宮内勝典/海亀日記 投稿者:まれびと
投稿日:11月 6日(土)01時20分51秒
November 5.2004
しかと見なければならないと決心して、座禅を組みながら、目を瞠いて、香田証生君の首が切断される映像を、三回、見ました。
*
藤原新也/君、我が子せめて墓場に臥させよ 投稿者:まれびと
投稿日:11月 6日(土)01時22分0秒
http://www.fujiwarashinya.com/talk/2004_1104.html
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映像 投稿者:まれびと 投稿日:11月
6日(土)01時27分37秒
どうしようもなく誰かの言葉が欲しいと思い、宮内氏の「しかと見なければならないと決心して」にすこしばかり救われる思いがする。
まさに私も「しかと見なければならない」と思ったのだった。
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海亀通信投稿 投稿者:まれびと
投稿日:11月 6日(土)01時44分42秒
1179 返信
香田証生さんの殺害時の映像 松直伽 Mail HOME 05 Nov (Fri) 10:00
香田証生さんの殺害時の映像です。
http://www.ogrish.com/a/shosei_koda_beheading_video_on_american_flag.html
この映像を見て、武装グループは残酷だと思う人は、よほどおめでたいと思います。ブッシュ大統領はもっと残酷なことをイラクに対して行いました。根拠もなく沢山の人々を殺し、虐待し、街や建物や大地を破壊し、放射能で汚しました。その被害は、イラク人の子孫にも及んでいきます。この映像に出てくる武装グループは、まるで牛や羊の肉でも切るかのように香田さんの首を切っています。彼らの心は怒りと憎悪で、人の命に対して無感覚になっていると感じます。何がそうさせているのでしょうか。私たちは、彼らの怒りと憎悪と、香田さんの死に向き合わなくてはならないと思います。
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ファルージャからの手紙
宮内勝典(転載) 投稿者:まれびと 投稿日:11月 6日(土)01時55分22秒
1177 返信 ファルージャからの手紙
宮内勝典(転載) 03 Nov (Wed) 03:45
このメッセージは、イギリスのストップ・ザ・ウォー連合ブリストル支部に届いたものを「911を追求する組織」がニュースレターの中で紹介したものです。ニュースレター全文をごらんになりたい方はと言って、リンクを貼り付けようとしたのですが、まだウエブサイトには掲載されていません。もし全文読みたい方は、教えてください。ちょっと長いのでここに貼り付けるのはやめておきます。それと転載はもちろん自由です。
日付は10月14日になっています。
http://info.interactivist.net/article.pl?sid=04/10/21/2213231
また、この手紙を実際に書いたのは、ファルージャ人権民主センターのカシム・アブドゥルサタル・アル・ジャマイリ所長で、ファルージャの住民を代表して、またファルージャイスラム評議会、教職員組合、部族長会議、ファトワ宗教教育議会のためにと最後に書かれています。(翻訳では抜かしてあります)
以下、ファルージャの市民代表が国連のアナン事務総長に出した書簡です。
アメリカ軍がイラクで毎日、大量虐殺を続けていることは、証拠を提出するまでもなく明らかです。そして、この手紙を書いている今、アメリカはファルージャの街に対して、この大量虐殺を実施しています。アメリカ軍は自らが保有する中で、最も破壊能力の高い爆弾をファルージャの市民に向け投下し、罪のない多くの人々をを殺傷しているのです。そして地上では、アメリカ軍の戦車が、激しい砲撃で街を破壊しています。
ご存知のように、ファルージャ市の代表とアラウィ政権との間で交渉が続いているため、現在ファルージャに軍は駐留していません。またここ数週間、抵抗勢力も行動を控えています。
しかし、新たな爆撃は、イスラム教の断食月ラマダンで、人々が断食をしている時に開始されました。その結果、多くの市民が、瓦礫の中に埋まり、外からの援助も断ち切られている状態です。10月13日の夜、アメリカ軍は爆撃機1機で、民家50件を破壊、多くの人を殺害しました。これは大量虐殺という犯罪行為ではないのでしょうか、それともアメリカ民主主義の教訓なのでしょうか。アメリカ軍は、占領を認めさせるために、ファルージャの人々に対しテロ行為を繰り返しているのです。
あなた(アナン事務総長)は、アメリカとその同盟国が、大量破壊兵器の脅威を口実に、私たちの国の破壊を続けて来たことをご存知のはずです。彼らは自らの大量破壊兵器を用い、多くの市民を殺害しました。そして今になって、イラクに大量破壊兵器はなかったことを認めています。しかし、彼らは自分たちが犯した罪については口にしようとしません。世界中が沈黙しているのです。イラクの一般市民を殺害することすら非難の対象にならないのです。アメリカは、1991年の戦争の後、イラクに賠償金の支払いを強制しましたが、今回アメリカはイラクに賠償金を支払うでしょうか。
私たちの住んでいる世界はどうやら、二つの異なった基準があるようです。ファルージャでアメリカとその同盟国はアル・ザルカウィという新しい、正体不明の標的を作り出しました。ザルカウィはアメリカの犯罪行為を正当化する新たな口実です。この新しい人物は一年前に、でっち上げられました。そして、その一年の間、アメリカは民家、モスク、レストランを攻撃し、女性、子供を殺害しました。そして、常に「われわれは、アル・ザルカウィに対する攻撃を成功裡に遂行した。」とだけ言い、決して、ザルカウィを殺したとは言いません。言えない筈です、ザルカウィなど実在しないのですから。
私たちファルージャの住民は、この人物が市内にいないことを保証します。そして、多分イラク国内にいることもないでしょう。私たちは、これまで何度も、「誰でもいいから、ザルカウィを見かけたら、殺せ」と訴えてきました。しかし、今、ザルカウィはアメリカがでっち上げた幻だということがわかりました。
私たちの代表は、これまで繰り返し、市民の誘拐や殺人を非難してきました。私たちは、非人間的なことをしているグループと何のかかわりもありません。ファルージャに対する犯罪行為をやめ、軍をファルージャから撤退させるよう、あなたそして世界の指導者がブッシュ政権に大きな圧力をかけることを要請します。
ファルージャからアメリカ軍が一時撤退した後、ファルージャは平和で静かな街となっていました。混乱はまったくありませんでした。資金不足にもかかわらず、街の文民行政もうまく機能していました。私たちの唯一の犯した「罪」は、占領軍に来てほしくないと主張したことのようです。しかし、占領に反対するということは、国連憲章そして国際法、また人間としての常識に照らし合わせてみても、私たちが持つ当然の権利のはずです。
今、あなた、そして世界の指導者が、新たな惨事を防ぐために早急に介入することを要請します。私たちは、イラクの国連の代表と連絡を取って、このメッセージを伝えようとしましたが、ご存知の通り、国連はバグダッドで一番警備の厳しい、外の社会と遮断されたグリーン地域にあり、立ち入りは許されませんでした。私たちは国連にファルージャの状況に目を向けて欲しいと願っています。
ファルージャに住む市民一同、教職員組合etc.
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コータロー 投稿者:まれびと 投稿日:11月
6日(土)02時06分11秒
なにか、書け。
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(無題) 投稿者:まれびと 投稿日:11月
6日(土)02時22分48秒
「香田証生さん殺害に思う ──
戦争の意味 問い直せ」
(北海道新聞
2004年11月1日朝刊に掲載された談話記事です)
イラク取材に豊富な経験を持ち、四月の高遠菜穂子さんらの人質事件で支援活動に携わった報道写真家の森住卓さん(53)は香田証生さん殺害について「小泉政権の責任だ」と述べ、政府の対応を批判した。
◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇
四月の高遠さんたちの事件と違って、今回の犯人グループはアルカイダとつながっていると言われている。交渉自体が困難であり、救うには自衛隊撤退しかなかった。
イラク戦争は開戦の理由とされた大量破壊兵器が見つからず、うそで塗り固められた戦争だ。小泉政権はその戦争を支持し自衛隊まで派遣した。そのつけが香田さんに回ってきた。(世論は)香田さんがイラクに行ったことは軽率だとか、香田さん個人を批判しているが、小泉首相の責任を棚上げすることになる。イラクの人たちは日本人にとても友好的で、今年一月ごろまでは彼らの生活に入り込んで取材もできた。イラクの人々はアルカイダなどのテロリストも批判してきた。しかし、戦争後、大勢の住民が米軍に無惨で理不尽な殺され方をし、中にはテロリストを心情的に支持する人もいる。テロリストはそうした人々の心情に依拠し、国内で活動を続けている。そのような状況を作り出したのは小泉政権が荷担したイラク戦争だ。香田さんの死を無駄にしないためには、この戦争の意味がなんだったのか、明らかにする必要がある。香田さんもそれを見たかったのではないか。
★この問題で沖縄タイムス(2004年11月1日)の社説は私の言いたいことをズバリ言ってくれたので、是非読んで欲しい。
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20041101.html#no_1
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(無題) 投稿者:まれびと 投稿日:11月
6日(土)02時32分27秒
「自己責任」などとほざいてすましている連中こそ狂気の輩である。
彼は世界を見たかっただけじゃないか。腐ったメディアではなく己自身の目で。
そんな人間を無残に殺す世界を私たちは日々受け入れているんじゃないのか。
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一番 投稿者:中将姫 投稿日:11月
6日(土)11時05分44秒
大事な事を論議しないで、些末な事ばかりに関わっているのが、この頃の風潮のような気がします。香田さんの死を無駄にしないためにも、彼が生きてきた証としてイラク戦争について考えていきたいと思います。
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Do you want to see this? 投稿者:M.F.
投稿日:11月 7日(日)00時58分41秒
hi!
http://www.consumptionjunction.com/content/detail.asp?ID=39513&type=1&page=1&fav=0
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脱力気味の日々 投稿者:さわ 投稿日:11月
7日(日)08時55分36秒
「テロに屈しない」という言葉の意味に疑義を投げかける沖縄タイムスの社説は、正しいと思います。
イラクで殺された日本人の青年のイラクに行った目的はなんだったにしろ、彼はおそらく状況判断力に欠けていたわけで、彼に責められる点があるとすればそのことだけですね。
それをことさらに「自己責任」としてあげつらい、はっきりいえば殺されて当然であるかのような論調をマスコミはつくったと思う。
政府は政府で、単にテロはおそろしく絶滅すべきものであるというイメージづくりや今後の派兵の根拠のひとつとして、彼の死をむしろ利用しようとしている。
後ろめたいことがある者は、往々にして開き直り、理不尽なほどに他者の非をあげつらうことによって正当化を図るが、この国のやっていることは、そのまんまその図式どおりだと思う。
ところで、われわれには正しい状況判断力があるかといえば、それは非常に怪しい。
よく海外に向けて発せられる日本からのメッセージとして「多くの日本人は政府の方針に反対の意思をもち、平和をねがっている」というような文章がある。おそらく今回の事件においても、そのようなメッセージがイスラム社会に向けられても発せられたと思う。
そのとおりであればよいと思うが、果たしてほんとうにそうか。「平和をねがって」はいるだろうが、それは自分の国さえ平和であればいいっていう感覚のことなんじゃなかろうか、と、よく思う。
イラク派兵反対のデモに何度か行ったが、一箇所に集まってアピールしているときには、そりゃ、みんなおなじ思いをもっているのだなと胸が熱くなるようなこともありましたよ。しかし、それはおなじような考えの人ばかりがそこに集まっているのだから当然なんだね。
わし、ひとりやほんの数人で街頭にも立ってみましたが、目前を行き交う通行人の冷たさっていったら、なかったよ。
憲法改悪の議論には、とりあえず熱心な人が多く、自衛隊は増強され、イラク特措法は、おそらくたいした抵抗もなく期限延長されるだろう。おそらく近い将来、憲法は変えられてしまうだろう。
いま、日本の現状っていうのはそういうことなのであり、イラクで10万人の民間人が殺されようが、自分の国に爆弾が降ってくるまでは知らんぷりするのが日本人なんだね。
どうすりゃいいんだっつっても、どうしようもないなあ。
とりあえず、沖縄タイムスの社説にある考えは自分の考えとおなじである、っていうことを、自分の周囲の100人に口頭で伝えたらどうか。
わし、昨日、それやろうとして、逆に相手に説教されたけどね。よく知らない人だったから、ケンカになるのがイヤで途中で逃げちゃったよ。ナサケナイのう。
話は変わるが、まれびとさん、お仕事忙しくて掲示板に書き込むヒマがなかなかないそうですが、そのくらいでちょうどよいんだと思いますよ。PCを捨てよ街に出よう。
追伸 風太郎さんとはサンカの話もしました。
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おじゃまいたします。 投稿者:sae
投稿日:11月 7日(日)13時27分45秒
リンクさせていただきました。
http://8158.teacup.com/sae/bbs
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唾棄 投稿者:まれびと 投稿日:11月
9日(火)11時13分6秒
例の映像を、私は深夜に職場で同僚と見たのですが、英会話システムをネット配信する副業を持ち英語に堪能なその同僚の意見はやはり「危険な場所に自ら行ったのだからこれは仕方がない」「このような残虐な行為があるということもやがて慣れてしまう*慣れなければならない」といったものでした。
殺されて当然である。
その背後にあるおそろしいほどの倒錯。
殺されて当然な人間なんて、本当にいるんか。
2チャンネルに「彼がもし無事に生きて日本に帰れたら、彼の家族はこの国で精神的に殺されたことだろう」という短い投稿があったが、慧眼だと思った。
「殺されて当然の危険な場所」というのは、さわさんの仰るように「じぶんとは関係ないあっち側の世界」なわけですな。「そんなとこ、行かなきゃいいのに」
しかし、そんなとこに軍隊を送り出し、平和のためと称して罪のない人間を殺戮し続けている国とつるんで嬉々としているのはこの国じゃないのか。それが「じぶんとは関係ないあっち側の世界」なのか。
青年はそのために殺されたんじゃないのか。
いわば彼は、はからずもこの国を代表して、「あっち側の世界」のこの国へ向けられた憎悪を我が身に顕現させられた。それがあの最大の恥辱にまみれた殺され方。
この国のあり方によって殺された若者を、自己責任だから「殺されて当然」と言い切って済ましている、この国の自明なる狂気。
首を斬られる瞬間、どんな心地であったろう、かれの頭に何が去来したろうと、なんどもなんども考えようとして、そのたびに吐き気が込み上げてきて、恐怖で大声を出したい気持ちに駆られて、疲労の果て、日常の生活を続けるために思考を中断した。
なんの意味もない、尊厳のかけらもない、理不尽で孤独で、恐怖でいっぱいの死。
青年の首を斬った連中はいかれた戦争好きの狂気の集団なのかも知れない。だが、たとえそうであったとしても、かれらのような連中をあらしめているのは、罪のない子どもや老人や息子や娘を無惨に殺され続けてきた人びとのやり場のない怒りや悲しみや憎悪や絶望であるだろう。
「ひどいことをするものだ」
だが、いまこの瞬間だって、「戦争は平和である」と称する莫迦ものどもによって、罪のないこどもたちの頭がかち割られ、内臓が飛び散っている。
首を斬られた青年の何十倍もの数の無辜な命が。
上空を飛ぶ爆撃機から落とされた爆弾が、消しゴムのようにひとつひとつの命を隠してしまう。「平和のため」というオブラートに包んで、新聞は添え物のような数字しか伝えない。
たったひとつの命さえ、その首を斬られる映像を見たら胸が張り裂けそうになるのに、その何十倍もの残酷な死をいったいだれが正気で受け止められるのか。
もうやめようじゃないか。
おれもあんたも、どいつもこいつも、こんな世界は心底うんざりで反吐が出る。
この国が「平和」なのはその強大な殺戮者たちの側にいるからだ。おれたちはコカ・コーラを飲み、マクドナルドを食い、ポップコーンを頬張りながら、毒にも糞にもならない呑気なテレビ番組を見て今日も微笑んでいる。
「あんな危険な場所にのこのこ出かけて、殺されても仕方ない。馬鹿なやつだ。こっちでおれたちと一緒に楽しめばいいのに」とうそぶいている。
「とりあえず、沖縄タイムスの社説にある考えは自分の考えとおなじである、っていうことを、自分の周囲の100人に口頭で伝えたらどうか。」
その通りだと思います。結局、そこからしか始まらない。
でもどうなんだろう。
Why must I always explain?
ギ論なんかしたくない。
唾を吐き続けるだけ。
*
ドラエモ〜ン 投稿者:さわ
投稿日:11月12日(金)13時20分2秒
ビルメン屋さん、どらえもんのうた、おもしろかったヨ!
これは、ほかの掲示板にすこし書いたことなんですが、直方市の青年が人質にされ、どう見ても日本政府の対応やマスコミの論調が納得できないものだったとき、わしの上の息子(23歳)がわしに訊いたのは、「国民はなぜ税金を払うのか」「税金泥棒とはどんな人のことか」というもの、下の息子(16歳)がつぶやいたのは、「人間の命が地球より重いっていうのは嘘か」というものでした。
中将姫さんの書いているとおり、個人の感情と政府の責任はべつの次元で考えなくてはならない。殺された青年がどういう思いででかけたのか、彼がどんな人だったのかに関係なく、政府はあらゆる方策で救うことに全力をあげるべきだったし、ほんの少しのミスも許されなかったはずである。
国民はそのために税金を払っているのであり、税金泥棒というのは仕事をしない役人・政治家のことであり、さらに汚職をする役人・政治家のことである。
>>宗教だの国家だの民族だのといった垣根
そうですね。垣根はたしかにあるわけですが……。肝要なことは、他人の宗教や国家や民族性を尊重するという合意だろうと思います。そして、その合意を「他人から収奪しない」ということの保証にしなければならない。
たとえば、現在、日本がおこなっているODAは、(たとえばフィリピンにおいてだけでも)じっさいはどのような形で運用されているのか。どういう歴史があるのか。そのことひとつだけを調べてみても、いかに平和や援助を隠蓑にした収奪がおこなわれているかを知ることができるはずです。
日本人は、自分たちの飽食や平和ボケできる環境の土台になっているものを知りたがらないが、そりゃ知ってしまうと後ろめたいからでしょう。また、後ろめたいからといって、いったん広がった生活のレベルを落とすことは苦痛をともなうから。(わし自身、自信ない)
現代の戦争はもうほとんど100%といってよいほど「収奪」つまり経済問題でおきている。
まれびとさんは、わしの「とりあえず……」にカチンときたのかもしれないが、わしは「ギ論」なんかを奨励しているわけではないです。
たとえば、この掲示板では中将姫さんもまれびとさんも、わしと大して変わらないメンタリティをもっていると思う。だから、たとえばこの3人で、なにか些細なちがいを「ギ論」しても、あまり意味はないだろうと思うが、なにかを変えたいと思うなら、とりあえずできることからしなければならず、そのためにはexplainも必要なんじゃないですか。まれびとさんの吐くツバも重要なexplainですよ。
*
文字だけの 投稿者:まれびと
投稿日:11月13日(土)11時09分58秒
会話というのは、いろいろ語弊がありますな。
BBSが殺伐としたものになりやすいのも、そういう要因があるんでしょうな。
やっぱり人はナマで接しなきゃ。
「自分の周囲の100人に口頭で伝えたらどうか。」というさわさんの意見を見たとき、まったくそうだな、とおもいました。
こんなネット上でごちゃごちゃ言ってるより、そういうことの方がまさに必要なのであり、でも、そういうことに逃げている自分を見つけた、みたいな。
たぶん、ほんとうに言いたいことを言ったら、わたしは疎んじられる。日常生活に支障が出る。主張すればするだけ気狂い扱いされる。そういうことはこれまでたっぷり味わってきたのだし、やってもいいが、結果は見えてるし、できるなら面倒だからあまりやりたくない。そう感じてるじぶんがいる。
で、無限定に周囲の百人というのはじぶんには無理だろうな、と思ったのでした。
だから「唾棄」っちゅうのはさわさん或いはさわさんの意見に向けたものではないわけで。
ところで今回の人質殺害にjunkもアキンさんとこも、それから私がよく見ている知人方々のサイトも、(わがBBSでも)みんなほとんど触れていない。ちゅうか何の意見も見られない。というのがわたしにはちょっと???です。
*
文字だけの会話 投稿者:さわ
投稿日:11月13日(土)16時38分33秒
語弊……そうですよね。情報量が少ないという欠点。おなじ言葉でも、同意をもとめるかのようにつぶやいているのか、吐き捨てるように言い切っているのか、嫌悪をこめて喚いているのか、どういう感じ方をするかでまったくちがう結果になることもあるだろうね。
そのブレを少なくするのが文章の技術なんだと思うのですが、わし、最近、それに全然自信もてないです。
まれびとさんの述懐は、すべてほんとのことでしょう。「こんな場所でそういうこと言うなんて……おかしいわよね〜」「なんだか知らないがアブナイ人かも」「左翼かも……爆弾投げたりしちゃうのかも」「いや左翼じゃないでしょ、バカサヨクでしょ」「偽善者よね〜」「正義病よね〜」「付き合わないほうがいいかも」「とにかくヘンよね」
日常生活に支障の出る人もいるかもしれない。
わし、「わしにツバ吐くな〜」とは書いてなかったでしょ。そんなこと思ってないから書かなかったわけだよ。「わしの?とりあえず?にカチンときたのかも」と書いたでしょ。書いてない文字は読まない、っていうことも誤解を避けるコツのひとつかもよ。
“とりあえず”してみたらどうか、っていう言い方は、わし自身、“とりあえず”ってこたぁないだろ、とりあえずそれだけやっとけば免罪符かよっ、っていうような自分つっこみが、そこにあったわけで、それが、まれびとさんの「ギ論は無意味」というところに、なんとなくハマッてしまったわけなんですよ。
話はちがうが、わし、最近、ちょっと困ってる人をちょっとだけ助けてあげたんだけど、(いわゆるボランティアってやつ?)、その相手の人が率直にわしに訊いたのよね。曰く「赤の他人のために自分の時間をつかうなんでバカらしいと思わないんですか?」
自分がしたいと思ったことをするのに、バカらしいと思うってのは論理的にヘンなんだが、むしろ、では、自分はなにをしてたら本当にバカらしくて、なにをしてたらバカらしくないのか? 自問してみるとすると、わしなんか、けっこうなさけなくなるわけだ。
とりあえずは、バカらしくないと思うことに割く時間を多くしようと思ってみる。
>>何の意見も見られない
人質殺害の事件に衝撃をうけなかった人はたぶん非常に少ないと思うんだ。そして、多くの人が悲しみを味わったはずである。衝撃が大きいと、逆になにも語れない、という現象は、ひとつあると思う。
わしは事件にちなんで、息子との会話をすこしだけ掲示板に書いたが、そのときはもう元気なくて、なにかことさらに主張したりする気力さえおきませんでした。
わしの24歳の息子も言葉少なかったです。その後、彼は、いままで料理なんてしたことないのに、わしのために小麦粉をこねて、皮をつくり、大きなパイを焼いてくれました。不恰好なパイでした。
おそらく殺された青年の母親のことを考えたんじゃないかと思う。
あと、これは言わずもがなのことなんですが、やはり冒険には危険がつきものであるという考え方、これは一面の真理であり、危険を危険と認識する能力がなければすべての冒険は命懸けになるという事実が厳然としてある。それはそれ、これはこれ、なんだが、その事実の大きさの前には、むしろ直接的な背景や前提も無視してしまう、という人間感情があるでしょう。
そして、それは割合、人として自然な感情なんじゃないかと思う。
つまり多くの人が自己責任論に帰結してしまったということなんじゃないかと思うし、しかし、むごたらしく殺された衝撃で、それすら言うもはばかられた(言うと非人間的な感じがする?)ということなんじゃないかと、わしは思っています。
*
現実 投稿者:中将姫
投稿日:11月13日(土)18時37分13秒
イラクで人質の香田さんが殺害されたってことは現実だし、それはどんな理由があろうと認めることはできないと思います。ただ、心情的にはイラクの人々の追い詰められた気持ちも解るけど。ただ、この解るとか同情とかという言葉はクセモノで、反対の立場になれば、自ら危険な所へ行ったから殺されて当然だという論理になるわけで。状況を理解できるということと、許されない行為を認めるということは、別の次元で考えなければならないと思います。この頃、政治の世界をはじめ、日本中が感情で動いているようで、感情と現実、特に公の判断は別でなければならないと思うけど。小泉首相自身が、何事もきちんとした説明をしないで、情緒的な単語を並べて、いつも誤魔化していて、それが何故か人気があるということが不思議でならないし、困ったことだと思います。説明ってやはり大事だと思う。5・15事件の時に「話せばわかる」と言った犬養首相を「問答無用」で暗殺してしまった青年将校と今の首相は似ているような気がします。心情的に解るから何でもやっていいということになれば、戦争もテロも殺人もいじめも何でも許されてしまう。それは、絶対に間違っていると思います。感情で動くのは、あくまでも個人生活のレベルの問題だけで。(とエラそうに書いたけど、実は何事も感情で動く現実の自分がいたりして)
それから、BBSとか、バーチャルの世界って本当に不思議ですね。一度も会ったことのない、おそらく隣にいても解らないまれびとさんとか、さわさんとかと、何十年来の知己のように、こうしてネット上で話ができるのだから。すごく便利で面白いと思います。でも、これはあくまでもネットのバーチャルの世界で、現実とは全く違うんですよね。面白いけど虚しい。最近特にそう感じます。私は、小さい頃から一人でいろいろと空想するのが好きで、自分の中で物語を創って楽しんでいたのですが。空想の世界ならどこでも行けるし、何でもできるし、面倒くさくないし、誰も傷つけないし、自分も傷つかないし。ネットもその延長にあるのかも。でも、本当は傷ついてもみっともなくても、面倒でも、現実の世界で生きていくのが、辛いけど一番大切なんですよね。これからは空想の世界だけでなく、現実の世界も大事にしていこうと思っているけど、やっぱり外の世界はちょっとコワイ。
*
今日は 投稿者:まれびと@しょくば
投稿日:11月15日(月)00時58分36秒
「カラスの赤ちゃん」から、久しぶりにRCサクセションの「コブラの悩み」(カバーズのライヴ篇)をずっと聞いていたのですが、確か前にコータローも言っておったが、これらの曲はいまでも生きてるなぁと再認識した次第で。特に「明日なき世界」なんか。
オーウェルの1984を読んでいても、すごく現代に通じるものがあって、辺見庸の「歴史における実時間」じゃないけど、私としては非常に危機意識を感じるわけです。かなりヤバイ状況じゃないかと。1984にあったけど「二重思考」なんてのも、実際、粘液のように私たちの意識の下層に浸透しつつあるんじゃないか。そうでなければすでに正気でいられないんじゃないか。そんなことを感じたりします。私たちは知らず知らずのうちに、ある種の意識操作を無意識に行って日常と世界で起きていることを分別して済ましているんじゃないか。
で、じぶんに何ができるかというと、何か集会に参加したり、意見の異なる人たちと対論をしようとか、そういうのはなんか気が乗らない。そういうことが実を結ぶというふうな気がしない。
それじゃどうしたいんだといったら、とりあえずいまのじぶんには現在の状況に個としてツバを吐くことしかできない。話の通じない人・現状に違和感を感じない人には冷淡でいるしかない。まぁそんな具合に非常に後ろ向きなわけです。
*
おっしゃるように 投稿者:まれびと
投稿日:11月16日(火)11時55分10秒
人の沈黙に対してあれこれと言うのは「大きなお世話」でした。
それに尽きると思います。批判するつもりではありませんでしたが。
私はじぶんが受けた衝撃が重すぎて誰かの言葉が聴きたかったのですが、それは甘えというものでした。
誰も他人に意見することを強制することはできません。
コワクないものを批判することが安易で時に偽善的ですらあるのは確かに仰るとおりです。私は安易で偽善的な人間です。本気で命を張って物が言えるのかと言われたら、そんな勇気は露程もない。小便ちびってみじめな命乞いをするだけでしょう。
数あるニュースの中で同国人の青年の死にだけ過剰に反応するというのも、私のふだんの視野の狭さと不感症に拠るものでしょう。
ただ彼が殺されたとき、私もよく知っているつれあいの実家の近所のおばさんが言ったという「日本が台風や地震で大変なときに、あの馬鹿たれが!」という言葉を聞いて私が感じ書いたことは間違っているとは思いません。私はそのことについて、私とおなじような気持ちを感じている誰かと話をしたいと思ったのですが、そのことによって結果的にねこげんき。さんの開きたくもない口を開かせてしまったことはお詫びしたく思います。
ねこげんき。さんの投稿は御希望通り削除しておきます。
*
もの言わぬは腹ふくるる…… 投稿者:さわ
投稿日:11月16日(火)17時33分41秒
>>本気で命を張って物が言えるのかと言われたら、そんな勇気は露程もない。
わし思うに、そんなことはそれぞれ自分の問題なのであって、他人に問うたり問われたりするスジアイのもんじゃありません。
「人の沈黙」の意味を問うのは、問い方にもよるが、べつに悪いことでもないでしょう。知りたいことは訊いてみる。これがコミュニケーションの基本じゃないか。黙ってたらよくわからないってことは多い。
「数あるニュースの中で同国人の青年の死にだけ過剰に反応する」というのは、たしかにそのとおりだが、逆に「同国人の犠牲にすらも反応しない」人間って、そりゃどうかしているんじゃないか。といういいかたも十分あり。(反応しない=なにも考えてない か否か、ということとは、まったくべつ問題)
わし、これまで「殺された青年」のことを、その固有名詞を知っていながら、「殺された青年」とか「直方市の青年」などとしか書いてこなかった。固有名詞が書けなかった。自分自身、なぜ彼の固有名詞を書くことに抵抗があるのかよくわからなかった。
それは、たぶん、イラクで殺されつづけている民間人はすでに1万人を越しているのに、そのなかのひとりの子どもの名前すらも記憶していない自分に対する、わしなりの後ろめたさからだろう、ということに気づいた今日。
わし、削除されたらしい「ねこげんき。さんの投稿」はあいにく目にしてないんで内容は不明なんだが……これはねこげんき。さんに関してとくに言うわけじゃないが、おそらく削除せざるをえなくなるだろうと予想できるような投稿や、おそらく自分の気が変わって削除したくなるだろう投稿は、もともとしないほうがいいと思う。厳しいいいかたで悪いが、それは一種のズル。
ちょっと話はさらに飛ぶが、ちょっと前、まれびとさんは
》ある種の意識操作を無意識に行って日常と世界で起きていることを分別して済ましているんじゃないか……何か集会に参加したり、意見の異なる人たちと対論をしようとか、そういうのはなんか気が乗らない。そういうことが実を結ぶというふうな気がしない……非常に後ろ向きなわけです
と書いていたが、そういう気持はよくわかります。じっさい、わし自身そういう気がするし、なにしても無力感と後ろめたさに苛まれそうで怖い。それでいて、(なにも即実効的な行動はできなくても)自分はこういうことを考えているんだ、というようなことを書いたり、じっさいに言ったりするのは、偽善的で卑怯な気がして、非常に、なんというか勇気がいる。
でも、しかし、どんな状況にあるどんな人でも、最初はそういう地点からしか始まらないんじゃないのか。
たしかに行為がなければなにも変わらないが、もの思うことからしか行為はでてこないんだ。民主主義の世界では、国民がもの思うことからしか政体も変わらない。で、ふつう、人はなぜもの思うのかといえば、べつのだれかの考えを聞くからだよ。
中将姫さんは「何十年来の知己のように、こうしてネット上で話ができるのだから。すごく便利で面白いと思います。でも、これはあくまでもネットのバーチャルの世界で、現実とは全く違うんですよね。面白いけど虚しい」と書いていたが、わしはそう思わないですよ。
WEB上のコミュニケーションは、たしかに不備もあるし問題も多いが、ネットはしょせんただの「道具」に過ぎないじゃありませんか。ネットを「空想」「現実とまったくちがうもの」にするかどうかは個人的な問題だと思いますよ。元気だそう。
http://www.iraqbodycount.net/
*
文字だけの会話・その2。(ねこげんき。編) 投稿者:ねこげんき。
投稿日:11月16日(火)17時38分13秒
削除してください。などと、つまらないコトを書いたのは自分なので、
>人の沈黙に対してあれこれと言うのは「大きなお世話」
と、ワシ。が云っていたように読めても致し方ありませんし、
ナニか弁明するつもりもありません。言葉足らずで至らないのはワシ。のいつものコトです。ご不快であったなら、ワシ。のほうこそお詫びしましょう。
まれびとさんがご覧になる掲示板の方々に、この件に関して言葉がない理由も、それぞれにそれぞれであるでしょう。こころあっても、なかなかに言葉にしあぐねているのかもしれません。
まれびとさんのお気持ちに寄り添い、なにかを見いだすのに助けになるような言葉と出会えますように。
*
>>ワシ。が云っていたように読めても致し方ありませんし 投稿者:さわ
投稿日:11月16日(火)20時18分59秒
読んでません。書いてないことは読んでない。ねこげんき。くんも、わしが書いてないことは読まんよーに。書いてあることだけ読むよーに。
>>なにかを見いだすのに助けになるような言葉と出会えますように
ほんと、それこそが希望です。
*
おはようございます。 投稿者:はる
投稿日:11月15日(月)10時30分52秒
まれさん、おはようございます。
例の彼の件は、10/31の日記で書いたぐらいのコメントしかできませんでした。
この戦争は裕福な、かの国が何やら屁理屈をつけて、貧乏なよその国をいじめているとしか考えられません。日本では犠牲者が何人か出ると大騒ぎだけれど、その貧乏な国は数え切れないくらいの犠牲者がいる。台風や地震は人間の力はおよばないけれど、戦争は一人の馬鹿が人類全体を巻き込む災いとなる。その戦いに日本も兵隊を出しているからなぁ・・。戦争は人殺しだ。
コメントできなかったのは、自分の中にもかの青年のようなデバガメ的な根性があるからだと思う。近くに火事があれば少しでも近づいて覗いてやろうと思うし、交通事故があれば物見で出かける好奇心といういやらしい根性がある。かの青年は私であったかもしれない。たまたま私は時間と体力がなかっただけのような気もする。
よく言われるのが登山のたとえ。冬山は遭難がつき物だ。遭難すれば「そらみたことか」と言う非難は覚悟の上だ。だからまぁ自己責任を問われることは仕方ないことだ。だからといって遭難してしまった場合、救助隊は何もしなくていいのか?といえばそんなことはなくて決死の覚悟で救助に出かける。日本人である彼が人質になった場合、非難されるのはやっぱりしかたないだろうな。行ってはいけないと言うところにわざわざ出かけたのだから、だからといって死んで当たり前ということにはならにと思う。政府はそれなりに救助の手は打たねばならないだろうな。とか・・。
*
相変わらず寄らさせていただいています 投稿者:Catwalk
投稿日:11月16日(火)22時27分20秒
まれびとさん、こんばんは。もうお忘れになっちゃったかもしれませんが
相変わらず寄らさせていただいています。
私はジェシカ・リンチの「救出」劇の頃にはDylanの「アイラ・ヘイズのバラッド」をよく聴いていました。(J・キャッシュ版も)
「哀れな移民」もその頃、割と。(真偽はともかく発表当時はベトナムのアメリカ軍兵士のことを歌っているなどと言われたのも『歴史』の一部となってしまいました)
「ジョージ・ジャクソン」では(今、手元に訳が見当たらないのでうろ覚えですが)たしか「世界は大きな監獄で『俺たち』の何割かは看守だ」というようなフレーズもあったような。
私はいろいろ物事を考えるときやっぱりこのあたりに戻ってしまうような気がするのです。
タイマーズよりずっと大昔になってしまいますが日本の歌では休みの国の「追放の歌
」なんてのも良いです。(お聴きになってたら大変失礼)
以下で試聴できます。(頭にhをつけて一行にして下さい。曲目リストクリックで試聴のコーナーに)
ttp://sound.music.co.jp/soundware/bin/qfind2.asp?keyword=%8Bx%82%DD%82%CC%8D%91&codec=0&Submit=%8C%9F%81@%8D%F5
最後のフェイドアウトしてしまうヴァースは「きのうは俺も一緒に唄ってた」です。
私もあまりNetの「内、外」は考えるほうではないですがメールにさせていただこうかどうかと迷ったあげくこちらに。
来月はお嬢さんの初めてのクリスマス会かなと勝手に想像してたりします。
どうか皆さま風邪などひかれぬように。それではまたいつか?
PS.私のあのページも少しばかり追記を、お暇なときに。
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/harp/others2/uwasa05.html
*
さわさん。 投稿者:ねこげんき。
投稿日:11月16日(火)22時55分47秒
投稿時間を見ていただいたら、ワシ。の云うことを少しは信じて頂けるかと思いますが、ワシ。が17時38分の投稿を行う時に、さわさん。の17時33分の投稿には気が付いていませんでした。気が付いたのは、自分の投稿を確認したときです。
まれびとさん。の、朝の投稿を読み、う〜〜〜〜〜ん。と腕組み思案しながら、ポツポツと、投稿を書き連ねておったとですよ。
さわさん。の投稿を読んでからだと、ワシ。の投稿内容も変わったかもしれませんが、
>人の沈黙に対してあれこれと言うのは「大きなお世話」
というのは、まれびとさん。のアンサーにあった言葉で、少し残念に思う気持ちがあったので、正直に取り上げたものです。削除をお願いし、すでに消えてしまった自分の投稿について、これ以上、どうこう云うつもりはありませんが、さわさん。の投稿を誤読して直後に投稿したわけではありません。
タイトルについては、まさしく、ジツにムツカシイものであるのだなぁ、という感慨が、さわさん。のタイトルを引用させたもので、誤解を招いたことをお詫びします。
*
ちと風邪気味 投稿者:まれびと
投稿日:11月19日(金)09時58分7秒
で、間合いが空きました。
私の勝手な誤読があったようで、お手を煩わせました。
文章というものは出来上がった途端、書き手を離れてしまうような部分がある。
ねこげんき。さんの意図とは無関係に、まぁちょっと個人的に気が滅入っていたこともあり、ねこげんき。さんの投稿は私の痛いところを勝手に突いたんだと思います。
どうもこの頃、書くことに対してうさん臭いというか、じぶんで焦点がぼやけているところがある。断片しか書けない。じぶんが何を書きたいのか、あるいは一時の衝動で書いてしまってから、安易なエエ格好しいじゃないかと嫌気がさす。そうした己の膿が噴き出した。
人が沈黙するのは人の勝手なのであり、そんな当たり前のことを、沈黙の人びとを代表して一喝されたような気がしました。
同時に、さわさんの「で、ふつう、人はなぜもの思うのかといえば、べつのだれかの考えを聞くからだよ」にも励まされたような気がする。
ところで先日、イラクで亡くなった小川功太郎さんというジャーナリストが、死ぬ前に友人に宛てたというこんなメールを読みました。
・・・・・・・・・・・・・・・ここから転載をお願い致します・・・・・・・・・
メール掲載を希望される方へ
このメールは小川さんが友人に宛てた私的なメールです。
受信者の方が、有意義な議論きっかけになればということでメール掲載の許可をいただきました。
このメールをお読みになって、ホームページ、メールマガジン、MLなどに掲載を希望される場合、特に連絡の必要はありませんが、
・「メール掲載を希望される方へ」からメールの最後までを 掲載することをご了解の上、掲載をしていただけるようお願い致します。
もし何かございましたら
http://plaza.rakuten.co.jp/tetsugakuessey/
の私書箱までメールをいただければ幸いです。
・・・・・・・ここから本文・・・・・・・・・・・・・・
----- Original Message -----
From: "Ogawa Kotaro"
Sent: Friday, April 30, 2004 3:27 AM
Subject: FROMイラク
前略。
皆様、お元気でしょうか。私はイラクにいます。
バクダッド到着日に新たに2人の日本人が人質になり、その次の日に3人の人質が解放、その2日後に2人も無事解放と人質関係の仕事ばかりしてました。
その後はサマワに行ったりしたけど(その模様は30日金曜日に「報道ステーション」で放送予定)、今ははっきりいって暇です。
米軍の報道規制が厳しいのと誘拐の恐れがあるのでバクダッドから動けないのです。
同行したジャーナリストの叔父も早々に引き上げ、今は通訳と2人で午前中は難民キャンプなどの取材、午後は読書とチグリス川で釣りをする毎日です。
大手テレビ局が引き上げたので、何かあったときのためのスタンバイという感じです。
日本では人質事件以降イラク報道の熱が冷めたように聞いてるけど、本当ですか。
イラクは実は今こそ酷いことになってます。
特にファルージャという町での米軍の蛮行は目に余るものがあります。スナイパーが面白半分に通行人や子供を撃ち殺し、町は手当たり次第に空爆、でも報道規制があまりに厳しいため、こうした現実は町から命がけで逃げ出してきた避難民の証言でしか伝えられません。
2週間で1000人近い人が死んでる。
これはもう戦争というより虐殺です。
罪のない無実の人間を殺す、これこそテロ以外に何者でもないと思う。
今イラクのみならず、アラブ世界全体が「ファルージャを救え」と叫んでいます。
すでに10万人近い市民が町を脱出したけど、脱出途中に撃ち殺されたり、無事抜け出せても住むところもなく、バクダッドに急遽できた難民キャンプで不自由な生活を強いられています。
イラク全土で憎しみが増幅しています。
もちろん米兵も沢山死んでいます。「大本営発表」の倍は死んでる。
ここまで死人を出してアメリカが守りたいものが結局「石油」や「復興ビジネス」でしかないのだと思うと、怒りを通り越して虚無感を覚えます。
人質がバッシングの嵐に遭っているそうですね。
かわいそうなことだと思います。
2回目の2人は地元の人の忠告を無視して危険地帯に突っ込んだので仕方ないにしても、最初の3人を責めるのは可哀想だと思います。
彼らが通った陸路は我々も3月に通って何の危険もなかったごく一般的なルートでした。
何よりもかれらはそれぞれイラクのために役立ちたいと考えて来たのに、まるで罪人あつかい。
自衛隊の活動に迷惑がかかるというが、自衛隊も外交官もNGOもジャーナリストも各々がイラクの役に立ちたいという共通の願いを持って来ていて、その思いに上下貴賎はないと思うのですが。
むしろ、自衛隊は守りが堅固で攻撃したくても難しいから民間人が狙われたのです。
こんなこと言ったら今の日本ではバッシングの対象ですか。
個々の自衛隊員には全く罪はないし、とても大変な任務を頑張っていると思うけど、狙われているのは残念ながら事実です。
ここ20年、日本のNGOもジャーナリストも世界の紛争地で危険にさらされることなく活動してきた。
第二次大戦以降、日本人がここまで明らかに政治的意志を持って狙われたのは今回が初めてだという事実をもっと真剣に受け止めるべきじゃないのかと思います。
誘拐は追い詰められたファルージャの人々の「窮鼠猫をかむ」的行動でした。
でもなぜ日本人かというと、日本がイラク戦争に賛成し、今も軍隊を駐留させているから狙われた、それだけのことです。
自衛隊が人道援助に来ているというのはサマワの半数ぐらいの人とバクダッドの一にぎりのインテリしか知らないことで、大多数のイラク人は残念ながら「日本はアメリカに味方して軍隊を送っている」としか思っていません。
それでも、バクダッドなどのイラク人は相変わらず親日的なので、町を歩けば皆笑いかけてくれるし、誘拐事件のことは「卑劣な行為だ」とまるで我が事のように同情してくれます。
しかし、ファルージャなどの追い詰められた人々はそんな余裕はありません。
もちろん、アメリカの占領に対して武力でしか戦わないイラク人にも問題はあります。
アメリカはイラクの占領政策について「日本のGHQをお手本にする」と言ったそうだけど、日本とイラクでは事情が違いすぎます。
アラブ人は千年前は自分たちが世界の中心だったという強烈な自負と誇りがあり、決して抵抗を諦めないでしょう。
それがデモなどの政治運動に繋がればいいのだけど、彼らはそれよりも武力を信頼しています。
身の回りに武器があふれていて、政治活動という回りくどくて勝ち目のない戦いよりも、操作さえ覚えれば敵を殺せる「武力闘争」のほうがはるかに説得力があって、どうしても惹かれてしまうのです。
日本で言えば戦国時代の思想なんだけど、武器だけは近代的だというのが問題です(それも結局アメリカ製だったりするんだけど)。
ここでは「兵器」という名の「思想」がはびこっています。
それでも結局彼らに勝ち目はないでしょう。
兵力に差がありすぎます。
人質事件が起こった今こそ、日本でもイラク問題に関する根本的な議論が行われてもいいと思うのだけど、バッシングだけで終わってしまうとしたら寂しいことです。
世界の中で日本がどうあるべきか、ということを考える近年まれに見るよい機会だと思うのですが。
でも、日本にいるとそんなこと考える余裕がないというのも確かだと思います。
僕自身、働き始めてからはそうした問題はなるべく考えずに避けて通ってたし。
仕事に追われ、そのうさを晴らすように腹いっぱいメシ喰って、ポンだチーだと叫んでやり過ごしてた。
でも、今回ばかりは・・・という気がします。
前回イラクから帰って心から思ったけど、やっぱり平和というのはいいものです。
日本で満開の桜を見て、それを楽しむ人たちを見るだけで涙が出そうでした。
有難いことだな、と。
できれば世界中の誰もがこの幸せを感じられればと思うのだけど、自分に出来ることといえば、目の前で起こってることをなんとか伝えることと、こうして心ある人にメールを書くことくらいです。
安全には十分注意を払い、現地大使館とも連絡をとりながら、なるべくおとなしく暮らしています(今の大使は立派な人で、外務省の退避勧告が出てるのに、私ごときの駆け出しジャーナリストを応援してくれます)。
いのしし歳なので、ときには理不尽な現場に突撃したい衝動にかられるけど、ぐっとこらえてチグリス川の川面を眺めています。
きっといつか役に立てる日が来ると思いながら。
なんだかわからない何かを知るために。
少々飲みすぎて感傷的なメールになってしまいました(イスラムの国でも「不良」のためのヤミ酒屋があります)。
あと1ヶ月くらいはバクダッドにいる予定です。
また、メールします。再見。
小川功太郎
*5月初旬発売の月刊『現代』に前回ファルージャに行った時のことを書かせてもらいました。
よかったら読んでください。
・・・・・・転載ここまで・・・・・・・・・・・・・・・
*
海亀1 投稿者:まれびと
投稿日:11月19日(金)16時03分22秒
―――――――――――以下、転送歓迎します――――――――――
November 14.2004
若者の死を悼む
――香田証生君の死について思うこと
宮内勝典
【転送歓迎】
http://pws.prserv.net/umigame/
日本人青年がアルカイダ系の武装集団に拘束されたと聞いたとき、なんという軽率さだろうとあきれながらも、複雑な思いがあった。常々、ひとり旅に出ることを若い人たちにすすめているからだ。外部と触れあうことによって、生まれ育った日本や自分を初めて相対化できる。それが精神的な成人式となるはずだ、と私は語りつづけてきた。
私自身も二十二歳のとき旅に出てから、六十カ国ぐらいを遍歴してきた。四十代になってから、中米先住民たちの独立闘争に関わり、密林の戦場に潜入したこともあった。まだ幼かった息子を妻に託し、熱帯雨林の奥で人知れず腐乱死体となるかもしれないと覚悟しながら。
香田証生君も、自己責任であるということは自覚していたと思う。「小泉さん、すみませんでした」とつぶやくかれの表情には、首を切断されるかもしれないと覚悟している、悲しいほどの静けさがあった。武装集団の要求に応じて自衛隊を撤退させることはありえないと、かれ自身も知りぬいていたと思う。
香田君とほとんど同じ歳である私の息子も、昨年、バックパッカーとして旅をつづけていたが「これからフンザ渓谷へ向かう」というメールを送ってきたきり、ぷっつり消息を絶った。フンザ渓谷はいくつもの国境が入りくむパキスタン最北部の山岳地帯である。息子が陸路でアフガニスタンへ入国するつもりでいることを私は直感した。
幸い息子は無事であったけれど、香田君はついに生きて帰ることができなかった。二人とも、たしかに軽率であった。無謀であった。だが、かれらの動機に切実さがあることを私は疑っていない。
世界中で一千万を超える人たちが、路上に出て反戦の声をあげたけれど、戦争を止めることはできなかった。日本国民の過半数が反対したにもかかわらず、自衛隊はイラクへ派遣された。かつて客員教授をしていたころの教え子たちも「自分たちが、なに一つ関与できないまま、世界は圧倒的に動いていく」と無力感を洩らしている。
世界貿易センタービルが燃えあがり、アフガンやイラクに火の雨が降りそそぐ光景を、私たちは情報として受けとめるしかない。世界の中にいながら、リアルな世界から疎外されて、架空の情報空間に封じ込まれている。世界はすりガラスに映る影のように空虚で、若い人たちは自分が生きているという実感をもつことができないまま、離人症的な感覚に陥っている。うつ病もひろがっている。
少年犯罪やリストカットには、生の実感を取りもどしたいという衝動がひそんでいると思われる。日本の自殺率は世界一だ。自殺者の数は、年間三万人を超えている。これはアフガン空爆やイラク戦争の死者たちよりも遙かに多い。
香田君や私の息子が危険であることを知っていながらアフガンやイラクへ赴いたのは、リストカットの裏返しのようなもので、自分たちを疎外している世界の実体を見きわめ、ざらりとした現実に触れてみたかったからだろう。状況を突き破って真に生きようという願望でもあったはずだ。
「星条旗に包まれた首は、友人の首、自分の首であったかもしれない」
と私の教え子たちは口々に語っている。そして、交渉によって救出するということが念頭になかったのか、まっさきに自衛隊の撤退はありえないと宣言した母国の政府に、自分たちは救ってもらえないのだと感じたとも洩らしている。この事件によって若い人たちは二重の意味で世界から締めだされてしまったのだ。そのことだけは理解すべきだと思う。それが、せめてもの鎮魂ではないのか。
(共同通信 2004年11月3日記)
【追記】
イラク戦争の死者数は、これまでNGOの「イラク・ボディカウント」によると、1万人から2万人の間とされてきました。それに基づいて、イラク戦争の死者数を3万人以下とみなして、上記の原稿(若者の死を悼む)を書きました。ところが、その死者数が少なすぎるのではないかという指摘が「非戦」のチームメイトからありました。
イギリスの医学誌「ランセット」(2004年10月30日)に発表された、新しい調査報告によると、イラク民間人犠牲者数は、最低でも10万人を超えているのではないかと推定されているそうです。
これは米国ジョンズ・ホプキンス大学、コロンビア大学と、イラクのムスタンシリヤ大学による「米・イラク合同調査団」による学術調査ですから、客観的で、信頼がおけるものであると思われます。この「村落抽出調査」の時点では、まだファルージャなどが含まれていませんから、死者の実数はもっと多いのではないかと思われます。
くわしく知りたい方は、下記の「イラク戦争被害記録」をご覧ください。
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Iraq/lancet04oct.htm
――――――――――転送歓迎、ここまで――――――――――――
*
Fallujah in
Pictures 投稿者:まれびと@しょくば
投稿日:11月20日(土)01時32分10秒
http://fallujapictures.blogspot.com/
*
宮内さんの文章を読んで 投稿者:さわ
投稿日:11月20日(土)14時33分56秒
転載された宮内さんの文章を拝読して、自分の考えたことと重なる部分が多くありました。わしと年回りが似たかたなのかもしれません。
わしの息子も、あのニュースのあと、わしに、自分がイラクに行きたいと言ったらどうするか、ユーラシア大陸徒歩旅行に行きたいと言ったらどうするか、などということを訊ねました。
わしは日ごろ「若者は元気で留守がよい」と言っているのだから、そう訊かれて、答えることは決まっております。
わし自身、よく同年の友達と話していて、お互い、いま命があるのは偶然の賜物であるという結論に同意する。かつて(いまも?)かなり軽率であるし無謀である。
ただ、わしは宮内さんとちがい、「かれらの動機に切実さがあること」を「疑っていない」というわけではない。むろん疑っているわけではないが、信じているわけでもない。そんなことはわからないし、わからなくていいと思っている。
また、彼らの動機に「生の実感を取りもどしたいという衝動がひそんでいる」のかどうかも、あまり考えないことにしている。わからないことはわからないままなのだが、ただ、彼らに対して、無条件にどこまでも自由であることを保障したいという気持は宮内さんと変わらないと思う。
「星条旗に包まれた首は、友人の首、自分の首であったかもしれない」と、宮内さんの教え子たちは口々に語っているそうだが、わしの息子もそうでした。そして、どんなずるい交渉でもいいからして、とにかく救出するという姿勢をもたない政府に怒りと絶望を感じていた。
そう感じる若者が多いか少ないかで、将来の国の行方が決まると思う。
わしと宮内さんのちがうところは、「日本国民の過半数が反対したにもかかわらず、自衛隊はイラクへ派遣された」という実感くらい。わしはそういうふうに感じることはできなかった。
わしは、その結果が、このような事件に直接つながったと考えている。
*
>宮内さんの文章を読んで 投稿者:まれびと@しょくば
投稿日:11月22日(月)01時48分40秒
私が宮内氏の文章に共感するのは特に「香田君や私の息子が危険であることを知っていながらアフガンやイラクへ赴いたのは、リストカットの裏返しのようなもので、自分たちを疎外している世界の実体を見きわめ、ざらりとした現実に触れてみたかったからだろう。状況を突き破って真に生きようという願望でもあったはずだ。」といったような部分でしょうか。
さわさんは「かれらの動機に切実さがあること」「生の実感を取りもどしたいという衝動がひそんでいる」といったことは所詮分からないし分からないままでいい、と書かれていますが、実際はそのとおりなのでしょうけれど、私がいちばん感じるのはそういう部分ですね。いや、勝手にそう「信じている」のだろうけど、そこらへんが核なわけで、例の映像を見たときも、言ってみたらそれらが潰えてしまったこと、あのような形で潰えてしまったことに対する痛切さにようなものを強烈に感じたわけです。
*
Re:>宮内さんの文章を読んで 投稿者:さわ
投稿日:11月24日(水)01時25分48秒
「香田君や私の息子が危険であることを知っていながらアフガンやイラクへ赴いたのは、リストカットの裏返しのようなもので、自分たちを疎外している世界の実体を見きわめ、ざらりとした現実に触れてみたかったからだろう。状況を突き破って真に生きようという願望でもあったはずだ。」
まれびとさんが共感するというこの部分、また、お書きになった宮内さんの気持、非常によくわかります。よくわかります、というより、そのように思っていただけてうれしい、ありがたい、という気持になる。(若者の反対語としての)おとなが、そのように考えてくれることが、きっと、わしの息子たちをふくむ若者の生きていく社会を住みやすくしてくれるのではないかという希望をもちます。
「よくわかります」というのは「共感」とはちがうのか? と問われそうですが、まあ、共感でしょうね。わし、そういうふうに考えてくれる人たち、大好きだ。
だから以下の説明は、ほんとは言わずもがなのことなんだけど。
あのね、これって、ないものねだりの一種なんだと思うけどね、わしがちょっとひっかかるのは、たとえば、以前、3人の若者たちが人質になり、なんとか解放されたとき、さかんに「イラクのために献身しようとした人たちなのに殺すのか」っていう言われ方をしましたよね。
それをひきとって、今回の場合は「以前のときと比較して同情できない」と堂々と言うコメント屋が続出したわけです。
いったい、行った動機が純粋だったり、切実だったり、納得性があったりすれば殺されなくて当然であり、そうでなかったら殺されても仕方ないのか?
もっと言うと、さらに進んで、殺す側の立場についても「動機が純粋だったり、切実だったり、納得性があったり」で可否が変わってしまうんではないか。
もっと進めば、たとえば軍人だったら殺されてもしょうがないが民間人だったら殺されるべきではない、というのが当然の論理とされているわけだが、ほんとにそうか。
これは明らかに飛躍しすぎだが、価値あるものは存続していくべきだが価値ナシと判断されたら絶やす、という論理が歴史上幾多の悲劇を産んできたわけでしょう。ちょっとそういうことを考えたことがひとつ。
あと、たとえば自分が10代のときになにを考えていたか、を思った。当時、どんなに理解を示してくれそうなおとなにも、おそらく決して理解できないことや、彼らからしたらとんでもないことや荒唐無稽なことを考えていたように思う。おとなに自分たちのなにを解説されても、決して同意できなかった。それは自分の未熟さの証でもあったが、極端にトンガることでしか息もできないような、ちょっとでも触れられたら汚染されてしまう純水のような瞬間を単に連続するしかない珍しい機械だからしょうがない、ようなところもあった。
とにかく触れられたら爆発しそうだったの。おとなにそれを「文学」にされたくなかった。わし、いま、それを尊重したかったの。
*
(無題) 投稿者:まれびと
投稿日:11月27日(土)12時24分46秒
いま、職場の休憩時に姜尚中と森達也の対談「戦争の世紀を超えて」を読み、帰宅してから風呂に浸かりながら岡本太郎の「沖縄文化論」を読んでいる。それでなにか、日々のバランスをとってるようない感じ。
「戦争の世紀を超えて」はとても示唆に富んだ一冊。
アウシュビッツの収容所を前に、二人は微かな違和感を覚える。それは何かというと、ここでは圧倒的な被害者の記憶ばかりがあり、ただもう祈るしかない。ナチスという「絶対的な悪」の前で思考が停止してしまう。しかしほんとうに「絶対的な悪」といったものは在るのか。さらに必要なのは、じつは加害者の側の記憶ではなのか。人間がいかに残虐な殺戮に手を染められるようになるのか。そのからくりを考えることから始めるべきではないのか。
先日、奈良の幼女殺人に関して語るある掲示板を覗いたら、圧倒的に多かったのは「異端の切り捨て」とでもいった意見だった。「公開処刑にすべきだ」「精神異常者は事を起こす前に隔離しておくべきだ」云々。そこで「戦争の世紀を超えて」の中のこんなことばを思い出した。いわく「それらの物言いによって、実は己の条件が問われていることにたいていの人は気づかない」
香田君の例の映像を見たとき、「これは自分である」と思った。「ざらりとした現実に触れてみたかった」がために首を刎ねられるのが自分であると同時に、首を刎ねる側もまた自分である。さらにいえば香田君に対して「あの馬鹿たれが!!」と吐き捨てた顔見知りのおばちゃんもまた自分であるかもしれない。自分はどこにでもありえる。酒鬼薔薇聖斗でもありえたかも知れないし、アウシュビッツ収容所のSSであったかも知れない。
*
(無題) 投稿者:きはら
投稿日:11月27日(土)17時33分20秒
何でこんなに気が重いんだろうと自問するのですが、おそらく、国・政治・経済・軍事等々、これまでそれほど意識せずに来たものたちが一斉に押し寄せてきて、態度表明を迫っているからなのだろうと思う訳です。勘弁してくれえ、僕はそんな事は知らん、考えたくない、という感じなのですが、、、
その映像は、とても見る気になれないので、まだ見ていない。たぶん、今後も見ないと思う。
彼には愚かだと言われても仕方のない面があったのかもしれない。明確な目的を持っていなかったがゆえの準備不足とか状況判断の甘さとか。そして、ひょっとしたら、いくらか覚悟が欠如しているような所があったかもしれない。けれども、彼に道徳的に責められるような罪が何かあったかと問うと、それは無かったと思う。
愚かさなら、僕自身の中にもっと酷いものが沢山ある。人には言えない罪もある。
殺されたのが彼であって僕ではなかった、その事に何か正当な理由があったようには思えない。
あの9月11日のときもそう思った。その飛行機に僕は乗っていなかった。そのビルに僕はいなかった。そして、爆弾が落とされるアフガンの町にも、僕はいなかった。彼らは死んで、僕は生きている。そこにいた人達が間違っていたからではない。僕が正しかったからではない。
大袈裟に聞えるかも知れないけれど、あの時以来、僕の生活から、少しの後ろめたさも伴わない楽しみや喜びは失われてしまったように思う。あの日以来、世界の見え方が変ってしまった。僕はずいぶん無口になったような気がする。話が飛躍するようだが、敢然と世を出て神とともに歩むことを始めるのでなければ、平安は得られないのでないか、そのようにも思う。
9月11日を僕は個人的な事件として受け止めたと思う。と言うか、受け止めそこなっている訳だ。ところが、今回の事件は、ちょっと違う。事件は、僕が日本人の一人であることを否応なしに突き付けてきている。彼が殺されたのは日本人だったからだ。「テロリスト」が、日本人はイラク人を蹂躙している、と考えているからだ。これは世界に対する個人の生き方という問題であるよりも、自分が属する国の行動をどうしたいのかという政治的な選択の問題だ。政治は好きじゃないし、選んで日本人になった訳でもないので、出来れば避けて通りたい問題だ。しかし、片方にイラク人である事の責任を無理矢理に取らされている人たちがいて、もう一方には日本人であるというだけで安全と繁栄を享受している自分がいる。これは明らかに不公平だ。
「日本人である私と私の子供の安全で豊かな生活は何があっても守らなければならない。そのために必要なら、アメリカの政策に追随して、パクス・アメリカーナを脅かすテロリストどもを敵に回して戦い、奴らを殲滅すべきである。双方に多少の犠牲が出るのはやむを得ない。向こうの方が犠牲が大きいはずだから我慢しよう。勝たねば元も子もない。鬱憤晴らしに、生意気な北朝鮮をちょっと虐めてやれ。ただし、慎重にやれよ、、、云々」
少し単純化しすぎで、誇張が過ぎるかもしれないが、総体としての日本人が選ぼうとしている政治的な方針は、そういうものだろう。何も言わないという事は、こういう選択に反対しないということになるだろう。
*
別に 投稿者:月光仮面
投稿日:11月28日(日)06時17分59秒
きはらさんが、イラクの問題をそんなに自分の問題として重く受け止めて、気分が重くなる必要はないと思います。大多数の日本人がイラク戦争や人質問題を他人事として、現在の生活を享楽しているなかで、それだけ真剣に考えているだけで、彼らは救われるんじゃないかと思う。どんなに危険でもイラクに行ったのは、彼らの意思で行ったのだろうし。その結果として殺されたことを、これだけ深く自分の問題として受け止めてくれた人がいるだけで故人も満足しているのではないか。楽天的すぎるかもしれないけど、そう思う。しかし、この頃の世界は実にキナくさい。アメリカやそれに追随する日本の外交の恐ろしさを、どこかで訴え続けていかなくてはならないと思う。情報が恣意的に流されていくなかで、それを見据えて発言していくことが大事だと思う。
*
皆々様方が、 投稿者:原
投稿日:11月28日(日)06時39分36秒
同じ様な考えで、まったりと「たゆたう」事が間違いではないのですが、敢えて対の意見を置いておきます。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/index.html
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/490664080X/customer-reviews/ref=cm_cr_dp_2_1/250-2044754-3781823
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062125463/qid=1101059809/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-2044754-3781823
皆さん的には受け入れ難い現状なのでしょう。でも皆さんの仕事やら、周辺を見てください。
そして、こっそり聞いてみるとわかると思います。
こっそり聞いた現状が「それ」なのだという現実を噛み締めるのも有りなのだと。
イデオロギー的に特化された職場なら別ですが。
*
原さんへ 投稿者:きはら
投稿日:11月28日(日)23時40分24秒
示されたリンク先でいろんな人が述べている事は、単純に要約すれば、「彼はバカだ」「人質三人組もバカだった」という事でしょう。バカというか、間違った行動をとって周囲に大いなる迷惑をかけたボケである、というか、そういう事ですよね。そのような意見を持っている人が多くいるだろうとは思っています。僕自身も、彼らの行動がバカなものではなかった、と言うつもりはありません。
原さん自身はどのような意見をお持ちなのですか。原さん自身の言葉で述べて頂けませんか。
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ちょっと失礼 投稿者:エリコ
投稿日:11月29日(月)02時18分41秒
今夜はみなさんの長い投稿をじっくり読む元気がないんだけれど、
藤原新也さんのTALKで11/8に書いてらしたことについて、
まれさんはどう思ったか聞きたい。時間のあるときに、ぜひ。
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まず原さんのカキコに対してですが 投稿者:まれびと@しょくば
投稿日:11月30日(火)00時05分59秒
ご紹介のサイト、拝見しました。
で、アマゾン・サイトの書評に対しては、私はそれらの本を読んでいないので何とも言えません。また解放された彼らについては、興味はあるけれど、いまのところ新聞で伝えられた以上の情報は持ち合わせていないので、実のところそれほど詳しいことは知らない。
もうひとつの「極東ディズニー」さんは、その語り口(結構好み)を含めて愉しく拝読しました。
で、私の感想としては、馬鹿を馬鹿と認定するのはいわば価値観の問題であって、どこぞの極地で遭難したり熊に食われて死ぬ冒険家も、かれらを突き動かす何物かが理解出来ない人間にとっては当然馬鹿としか思えない。
人にはそのように死の危険があるとしてもその何物かのために赴きたいと思う衝動や精神があるのであり、問題はそれに共感できるのかどうかってことだ。それはいったいなんだったのかと問うことではないか。
で、私としては香田君に様々な落ち度や優柔不断があったとしても、その低層に流れていたであろう宮内氏いわく「ざらりとした現実に触れてみたい」という一途な思いは、自分のことのように共感してしまうし、彼にそのような道を歩ませたもろもろの要因を理解する事ができる。
つまり「極東ディズニー」さんのご意見は、そのような他者に対する想像力が欠如したものか、あるいは私とはまったく価値観の異なる人だということでしょう。
別段、それはぜんぜん構わないし、私には関係ない。
私から見たら「極東ディズニー」さんの論調の方が大層な馬鹿に思えるが、それでなくても世の中には馬鹿がたくさんいるので、これ以上馬鹿の相手を増やして対論したいとは思わない。
「対の意見」が多数だろうということはご指摘されるまでもなく日々充分承知しております。
で、原さんは何を仰りたいのでしょうか?
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きはらさん 投稿者:まれびと@しょくば
投稿日:11月30日(火)01時44分14秒
思えば私もこのごろ、戦争に関する書物を漁ってばかりのような気がします。
ヒロシマ、オキナワ、9.11、アフガン、イラク。
辺見庸の言う「歴史における実時間」というか、もっと身近な皮膚感覚として、考えざるを得ない。
きはらさんの書いてくれたことは私もまったく同感です。
私とかれらの間に生と死を分ける正当な理由は何もない。
「戦争の世紀を超えて」から引用したい。
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個が共同体に帰属して主語を喪失したとき、他者への想像力を失うことで恐怖が発動し、善意や正義をエネルギーにしながら殺戮が始まり、すべてが終わってから唖然とする。
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そうすると、我々が悪と言っているものは、結局解らないので悪という言葉を使ったりするんじゃないか。そう言ってしまう自分の条件は何なのかが問われているにもかかわらず、自分が正気で、自分側のスタンスでしか物事は見えない。
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他者への想像力の喪失。
自分も含めて、それを何より感じる。
「あのアホタレが!」と吐き捨てる人間は、じゃあそういうお前はいったい何なんだよ? と問われている。
問われない人間はいないわけだ。いまこのような世界の状況にあって。
私は、そう思います。
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そろそろ仮眠の時間なんで 投稿者:まれびと@しょくば
投稿日:11月30日(火)01時46分1秒
エリコさんのリクエストは、また次回。
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まあ、わし的にはですね 投稿者:さわ
投稿日:11月30日(火)17時18分56秒
前にも書いたようにいろんな理由で、惨殺された直方市の青年のイラク入りの動機には関知しないわけなので、彼がじっさいバカであるかどうかはいえない。なぜなら、わかんないからだ。
ある人々が人それぞれに推理して「バカだとしか言いようがない」と思うなら、それはその人なりになにかしらの根拠をもってそう言っているわけなんだろうと思う。
「死んだのは自己責任」という言い方においてもそう。大々的にそれを声に出して言いたてたとしても、その人が「自分ならバカなことはしない」という見地から蔑みでバカ呼ばわりしているのか、「バカ」という台詞に言いようのない思いをこめて自問自答しているのか、あるいはまったくちがう理由なのかは、他人にはわかるまい。
たとえば、以前書いたようにわが家では蔑みの声はなかったが、それはおそらく、わしの息子たちが「彼はバカかもしれないが、それが自分だったとしても全然不思議でない」という気持で他人事に思えないのと、「どんな状況にせよ最善の策をたてられるべきなのに、そうされたとは思えない」というふたつの理由があるようだった。
わし、似たような思いをこの掲示板に書いている人々が、バカという蔑みや自己責任論でこと足るという考え方が圧倒的に多いらしいのを知らないとは思えないし、殺されてしまった人の軽率さに言及もあり、かつ、一種の運命論をもって死そのものを諦観しているようにも読めた。
(「馬鹿死に給うこと勿れ」という変え詩だけは、わしも2ちゃんねるで見て知ってたが、やはり文章も付いていたほうがずっとよいね)
ただ、たしかきはらさんが書いておられたが、「日本人でなければ殺されなかった」ということ。それは動かしようがない事実で、それは単に「運がわるかった」とか個人の自業自得ではどうにもならないことだ。
その事実を、われわれはどういうふうに解釈し、なにを考えるのかということを、この掲示板に書いた人たちは他人と話しあいたかったんだと思う。
んで、もうひとつ思ったことがある。わしは最初、こういう話は、なかなか書きにくいものだと思っていた。事実、まれびとさんも、思ったことをそのまま口にすれば周囲と衝突しそうで気が重い、というようなことをお書きになっていたと思うし、逆に、「殺すな戦争するな」なんてことは当然のことで、そういう、だれも反対できないことについてことさらに高説ぶって述べるのはガキだとかアホだとか偽善だとかっていうヨタが必ずくるからだ。
だから、わしは、ことさらに「それでも発言はするように」とか「おおやけの他人の発言をシニカルな物言いや個人的な間尺で遮るな」とか書いてきたわけだ。
しかしながら、「高説ぶって述べるのはガキだとかアホだとか偽善だとかっていうヨタ」はともかく、じっさい、「殺すな戦争するな」なんてことは当然のことだから、それを楯にされたらだれも真っ向から反論はできないというのも真実なのである。
だから、この掲示板では似たような意見や記事の紹介が(それぞれわしには魅力的な書き込みだった)並んだが、それに向かって真っ向から反対意見を書く人はいなかった。
原さんが(たぶん予定調和を嫌い、たぶんバランス上、対抗意見を紹介するまでは)
原さん以外の「沈黙している人」は、自分の意見は少々ちがうと思いつつも、たとえばまれびとさんのそういう感性を愛しているので黙っておられるのでしょうな。
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予定調和 投稿者:まれびと 投稿日:12月
1日(水)02時15分22秒
う----ん、そうなのかなぁ。
簡単に言えば、かの香田青年の死の場面を見て私はじぶんのなかの何かが大きく揺さぶられた。そしてその理由を知りたいと思った。知らなければならないと思った。また他の心ある(と私が思っている)人たちがどのように感じているのかも知りたいと思った。あるいはそれは、一人では支えきれないような気がしたから。
かつて奈良の月ヶ瀬村で起きた女子高生殺害事件のとき、世間の論調はいたずら目的の救いようのない事件だと報じ、私もそのように思っていた。
ところが数年後にある雑誌で事件をさらに掘り起こしたレポートを読み、それから図書館で弁護士の書いた部落雑誌の文章を探したり、事件現場を訪ねたりして、まったく違う風景が見えてきた。
ある一人の哀れな鬼に寄り添うことによって見えてきた風景だ。
いつからか、私はその孤独な魂に寄り添いたいと思い、そうすることが自分にとって必要なことだと思ったのだった。
寄り添わなければ見えないものも、この世にはある。
かのイラクで首を刎ねられた青年を批判し馬鹿呼ばわりするのは至極簡単なことだ。
しかし、そこには「他者への想像力」が見事にばっさりと切り捨てられている。
巷で言われている程、かれはほんとうにイラクへ赴く危険を微塵も感じていなかったのか。愚かなほど軽視していたのか。私はそうは思えない。さわさんの仰るようにそれは永遠に分からないのかも知れないが、私はそれよりも宮内氏の言う「ざらりとした現実に触れてみたい」と願ったかれの内なる衝動にウェイトを置きたいと思った。そこから見えてくるものは、じぶんにとってもとても大事なものだと感じたのだった。
それで私は馬鹿たれ呼ばわりされているかれに寄り添いたいと思ったのだった。
寄り添って考えたいと思ったのだった。
そうすることは私自身の問題でもあると感じたから。
*
要するに 投稿者:まれびと 投稿日:12月
1日(水)11時59分42秒
イラクでむざむざと殺されたかの青年に、私は愚かさも稚拙さも含めたもう一人の自分を見つけたわけだ。
それで「阿呆たれ」と吐き捨てられたもう一人の私が「何を!」と生首のまま歯ぎしりしたわけだ。
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(無題) 投稿者:さわ 投稿日:12月
2日(木)19時53分11秒
中将姫さんの「二上山」は悲しげではありますが美しいファンタジーで、心にしみるものでした。
わしも二上山の上の雲が見たいと思いました。
まれびとさん、「予定調和」という語句にこだわらないでください。それは、原さんに対するわしの失礼な推測にすぎず、もしかしたら見当はずれな推測ですからね。
わしの言いたかったことは、まあ、似たような意見ばかりがならび、反対意見は多数派であるにもかかわらずいっさい載らないという風景は、見た目、ちょっとキモチワルイのかも、っていうようなことでした。
これはどっちゃでもいいことなんでギ論なんかする気はないですが、月ヶ瀬村の中学生殺人事件は、直方市の青年の事件とは微妙にちがうと思うんです。加害者と被害者という立場のちがいも大きいし、事件に関係する証言の多寡もある。それと自死と惨殺されたという点も。
共通するのは、まれびとさんのおっしゃるように寄り添う気持がなければ決して見えないものがあるということ、そして、殺された中学生のほうに焦点をあてれば、おそらく大した瑕疵もないのに殺されることの理不尽という共通点。
わしは、宮内氏やまれびとさんのように考える人は大好きだということはすでに書きました。
でも、わし自身がそのようには考えられないのは、宮内氏やまれびとさんが他者への想像力と認識しているものが、まれびとさんも述懐しておられるように、自分にとって絶対的に捨てたくないものへの思いであるからなんですね。誤解をおそれずに言ってしまえば、それは文学の領域だからなんです。
いや、「文学」を否定するわけではなく、わしにはわからないものはわからないとしか言えない、っていう自分の非文学性を羞じてもいるわけなんです。
わしにとって重要なのは、彼が日本人でなかったら殺されなかったかもしれないということを、われわれはもっと真剣に検討しなければならないっていう提起と、価値あるものは生くべきで、そうでないものは蔑むということの理不尽であり、さらにそれを利用して恥じない政治なんです。
*
文学の領域 投稿者:まれびと 投稿日:12月
3日(金)12時21分56秒
はい。さわさんの仰りたいこと、よく分かります。
彼がなぜイラクに行きたかったのか。死の瞬間、何を思ったのか。ほんとうのところは誰も分からない。寄り添うというのは、そこへ近付こうと想像力を使うわけだけれど、全然ひとりよがりの見当違いかも知れず、そんなことが出来ると思うのは実は傲慢・無知厚顔なことなのかも知れない。
それでも人が人の心奥に分け入ろうと思ったら想像することしかない。いや、大事なのはそこへ近付こうとするあてのない努力か。
うん、確かなものは何もない。
かの青年に軽率なところがあったとは私も思います。くり返しなりますが、けれど彼をイラクヘ行かせた何か。ふつうの人だったら避けるような場所へ、どのような経緯であれふいと踏み出させてしまったもの。たとえそれが非難されるような形であっても、その思わず突出してしまった部分に、常識やら何やらいうことよりも(より多く)私は心奪われるのです。
なぜなら、これは私の経験から信じていることですが、そうして突出してしまったもの・はみだしてしまったものを追っていくと、たいていそれはしたり顔の「常識」を引っ剥がすようなものに突き当たるからです。つまり今回のかの青年の行動をしたり顔で非難する人たちのその「常識」を、私はあまり信用していない。それよりもかれらの言う「常識」からやむをえず踏み出してしまうものに、私の心はいつも共鳴するのです。
言葉を変えて言えばそれは、ひょっとしたらいわゆる多くの人たちのように彼に非難や嘲笑を向けてしまうかも知れないじぶんというものの(森達也の言う)「そう言ってしまう自分の条件」について考えざるを得ないからかも知れません。「私はほんとうに、かれらよりニンゲンであるのか?」
そういう問いを安易に摘み取り適当なレッテルを貼りつけて済ませてしまおうとする動きに私は反発します。
非常識なかれら、悪魔のようなかれら、奇怪なかれらは、その理解し難い突出した形によって、何かを私たちに問いかけているのではないか?
それは実は、ふだん私たちが何気なくやり過ごし、目を背けていることに対する重要な警鐘ではないのか?
>わしにとって重要なのは、彼が日本人でなかったら殺されなかったかもしれないということを、われわれはもっと真剣に検討しなければならないっていう提起と、価値あるものは生くべきで、そうでないものは蔑むということの理不尽であり、さらにそれを利用して恥じない政治なんです。
もちろん、そういうことも重要な要素としてあり当然考えなければならない事だけれど、私の中ではいま言ったような私たち全体の井戸の奥底へ下りていくような部分にもっとも気持ちが向いてしまうわけで、ある意味、それはかの青年と私との井戸の底での(私が思う)勝手な会話のようなものかも知れず、それは私個人の性癖に由来するのでしょう。
私の中でもうひとりの切り落とされた私の生首が歯ぎしりするというのは比喩ではないのです。
う---ん。こういう書き方をしたら、これ以上会話が続かないか.....
あいすみません。
*
エリコさん 投稿者:まれびと 投稿日:12月
3日(金)13時01分56秒
かの青年の凄惨な死の場面を深夜勤務先で(webで動画を見つけた)同僚から見せられた翌晩、私はじぶんがばらばらになりそうで誰かの言葉に接したいと思い、(救いを求めるような気持ちで)宮内氏のサイトを開きました。氏はある小説を書き始めたところで「言葉を凝縮させたい」という理由でサイトの更新を止めていたのですが、そこに一言だけ、「しかと見なければならないと決心して、座禅を組みながら、目を瞠いて、香田証生君の首が切断される映像を、三回、見ました。」と短い文章がアップしてあり、私はそれによって気持ちがすこしばかりしゃんとしたのです。少しばかり腹をすえる・すえなくてはならないと思うことが出来た。
藤原新也の「一国心中考」はその後に続けて読みました。服装のことなど相変わらず着眼点が異彩だなと思ったりしましたが、どこか切実な宮内氏の言葉に比べると冷静な物言いに感じられ、それはそれで藤原新也らしい(大人だなぁというか)と思ったのですが、ともあれこの二人の(わりとすばやい)発言が私の姿勢を立て直してくれたことは確かです。また藤原氏の「話の香田証生君に戻すなら、香田証生君が単なる一個人でなく、一人の日本国民であるという視点に立てば、その死によって世界における日本人の立ち位置が暗示されたということに他ならない。」という部分は特にその通りだと共感したものでした。
要するに宮内氏が死者に向き合う姿勢を、藤原氏が広い枠組みの中で思考を再開させることを、それぞれ教えてくれたと思っています。
エリコさんが特にどの部分についての感想を尋ねているのか、ちょっと分かりにくいのですが、こんな感想で宜しいでしょうか。
*
君、我が子せめて墓場に臥させよ 投稿者:エリコ
投稿日:12月 3日(金)23時18分14秒
改題加筆修正される前の文章の最後に
>かりに日本国首相がブッシュの言葉ではなく、
>礼節を欠かない姿で日本文化を背景とした日本人の言葉で
>彼らを糾弾したとするなら、私たちの子の死体は、
>せめて墓場に臥せられていたかも知れないと思う。
と書かれていました。
その言葉がずっとどこかに残ってて、まれさんの感想を聞きたいと思ったのでした。
ありがとう。
*
沈思黙考 投稿者:こうたろう 投稿日:12月
4日(土)01時42分3秒
たぶん私は香田さんに「あのバカたれが」といったおばさんの感覚に近い感想を持っていると思う。
今井さんにも「あの幼稚な左翼かぶれの何も分かっちゃいない若造が」くらいの感想しか持たないだろう。
だが、私は現実にはそういうおばさんのような大多数の意見をもつ人とはきっと折り合わないような気がする。
むしろ、殺された香田さんと一杯酒でも酌み交わしたい気がする。
最近、皆、小利口になりすぎてる気がする。
一体みんな何様のつもりで評論家みたいな口を利いているのだろう。
インターネットの悪い影響に違いない。
何を経験して何を見て何を考えてきたと言うのだろうか。
そんなにあんたの人生は立派なものなのか。
どうせしがないサラリーマン生活しか送ってないくせに。
私には、どんなに口で言ったって行動した人には勝てない、という持論がある。
それがいいかどうかは別問題だが、とにかく思い立って動いたほうが、何かが見えてくる分だけ勝っているような気がする。
パソコンに向かってぶつくさ言ってるよりはよっぽどましだと思うのだが。
香田さんだって、無残な殺され方ではあったが、死の瞬間は何かが見えたのではないかと私は思う。
その分だけ、安穏と暮らしている人よりはいい人生だったと思うのだが。
人生の意味は、長生きするのが偉いわけでなし、何かが見えればそれでいいんじゃないか。
今週職場で受けた苦情は、60才のばばあと70才のじじいであったが、一体今まで何を考えて生きてきたんだ、というひどい内容のものだったし(大体年をとるということは悟りを開くとか人生を達観することではないのかね。むしろ小学生に近い愚痴を聞かされましたとさ。しかもオレのことをバカヤローとかお前呼ばわりした。オレもあんたもお互いのことをよく知らないのに・・・)、あんな年の取り方するなら、香田さんのようにぶっ殺されたほうがまだましだね。
*
こうたろうさんの意見 投稿者:さわ
投稿日:12月 6日(月)07時49分48秒
こうたろうさんの意見(というより述懐か)は、ある意味、まれびとさんの「多くの人がなぜ沈黙しているのか」という最初の疑問に答えたものになっている点で、よかったのじゃないかと思うよ。
ただし、マスメディアの報道に対してクリティカルな反応をする(#このこと自体は市民として絶対に必要なことである)人々に対し、しがないサラリーマンのくせに何様じゃっていうような御意見は、ピンボケを通り越してアホだと思うね。
わし、最近、ある70代男性の戦中体験をちょこっと聞く機会があったんだけれども、その人、「知識人とか文化人が権力をもって戦争を煽り立てた」と言うんだね。だから「知識人とか文化人に権力をもたせたらダメ」「連中がワルイ」みたいなことを言い、あたかも、知識人・文化人でなかったわれわれには責任ない、とでも言いたそうであったので、わしは唖然としたのだが、まあ当時おそらく10代であったその人にはそういう実感があるのでしょうからそれ自体は仕方ない。
オマケ
>>年をとるということは悟りを開くとか人生を達観することではないのかね
全然違うよ。自分が年とれば自然にわかるだろうから説明しないけどさ。
*
歴史 投稿者:まれびと 投稿日:12月
6日(月)10時29分58秒
昨日は「戦争の世紀を超えて」で朝鮮戦争の犠牲者が3年で400万人、日本は15年で250万人という数字を読んだ。朝鮮半島は同族同士でなぜそれほどまで殺し合いができたのか。森達也は恐怖と危機管理ということを言い、それは9.11後のアメリカでも日本のオウム事件でもヨーロッパのユダヤ人狩りでも同じ構造だと言う。
************
ユダヤによって滅ぼされるとの幻想を抱いたナチスはホロコーストを実践し、朝鮮半島では共産主義への恐怖が大きなエネルギーになった。相手を知らないことによって生じる恐怖や不安です。ならば知ればいいのだけど、いつのまにか知ることがタブーになってしまう。他人事じゃないし昔話でもない。つい最近の日本でも、内なる敵であるオウムに対して、まさしくこの構造が現われました。
(森達也)
************
そういう意味では、エリコさんの挙げた藤原新也の「せめて墓場に臥せられていたかも知れない」というのはほんとうかも知れないと思いますね。
現在の中東問題はいってみれば、ヨーロッパの歴史におけるユダヤ人蔑視をぽいとよその土地へ放り出したその結果だと森達也は言っていたけれど、おなじような意味で、現在の北朝鮮/朝鮮半島分断も、歴史をたどれば日本の戦争/植民地政策の落しだねであって、日本はひとりだけさっさと8月15日に戦争を終えて、その後の朝鮮戦争の特需で復興し豊かになった。その間に朝鮮半島は分断され400万もの同族同士が殺しあった。
要するに拉致問題もイラクでかの青年が殺されたことも、ある面でそうした大きな歴史の流れの中に置いて考える必要があるんじゃないかと「戦争の世紀を超えて」は教えてくれる。
「大きな視点」というのは最近トミに少ないね。
ちまちました週刊誌みたいな反応ばかりで、それが物事をいつも瑣末的な歪んだもの・一過性のものにしてしまうような気がする。
これは自戒も込めて。
私もアウシュビッツのガス室やイムジン川のほとりに立って、歴史について考えてみたくなった。
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だから20世紀というのは、過剰殺戮の時代、そして限られた国々ですが、過剰富裕化が進んだ時代でもある。こうした意味で、20世紀としての「現代」は、過剰殺戮と過剰富裕化を実現した、極端な時代であり、そこに革命的な意味があったと思います。21世紀も、そうした「現代」の延長上にあるわけですね。
(姜尚中)
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*** 引用は姜尚中・森達也「戦争の世紀を超えて その場所で語られるべき戦争の記憶がある」(講談社・@1890)
より ***
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イラク人質殺害の件 投稿者:まれびと
投稿日:12月29日(水)01時53分1秒
今日の新聞に引かれていた落合恵子の言葉を追加。
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私の心に憤りとともに刻みつけられているのは自己責任という言葉。命がどうなるかわからない、つらい状況にいる人たちに自己責任という言葉を投げつける。自己責任という言葉が、誰かを切り捨てる言葉として使われる。それに軽々と乗ってしまう私たち.....
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スガンさんのやぎ 投稿者:kero
投稿日:12月31日(金)04時01分47秒
初めて書き込みさせていただきます。
イラク人質事件について、私の周りには「何であんな危ないところに行ったのか(=だからあんな目にあっても仕方がない)」という意見ばかりだったので、こちらで真摯に考えている人たちのご意見が聞けてうれしくなりました。
先月、ゲバラの青春時代の放浪旅を描いた『モーターサイクル・ダイアリーズ』を見て、友人に思わず「香田証生さんも、ゲバラのように旅から何かを得たかも知れないね」と語ったところ、友人から即座に「ゲバラと一緒にしてほしくない」と切って捨てられてしまいました。
『モーターサイクル・ダイアリーズ』では、医学生だった若きゲバラが、友人とおんぼろバイクにまたがり、南米大陸を旅して、それまで知らなかった貧困やハンセン病患者の生活などを目にし、変わっていく様を描いたものです。
だから、どんなに無謀なことでもやってしまうのが若さの特権で、それによって人は成長するものなのかもしれない、ゲバラは生還して革命の英雄になったから結果オーライだったけど、途中でバイクとともに谷底にでも落ちていれば、「若者の暴走」で片づけられていたのかも知れない――と私は思ったのですが。
そんなとき、あるサイトで『スガンさんのやぎ』という絵本を見つけました。
http://tomokos.cool.ne.jp/hondana/sugan.html
作者は『風車小屋だより』で有名なドーデーという人です。スガンさんはやぎが好きでかわいがっていましたが、どのやぎもスガンさんのせまい小屋にあきて、山に逃げていってオオカミに食べられてしまいます。
もうやぎは飼うまいと思ったスガンさんですが、かわいい小やぎに出会って、またやぎを飼い始めます。ですがこの小やぎも、やっぱり山に逃げていってオオカミに食べられてしまうのです。なんだか私には、このやぎが香田さんにダブって思えました。
絵本は手に入らなかったのですが、新潮文庫の『世界名作選』2巻にこの話が収録されていたので、読んでみました。
原作は、友人のグランゴアール君に向けて書かれていました。グランゴアール君は、詩ばかり書いている貧乏な若者らしく、ドーデーは親切にも彼に、「詩ばかり作っていたら食べていけないぞ」と、記者になるよう薦めて、「スガンさんのやぎ」の話をしたのです。
訳者の桜田佐による前書きには、こうあります。
「皆さんどうです。こういう時はやっぱりスガンさんの山羊のように、あくまで意地をはり通す方がいいのでしょうか。まあ一つお話を読みましょう。」
スガンさんのやぎが山で感じた喜び、オオカミに出会った時に何を考えて行動したかを読むと、これはドーデーが単に若い友人に「食べていくために就職しなさい」と諭すためだけに話した物語ではないように感じました。きっと、いろんな感想があると思います。
ぜひ、書店や図書館で見かけたら手にとってご一読ください。
私も香田さんの行動を「馬鹿だなあ」の一言では片づけられないままなのです。
http://tomokos.cool.ne.jp/hondana/sugan.html
*
追加とお詫び 投稿者:kero
投稿日:12月31日(金)04時07分51秒
↓
あ、下の投稿の『モーターサイクル・ダイアリーズ』は映画です。原作本も確か角川文庫あたりで出ています。
勢いで書いたので、初投稿なのに長文になってすみませんでした。
m(_ _)m
*
元日 投稿者:konayuki 投稿日: 1月
1日(土)19時09分10秒
はヒマですね。初めて投稿します。keroさんのBBSに、童話がたくさんリンクされていて、面白かったです。ハイジの話が印象に残りました。
*
kero さん、konayukiさん 投稿者:まれびと
投稿日: 1月 3日(月)12時00分21秒
はじめまして。
私がゲバラ関係の本を探していたときは、ほとんどが絶版でゲバラも過去の人という感じでしたが(古本屋で苦労して集めた)、映画がキッカケなのか、またいろいろと復刊されているようですね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/listmania/list-browse/-/173EHWO0CMGMH/250-0750478-3066606
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4043170025/250-0750478-3066606
「モーターサイクル南米旅行日記」は未読だったので、早速文庫版をショッピングカートに入れました。映画もいつか見てみたい。
『スガンさんのやぎ』は図書館で借りてチビに読み聞かせた記憶があります。安易なHappy
End ではない結末に、子どもも何か考え込むような風でした。
kero
さんが仰るように、「いろんな感想がある」と思います。読み方は様々でしょう。100人いたら100の読み方がある。
本当にいい作品とはこのように、問いを「投げかける」ものなのかも知れない。
「童話リンク」、私も愉しく拝見しました。
*
ありがとうございます。 投稿者:kero
投稿日: 1月 3日(月)13時04分0秒
konayukiさん、まれびとさん、
レスありがとうございました。
も一つお詫びなんですが、あのアドレスは「スガンさんのやぎ」が紹介されている「熟年のページ」のサイトの中のページなのです。
熟年のページ
http://www.ioctv.zaq.ne.jp/sugimura/index.html
私がやっているページはこちらです。
http://www.geocities.jp/kero_genki/
まれびとさんはもう、「スガンさんのやぎ」のお話をご存じだったのですね。
お父さんに読んでもらった“おチビさん”は一体何を感じられたのでしょうか。
きっと今は言葉にならなくても、いつか将来、心の中で何かが芽吹いていくのかもしれません。どんな芽が出るのか楽しみです。
ゲバラといえば、来日した時に大使館がお膳立てした無名戦士の墓詣でを拒んで、広島に行ったそうです。
http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2003/tiisana.html
常に弱者からの視点を失わない人だったんですね。
そういう姿勢をつくるきっかけが、若き日の旅だったのでしょう。
若い時だけでなく、人生ずっと勉強ですね。
今年はどこかに旅に出たくなりました。