村の方向も目星がついた。もういちど「山本道」の起点に引き返して、そこからすぐと、しばらく先のやはり左手の、少々薄暗い小径が旧洞村跡地へ続く道で、後で知ったことだが奥で合流するのでどちらを行っても良い。地面が湿気を帯びた、何となく薄気味の悪い鬱蒼とした道であった。10分ほど行くと、資料館の映像で見たレンガ造りの村の共同井戸があった。草履表に使うシュロの木もいくつか見た。それらは住居の跡であるという。資料の記述では茶碗のかけらなども落ちているというのだが、残念ながらそれらは見あたらなかった。ともかく、すでに80年の歳月が流れている。村は見事に消失し、後に植えられた樹木がまるで原生林のように、かつてあったろう日々の賑わいの痕跡を埋め尽くしていた。ともあれ機会があったらもう一度、こんどはもう少し丹念に歩き回ってみたい。
せっかくだからと、帰りしなに神武陵も見ておくことにした。かつて「糞田」と呼ばれた小さな塚が、いまでは巨大な権力の衣を幾重にもかぶって、神々しく鎮座している。もちろん、それは空虚でひどく愚かしいまぼろしである。立ちつくした私の目の前で、それらの空間はたちどころに色褪せてかき消え、代わりに山のふもとの樹の間から、共同浴場の湯が沸いたと村中に告げる威勢のいい声が聞こえてくる。神武陵地に隠された旧洞村の静謐な跡地は、この国の闇を照らし出す貴重なスポットである。機会があったらぜひ一度、立ち寄られたい。
「おおくぼまちづくり館」は住宅地内にあるのでやや分かりにくいが、近鉄橿原線・畝傍御陵前駅より北西の方角(徒歩5分)、橿原神宮前の大通りの「農業試験場前」バス停付近から現在の大久保町へ入った辺りにある。住所は橿原市大久保町40-59 tel 0744-22-4747 午前9時より午後5時まで 休館日は月曜(祝日の場合は翌日)と年末年始(12月25日より1月5日) 入館料100円(18才未満無料) 参考まで。
2002.6.12
* 「こないだの朝、あっちの空に見たこともねえ長え長え雲があって、それがいつまで経っても動かねえ。一体全体、どんな按配になってるだか、その雲の下まで行ってみたくてよ。急いで弁当持って、どんどんどんどん歩いて行っただ。いくら歩いても、なかなかその下まで行きつけねえ。それでも、どんどんどんどん歩いて行っただ。とうとう、その雲の下まで行っただ (と、話している当人が言うのだ)。そこは原っぱでよ。じいさんが一人で草笛吹いてただ。しばらくそばで聞いてたけんど、汚ねえじいさんで、別に面白くもねえ。可哀そうになって百円玉一つくれてやって、とっとと帰ってきただ」
七、八年前、畑を耕して山羊だの犬だのと暮している、しごく丈夫なお婆さんから、こんな話を聞いたとき、大へん愉快な気持になった。この本の「浅草花屋敷」の冒頭に記した、お寺のヤエちゃんと、このお婆さんが、私の物見遊山のお手本である。
「遊覧日記」(武田百合子 写真・武田花 ちくま文庫)
こんなふうに武田百合子さんは東京の町を、写真家で娘の花さんと連れだってぶらぶらと散策する。古本屋の百円均一の文庫棚を漁っていて、まず手にしたのがこの一冊。花屋敷は、私も子どもの時分にいちどくらい行ったはずだと思うのだが、記憶にない。続いて手にしたのが、早稲田の理工学部教授で建築家でもある著者による「笑う住宅」(石山修武・ちくま文庫)で、表紙下部に「住宅病(ホームシック)に効きます●ショートケーキ住宅のつまらなさがよくわかります●住宅流通のオカシサもわかります●ひょっとしたら自分でも家がつくれるかもしれないナと思わせます●「街に住み込む」ためのマニュアルでもあります●勇気や元気が出ると思います」とある。ログづくりの手伝いなどをしていると、こんな本も読みたくなってくる。面白かったらKeiさんたちに流そうかな。最後はご愛敬で、ある料亭経営者の著者による「趣味でつくる男の料理」(倉橋柏山・旺文社文庫」 しめて315円也。
子どもはしばらく前から、よたよたと掴まらずに歩くようになってきた。いまでは6畳間の短い方の辺を端から端へ、上手なときには2, 3度、自力で往復できる。もちろん左足首はいつも横を向いて、おぼつかない酔っぱらいのような歩みだけれども。それでも体操やプール教室で、他の子供たちはみな歩いているものだから、じぶんもおなじようにできると分かってひどく嬉しいらしい、始めると30分か40分くらいは平気で、倒れると「モイッカイ」と元気な声を出していつまでも続けている。
2002.6.13
* ひさしぶりに赤ん坊をプールに連れて行く。「あら、お父さん、ひさしぶりですね」と年輩の女性コーチに声をかけられ、「いや、このごろ腹が出てきたもんで、お見苦しいかと思いまして」と答えて笑われる。子どもは相変わらず大はしゃぎである。水のなかで二人でケラケラと笑い戯れていると、いつの間にか輪を大きくはずれて、何度か若い女の子のコーチに呼び戻される。帰ってざる蕎麦の昼食を食べ、網戸のゆがみを直してから、子どもと並んで昼寝をする。鼻の穴にちいさな指を突っ込まれながら眠ってしまう。夕方、紫乃さんと散歩に出た。アパートの前の道のガードレールの下にちょこんと座って、「とお」もここに座れ、と傍らを指す。二人で涼しい風に吹かれて、蟻を見たり石ころを拾ったりする。舗装の上に石ころで三角や四角や丸を描いたらひどく喜ぶ。じぶんでもやろうとするのだが、力が足りない。こんどローセキを買ってあげよう。
この世は悲しいことだらけだ。なくてもよい者同士が無用に互いを傷つけあい、己を虐げ、あるいは暴力的な言葉が他を屈服させようと迸る。私はときにその元凶であり、ときに逃げ腰になる。
夜。布団の上で突然、あしたは天王寺の動物園に行こうか、紫乃さんにゾウやライオンを見せてあげようよ、とつれあいに言う。つれあいは私のいつもの唐突な気まぐれに、仕方なしに苦笑して頷く。
2002.6.15
* というわけで、オニギリを持って天王寺動物園に行って来た。猿蟹合戦ではない。紫乃さんは昼寝をしているトラやライオンより路上のハトが好きなようで、親の手をひいて「マッテ、マッテ」と言いながらケラケラと笑い、追いかけていく。水族館のような水中の仕切がついた、カバが不在のカバ池のガラスの前で小さな小魚を熱心に観察し、シロクマの前では当のシロクマよりも柵につかまって歩くのが面白いらしい。そして改装したてのサバンナ・エリアではキリンやシマウマに一瞥くれた程度で、相変わらず地面の上の枯葉や小石を手の平いっぱいに拾い歩いていた。どうも親の思惑とはズレがあるが、本人はいたく愉しかったようなので、まあそれでいいのだろう。
帰りは近鉄に寄って、萩焼の急須をひとつ買った。以前のものはひと月ほど前に割ってしまい、しばらく百円均一のものをとりあえずの代用にしていたのだが、陶器に五月蠅(うるさ)いつれあいの、やっと満足できるものが見つかった (彼女は「(予算の都合で)まあまあ、妥協点」と言うだろうが)。つれあいの好みらしい、薄いピンクの、さしずめ「古今和歌集」と名付けたいような気品香る一品である。湯飲みとセットであったものを、少し無理を言って単品で売ってもらった。
駅前の路上で、確かだんじり囃子であったか、太鼓と鳴り物が二組づつの若者のストリート・パフォーマンスをやっていたのを一曲、聴いた。さしずめホットなミニマル・ミュージックかバリ島の音楽のようで、やはり「アジア」を感じる。天王寺という地は、やはりアジアにつながっている。子どもはベビー・カーの上でしばらく目を丸くして熱心に見入り、やがて両足を激しく動かして踊り出した。打楽器というものは、人の脳を直撃する奇(あや)しに満ちている、とあらためて思う。良い演奏だった。
2002.6.16
* 紫乃さんは今日、夜中に見ていたディズニーの英語教材のビデオのなかにプルートのバースデイ・ケーキが出てきて、やおら「ケーキ、ほちい。ケーキ、ほちい」と言って駄々をこねた。今日は昼寝をしそこねて、夕食のときに眠くてご飯をあまり食べなかったのだ。お母さんは「駄目だよ」と顔をしかめたのだが、ケーキのように甘いお父さんは昼間サティで買った紫乃さんの大好きなレーズン・パンを「今日だけだよ」と言って差し出した。にっこり笑って、頬張ったのである。
ある人のBBSで、ちょっとしんどくなった。パンツも履かずに逃げ出した。これからいよいよ本番だってのに。いや、精液の一滴(ひとしずく)くらいは漏らしちまったかもな。やわらかな気持ちを取り戻したいときには、武田百合子さんのエッセイとジャクソン・ブラウンのCDに限る。私はたいてい、そうだ。他の人のことは知らない。世の中には馬糞のぶつけ合いで興奮する人もいるのだろう。私は世界に号令をかけたいなぞとは思わないし、じぶんをセツメイすることも面倒くさい。英国風の庭でしずかに紅茶を啜りたい。世界の深刻な諸問題より、子どもと遊ぶことの方がその数百倍も私には大事なことだ。
清志郎も書いていたものだ。
ギ論をしたいのかい?
だけど ムダじゃないけれど
ほんのちょっと理解し合い
あとは誤解し合う
なぜ ギ論なんて !
ソクラテスとか アリストテレスとか
実感のわかないこと
命令したいんだろ、ほんとは。
男に女が必要なんだ
わかってくれる奴が必要なんだ
たった一人いればいい
自信をもって
答えよう
答えるだけは してもいいさ(忌野清志郎・十年ゴム消し)
ロックン・ロール・シューズが欲しい。麻薬でおっ死んじまったアイツが履いてた、あの真っ赤なイカレたシューズだよ。
2002.6.17
* 昼の食器を拭きながら、ひさしぶりにマーシーのテープを聴いた。これはずい分昔に私がいまのつれあいにプレゼントしたもので、60分テープに私の好きな曲ばかりが入れてある。かれの音楽は、ほんとうにいつも、私の心根に近しい。偶然だが私と同い年で、長靴下のピッピが好きで、「チェイン・ギャング」のような狂おしいブルースと「子犬のプルー」のような少年のロマンチシズムが、不思議なバランスで同居している。ほんとうにかれの歌は私の感覚と瓜二つで、とても他人のように思えない。つまり、そういうことなのだ。私はインテリゲンちゃんではないし、ホワイト・カラーでもないし、○○主義の信奉者でも理論武装した活動家や学者の類でもない。そういうものにはなりたくないし、私がいるのはそういう場所ではない。私はスーパーの見切り品の棚を漁ってカレーをこさえ、下手なギターを子どもに聴かせてミュージック・マガジンの The Band 特集を哲学書のごとく読みふける。夏の夜にはバイクに乗って意味もなく駆け回る。だから、私は、言説というものからいつも自由だ。イカレたロックンロール・シューズと口ずさむ歌だけがあれば、いつでもどこへでも好きなところへ歩いていける。要らないものはいつでも捨てられる。これはべつに誰かへの当てつけなどでは勿論なくて、ただ、私のささやかな矜持である。
嵐の中で抱きあって
これが最後じゃないのかと
いつもそんなせつなさで
ぎりぎりのキスをしよう錨を上げて帆をはって
冷たい雨にうたれても
夢がついに破れても
この旅は終わらないよだからもう涙をふいて
だからもう怖がらないで
よくみてみればわかる
たいしてことでもねえ消えてゆくのはまぼろしか
なにかとても大切な
忘れ物をしたような
この気持ちくすぶってるどこにも落ち着かないで
どこにもたどり着かない
風のオートバイに乗って
虹の彼方までさ(真島昌利・風のオートバイ)
2002.6.19
* ユングの『ヨブへの答え』(林道義訳・みすず書房) を読了する。はじめに、このユング晩年の著作が如何なる運命に見舞われてきたか、訳者解説の冒頭を引く。
偉大な思想がつねにそうであるように、ユングの思想も長いあいださまざまな誤解を蒙ってきたが、なかでもとくにこの『ヨブヘの答え』は誤解という以前の、無理解に曝されてきたし、キリスト教徒の側からも多くの的はずれな批判や非難を投げつけられてきた。これは宗教現象を論ずる者の宿命であるとも言えるが、けっしてそれだけではなかった。なぜなら宗教について外から何を論じようが宗教の側はさして痛痒を感じないが、ユングは正統派キリスト教とははっきり異なる立場に立ちながら、それでいてその核心に迫る深い内面的な分析を行なってみせたからである。それはキリスト教徒にとっても、謙虚に耳を傾けるならば多くの貴重な洞察を与えてくれるものであったが、しかしそれを偏狭な教義学の立場からキリスト教に敵対するものと即断した者は、異常に興奮して、やっきになってユングの所論を葬り去ろうとしたのであった。
異常な興奮は核心をつかれた者がしばしば見せる反応であるが、興味深いことに非キリスト教徒もまたこの書を読んで、心を揺さぶられ、とさには激情をかきたてられるようである。それはおそらくこの書が単にキリスト教徒の心の底をえぐり出しているというに止まらず、もっと一般的に人間の心の奥を照らし出しているからではなかろうか。本書は旧約聖書と新約聖書にまたがるユダヤ-キリスト教の全歴史を貫く人間の心の変容を、意識と無意識のダイナミックなせめぎあいを通して明らかにするものである。
ユングにおいて、神と人の無意識は常に密接なつながりを持つ。無意識というのはわれわれの意識が捨て去ってきたもの、あるいは遠い古代の記憶・深い海のような底知れぬ領域であり、その世界は言語ではなく様々な象徴によって支配されている。われわれの夢や神秘的体験において示されるイメージがそれである。無意識はそのように、ときに危機的状況に陥った意識に助言を与え、また他方で弱くなった意識を呑み込み海中へ引きずり込む怖ろしい〈凶暴な母の口〉の側面も併せ持っている(分裂病などの重度の精神病患者のケースが後者のそれである)。つまり無意識は、意識のような合理性を持たないが故に、原初の暗い非合理な夾雑物に満ちている。それだからこそ、無意識は意識の合理性を超えた助言者ともなり得るのである。意識・言語の限界を、象徴・イメージは軽く跳びこえる。われわれはどうにもならない苦悩の底で、理性を超えたある啓示的な閃きをときに受け取ることがある。後半に出てくる聖書の黙示録についてのくだりで、ユングは黙示録の記述を、あまりに模範的でストイックなキリスト教徒たらんと努めた著者ヨハネの意識が、逆に非キリスト教的なおぞましい無意識のイメージの氾濫に晒されたその産物である、と読み解いている。私にはそれはとても面白く興味深い仮説であった。そしてこの本の中でたびたびユングが言及している「神の人間化」という耳慣れぬ言葉。闇の領域に在る無意識は常に意識の光を浴びたがっている(神は人に憧れる)。 つまり、意識と無意識の〈聖なる婚姻〉によって人は十全たる存在(真の自己・個性化)へ到達することができ、その橋渡しをするのが象徴・イメージの力である、というのが大雑把なユングの基本理念である。私はおおよそ、かれのこの説に同意する。それは臨床医として多数の人々の無意識の動きを観察してきたユングが経験的に辿りついた結論であるように、私も自らのみすぼらしい人生の経験を通じておなじように同意するのである。ここでいう無意識を、神と呼んでもいいし、仏と呼んでもいい。イヌイットたちのいうワタリガラスの魂でも、いっそ有り金を投じた競走馬の名前であっても、何でも構わない。あるいはそれを、エンデさんの物語るファンタージェンの国と読み解くこともできる。つまり〈橋の向こう側の力〉である。われわれ・人間はあまりにも意識の領土を拡大しすぎて、貴重な智慧の隠された無意識の深みを忘れてしまったのではないか。あまりにも言葉やその合理性を過信しすぎて、象徴を読み解く力を失ってしまったのではないか。貧相な小舟を浮かべている足下の広大な深みに気づくべきではないか。われわれは神より切り離された、それぞれちっぽけな断片である。断片は常に神を希求する。そして神もまた、人間に憧れ、人間を(その意識の光を)必要としているのである。ユングの辿りついた地平はそのような場所であった、と言っていい。最後に『ヨブへの答え』の終章の部分を、幾分長くなるが、ここに引いておく。これがこの本の結論であり、ユングが言いたかった、多分ほぼすべてである。
神がわれわれに作用を及ぼすということを、われわれは心を通じてしか確認することができないし、しかもその場合にこの作用が神から来るのか無意識から来るのか区別することができない、すなわち神と無意識が二つの異なるものであるのかどうか確かめることはできないのである。神と無意識とはどちらも超越的な内容を表わすための極限概念(*後註) である。しかし、無意識の中には全体性の元型が存在していて夢などの中に自発的に現われるし、また意識的な意志から独立したある傾向があって、それがこの元型を中心にして他のもろもろの元型を関係づける働きをしているということを、経験的には確かに確認することがでさる。それゆえ、この全体性の元型がそれ自体でもある種の中心的な位置を占めていて、そのためにこの元型が神像に近いのだということも、ありえないことではないように思われる。両者が似ているということは、とくに次のことによって確かめられる。すなわちこの元型は、昔からすでに神を特徴づけたり具象的な姿で示したりするような、シンボル群を産み出していたのである。この事実は、さきほど述べた神概念と無意識とは区別することがでさないという文章を、さらに限定して明確にすることを可能にしてくれる。厳密に言うならば、神像は無意識そのものと一致しているのではなく、無意識の特殊な内容と・すなわち自己の元型と・一致しているのである。この元型こそわれわれがもはや経験的には神像から切り離すことのできないものである。なるほどこの二つのものの違いを勝手に想定することはできる。しかしそれは何の役にも立たないどころか、逆に人間と神を引き離すのを助長し、それによって神の人間化を妨げることになる。神が測りがたく到達しがたいということを信仰が見えるようにし、感じさせるようにするということも、たしかに正しいことである。しかし信仰は神が近くにいるということ、いや直接に体験できるということをも教えるのである。この近いということに何か意味があるとすれば、その近さは必ず経験されるはずである。私に影響を与えるものだけを、私は実在するものとして認識する。しかし私に対して影響を与えないものは、存在していないも同然である。宗教的な欲求は全体性を求め、それゆえ無意識の提供する全体性のイメージを掴み取る。このイメージは意識とは独立にこころ(ゼーレ)の探みから浮かび上がってくるものである。
*極限概念.........理論的に設定された純粋概念で、そのとおりのものは現実に存在しないが、しかしそれを基準にして現実を位置づけることができる。
2002.6.19 深夜
* 子どもはしばらく前からトイレ・トレーニングを始めている。おしっこをオムツにでなく、オマルやトイレでするようにし向けているのである。排尿機能にも若干の障害があるのでどこまで有効なのか分からないが、たまにじぶんから教えてくれるときもあるのである。ただしその場合でもオマルやトイレの子ども用補助便座に座ることをなぜかひどく嫌がり、代わりに浴室で、浴槽の端に掴まり立ちした格好でしかやらない。それで今朝は私が小便をするときにトイレのドアを開け、その前に椅子を持ってきて観客席よろしく子どもを座らせ、父親の排尿シーンをとくと見せてやった。子どもははじめての光景に、なかば呆然と目を丸くしていた。何と奇妙キテレツなところからおしっこが出るものだと、衝撃的であったようだ。それでも相変わらずじぶんは便器に跨るのを嫌がるが、それから私がトイレに入るたびにいそいそと駆け寄ってきて、見せろ見せろと執拗にドアを叩くようになった。
今日は実にめずらしく、お風呂からあがってじきに眠ってしまった。それでつれあいと二人で、もう大分前にテレビで録り置きしていた映画「市民ケーン」のビデオをゆっくりと見た。恥ずかしながらはじめて見たが、なかなか面白かった。ビデオが終わってそのまま、NHKでやっていた「マスード 敗れざる魂 長倉洋海が見つめたアフガンの20年間」を途中から見た。マスードの遺体を収めた棺が土をかけられ、数ヶ月後にその丘の上に石組みの廟が設けられ人々が詣っている映像を見た。
2002.6.20
* 金曜、朝。大阪行きの各駅列車。途中から隣に座った河内のおばちゃんが、前に立っている若い女性に声をかけて喋り出す。飼い犬につくってやった手製の靴の話。茄子のヘタを煮込んで小物の色染めに使うこと。知り合いから譲り受けた人形のこと。その人形の髪の毛が毎日少しづつ伸びて、夫が喉を悪くした。だから人形は余所から貰うものじゃない、とおばちゃんは言う。天王寺で降りて、職安へ行く。己の無価値と徒手空拳を思い知る。いつもの駅前の王将で昼飯。日替わり定食、唐揚げのあんかけ丼と餃子一人前。なぜかJR難波まで出て、そこからぶらぶらと梅田へ向かって歩いていく。とある銀行のビルで、屋上から吊したロープにぶら下がり窓拭きをしている若者の手並みを立ち止まり、しばらく眺める。ビューティフルな仕事だ、と思う。Morrison の Cleaning Windows だ。週末にはケルアックを読み、サクソフォンを吹いて愉しむのさ。梅田の曾根崎警察署近くの本屋に入り「アシジの聖フランシスコ」(J.J.ヨルゲンセン・平凡社ライブラリー)と「ロックの感受性」(仲井戸麗市・平凡社新書)を買う。他にもいろいろ見て回る。それからロフトの近くの映画館へ行く。先日新聞に評が載っていたチェルノブイリ後の村を撮った「アレクセイと泉」を見るつもりだったのだが、来週からの上映だった。早とちりだった、と舌打ちする。ロフトをすこし覗いて、そのままふたたび南下する。たしか以前にいまのつれあいとこの辺のラブ・ホテルに入ったときに近くに雰囲気のいいジャズ喫茶があったはずだが、と探すが道を誤ったらしく、出くわした大阪特有の長大なアーケードの商店街を入っていくとやがて賑やかな天満駅前に出た。環状線で天王寺へ戻る。どこか静かな木陰で買った本でも読もうと四天王寺へ歩き出す。いつもはまばらな駅前からの道がひどく混んでいて、道沿いに出店がずらりと並んでいる。偶然、月に一度の縁日であった。釈迦の命日か何かで、毎月21、22日の両日がそうなのだった。広い境内いっぱいに所狭しと、百を超える出店がひしめきあっていて、わくわくしてくる。ほとんどは衣類と骨董品だが、他にも乾物や水菓子、九州の特産物、備長炭やアジア雑貨、たわしの工芸品、手作りの木のおもちゃ、昔のブリキの玩具、中古のビデオやレコード、焼き物、生活雑貨、靴、楽器、高野槙、それに赤飯などもその場で蒸かして売っている。骨董品の店には昔の電車のプレートや軍人の心得を記した書や路傍の石仏や実に怪しげなものが満ちていて、中には錆びついてぼろぼろの大工道具や鉄屑ばかり並べているような店もある。弁財天の傍らの木陰に腰を下ろして、賑わいを眺める。向かいの店は広げたブルー・シートの上に時代物映画のビデオを並べているのだが、裏手にあたる長机の下にプラスチックのボックスがさりげなく置いてあって、ときおり気がついた客が熱心に覗き込んでいく。何かと思ったら、金髪姉ちゃんのエロ写真なのだ。ひとつのボックスにはふつうのL版のブツが何十枚も雑然と投げ入れられていて、もうひとつのボックスには大判のブツをファイルしたものが入っている。よく見るとその横にビニールに入れた大人のオモチャの類もこっそりと置いてある。聖徳太子由来の四天王寺の境内である。こういう聖俗ないまぜの光景は、何かいいなあと思う。たいてい中年か初老の男性がほとんどだが、漫然と歩いてきてふと傍らのボックスに気づいて足を止め、熱心に物色し出す。なかにはそうして立ち去ってから、また戻ってきてもういちど見返す人もいる。だが買っていく人は皆無に近い。店主はよその同業者と一杯ひっかけていてらしい、ふらりと帰ってきて店番を頼んでいた馴染み客らしい男から僅かな売り上げを渡されると、ビールを呑んできてビール代が入ったわ、と笑う。向かいで婦人物を広げている実直そうな中年男性は、この店主の話では伊賀上野で商売をしていてかれの口添えでここに出店したのだという。その婦人物の店主は夜の集まりに誘われて、いや今日はどうしても抜けられない用事があるんで、と丁重に断る。それからじぶんのワゴン車の助手席から焼酎の瓶を出してきて、これでみなさんで一杯、とビデオ屋の店主に手渡す。店主は馴染み客と出店の屋根に使うテントの話をしている。ブルー・シートは雨漏りがして役に立たない、と言う。傍らの古札を入れた木の箱を指して、これなんかいつか雨で中までびしょ濡れになっちゃってさ、オレ一枚づつ乾かしたよ、と苦笑してみせる。そこへ余所の店のおばちゃんが三人ほど、古いネクタイで縛ったガラス扉の付いた大きな木箱をぞろぞろと抱えてきて私の傍らに積み上げる。ゴルフ大会の賞品だろうか、中にはクラブのミニチュアなどが据えられていて、ビデオ屋の店主がひとつ二千円で買ったものらしい。オレ中身は要らないんだけど箱をこれの代わりに使おうかと思ってさ、と長机の上の中古の腕時計などを飾っている、よく寿司屋でネタを入れているようなガラス張りのケースを指して店主が説明する。これなら軽くて、鍵も付けられるし。ああこりゃあ好いね、こりゃ好いわ、と居合わせた同業者たちが腕組みをして見る。オレ中身は要らないんだけど、と店主はおなじことをもう二度ほどくり返す。夕方になって、ビデオ屋の隣で古着を広げていた夫婦がそろそろ片づけを始める。細君が汗だくになって白いシーツにくくりあげた荷を、亭主が一トン車の荷台に積み上げていく。作業を終えて、細君がどこかで買ってきて手渡した缶ジュースを亭主が一気に飲み干し、二人でどうも売り上げがさっぱりだといったような会話をしている。トラックにはトヨタ・レンタリースのロゴがあり、こんなレンタカー代だけで足が出てしまうのではないかと余計な心配までしてしまう。ビデオ屋の店主は馴染み客がそろそろ帰るというので、ちょっとその辺を散歩していこうか、と店をほったらかしにして行ってしまった。しばらくして小太りの中年の男がひとり歩いてきて、例のエロ写真のボックスに気づき、しゃがみ込んで一枚一枚手にとって丹念に見始める。それからもうひとつのボックスのファイルをめくり出す。ふと意を決したようにファイルを閉じ、手にしたまま辺りを見回す。ワゴン車の中を覗き、隣の店の者に訊ねる。諦めて、店主が座っていた簡易椅子の上に腰を下ろし、ふたたび手にしたファイルを開いてはじめからじっくりと見返す。頭をあげて周囲を見回す。またファイルに目を戻す。店主はサテどこまで行ったか、また余所でビールでもひっかけているのか、なかなか戻ってきそうな気配がない。
2002.6.22
* 真夜中に雨が降り、どこか生ぬるいような風が吹き荒れている。何か大切なことを思い出せそうなのだが、思い出せない。木偶の坊のように立ち尽くし風に嬲られている。
かれを落ち着かせないのは、胸の内のはっきりしない不安である。かれをたえず駆り立てるのは、魂にささったとげである。
「アシジの聖フランシスコ」(J.J.ヨルゲンセン・永野藤夫訳)
2002.6.24
* 拭い去りがたい思いが心の中にあるのに、それを見ようとしない者は、どこかに小骨の刺さったような気持ちを持ち続けるに違いない。いるべきでない場所にじぶんを偽り諭していつづける者は、居心地の悪い思いに苛まれ続ける違いない。下からの声に耳を傾けまいとする者は、ずっと不幸なままであるに違いない。
フランシスコは友人に笑われて、腹を立てた------だが友人にではない。なぜなら突如としてありありと、かれのそれまでの全生活の愚かさ、無計画さ、子どもっぽい虚栄が眼前に現れたからである。かれは自分のみじめな全貌を見た------
この瞬間に、フランシスコはじぶん以外のだれに腹が立ったろう。だから古い伝説も、かれはこのときからじぶん自身を軽蔑し始めた、と語っている。
「アシジの聖フランシスコ」(J.J.ヨルゲンセン・永野藤夫訳)
あるとき私は、ただ木偶の坊のように立ち尽くし風に嬲られている。怖ろしいほどみじめで、ちっぽけで、何の価値もない。
この争いは独特の前提に、すなわちある事が物理的事実として示される・あるいは示された・ときにのみ「真実」であるという前提に、基づいている。たとえばキリストが処女から生まれたという事実を、ある人は物理的に真実であると信じるが、他の人は物理的に不可能であると反論する。誰にでも明らかなように、こうした対立は論理的には決着のつけられないものであり、それゆえそうした不毛な論争は止めるのが賢明というものであろう。つまりどちらも正しいしどちらも間違っているのであって、双方が「物理的に」という言葉を捨てようと思いさえすれば、簡単に和解できるであろう。「物理的に」ということは真理の唯一の基準ではない。というのも心的な真理というものもあるからであって、これについては物理的には説明も証明も反論もできないのである。たとえば、ライン川が昔あるとき河口から水源まで逆流したと広く信じられているとすると、この言い分は物理的に受け取ればおよそ信じがたいことと言わざるをえないが、しかしこのことが信じられているということ自体は事実なのである。そうした信仰は心的な事実であって、反論しようもなければ、証明を必要としてもいないのである。
宗教的な発言はまさにこの部類に入るのである。それは例外なく、物理的には確かめようのない対象に関わっている。そうでなければ、それは有無を言わさず自然科学の分野に入れられてしまい、自然科学によって経験不可能なものとして無効とされてしまうであろう。物理的な事柄については宗教的発言は何の意味も持たない。その世界では宗教的発言はただの不思議であり、それだけで疑いの眼を向けられるであろうし、またひとつの精神・すなわちひとつの意味・の実在さえ証明できないであろう。なぜなら意味とはつねにおのずから示されるものだからである。キリストの意味や精神はわれわれの内にあり、奇跡によらずとも感じとることができる。奇跡は意味をつかみとることのできない人々の知力に訴えるだけである。奇跡は精神の実在を理解できないときの代用品にすぎないのである。
宗教的な発言が物理的に証明されている現実としばしば対立することさえあるという事実は、精神が物理的知覚から独立していることを、また心的経験が物理的事実からある程度独立していることを証明している。こころは自律的な要因であり、宗教的発言はこころ(ゼーレ)の告白であって、それは最終的には無意識的な・つまり先験的な・働きに基づいている。この働きは物理的に知覚することはできないが、しかしその存在はそれに対応したこころ(ゼーレ)の告白によって証明される。
「ヨブへの答え」(C.G.ユング 林道義訳)
800年前のイタリアの小さな街である日、フランチェスコは子どもたちに乞食のように石もて追われていた。裕福な商人であった父親は戸口から、かつてはかれの希望であった息子の変わり果てた姿を見て、息をつまらせた。
つぎの瞬間、ピエトロ親方は戸口へ行って、そばに来ていた騒ぎ立てる人々の間に、長男フランシスコを見た。偉い男になってくれるだろうと、あれほど希望を抱いていた、その息子の姿を見つけた .....いまやっと戻ってきた息子は、恥ずかしい服装で、見るも無惨にやつれ果て、髪をもじゃもじゃにし、目のまわりにくまをつくり、石で傷つき、子どもたちの投げつけた泥で汚れていた.......これがフランシスコだった。かれの目の誇り、老後の支え、人生の歓びと慰めであるはずの-------もはやこうなってしまった、いまいましい歪んだ考えのせいで、こんなになってしまった.......
だがフランチェスコは正気だった。正気以上だった。かれはじぶんが求めていた居場所をとうとう見つけたのだ。偽りのないこころの告白に従う者は、すべて幸福だった。霊において生きる者は、肉においてときに蔑まれる。だがかれの内において、地上の価値はすでに逆転している。
つまり、そのときからフランシスコは「宗教的生活」すなわち修道士か隠修士の生活を、送る決心をしたのだった。修道院に入ろうとは思わなかったが、当時かれの身に起こった変化を、遺言では「この世を去る」という、修道生活に献身することを意味する、古い表現を使っている。つまり「わたしはこの世を去った」といっている。
私は私を軽蔑しつくしている。もはや私はいまの私のなかにひとつとして、良き果実が実るだろうとは思えない。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。葡萄の枝が幹につながっていなければそれ自身では実を結べないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことはできない。
(ヨハネ 15-4)
2002.6.25
* アパートの通路の溝に鳥のヒナがうずくまっているのを見つけ、お昼を食べていたつれあいと子どもを呼んだ。どうも庇を利用した巣から落ちたものらしい。屋根にあがって覗き込んでみたがとても手の届かない場所で、巣に戻すのをあきらめ、家で育てることにした。子どもの頃におなじような境遇のツバメのヒナを何度か育てたことがあるというつれあいの指導で、小さなダンボール箱に新聞紙を細かく引き裂いたのを藁代わりに敷き詰めて寝かし、鳥のエサも買ってきた。チビはもう大喜びで、「ももー。あーん」と言いながら一生懸命にスプーンでエサをやっている。「もも」というのは私がはじめ子どもにつけようとして却下された名前で(エンデさんの「モモ」と、八木重吉の娘の「桃子」に由来する)、つれあいはそれを私が拾ってきた鳥のヒナに勝手に名付けて子どもといっしょに呼んでいる。夜、野迫川倶楽部のKeiさんのところへ電話をして訊ねたところ、親鳥の特徴からヒナはどうも椋鳥らしいということが分かった。つれあいいわく、この苦しいときに扶養家族がひとり増えた、と。
昨夜はつれあいの学生時代の友人より電話で、つれあいに高校の英語教師のアルバイトをやらないかという話があった。その友人の女性は現在、大学の講師と高校とECCの英会話学校をかけ持ちしているのだが、体調が悪くて代わってくれる人を探しているのだという。つれあいもその友人も、そして実はこの私も、かつておなじ通信制の大学に在籍していたのである。(私とつれあいはやや時期がずれて、勿論当時は互いに他人であった) つれあいは卒業までに学芸員や図書館司書や教員免許などを取得し、友人の女性はそれからまた大学院にまで進み、私は夏の京都でポルノ映画ばかり見て過ごし結局手ぶらのまま中退した。つれあいは電話口で、子どものリハビリがあるから、と断っていた。それでも英語の勉強にはいまも未練があるらしく、しばらく前から毎朝少し早起きをして、ひとりテレビの前でNHKの英会話の番組を見ている。私と子どもがまだ布団の中で眠りこけ、家事や育児から解放された早朝のそのわずかな一瞬が、彼女にとってはささやかな“聖なる時間”である。
今日は夕方、春にUSJに同行した東京の従兄より東京三菱銀行のノベルティグッズとやらで、ディズニーのキャラクター人形のプレゼントが子ども宛に届いた。ミッキー・マウスや白雪姫やピノキオなどの小さなゴム人形が台座に据えられたプラスチックのケースに飾られているやつで、子どもは目を輝かせ、さっそく意味不明のストーリーをつくりあげて夢中で遊んでいた。
フランチェスコの伝記を読み続ける。Van Morrison がハート&ソウルな曲でこんなふうに歌うのを聴く。“I'm not going to wait till somebody throw me a bone (犬のように骨を投げ与えられるのを待つつもりはない)”
2002.6.26
* 昨日の夕方、右折してきた対向車(乗用車)を避けようとして転倒、バイクと地面の間に左足をはさんだ。相手は宅急便の制服を着た30代くらいの女性で、仕事帰りであったらしい。こうした事故の場合、強気に主張しなくてはならないものらしいが、私はどうもそういうのが苦手だ。念のため病院へ行きましょうと言う女性の申し出を、軽い捻挫程度だろうから心配要らないと断り、連絡先だけ交換して別れてきた。バイクの方はギア・ペダルが少々曲がったが、これは自力で直せた。他は手足に軽い擦り傷くらい。ところが夜になって足首が徐々に痛み出したのである。眠ろうにも痛みで足の置きようがない。仕方なしに隣の部屋で、明け方近くまで起きていた。はじめは The Band の、再結成後の来日コンサートのビデオを見た。ビデオが終わってたまたま映った、NHKの教育テレビで「シダ植物の世界」という番組が面白くて、最後まで見てしまった。ある種の鉱物を貯えるシダによって銅山などの鉱脈を見つけたり、わらびの根茎からワラビ粉を摂る過程や砕いた根をよって生け垣をくくる紐にしたり、ツクシと同じ頃に出るトクサの茎を利用して柘植の櫛を削るヤスリに使ったり、そしてまた正月飾りや夏の涼の演出など、まさにシダの世界を堪能した。これこそまっとうな文化というものだ、と思った。NHKの深夜にはこんな良い番組がひっそりと放送されている。明けて今日の朝、念のため近所の整形外科で診てもらった。レントゲンの結果は骨には異常がないとのことで、ひとまず安心した。痛み止めと湿布をもらってきた。夕方、相手の女性に報告をして、心配ないからと電話を入れておいた。
それより、椋鳥のヒナのその後の物語である。
水曜の夜、Webで椋鳥について調べたところ、繁殖時の巣にダニが大量発生する可能性があるとの記述を見かけ念のため、夜中に台所に置いていたダンボールの巣を玄関の外に移した。木曜----昨日は朝のうちにふたたび二羽のヒナが落ち、一羽は隣室で拾われて空いていた植木鉢に入れられ、もう一羽はわが家で保護したがじきに両脚をひろげて動かなくなってしまった。昼頃に大家さんが様子を見に来て「どうするか分からないが、よかったら(ヒナを)引き取ってもいいが」と申し出る。つれあいは当初、ダニの子どもへの影響が心配で悩んだ挙げ句、結局隣家といっしょに引き取ってもらうことにしてして子どもをプールに連れて行ったものの、教室へ着くまでに「可哀相になってきて」プールを取りやめ、その足で大家さん宅へ行って二羽のヒナを取り戻してきた。夕方にさらにもう一羽が落ちて、三羽になった。職安の帰りに私がホームセンターで鳥用のダニ予防・駆除剤のスプレーを買ってきて、説明書きに従ってヒナの体とダンボールに数回噴霧した。そして今朝、つれあいがエサをやろうとダンボールを開けたら、三羽とも眠るように死んでいたのである。
エサが合わなかったのか、ダニ駆除のスプレーがいけなかったのか。たぶん私は後者で、ヒナの体にはきつすぎたのだろうと思うのだが、ともかく朝起きてつれあいに聞いたとき、私はひどく狼狽して、そして悲しんだ。私が殺したのだ、と思った。スプレーを買うときも少々気乗りがせず、お酢か何かで代用できないかとも考えたのだが、つい子どもへの心配の方を優先してしまったのである。起きてきた子どもが「モモ」にエサをやると言い出して、つれあいはきっと忍びなかったのだろう、「モモはね、元気になってもう飛んでいっちゃったんだよ」と子どもをベランダの方へ連れて行き、「ほら、あそこでモモが元気に飛んでるよ。バイバイって言おうね」と子どもを抱き寄せた。電柱のあたりに飛び交っている親鳥に向かって、子どもは「モモーッ、バイバイーッ」と元気な声で何度も呼びかけていた。
夕刻、つれあいが子どもを散髪に連れて行った隙に、隠していたダンボールの巣ごとスーパーの袋に入れて、近くの河原へ行った。巣から一羽づつ取り出して川の中程へ放り、水葬に附した。見えなくなるまで見送った。ゆったりと流れる川面がなぜかひどく美しい景色のように思えた。人間の命も椋鳥の命も、おなじであるように思えた。河原で残ったダンボールの巣を燃やして、帰ってきた。
2002.6.28
* わが家では数年前から、家で使う石鹸・洗剤・歯磨き粉の類はすべてシャボン玉石けんや太陽油脂などの自然石鹸を用いている。食器は手編みのアクリル毛糸のタワシを使ってほとんど水だけで洗い、油汚れやべとつきが酷いときだけ自然石鹸を用いる(このアクリル毛糸は当初私の実家の母が使っていたのをつれあいが引き継いだ)。風呂場では綿の紡ぎのタオルで体をこすり、基本的に石鹸は使わない。別に「地球にやさしい」とか大それたことを思ってではなく、たんに余計なもの・体によくないものをなるべく使いたくない、という気持ちからである。しばらく前からこれに、備長炭と塩を用いた洗濯が加わった。これは何年か前に、京都在住の主婦がまとめた小冊子「楽して徳して得して楽しく暮らそう 炭と塩の洗濯・食酢洗髪・台所の工夫」(牧野祐子・ひだまり出版)の記事を新聞かどこかで見かけて取り寄せたものに拠る。詳しくは京都新聞のこちらの記事を見て欲しいが、簡単に言えば塩の殺菌漂白力と、炭によって活性化した水が汚れを取り込む性質を利用したもので、わが家では百円均一の店で買った長めの備長炭数本を、浮き代わりの檜のボール数個(以前に山間の物産展で買った、ネットに入った檜の芳香剤を再利用)といっしょに洗濯ネットに入れ、台所で使っている天然塩と併せて使っている。これまでやってみて、通常の汚れなら充分落ちるようである。興味のある方のために、連絡先はこちら→ネットワーク祐 Tel&Fax 075-983-8832 〒614-8377 京都府八幡市男山香呂21-403
夕方、郵便で「中上健次と読む・いのちとかたち(山本健吉著)」後編が届く。これは89年から91年末の中上が病で倒れる直前まで、新宮で「熊野大学」の企画として開いた計21回の講座をまとめたもので、5月の新聞で、新宮市立図書館内にある中上健次資料収集委員会がこの冊子を希望者に配布する旨の記事を読んで申し込んでいたものである。前後編ともそれぞれ「応募者多数のため抽選の結果」有り難くも選んでいただいた。600部限定の非売品のため無料で、着払いの送料だけ。思い出す。はじめて新宮の墓地に中上健次の墓を訪ねたとき、私はその墓前で心中ひそかに「あなたの遺志はきっと継いでいくから」と祈ったのだった。満身創痍で志半ばのまま倒れた巨木の、これは晩年のあふれ出た最後のことばの森である。心して読みたい。
2002.6.29
* 伝記のなかでフランチェスコが引用している次のような使徒のことばを読む。「あなたはもらわないものを、なにか持っているか。もしもらったものなら、なぜもらったものでないように、それを自慢するのか」 ほんとうに、そのとおりだと思う。じぶんの力で得たものなど、たかが知れている。大切なものはみな与えられたもので、それは私たちのものではない。「なぜなら、わたしたちは神のほかにどんな賜ものも自慢できないからです。それはわたしたちのものではなく、神からのものですから」
2002.6.29 深夜
* 昨日、また落ちたのである。何がって、椋鳥のヒナが。これで6羽目。これまで2羽が落ちて死んで、3羽を先日死なせてしまった。さっそくまたダンボールの巣をこさえて、子どもを呼んだ。「モモ二世」ってなわけである。現金なもので。こんどのヒナはだいぶ成鳥に近くて、羽をひろげてちょろちょろと移動できる。椋鳥はいちどに平均5, 6個の卵を産むらしいから、これが最後の一羽だったのだろう。実際、屋根の上ではもはや鳴き声は聞かれず、これまでいくどヒナが落ちても無関心だった親鳥が今回は異常に執着をみせ、玄関を閉めて台所の窓の簾越しに覗いていたらしばらく警戒したあとで、そのうちダンボールの巣までやってきて銜えてきた昆虫や木の実などのエサを自ら与えるようになった。これでひと安心である。エサはもう親鳥に任せて、こちらは巣の中の清掃と夜中に猫などに襲われないようにフタをかぶせたりすることくらいだ。勿論、こんどはダニ駆除のスプレーなど絶対にやりはしまい。ところで数日前にWebの検索で椋鳥に関する情報をいろいろ集めたのだが、なかには詳細な写真説明付きの椋鳥の焼き鳥の作り方(さばき方)や椋鳥のシューマイの作り方なんてページまであって驚いた。結構、美味しいんだそうだが。それともうひとつ、「椋鳥」というのは愛技四十八手とやらのうちのひとつの異名でもあるらしい。「男性上位のシックスナインがそれである」とか。私には何のことやらさっぱり分からん。もし小学生などでこれを読んでいる人がいたら、今夜お父さんかお母さんにでも訊いてみてください。私もその方面に詳しい友人に、こんど会ったら訊いておく。
足の痛みはだいぶひいてきたものの、まだビッコで歩いている。ギア・チェンジ(左足で行う)がままならず、バイクもあまり乗れない。片方の足首がイカレただけで、歩行というのはこんなに困難なものかと思う。近くのスーパーなどでビッコタンで歩いていると何となく人の目が気になるし、それに実際、じぶんの身体がひどく疎ましく思え、必要最低限の距離しか歩こうという気がなくなってしまう。もたもた歩いていて、誰かの邪魔になっていないかとも気になる。こまかいことだが、風景もじぶんの意識も、何となく微妙に変わってきてしまうのだ。
子どもはいまでは、調子の良いときには20歩くらい、よたよたと歩き続けられるようになってきた。本人も嬉しいのだろう、気がつけば勝手にじぶんで奥の部屋のタンスからこちらの部屋の端まで、親が感心するくらい何度も何度も往復して熱心に歩く練習を続けている。だがやはり不自由な左足はひきずりがちで、足首は横を向いているし、体重がきっちりと支えきれないのか両足ともどことなく弓なりに曲がっている。その姿が、私の束の間のビッコの状態と悲しいほどよく似ている。上手上手と手を叩きホメながら、子どもが娘盛りになったときに街を歩いている姿を思って、私は思わず悲しくてやりきれなくなる。嬉々として笑い声をあげ「どうだ」といかにも得意そうにこちらを見るたびに、どん底へ突き落とされたような痛みを覚える。いつかつれあいが呟いたように、ほんとうにこのまま赤ん坊のままで大きくならなければいいのに、とさえ思ってしまう。
今日は夜の9時から「スチュアート・リトル」というテレビの映画をつれあいが子どもに見せた。人語を話す孤児のネズミが人間の家族に養子としてもらわれるというハリウッド・ファンタジーで、ちょっとは興味を示すのではないかと思ったらしい。ところが「興味を示す」どころか、ふつうこんな小さな子どもは長いこと集中できないものなのだが(だから子どものビデオはたいてい20分くらいにまとめてある)、2時間の長丁場を異常な集中力で見続けあげく、後半に主人公のネズミが悪意を持った野良猫たちに追われる連続シーンではすっかり場面に没入してしまい、ネズミが危ない危ないと叫び続け、とうとうつれあいにしがみついて本気で泣き出してしまった。それで主人公のネズミに与しているのかと思いきや、悪者の野良猫たちが川に落ちたりしても顔を歪めてやっぱり泣きじゃくるのである。善悪というストーリー上の区別ではなくて、ただならぬ場の緊迫感に共感してしまうものらしい。二人がかりで「ネズミさんは大丈夫、きっと助かるから」となだめるのに大忙しであった。大興奮のうちに映画が終わり、ようやく子どもが落ち着いてから、かつてテレビ・ドラマの「北の国から」を見て3時間延々と泣き続けたことのあるつれあいに私は、「この感情移入の見事さは明らかにきみの血だな」と言って思わず苦笑したのだった。ちなみに子どもは映画が終わってからも「まだ ! まだ !! 」と叫び続けて、なかなかテレビを消させてくれなかった。やれやれ。
2002.6.30
* かつてフォーク・デュオの古井戸、そして元RCサクセションのギタリストだった仲井戸麗市こと、われらがチャボの新刊エッセイ「ロックの感受性 ビートルズ、ブルース、そして今」(平凡社新書 @720)を読んでいる。相変わらずいつもの、ホームタウン新宿を舞台にした子どもの頃の原っぱや初恋や学校やその頃夢中だった音楽などの、ときに甘酸っぱくどこか切ない思い出話たちだが、こういう語り口はぼくはけっこう好きだ。チャボとぼくはきっと一回り近く歳の違いがあるのだろうけど、でもまだ原っぱが残っていた東京の下町的風景、あの匂いというのはかなり共通点があるんじゃないかと思う。そして子ども時代のことをこれだけ覚えていて、いまも大事にしているかれの姿勢が何より好きだ。たとえば不幸な子ども時代というのは芸術家の拭い去りがたい原点になったりするのかも知れないけど、ぼくの場合、そんなものは全然なくて、特に小学生や中学生の頃までは毎日がとても楽しくて仕方なかった(それはブルーな気持ちや切ない気持ちも含めて、という意味でだ)。そしてチャボもぼくも、それらの風景がビートルズの音楽の輝きと重なっている。ほんとうにビートルズは特別だった。好きな女の子や野球のグローブとおなじような匂いを放っていた。そう、それはモラルや理屈みたいなものじゃなくて、あの夏草のような忘れがたい特別な匂いなんだ。レイ・ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」のなかで主人公の男の子が夏を待ちきれずに手に入れた真新しいスニーカーのようなものだ。うずうずして、遠くまで駆け出さずにはいられなくような。ビートルズの音楽(それはぼくにとって当然、じぶんの子ども時代のあれこれも入っているわけだが)には確かにそんな特別の匂いがあって、ぼくはそれを嗅ぎ分けることができなくなったら死んでしまうだろうと思う。だから40代にしてあの頃の路地裏探索へと、ウォークマン付けてママチャリで新宿の街を走りながらバイクに激突されて全身打撲となったチャボに思わず笑いながら、なんて格好いいんだろう !! と共感してしまうのだ。
...クラス会などに行けば、多くの友人たちは、例えば会社なら管理職、子供も中学生、高校生ぐらいの子が一人二人当然いて.......なんてことに遭遇して自分の年齢というものを実感するかもしれない。しかしそんなことを実感することにとくに価値もない気もするし、それより一日一日をどんなふうに過ごすかってことのほうに関心があったりする。年齢なんてのは、いつでもあとになって、ある時ちょっとその頃やあの頃って日々を意識する時の便利なしるしみたいなものかもしれない。
子供の頃、例えばさみしさなんてことは、いずれ解決すると思ってた。とんでもなかった。だけどそれを打ち負かす強さも少しは覚えはじめている。もしかしたらそんなことが年齢を重ねるということの一つの意味かもしれない。今、もしそう呼べるのだとしたら、そんなことを“成長”と呼んでみたい。
「ロックの感受性」(仲井戸麗市・平凡社新書)
2002.7.1
* どっかの山師が おれが死んでるって言ったってさ
よく言うぜ あの野郎 よく言うぜ
あきれて物も言えないどっかの山師が おれが死んでるって言ったってよ
よく言うぜ イモ野郎 よく言うぜ
あきれて物も言えないところがお偉方 それで血迷ったか
次の週には 香典が届いた
前の土曜日にガンバローって乾杯したばかりなのにおいら その香典あつめて こうして遊んでるってわけさ
ますます好き勝手なことができる
さあ、おまえに何を買ってやろうか山師が大手をふって歩いてる世の中さ
汗だくになってやるよりも 死んでる方がまだマシだぜおっと社長さん 「お前は死んだ もうクビだ」と言いたい
さあ さあ はっきり言ってみな
お前はクピだと言ってみななにをビビッてるのよ 社長 みっともないぜ
さあ さあ あのガッツはどこ行った
親戚中でいちばん出世したアンタじゃないかどっかの山師が おれが死んでるって言ったってよ
よく言うぜ イモ野郎 よく言うぜ
あきれて物も言えない低脳な山師と 信念を金で売っちまうお偉方が
動かしてる世の中さ よくなるわけがない
あきれて物も言えないだからBaby さあ、今夜はどこで遊ぼうか
まだまだ 香典 あつまりそうだ
当分苦労はさせないぜあきれて物も言えない・RCサクセション
こんないかした復讐ソングを、ラジカセのボリューム一杯に上げてひとりさみしく踊っている今宵。誰か、おいらといっしょに踊ってくれないか。言っておくが、演奏は「グンバツ」だぜ。
2002.7.1 深夜
■日々是ゴム消し Log24 もどる