■日々是ゴム消し Log7 もどる
今日は朝から夕方までずっと忙しかった。(もちろん一人でではないが)パイプ花を24本も挿し、県内のあちこちを車で走り回り、いつもの慌ただしい戦争のような葬式の片づけに翻弄され、重い道具を担ぎ運び、くたくたに疲れた。午前中に飾りに行った現場で仕出しの弁当を貰ったので、家から持っていった弁当を夕飯にして、それから寝転がって読みかけの本の頁を捲っているうちについうとうととしてきて、9時近くまで眠ってしまった。
以前に友人に貰ったキンクスの二枚組ライブCDに入っている I'm Not Like Everybody Eles という曲のギター・サウンドがなぜかひどく好きだ。風呂から出てきて、こんな深夜に、焼酎のお湯割りを啜りながらヘッドホンでボリュームを目一杯にあげて聴く。あの不思議な黄金の粒子があるのだ。たとえ西成公園のダンボール・ハウスに身を横たえていたとしても、心が疼き、覚醒されるような何かが。そうして、まだ大丈夫だ、俺は俺のままでいまも愚鈍で輝かしい。そう呟いて、茫洋とした黄金の粒子の薄暮の中を錐揉みをして漂っていく。
それから酔いに任せて、こんどはディランの Born In Time のライブ・テイクをやはり大音量で聴く。ここにあるのは、ある種の拭いがたいエモーション(感情)だ。立ち去りがたく、容易に得難く、一瞬の夢のごとくにかつて確かに存在していたのに、いまは残像でしかないそれをなお追い求めてやまない。それを追い求めるのは「真実の心」がそこにあったからだ。機械ではない、剥き出しの心の記憶が苦しめるのだ。
そしてライ・クーダーの滋味深い秀作 Boomer's Story 入っている歌なしの Dark End Of The Street 。中ほどで曲がふいと奔(はし)り出す、その一瞬のスライド・ギターの朴訥とした響きが、寡黙な農夫の賛美歌のようにいつも胸にこびりついて離れない。ひとは抱えているものが多いほど、きっと遠くまで行けるのだ。
*
夕方に急に翌日の休みが決まったので、仕事から帰ってからさっそく和歌山にいるつれあいに電話をして「いまから行くから」と伝え、そそくさと着替えや雨合羽をデイパックに突っ込んでバイクに飛び乗った。高速は使わず、五條を抜けていつもの紀ノ川沿いの夜道を。少し寒いが、11月にしてはまだ暖かい方だろう。彼女がまだ和歌山に住んでいた頃は、この道をこうしてバイクに乗って何度も往復したものだ。時にはこんなふうに仕事が終わってからでかけて、向こうでホンの小一時間の食事を共にして、夜中に帰ってくることも幾度かあった。そう、クリスマスの夜もプレゼントを渡すためにバイクで往復を走った。ひどく寒くて、帰りの道すがらに買った缶コーヒーを持つ手が震えて止まらず、そこらに零しながら啜ったのを覚えている。喧嘩をして分かれてきて、途中の国道沿いの電話ボックスから仲直りの電話をかけたこともあった。和歌山市内の混雑を避けて、粉河寺あたりから紀ノ川を離れて山間の野上を抜けて海南市へ出るコースをとる。総計百キロ弱、やはり下を通ると3時間くらいか。海沿いのくねくねした峠を上り、じきに小さな漁船が静かに停泊するO町の鄙びた入り江が見えてきた。そういえば車では最近でも走っているものの、結婚をしてからこうしてバイクでひとりこの道を走るのは初めてじゃないだろうか。最後に走ったのは、ああそうだ、二人の結婚に反対していたお母さんたちを説得しに走って以来なんだな。あれからいろんなことがあって、いま、二人の間に生まれたあたらしい小さな命に会いに、こうしてぼくはバイクに乗って走っている。さあ、もうじき着くぞ。
急く自分のこころにちょっと意地悪がしたくなって、入り江のトバ口の堤防沿いにバイクを停めて、蕩々と眠っているような静かな夜の海をしばらく眺めた。
*
今宵は風呂上がりにビールを傾けつつ、「やもめ男」の脈絡なき片言。
双子のパパ・きはらさんの日記を拝見する。公園のリング・トンネルなる遊戯具で遊ぶ子供の写真。こうした「あたらしい体験」に向かう双子それぞれの姿勢の違いを述べてから、こう記す。
ところで、こういう個性の違いはどこから出て来たのだろうと思うのだ。一卵性の双生児だから、遺伝子に違いはない。環境や経験については、大きな違いはない筈だが、全く同じとは言えない。ほんの些細な環境や経験の差異(母胎内ですら全く同一とは言えない筈だ)が、その後の成長に重要な違いをもたらしたと言うことなのだろうか。それで説明が付く筈だ、とは思う。しかし、僕は、二人が生まれる前から、それぞれに別個の、「魂」と呼ばれているようなある種のコアを持っていたからだ、と思っている。それは、「神」とか「前世」とか「転生」とかの、人によっては胡散臭く思うような、証明できない物語の一部を形作るお話だ。
私もかれの意見に同意する。何も「胡散臭い」宗教でなく、実際に小さな子供を見ているとそんなことを感じるのである。こどもというのは、ある意味で最も宗教的な存在かも知れない。だから見ていておもしろい。
昨日の夕刊で作家の藤本義一氏がこんなことをちらっと書いていた。いわく「インターネットのHPで仲良くなった同士が、実は顔を合わせて話し合えば、お互いに大嫌いな相手だというのをもっと懼(おそ)れてもいいのではないか」 私個人は元来人好きで、人嫌いである。広大な砂漠の中でホンのひとつふたつ、自分の好きな形の石を拾えばそれで充分満足するし、またそんなもんだとも思うし、私は自分が万人受けするような「良き性格」を持ち合わせている人物だとも思っていない。よって皮肉でもなんでもなく、私のHPを訪ねてくれる人の数は「そこそこ」が良い。もし(万が一でも)一日に一万人ものアクセスがあったら、私は恐れをなしてHPを閉鎖してしまうだろう。一万人もの不特定多数とネットで仲良く「交流」するなんて、私は真っ平ご免である。たとえば同じ「ボブ・ディラン」の音楽を愛聴していても、必ずしも同じ価値観を持っているわけではないといったような至極当たり前のことを、私は幾度か経験した。むしろまったく正反対の価値観を持っているようなことも。つまり「ボブ・ディラン」という安易な共通項で容易に「交流」など本来できるものではないのだし、私はそんな幻想も抱いていない。しかしネットを通じなければ一生涯出会うことのなかった、ホンの少数の感じることの似ているかも知れない人々と偶然に知り合いになれたこともまた事実であり、それを嬉しく思っている。
先日買い求めた「聖地の想像力」を風呂の中で読み始めた。「もう数年もすれば新しい事態がやってくるだろうという予感はしている。おそらくそれに対応できるのは情報や通信に関わっている人々ではないだろう」 序章の何気ない、そんな一言に思わず納得した。
今日の現場(祭壇等の飾り)、亡くなったのは36歳のお嫁さんで、病死か何か知らないが、9ヶ月の赤ん坊を残しての死だという。哀れで、痛ましい。できれば明日の片づけのメンバーには当たりたくないなと、心中願う気持ちがどこかにある。悲痛な葬儀に立ち会うのは、いたたまれない。
今日も和歌山の実家のつれあいに電話をする。電話口で赤ん坊が「あー、あー、あー」と言うのを聴く。この頃は頻繁に指をしゃぶるようになった。ときおり「はーーい」と可愛らしい発声を聴かせてくれるようになった。つれあいの言によると、赤ん坊はたいてい「うんこら」という言葉を最初に覚えるのだが、うちの紫乃さんは「はーーい」が最初らしいと云々。
昨日の昼間和歌山で、近所の親類宅で借りた車でつれあいを病院に送り、点滴の間に見つけた市内の古本屋で買った文庫本三冊。「八木重吉全詩集1・ちくま文庫」「ことばの食卓・武田百合子・ちくま文庫」「美神の館・A.ピアズレー/澁澤龍彦訳・中公文庫」
午後、会社でMさんと将棋。二戦二敗。
* 午後から、昨日の飾りの片づけ。雨のなか、集会場の敷地内の隅っこに車を停めて、葬儀が終わるのを車内で待つ。「9ヶ月の赤ん坊を遺して」というのは聞き違いだったか、お母さんに連れられて、茶色の揃いの制服を着た幼稚園児たちが大勢、焼香台の前のテントの下に参列していた。黄色い、宇宙服のような合羽を着ているもっと小さな女の子もいて、傘を引きずりながら歩いている姿が何とも愛らしい。そんなものを黙って眺めていた。
以前に「きはらさん」から、私の仕事に関してこんなメールを頂いたことがあった。
.....例の従兄が、「まれびとさんが葬儀に関わる仕事をしているのは、何か、ぴったり、っちゅう感じやな」と言っていました。決して悪い意味ではなくて、死者と死者を悼む人たちにとって、あなたのような心優しい人が告別の儀式に花を調えてくれることは、きっと慰めになるだろう、というような意味です。僕も、「うん、そうやね」と答えました。もう、だいぶ前の事かな。
それもそうではあるのですが、やはり、それを職業として、来る日も来る日も「死」というものと向き合いながら、心を麻痺させずに、深く豊かに心を動かし続けることは、非常に困難であろうとも推測します。人間は、「死」ばかりを思いつづけるようには出来ていないと思います。
参列者が多くて棺に入れる花を切るのに忙しかったため、幸いにしてお別れの場面をゆっくり見ることもなかった。棺の中の死に顔も見ることはなかった。ただそれが済んで、祭壇の前に設置された棺を、同僚のMさんと二人して担いで前方へ移動した、その重みが掌に残った。
私は別に「きはらさん」の言ってくれるように心優しい人間でも何でもない。悲しい死や慟哭の場面に接して、自分のこころが重たくなるのが嫌なのだ。自分ひとりのこころだけでも重たいのに、どうして無関係の他人の死の重たさまで、という気持ちがどこかにきっとある。結局それは自分の快不快によるエゴイズムなのである。
車の中で「若い人の葬式は、イヤですねえ。何だか居たたまれなくて」と言うと、そんなことをいちいち気にしていたら仕事などしてられないよ、とMさんの返事が返ってきた。みんな同じ事を言うのである。そしてそれは本当なのである。霊柩車の運転手も、今年は暖冬で寒くならねえから、なかなか死んでくれないなァ、などとよく話している。暇で、暇で、それといって殺して廻るわけにもいかねえしなァ、などと冗談めかして言う。
そうした「馴化」も、私には素直に受け取れないのだ。
*
彼女がいるときには、ときおり、私はながかった孤独の時期をなつかしむこともあった。こどもが生まれて生活が慌ただしくなると、ゆっくりした自分の時間がもう少しだけ欲しいなぞとも願った。だがこうしていざひとりになってみると、私のこころはまるで糸の切れた凧のようにふらふらと落ち着きがない。やりたいことはいろいろあった筈なのに、どれもさして手につかない。そうして虚ろな自分のこころの穴ぼこを見つめて、とめどなく沈んでいってしまうか、夢のあわいのような空間に消えていってしまいそうになる。彼女は、私をこの現実の世界に繋ぎ止めておいてくれる錨のような存在なのだと私は知った。
昨夜は彼女が死んでしまった夢を見た。いや、実際にはまだ生きているのだが、夜には死んでしまうと分かっているのである。それなのに私は彼女のそばを離れて、別の場所に来てひとり葬式の準備をしているのである。かたわらで彼女の実家のお父さんが、門前に貼る通夜の時刻などを告示する紙を筆で書いている。それから私は知り合いのW氏を訪ねて、目に涙をいっぱいためて、彼女が今夜中に死んでしまうんです、と言った。ひどく悲しい夢だった。
彼女と出会うずっと昔に書いた、こんな“ダサ詩”の一節をふと思い出している今宵。
そのひとのために
わたしは 世界に繋がれる
* 今日はK町の慰霊祭の飾り(巨大な杉山)、明日はK市でこれも大きな社葬の飾り、それにいくつかの小さな葬式も重なってと、忙しさのピークである。「花屋」といったって、(菊を挿すための)オアシスの詰まった重たいペットやその他の道具を運んだり片づけたりで、ほとんどが肉体労働である。それほど優雅なものでもない。今日は昼飯も途中のコンビニで買ったおにぎりを移動中の車の中で急いで放り込んだ。
夜、定刻に和歌山のつれあいから電話。点滴の効用か耳の数値もほぼ正常に近い値まで回復してきて、また薬の限度もあるので、とりあえず来週の水曜で点滴は終了の見通し。その後は二週間おきくらいに病院で検査をして、別の飲み薬を貰ってくることになるだろう、と。その通りなら木曜にはこちらへ帰れることになるのだが、私の休みの都合もあって、再来週の中頃に車で迎えにいくことにして、それまで実家で休養をとっておくよう勧める。月曜か火曜あたりにもう一度、ひとりで「和歌山通い」をするようである。
赤ん坊はこの頃、夜も大人しく寝るようになったという。昨夜は夜の10時にミルクを飲ませてから、12時にほうじ茶をやったものの、朝の6時までそれからずっと寝ていた。そして朝はひとり目を開けてニコニコしていたという。私は昨日の電話で、あんまり離れていると赤ん坊が自分のことを忘れてしまわないかと、それがいちばん心配だ、と言ってつれあいに笑われた。
今日は朝自分で詰めていった、昨夜の夕食といっしょに焼いた鮭の切り身をほぐしたものと、和歌山の実家の信州みやげの野沢菜の漬物をおかずにした弁当を食べずに持って帰ったので、ご飯といっしょに、それに冷蔵庫に残っていたシラスと卵を加えてチャーハンにして夕食にした。何日かぶりに洗濯をして、疲れたので早めに風呂も済ませて、湯上がりのビールをひとり飲みながらいま、ニール・ヤングの古いベスト盤をかけている。
毎日の仕事は決して楽しいものでもないが(きっと、誰でもそうだろう)、彼女と赤ん坊が帰ってくる日の目安がついて、少しだけ元気な心持ちになってきた。
先日古本屋で買ってきた八木重吉の詩集からひとつ。
エンゼルのなみだが
秋のそらを おちてくるような
しづかにも うつくしい
わたしの生くる時のかげであれよ、
*
ふたたび仕事が終わってからレンタカーを借りて、つれあいと赤ん坊のいる和歌山へ行って来た。翌日は雨の予報だったので、さすがにバイクは控えた(もう若くはない)。急だったのでいつもの軽自動車は無く、一日7千円の「ヴィッツ」とかいう普通車である。料金は高いが、カーステにCDがついている。Van Morrisonの「You Win Again」「The Philosppher's Stone」、Lou Reedの「Ecstasy」、Dylanの「Street Legal」、Neil Young&Crazy Horse の「Ragged Glory」をBGMにチョイスして。時間が遅かったので高速を使うことにした。コンビニで買ったパンを囓りながら、平均130kmくらいの飛ばし加減でぶち抜いていった。9時頃に着いて、ひさしぶりに紫乃さんをお風呂に入れた。それからずっと夜中まで抱いていた。最近は機嫌のいいときは「紫乃さん」と呼びかけるとニコッと笑って応えてくれる。ひさしぶりに夢も見ずに朝まで熟睡した。が、このところ夜はずっと大人しく寝ていた赤ん坊は、その夜に限って3時頃まで愚図って仕方なかったという。彼女は、私が煙草の匂いをさせているせいだと言う。翌日は朝から彼女を病院へ連れて行き、数日前から足の甲が痛いというので同じ市内の整形外科へも行ったところ、病名は失念したが神経の病気で治療が長くかかるから自宅へ帰ってから近くの医者に通うようにと言われた。いろいろ出てくるものだ。実家のお母さんは「いろいろあって申し訳ないよ」と冗談めかして言っていた。帰りはいつものようにせわしない。彼女の妹さんの家に届け物をする途中の和歌山市内で少々渋滞に会い、下の道を行っている余裕がなくなったので慌ててまた高速に乗った。レンタカー屋に車を返したのは時間ぎりぎりの7時数分前であった。いつもは満タン返しなのだが、ガソリンを入れている間が無くて計算してくれと言うと今回はサービスにしてくれるという。ちょっとだけ儲けた。が、くたびれた。
実家に着いた夜、入り江近くに停めて置いた車に忘れ物をして、ひとり取りに戻った。おりしも一艘の小さな漁船が、寝静まった集落に囲まれた港に入ってくるところだった。親密な静寂の中を、ポンポンと心地よい音をさせて船が入ってくる。それをしばらく眺めていた。一日の漁を終えて、妻や子供や家族の待つもとへひっそりと帰ってくる。ああ、ぼくらはずっと昔、みんなこんな生活をしていたんだ。昨夜読んだ、ある短い文章を思い出して、そんな感慨に浸った。ある小説の推敲のために現在、福島の山間の宿にこもっている作家の宮内勝典氏が自分のHPの日記に書いていたこんなくだりである。
10月23日
小雨が降るなか、自転車で走り回った。この遠野町の道ばたには、いたるところマリーゴールドの花が咲いている。田んぼぞいの道まで、延々と花だらけだ。冬の長い東北の人びとは、雪のない時期、花を大切にすると聞いたことがある。家々は大きくどっしりとして、反りのついた屋根は寺院のようだ。東京ならば大豪邸といった家々が、実にさりげなく並んでいる。庭さきの柿が赤く熟れかかっている。コスモスの花がとてもきれいだ。川は、鮎が釣れるそうだ。
こうしたところを故郷としていたはずの日本人が、どうして、いまのような精神の荒廃、病理の吃水線にきてしまったのか不思議でならない。
翌日、彼女と病院から戻り遅い昼食を済ませてから、赤ん坊をはじめての散歩に連れて行った。ほんの5分だけ。実家から30秒もない港に連れて行って、入り江に囲まれた海を見せてあげた。ほら、紫乃さん、これが海だよ、船もいっぱい泊まっているよ。赤ん坊は盛んに首を動かしてあたりをきょろきょろと見回し、それからニコニコと微笑んでいた。
*
「永遠に損失を受け入れること」と、あのさみしいビートニクの王者・ケルアックが記していた。今日ぼくは、古本屋で買ってきた詩集のなかで八木重吉がこんなふうに、冬の透明なため息のように、しずかな決意表明のように、そっと呟くのを聞く。
ロマンチストといふのは
たえずくづれゆく世界をみつめてゐるひとです。くづれていくのは世界ではなく、つねに私のほうであったかも知れない。そうしていく度でも容易にくづれていって、少しづつ透明なじぶんになっていきたい。
ふと何の前触れもなく、金子光晴のこんな詩を思い出す。
鬼の児はいま、ひんまがつた
じぶんの骨を抱きしめて泣く。
一本の角は折れ、
一本の角は笛のやうに
天心を指して嘯(うそぶ)く。
「鬼の児は俺ぢやない
おまへたちだぞ」思い出す。熊野・本宮の真っ白な河原で、私の痩せて尖った骨がしらじらと朽ちた道標のように、立ってへらへらと冷笑していたことを。
金子光晴といえば、晩年に孫の若葉をうたったこんな詩もむかしから好きだった。
絵本をひらくと、海がひらける。若葉にはまだ、海がわからない。
若葉よ。来年になったら海へゆかう。海はおもちゃでいっばいだ。
うつくしくてこはれやすい、ガラスでできたその海は
きらきらとして、揺られながら、風琴のやうにうたってゐる。海からあがってきたきれいな貝たちが、若葉をとりまくと、若葉も、貝になってあそぶ。
若葉よ。来年になったら海へゆかう。そして、ぢいちゃんもいっしょに貝にならう。
孫と老人が「いっしょに貝になる」という風景が、ひどく艶めかしくエロチックで、それでいて顫(ふる)えるような心持ちで瑞々しいいのちが沁みる。
今日は仕事から帰ってきたら留守番電話に昼間、彼女がいれてくれた赤ん坊の声が入っていた。この世に生まれたての、ことば以前の、何の邪心も意図もない無垢なささやき。四度も聞き返した。
夜、約束のいつもの時間に電話。今日は実家の近所の床屋さんではじめての散髪をしてもらったという。規定の料金の2,500円に、はじめてということで祝儀3,000円を包むしきたりとの由。顔や額の産毛を剃って、頭は「サザエさん」のワカメちゃんのようなカットになった。別のお客さんが来るたびに床屋のおばさんは、ぜんぶお父さんにそっくりだよ、彼女に似ているところはひとつもない、と話していたという。
ステレオでかけっぱなしにしていたレノンのCDが、いつの間にかGrow Old With Me を演奏していた。
* 「夫婦の共稼ぎ」について確かずっと昔に新聞記事で読んだことだが、傾向として夫が働き妻が専業主婦をしているのは高所得者と低所得者の家庭で、共稼ぎ多いのはその中間の中流の家庭であるという。つまり高所得の家庭は妻が働く必要がないからというのは分かるのだが、一方低所得の家庭は一般に夫がブルー・カラーの仕事に従事していて、そういう人たちには「男は外で働き女は家で家庭を守るもの」という旧来の観念が強いために、多少生活が苦しくても妻を働かせないからだという。中間の中流の家庭の夫婦は、「中流」故にそうした古い観念にとらわれていないため云々、と。
職場で毎日のように繰り返されるパチンコと車とナンバーズ(宝くじ)の話をぼんやり聞きながら、ふとそんなことを思い出す。差別をするつもりはないが、やはりこの国に「階級」というものは存在するのだと思う。レノンが Working Class Hero のなかで歌った、金だけでなく、メンタルな意味での歴然とした「階級」が。
テレビとセックスと宗教の麻薬にどっぷり漬けられて
あんたらは自分たちが利口で差別もなく自由なんだと思っている
だが おれに言わせてもらえれば
あんたらはただのまぬけなどん百姓だ
オウム真理教のタントラ教義を丹念に検証した作家・宮内勝典氏の今年の夏に出た新刊『善悪の彼岸へ』(集英社) を数日前から読み継いでいる。オウムの事件に衝撃を受けた人にはぜひ一読を勧めたい真摯なレポートである。詳細は後日の書評に譲るとして、宗教の持つ奥深い意義、特に隠蔽され続けてきた悪とエロスについてあらためて考えさせられている。
それはともかく、今日は私の実家の近所に住む知り合いの牧師さんから手紙が届いた。過日に実家へ送るものがあったときに、宅配便の段ボール箱の空いたスペースに読み終えた本を何冊か入れて一緒に送ったのだが(狭いわが家では本棚も限られているので、ときおりこうして送って、実家のかつての私の部屋の本棚に積み上げて置いてもらっている。なにせ本は増えて仕方ない)、そのうちの一冊を牧師さんに進呈して欲しいと母に頼んでいたのである。古い歴史をもつ隠れ里のようなさるキリスト教の修道院について書かれたレポートだが、そのもう高齢になる牧師さんは仏教やインド思想・イスラム教などの他の宗教にもオープンでよく色々なことを話し合い、私がかつてお貸ししたユングとキリスト教の接点についての本も大層気に入って後で自ら注文していたことなどもあり、きっとこの本も気に入ってくれるだろうと思ったのだった。手紙の一部を紹介。
今朝、お母さんが山形孝夫著「砂漠の修道院」を届けてくださいました。
コプト教の一部について知っていましたが詳しいものを読むのは始めてで、心よりうれしく思っております。中身はまだ読んでいないのですが、巻末の解説を読み、長年私の内で模索していたもやもやとした整理の付かなかったものが一度に氷解した思いがあり、思わず大声を上げるところでした。
それは弁証法の正・反・合と異って“脱”と言う思想がある、と言うことばでした。自分の長年目指して来たものは、西欧的な正・反・合的なキリスト教からの“脱”にあったことが、はっきりした瞬間でした。
これは正に「目からうろこ」で、うれしくてなりません。これから残り少ない人生の中で、この考え方をどれほど展開してゆけるか分かりませんが、私なりにがんばってゆきたいと思っております。
これからじっくりと中身を読ませて頂きますが、良いご本を頂きまして心より有り難く、厚く御礼申し上げます。
和歌山の実家に行っているつれあいは、明日の土曜でとりあえず「通院による点滴治療」を終え、後はしばらく二週間か一月に病院で診察をしてもらい薬を貰ってくることになるという。軽自動車のレンタカーが来週の月曜の夜から空いているというので、月曜の夜に迎えに行き、いつものように向こうで一泊して、火曜に赤ん坊といっしょに連れて帰ることにした。
今日は昨日と同じ焼きそばの夕食を食べ終えた頃、近くの郵便局から電話が来て、予約していた年賀状を早めに取り来てください、との連絡。その後、風呂に入ろうとして新しいトランクスを下ろしたところ、袋に安売りで200円の札が付いているのを見た。昨日はひさしぶりに冷蔵庫を整理したら、期限切れの食品や腐った野菜の類がずいぶんと出てきた。ああ、二人で暮らすようになってからいつの間にいろんなことを、知らず彼女に任せていたのだなあ、と思った。すると何故だかやわらかな愛おしさのような懐かしさのような気持ちに、ふいと襲われた。
* 約ひと月弱、つれあいとともに彼女の和歌山の実家へ行っていた赤ん坊が帰ってきた。そしてわが家はふたたび慌ただしい日々が再開された。以前より個人の意思というものがほのかに確立してきたような気がする。睡眠と覚醒のあわいで夢うつつのようだった意識が、徐々に現実の世界に浮かび上がってきた。なにより、目覚めている間は常に抱っこをしているか話しかけているかしてやらなくてはいけないので、何をするにしても交代制である。夕食も片方が抱っこをしている間に、もう一人が喰う。新聞も抱っこをしながら飛ばし読みする。が、座っていないで立ち上がって抱っこをするように促されると、じきに新聞も読めなくなる。およそほとんどの時間がこの小悪魔のために奪われてしまうけれど、それでもこうして不可思議で小さな命と向かい合って過ごすあれこれが、他のどんなことよりも意味があるような気がする。
彼女が風呂に入っている間、赤ん坊を抱きながら、紫乃さん、不思議だなあ、去年の今頃はきみはいったいどこにいたんだ? いったいどこからやってきたの? ひょっしてチベットの山奥でお経を読んでいたのかな、それともベナレスのガートで灰になってきたのかな、ねえ、覚えてるかい?
* かねがね仏教というものは実は「宗教」でなく、一種の高度な「認識論」であると思ってきた。実家にいた頃からずっと壁に掲げてきた東寺の胎蔵・金剛を含む両界曼陀羅図は、宇宙の始まりであるビックバンとエントロピーの平均である宇宙の死をあらわす壮大な物理学的ビジョンとも重なるし、またスッタニパータなどの原始仏典に残されたブッダのことばはときとして、まるでバッハのピアノ曲のように透明で数学的なものにさえ聞こえる。
いま少しづつ読み継いでいるある本の中で今日、そんな私の中の仏教に対する感触をとてもクリアに表現してくれているくだりを見つけ、共感した。
ブッダは意識の営みが超越的なものであるとはみなさない。死後の世界があるとも考えていない。ただ意識を意識しつつ、そこから自由になれと奇妙な背理を説く。
世界と、きみ自身との戦いにおいては、
かならず世界の側に立ちたまえ。これは、フランツ・カフカの言葉であるが、ブッダにもそれと似た姿勢がある。仏教はもともと、神という観念に収斂されてしまいそうな意識がぎりぎりでそれを拒むような、きわめて主知的な葛藤をはらんでいる。それでいて主知的なものを拒否するという二重性がある。そして、世界に対する意識の宙吊りの状態に耐えることを強いる。
やさしげな慈悲を説きながら、仏教は行きつくところにぞっとするようなニヒリズムを湛えている。世界宗教のなかで仏教がきわめて特異なのは、そのニヒリズムだ。世界を神が創造したものとみなさず、世界を意味づけることもせず、ひたすら物理的なものとして意識しつづけている。そして世界を構成する物質性と意識の乖離について、あるいはバランスについて、延々と思惟をくりひろげている。しかも突きつめたところで、その物質性を空無とみなす二重性をはらんでいる。
圧倒的な世界の物理性を背景にして、いまここに現象している生命のはかなさを意識すること、それが慈悲と呼ばれるものなのだろう。温かくもなく、冷たくもなく、きわめてニュートラルだ。私たちは直感的に、ブッダの微笑の本質を知っている。あの静かな口もとには、宇宙の物理性がはりついている。
(善悪の彼岸へ・宮内勝典・集英社)
かつてブッダの死を想って書いた、こんな拙い文章をふと思い出した。
暑い日射しのもとで、ときおりふと幻のような光景を見る。砂漠に似た荒涼とした固い大地に、亜熱帯の植物が葉を繁らせている。生き物たちがいる。地面の土と砂が灼熱の太陽にじりじりと焼かれる匂いがする。木陰にひっそりと横たわり、目前に近づいた死をしずかに待っている痩せ衰えた老人が、かたわらで悲しみに暮れている若い男に言う。「あなたに言っておいた。すべてのものは過ぎ去るのだ、と」
-----やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、-----すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破壊しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。
老人の声は烈しい風の息のように吹き渡る。荒涼とした大地に、川に、沼地に、人々のひろげられた手のひらに。
* さる県営団地内の集会所。祭壇の飾りを終えてから、エレベーターがないために団地の五階にある自宅から階段を使って遺体を担ぎ下ろした。本来は葬儀屋の仕事なのだが、人手が足りないということでぼくら花屋も担ぎ出されたわけである。しかも故人が大柄な初老の男性で、棺桶では狭い階段をターンできないため、遺体を布団のシーツにくるんだまま7, 8人ほどで担いで下ろした。前日から布団の中にドライ・アイスを入れていた遺体は、持ち上げると布団の腰の部分が浸みだした体液で汚れていた。私は足の部分を持っていたのだが、頭に近いあたりを担いでいた同僚のYさんによるとムッとするような匂いがあったという。顔はさしずめ蝋人形のようで、指の先が白く変色していた。大型の棺桶もぎりぎりで、足先を入れるのに少々手間取った。
帰りの車のなかで私は、暴走車に追突されて即死した父親の、その死の瞬間の想像がなぜかしきりと想起されてやまなかった。「まるでハイウェイを駆け抜けるように逝ってしまった」と後に書いたが、そんな綺麗な表現では隠しきれない。おそらくもっと即物的で冷徹な死のリアリティ、生命の意味が容赦なく剥奪される一種のニヒリズムが現出する瞬間の底深い戦慄のようなものに囚われていた。
* 先日、子供の宮参りというものに行ってきたのである。参加者は私たち家族三人のほか、和歌山からつれあいの両親と、関東から私の母と妹の計7人。この日のためにレンタカー屋でイプサムというワゴン車をはじめて借りた。
まずは桜井の、奈良の一ノ宮でもある大神(おおみわ)神社へ。宮参りのときに羽織る真っ赤な着物のようなもの、ほんとうはどちらかの実家の母親が赤ん坊を抱いて纏うようなのだが、車から降りて私が赤ん坊を抱いていると、そのままつれあいの実家のお母さんに赤ん坊ごとぐるぐる巻きにされてしまった。派手な色合いなのでひどく目立って、何とも居心地が悪い。面倒くさいので祈祷などは頼まず、賽銭をあげ、お守りを買っただけ。主役は私の腕のなかですっかり眠りこけていた。
それから飛鳥の藍染織館へ行き、頼んでおいたそば膳の昼食を、古い金屏風と庭と生け花に囲まれた奥の座敷でみなで頂いた。手打ちそばは柚切りで、「お祝いだから」という粋な計らいで五色餅も添えられていた。館長のW氏がしきりと「この子はほんとうにいい顔をしているなあ」と繰り返すので「みんな、ぼくにそっくりだと言ってますよ」と私が言うと、「なに、そうでも言っておかなきゃ父親が誰だか分からないから、みんなそう言うことにしているんだ」と一太刀。私が厨房で片づけを手伝っているとき「彼女のお父さんという人は無口な人だなあ」と言うので、タンカーの機関長をしていたことを教えると、あとでW氏とお父さんが「あすこの海峡は潮がどうので」と二人でやたら話が盛り上がっていた。それからしばらくして「ほんとにいいお父さんだ」としみじみ頷き、赤ん坊を抱いてうろうろしていた私をじろりと見て「おまえさんのことじゃないよ」 ともかく、冬の平日とあって他の客もほとんどなく、みなそれぞれ思い思いにのんびりした愉しい時間を過ごしていたようだ。
帰りにおなじ飛鳥の橘寺に近い写真屋に立ち寄り、記念写真を撮ってきた。全員のと家族三人のを一枚ずつ。私はどうもこういうのは苦手で、やたらと愛想のいい写真屋の主人もあまり好かなかったのだが、とりあえず協力した。あとで撮ってきたビデオ(最近、親戚の叔父が呉れたのである)を見たら、私ひとり終始どことなく無愛想である。文学的に表現すれば、含羞、というやつである。
赤ん坊はだんだん賢くなってきた。夜は朝までちゃんと寝てくれるようになったし、だいぶお喋りをするようになってきた。指もしきりとしゃぶる。人差し指を奥まで突っ込みすぎて「オエッ」と言う。この頃はひとりで寝ているときに片手をあげて、自分の拳骨をじっと見ているのが好きである。
* 宮参りの翌日、この愚かな父は唐突に仕事を辞めてきた。直接の原因は人間関係のトラブルであったが、むしろそれは表層のきっかけに過ぎず、私は(勝手な言い方を許してもらえるなら)この仕事のもつ「死に対するがさつさ」、あるいは「死に対してじぶんが無感覚になってしまうことへの怖れ」とでもいった感情が悪性の腫瘍のように次第に腹に増殖していって、それはいつからか切実に出口を求めていた。もっともそんな理由など、現実に生活を抱え、乳飲み子を抱えた者にとって、理由のうちになぞ入らぬかも知れぬ。いつもの身勝手な気まぐれ、である。
家に帰って、つれあいにはすでに前の晩に話はしていたから、泊まりで手伝いに来ていた彼女の母親に、会社を辞めてきましたと告げた。前日の私と彼女のやりとりで薄々気がついていたらしい母親は「そうかい」とあっさりと答えただけだった。それから私が「仕事は、またすぐに見つけますから...」と言いかけると、こんどは私の目をまっすぐに見て「結婚を申し込んだときに、この子をけっして路頭には迷わせないと約束してくれたから、お母さんはあんたを信じてますよ」と、途中からすこし涙声になって言った。私も瞬間、柄にもなく涙が出そうになった。
あとでお母さんは、実は私の仕事が好きではなかった、と教えてくれた。葬式に関する事から、生まれたこどもが大きくなったときに差し障りがあるのではと心配だったらしい。私のいないときに二人でそんな話をして、そのときは彼女に「職業に貴賤はない」と叱られたという。
土日をはさんで、月曜に近くの職安へ行き、火曜に予定通り軽自動車のレンタカーを借りてきて、彼女と母親と赤ん坊を乗せて和歌山の実家へ向かった。彼女の耳の具合がこちらへ帰ってからまた思わしくないので、正月までまた実家へ戻って静養しているよう勧めたのである。こんなことになって、彼女は私といっしょに家にいたいと言い張ったのだが、仕事が決まったら迎えに行くから、と言い聞かせた。
レンタカーを一日延長して、彼女の実家に近いW市とY町の職安も一日半見て廻った。どうせ根無し草の私だ。おじいちゃん・おばあちゃんに抱かれる赤ん坊を見ていたら、この際、和歌山に移り住むのもいいかなと思ったのである。とりあえずは彼女の実家に同居させて貰い、それから折を見て近くの公営の団地かアパートにでも移ろう。奈良が好きなつれあいは当初は反対していたのだが、いろいろ話し合った結果、(奈良と和歌山の両方を探して)適当な仕事があるのだったら、とじきに折れてくれた。海辺の閑散としたY町の職安では、ハマチの養殖や底引き網の漁船員といった求人ファイルもあった。私は何ができるのだろう。帰りにのどかなY湾を見下ろす、明恵が修行した施無畏寺の山中の大盤石に坐して、ひとり考えた。
奈良にひとり戻ってきてから金曜の夜、深夜に焼酎のお湯割りを啜りながら性懲りもなく赤ん坊のビデオを眺めていたら、いてもたってもいられなくなった。翌日の午前に身支度をして、バイクを走らせた。ほんとうはバイクは危ないからと実家のお母さんに止められているのだが、車を借りれば高くつくし、それに私はバイクで走るのが好きなのだ。12月とは思えないほど暖かい土曜日だった。昼頃、紀ノ川沿いの「道の駅」で手作りの蒟蒻を手土産に買い、川原でおにぎりの弁当を食べた。2時頃に実家の近くのスーパーから電話をした。「いま○○なんだけど、何か買い物ある?」 電話に出たつれあいは驚き、もしかしたら来るんじゃないかと思っていたと言い、なんだか嬉しくて涙が出てきちゃうと泣きながら、はやく家族三人でいっしょに暮らせたらいいのにね、離れ離れじゃさみしいよ、と囁いた。お母さんたちが上の畑へ大根を取りに行っているというので、そちらに寄っていくことにした。蜜柑畑に囲まれた農道にバイクを停め、畑の方へ降りていくと、「あらあら」と苦笑いをしながら迎えてくれた。それから下ろしてきた大根を、家の前の石畳の坂道でお母さんたちが漬物にするのを、紫乃さんを抱きながら眺めた。大根を半割に切り、秤にかけながら漬けていくさまを、赤ん坊も珍しいのか大人しく見つめていた。
* しばらく前にテレビで録画しておいたオーストラリアの先住民・アボリジニのアーティストたちに関する番組を見た。いまでは年老いたアボリジニたちが車で生まれ育った土地をめざして旅をしながら、その旅の途上で草原にめいめいキャンバスをひろげて、独得の文様に彩られた絵を描くのである。
オーストラリアのアボリジニの社会にはチュリンガという聖なる物質がある。チュリンガの主要な役割はメモリー・バンクということだ。それはオーストラリア原住民のあいだで見出されたビジュアルな記憶装置なのである。
それは巧妙に考え出されたアナロジー・システムを通じて多元的に機能する。それは、美しいグラフィックであると同時に口誦伝承のシナリオであり、空間的な認識を可能にする地図(マップ)でありながら、同時に性的隠喩をも含み込むといった具合にである。
(聖地の想像力・植島啓司・集英社新書)
偶然というか、たまたま数日前より読みかけている世界各地の聖地に取材したある本の中に、タイミング良くかれらのアートに触れたこんなくだりを見つけて驚いた。まるで更地の上にどこからか敷石がもうひとつ、ぽいと置かれた不思議のように。ついでそのくだりは、それらに内包された神話の機能を読み解く次のような一節を引用する。
デザインは自分自身(身体)の外側に社会的フォルムとして存在している。それに対して、デザインがそこから生まれる夢のイメージは、自分自身(身体)の内側に閉ざされたプライベートな経験である。デザインは夢の潜在力を社会的フォルムとして保ちつつ、それをダイレクトな感覚的経験を通して個人の意識へと還流させる。
(Nancy D.munn, Walbiri Iconography: New York, 1973)
番組のなかで、アボリジニの老女がみずから描いた絵について語るシーンがある。生命の源を思わせるような円は水溜まりで、それをつなぐ色とりどりの線は道。それは彼女が遠い昔に歩いてきた道であり、同時にそこには祖先から語り継がれた神話がたくさんつまっている。また実際にかれらは、地図にもなく、ほとんど指標となるべきものさえ見あたらない広大な草原の上の道を、数十年経たいまも確実に記憶しているのだ。
こうした事は、以前にもどこかで引用したかも知れないが、私にはミヒャエル・エンデさんの次のような言葉が思い出される。
私の考えでは、文化とはおよそ、地球上のどこの文化であれ、どの時代であれ、外の世界を内的世界の尺度にしたがってつくりかえたものにほかありません。エジプト文化を見てください。ゴシックの時代を見てください。いや日本文化でも同じこと、それらはみな、ある一定の内界諸条件を基礎として形成されたものでしょう。だから逆にいえば、人間の内面世界が周囲の人間環境のなかに再認識できるものだったのです。
ところが現代ではようすがちがってきた。今私たちをとりまいている外部環境は、なるほど私たち自身がつくりだしたものではあるけれど、そこには私たちの内部世界が見出せないのです。人間がいきなりふたつの異なる世界に引き裂かれて住むことになったためなのです。つまりひとつは内部世界で、それはもはや外界と似ても似つかぬものになってしまった。そして外界は、内界とはまったく別個の観点によってつくりだされてしまった。ちがいますか?
外の環境を見まわしてください。私たちをとりまくのは、ありとあらゆるテクノロジーです。このテクノロジーに対応するものを、私たちの魂のなかに何か見つけだすことができますか? たとえば電話機を詩的な比喩に使うことはどうしてもできません。どうにかして外部世界と内面世界を、もういちど相互に浸透しあえるもの、循環可能なものにしていくこと、たがいを鏡として、そこに映しだし、映し返されている姿が見つかるようにならないと、極言すれば、私たちは文化をすっかり失うことになります。
(個人的にノートに写したもので出典は失念。対談等の著作から)
たとえばネイティブのアメリカンたちがその昔「聖なるコーンミール」と唱えるとき、そこにはコーンミールを通じてさまざまな神話や世界の意味性とじぶんがつながっているという意識があった。だがいまこの国で私たちが「聖なるマクドナルド」と唱えても茶番にしかならない。パック詰めにされて並ぶスーパーの食品棚には、北の狩人たちが祈りを捧げてアザラシの肉を裂く精神性のカケラも残ってはいない。もういちど、エンデさんがみずからの作品の秘密を語ったこんなことばを引こう。
想像力の魔術的な領域こそ、「果てしない物語」のファンタージェン国なわけで、ぼくたちは時々そこへ旅して、見者となるんだ。それからぼくたちは、外的現実にもどることができる。変化した意識をおみやげにしてね。そしてこの外的現実を変化させる、あるいはすくなくとも外的現実を新しい角度から見て体験することができる。
(同上)
私たちが依存している高度資本主義という経済システムは、たしかにモノを効率よく流通させるには有効であったかも知れない。だがかつて、言葉が言の葉であったように、モノもまたそれ以上の何かであった。それがいつからか、テレビのコマーシャルが人の心に侵入するように、モノは利潤を生み出す消費の対象でしかなくなり、それと同時に世界の背後を支えていた意味性というものを私たちは失ってしまった。隅々まで浸透した管理社会と経済システムによって、「ファンタージェン」への交通は閉ざされてしまった。あるいは利益と効率の名のもとに、システムからふるい落とされてしまった。だが人が生きていくにはある種の神話、現実の世界と呼応し合う内的な意味性を湛えた神話が必要不可欠だと私は思っている。
番組の終わりのほうで、アボリジニの老人たちがめいめい夕闇の大地の上に車座になり、思い思いに空を見上げているシーンがあった。静謐とある種の侵しがたい崇高さ。この地球がたしかにひとつの限りある惑星であると実感できるような広大な大地の暗がりのなかで、やがて誰からともなく不思議なことばの唱和が始まり、低く高く海のつぶやきのようなひとつのうねりとなって、空と地面の間を漂っていった。ああ、これが生きるということだ、と私は思わず嘆息したのだった。
* 金曜の夜から、クリスマス・イブを含む土日を和歌山のつれあいの実家でのんびり過ごしてきた。
ジャケットの裾がはさまってしまった。丁度K市へ所用があって出ていたという彼女の従兄弟のお嫁さんのKさんが車で駅から拾ってくれた。助手席に小学生の娘さんもいっしょ。走り出した車のドアを開けるのも気が引けて、ドアにぴったり貼りついたまま、今日受けてきたという「弥生」の会計ソフトの講習の話などを聞く。
駅からつれあいの実家のあるOへは、バスが日に三本しか走っていない。それも年寄りしか乗らない赤字路線のため、町の補助でかろうじて維持されている。海沿いをぐねぐねと曲がりながら岬をひとつ越えていく道は夕暮れになると淋しくて気味が悪い、と中学を自転車で通った彼女は言う。当時、その岬のあたりで下半身を露出させて立っている男が出没した。お母さんが駐在所へ連絡すると、「明日も出ますか。明日も出るなら見に行きますけど」という答えが返ってきて、そんなこと分かるか、それがあんたらの仕事でしょう、と言い返したという。実際に草むらに連れ込まれていたずらをされた同級生もいたらしい。そのため、いまでも子供を持った母親は岬の向こうの町側へ引っ越したがるという。
Mという家のお婆さんが、ある日どこからかひとつの石ころを拾ってきて、「ゆうこさん」と呼んで神棚に大事に祀っていた。お母さんも一度見たが、何の変哲もない只の石ころだったという。その石は、お婆さんが亡くなってから、家の人によって集落にあるお寺へ預けられた。
夜中の二時頃にふと目が覚めて、階下へ降りて玄関先でひとり煙草を吸っていると、実家の前の石畳の坂道を小走りに降りてきた中年の女性の姿を見た。翌朝に、あんな時間に何だろう、とお母さんに聞くと、それはたぶん●●さんだろう、と言う。どんな事情からかもう大分昔から毎晩、その時刻に決まって、上の小学校に隣接する神社に参っているのだという。
Tという近所の雑貨屋のおばさんが、九州の杵築から届いたという生きた海老を持ってきてくれた。おばさんの主人が少し前までかの地に蜜柑畑を持っていて、歳をとって往復するのが難儀になったため将来別荘でも拵えるつもりで幾ばくかの土地を残してすべて売ってしまった。ところがその別荘用の半端な土地も行政の指導とやらでまとまった土地にしなくてはならなくなり、面倒だからと隣接する土地の所有者に只で譲り、以来その人から毎年この時期に海老が届くのだという。せっかくだからと「躍り食い」、つまり生きたまま頭を取りわさび醤油で食べることにしたのだが、そんな食べ方などしたことのない私は少々びびり気味である。おそるおそる手にした海老が勢いよく跳ねて醤油皿の上にばしゃりと落としてしまい、お母さんから「あれあれ、情けないよ」と笑われてしまう有様。ここで怖じ気づいては江戸っ子がすたるとばかり気合いを入れて、やっと食することができた。「町育ちだから」と向きになって弁明する私に、お店で食べたら何千円もすると言うつれあいは、○○さんのは「町育ち」じゃなくて貧しい外食しかしてこなかったから、と。何はともあれ、あの海老の「俺は生きているんだぞ」と主張するような頑固な抵抗感と歯ごたえ、ああこれが生き物を喰うということなんだ、と改めて再認識させられるような貴重な体験でありました。
散歩がてらに煙草を買いに行って戻ってくると、近所の床屋の前に一匹の犬がつながれていて吠えられる。家に入って、紫乃さん、わんわんがいるよ、と赤ん坊を連れ出そうとすると、すでにお母さんもつれあいも見せに行ったという。「そんなにみんなで何度も連れて行ったら、紫乃さんも“ああ、またこのおんなじ犬か”ってうんざりしちゃうよ」とつれあいに笑われた。
床屋のおばさんは短歌をやっている文化人である。同好の集まりで、いままでいくつも賞を貰ったことがあるという。とても親切で気さくな感じの人なのだが、ひとつだけ欠点があって、よその家の子の学歴にやたら敏感で知りたがることである。ちなみに自分の子供はまあそこそこの大学を出ていて、それも自慢らしい。つれあいに言わせると「床屋のおばちゃんなら集落中の人間の履歴書が書ける」とのことだ。以前にKというおばさんの家によそからお嫁さんが来て、床屋のおばさんがそのお嫁さんの学歴を早速入手して触れ回った。ある日お母さんが床屋のおばさんを含む数人と立ち話をしていたところ、そのKというおばさんが通りかかり誰に言うでもなく「あたしね、他人の学歴をすぐにとやかく言い触らすような人は嫌いよ」と言い捨てて去っていった。「あたし、そんなに言い触らしてなんかないわよねぇ」と床屋のおばさんに言われて、お母さんは「まあ、そうやねえ」と仕方なく頷いたという。
クリスマス・イブ。近所の魚屋で頼んでいたケーキと、漁業組合で貰ったという中古のツリー。紫乃さんはミルク。セルフ・タイマーで写真を撮る。
Oはいまでこそさびれた港だが、かつて航続距離のない帆船が主流だった時代には、たくさんの船が寄港した。時化や風向きの悪いときにはそんな船の男たちが幾日も陸に上がって過ごしたから、当時は女郎屋なども幾つかあったらしい。雑貨屋を営むTの家には屋根裏に隠し部屋があって、博打やときには連れ込み宿の代わりに使われていた。警察の手入れのときには、下から梯子を外してしまえばもう分からない。いまでもその部屋は残っているはずだが、とこれはお父さんの話。
ふだん口数の少ないお父さんは、もともとは伊勢の生まれだ。英虞湾に面した村で父親の代から真珠の養殖を営んでいたが、それをたたんでお母さんの実家であるこの集落に移り、親類の所有するオイル・タンカーの機関長になった。長年の機関室での騒音によって耳を悪くし、身体障害者の手帖を持っている。これで乗り物は半額になる、と笑いながら見せてくれた。
港を見下ろすなだらかな丘陵に並んだ集落の墓地をひとりで見に行く。つれあいの実家の墓はそのちょうどてっぺんに近いあたり。長いこと喘息を患って伊勢からお嫁に来て以来いちどもこの集落を出たことがなかったというお婆さんの、死んだら見晴らしのいいところにお墓をつくって欲しいという要望で選んだ場所だそうが、いまでは周囲の樹が生い茂って木間からちらちらと港の青が覗けるくらいである。少なくはない荒れ果てた無縁墓地が、集落の過疎化を静かに物語っている。しばらく歩きまわって、墓に添えられた稚拙な石仏の写真を幾枚か撮して帰ってくる。
木々で覆われた墓の隣の棚地に、鉄筋の屋根にブロックを積み上げた壁だけのまるで倉庫のような簡素な造りの焼き場が残っていた。昔はここで荼毘に付していたのだが、数年前に一年ほど、葬式の出ない年があった。一年も使わないでいると釜の煉瓦が疲弊して使えなくなつてしまうものらしい。以来、焼き場はそのまま放置され、いまでは少し離れた町の火葬場が使われている。ここも壊して墓地にした方がいいという意見もときおり出るのだが、建物が建物だけに (「祟りというんやないけどね」とお母さん) 誰も手を出すのがためらわれて、結局そのままになっているという。
夜、布団を並べた二階の部屋で赤ん坊を寝かしつけてから、テレビから遠い方のつれあいの布団に二人でいっしょにくるまって「ペーパー・ムーン」という古いモノクロの映画を見る。彼女が昔から好きで私に見せたかったという映画で、詐欺師の男と母親に死なれた少女の旅の話である。
家の前の石畳の坂道をくねくねと曲がりながら登ると、じきに高台の小さな小学校に出る。そこから丘陵の中腹に通されたコンクリの農道をしばらく進んで、途中から蜜柑を運搬するために敷かれたレールをつたって上がっていくと、畑である。斜面の蜜柑畑の間にささやかな野菜が植えられている。テレビでラグビーを見ているお父さんのピンチ・ヒッターで、ジャージと軍手を借りて登ってきたのに、草取りをしていたお母さんは「もう終いにしよか」と言う。お母さんといっしょに、干しかけの大根の上に雨よけのシートをかけるのを手伝った。こうして10日ほど、大根が湾曲するまで干してから麹漬けにするのだという。
何年か前に泥棒に入られて、戸棚に入れて置いたお母さんの真珠が盗まれたことがあった。しばらくして、どうもその真珠らしいものを誰かが売ったという話が人づてに流れてきた。思い当たる人物がいた。いつも気軽に家に入ってきて話をしていくのに、あの泥棒騒ぎ以来そういえばトンと姿を見せない。だれ? ぼくの知っている人? と聞いてもお母さんは答えない。結局、警察にも知らせなかった。それからこんどは隣の家が泥棒に入られた。現金といっしょに仕舞っていた通帳だけが床屋の裏の溝に捨てられていた。その家の奥さんが警察に届け出ると騒いだが、なぜか主人に止められた。冗談か本気か「やめておけ。泥棒を捕らえてみれば我が子なり、ということもある」、と。そこでお母さんはニヤリと笑った。それからつれあいの実家では、留守の時にはちゃんと鍵をかけていくことになった。
実家のトイレを使うときには、ノブにかけられた紙の札をくるりと裏返すのを忘れてはいけない。彼女の姪っ子のSちゃんが制作したもので、表と裏にそれぞれ「入っています。入らないでください」「入っていません。入ってください」とマジックで書かれている。他にもハンガーでつくった団扇や、空き箱を利用したお父さんの薬入れなどの作品がある。
帰りのバス。10人乗りくらいのワゴン車。つれあいがバス停まで見送ってくれた。前の座席のおばさん二人が、つれあいの方を見て「○○ちゃんも、まだ若いねえ」などと話している。やおらこちらにふり向いて「お婿さんもいろいろマメなんだってねぇ」「赤ちゃんはまだ夜も泣くかい」と質問してくる。こちらは相手を知らないのに、相手はこちらを知っている。バスが走り出す。座席はほぼ満員で、私以外はみんな近所のお年寄りである。「年寄りばっかりで、病院行きのバスだよ」と前のおばさんが笑って言う。それからどこが痛いとかここが悪いとか、ひとしきり病気の話で車内が盛り上がる。
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