さあ 投稿者:まれびと 投稿日:2008年 6月11日(水)23時32分54秒
アキバの事件に関して、久しぶりに語ろうじゃないか。
誰か、いないか?
*
(無題) 投稿者:こうたろう 投稿日:2008年 6月12日(木)01時48分17秒
編集済
語ってもいいけど、時間がかかるぜ。
こういう事件は多分今後無くならない。(あたりまえだが)
しかし、レポーターやブンヤは性懲りもなく同じ言葉を投げかける。「なぜ、こんなことをしたのか?」と。
お前らなあ、メディアの中で仕事をしてると想像力も無くなるのかよ。
オレには分かる。殺された人には申し訳ないが、よく分かる。
自分はこんなことしないと大方の人は思っているだろうが、そんなことはない。今日の被害者は明日の加害者だ。そういう世の中だ。
オレだって、もし、大事な何かがあと一個欠けていたら、奴のようにしていたと思う。
福井にナイフを買いに行く途中、電車から眺めたかどうか知らんが、木曽川かどっかの河原でいちゃつくカップルに対して、「流されちゃえばいいのに」と思ったそうだが、これに対してオレの友達は同意した。もちろんオレも同意した。そんなことをことさら取り上げるなよ。みんなそう思ってるだろ。それとも、そんなに善人ばっかなのか。
殺人よりも、こういうことが起こるとそれに過剰に反応する世間ってやつにまたもや吐き気がした。
ところで、大和郡山のショッピングセンターでBIGの一等が2度出たらしいが、君が勤めていたとこか?まあ、どうでもいい話でした。
失礼!
*
(無題) 投稿者:こうたろう 投稿日:2008年 6月14日(土)01時55分34秒
編集済
あれ、語らないの?
もうひとつ、奴が「彼女がいればこんなことはしなかった」とかなんだとか言ってたなあ。
でも、それは言って欲しくなかったなあ。そんなことで人殺すなよ。あと殺す人選べよ。なんだい女の一人や二人。彼女が出来たら出来たでまた悩みは増えるものよ。
あんまり女々しいことは言ってくれるな。男は孤独を楽しめよ。ましてや若いころは。
結局、オレも奴とは心通わず孤独の旅路よ。
人の愛情を一番欲している人間が、人に愛情を示す術も知らず、ただ、自己愛と妄想の中でもだえ苦しみ、関係のない人を殺める。
まあ、こういうことは、たまにひょっこり起こるものだが、それにしても哀しい。
動機が哀しすぎる。そこが、過去の大量殺人と違うところだな。
そんな世界がまた哀しい。
ナイフを規制したりとか、いろんな馬鹿なことを考える人もいるが、人を殺せるものはナイフだけじゃないぜ。
死刑は、うーん、森達也の「死刑」も読んだが、これは難しい。
でも、死刑より、終身牢獄のほうがきついと思うけど。
そんなことしか言えない。
ただ、軽々しく死刑にしろとか言いたくない。
あと、たばこを一箱1000円とかぬかす政治家がいるが、労働者のささやかな楽しみを奪ってくれるなよ。そんな想像力もない連中が奇麗事をぬかしやがる。
あー、吐き気がする。
*
(無題) 投稿者:まれびと 投稿日:2008年 6月15日(日)00時04分2秒
どうも以降の報道なんぞを見ていると「人の愛情を一番欲している人間」というのはあたっていたようだなあと思う。「人の愛情を一番欲している人間」というのは「愛情を与えてもらえなかった人間」ということで、そういう人間が「人に愛情を示す術も知らず」なのは仕方がないんだろうなと思う。よその家庭のコトをああだこうだ言う趣味はないけれど、母親があの犯人にもっとたっぷり愛情を与えてあげてやっていたら、と思うよ。たっぷりの愛情を与えられてきた子どもというものは道を外れない。そういう確信というか信念は、親として持っている。勉強なんてできなくたっていいじゃねえか。本来は、出来の悪い子どもこそ、可愛いもんだろう。それがいつから勉強の出来なくなった子を見捨てるようになったのだろう。「彼女がいればこんなことはしなかった」というのは、対他の糸がかれにあってはぷっつりと切れていたということなんだろう。それがすべてだ。
こういう事件が起こると、わたしはかつてじぶんが引きこもりかけていた頃を思い出すんだな。そのときに「善良な」隣家の人なんかが一斉に浮かべるようになった、あの得体の知れない奇妙な冷笑を。わたしの場合は人を殺そうというより、じぶんを殺してしまいたいという衝動のほうが強かった。だからどんなに冷笑されても「自殺するよりは生きているだけまだましだ」と思っていた。どんな形であれ「とりあえず生きているだけましだ」と、そう思っていた。あのとき、生きていてよかったと思う。
*
(無題) 投稿者:えんてい 投稿日:2008年 6月15日(日)03時12分46秒
びるめんや改め「えんてい」で出ています。
>たっぷりの愛情を
その愛情の真意を間違っている親が多いような気がしますね。
それとニュース等で伝えている奴の言動を見てると結構なステレオタイプな気がする。
多分、親は立派な生き方のみを教えただけかもしれないですね。
生き方がヘタならヘタなりに何も無理する事無い。
まれびと氏の言う通り成るがまま生きてればいい。
そのうち適材適所が見つかる筈。
人間よ無理するなかれ。ですわ。
http://pub.ne.jp/entei/
*
(無題) 投稿者:きはら 投稿日:2008年 6月15日(日)08時10分49秒
編集済
中島みゆきの「狼になりたい」という歌を思い出しました。
「夜明け間際の吉野屋では」ってやつ。
人形みたいでもいいよな 笑えるやつはいいよな
みんな、いいことしてやがんのにな
いいことしてやがんのにな
ビールはまだか
狼になりたい 狼になりたい ただ一度
(http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND40006/index.html)
中島みゆきでなくても、山崎ハコとか、森田童子とか、まれびとさんも言っていたように、John
Lennon のファースト・ソロ・アルバムとか。
心の奥底の暗く冷たく寂しい所まで一緒に降りていってくれる歌。自分自身の弱さを告白させてくれる歌。
彼がそういう歌を聞いていてくれたら良かったのに、と。
*
(無題)続き 投稿者:きはら 投稿日:2008年 6月15日(日)21時19分57秒
「狼になりたい」の歌詞で、中島みゆきはすごいなあと思うのは、先の投稿に引用した一節と、もうひとつ、次の一節です。
向かいの席のおやじ見苦しいね
ひとりぼっちで見苦しいね
ビールをくださいビールをください 胸がやける
50がらみの、うだつの上がらなさそうなサラリーマンが、ひとり、ビールを飲みながら牛丼を食っているんですね。歌の主人公の兄ちゃんは、ああ、俺の将来もせいぜいはあんな所か、と無意識のうちに思う。ひょっとしたら、田舍の父親や母親を思い出したかも知れない。そのしょぼくれたおやじを見ていると、自分自身の敗北感や焦燥感がじわじわと拡がってくる訳です。
それでも、主人公の兄ちゃんは、向いの席のおやじに対しても、化粧のはげかけた女に対しても、一片の悪意もいだいていない。むしろ、優しい眼差しで、仲間を見る目で、見ている。
だから、中島みゆきと一緒になって「みんないいことしてやがんのにな」と拗ねて泣いたらいいし、「狼になりたい」と叫んだって構わない。この歌を聞いて心惹かれるものを感じたとき、その時すでに、大げさに言えば、その人は救われている。
この歌でなくても良いのだけれど、何かそういう歌が彼の心に届いていたなら、と思うのだけれど。
*
(無題) 投稿者:まれびと 投稿日:2008年 6月15日(日)23時26分20秒
「愛情の真意を間違っている」
もちろん、真の愛情というものは甘やかしでもないし、エゴイズムでもない。でもそういった「誤った愛情」の光景というものをぼくらはしばしば(ときには嫌になるくらい)目撃する。そうだよねえ? えんていさん。
「真の愛情」といわれて、ぼくがまず想起するのは、やっぱり聖書の「友のためにじぶんの命を捨てる者」といった言葉や、仏典にある飢えた虎にわが身を捧げる釈迦の話、か。
もちろん、そんなことはぼくら凡人にはおいそれと出来ることでない。
じゃあ、たとえば親として子に対する愛情とは何かと考えたら、それは決して世の中をうまく渡っていく処世術を教えたりすることでもないし、自らの願望を投影するものでもなく、子どもという命自身が宿している生命力(仮にそう言っておこうか)が息がつまらないように風の通い路を開けておいてやること、たとえばそんなようなことだろうか。漠然としたイメージだけれど、ぼく自身はそんなふうに考えている。
でも考えてみたら、いまの世の中はそうじゃないんだな。
「心の奥底の暗く冷たく寂しい所まで一緒に降りていってくれる」というきはらさんの言葉も、それに繋がっているように思う。
「狼になりたい」における解釈についていえば、古いブルースやフォークソングはかつてみんなそうだった。歌の中に体験があって、それは人を解説するのでも定義するのでもなくて、心理学の箱庭制作のように変容する鏡のような役割を担っていた。単純な二元論には与しない寛容性があって、人をもういちど「息の中で」生まれ変わらせてくれた。
結局、親も社会もそうしたすくいとる力を決定的に失いつつある、そんな舞台の影絵をぼくらは見せられているのかも知れない。
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(無題) 投稿者:きはら 投稿日:2008年 6月16日(月)02時29分35秒
「引き籠れば良かったのに」というのは、本当にそうだと思った。
例の彼に感じるのは、狂気でも冷酷さでもなく、ひねくれやゆがみですらない。ごく単純に、弱さだ。弱いんだから、力がつくまで、じっと引き籠っていなければいけなかった。そうさせてやらなければいけなかった。
僕が学生だった頃は「五月病」と言っていた。もう少し後になると「モラトリアム」という言葉が流行した。要は、世界と折り合えず、現実的な学業とか仕事とかに手を付けることが出来ない状態だ。今、「鬱病」の名前で呼ばれているものも、大半はそれじゃないかと思う。
それ自体が望ましい事でないのは当然だけれど、一種の防衛策として、そういう状態でしか生き延びることが出来ない場合は確かにあるだろう。
僕自身、高校を卒業した後の十年間は、今なら確実に「引きこもり」と言われる状態だった。父と母がよく我慢して、そういう状態を許してくれたと、今頃になって、本当に感謝している。10年間もだよ。普通に、平凡に生きることが出来るようになったのは(まあ、だましだまし、外見上だけの話だけれど)、やっと40歳を過ぎてからのことだ。
*
中国新聞 投稿者:まれびと 投稿日:2008年 6月16日(月)06時57分26秒
加藤容疑者の携帯サイト書き込み詳報
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200806150351.html
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東奥日報 投稿者:寮美千子 投稿日:2008年 6月16日(月)14時03分31秒
東奥日報
http://www.toonippo.co.jp/news_kyo/detail/2008/0615.html
より詳しい情報です。
>ここには「切実なリアリティ」がある。
>かつて酒鬼薔薇が覗き込んだ深淵を、かれも覗き込んだのだろうと思う。
>ダガーナイフなどではなく、アンプのボリュームを目一杯上げて歪めたギターに乗せたら
きっと渋いブルースが歌えたのにと思う。
ほんとうにそう思います。
酒鬼薔薇くんも、加藤容疑者も、この内圧の高さを
どんな形でもいいから「アート」と呼ばれる領域に向けられたら、どんなによかったか。
たとえその作品が、世間から高く評価されなかったとしても、
表現するだけで、かなりのガス抜きが可能だったはず。
秋葉原で「殺人」という形で「表現」してしまったことの無惨。残念です。
*
(無題) 投稿者:まれびと 投稿日:2008年 6月16日(月)17時23分17秒
編集済
寮さん、ありがとうございます。というか、ずぶずぶと底なし沼にはまっていくような憂鬱な気分でさっそく拝読しました。この国の21世紀の施餓鬼の独白を。はっきり言って読むのがつらかった。思わず同化しそうなじぶんがいたりして。
結局、この国に住むぼくらは宮崎勤の事件から始まって、酒鬼薔薇、オウムと、な〜んにも清算してこなかったし、何も学んでもこなかった。逆に薄い空気のようなものがいまや平均的に拡散してあらゆるところに潜伏・増殖しているような感じ。そんなことを感じました。
かく言うわたしも、つれあいや子どもに出会わなかったら、あんな感じだったんだろうな・・・という気もする。かれの場合、いちばんに殺したい母親が、じつはあれだけ「欲しい欲しい・けれど永遠に不可能」と言い続けた「彼女」の裏返しだったんじゃないかとも思う。彼女でも友人でも萌え〜のアニメキャラでも何でもいいけれど、この世と己をつなぐ「対他」の窓口、それを切実に求めていたわけだ。
それからもうひとつ思ったのは、かれはそんな己を含めた現状に強い違和感を抱き続けていたってこと。それはある意味で「正常な人々」よりも「正常」ではなかったのか、ということ。それは体中を虫が這い回っているような酷い不快感で、じぶんでも何だか判らない。それを認識し処理する能力には欠けていたが、それを感じることはできた。オタクだとか何だとか言われているけれど、そうしたものは結局、かれを満足させてくれなかった。つまり、そんなことすら感じていない鈍感なやつらがその他大勢いるだろってことだな。だから、あの膨大な書き込みからわたしには、「助けてくれ、どうにかなりそうだ!」 そんな悲鳴が聞こえてくる。その一点に関して、わたしは、かれは正しかったと思う。
むかし、「ヴァリス」というフィリップKディックの小説でこんな言葉があった。
一、おまえに同意する者は狂っている。
二、おまえに同意しない者は権力を持っている。
「この歌を聞いて心惹かれるものを感じたとき、その時すでに、大げさに言えば、その人は救われている」
「南無阿弥陀仏」みたいなものですね(^^) いや、茶化しているわけではないのです。実際、親鸞や蓮如の時代の「南無阿弥陀仏」はそれだけの力を持っていたんだと思う。現代はその「南無阿弥陀仏」に代わるものがないし、そうしたものが徐々に力を失われていくようなそんなシステムになりつつあるんじゃないか。
*
秋葉原の事件 投稿者:さわ 投稿日:2008年 6月16日(月)17時49分35秒
わたしはアルツハイマー症の母を介護中なので、介護講座や患者の家族会によくでかける。
そのなかで、たまに聞くのが「家族の介護に、よい介護も悪い介護もない」という言葉。要するに、最良の介護とか最悪の介護とか簡単に決め付けられないだけでなく、当事者にしかできないことがあり、さらに当事者がもっとこうしたいと思っても無理なこともあって、一概にはいえない。煎じ詰めれば、できることしかできないのだから、よい悪いに悩むことにエネルギーを使うより、前向きに試行錯誤していこうやという意味ではないかと思っている。
秋葉原の殺傷事件にはショックを受けた。殺害された人々が報道で紹介されると涙が出てしようがない。犯人は、わたしの上の息子と同年であり、殺害された被害者の大学生3人は下の息子と同年である。悲しみにも複雑なものがある。
幾多の殺人者の記録を読んできて、殺人者を安易にカテゴライズするのは、いろいろな意味で危険であることは承知しているが、あえて書くと、今回の犯人はおそらく脳に何らかの異状があるのではないかと、わたしには感じられた。(むろん「異状」というのは、社会を構成するうちの大多数の人の脳のタイプとすこしちがいがあるということにすぎない)(さらにいうと、知能は高めのようだし、世が世なら結構な戦国武将になっていた可能性すらある)
この掲示板に集うかたたちが親子の情愛についてお書きになっており、わたしも親として考えさせられる。また、いまは、とくに子の立場としても考えさせられるものがある。
昨日の朝日新聞だっだと思うが、元文部官僚で映画評論家の寺脇研さんが「おやじのせなか」というシリーズに一文を書いている。
彼の父親は、一言でいえばどうしても息子を医学部の教授にさせたかったそうで、有名私立中高一貫校に入学した彼を相当厳重に監視したらしい。親の迷惑な大きな期待と監視のせいで死にたいとまで思ったそうである。その父親を評して彼は「偉大な反面教師」と書いていた。
わたし自身の子どもたちについて書くと、わたしと子どもたちの父親は、寺脇さんの父親よりもさらに全然よい親でなかった。どこに子どもたちを見捨てて数年間も出奔してしまう母親、そして父親がいるか。破壊されつくした家庭で、わたしの子どもたちは育ってしまった。ほとんど自分たちだけで彼らは育ったのである。
つい先日も、家でちょっとした事件があって、わたしが「今日、あたしは人間のクズだった……」とつぶやいたら、上の息子に「今日もクズだったの。つーか、いったい何年間、クズやってるの」と言われてしまった。ひらきなおるわけではないが、まったく反論できない。
その昔、母の子どもとしてのわたしは、とても母と仲が悪かった。わたしにとっての母は、親でなければ決して付き合いたくないタイプの女性で、母の考えや行動は決して理解できるものでない上に、相当に過干渉な母親である彼女から、わたしは一日も早く逃走したいと思っていた子どもだった。
18歳で家を出たわたしは、その後、一度も母と暮らすことはなかった。
言い訳かもしれないが、そうした母とわたしとの関係が、わたしとわたしの子どもたちとの関係に、さまざまな形で影響していることは疑いない。もっとも、それは、ずっとあとから考えたことである。
つい最近、先年、肝炎で母親を亡くした友人(男性・50歳)に久しぶりに会い、話をしたが、彼が言うには、母親の生前、少しでも長生きしてもらえるなら母親に自分の肝臓もあげたい、血液も際限なく提供したいと医者に申し出たそうである。
母親には、どんなことでもしてやりたかったそうで、病気の苦しみを代わってやれたらどんなにいいか、そのために自分は死んでもかまわないと思ったそうだ。
わたしは、この話をきいて感動したが、なにか、行き過ぎているような気もした。この彼は、中学生のときに親元を離れ、上京して東大生の兄と同居したとき以来、やはり親と一緒に暮らしたことのない人である。なんのために中学で上京したかといえば、それは、親が兄と同様に彼も東大に入れたかったためである。(でも、結局、彼は東大に入学できなかった)
秋葉原の事件のようなことがあると、若い犯人の親はむろん厳しく批判され、さらに事件の背景として、洗いざらいのプライバシーが垂れ流される。マスコミは被害者や遺族にも執拗に取材し、その結果、被害者や遺族の傷が逆になかなか癒えなかったり悪化したりすることもある。
日本中の人が「動機」を解明したがり、事件の原因に迫ろうとするあまり、犯人とおなじような境遇にある人を妙な目で見始めるのではないかと心配になる。
「脳の異状」と自分が書いたことと、ある意味で矛盾するようだが、消えては出てくる保安処分の議論がまた出てくるのではないかと、それも心配になる。
流血の現場に居合わせて無表情にケータイやカメラでムービーを撮っている人たちの不気味さに気づく人もいるが、少ない。
事件が取り返し報道されることで、逆に犯人に妙なシンパシーをもってしまう人や、なんらかのアクションに事件を利用しようとする人もいるだろう。「犯人にシンパシーをもってしまう人」のなかには、「なんらかの条件がそろえば、自分もおなじ犯行に走る」と考える人も一部にふくむ。そういう人は、本当にそうか、よく考えてみていただきたいが、たぶん、ちがうはずだ。
むろん、問題なのは、そういう人でなく「自分もやれる」「やったらスッキリする」と思っている人である。残念ながら、古来、全人口に対してある一定の割合(確率)で、そういう人は確実に存在する。そして、ひとつの事件が次の事件のキッカケになってしまうことがある。過剰な猟奇的報道がその引鉄のひとつになってしまうこともあるだろうと思う。
きはらさんの書き込みで、賢明な御両親のことを知り、他人事ながら、わたしも、きはらさんの御両親に感謝したい気持になった。
人が「世界と折り合えず、現実的な学業とか仕事とかに手を付けることが出来ない状態」というのは、たしかにあると思う。ただ、
≫今、「鬱病」の名前で呼ばれているものも、大半はそれじゃないかと思う。
というのは、やや誤解をよぶかも。
鬱病の症状のひとつとして、たしかにそういう状態はあるが、鬱病は疾患なので、「そういう状態でしか生き延びることが出来ない」というより、何かと折り合いが付かないのではなくて疾患の結果、なにも手に付かないという症状がたまたま起きているだけ。病気が悪化すると全身症状が出てくるし、それは治療できるから。
*
(無題) 投稿者:こうたろう 投稿日:2008年 6月16日(月)23時54分41秒
編集済
アキバとは全然関係ないけど、最近知り合いに借りた「ロンドン・コーリング」というジョー・ストラマーの生涯を描いたDVD(多分まだ売ってないと思う)を見た。
ジョーはとてもいい奴だ。常に自己と社会との間の矛盾に苦悩していた。こんな真っ正直な奴はそうそういない。クラッシュが好きでよかったと心から思う。
そして、ボブ・マーレイが最後に残した名曲「Redemption
Song」をジョーも歌い逝ってしまった。
http://jp.youtube.com/watch?v=TRwmZ2bp_B0
*
肌の黒い赤ん坊をつれて再婚したもうひとりの姉について
投稿者:まれびと 投稿日:2008年 6月16日(月)23時57分16秒
ある日ギターを弾きにマイクのところへ行くと、ペグが彼と別れる決心したところだった。彼女は腕が悪いので、荷物を全部持つことができず、わたしが手助けしてスーツケースをマスウェル・ヒルからママの家まで運ばなければならなかった。ペグの顔には涙が流れていた。途中、突然彼女はフッと立ち止まり、自分の腕を見つめた。
「レイモンド、わたしは腕が不自由なんだわ」まるでそのとき初めてその事実に気づいたようだった。「マイクと別れるなんてわたしにはできない」
わたしたちはすぐに方向転換して、マイクの待つアパートに引き返していった。マイクと離れるまでペグは自分の腕が不自由だと思わなかったのだ。つまり誰かを愛し、そして愛されたことがあれば、それだけで自分が抱えている障害や問題を忘れることができる。ともかく、わたしはうれしかった。マイクとのギターの練習を再開することができるからだ。
レイ・デイヴィス「エックス・レイ」(TOKYO FM 出版・1995)
*
あそびべのはる・ここだけの日々 投稿者:まれびと
投稿日:2008年 6月17日(火)07時41分2秒 編集済
画家・榎並和春氏の文章を、許可を頂いて転載(以下)。
2008-06-14 12:55:52
だれでもないわたし
「だれでもよかった」というのはこのところよく聞くフレーズだ。
「だれでもよかった」という言葉の裏には「だれでもないわたし」という空虚なひびきが感じられる。
対ひとに向かって「だれでもよかった」といっているようだけれど、本当は人との違いを認識できない自分のことを言っているんだな。「だれでもない」ということを自分に言っている。
もう少し考えてみたい。
2008-06-16 20:55:32
だれでもよかった。
はる 2555
何かまとまったことを書きたいのだけれど、上手い言葉がみつからない。適当に頭に浮かんだ事を書く。
日本は他の先進国に比べて自殺者が異様に多いそうだ。まぁ文化的な違いがあるので一概にはいえないけれど、最近の出来事をみていると、どこかこう危うい感じがするのは私だけではないだろう。
頑丈そうに見えるけれど、人の心はなかなかデリケートで危うい。特に最近の事件なんかを見ていると、日本人は何処にいこうとしているのかなぁ・・と思う。まぁそれは我々だけではないのかもしれないけれどねぇ。
動物のように明日という概念や、自分という認識が曖昧なら、それはそれでそこそこ幸せだったろう。人は人になったがために心にポカリと穴があいてしまった。それを何で埋めるか、一生懸命だ。
一番最初は親がそれを埋めてくれた。愛情いっぱいに育てられたなら、当分の間欠けを意識する事も無い。ところがねぇそれも絶対じゃないんだなぁ、どこかで親を超えちゃうからね。はやいか遅いかはあるけれど、いずれは自分で探さなくちゃならない。生まれたときから神が側にいる家系なら、極自然にそれがその部分を埋めてくれるのだろうけれど、今の日本じゃ形骸化した神さんがいるだけだからなぁ。尚むつかしい。
こんなことを書くつもりじゃなかった。
「私を見て」
子供と接していると、いつも思う。こいつらはわがままだ。教師が疲れていようが、気分が悪かろうが、基本的に関係ない。とにかく「私のことを、私だけを見て」といっている。特に問題がある子はみえ易いけれど、問題は流してしまいがちな普通に目立たない子なんだな。
結局大人になっても変わらない。「私を見て」と叫んでいる。それって何なんだろう。見られることで自分を確認しているのかな。たった一人でもいい、私を見て!見て!見て!と叫んでいる。
まぁそれって虫のいい話だけれどねぇ。反対に言えばあんたは誰かを見ているかい?全てのものを捧げたかい?と聞きたくなる。水泳の息継ぎのように全部はいてしまえば、自然に入ってくるように思うけどなぁ・・。これも教えごとじゃないけどね。
「だれでもよかった」
自分が社会で同じような扱いを受けていた。取替えの聞く、変わり映えのない不特定の私。匿名性といえば今風だけれど、誰とでも交換可能の人材というのは、個人というものが消える。皮肉にも今回の事件で、交換不可能な個人となった。
http://www2.journey-k.com/~enami/topindex.html
*
交換可能な部品としての人生 投稿者:寮美千子
投稿日:2008年 6月18日(水)02時07分43秒
>「だれでもよかった」という言葉の裏には
「だれでもないわたし」という空虚なひびきが感じられる。
ほんとうにそうですね。わたしの知人が言っていました。
自分がいなくてもちゃんと動けるシステムを作る。
それが目標。
でも、その目標を達成したら、自分はもうそこにいなくてもいい。
それを思うと、複雑な気持ちになると。
自分は、なんのためにそこにいるのか。
知人の場合は「社員」であり、地位のある立場。
その人でさえ、そう思う。深い虚しさを感じる。
いわんや、派遣社員をや。
交換可能な部品としての自分。
自分が「だれでもないわたし」であることを、
嫌でも見せつけられる。
もっと詳しいサイト、見つけました。
事故直後から、容疑者の書き込んだ携帯サイトを見ながら、
必死でパソコンに打ちこんだ人のサイトです。
【閾ペディアことのは】
http://www.kotono8.com/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F%E9%80%9A%E3%82%8A%E9%AD%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
これを見ると、自己否定を繰り返す加藤に、
なんどもなんども、一生懸命語りかけていた人がいるのがわかります。
その言葉を、彼はどこまでも否定的に受け取り、皮肉な返答に終始する。
結局、掲示板で対話をしていた人々は彼から離れていく。
そうやって彼は、自らを孤独へと追いやっていった。
それが、手に取るようにわかります。
なぜそこまでの自己否定?
なぜそこまで他者を妬まずにはいられなかったのか?
彼自身のなかに、根強い差別感があったように思えてなりません。
顔がよくないとダメ、お金がないとダメ、成績優秀でなければダメ。
親や世間に押しつけられたそんな価値観に飲みこまれてしまっている。
そんなもん、放りだしてしまえばよかったのに。
結局彼は、彼の憎む両親と、同じ価値観しか持てなかったのかもしれない。
派遣などの過酷な状況。
現在の社会が押しつけてくる一元的な価値観。
それと、彼自身の心の問題は連動している。
連動しているけど、切り分けて考えなければならない。
彼は狂っていた。けれど、この社会はもっと狂っている。
どげんかせんといかん。
>かれはそんな己を含めた現状に強い違和感を抱き続けていたってこと。
>それはある意味で「正常な人々」よりも「正常」ではなかったのか
同感です。
彼は、わたしの小説の中の「ユーリ」であり「カイ」です。
どんなひどいことにも、人はいつしか慣れてしまう。
とても耐えられないような世界。
きっと彼は、慣れることのできない人だったのかもしれない。
でもだからって、もっとひどい世界を出現させるなんていうのは、
あまりにも無茶だ。ひどい。それはとても許せることではない。
でも、彼だけを断罪すればいいだけではない。
この社会もまた、断罪されなければならない。
この社会を見過ごしにしている人も、すべて。
政治家も、教育者も、一般市民も、わたしも。
それにしても、と思います。
彼と携帯サイトで対話をしていた人は、どうしているだろう。
とてもとてもつらい気持ちでいるだろうと思うのです。
きっと、深い傷を負っているだろうな。胸が痛みます。
*
(無題) 投稿者:きはら 投稿日:2008年 6月19日(木)22時46分16秒
編集済
>さわさん
鬱病についての訂正、ありがとうございます。書きすぎかな、と思いながら書いていました。
テレビを見ていると、日本には「お金」と「美食」と「美貌、若さ、健康」の神様しかいないんだなと痛感することが良くあります。どの神様も、「あなたを幸せにしてあげますよ」と低姿勢で近寄ってきて、結局は、満たされない餓えと渇きだけを残してくれる訳だけれど。
伝統的な共同体の神様や、家族のご先祖様(仏様)というものが廃れて、それでも人間は何か「自分」というものを越えさせてくれるもの(献身できるもの)が必要だから、そういうまがいものの神様に仕えて、かえって不幸をかこっているような感じでしょうか。
「親」が果たさねばならない役割が大きくなりすぎている、ということも、同じ文脈で言えるんでしょうね。
配偶者や子供という存在は、凡人にとっては、自分を越えさせてくれるものとして丁度よい、ということを前々から思っているのですが、それもなかなか難しいみたいです。いや、人ごとじゃなく、僕自身がですが。
*
EASTERN YOUTH 投稿者:きはら 投稿日:2008年 6月19日(木)22時50分11秒
森田童子を YouTube で探して、EASTERN YOUTH
というバンドに出くわしました。
何で今まで知らなかったのだろう。ここ数日、このバンドばっかり
YouTube で見ています。
http://jp.youtube.com/watch?v=T5CWXJVqLZQ
*
(無題) 投稿者:まれびと 投稿日:2008年 6月21日(土)00時24分28秒
編集済
みなさんそれぞれが今回の事件に触発されて思うところを書いて頂いて、どれも興味深く拝読させて頂きました。きっとそれぞれの記された言葉は、それぞれ自らの鏡のようなものかも知れないとも思いました。定番の人以外にも、ふだんここへ顔を出されないシャイな方々にもどんなことを感じておられるのか聞いてみたい期待もありましたが、まあ無理強いは致しません。
さわさんの「脳に異状」説は、なるほどそれも有りかと思いながら、全体的に一方向へ収束しがちなわたしの言説をほどよくほぐしてくれるような感想をもちました。親と子の関係というのは微妙なもので、なるほどどちらに傾きすぎても危険な部分はあるし、逆の意味で「親がいなくても子は育つ」のような修復能力もあるのだろうけれど、現代はそうしたすべてを含めてバランスが崩れているのかという気もします。
はるさんの文章では寮さんも引用しているように「「だれでもよかった」という言葉の裏には「だれでもないわたし」という空虚なひびきが感じられる。」という部分がやはりいちばん印象に残った。「わたしを見て」は英語で言うと「Look
At Me」だけれど、わたしが宮内勝典氏の著書を神田の古書店で手にしたそもそもは、同名のレノンの曲名を冠したそんなかれの初期のエッセイ集を手にしたのが始まりでした。「Look
At Me」というのはレノンにとって、自らかさぶたを引っ剥がすための原初の叫びでもあったのです。
寮さんの指摘する、(今回の)犯人自身の中に、かれが嫌っていた両親の持つ対世間の価値観=根強い差別感が、おそらく彼自身も知らずのうちに巣食っていたというのは、なるほどなあと思いました。「結局彼は、彼の憎む両親と、同じ価値観しか持てなかったのかもしれない」というのは、とても悲しい一文のように思う。
きはらさんの書き込みでは「配偶者や子供という存在は、凡人にとっては、自分を越えさせてくれるものとして丁度よい、ということを前々から思っているのですが、それもなかなか難しいみたいです」という部分に何か、教えられるものを感じました。まるで親鸞が喋った言葉のような、というのは褒めすぎか(^^)
そんな折にあの宮崎勤の死刑が知らぬうちに執行されたという報道が、わたしにまた別のショックを与えてくれた。そうか、やつももうこの世から消えちまったんだな、とわたしはひとりごちた。かれはわたしとほぼ同世代で、この明るい闇は思えば、かれから始まったような気がするが、この国の慣例のようにやつもまた何も明らかにすることなく、謎だけを残して消えてしまったような気がする。
ところで今日の新聞でこの国の昨年度の自殺者が10年連続で3万人台を突破したという記事が載っていた。一日100人が自らの命を投げ出す。自殺は自らへの殺意だろう。内に向くのか外へ向くのかの違いだけ。朝日新聞のそんな「天声人語」に、46歳の父親を自殺で失った子どもの作文が載っていた。
「ぼくはタイムマシンにのって
お父さんの死んでしまうまえの日に行く
そして「仕事に行ったらあかん」ていうんや」
ほんとうに、ぼくらは得たものよりも、ぜったいに失ったものの方が多い。
*
お金の話 投稿者:さわ 投稿日:2008年 6月22日(日)13時13分11秒
「一億円の宝クジが当たったら、なにに使うか」。これはわが家で、たまに夕食のオカズの一品代わりになる話題ネタ。
わたし「低設定の吉宗を当たるまでやる」
長男「やるやる。でも、あんまりバカなので却下」
わたし「駅前にシアターをつくってミニシアター系の映画を毎晩上映する。昼は近所の人たちがつくったムービーをフィルムラリーする。これが、マジ、ホントの希望」
長男「全然儲からないじゃないか」
わたし「儲からない。だから金が要るんだよ」
長男「一億円ぽっちじゃムリなので、これも却下」
わたし「ダメか。ってゆーか、宝クジ買ったことないから当たるわけないし」
長男「もちょっと実現可能な希望ないの」
「……ないなー。アパートでも買うか。そんで、ホームレスの人の家にする。あと、作業所をつくって発達障害その他の人の職業訓練場にして、みんなで店舗やる」
長男「またまた、儲からないね」
わたし「儲からないまでもなんとか維持できるかも」
長男「ムリだろ。ホームレスの人も含めてみんなで死ぬ気で働かないと維持できない」
わたし「結局、死ぬ気で働かないと何にもできないってことだな」
長男「んだな」
わたし「働きたくねー。遊びてー」
長男「だから、いつまでたってもビンボーなんだよ」
わたし「百円玉を数えて、やっと夕御飯をつくれたときの喜びは、あらゆる美食の歓びに勝るぞ」
長男「そゆの、負け惜しみっていうんだよ」
わたし「ちがうもん。何にでも楽しみはみつけられるっていうことが言いたいわけよ。そーゆー能力がないと楽しく暮らせないぞ」
長男「百円玉を数えて暮らしたくないので働きます」
わたし「好きにしな」
*
きはらさん 投稿者:さわ 投稿日:2008年 6月22日(日)14時31分20秒
≫「お金」と「美食」と「美貌、若さ、健康」の神様しかいない
ですね。要するにおカネおカネ。拝金ってことですね。
二酸化炭素の排出枠とか、まだ芽も出てない穀物の買い付け枠だとか、なんにでも値段がつき、為替差益取引のような、誰かの損をそのまま儲けとするような仕組みを、よくよく考え付くものだなあと思うが、もともと市場経済の究極は、カネをモノの代価にするのではなく、いかにカネを移動するだけで儲けるかってことに行き着くので、しかたない。
そして、そうやって生まれたカネを転がして、さらにカネを生み出し、そこからこぼれたカネを美食や美貌、不老、社会的階級の確保に注ぎ込む、と。それこそが幸福だと感じられる人はそうするしかしょうがないわけだ。なぜなら、そうじゃないと、とっても不幸な気がするわけだから。
当然、満足することはあり得ず、きはらさんのおっしゃるように、飢えと乾きは止まらない。
もっと上へ、もっと上へって、ジェット気流のような勢いで向かっていって……それで満たされるのか?っていえば、たぶん、満たされるんでしょう。上昇してるかぎり。上昇を求める神……これを「上昇神」と名づけよう。そして……だれでも、やがて死ぬわけだが、そのときは、もうがんばって上昇しないでよくなるので、ほっとするのかもしれません。
わたしの知り合いで、「自分は子どもを産んで、その子を無私の精神で献身的に育てたから、もう、ほかの人には決して無私の精神で接しない。そんな余裕はナイ」と言っている女性がいます。この人にとっては、子どもが神なのか。この女性は、わたしに「あんたは、子どもをイイカゲンにしか育てないから、だから3人も産めたんだワ」と、おっしゃいました。
また、べつの女性は「あなたは3人も子どもをつくったの? そして、別れたダンナはさらにまた子どもをつくったの? あなたがた2人で、4人も子孫を残したの? どうして?」と言い、なぜか嘲笑なさいました。
(わたしが言っても説得力ないが)配偶者ができるとか子どもができるっていうのは生物としての自然現象で、そんなに特別なことじゃないような気がします。人間とほかの動物の違いがあるのか?と考えると、根本的な違いというのが、わたしには見つからないのですが、もしかして、これって、わたしの欠陥なのかもわかりません。
*
まれびとさん 投稿者:さわ 投稿日:2008年 6月22日(日)14時49分18秒
わたしの文章の意図を汲みとっていただき、ありがたく思います。
秋葉原の事件のあと、「親の虐待防止ネット」には、子育て中の親から相談が殺到したそうです。要するに自分の子育ては間違っているのではないかという悩みをもつ親が多いらしいが、相談が多いということを喜べばいいのか不審に思えばいいのか、ちょっとわからない。問題があるのは相談してこない親の一部だとは思うが。
あと、予想されたことですが、WEB上で「よくやった」「俺たちの神」的な書き込みが増えていて、犯人を賛美するような向きが相当あり、「許すことはできないが理解できる」「共感もある」的なものを含めると、かなりの数であること。
ものごとにはいろいろな面があるのだから、いろいろな意見を見聞きすることは必要で、そして、なんとかバランス感覚をもっていきたいと思います。
そのひとつとして、ここも読みましたが、ちょっとショックであると同時に理解もできてしまう、というか、正直、いちばん、わたしの感覚に近かった。↓
http://sokudokuhikky.blog103.fc2.com/blog-entry-148.html
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裂け目 投稿者:まれびと 投稿日:2008年 6月24日(火)10時10分15秒
さわ家親子の寄席は大変おもしろかったです。また紹介してください(^^)
ご紹介の「ひきこもりブログ」拝読しました。
ああ、そうだなあ。この人の書き方はたしかにいいなア・・ と思いました。
先の日曜も大阪駅で切り裂き魔の事件がありました。38歳の容疑者(女性)が捕まったと今日の新聞に載っていたけれど、あれもかくいう「負の連鎖」でしょうか。
昨夜読み終えた森達也の著書のあとがきにこんな言葉がありました。
「初めてオウムの施設に足を踏み入れてこの社会を逆側から見たときに、つくづく感知した歪みは、今もまったく変わっていない。なぜならほとんどの人が、この歪みに対して、ずっと無自覚のままでいるからだ」(世界が完全に思考停止する前に)
またかれは著書の中で繰り返し「主語のない憎悪」あるいは「一人称の主語を失った善意や優しさ」について語っています。
わたしが「撃ちたい」のは、そのようなものたちです。
もちろんわたしは今回のアキバ事件の容疑者について、その「反応せざるを得なかった事情」のような部分に共感を覚えるのであって、かれの行為に共感するわけではありません。
むかし、テレビの自殺者のニュースを見ていて「自殺の理由はみんなが安心したいために言うんだ。本当の理由なんて本人しか判らんさ」と言った人がいました。
人が人を殺すというのは精神的にも肉体的にも物凄い作業であって、たんなるものぐさにはできないでしょう。やっぱりそこにはある種の全エネルギーを注ぎ込むような「跳躍」があるわけで、その跳躍の瞬間というのはわたしにはついに判らない。そのラインというのは暗い暗渠-----謎の詰まった暗渠であって、ホンの一足で飛び越えられる距離なのだろうけれど、めまいのするような深い裂け目がそこには在る。
アキバ事件の容疑者もそこを飛び越えた瞬間に、あちらの世界にいってしまった。それは彼岸のようなところで、ある意味でこちら側からは永遠に届かないような世界なのかも知れない。そういう場所へ、かれはたった一人で落ちていった(またはのぼっていった?)のかも知れない。
つまり「絶対的な裂け目」というのはあり、それはいつも感じてしまう。
*
狼王ロボ 投稿者:さわ 投稿日:2008年 6月26日(木)14時18分15秒
全然、求められていないと思いますが、前回、書いたことの補足をします。
(ここのところ書き過ぎですが、すぐにまた忙しくなって終わるので、お許しください)
補足というのは、「配偶者ができるとか子どもができるっていうのは生物としての自然現象」と書いたことについてです。(ついでに書くと、それが自然現象であることは皆さんも重々おわかりなので、わざわざ書く必要はなかった。それが特別なことかそうでもないか、は、むろん人によるわけです。それをまた、さらにつづけて書く気になったのは、「狼王ロボ」のことを思い出したからです)
「シートン動物記」をお読みになったかたは御存知でしょうが、一応、説明すると、「狼王ロボ」というのは、ニューメキシコにいたある有名なとても賢く強い狼の愛称です。「ロボ」というのは、もともと現地の言葉でオオカミ一般を指す名詞だったらしいので、「狼王ロボ」は、要するに「オオカミのなかのオオカミ」というようなことでしょう。
オオカミは一夫一婦制で、とても家族愛がつよいといわれる動物です。非常に強く賢い野生のオオカミ・ロボは、どんな罠にも絶対にかからなかった。しかし、妻が罠にかかって殺されてしまう。
そして、妻の死骸で匂いをつけられ、妻の足跡で偽装された罠が設置されると、ロボは妻の匂いをたどり、やすやすと罠にかかって死んでしまうのです。
この話をとても悲しい愛の物語ということは、たぶん、できるだろうと思う。げんにわたしは、最初、この実話を知ったとき、涙がこぼれました。
さて、一方で、ライオンは一夫多妻です。そして、やはり一族を命がけで守る。それも本能なのであり、むろん、ライオンよりオオカミが「愛が少ない」とか「博愛主義だ」なんてことはない。フリーセックスの動物も多い。そもそも、「愛」の定義は人間ですら曖昧なのであり、オオカミに向かって「強い絆で妻を愛し、一族を守るアナタは愛情深い」と褒めたところで、きょとんとすることでしょう。
たぶん、それぞれの動物によって、その遺伝子により、ツガイになったときに出る脳内ホルモンの種類がちがうということに過ぎない。また、当然、環境によっても、それは若干変動する。
人間がツガイになるときに出る脳内物質については、いろいろ研究が進んでいるらしい。その脳内物質のなかには、ツガイの相手を繰り返し求める(特別な個体として認識する)ホルモンもある。たぶん、オオカミの脳内物質には、そのホルモンが多いのだろう。
ただ、初恋の相手と生涯をともにするオオカミですら、一緒になってはみたものの、なんとなくソリが合わないという夫婦はあるらしい。やはり、相手次第ということなんでしょうね。
*
イミ 投稿者:まれびと 投稿日:2008年 6月28日(土)08時48分48秒
え〜と、すみません。
ここ数日ばたばたとしていて脳内物質が停止気味のよで、さわさんの話の方向の先がいまいち見えない部分があるのですが、メールで途中だった「男女の出会い」についての続きなのかな・・ とか。
>人間とほかの動物の「根本的な違い」
ということですが、たぶんシステム的には脳内物質云々は同じで「根本的な違い」はないのでしょうけど、ま、言い古された表現でしょうが、あえていえばそのことにどんな意味を与えるかという受け取り方の違いじゃないかとわたし自身は思います。
人間というものは意味ヲモトメル唯一の動物であり、意味によって病気にもなるし、人を殺したりもするのでしょうから。
*
わかりにくくて、スイマセン 投稿者:さわ 投稿日:2008年
6月30日(月)16時51分3秒
わたしの「狼王ロボ」という文は、きはらサンが6月19日(木)にお書きになった文章へのコメントの、さらにその補足なのです。きはらサンが、
※以下、引用
……まがいものの神様に仕えて、かえって不幸をかこっているような感じでしょうか。
「親」が果たさねばならない役割が大きくなりすぎている、ということも、同じ文脈で言えるんでしょうね。
配偶者や子供という存在は、凡人にとっては、自分を越えさせてくれるものとして丁度よい、ということを前々から思っているのですが、それもなかなか難しいみたいです。いや、人ごとじゃなく、僕自身がですが。
※引用おわり
と、お書きになったことについて、わたしは、いたく感心してしまったもので、その後、折に触れ、考えたりしていたわけなのです。
とくに「親が果たさねばならない役割が大きくなりすぎている」というところと、「配偶者や子供という存在は、凡人にとっては、自分を越えさせてくれるものとして丁度よい」というところ。
ほんとに、そのとおりだなあと思うわけなのです。
それで、親が果たす役割が大きすぎるのは、子どもにとって、そういいことばかりじゃないので、なんとかしなくちゃなー、と思ったり、また、世の中には、配偶者や子どもという存在に巡り合わない立場の人も、かなりいるわけだが、そういう人にとって、「自分を越える」のは、むずかしいことなのか、いや、逆に、だからこそ、見えることもあるだろうと思ったりしてみたのです。
まれびとサンは、「人間というものは意味ヲモトメル唯一の動物であり、意味によって病気にもなるし、人を殺したりもするのでしょうから」とお書きになり、個々人には「どんな意味を与えるかという受け取り方の違い」があると書いておられるのですが、わたしが書いたのは、あえて極論ですが、「そこに、もともとイミなんかねーんだよ」ということです。
*
似たようなことかもしれませんが 投稿者:さわ
投稿日:2008年 6月30日(月)18時07分11秒
まれびとサンは、(秋葉原の事件の犯人について)「反応せざるを得なかった事情」のような部分に共感を覚えるのであって、かれの行為に共感するわけではありません。と、お書きになっているのですが、むろん、そりゃそうでしょう。たぶん。
しかしながら、それは、部分として、そうキレイに分けられるものでもナイ、ということも、薄々は感じているのではないですか?
わたしはカレについて、「脳に異状」説を書いたのですが、その根拠のなかの主なものは、カレの事件の構造が「ネオ麦茶」事件(西鉄バスジャック事件)に似ていることと、ざっと知ったカレの経歴とカレの言説に整合性がないと感じたことなどです。ネオ麦茶が脳に異状があるとされるなら、カレもその可能性がつよい。(また書きますが、「脳に異状」というのは、非常に大雑把すぎる表現で、器質異常なのか機能異常なのか、または複合的、あるいは、さらにほかの異状なのか、は、わかりません)
その仮定の上に話をすすめますと、まれびとサンがお書きになっているように「人が人を殺すというのは精神的にも肉体的にも物凄い作業」(エネルギーがいる)なのは、たしかですが、「たんなるものぐさにはできない」かどうかは、そりゃ、わかりません。人によります。
相手に口で説明するのが面倒だったので殺してしまう、という粗暴な殺人者もおりますし、緻密な作業を積み重ねて様式美のような殺人をする犯人もおります。手段を選ばずに欲望を満たすための「手段」としての殺人もあれば、殺すことそのものが目的の殺人もある。後者の場合は、被害者は、ほんのすこしの条件を満たしていれば、ほとんど誰でもいい場合が多いです。
そして、むろん、その「動機」というのは、自殺する人の動機が結局だれにもわからないのと同様、他人にはわからないでしょう。
彼らと御自分とのあいだに謎の絶対的裂け目があると、まれびとサンがお感じになるのは、まれびとサンが、どちらかといえば、健康な人だからだと思います。
彼らは、「そこを飛び越えた瞬間に、あちらの世界にいってしまった」のでなく、すでに身体の一部(意識)が「あちらの世界」にいってしまっているので、ほんのすこしのキッカケで飛び越えてしまい、物理的な行動に移行する、とも言えるのですが、まあ、そんなことはどうでもいいか。
NHKが、わりと丁寧にその後の取材をしていて、カレの車体工場での同僚の生活を紹介していました。その一人は沖縄から来ている青年で、給与明細を見せてくれました。給料は月額20万円以上ありましたが、派遣会社借り上げの住まいに暮らしているので、その費用なども引かれ、手取りは14万円ほどでした。その青年は、カレの経歴や現状が驚くほど自分と似通っていることに驚いていました。
たまに会話を交わしたこともあったそうですが、それ以上の深い付き合いはお互いに避けていた、というか、ふつう、そういうものだと思っていたそうでした。
わたし自身は、少年犯罪や凶悪犯罪が、マスコミの一部で言われるほど増えているような気はしていないのですが、昔にくらべて間違いなく激増しているのは、そうした犯罪に関する報道、あるいは報道と称する覗き見趣味の類です。それにインターネットのせいで、文字通りフリーのレポーターも増えているわけだ。そういう状況では、場合によっては、森達也さんのいう「主語のない憎悪」みたいなものが増幅して跋扈するような事態もまま起きるでしょう。一面では、それは避けることのできない事態だと思います。なによりの証拠に、ここにこうして犯罪論めいたものを書きつづっているわたしもいるわけだし。
で、それをどうするのかというときに、どうしても必要になるのが多面的なものの見方であり、理性であり、メディアリテラシーなわけですよね。それを、どうやって意識していくかっていうことが問題じゃないでしょうか。
*
(無題) 投稿者:まれびと 投稿日:2008年 7月 1日(火)08時42分59秒
必要なのは「多面的なものの見方であり、理性であり、メディアリテラシーなわけで」あると同時にまた、直観であり、「主語のある」主観であり、狭く深い井戸の底からの声ではないかとわたしは考えます。
じっくり考えれば、わたしは「健康な人間」ではなく、やっぱりどこか病んだ人間の部類でしょう。
病んだ人間としていつも危うい爆弾は抱え持っているわけですが、それを実際に爆発させたやつとは、やはりテッテイ的に異なる。
今回の事件の容疑者に対して、じぶんを寄り添わそうとすればいくらでもずぶずぶと下りていける。そうやって出てくる言葉もあるし、逆にじぶんからかれを引き離すことによって出てくる言葉もある。
寄り添って(といっても、これもある意味勝手な行為ですが)出てくる言葉もあるけれど、その後、容疑者に共感しかれを「支持する」声が広まりつつあるという報道に接して、わたしは急に「ひけて」しまったわけです。容疑者の原因や理由とは別に、そうした空気感染のようなものの方がすでに病んでいることのようにわたしには思える。とくに後者は「多数」の世界であることが、個人的に好きになれない。やっぱり、孤独な世界でやるやつの方が好き。
酒鬼薔薇クンや例の月ヶ瀬事件の犯人、あるいはオウム事件などに比べると、これはあくまでわたしの中での感覚にしか過ぎないのだけれど、どうも薄味というか(こんなこと言ったら叱られるか)、「やつ」の行為や存在が、日がたつにつれて妙に軽いように感じられてきて仕方がない。それが共に寄り添って落ちていこうとしてもふっと身を離してしまうことの原因のように思える。じぶんが鈍感で飽きっぽいからかとも考えているが、どうも持続的に付き合えるだけのズシンとした重みに欠け、どろどろした部分に粘り気が少なくて、じつは中心には軽い風船みたいなものがふわふわと浮いているだけなんじゃないかと思ったりする。このあたりはうまく説明できないかも。
さわさんが仰っていることのその先は、要は事件自体や容疑者じしんのことではなく、それを契機に発生する悪しき連鎖反応の部分の危機があるのかなと思います。気持ちの悪いお祭騒ぎ---いやお祭騒ぎでは済まない深い問題がそこにこそあるみたいな、そんなものが横たわっているような気がする。
上野の博物館の地下でぶらぶらと揺れている地球の振り子みたいに、さわさんが多方向から引っ張り戻してくれようとしているのは無論、理解しているつもりです。
「そこに、もともとイミなんかねーんだよ」っちゅうのは、いわば、サトリですな。
*
ワリコミですが 投稿者:Catwalk 投稿日:2008年 7月 1日(火)12時46分44秒
>人間とほかの動物の「根本的な違い」
で、思い出すのは孫引きですがマルローの『希望』にあるという「人間はだれでも気違いだが
人の運命というものは、この気違いと宇宙とを結びつけようとする
努力の生活でなかったら何の価値があろう?」です。
十代のころ巡り合ったこの言葉とDylanにずいぶん助けられてきたなと。
あとスズキダイセツさんの「犬や猫は禅そのものを生きるが人間は(キガフレテイルノデ)
それができないので禅を学ばなければならない」なんてのも。()内はわたしの解釈(^o^)
「十牛図」はずっと好きなのですがいまだダイセツさんには触れずじまい。
鹿の眼、馬の眼のように澄んだ瞳はナカナカ人間にはもてないですね。
わたしは動物園は類人猿はちょっと痛ましい気がしてニガテなのですが
キリンを眺めるのが好きです(^o^)丿……もうすぐナツヤスミですね、ご家族皆様よい日を。
*
核家族 投稿者:きはら 投稿日:2008年 7月 1日(火)23時26分23秒
「親が果たさなければならない役割云々」は、榎並さんの文章を読んで、そうそう、そんな感じだと思い、自分の言葉に置きかえたものです。
<引用>
一番最初は親がそれを埋めてくれた。愛情いっぱいに育てられたなら、当分の間欠けを意識する事も無い。ところがねぇそれも絶対じゃないんだなぁ、どこかで親を超えちゃうからね。はやいか遅いかはあるけれど、いずれは自分で探さなくちゃならない。生まれたときから神が側にいる家系なら、極自然にそれがその部分を埋めてくれるのだろうけれど、今の日本じゃ形骸化した神さんがいるだけだからなぁ。尚むつかしい。
(中略)
結局大人になっても変わらない。「私を見て」と叫んでいる。それって何なんだろう。見られることで自分を確認しているのかな。たった一人でもいい、私を見て!見て!見て!と叫んでいる。
まぁそれって虫のいい話だけれどねぇ。反対に言えばあんたは誰かを見ているかい?全てのものを捧げたかい?と聞きたくなる。水泳の息継ぎのように全部はいてしまえば、自然に入ってくるように思うけどなぁ・・。
<引用終り>
人間は、自分よりも大切なものを持っていないと、うまく生きていけないように出来ているのだと、僕は思っています。人間には、自分の事を後回しにして奉仕すべき対象が必要だ、という事です。そうでなくて、自分自身が一番大切なものである限りは、どう頑張ってみても、負け戦であることは目に見えています。遅かれ早かれ、みじめに年老いて、死んで、それでおしまい。なーむー。
その自分より大切なものを神と呼んでもよいのですが、実際はそれを「持つ」ことは出来ない。上位のものを「持つ」というのは形容矛盾です。「持たれ」なければならない。我を捨てて、身を投げかけて、受け止めてもらう必要がある。
榎並さんは、ミューズに仕えて、その辺の呼吸を会得されているんだろうと思う。
「生まれたときから神が側にいる家系」というのを榎並さんがどういう具体例を想像しながら仰ったかは訊いてみないと分りませんが、僕が思うのは、現在の家庭、特に核家族化した夫婦と子供だけの家庭において、在来の神様(地縁社会の神である氏神様)や仏様(血縁社会の神であるご先祖様)の存在が非常に希薄になっており、そこに空白が生じているという事です。そしてその空白を「金」の神様が埋めている。拝金よりもマシなものを求めるとしたら、男女間の愛か親子間の愛しかない。だから、親(または配偶者や子)が果たすべき役割が大きくなりすぎている……と、まあ、ちょっと図式的に端折りすぎた所はあるかも知れませんが、そのように理解しています。
*
有性生殖 投稿者:きはら 投稿日:2008年 7月 1日(火)23時52分10秒
人間が有性生殖をする動物として創られているということは動かし難い事実なので、その点から導き出される制約みたいなものは、所与の条件として受け容れてしまうのが無理のない考え方だと思うわけです。
ちょっと話、神の言う事きいてくれ
あしきの事は言わんでな
この世の地と天とをかたどりて夫婦をこしらえきたるでな
これはこの世の始めだし
これは天理教のおつとめの第二節。「あしきの事は言わんでな」というのは、「罪についての話は、この際、ちょっと置いておく」というぐらいの意味です。そして、この世の基本的な仕組みとして神さんが男女(夫婦)というものを拵えたんやで、ということが言われている。
ただし、天理教の教祖は、自分の後継者にと思ったある女性に対しては、「いちみぐらし」をして神に仕えてくれないか、と頼んだことがあるようです。あんたら必ず結婚しなはれ、という単純な話でもないのですな。
弟子たちイエスに言ふ
『人もし妻のことに於いて斯くの如くは、娶らざるに如かず』
彼らに言ひたまふ
『凡ての人この言を受け容るるにはあらず、ただ授けられたる者のみなり。それ生れながらの閻人あり、人に為られたる閻人あり、また天國のために自らなりたる閻人あり、之を受け容れうる者は受け容るべし』
(マタイ19:10-12)
「閻人(えんじん)」っていうのは宦官のこと。
イエスがあんまり厳しい性道徳を説くもので、弟子たちが「もう、いっそ、エッチなんか諦めて、結婚もせん方がええんですかねえ」と言う訳です。イエスは、いやあ、特に理由が無いなら、無理せん方がええよ。「やむを得ない」者だけ、そうするのが良えんとちゃうか、と言う。
井上ひさしが、性欲を断つという自分にはとても出来ないことをしてまで神に仕えようとしている人(神父)がいる、そのことに圧倒されてキリストを信じる気になった、みたいな事を言っています。
つまりは、有性生殖をする動物であるという条件に逆らって生きることが、その人にとっては自然な場合もあるということですね。例外もある、という、当り前の話。
しかし、原則としては、おおかたの凡人は、天然自然の性欲にしたがって配偶者を得、子供をもうけて、一人だったらしないような苦労を嬉々としてするのが幸せなんじゃないか、ということです。
*
(無題) 投稿者:こうたろう 投稿日:2008年 7月 1日(火)23時58分38秒
藤原新也のホームページによれば、例のアキバ事件について語っているが、読売新聞の編集手帳に「世の中が嫌になったならば自分一人が世を去ればいいものを」という論調があったそうだ。この前の朝日の「死神」発言といい、大新聞がこの調子じゃ、確かに世の中も悪くなるわな。読売は新聞記者として事の本質が全く見えてないし、朝日のお坊ちゃんはギャグのセンスがないのか、全く笑えない。
もうどこかへ消え去りたい。
*
こんにちは。 投稿者:はる 投稿日:2008年 7月 2日(水)12時37分19秒
きはらさん、はじめましてと言うのかな。ここでは時々お目にかかってはいるのですがね。
私がミューズに身をささげているかどうかは今のところ定かではありませんが、きはらさんの下の文章を読んで思い出したことがありました。新聞の人生相談なんですが、読んだときはザワザワと感動しました。下に転載します。ちょっと場違いかもしれませんがね。それではまた。
はる 2367
新聞もほとんど読まなくなって久しいけれど、たまたま今朝は拾い読みした。人生相談という奴があって、何時の世もくだらないことで悩んでいる人たちがいる。でまぁそれをどう答えるのか、ということの方に興味がある。
明川哲也さんの解答はいつも面白い。直接悩みには答えていないのだけれど、大きな意味で解答になっている。そういった答え方にこの人の人生哲学が伺えて面白いのだな。
相談事は「自分は人に愛されていないのではにか?」というつまらん話だ。
解答を私なりに解釈して書いてみる。違っていても文句は受け付けないのであしからず。
人は生まれた時は多くの人に祝福されて、ただ存在するだけで周りの人を幸福にする。少年少女の時期もまだまだ多くの大人たちに愛されて慈しまれて育ってゆく。
二十歳過ぎになっても「若い」というだけで、夢や希望の代名詞にもなり、失敗してもほとんどの場合許されるし、また新しいチャンスがやって来る。
ところがある時期を過ぎると急激に疎まれる存在になる。オジサンやオバサンの時期を過ぎて、今度はジジババになってくるとさらに存在そのものが疎まれるようになってくる。
人はそのことにあまり気付いてはいない。何時までも自分は特別で「愛されている」と勘違いしている。そんなところから色々な誤解やトラブルが起きてくる。
早めはやめに対処しておく必要がある。「愛されなくなった」時に人はどうするか?ということですね。
ここに哲也さんの珠玉の解答がある。以下無断転載します。
「……答えは一つです。愛することしかありません。見返りなく、愛すること。生きる時間を経るほどに、お金があるない、地位があるない、健康があるない、家族があるない、いろいろと現象面での結果が出てくるものですが、人間の到達目標はその最高の魂、何もかも愛するこころを持つことによって、「人間」になると僕はおもうのです……」
おぉ、なんと簡潔で高尚で人の道を唄っているのでしょう。まぁこれが現実不可能なお題目としても、それを言葉にしたというだけで、目の前の明るくなるような気がする。
*
叫ぶ詩人 投稿者:きはら 投稿日:2008年 7月 3日(木)01時45分36秒
はるさん、ありがとうございます。
ぐぐってみたら、明川哲也さんという人は、さわさんが言及していた「叫ぶ詩人の会」をやっていた人だということが分りました。
力一杯、どまんなかのストレートですね。水で割らないという意味でもストレートだな。降参です。
*
楽しく拝見 投稿者:さわ 投稿日:2008年 7月 3日(木)13時41分34秒
この掲示板をみているかたは、礼儀正しく心優しく、「場違いかも」とか「ワリコミですが」と、お書きになっているのですが、全然そんなことない上に、もともと、BBSというのは、場違いやワリコミのオンパレードになるのがおもしろいところなのですヨ。
いろんなかたの言葉を噛みしめつつ、嬉しく拝見しております。
*
(無題) 投稿者:まれびと 投稿日:2008年 7月 5日(土)20時49分10秒
はるさん、きはらさん、Catwalkさん、よいお話を読ませて頂きました。
アキバの事件とはずれているようで、実はつながっているみなさんの「思い」がよく伝わり、とても面白かった。
というか、みなさんの書き込みを読んでいたら、結局、わたしはネガティブな話ばかりに偏りすぎていたかなと自省しました。
ポジティブな話というのは、やはり必要です。
というか「愛するものについて」こそ、人はほんとうに饒舌になれるのかも知れない。いい意味で。
最近、夜中に見つけた若きグラディス・ナイトになぜか恋してしまって、彼女の映像ばかり見ている。そうしたら昔、実家で閉じこもっていた頃の感覚を思い出して、人はいったん外部との接触を諦めてしまうともうふつうの近所の人との挨拶も永遠にできないんじゃないかと思えるくらいになってしまって、そんなときときおり自室のテレビで感じのいい女の人なんかを見て、「ああ、こんな人がじぶんといてくれたら、じぶんはもっと変われるかも知れないのに・・」などと勝手なことをよく思ったりしていた。アキバのかれも、そういう感じだったのかなと思ったりする。