■日々是ゴム消し Log10 もどる

 

 

 

 

 一難去ってまた一難である。日曜の深夜に本項を書き了えて、いざファイルをアップしようとしたところで、こんどは何とモニターがプッツンしてしまった。月曜に四日市に住むパソコン・ドクターの友人(実はプッツンしたモニターは数年前にこの友人から安く譲って貰ったもの)に電話をして泣きついたところ、使っていないアップル純正のモニターがあると言うので「明日持ってきてくれ」と無理な要請をしたら、水曜にちょうど休みをとってあるということで、本日わざわざ車で運んできてくれたのであった。いや、やはり持つべきものは友である。無事にモニター交換も終わり(ちなみにモニターは無償貸与)、夜にはお礼に奈良市の「まぐろ亭」で食べ放題の回転寿司を友人に奢って、さっき帰ってきたところである。こんどのモニターは以前の15インチよりさらに下がり、いまどきこんなサイズでWebを見ている奴がいるのかというような13インチの極小版だが、まあとりあえずのしのぎということで、そのうち余裕ができたら10回払いのローンで液晶のディスプレイを購入したいと思っている。13インチとはいえ、私のようにメインがせいぜいワープロとHP作成くらいの内容ではそれほど不便なものでもない。

 ところで接続したモニターの動作確認を終えてから、さてこのプッツンしたモニターの処分は今度のリサイクル法の「テレビ」に含まれるのか、あるいは今まで通り燃えないゴミか粗大ゴミ扱いになるのだろうかとひとしきり議論になった。「テレビ」ではなくパソコン用品なんだからリサイクル法には含まれないんじゃないかとか、いやテレビとモニターの違いは単にチューナーが付いてるか否かというだけであり、リサイクルの対象になるブラウン管をメインに有している点では変わらないからリサイクル法に準拠するだろうとか、あれこれ言い合った末、結局私の住む町の役場に電話で聞いてみることにした。帰ってきた答えはいとも簡単に「燃えないゴミで出してください」だった。それを聞いた友人は思わず「ザル法だあ」と呻いた。「とりあえずこのモニターをさっさと燃えないゴミで出してしまった後で、リサイクル法の趣旨に照らし合わせたらそれはちょっとおかしいんじゃないかともういちど抗議の電話をしてみよう」と、これは私が言った。

 ま、ともかく日曜に記した稿と併せて今夜はこれでアップしておく。これでしばらくはいい加減、もうこれ以上トラブルも起きないと思うのだが......(^^;;

  

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 昨日に続き来客。今日はつれあいの友人の大阪南部に住むTちゃんである。明太子やブルーベリー、パイナップル&チーズなどを使った手製のサンドイッチや総菜、手作りのケーキなどを持ってきてくれた。来月から山間の小学校の臨時教員を一年間やることになったらしい。やはり中学・高校の教員免許を持っているつれあいとかつての教育実習の話などでひとしきり盛り上がったあと、当HPのBookmarkでリンクしている不登校児童たちのためのフリー・スクールの「東京シューレ」等の話になった。Tちゃんは一度そんな学校で働いてみたい、と言う。フリー・スクールもすばらしい内容のところがあるらしいが、問題なのはそこを出て「ふつうの学校」(中学や高校)へ戻るときにまた難儀しなければならない、ということである。だがたとえ中学や高校ゃ大学の「東京シューレ」をつくったところで、社会へ出るときにどっちにしろ学歴主義・効率主義のシステムへ順化しなくてはならない。結局、世の中の広範囲な部分での意識が変わらなければ、せっかく生気を取り戻したこどもたちも元の鞘に納まらざるを得ないということだ。

 

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 夕方から大阪・天満橋で二度目の面接。弘報企画で、主に役所や自治体・企業などのパンフ制作や講演等の企画、ビデオやCD-Romの制作と小さいながら多彩な業務内容の会社だ。履歴書の書類審査のあと、筆記試験と面接が火曜にあり、今日はふたたびお呼びがかかって雇用規定や給料などを提示された。最終的に私を含め三人まで絞られたようで、週明けに結果を連絡するとのこと。職安のファイルでは採用は一人である。フォトショップやクォークを使うらしいので、途中天王寺の本屋に寄り、なぜとなくDTPの基礎的な書物を一冊買って帰った。

 そんなわけで子供を風呂に入れるのが遅くなってしまった。私に続いてつれあいが風呂に行っている間に、紫乃さんを隣の部屋に寝かしつける。もう11時だ。いつものように布団の上からとんとんと叩いてやると、こちらをじっと見つめているので「明日は土曜日だからいっぱい遊んであげるよ、だから今日は早く寝ようね」と話しかけているうちに、指をくわえ「う--、う--」と言いながらしずかに目を閉じていった。それからくわえていた指が口元を離れ、ほんの間をおいて一瞬ニコリと微笑み、深い夢の中へ落ちていった。

 

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 キリストの十字架からの降架・1948。その絵の前に立ったときの胸のうずきにも似た、あの刺すような痛みと悲しみの感覚は忘れ難い。疎外感に満ちた現代的で線の細い独特の人物描写と、何より高さ1メートル80センチ、幅2メートル70センチの巨大な画布が、見るものをその現場に立ち会わせる。イエスの処刑が執行されたのは、まさに“いま”なのだ。非現実の冷たい砂漠を思わせる背景のどこか奇妙に明るい空虚なクリーム色は、まるでカフカの小説の謎めいて引き返しようのない深い喪失感にふさわしい。ビュフェは1999年の秋に、進行する病により絵筆の自由がままならぬことになるのを恐れ、ひっそりとみずからの命を絶った。孤独な魂の終焉に立ち会えるものは、いつもごくわずかだ。

 

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 日曜、昼前から赤ん坊をベビー・カーに乗せて親類宅の庭の草取りへいく。たまにはつれあいを育児から解放してあげようという優しき夫の配慮である。ベビー・カーの中で手持ちぶさたの赤ん坊にタンポポを渡したところくしゃくしゃと食ってしまい、あとで下痢をした。草取りの合間にミルクをやり、オムツを取り替え、昼食を馳走になり、夕方いつものように庭の三つ葉と雪の下と山椒を一枝もらって帰ってきた。

 数日前に古本屋で見つけたロバート・ジョンスンの伝記を読み始めている。

 

 トムが生きてれば、話すと思うよ。あんなにいろんなことを知ってたのは、悪魔に身売りしたからだって言ってた。「弾きたいものをなんでも弾けるようになりたかったら、自分で曲作りもやりたかったら、ギターを持って道路が交差してるところ、四つ辻みたいに交差しているところへ行け」って言うんだ。「ただし、そこへ行くには夜中の十二時になる少し前に行かなきゃならない。ちゃんと確かめてな。そこへギターを持って行って、自分で一曲弾くんだ。.......そうすると、でかい黒い男が近づいてきて、ギターを取り上げて、それを調弦する、そして一曲弾いてみせてから、ギターを返してくれる。そうやって、やりたいと思う曲をなんでも弾けるようになったんだ」

 

 

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 世間ではもっぱら「小泉総理」の話題でもちきり。だけど別段興味もないやね。自民党というか政治自体がほとんど死に体で、打ち上げ花火の最後の一発みたいなもんだろ、どうせ。ひょろひょろっとあがってポンッと鳴ったら、食い散らかしたたこ焼きや焼きそばの残骸を残してみんなぞろぞろと家路へ着く。どうせなら私は死んだたこ八郎に総理大臣をやってもらいたかった。真鶴の海で酔っぱらって溺れ死んでしまったたこ八郎。彼なら「国民のみなさん、人生にはいいときも悪いときもある。悪いときは雑草を食べて忍びましょう」なんて言うかも知れない。雑草は、あれは犬の小便がかかっていないかどうか見分けるのが難しいのだ。前に近所の道ばたのヨモギを摘んできて鍋でぐつぐつ煮てTシャツを染めたことがあったけど、そういえばあれも何だか少し小便臭かった。

 ところで今日はたけしのテレビ・タックルで「なぜ人を殺してはいけないのか」と相変わらずの腐れチンコのテーマをあれこれ話し合っていた。ビートたけしの意見はその瞬間赤ん坊が大声を出したので聞き損ねてしまったが、野坂某氏の「殺しなさい。ただしきみも殺される」というのがいちばん良かったね、シンプルで。殺してはいけない理由がないなんてものは、そもそも当たり前のことじゃねえか。審判者たる神がいないなら、べつに何をしたっていいわけだよ。ではそこでニンゲンのモラルとは何ぞや、神とは何ぞや、という根源の問いがあるわけで、自慢じゃないが私はそんなこと、マクドナルドのチーズバーガーが240円の時代から考えてきた。いまさら慌てふためいてギ論したり考え込んだりするってのがちゃんちゃらおかしいんだよ。共通のルールなんてものは存在しない。それはおのおの個々人が内なるルールを作り上げるもので、だから人を殺しちゃいけない理由なんてものは星の数ほどある、はずだ。だって里に下りてくるイノシシや狸にしたらさ、五つ子を産んでニンゲン様の人口を増やす奴より、路上で無差別殺人をする奴の方が好ましいかも知れない。神の真意なんてものはひょっとしたら、そんな残酷さを秘めているのかも知れないと時々私は思ったりするんだな。人智を超えてるってのは結局そういうことでしょ。ちなみに私はいま流行りの17才の少年じゃないが、もう10年以上も昔から父親の形見の登山ナイフをいつもこっそりポケットに忍ばせている。あるいは理不尽な理由で突然自分が殺されそうになった場合は、相手と差し違えてやろうくらいの気概はいまも持っている。そんなときはアリコの生命保険も役になど立ちゃあしないのだから。「なぜ人を殺してはいけないのか」なんて、そんなこと知るか。手前で考えろ。ただ俺は自分や愛する妻子が殺されそうになったら、その前に相手を殺そうとするだろう。そして運良く殺した後で、きっといい気分にはなれないだろう。

 

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 昼はチャーハン。ベーコンに人参、玉葱、ジャガイモと、山椒の葉を混ぜてみた。午後は所用でつれあいがでかけたので赤ん坊と二人、今日は雨で職安もさぼっていっしょに長い昼寝をした。夕飯はタケノコご飯とチシャのおひたし、カボチャの炊いたもの、もろきゅう、椎茸と素麺のおすまし。食事の最中に、前述の大阪の会社から電話にて採用の知らせ有り。ゴールデン・ウィーク明けの7日より出社、とのこと。

 

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 めでたく就職が決まって、さて困ったのは、着ていくスーツが無いということである。思えばこれまでスーツを着て仕事をしたことなぞ一度もなかった。もちろん面接にはちゃんとスーツにネクタイを締めて行ったのだが、これは十数年以上の大昔に近所のイトーヨーカドーで購入した安物で、いつの間にやらウエストが相当にきつくなっていてほとんど圧死しかけたトドのごとき状態で着用していたのである。ベルトもさらに輪をかけて短くなっていて、ご丁寧にも短く切ってしまってある。全部で3本ほどしかないネクタイはあまりに古くさく、ワイシャツも首周りがきつくて入らないのがいくつかあった。只一足のビジネス・シューズは昔、母が勤めていたイトーヨーカドーの靴売り場でサイズが0.5づつ合わないちんばのものを500円ほどで卸してきた安物のビニール靴である。そうそう、それに腕時計がない。これも上野アメ横でたしか2千円ほどで購入したチープな品で、数年前にベルトがちぎれ、いまでは針も存在していない。つまりビジネスマンに最低限必要な一式がすべて無いのである。というわけで、明日難波に行って買ってくる。

 

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 木曜は予定通り難波へスーツを買いに行った。つれあいの知り合いのヤング・レディの御指南で、なんばシティの地下にあるその名も The @SUPER SUITS STORE なる店でスーツを2着、ワイシャツを4枚、ネクタイ3本、そしてベルトを1本。しめて10万ほど也。安物とはいえ一人前のサラリーマンに化けるのも結構金がかかる。ベビー・カーをついて、ミナミの雑踏を闊歩。地下通路で「赤ん坊、可愛いなあ」と浮浪者のおっちゃんに話しかけられた。

 金曜は部屋の模様替えで日が暮れた。ステレオの台に積んでいたブロックが、日増しに行動範囲の広がる赤ん坊に危ないというので撤去することに。どうせカセット・プレイヤーは潰れていて、アンプは時折ノイズが混じり、チューナーと3ウェイのスピーカーはゴミ捨て場での拾いもの、まともに動くのはCDプレイヤーのみという状態だったので、思い切ってまとめて処分してしまうことにした。いっそ場所のとらないミニ・コンポがよかろう。自然、パソコンを設置している机やスライド式の書棚も配置換えとなり、骨が折れた。

 そして本日土曜は、朝から即席の園芸家。つれあいの要望で玄関先をハンギングの寄せ植えなどで飾り、ついでにシソやハーブの苗も植えた。昼から四日市より車で友人が来て、Macのメモリー・カードを一枚増設してくれた。中古で一枚千円なり。昼は私が得意のカチャトーラ(鶏肉のトマト煮)をつくり、夜は奈良市のロイヤル・ホテルで友人が就職祝いを兼ねて、自称株取引で儲けた含み益でイタリア料理のバイキングをご馳走してくれた。

 

 数日前、NHKで猪瀬直樹が太宰について語る番組を見た。どこか演出的な自殺の企みによって常に死を人質にしながら、「家庭の幸福がいちばん」と「家庭の幸福こそ諸悪の根源」のはざまの危ういバランスの中を突き進んでいった作家像。私も、それがほんとうだと思う。どちらにも安住できず、安住してしまったら、己が嘘になる。あるいはおそらくどちらも嘘で、どちらもほんとうだ。終わりのない綱渡り。

 ところで、このごろは何を聴いてるかって? そう、ロバート・ジョンスンだ。クラプトンがこんなふうに言っている。「あまりにも鋭くものごとを感じとっていて、ほとんど耐え難い気持ちでいるという感じ。ほとんど空中に浮かんでいるようなもの」 奴は生きていることの衝撃、ざらざらとした拭いがたい手触り、崇高さと救いがたい感情といったものを、壁にべったり張り付いた埋葬許可書のように囁く。

 

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 たとえば、ほらあれ、と遠方を指さしたときに、指そのものではなく、その指し示した向こうに何かがあると推察して遠方のそれに視線を向けることができるのはニンゲンだけなのだそうだ。ニンゲン様だけが目の前にリンゴが無くても、8個のリンゴを4人で分けたら一人何個になるか、というようなことを考えられる。つまり、触れたり見ることができないものについて考えることができる。たとえば遙かな宇宙の果てやその創生と終末なんかを。

 風呂上がりにNHKのテレビで「宇宙 未知への大紀行・ふりそそぐすい星が生命をはぐくむ」を見た。隕石が地球にもたらした有機物の可能性やアミノ酸に秘められた不思議について、あるいは地球というこの天体を含む太陽系に生命を成り立たせているその絶妙ともいうべき銀河における位置について。ある人はそれを「神の御業」と呼ぶことだろう。縄文の時代、目の前に黒々と聳える山影やその上に瞬く星々を見上げて、人々はきっと得も言われぬ神秘を感じとったに違いない。神秘は希求を、つまり世界の果てを空想させる。山の中腹で催された石の祭りで、かれらは何を希求しただろうか。

 まだ20代の頃、宇宙がニンゲンという生命を生み出し、そのニンゲンがいま宇宙を認識している、つまり宇宙が己を自己認識しているのだ、という説をある科学書で読んだ。無邪気な戯れの最中に赤ん坊が私をじっと正視するとき、ふとそんな言葉が思い浮かぶ。

 ニンゲンだけが、指さしたその先を希求する。

 

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 K氏とはつれあいが以前に勤めていた職場の関係で知り合った。長年、差別戒名や日本人の穢れ観といった差別の問題に取り組み、それに関する地味だが鋼のような強靱さを湛えた著述も少なくない。差別戒名の件で作家の水上勉氏ともつきあいがあり、私が知り合った当時は人権関連のさる団体の理事の立場にいた人だが、ふだんはそんなことはおくびにも出さず、身なりも粗末で大阪の新世界あたりをぶらついている普通の初老のおじさんとでもいった風情だった。それでいてどこか飄々とした独特の雰囲気も持っていた。何度かつれあいや私を滅多に行けない高級ホテルの食事に招いてくれたり、私たちの結婚式(飛鳥の藍染織館での食事会)には九州の焼酎をぶらさげて参列してくれた。氏の仕事に触発されて私が書いた拙い差別に関する小論が縁で、ときおり原稿の手直しを依頼されたり、最近では大峰山の女人禁制に関する意見原稿を求められたりしたこともあったし、また私自身、氏の精力的な仕事によって刺激を受けたり目を開かされる事柄も数多くあった。私に、本などは誰でも書ける、何か書いてみろ、とよく言われていた。

 そのK氏が、長年の女性関係で知人や所属する団体に多額の借金や使い込み(おそらく総額数千万円にのぼるらしい)をしていたことが露呈して除名処分になったという。今日、赤ん坊の顔を見にわが家を訪れたつれあいの元同僚の女性が教えてくれた。まさに寝耳に水、である。相手は行きつけの飲み屋の女将だそうで、初耳だったがつれあいも在職中に一度だけ急の出張費だと称して少なくない額の金をそれとなく無心されたことがあったという。驚いた。同時に、へえ、やるもんだなあ、という感情が知らず胸に湧いていた。またそれとは別に、まっとうな感覚として実際ショックでもあった。人は多面体のような多くの顔を持っており、他人に晒しているのはそのうちのごく一部に過ぎない。悪女に体よく貢がされた老年の悲哀か、破滅を賭した盲目の恋か、あるいは半生を否定する反逆か。ほんとうのところは当人にしか分からない。

 私は、それもいい、と思う。馬鹿げた悲しい風景だがそれもいい。ひとはそんなときもある。K氏はいまや職も失い友人たちからも見捨てられ、苦しく孤独な日々を送っているらしい。だが私の瞼の裏にあるのは、飛鳥でそれほど強くもない酒に頬を染めながら自分の席を飛び出て、私の杯に焼酎を注ぐあの飄々としたK氏の姿だ。あるいは京都・竜安寺の庭石に秘された山水河原者の哀史を描いた短編映画を、あれをもういちど撮り直したいんだと熱っぽく何度も語っていたK氏の姿だ。そしてつれあいいわく、とても理事なんかじゃなくまるで用務員のおじさんみたいだと言っていたいつものよれよれのジャンバー姿で高級ホテルのレストランに入っていく、そんなK氏の姿だ。私は自分の眼に映ったニンゲンの形を信じている。いまも私の中に残るK氏は、確かにK氏の真実の一部であった。

 しばらく音信不通となっているK氏といま、ひさしぶりに会って、黙って酒を飲み交わしたいと思う。

 

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 スーパーで買ってきたあさりを前の晩に水に浸けて砂出しをさせたら、ああ、ちゃんと生きているなあ、と思って次の日食べるのが可哀相だった。つれあいの和歌山の実家で、近くの小島でお母さんたちが採ってきたというあさり入りの五目飯を頂きながら、数日前に訪ねてきた友人が言っていたそんな話を思い出していた。

 早朝、珍しくひとり目が覚めて、カメラを持って港のあたりをぶらついてきた。朝の光の中、足下をのぞき込むと赤い模様をもった巨大なクラゲが湾の縁をうようよ漂っている。あるかなきかの波に揺られてゆらゆらと、ときおり傘の部分を水面に浮かべ、あるいは細長いピンクの肢をからませたり優雅に伸ばしたりするのを眺めて、こちらもどこかゆらゆらと。これもクラゲという存在が見ている夢の一部かも知れない、なぞと思いながら。

 午後からベビー・カーをついてみんなで上の畑へ行った。お父さんは肩掛けの紐をつけた籠を抱えて蜜柑の木の方へ、お母さんはあちらへ豌豆を取りに、ぼくと彼女はベビー・カーのなかで眠っている赤ん坊に虫が来ないよう、強い日差しの中を見張っている。遠くの海面が白い和紙のようにうっすらとのどかに光っている。花々に群がった蜂の羽音がどこかで心地よく響いている。

 そしていま、帰ってきて深夜にこれを書きながら、ルー・リードが荒々しいギター・ノイズに乗って「神秘のこどものようにワイルドになっていく」と歌うのを聴いている。狂おしい夏の予感に満ちた夜の粒子をひとり嗅ぎながら。

 

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 気がついたらあろうことかこの私が、官庁街の一等地にあるしゃれたオフィスのデスクに、iMacを前にスーツ姿で座っているのだから、いや自分でも驚いた。初出社の昨日はいきなり大阪市の公園整備や天王寺動物園史に関する原稿の文章チェックをやらされ、今日は午前中は西長堀の中央図書館で資料探し、午後はひたすら日経のスクラップづくり。昨日は初日から残業で帰宅が9時過ぎ。朝も夜も満員電車に揺られ、まあサラリーマンはこれが当たり前なのだろうが、これまで夕方の5時半には家で夕食をとっていた私には、まったく別次元の世界のようで戸惑いも少々。丸一日私の姿が見えなかったせいか夕べ、帰ってきた私を見て赤ん坊が大はしゃぎをしたのを見ると、少しばかり悲しい気持ちにもなった。遅い夕飯を食べて、ほんの30分も遊んだと思ったら、もうネンネの時間でさよならだ。朝は目に付いた新聞記事の感想を各人が報告し合い、一日の終わりには報告書を提出して、電車の中で「古代の日本海文化」などといった新書を読みながら帰途につく。私が朝日新聞を購読していると聞いて「朝日は酷く偏ってる、分かってるだろうね」とまくしたてたやり手の女社長はかなりアクが強そうなのだが、不思議なのは数多い応募者の中で未経験のずぶの素人たる私ひとりを何故か採用したことだ。他の3人の社員はみな若く独身で、ソフトでいい感じの人柄である。さて、これからいったいどうなることやら。私自身、戸惑いと楽しみと。

 

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 昼休み、会社のすぐ裏手に市立高校の食堂が一般にも開放されているのを見つけ、そこで昼食を食べた。定食が450円、カツ丼が400円、うどんやラーメンは250円という社員食堂並の値段が気に入った。賄いのおばちゃんたちも愛想良く、味もそこそこに良い。食後は近くの公園の木陰のベンチに腰かけ、心地よい緑の風に吹かれていた。

 今夜も9時帰宅。遅い夕飯のタケノコご飯を口に運びながら夕刊をのぞき見る。ある詩人が、死後に机の中から詩句が書き込まれた秘密の「葉書版のコラージュやオブジェ」が発見された日本の詩人や、「架空の国の切手という極小」の絵画や「夢そのものとしかない短編映画」を遺したアメリカの美術家たちのことを記していた。そんな人生が、いまではまるでどこか別世界の風景のようにも思えてくる。

 それから詩人は、「亡き母とのひそかな交信」の気配を準備して、ある小さな句集について触れる。

 

 月光の畳のほかは欲しくなし

 この句がどれほどの悲しみに支えられ、しかも揺らいでいるか。切り落とされた「ほか」との緊張が隠されたまま、物のおもてに光が満ちわたっている。

 

 こうした透明な感性と、それにぴったりと寄り添ったつましい読み人のやわらかな文章を読むのは、慌ただしい生活の中でほんとうに束の間の豊かな休息だ。

 つまるところ、ひとは等身大でしか生きられない。たくさんのものはいらない。

 

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 赤ん坊はリヒャルト・シュトラウスの「変容」を聴きながら眠ってしまった。柳美里がこの曲について、暗さとか激しさとか静けさとかの対立項でない「ただ、悲しみ」と表現していた。音楽だけは言語化することができない、と。リヒャルト・シュトラウスの晩年の曲はずっと昔から好きで、15インチの貧弱なテレビから流れてくる波のような音のうねりの中で、さっきまでぼくは風呂上がりの心地よい布団の上で赤ん坊とごろごろと転がっていたのだった。曲の中程で赤ん坊は突然ヒィ−−ッと甲高い声を上げたかと思うと、次の瞬間、ぼくの胸に顔を埋めるようにして眠っていた。「変容」とは「死」のことではないか。「死」とは、だから「再生」のことではないか。死んだように眠りこくっている赤ん坊の穏やかな顔を眺めていると、なぜかそんな気がしてくる。語り継ぐべき物語はいったいあるのだろうか。そんなことをぼんやり考えていた。そんなことは、明日からの仕事には一向に関わりのないことだけれど。

 

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 今日は朝からSさんに教わりながら、イラストレーターで原稿の簡単な手直しを少しだけやり、あとは昼過ぎまでクライアントの国土交通省近畿整備局へ渡す見積書をエクセルで作成した。エクセルなんてほとんど使ったことがなかったから四苦八苦しちまうぜ。それでも誤魔化し誤魔化しなんとか。昼はいつもの公園のベンチで手弁当。松坂屋内のレコード屋に立ち寄り、本日発売とかいう「ウィーザー」なるバンドの新譜を試聴した。おっ、なかなか良いじゃないですか。給料が出たら買おうかな。午後は大阪駅近くの大阪 Blue Note へ。何でも某大手ゼネコン会社の接待で今夜の公演をとってあるのだが、予約席でないため席取りを任命されたのだ。3時から開演前の6時まで並んで、見事一番乗り(3時間も並んでら、そりゃね)。で、お題目はと見ると、ナタリー・コールであった。私の後ろ、2番目に並んだおばちゃんが何だか悔しそうな顔をしてコチラを睨んでいたよ。わてが見るわけじゃおまへんのや。そんなエエ身分とちゃいまっせ。帰りにJR大阪駅でマネケンのワッフルを三つ買って会社に戻り、居残り組のHさんらとお茶を入れてしばし雑談をしてから、いつもより早めに会社を出た。というわけで8:10の大和路快速に揺られながらいまこれを書いているわけなのデス。今日は赤ん坊をお風呂に入れてあげられそうだ。

 

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 原っぱというのは、東京の下町で生まれ育ったぼくにはひとつの大切な原風景のようなものだ。昭和40年代から50年代の半ば頃、まだ僕の住んでいる町には家々の間に畑や空き地、それに日立の工場からの貨物の線路の跡や引き込み線などが残っていた。家の近くに川が流れ、川の向こう側は工場の煙突が林立し、ぼくらが幼い頃にはその堤には桜の木が立ち並びまだ舗装もされていない土のまんまだったが(小学生の頃、ゴムボートでその川を渡ったり、川を渡る国鉄の線路のレールの上に十円玉を置いて列車に轢かせたりしたものだ)、その川沿いに程良い広さの空き地が三カ所あって、ぼくらはそれをなぜか第一カッパ、第二カッパ、第三カッパと呼んでいた。明日の日曜の朝10時に野球の道具を持って第一カッパに集合、ってなものだ。そんなふうにあちこちに雑草が生えてはいるものの草野球ができるくらいの平坦な空き地もあったし、山や川や森のある空き地もあった。山というのは片隅にほんの少しだけ盛り上がった部分で、川は大きな轍のような溝に雨水が溜まったようなもの、そして森は背の高い雑草が生い茂ったもので、草をかき分け進んでいくとぽっかりと狭い「アジト」があって、そこには捨てられたソファーのセットやその他のガラクタが集められ、チャンバラ用に適当な長さに折られた枝が大事に保管されたりしていた。大人たちから見たら何の価値もない土地だったろうが、ぼくら子供にはイマジネーションでどんな遊びもできる小さな王国のような場所だった。やがてそれらの原っぱも、次々とマンションや公園や児童館が建ったりして消えていった。公園ができたとしても、大人の価値観で整然と作られた公園はもはやさまざまな魔法を生み出す自由でどこか怪しい場所ではなかった。原っぱが無くなったとき、ぼくらの中で確かに何かが失われた。それはあるいは中上健次の描く紀州の町の「路地」のようなものであったかも知れない。ぼくらはいまも、あの失われた懐かしい原っぱに変わりうる場所を心の中で探し求めているのかも知れない。

 今日、風呂の中でこんな短い詩をひとつ読んだ。

 

町も人も 美しい名前が 多くなりました
  でも何だか 疲れます
 ここに 小さな 花があります
  「へくそかずら」といいます

  「へくそかずら」
  呼べば 心が和みます
  「へくそかずら へくそかずら」
  「へくそかずら へくそかずら」
     つぶやきながら 夕べは
      ぐっすり 眠りました

(速さのちがう時計・星野富弘)

 

 そんな感じに、ひょっしたら近いかも知れない。

 

 いまもぼくはときどき、あの頃のやわらかで自由な心根のままで、見知らぬ誰かに向かって呼びかけている。〈明日の日曜の朝10時に、野球の道具を持って第一カッパに集合〉!

 

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 日曜日、紫乃さんをベビー・カーに乗せてふたりで散歩に行く。近くの公園で彼女が興味を示したものがあると立ち止まってふたりでしばらく眺めている。公園の噴水や、散歩中の犬や、風に吹かれてもぞもぞと動くスーパーの袋などを。木のベンチに座らせてやると、彼女は両手をふりあげ木の板を叩いて笑う。

 数日前から「ハイハイ」もできるようになり、行動範囲も飛躍的に伸びた。奥の寝室から台所まで、もう家中が思いのままだ。カラー・ボックスの棚に無造作に積み上げておいたCDも危なくなってきたので、別に高所の棚を購入して移動することにした。CDの山を崩して遊ぶのが大好きだったのだ。なかでもハイ・ロウズのバームクーヘンの写真の紙ジャケがお気に入りだったらしい。それで土曜日にそのバームクーヘンの曲をかけてやると、曲の間中ずっと「おすわり」をしたまま頭を揺り動かし踊っていた。

 

たとえでっち上げたような夢も 口から出まかせでもいい
現実に変えていく 僕らはそんな形

僕はこんな形 ダラダラ歩く形
オートバイに乗る形 コーヒーを飲む形
バームクーヘン食べよう

 

 

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 11時帰宅。今日は何をしたろう。朝から大阪の公園の歴史を纏めた原稿の資料チェックをし、琵琶湖周辺の環境学習の施設を調べて電話で資料を送ってもらうよう頼み、滋賀県庁の環境白書なるものを購入するために書留を送り、施設をまとめた表をエクセルでつくり、他もコピーをとったり、MOに入っている昔の資料を探したり、何やらかにやら。仕事自体はそれほど嫌ではないのだが、まるでコマネズミの生活のようだ。子供の顔をのんびり見ている暇もない。働くってのはそんなもんさ、と人は言うのだろう。誰でもそれを辛抱しているのだ、と。地下鉄の階段を上ったら、駅の地下街の明かりが暗くなっていった。ああ、そうさ。食うために、妻子を守るために、魂を切り売りしているのだ。乗り換えの電車を待つベンチの上で、ふと我に返る。

 赤ん坊は昼間、例の背中の傷を診てもらいに天理の病院へ行って来た。悪性のものではないので中学くらいまで様子を見たらどうか、と医者は言ったらしい。ちなみに「天理病院」、と一般に言うけれど正式の名称は「天理よろず相談所病院」なんだそうな。

 

*

 

 お茶濁しに佐佐木幸綱の短歌を数首。

 

三十歳を過ぎて娶らず自殺せず他人を刺さずあわれと言うや

恋人よ俺が弱らば告げくれよあしびきの山 山ならば富士

生きのびて恥ふやしゆく 日常は眼前のカツ丼のみだらさ美しさ

逃げた女逃げた心よ逃げた詩よ吾飲めば君たちが酔いにき

君は信じるぎんぎんぎらぎら人間の原点はかがやくという嘘を

 

 これは不器用で切ない男歌、と。

 

*

 

 ああ、ひさしぶりに誰かと話がしたくなった。高い樹の枝のてっぺんで、世界へ号令をかけようと夢想しているような人と。丘の上で日がなフルートを奏でている不器用なこの世の敗残者と。うらぶれた小屋の中に閉じこもり水が汚れたと嘆いている狂人と。あえかな蝋燭の灯を消さずに中庭を横切ろうと立ちすくむ人と。夢と魂の在処を知っている人と。踏みしだかれた葛の花の山道をひとりさみしく歩んでいく人と。凍てつく冬の戸外で麦藁帽をかぶって静かに微笑んでいるような人と。こんど生まれてくるならスミレの花に生まれてきたいと丸めた背中の奥でこっそり呟くような人と。誰か、そんな人を見かけないか。

 

藤垂れてこの世のものの老婆佇(た)

三橋 鷹女

 

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 昨日はおにぎりとお茶と離乳食を持って奈良公園へ行って来た。良い天気で、すこし蒸し暑いくらい。東大寺のわきの若草山を望む木陰にレジャー・シートを敷いて家族三人で週末を憩う。修学旅行の中学生たちに十数年前の自分の姿を重ねながら、ああ、あの頃はこんな景色は思い浮かびもしなかったが、とシートにねそべってうつつの夢を見た。博物館の近くの林でちょっと気のあったクラスの女の子にふざけてマツボックリを投げたら顔に当たってしまい、他の女子たちに「傷が残ったら○○くん、責任取って結婚してあげなさいよ」なぞと冷やかされたのだった。ま、どうでもいい思い出だが、奈良公園に来るといつもそれを思い出す。ビニールのシートの上は湿気が気になるが、今日は新緑の風が心地よい。たまにはこんな週末のスタンダード・スタイルも悪くない。「幸福の気分」なんてものは特別なものでもない、きっとこんなふうに当たり前にそこらに転がっているものかも知れない。

 昼食を済ませてから、さっそくそこらに屯している鹿の面前へ紫乃さんを連れていった。どんな反応をするだろう、怖がるだろうかとも思っていたのだが全然物怖じせず、「あー、あー」と声をかけながら手を伸ばしてひくひくと濡れた鹿の鼻を触り、鹿の方が困惑気味だ。それから定番のシカセンベイ・7枚ほどで150円也を買ってきて、紫乃さんに持たせてやる。忽ち数頭の鹿が浅ましくも寄ってきてあっという間に赤ん坊の手からかすめ取る。もう一枚、紫乃さんに持たせる。鹿が首を伸ばして食い取る。繰り返すこと数回。5枚目まではセンベイを握って・取られるを許容していたのだが、6枚目のセンベイが鹿に奪われると紫乃さんは急に怒り出した。つまりセンベイは鹿ではなく、自分に与えられたものだと思っていたようなのだ。5枚目までは我慢していたのだが、6枚目で堪忍袋の緒が切れたらしい。それで私とつれあいの二人は大笑いした。後で聞いた話では、うちのアパートの隣の部屋の紫乃さんより数ヶ月早いAちゃんは、鹿を見ただけで怖がって泣いてしまったらしい。こういうのも子供によって性格がでるのだろうか。

 それからこの日は公園からの帰りがけに、猿沢池から路地に入ったあたりにわりと最近出来たイスラエル料理の店というのを覗いてみた。前に新聞の奈良版で奈良在住のイスラエルの人がそんなお店を出したという記事を目にしていて、昼前にたまたまチラシを配っていたのに出くわしたのである。店の名にも使われているファラフェルなる向こうの定番ファスト・フードもスパイスの入ったアラビアン・コーヒーも、いかにも酷暑の砂漠の国の食い物、言葉を変えるなら「神と人が対決する国の食い物」という感じがした。またファラフェルはインドで試した噛みタバコのあの混沌した刺激を彷彿とさせ、アラビアン・コーヒーはチャーイのコーヒー版という感じで暑さにへばりかけた肉体をほぐしてくれるような飲み物だ。なおこのアラビアン・コーヒーは作り方をWebで見つけたので、後日に試してからレシピの方でご紹介したいと思っている。ちなみに店の様子はWebでこんなページを見つけたので、興味のある方はどうぞご覧あれ。

 ところで、JR奈良駅から奈良公園方面へ一直線に伸びている三条通りには、週末になるとフリー・マーケットの店がいくつか出店している。その中で昨日は、あのキューバの革命家チェ・ゲバラのTシャツを見つけた。ミーハーな私は以前からこのゲバラ・グッズが欲しい、いつかキューバに行って買ってきたいなぞと思っていたのである。ひょろ長い身長に麦わら帽子を被った、いかにも浮き世の者といった風情の40くらいの店主は(かれもゲバラ・シャツを着ていた)、好きでよくメキシコに行くと言う。ということはキューバでなくメキシコで仕入れたものか。Tシャツの売値は3千円。欲しいなあと思ったのだが、サイズが大きいのと、月末で経済が苦しいのとで結局見合わせることにした。で、今日はWebで入手したゲバラの画像をさっそく覚えたての Photoshop で少々加工し、アイロン・プリント用紙で印刷して待望のゲバラTシャツを作成したのである。うん、なかなか良いではないか。こうなるとお次は当然ディランTシャツか。

 

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 今日はいつもの公園でなく、大阪城の西側の堀まで歩いていって緑道のベンチで弁当を食べた。城内が広いからか、さっきまで見えていたあの豪奢な天守が堀の端まで来るとすっかり見えなくなった。では膝元の御家人ではなく遠くの庶民を威圧するための設計か、なぞとどうでもいいことを考える。どうでもいいことが世の中には多い。ベンチは中側がふたつの肘掛けで丁寧に区切られている。たぶん浮浪者の人たちが寝転がって「宿」にするのを防ぐためなのだろう。世の中にはこういうくだらない悪意も結構多い。

 帰りの電車に揺られながら蕪村について書かれた新書を読む。関東の実家へ行った折り、訪ねてきた叔父がたまたま読んでいたのを私のつれあいに呉れたものだ。生涯を辿った、次のような一節にこころ和む。

 

 ともかく、三十歳の蕪村の身分は、まだ俳人でも絵師でもなくて、僧侶であったと答えるのがほぼ正確に近い。といっても、厳しい修行生活を送っていたわけでも、徳をそなえた高僧を目ざしていたわけでもなく、まるで気ままな雲水生活に身を任せていたにすぎない。「緇衣(しえ)の徒」というのが、いわば蕪村の肩書きであった。

 蕪村の三十代は、行きどころのかいもく見えない時代であった。

 

 実際、蕪村が一般に一定の門人を擁して俳壇に地歩を築くことに当たる俳諧の宗匠になったのは、齢すでに五十五歳のときであった。それ以後蕪村は数々の、現在に至るまで親しまれている名句や名画を生み出してゆく。大器晩成というか、たとえば昔のブルースの歌い手たちも、長いこと綿畑で働き続けて五十、六十になって初めてレコーディングしたという例も少なくない。何というか、人生の意味をゆるやかな時間の中で見いだす視線とでもいったらいいだろうか。私はこういう生き方も好きだ。三十になったって四十になったって、まだまだ人生が決まったわけじゃないのだ。古くさい言い方かも知れないが、人生の本当の意味はそれが終わる最期のときまで分からない。はじめの五十年が一見徒労であっても、それは最期の花開く十年のための熟成期間であるかも知れない。これで決まりだと思ってしまうのはとても貧しい考えだ。

 蕪村三十代の後半に丹後地方の旅先で詠んだ天真爛漫な句をひとつ。

 

夏河を越すうれしさよ手に草履

 

 まだまだ勝負はこれからだぜ、みたいな。負け惜しみでもせっぱつまった形でもなく、どこかのほほんとした軽快さとふてぶてしさで、五十になっても六十になってもそんな気概を持ち続けたい、と思うのです。

 

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 昨夜は11過ぎに帰宅。帰りの地下鉄のホームで貰った給料の明細をちら見たら、もちろん3ヶ月間は試用期間で規定給の何割かの日割り計算でこんなものだとは予想はしていたものの、毎晩こんなに遅くまで働いてたったこれっぽっちのはした金かと思ったら茫然自失して、家に帰ってから「子供の顔も見れず家族といっしょに夕飯も食えないで休日は疲れ果てて寝てばかりいる、これがまともな人間の生活か。おかしいとは思わないか。「プロジェクトX」なんて、あんなものきれい事ばかりじゃねえか。さんざ一所懸命に会社のために働き続けて、おざなりにしていた家庭は崩壊して、自分もリストラで首になって、家のローンを払うために生命保険を当てに自殺しなくちゃならないような、それが当たり前という感覚はぜったい俺には理解できない」なぞと焼酎のお湯割りを呷りながらつれあいに八つ当たりして夜更けの3時までエンエンと喋り続け、今朝はひどい頭痛で結局はじめて会社を休んだ。何とも無様で仕様がない。今日は昼過ぎまでだらだらと寝て、子供とすこし遊んで、夕方に土日に予約していた軽のレンタカーを借りてきた。というわけで明日から一泊で和歌山の彼女の実家へ行ってくる。いつものようにお母さんたちが鰺の刺身を用意して待っていてくれる。それにしてもさまざまな遊び心の仕掛けが仕組まれた軽妙洒脱な蕪村の俳画を帰りの満員電車の中で目にすると、こんな伸びやかで自由な時間から自分がいかに遠く離れているかを痛感する。俺はきっとまだまだオトナになり切れていないのだろうな。そんなものにはなりたくもないが。

 

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 土曜は昼前に和歌山着。とれたての鰺の刺身を食べてから、ひとりで町立の資料館を見てきた。常設展示は蜜柑を穫るときに棘が刺さらぬようようにと着た鹿の皮でなめした衣服や、見通しの悪い海上で船通しが使ったアコーディオンのような足踏みの霧笛、熊楠も懐炉代わりに用いたという温石(おんじゃく)という不思議な石。O浦の歴史や生活を辿った企画展示は、昔の写真や文書、寺の由来の他、年貢等の負担を軽くするために村で設けられた互助制度や、コレラや津波や飢餓の暗澹たる記録、ええじゃないかのときに用いたハッピや、蓮如や弘法大師の伝説、それに町内の個人蔵の宮武外骨が大阪で発行した滑稽新聞の付録の絵はがきや、江戸の反骨絵師・英一蝶の中国の禅僧に材を取った拾得図など。どれもひどく面白い。その後ミカン畑に囲まれた山間の道を4WDを駆使してうねうねと登り、弘法大師の爪書きの名号岩や泣き相撲の祭りが主催される熊野古道の王子跡を訪ね、翌日は地元住民もあんな展示を見なくちゃいけないとそそのかしてお父さん・お母さんを連れてふたたび資料館を訪ねた。行けば行ったで二人とも熱心で、かきの養殖とあるがこれは真珠の養殖の間違いではないかとか、文書のこの家はいまの郵便局の隣の家だとか、古い写真の小舟の物売りをこれはどこどこのケイちゃんだとか、この船はおじいさんの船だとか、色々と説明を加えてくれる。昔はO浦も海岸線がもっと後ろまであって、砂浜があり、アサリ採りができたという。小学校のための資金作りなどで埋め立てられたのだが、いまでも集落の奥で不自然に湾曲している道はそのときの名残だ。

 Oではぼくらが滞在していると知ると、知らず近所の床屋や駄菓子屋や石段の上の家の常連のおばさんたちが「紫乃ちゃんを見せておくれよぉ」と魚や菓子の手みやげをもってやってきてくれるのだが、赤ん坊は母親似にて色白のせいか「この子はほんとに美しか子よ」と嘆息する。「美しい」という言葉のほんとうの響きを、そのとき私はいつも素朴な形で再確認する。それから実家の前は小学校へあがる通学路になっているのだが、日曜の朝、その日は父親参観の日で、低学年の子供たちがランドセルに吊した鈴をちりんちりんと鳴らしながらその道を上っていく。私が赤ん坊を膝に乗せて玄関先で座っていると、あ、赤ちゃん、と言って家の中を覗き込んでごく自然に話しかけてくる。ランドセルの鈴を別の場所に付け換えたいのだが紐が外せないと言って、つれあいの母親に持ち込んでくる女の子もいる。そして道の途中で子供通しで小さな諍いごとが起きたりすると、通りかかったどこかのお婆さんが「ケンカなんかしないで、仲良く行きなよ」と声をかける。しばらく前に作家の橋本治がオウム事件に材を取った刺激的な文章を読んだのだが、その一節で彼は「社会が子供を育てる」という美徳がいまではすっかり失われてしまった、社会がそうした機能を失ってしまった、といった意味のことを書いていた。その視線はすべてが個人に帰結するしかない現代にあって、実に健康的なことだと得心する。Oではそんな具合なのだ。集落を歩いている子供は誰彼の区別なくコドモという単位で周囲のオトナたちの視線に時には優しく時には厳しく見守られていて、私はOでのそんな風景を見るたびに、ああここでは「社会が子供を育てる」という形がいまも素朴に生きている、と心がほぐれて知らず微笑むのだ。

 

 今日も夜10時帰宅。一日中、役所から運ばれた「全国都市監査」の分厚い資料と格闘していた。

 

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 本日夜9時前、昨日に引き続き「都市監査」の資料整理を一段落させて帰ろうとしたところ、社長より話があると言われ、「うちに合わないようだから」との理由で本日付けで試用期間の停止を申し渡された。自分の注意したことがハートに届いていないと言うのだが、私にはさっぱり分からない。特に仕事上で大きな過ちをしでかしたとか素行不良の覚えもないので、結局社長の好みに合わなかったということだと勝手に解釈した。それでも突然のことだったので、気持ちを落ち着かせるために地下鉄の駅をいくつか分、しばらく歩いてきた。小雨交じりの中を20分も歩いたら、持ち前の単純さで「まあ、しゃあないや。こんなこともあるさ」と思うようになった。そんな己のがさつな心中より、可哀相なのは採用の電話があったときに思わず歓声を上げて赤ん坊の手を取り狂喜したつれあいの方だ。口には出さないものの、明らかに落胆した様子の彼女の顔を見るのがひどく辛い。

 

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 ひさしぶりになぜかディランの夢を見た。たまたま訪ねていた小さな町のライブ・スポットでかれのライブが予定されているのを知り、その場所を探しに行った。するといつの間にか、ぼくは殺風景なマンションの一室にディランと二人きりでいた。ぼくが思ったのは、この人をスターとして扱ってはいけない、ということだった。ぼくらは何気ない話をひとつふたつぼそぼそと交わして、それで二人とも満足していた。ディランは過去の栄華から逃れようとしている、年老いたかつての銀幕のスターのようだった。しずけさを求めていた。

 この胸の痛みが、いつか見知らぬ誰かの痛みを分かち合うための糧となるためのものなのだと思いたい。

 

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 外は蒸せるような暑い日差しが充溢しているのに、ここは薄暗くしずかで心地よい。こうしていると、まるで土蔵のなかの秘め事のようだ。まるでじぶんひとりだけ、世の中のあれこれの約束事から見捨てられたような心易さだ。きのう訪ねた山深い村の寺では、山菜採りに行ったまま三日三晩、山中をさまよっていたという老婆が見つかり、村中どこもその話でもちきりだった。月明かりを浴びて夜露に濡れたシダの葉が夢心地でゆらゆらと微笑んでいたという。それにしても此処はひんやりとして懐かしい。天井の黒い梁が数百年の呼吸を刻んでいる。さきほどお茶を運んできた主人も奥の部屋に引っ込んだままで、大かた煙草盆を前にいつものようにうたた寝でもしているのだろう、あとは虻の羽音がどこか向こうの方で響いていたばかりだ。私は書棚から一冊の重たい本を抜き取り、くすんだ紙の匂いを嗅ぎながら、ちいさな詩をひとつ呑み込む。どんな気持ちかと問われたなら、いまはこんな心持ちだ。やわらかで、勁い。

 

ランプの火をふとくしたり
ほそくしたりする
さびしいかげをひく明暗のゆらぎよ
むなしいかげに うつくしき夢をみようとする
なんといふかなしいことか
ああ けれど こんやわたしの思想は
あのランプのしんにとほっている きれいなあかり線のやうに
ひっそりとして たいさう閑雅である

 

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 午後から四日市より友人が来訪。

 CD-Rの外付けドライブを持ってきて、私が会社よりインソールしたDTPのソフト類、Photshop5.5、Illustrator8.0、Quark X Press3.3 等と、機能拡張書類を含むシステム・フォルダすべてをコピーしてバックアップ用に一枚のCD-Romに焼き付けてくれた。これでいつソフトが故障しても再生できるハズ。なんせ自腹で買えば総額30万円分くらいに値するだろうから、安月給の元も少しはとれたろうか。それにしてもCD-Rの焼き付けを初めて見たが、何とも手間のかかる作業のことよ。もうちょっと簡便にならないものなのか。あれじゃ素人や年輩の人には難しいだろう。

 夕飯はみなで近くのサティへ買い物に行き、私と友人の二人が台所に立ってゴーヤのチャンプルー、焼き茄子、青梗菜の中華スープなどをつくった。つれあいはひとりのんびりで、週に一度くらい友人に来て貰いたいものだなどと言う。10時頃に、車で帰っていった。

 赤ん坊は不思議とこの友人が相当お気に入りのようで、親以外には滅多にしないことなのだが、ニコニコと自分からすり寄っていって友人のズボンをぺろぺろと舐めまくったりする。父はまだ独身貴族の友人に、いまのうちから手なずけておいて谷崎の小説のナオミみたいにする腹だろう、なぞと警戒している。

 

 大阪池田市の小学校の事件は、何とも居たたまれないものだ。私もこうした親の気持ちが最近は人ごとでなく、少しづつ分かりかけてきた。しばらく前にも図書館で漫画のカムイ伝を読んでいて、圧政に苦しむ百姓の親子が無惨に処刑される場面で自宅にいる子供のことを思い出し、なぜか無性に顔が見たくなって慌てて帰ったくらいだから。テレビや新聞は加害者の男がふだんも対人関係に難があったことをしきりに報道している。いわばコミュニケーションの不全が引き起こした凶行ともいえ、そう言うならば最近の説明不可解な残酷な事件はすべてそう言えるかも知れない。ここで登場するのは精神鑑定などの常に個人に帰結する性格異常だが、そうしてこれはただひとりの特異な狂人が起こした例外的ケースだと封印してしまえるものなのだろうか。ほんとうにそれだけで人間は、あどけない少女の胸に包丁を根元まで深く刺し込めるものなのだろうか。狂気や異常にも、かれらの「文脈」における「意味」があるのではないか。ある意味で、それらをすくい取る力を失ったわれわれや社会の側もまた共犯者ではないのか。

 

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 先日、NHKのテレビで飛鳥京遺跡発掘に関する番組を見た。飛鳥のこれらの一連の遺跡は、私も地元の便の良さを利用して酒舟石近くの新しい亀石と石で敷き詰められた池の遺構の、二度の見学会を覗いてきた。番組ではその後の発掘結果と、そこから推測される「石と水の都」飛鳥京の全体像がCGによって再現され、なかなか見応えのあるものだった。広大な池の一部に深さ4mにも及ぶ一画があり、それが飛鳥を流れる地下水を利用した巧妙な排水設備になっていたこと。あるいは池の底部より発見された大量の果実の実から、池が薬用を兼ねた植物園の機能も有していたこと。また新しい亀石などの石の構造物が、天皇の水を司る神聖な祭祀の場として設けられたであろうことなど。地下水を利用した排水設備というのは、あまりの不自然な深度から京大の利水を専門とする教授チームが飛鳥周辺の地下水のデータをコンピューターで解析して導いた推論なのだが、かつての空海をはじめとする修験の徒たちが土木や山地の鉱脈等の知識があったように、私はたぶんそうした知識・技術を持つ者たちが明日香の地にもいたのだと思う。古代の知恵を馬鹿にしてはいけない。いま炭のさまざまな効用が見直されているが、縄文時代に耕作地の地下に大量の炭を埋めて食物の成長を促したなんて記事もだいぶ昔にあった。ともあれ、今回の一連の調査で刺激的な飛鳥の都のイメージが少しづつその全貌を現してきたことは事実だろう。私は以前より飛鳥には石と水の印象を強く持っていたが、なかでも石は近くの三輪山山中に眠る磐座に代表される古き縄文の残滓が偲ばれ、また水は飛鳥川の上流の小高い山の頂に鎮座するある水神の古社が想起される。石舞台古墳よりやや南へ下った、飛鳥の水の元締めとともいえるその集落では毎年新年に上流と下流の川の中央にそれぞれ男女の性器を形取った藁のオブジェが注連縄で渡され、ある私の知り合いの翁はそれを「生殖のエネルギーによる聖なる結界」と呼び、それによって守られたいわば子宮のごとき場所が飛鳥なのだと言っていた。いわく飛鳥とはそのような古代のシステムが石や水の隠喩に秘められている場所で、私はそのような飛鳥に心を惹かれる。

 

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 明日香村、石舞台古墳の西南、祝戸と呼ばれるあたりの低い峰の頂にそのときひとり座っていた。たしか数時間前には三輪山へ登ってきたところだったように思う。稜線の山道は人影もなく、正面には足下の石舞台古墳を含む飛鳥の臍の緒のような平地、そして後ろを振り向けば稲淵の集落へ続く棚田のはしくれが垣間見えた。先日、引き出しを整理していたら、その頃に持ち歩いていた小さな忘備録のノートが出てきた。あの日、峰の頂で記したたわごとを、今宵は戯れにここに書き写す。

 

図らずも露呈してしまった岩々
石は常に禁忌(タブー)である。何故か?

これらはかつて存った何物かの断片なのだ。
日溜まりのなかで遠い原形を夢見ている。

(ラピス)たちは沈黙している。

(カミ)は容易に宿る。石にも樹にも。
何も不思議なことではない。
容易く移るのではないか。相応しいものに。

アニミズムは反進化論である。
おそらく別の隠されたパターンがあるのだ。

(カミ)が移るとき、音楽で云うなら転調だ。
岩から別の岩へ、樹から別の樹へ。
キーが変わるが、無限のパターンを反復していく。

顕現とは何か。

大和の神さびた山の頂で昼寝。
なぜかガンジスの川の流れが見える。
山が方舟のように浮かんでいる。

(ラピス)は高みにある。神々の座に。
高みに取り残された〈隠された智慧〉
人ハ山ヲ下リ、平地ニ文明ヲ築イタ。

懐かしい匂い。
草と石が陽に包まれ、風に運ばれる匂い。
どこにもいかない。ここにいる。

 

*

 

 珍しく赤ん坊が早めに寝てくれたので、つれあいと二人でボリュームを落として「シャイン」という映画を見る。なかなか良い作品だった。精神を病んだ孤独なピアニストの素振りや語り口は、思わず「聖なるフール」を思い起こさせる。こういうキャラクターには弱いんだな。こういう存在こそが世界を語るに相応しいと思えるから。それにしても主人公のあの前屈みの特異なプレイ・スタイルはまるでグールドそっくりだったね。映画の合間にときおり気になって二人で隣室を覗くと、赤ん坊はそのたびに違う場所でおかしな格好で寝ていて、思わずつれあいと顔を見合わせて忍び笑いしてしまう。最近はひどく甘えるようになってきて、彼女に言わせると8ヶ月頃というのはそういう時期らしい。物の本によると、親の愛情を確認することによって信頼関係を築いていく時期なのだそうだ。遊びの最中にも食事の最中にもこちらの体に顔をすり寄せてきたり、ちょっとでもそばを離れると慌てて探したり、泣き出すことが多い。あのちいさな体を投げ出して、こちらの膝や腕や胸に懸命に顔を擦りつけている姿というのは、これまた何ともいじらしくて可愛いのだよ。まずイチコロですな。

 

 

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