■日々是ゴム消し log2 もどる

 

 

 

 

 わが家の米は茨城に住む私の母親の知り合いの農家より送って頂いているのだが、いつも米といっしょに「野菜便り」なる手作りの瓦版を同封してくれて、それがなかなか面白い。今回は先に起きた東海村の臨界事故について、webにて拾ったという次のような投稿を載せていた。

 

 昨日の夕方から現地近辺に入り、先程交代して帰宅しました。某TV局の報道局に属している者です。

 今回の事故、かなりの報道管制が敷かれており、NHKすら大本営発表となっていますので、お気を付け下さい。漏れだした放射線量は、広島型原爆より遥かに大きい規模です。

 一時期は午前4時近辺にて臨界による爆発が起きる可能性もあるとの事で、記者陣は日立市待機となりました。(しかもヨード液を飲まされました)

 ご存知の様に民放では、ニュース・天気予報などの報道局枠に電力がスポンサーとして入り込んでおり、NHKに於いても審議委員会の理事は電力各社の社長クラスという状況にあり、現状では箝口令が引かれている情報も含め、数値を低く設定して公にして良い情報のみ報道されています。

 通常、現場にはヘリが出たりSNG中継車が出る物ですが、今回は全て待機し、現場の警戒線内に入ったり撮影をするなとのお達しが、局の上層部より出ております。被爆作業員の数値は8m/sgとの報道も出ていますが、実数は15m/sgとの話が現場記者間の情報として流れております。現状では、・!B影出来るように体裁をある程度整えてから、やっと代表取材カメラが入る雰囲気になっております。

 臨界が一応終息したとの発表にも関わらず、JRが未だに動いていない事でもお察し傾けるかと思いますが、実体は報道されている事態より数倍大きな事故でありますので、こんな職ながら敢えて言わせて頂くと、今回の場合は政府・自治体・マスコミを信じず、各自の責任に於いて防御される事をお勧め致します。

 ある関係者の言質によると、規模は報道の約8倍との事です。お気を付け下さい。(意味不明部分含め、そのまま転載)

 

 この文章についてはその後、ホームページも開いている当の農家の掲示板で、真偽や出所のはっきりしない内容は安易に転載するものではない、風評被害につながり農家自身が困ることになる、との意見が寄せられ問題になっているようであったが、私は確かにこういこともあり得るだろう、むしろこのくらいの危機意識を抱いた方が良いのだ、と思うのであえてここに転載した。

 まあ、「現実のSF」みたいな感覚で読んで頂けたらよいのでは。

 

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 世の中にはごく稀にだが、自分の寿命を差し出してでも長生きして貰いたい、と心底から願ってしまう人がいる。そんな考え方はおそらく不遜なのだろうが、私のやくざな20代において、仏教学者の中村元氏は数少ない、そんなひとりであった。

 

 交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

 

 この、氏が平明でしかも深い文体に訳された文庫版の原始仏典「スッタニパータ」は長年、私の座右の一冊であった。いまも、それは変わらないと思う。

 組織が嫌いで、孤独を愛した。いまもそうだ。「犀の角のようにただ独り歩め」 それが私の中のブッダの始まりのことばで、「諸々の事象は、過ぎ去っていくものである」という今際に弟子の一人に諭したことばが、結びであった。それだけで、世界の全てが事足りた。犀の角のように、と肩を怒らせ不様によろめき歩いてきたが、その同じことばが、いまはもっとしずかで底深い。

 氏は今月の上旬に亡くなられた。新聞で悲報に接し、ああ、そうか、と嘆息したが、今夜NHKのテレビで放映された追悼番組を見て、何か、得も言われぬ感慨が沸き上がって来た。おそらく私が、あのインドの片田舎の村で平原を色鮮やかな手長猿が駆け抜けていくのを眺めながら体中で感じていたようなもろもろのことが。私はブッダのシンプルなことばの響きが好きだったが、その横にはいつも氏が、あの柔和で淡々とした表情で佇んでいたのである。

 色褪せ古びた「スッタニパータ」を、もういちど読み返してみよう、と思う。

 

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 週刊プレイボーイ誌上で日本の核武装発言をした防衛政務次官が更迭された。このナニワのおっさんは、ご苦労にも中国との領土問題でもめている尖閣諸島に上陸して日の丸おっ立てて来た人でもあるのだが、私は「更迭」には大反対。むしろあれだけ正直にぺらぺらと喋ってくれたのだから、防衛庁の長官にでも昇進させてあげるべきである。以下、新聞に載っていたおっさんの発言を、コメントを添えていくつか引く。

 

 〈「大東亜共栄圏、八紘一宇を地球に広げる」や〉
素晴らしすぎて、言葉がない。

 〈攻撃的でない兵器ってなんだ? 水鉄砲かっちゅうねん〉
この「ちゅうねん」が可愛い。

 〈核とは「抑止力」なんですよ。強姦してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔になってるやん。けど、罰の抑止力があるからそうならない。〉
喩えと確信が凄い。「強姦してもなんにも罰せられん」と強姦魔に早変わりするのは、俺とお前と大久保清くらいだろ。

 「社会党がまたいつか来た道って言うんじゃないですか」と訊かれ〈まあ、アホですわ、あんなもん。何を言うとんねんと。〉 社会党がアホなのは分かってるけど、あんたも相当アホだわ。

 

 ちなみにうちで購読している某新聞は、早速社説で「責任を持つ立場にある者として見過ごせない発言」と宣っていたけど、いいんだよ、どんどん喋らせれば。あんたもカタイことばっか言ってないで、もうちょっと頭ひねってさ、プレイボーイや清志郎くんなんかを少しは見習ったらいかがでしょうか、朝日さん。

 

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 わが家は二人揃っての本好きで、特につれあいときたら「図書館と百貨店の中で暮らしたい」と日頃から言っているくらいだから、図書館も近隣の施設をハシゴして、県立を含めると計5枚もの利用カードを所有している。そのうちの三カ所は、ここ数年の間に出来たばかりのあたらしく広い図書館で、町外の者も利用ができ、また本以外にもCDやビデオも借りられるので、つれあいはいたくご満足である。

 自分のカードで足りないときは私のカードをこっそり持っていって、一度に何冊もの本を抱えて帰ってくる。後で私が知らずに本を借りようとすると、これはすでに限度数を借りられています、と言われ断られたときもあった。そんなに読めるものかと思うのだが、結構期限内にちゃんと読んでしまうのである。

 ところで最近の図書館は設備も近代化されて、たいていどこの館でも目録検索用のパソコンが置いてある。これは書名や著者名のほか、キーワードでも検索が出来て便利なものだが、しばしば親に連れられて暇を持て余した子供がゲーム機代わりにいじくっているので困る。

 先日もつれあいが、探しものがあって検索用のパソコンのところへ行くと、おそらく幼稚園前の鼻垂らしの小僧がすでにパソコンを占拠していた。訳も分からず、ただ画面のあちこちを未来永劫に触りまくっているのである。つれあいは黙ってその背後に立ち、じっと終わるのを待っていたのだが、しばらくすると小僧が振り向いて、「おばさんが見てるから、うまくできへん…」と宣ったという。つれあいは「あ、そう」と応えて、あっさり諦めたそうだ。

 私だったら、有無も言わず首根っこをつかんで、椅子から引きずりおろしたろう。

 しかしその小僧、どこか憎めない。

 

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 ちょうど一年前のいま頃、車で和歌山のつれあいの実家を訪ねるのに、紀ノ川から高野山を経由する山道を取った。里美村の川べりで持参の弁当を広げていたとき、近くの農家のお婆さんがこれを使ってくれ、と一枚のムシロを貸してくれたのである。食事を終えて、ムシロを返しにいくと、これも持っていかないか、と今度はお爺さんの方が柿を一袋くれ、車に戻ってからドライブ用のアメを少々彼女に持たせたところ、ひとしきり立ち話をしてから、またいくつかの農作物を抱えて戻ってきた。

 先日、やはり同じコースを辿る際、カステラの手みやげを持って、久しぶりにそのお宅に立ち寄ったのである。

 お爺さんは家の裏山で割木を採取しているところであった。お婆さんは親類の家に出かけているとかで留守だったが、二人で「来んなあ、来んなあ」と話していたという。今回もまた納屋に招き入れて、じゃがいもや小芋、山芋、そして手作りのコンニャクなどをどっさり持たせてくれた。6月と11月が収穫期だから、年に2回のその時期に訪ねて来い、と言う。

 そして昨年の台風で倒壊して新たに建て直したお宮さんの今日がお祭りだからと教えられ、立ち寄った。お宮さんは水の神様を祀る丹生神社であった。村人が集い、雅楽の奏にのって祝詞があげられ、若武者の人形と松の枝が屋根に据えられた御輿が二台、それに和太鼓のステージが設けられていた。御神酒とおでんが準備され、午後からは餅が投げられるという。

 以前に鮎の塩焼きを食べた社近くの村の共同売場で、他にも地場野菜をいくつか購入した。名前を失念したのだが、瓜に似たあまり町では見かけない野菜があり、店のおばさんが塩もみにするとおいしいという。そのわきでまた別のおじさんが、子供の頃からさんざ喰って来たがうまくも何ともない、そのまま鉢に植えて花を咲かせた方が綺麗だと横やりをいれるのだが、ともかく珍しいのでひとつ、買って帰った。

 ほかにもこの季節には、道筋の農家で柿が並べられる。町のスーパーでは一個100円以上しているが、ここでは10個くらいネットに入って200円の格安。どれも大きくてつやも良い。コンテひと箱で500円というのも見つけて買ってきた。色や形が悪いので売り物にならないものなのだが、味は変わらない。ひと箱で80個近くはあったろうか。一個、6円の勘定だ。

 手作りのコンニャクは翌日刺身コンニャクにしたのだが、もちもちとして最高に美味であった。町で売っているいつものコンニャクと、同じものとはとても思えない。山芋はまた別の時に摺ってとろろソバに使ったが、これもうまかった。名前を失念した瓜様の野菜は、つれあいの実家で貰ったキュウリと塩もみにして鰹節と醤油をかけて食べた。これもさくさくとした歯ごたえが実に良い。

 つれあいはいま、お爺さんの家に昨年同様、お礼のハガキを書いているところ。この次は奈良の地酒を手みやげに、訪ねたい。

 

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 先日、関東から私の老母と愚妹が来たので、つれあいと一緒に南紀の方を車で案内して回った。南紀-----特に熊野地方は私の庭である。これ以上のガイドはいない。初日は大台ヶ原の麓を抜けて、わが母方のルーツの地である、全国唯一の飛び地の村・北山村へ。夏になると筏流しで有名なこの村で、わが曾祖父は新宮へ材木を運ぶ筏師の頭をしていたという。また古くは村で大台の修験者の宿をしていたというから、ひょっとしたら山伏の血も交じっているかも知れない。夕刻には本宮大社を詣でて、渡瀬温泉に泊。

 二日目は故・中上健次の古里である新宮へ。火祭りの舞台でもある神倉神社の石段に汗を流し、速玉大社に隣接する佐藤春夫記念館で本人の朗読する秋刀魚の唄を聴き、目張り寿司と豚汁の昼食を食い、駅前の徐福公園で徐福茶なるものを買った。午後は熊野古道の最終である大門坂を経て、那智大社を経由、さらに有料のスカイラインで亡者の魂が集うという阿弥陀寺を訪ねた。母方の祖母の遺髪が収めてある境内の六角形の納骨堂は、寺の人の話では、素堀りの穴があって、そこですべてが土に還るのだという。この日は那智勝浦の、岬の突端に位置する眺望の良い国民休暇村へ泊。くじらの刺身を食い、露天の家族風呂でつれあいと二人、いちゃついた。

 最終の三日目は、早朝ひとり起き出して、暗い林の中をくぐり海岸壁へ出て、黒潮より昇る日の出をカメラに収める。ふたたび新宮・本宮を経て、みやげものに色目のない老母のため物産店にちょこちょこと立ち寄りながら、熊野川沿いを北上し、十津川・谷瀬の吊り橋を経由して、天川村を抜けて橿原市内へ。

 橿原の駅前で借りた愛しのスターレットは、私の華麗なハンドルさばきのお陰で、十津川の狭い山道で巨大な観光バスを避けた時のホイールのひっかき傷だけで無事帰還できた。三日間のガソリン代3.000円の低燃費は、まったくのところお見事。

 

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 MacのG3を除いては初めて、webでお買い物をしたのです。仲井戸麗市---   チャボのオフィシャル・サイトで、昔に出たエッセイ集を一冊、書店ではもう手に入りにくくなっているからという友人の忠告もあり、慌てて申し込みました。クレジットは危険そうなので、郵便局の振り込みで。数日後、届いた荷物にはチャボの切手風シールのおまけまで付いていて、なぜだか中学の頃に東京・九段下のビートルズ・ファン・クラブの催しに行って、ア・ハード・デイズ・ナイトのTシャツや下敷きやらを買ったのを思い出しました。

 そうそう、『だんだんわかった』というタイトルのついた、このチャボの本も実はビートルズのことがいっぱいで、以前に友人が書いた文章によると

  

 つまりそのビートルズというのは、あの四人組のことに限定されず、その時代のチャボを熱狂させたものすべてのことを言うのであります。高校への通い道、大勢の皆が歩く歩道と反対側の歩道を歩いていたということや、新宿の楽器屋のギターを見に行って、いつか手に入れてやるぞと心に思っていたことや、高価でそんなには買うことの出来なかったレコードを何とか安く手に入れようと頑張ったこととか、どのレコードを買おうか迷いに迷った挙げ句、ストーンズのレコードはどうせ誰か買うだろうからといってアニマルズのレコードにしたこととか、そんなことひっくるめてビートルズなのであって、そういうことが、とてもどうでもいいようなことばっかの青春が、実は僕にはとても共感してしまうのであります。

 

 いまいちばんお気に入りのキンクスのライブをかけながら、コタツにくるまって、今夜はひねもすチャボの本を読むのです。ではまた。

 

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 日曜の新聞に載っている猪瀬直樹の連載エッセイで、「戦後」の幼年時代の風景として、縁日の時に見た「白装束の傷痍軍人たち」の話を読み、自分自身の記憶をふと思い出した。小学校の低学年の頃に父親が会社の旅行で大阪の万博を見に行ったから、もはや「戦後」でもなかったろうが、私の幼年時代にも「彼ら」の姿は、まだあった。

 はじめて見たのは母親の手に連れられて。上野公園へ入る広い石段の下に、「彼ら」はいた。手製の募金箱を前に、3人ほどが並び、静かにアコーディオンを奏でていた。雑踏の中のミイラ男のような白装束と、賑々しい太い墨書の文字が、何か異様な雰囲気だった。母親に、あれはどういう人たちなのか、と訊くと、戦争で怪我をして働けなくなった人たちだ、と教えてくれた。

 小学校の高学年になる頃にも、「彼ら」はまだそこにいた。友達と上野の博物館などへ行ったときには必ず立ち寄った。幾らかの小銭をおずおずと箱に入れると、黙っておじぎをして、アコーディオンを弾いてくれた。ひとりのときにはしばらく立ち去らずに、近くの植え込みの縁に坐って、そのどこかもの悲しい音色にいつまでも耳を傾けていた。

 おそらく見せ物小屋を覗くような気分だったのだろう。どこでどんなふうに暮らしているのかと空想した。あれはニセモノだ、傷痍軍人を騙っているのだという話も後に聞いたが、そんなことはどうでもよかった。「彼ら」が本物であろうと偽者であろうと、平和な風景から突出した、その〈異形〉に惹かれたのだ。どこか秘密めいた、その匂いに。まるでハーメルンの笛吹き男に連れ去られた子供のように。

 いつ知れず、「彼ら」の姿は見えなくなった。私自身もじきに忘れてしまった。そして何年もしてから「彼ら」の代わりに、今度は出稼ぎに来たイラン人たちが上野の町に溢れかえった。「彼ら」が立ってアコーディオンを弾いていたその同じ場所に立って、道行く人に変造テレカを売りさばいていた。

 

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 ときおり気まぐれで、近所にあるキリスト教会の聖書研究会なる集いに出かける。私はクリスチャンではないし、信仰も持たない。ただ聖書は、やはり何といっても人間の精神遍歴のいまだ興味深いテキストである。興味があるのは信仰ではなく、人の心の働きだ。

 しばらくサボっていたら、旧約の出エジプト記が始まっていた。モーセが青年の頃、厳しい労役につかされている同胞が支配者のエジプト人に鞭打たれているのを見て、人気のないところでこのエジプト人を殺して砂の中に隠す。だがこの殺人がばれて、モーセは自らの地位を剥奪され、追われる羽目になる。

 牧師氏による解釈は以下のごとく。モーセは奴隷のように扱われている同胞を救いたいという使命感からエジプト人を殺したのだが、神はこれを戒め、モーセに苦難を与えた。何故か。それは若きモーセの「使命感」が、かれの「自我」から発生したものであって、「神の意志」から発生したものではなかったから。なぜなら、人間の自我から生まれた意志は変化していく環境や感情に流されるが、神によって招ぎ寄せられた意志は「確かな信仰によって堅く立ち続ける」ものであるから。モーセは我をうち砕かれた。

 知り合いのある老牧師が、「人は人間を超えた存在を知らなくてはならない」と言った言葉が忘れられない。逆説的なようだが、人間の意志が、自らの固有のものであるという意識が、人に地球の生態系を破壊させ、多くの生命を奪わせてきたのではないだろうか。ときおり、そんなふうに思う。キリスト教の「神」という言葉に抵抗があるなら、たとえばインディアンやアイヌのような先住民たちが、自然や動物の魂を敬うことを通じて自らの存在を超えた大地の意志を感じ取り、それらと調和して暮らしてきた風景に重ね合わせてみれば合点もいく。ただ現在では、この「自我を超えた存在」が見つけにくく、たとえ見つけたとしても、まやかしの新興宗教であったり神秘の健康食品の類であったりするから、質が悪い。

 三千メートル近い高山の頂きにひとり立つようなとき、目の前に広がる雄大な自然の造形に思わず息を呑む。とてもこいつには敵わない、といった、人間というちっぽけな存在をひしひしと感じるような、臓腑を裏返して飛ばされたような、言葉では言い尽くせない人智を超えた圧倒感。それもまたある種の「神」ではないだろうか。そんなリアルな「神」を探している。怠惰な魂がそれらに嬲られたがっている。それはテレビのブラウン管の中にはない、インターネットの中にもない、学校にも図書館にも映画館にもない。

  

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 先日NHKのテレビで見た脳に関する番組は面白かった。南シンボーと解剖学者である養老孟司氏の組み合わせもオツなもの。

 脳はループのようなもの、と言う。input と output がなければ、何の役にも立たない。当たり前のことのようだが、実は私たちは案外、脳を上意下達の独立した中心器官と勘違いしていることが多い。デスクワークが脳を使うハイソサエティな仕事というのは大いなる誤りで、身体器官を駆使する肉体労働の方が、実は脳と刺激的な情報のやりとりしているのだ。東大の先生より、道路工事のおっちゃんの方が脳を使っていることになる。

 人の脳は大脳の他に、中脳や小脳といった進化のなごりの古い脳を抱えていることはよく知られている。ユングのいう集団的無意識とは、おそらくその古い脳の存在をいうのだろうと単純に思っているのだが、古い脳はいまだ人間様の生活に重要な役割を果たしているし、また逆にそれ故に大脳との連携プレイがなければ立ちゆかない。つまりどれもが〈関係性〉なんだな。単独で存在し得るものはひとつもないし、単独を切り離して調べてみても本当のことは何も分からない。それは脳や身体器官に限らず、人同士の関係や自然に対する関係もみんなそうなのだろうと思う。だから私は、パーツをばらばらにしてロボットのように組み立てる、最近のアメリカ映画によく感じる悪しき物質主義の価値観には大反対だ。人間は神じゃないんだよ。宇宙や自然や生命といった無数の〈関係性〉の中で生かされている、つましいシミのような存在に過ぎない。

 ある日本の女の子が、病気で産まれたときから中脳を破壊されていた。でも彼女は、本来中脳が果たす役割を、大脳にかたがわりさせて使っていた。中脳は赤ちゃんのハイハイから始まる、諸々の身体活動に極めて重要な役割を果たしている。養老氏がまだ学生の時、ひとつの脳の標本を教授に示され、この人は生前どんな職業についていたか分かるかね、と質された。その脳は中脳に明らかな障害を持っていた。教授の答えは、踊りの師匠、だった。その話をついで養老氏は言う。本来中脳という原始的な脳が司る部分が破壊されているために基本的な動作は不得手だが、それを大脳によってかたがわりさせているために踊りのような高度な動作においては、逆に「健常な人」が出来ないような技ができるのかも知れない、と。一般にいう「障害者」の未知の可能性あるいは別の環境、また人間にまだ生物学的な進化というものがこの先もあるのだとしたら、そのように古い脳を大脳に移し替えいてって透明な意識だけの存在になるのかも知れないなぞとSFめいた空想が一瞬頭をよぎったが、私の麩のような脳味噌ではとてもそれ以上の思考はおぼつかない。

 まだ若かりし青年の頃、ある脳科学の専門書の中で、宇宙の塵の中から生命が発生し意識が生まれた、その意識が今度は宇宙を認識している、宇宙が自分自身を認識しているのだ、という一文を読んで、衝撃と何とも甘美な陶酔感に吸い寄せられた。

 最後に養老氏いわく。「脳が脳について考えているのだから、脳のことは考えれば考えるほど分からない」

   

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 大阪・環状線の某駅からつれあいが通う勤め先までの途中に、部落解放運動の先駆けとなった水平社発祥の地の記念碑が建っているちいさな公園がある。その公園の前をつれあいは毎朝歩くのだが、昨今の世情に漏れず、公園内には常時いく人かの浮浪者たちが野宿をしている。つれあいによれると、人の入れ替わりが頻繁なようで、顔ぶれが短期間で変わってしまうらしい。

 先日の朝もつれあいが公園に通りかかると、オッサンたちが鍋で白菜を炊き、二本のワンカップ酒を三人で仲良く分け合って飲んでいた。いつものように「お早うございます」と挨拶を交わし「これから宴会ですか。愉しそうですね」とつれあいが言ったところから、公園の柵を隔ててしばし立ち話となった。

 するとオッサンのひとりが突然「お姉さん、べっぴんさんやなあ。ちょっと握手したってや」と言い出して柵を越えてこちらへ出てきて、服の裾でごしごしと手を拭いてから差し出したので、つれあいも握手をしたという。残りの二人も「おれも、おれも」と続き、同じように服の裾で懸命に手を拭い、そのうちの一人は調子に乗って彼女の手の甲にキスまでしたというから、話を聞いていた私はちょっと顔を曇らせた。

 しかしつれあいは、日本でそんな挨拶をしてくれる男性は滅多にいない、まるでどこかヨーロッパのお姫様になったような気分だったわ、と無邪気に喜んでいた。やれやれ。

  

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 20代の頃にはじめてインドを旅したとき、デリーの北にある郊外の村にしばらく滞在したことがあった。そこはあの聖なるガンジス河の上流に位置して、たくさんのアシュラム(寺院)が建ち並ぶ聖地だった。あるとき、そんなアシュラムのひとつへ至る石段の途中で、ひとりの年老いた修行僧と出くわした。かれは鋭い眼光で私の目をまっすぐと見据え、それからふいと、何事もなかったように立ち去っていった。ほんの一瞬のことだが、私はその老人に自分のすべて-----中身のないからっぽな自分-----を見抜かれてしまったように感じ、ひどく惨めな気持ちになった。そして、あのような眼光というものはほんとうに在るのだ、と思った。

 その村は、実はかつてビートルズのメンバーも訪れた場所でもあった。フラワー・ムーブメントが花開き、物質主義に限界を感じた欧米の若者たちが、こぞって東洋の智を目指した。ギンズバークやゲーリー・スナイダーといったアメリカの詩人たちも、インドや日本の禅寺で瞑想をしたり座禅を組んだりしていた。しかしいまや、東洋の智などというと、この国ではひどくうさんくさいものの代名詞に変わってしまったようだ。あのオウムの事件以来はとくに。

 最近、成田空港近くのホテルの一室で、ミイラ化した男性の遺体が発見されるという事件があった。新聞の記事程度の情報しか見ていないのだが、何でも「インド哲学を実践する会」とかいう団体がその男性の家族も巻き込んで、そのミイラ化した遺体に対して蘇生を図る「治療」を施していたという。

 私ははじめてそのニュースを聴いたとき、蘇生うんぬんはともかく、現代の九相死絵のようなものだな、と感じた。九相死絵というのは、中世の頃に描かれた、人の死体が腐っていく様をリアルに描写した絵巻物である。男性の死体は腐らずにミイラ化してしまったわけだが、この世紀末日本のホテルの閉ざされた一室で、かられは精神的な意味での九相死絵を体験していたのだ、となぜかそう思った。

 そしてそれらの事件を、あたかも「健全な」常識から隔絶した猟奇事件のように騒ぎ立て、コメントするテレビ・タレント(あえてアナウンサーやキャスター、コメンテーターなぞとは呼ばない。タレントだ、あんなのは)の発言を聴くたびに、毎度のことだが、脳神経が見事に切断されたその相も変わらぬ低脳さに腹が立つ。分かってないね。あれらは、抗菌グッズやお洒落なキッチン・ルームなどといったものの裏側に、死や死体を汚物として隠蔽し処理してしまうこの現代社会の反動のようなものじゃないか。オウムの事件も、みんなそうだ。俺たちがふだん見て見ぬふりをして誤魔化してきたものたちが、復讐をしているんじゃないか。かれらはみんな裏返しのようなものだ。その根っこは、間抜けな俺やあんたたちの心の闇としっかりつながっているんだよ。

 ところで、あのアシュラムの石段で受けたショックから、私は日本に帰ってからもしばらく立ち直れないでいた。いまもそうかも知れない。おまえはいったい何者だ、何のために生きているのか、とあの鋭い眼光は問いつめる。その視線の奥には、死を見すえてきたしなやかで強靱な精神が、確かに宿っていたと思う。

 

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 人を殺したことはないが、人を殺した夢なら何度も見た。

 戦場のような光景の中で銃を持っての撃ち合いなどはよくある夢で、ときには自分が殺してバラバラにした死体の入った樽が発見される恐怖に大粒の冷や汗をかき、またときには知り合いの幼い子供を惨殺したり、自分が大切に思っている人間を誤って撃ち殺して、拭いようもない後悔と氷のように重く貼りついた絶望を感じながら、両手を括られて連行されて行くのだった。ある夢では、処刑の際に黒い布が顔にかぶせられ、立ち会っていた母親が、あまりに哀れだからそれだけはやめてくれないだろうか、と執行人に泣いて頼んだ。

 数年前に、「たった三枚の銀貨で」という題の言葉の書き殴り(詩、とはあえて言うまい)をノートに記した。それは新約聖書でイエスを裏切ったユダのことを書いたもので、いつもながらの酔っ払いの駄作だが、その中のある短い一節だけは、いまでも我ながらちょっと気に入っている。それはこんなものだ。

 

確かなものは欲望だけだという
が、いまではひとは
自分の欲望が何であるかすら知り得ない
人を殺したいという欲望があるなら
それは死にかけた抜殻よりはマシなのだ

 

 もうひとつ付け加えるならば、かのディランが若き頃にこんな風に適切に表現している。

 

もし おれの思想夢が見られたら
きっとおれの頭はギロチン行きだ

 

 クローン羊を生み出そうが、コンピューター・グラフッィクの水槽の中を人工生命の魚が優雅に泳ぎ回ろうが、ひとの心の闇の深さはかくのごとし。何にしろ、始めるのはここからだよ。

 

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 確か二週間ほど前に見たテレビで、詳細な部分はザルのような脳味噌からこぼれてしまったが、古典芸能の能と脳に関する番組をNHKでやっていて、とても興味深く見た。脳というよりは、呼吸、そして日本の「腹の文化」についてであった。

 腹を据える、腹を割って話す、腹の虫が悪い、腹に収める、腹を合わせる、というように古くより日本人は頭よりも腹に意識の重点を置いてきたという、ある外国人の著作が紹介される。そして初老の男性と中高生くらいの少年に測定器を付けて深呼吸をしてもらう。戦前に生まれた世代の男性は腹式呼吸だが、現代の少年は深呼吸をしても腹に息が届かない。「腹の文化」が失われつつあるのだった。

 そして興味深いことに、この腹を伴った深い呼吸をすることによって、ある種のタンパク質が脳の中に生成される。そのタンパク質は精神的な意味合いでは、自己以外の「他」を受け容れるような働きを脳内でするという。つまりこの物質の生成が少ないと、自己以外のものに対する寛容性を失い、「キレる」。

 実際にネズミを使った実験が紹介された。一匹のネズミの脳にこの物質を注入して、別の一匹を同じカゴの中に放してもほとんど気にも留めない。しかし同じネズミの脳から今度はこの物質を削除してしまうと、たちまち別の一匹に食らいつき凶暴に攻撃し始める。まるで、ジキルとハイドだ。

 ところで前述のテストでは、少年にかれの好きだというポケット・ゲームを測定器を就けてやって貰った。ゲームに夢中になっているときの少年の呼吸は、平常のものよりもさらに浅い呼吸の状態であった。こうした、「深い呼吸」をしなくなった若者たちが確実に増えてきていると、レポートは告げていた。

 実に空恐ろしい話に思えた。

 

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 ふだん、ニュース以外はテレビをあまり見ない。個人的にはNHKの特集番組と映画くらいだろうか。ドラマやバラエティの類は大嫌いで、特に民放のドラマは演出があまりにも程度が低いので見る気がしない。基本的には、テレビなどなくても構わないと思っている。チャンネルを次から次へとだらだらと流して見るのも嫌いで、つれあいがそんな見方をしているとたまに、「テレビばっかり見ていると馬鹿になるぞ」と消してしまうこともある。相当嫌な奴に違いない。

 であるから特別、毎週これだけは欠かさずに見ている、という番組もないのだが、あえてあげるとすると毎週月曜に放送しているNHKの「生きもの・地球紀行」だろうか。これは昔から唯一、まめに見ている番組だ。いつも撮影や取材に費やした月日を想像して、感心してしまう。非常に贅沢で丁寧なつくりの番組なのである。

 何よりこうしたさまざまな生物の姿を見ていると、ひととき人間という重たい原罪を忘れて、心が洗われるような気持ちになる。「利己的な遺伝子」などという科学書が一時はやったけれど、鳥や昆虫たちの「利己」など、人間のそれに比べたら可愛いくらいなものだ。第一かれらのの「利己」は、人間のように地球を破壊したり、他の生物を大規模に絶滅させてしまったりは決してしない。

 またかれらの姿を見ていると、神が地上の生物を創造したなどという聖書の記述が、何と傲慢なものなのだろうと思ってしまう。環境にやさしいとか、地球にやさしいなどという安易なキャッチ・コピーも同じく。人間が自然あるいは宇宙に対して何かを「してやる」という姿勢からして傲慢なのだ。人間が「されている」ことの方がよっぽど多い。欧米の自然保護の考えも、実は底辺にそうした「人間主体」の思想が相変わらずがっしりと横たわっている。

 「神が創造した」のでなく、もっと何か精妙でこわれやすい宇宙の卵のようなものから、ゆりかごを揺らすように、無数の偶発的な要素とやわらかな織り糸とが重なり紡ぎ合わされ、さまざまな色や形がまるで曼陀羅の種子のように発生して広がり拡散していった。私には、何やらそんなふうに感じられる。

 ところで先日の新聞に、シベリアの永久凍土からマンモスの死体が一頭まるごと発掘されたという記事が載っていた。日本の宮崎にある「マンモス復活協会」なる研究者チームが、このマンモス君の精巣のDNAを利用して、クローン・マンモスを作る計画をすすめている。まるであの「ジェラシック・パーク」の映画の如しだ。

 だがマンモスというのは、進化の途上で滅んだ生物である。可哀想だけど、それがかれらの宿命だったのだ。そうして滅亡していった生物があるからこそ、生き延びて進化を続けた生物たちが在る。別な言い方をするなら、生命の発生という大きなイノチの流れの中で、役割を終えて退場していったものたちだ。そのかれらを、人間の興味とか研究とかまあ何でもいいけどそんなもので、また舞台裏から引っぱり出してくるというのは、実に傲慢ではないか。種の保存などと言ったら、さらに傲慢極まる話だ。人間はいったい何様気取りなのか。

 マンモスを復活させるなら、代わりに人間を滅ぼしてからやりなよ、と私は間抜けな研究者たちに言いたい。

 

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 いっしょに暮らしていた祖父が死んだのは、小学生の中学年くらいであったか。まだ夜も明けきらない深夜に、家中がどたどたと騒々しかったのを夢うつつに気づいていたがそのまま眠り続け、翌朝目が覚めたら、すでに祖父は布団の中で死化粧を施されていた。消防署を定年まで勤めた後は祖母と二人で小さな駄菓子屋を営んでいた。私にとっては寡黙で、いつもニコニコしている、優しい祖父であった。長く苦しみもせず、寝たきりにもならず、一夜のうちにアッと逝ってしまったのが良かったように思う。

 それから通夜・葬式をわが家で済ませ、火葬場へ行って祖父は骨になったのだが、この火葬場というのが私にはひどく印象に残ったらしい。確か向島までは行かない堀切や青砥のあたりだと思ったが、車で辿った道を覚えていて、後日にひとり自転車で何度か行ってみた。行って何をするわけでもない。ただ火葬場の門から中を覗き込んだり、煙突から立ち上る煙を眺めたりして、それからその周囲の見知らぬ路地を日が暮れるまであちこち「探検」して家に帰るのである。

 いまにして思えば相当奇妙な子供であったが、初めて見た「人を燃やして骨にしてしまう場所」というのが、幼い私にとってはとても特別で不思議な空間であり、その不思議な空間を抱き持っている見知らぬ街そのものが、何やら「死」という非日常の感触を隠し持っている、あるいは黴のように染みついているような、そんな心持ちがしたのだろう。小学生の私が経巡る四国霊場であったのかも知れない。とにかく祖父の死は幼い私の心にはじめて「死」という概念を植えつけ、火葬場通いはそれへの接近の儀式であり、「死」は街中の至るところに潜んでいた。

 東京というのは東西南北どちらへ向かっても、途切れることがない。増殖する細胞の果てしない広がりのようで、私は自転車でそうした見知らぬ路地に迷い込むのが好きだった。澱んだ用水路の上に張り出すように建っている古い家屋や、夕暮れの学校脇の暗く怖ろしい通学路、植物に浸食されたような怪しげな洋館や、病院の裏口のコンクリートのシミ、そして生き物のように入り組んだ路地という路地。当時愛読していた江戸川乱歩の本に出てくる、怪人二十面相のアジトや、フランケンシュタインのような大男が潜んでいる暗闇や、小林少年が幽閉され伝書鳩を放った地下室の小窓が、あちこちに存在していた。都市という空間から滲み出してくる、あらゆる異物の芳香とうめき声が。それらは大抵仄かな「死の影」を纏っていたように思う。小学生の私は、それらを呼吸しながら走りまわっていた。

 最近刊行された荒木経惟の東京の下町を撮った写真集をめくりながら、ふと、そんなことを思った。

 

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 つれあいが通勤している帰りの電車の中で、殺人事件が起きたのだった。いや、正確に言うと、混雑した車内で唐突に殺人が告発されたのだった。恐るべき殺人犯は吊革にぶら下がった青年で、その前に立っている大柄な初老の女が「お前はわたしの亭主を殺しただろ」と険しい声で告げたのである。視線をそらして思わずニヤついた青年に浴びせられた次の言葉はさらに凄い。「ナニ笑ってんだよ。お前はわたしの亭主を殺して、そして肉を喰ったんだ。そうだろ?」

 実はこのおばさん、どこか精神を病んでいる人物のようで、幸か不幸かわが家と同じ町の住人で、つまりつれあいは勤めの朝や帰りに時折ホームや車内で顔を合わすのだそうである。つれあいも殺人犯にはならなかったものの、ある朝急いでホームへの階段を駆け昇ったところ、この階段口に立っていたおばさんと目が合ってしまい、いきなり「何だ、そんな真っ白な服を着て。お前は看護婦か」とヤラレたそうで、以後は視線を合わさないように、近くへ寄らないように気をつけているのだという。

 「そこはやっぱり関西なんだから、“いや、喰うたことは喰うたけどな、おばはん。これがえろうまずい肉で、味付けにごっつう難儀しましたわ”くらいの突っ込みを入れなくちゃ...」と私は意見したのであるが、いやはや電車通勤も大変だ。

 しかし、当然の如く周囲の人間はみな一様に無視と無関心を装っているようで、当然といえば当然でそれも致し方ないのだけれど、ひと昔前だったら、たとえば映画の中のハナ肇のような気のいい人物が「おばちゃん、あんたの亭主は昨日パチンコ屋で見かけたよ」なんて割り込んできて、トンチンカンなやり取りでその場の雰囲気をやわらげてしまうことも、ひょっとしたらあったかも知れない。あるいはもっと時代をさかのぼったら、きっとおキツネ様が取り憑いたんだ、と揚げの一枚でも供えて拝んでくれたかも知れない。

 精神病者という存在も、ある意味では日常から忌避され差別を受け隠蔽される対象としての〈異物〉である。そのような〈異物〉との接し方によって、文化の成熟度が測れるし、また接し方が変われば、その次に立ち現れる風景も自ずと変わってくる。その点に関して言うなら私は、恐怖と無関心という装いにおいて見慣れぬ〈異物〉を排除してしまう現代よりも、たとえ迷信や非合理、そして時には残酷といった皮をかぶっていたとしても何らかの形で、〈異物〉との通路が開かれていた前近代の方が、文化の成熟度としては豊かで懐深いものを感じる。

 そして、そうした現代の冷徹な無関心こそが、都市の路上に無数の通り魔を果てしなく分泌し続けていく底暗い源なのだと思っている。                                           

 

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 つれあいと二人で邦画を二作続けて見た。

 方や図書館で借りてきた山田洋次監督作の「学校。」。今回は会社をリストラされた高齢者たちの技術専門学校が舞台で、主演の大竹しのぶと小林稔侍が良い味を出していた。つれあいいわく、テレビのドラマも若者ばっかりでなく、こんな渋い大人の恋愛を描いた話をやればいいのに、と。

 山田洋次の「故郷」や「家族」は私のフェイバリットで、ダサイと言われようが私の根っこに確かな土の養分を送り続けている。国民的〈異物〉たるアウト・サイダー物語の「寅さんシリーズ」が終わってしまったのは残念だが、山田洋次にとってはまた新しい転換期となり得たのではないか。

 途中、電車の事故で遅れた講師の場つなぎに、さだまさし演じる事務職員が教壇で漫談よろしく笑いをとるシーンがあるが、寅さんこと渥美清がいたらあの場面、得意の味のある話術でもっと決めてくれたことだろうに、と思うと少々淋しくも思った。いかせんさだまさしでは、存在感が軽すぎる。

 もう一作は、その後深夜テレビで偶然放送していた、役所広司と萩原聖人が共演する黒沢清監督作のカルト・サスペンスの「CURE」だが、これがわりと面白かった。狂った医大生による催眠暗示を利用した巧妙な殺人ゲームの話だが、ストーリーや来歴よりも人の深層を少しづつ逆撫でしていくような、あえかで鋭い感触はやはり時代の反応だろうか。

 誰もが狂気を隠し持っているというごく真っ当な主題だが、動機なきゲーム感覚の秘められたストーリーと、舞台のセットのような抽象的な映像がなかなかうまく機能していたように思う。影響を受けやすいつれあいなどは、胃が痛くなったと言って早々に布団にもぐり込んでしまった。

   

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 東京に生まれ育った私には、イナカというものがない。父方の祖先は福島だが、遠い本家など一度も会ったことのない見知らぬ人々だし、和歌山の隠里のような山中にある母方のイナカも、親類筋はみな新宮や和歌山市などの都市部に出てしまっていまでは誰も住まない。里帰りと称して海や山や川のある風景で夏休みを過ごすような友人たちや映画や小説の場面に触れては、いつも羨ましいと思っていた。イナカは、かねてより憧れであった。

 そんな根無し草の私に、待望のイナカが出来たのは結婚によってであった。結婚後はじめての今年の正月を、大晦日からつれあいの実家である和歌山で過ごした。入り江に面した坂の多い鄙びた集落である。町史によると、千葉の鎌倉武士が流れ着いて定住したのが起源ともいう。紀伊水道のトバ口として栄え、終戦時には米軍が上陸した。

 大晦日の晩にはつれあいやその母と姪っ子たちで近所の寺へ鐘を突きに行き、年が明けてからは、新鮮な刺身やカニや鯛の丸焼きを毎日のように食し、早朝に大漁旗を揚げた漁船の休む小さな港へ写真を撮りに行ったり、ミカン畑から裏手の海岸へ続く小径を散策したり、村の社寺を訪ね歩いたり、あるいは車でつれあいと二人、隣村の丘陵に眠る古墳の石室を覗きに行ったり、夜には対岸のマリーナ・シティなる観覧車の回るテーマ・パークまでドライブに行ったりした。

 元旦の日の午後、つれあいの妹さんの家族がご主人の実家へ挨拶に行くというので、こちらはつれあいの両親を誘って車で初詣に行くことにした。醤油発祥の町として有名な湯浅の海沿いにある施無畏寺である。人気のない山腹の本堂を参ってから、裏手の山道をひとしきり登り、鎌倉時代の僧・明恵がひとり修行をしたという山頂の岩盤の上に立った。湯浅の町並みと小島の浮かぶおだやかな海が足元に広がっていた。若き頃の明恵はここで、何故か自らの片耳を裂いた。

 明恵という僧は、不思議な人である。生涯に夢の記録を残し、島の桜の木に宛てて手紙をしたためたりした。ある時、堂の中で座禅を組んでいて突然弟子に、外の軒下で鶏の雛を蛇が狙っているから見てくるように、と言いつけた。弟子が行くと果たしてそのとおりで、すんでの所で蛇を追い払った、とある。彼はイノセントな仏弟子で、終生ブッダを慕い続け、俗世から離れて修行にいそしんだ。その透徹な精神は〈個〉という殻を超えて、〈他〉の生命にまで拡散していたのだろうか。

 縄文時代は一万年を優に超す歴史を有している。二千年のミレニアムなど、ちっぽけでしゃらくさい。だが西欧文明のひとつの節目として見るなら、少しは意味のあることかも知れない。グローバル化などと叫ばれているが、何のことはない。経済という欲望の怪物が、夢も理想も喰い潰して廃墟の地にさびしく蠢いているだけだ。貧相な均質化と共に、肥大した自己愛が国や民族といった仮面を付けて路地裏で通り魔へと変貌する。

 コロンブスが初めて上陸した南の島の先住民は武器というものを知らず、彼が剣を渡すと刃の方を持って、手を切ってしまった。「彼らは利口なよい使用人となるに違いない」とコロンブスが記したその住民たちは、奴隷として酷使されたり天然痘などで絶滅してしまった。西欧の「文明」の歴史には、かれらのように名もなく滅んでいった「弱者」への理解も痛みの感覚も欠如している。グローバル化とは要するに、弱肉強食のことなのだ。

 だがそのような価値観に支えられていない、別の形のグローバル化というものが、もしかしたらどこかにあるのかも知れない。欲望や排他性ではない別の何かが循環して機能するような、多様性に満ちた別のゆるやかで豊饒なシステムが。それはおそらく大上段に振りかざしたような身振りでも、厳格なイズムのようなものでもなく、きっと明恵が軒下の鶏の雛の生命を照射し危ぶんだような、そんなやわらかな感性に支えられた新しい〈個〉の在りようなのかも知れない。

 山頂の岩盤を後に、寺の本堂あたりまでゆるゆると下ってくると、折しも湯浅湾に浮かぶ明恵の愛した苅藻島のその中央の窪みに、熟れた果実のような夕日がまさに沈まんとしているところだった。三脚を据えて写真を撮っていた地元の人が、毎日のようにここにカメラを持って来るが、これだけ見事な夕日も珍しい、と息を弾ませて話してくれた。

 

*

 

 東京の友人より新年早々、こんなメールが届いた。

 

 2000年ですな。世間は浮かれているようでしたが、特に何の感慨もありません。でもまだ20世紀なんだよな。21世紀は来年からなんだけどやっぱり大騒ぎするのでしょうか。

 そんなことより、藤原新也の「沈思彷徨」を読んでたら、なんか自分がずーっと思ってて、でも言葉にできなかった思いを一応それなりに言ってくれたようで、少しはすーっとしたけど、日本はますます悪くなって行くんじゃないかって、改めて考えてしまって、なんか暗い気分になってしまった。どうしてくれる。

 もちろん、個人の生活が一番大事なのはよく分かっているけど、そういうことを強く主張する人たちが、自分で自分の首を絞めているようなことをしているように思えて仕方が無い。

 他の先進国といわれる国々も病んでいるが、日本のそれは特に深刻だ。戦後この国には信仰心が薄れた。だから規範というか、たがが外れた状態になっている。もう、なんでもありという感じになっている。是非はともかく一応キリスト教があるアメリカはそういう意味じゃまだ規範が残っているのではないか。

 日本で昨今起きている殺伐とした事件はちっとも驚かない。ありゃ必然だ。起こるべくして起こってる。それをどいつもこいつも同じように「信じられません!」とか言ってて、俺は「馬鹿じゃねえか!」ってまた怒らなくてはならない。

 うちの課長は大学生の娘に月5万円の小遣いをやってる、とこないだ飲み会の席で俺に言ったから、そりゃやり過ぎだ、と言ってやった。パソコンも買ってやったらしい。海外旅行代も出してる。俺はあきれた。

 聞いた話では、ある親(実は小学校の教頭)は中学生の娘のために、GLAYのコンサートチケットを10万円で買ったそうだ。別の親は娘が劇団四季に入りたいらしいので6万円するシューズを買ってやったそうだ。

 そういう時代なのだね。

 今の若い子が良くないのは、絶対親のせいだという僕の自論がなんか確信もてた気がする。

 俺の知らない間にずいぶん世間も変ってしまったらしい。こうなると豊かさも毒だな。あの貧しい子供時代が懐かしい。あの時は物質的な意味だけでなく、ちょっとしたことが嬉しかった。今は物質的なものでも満足しなくなっている。だから平気で人を傷つけ、自分も傷つける。

 まあ、うだうだ言ってすまんが、今年は腐った世間に積極的に唾を吐きかけるつもりだ。そろそろやらなきゃな。

 

 年末に「2000年の対話」とか題したNHKの番組で、アニメ作家の宮崎駿とまだ若干25歳の複雑系学者と称す青年の対談を見た。あのトトロのおっさんは、なかなか良いですな。いまは大人自身が「生きるとは」「幸福とは」という本物の問いに答えることが出来なくなっていて、「とりあえず」勉強しろとか「とりあえず」大学へ行けとか言うのだが、子供の方はそれが嘘だというのをちゃんと見抜いている。

 それから、こんなことも言っていた。何も常に目的とか、進歩とか、社会をよりよくするために、なんてしゃかりきになったり考えたりしないで、そうだ、祭でもやろうか、とふとした思いつきでみんなでわーっと盛り上がって熱中して、終わってからは「ああ、あの祭は楽しかったな」なんて言いながら、半年くらい今度は何にもしないでぼーっとしている(^^) そんなふうでも、いいんじゃないか、と。

 ぼくらが子供の時代には、まだ「貧しい」という言葉のかけらが残っていたように思う。ヨーヨーが流行ったときも、ブランドもののちょっと高級なヨーヨーが買えずに、安物で我慢していた。ぼくもそうだった。新しいオモチャが出るとすぐに買って貰っていた家もあったし、遠足のときにお下がりのボロいリュックを恥ずかしそうに担いでいる子もいた。恵まれた家庭の子もいたし、母子寮に入っている子もいた。そんな、いろんな形があっていいのだということを、ぼくらは学んでいたはずだ。そして他人の「痛み」についても。

 貧しかったけど、もっと貧しい家もあったはずだし、ぼくの家などは、まあ中位だったろう。とにかく、お金がすべてではなかった。ビートルズが「Can't Buy Me Love」を歌うのを聴いていたし、お金なんかなくても、楽しい遊びはたくさん見つけられた。一時期塾へも行ったが、勉強というよりも、塾の帰りにやる「あっかん探偵」がメインだった。草ぼうぼうの原っぱに、捨てられたソファーと、そのへんの石ころや、木の枝なんかがあれば、いろんな空想が湧いてきた。

 オバンドーくん、都庁なんか辞めて、またバンド組んでドサ回りしましょうよ。

 

*

 

 新聞の勧誘や物売り、宗教の押し売りといった類には、ほとほと手を焼く。ドアの隙間から、有無を言わさず「結構です」と言って閉めてしまえばいいのだろうが、性格的にどうもそれが出来ない。目の前に存在する人を、こちらから一方的に断ち切るということに心理的なためらいがあるのである。まして、それが気のよさそうなセールスのおっちゃんやおばちゃんだと(若い女性なら別の意味で?)、この人たちも仕事で頑張っているのだから... と思うとなおさら邪険に追い払えない。

 いまのつれあいと一緒になる前に住んでいたアパートでは、随筆で読んだ内田百聞を真似て、いま少々うろ覚えなのだが

 

世の中に人の来るこそうるさけれ とはいうもののお前ではなし

魯山人

世の中に人の来るこそうれしけれ とはいうもののお前ではなし

百聞

 

 そのような二首を玄関に張り出してひとり悦に入っていたのだが、なかには「これ、どんな意味なんですか」と扉を叩く無粋なセールスマンも結構いて、とうとうはがしてしまった。ほかにも百聞の表札にはいろいろあるのだが、「日没閉門」はわが家に門もなく、セールスが来るのはたいてい日曜の昼間だし、「面会謝絶」を掲げたら宅配便などで来た人がとまどうだろう。躁鬱病で知られるどくとるマンボウこと北杜夫氏は「当家の主人、ただいま発狂中」の札を出していたそうだが、それでは隣近所が不気味がるに相違ない。

 結局のところ、ちゃんと相手の話も聞き、こちらの状況を説明して納得してもらった上でお帰りになってもらっているのだが、これも相当に根気がいる。新聞の勧誘の場合には、なぜいまの新聞を自分が取り続けているかの理由、そして景品などのサービスは要らない、ということをキチンと説明する。時間もかかるし、疲れる。ほとんどこちらとしては、闖入してきた強盗やハイジャック犯を懸命に説得するような心持ちである。

 というわけで、今朝も「エホバの証人」の恰幅の良い紳士に寝ぼけ眼のところを呼び出され、一時間ほど実のないギ論を交わした。かれらは定期的に違った顔ぶれでやって来るが、私の言うのはいつも次の三点。多くの宗教の「唯一無二の神の存在」という教義が宗教間の争いを引き起こしていること。同じことだが、自分たちの信仰だけが正しいという独善的な考え方は嫌いであること。信仰を広めるのは勝手だが、いかなる組織・団体も自分には必要でないこと。そして彼らが聖書の間違った引用や、他宗教(特に仏教)への浅はかな批判をすれば、ことごとくそれを指摘し論破する。我ながら、アホ相手によくこれだけ真摯に対応しているものだと呆れてしまうのだが、まあ、そのうちにキレルかも知れない。

 そして彼らが立ち去った後に、いつもどっと重い疲労感を覚えるのは、彼らの自閉的な「かたくなさ」のためである。あのひとりよがりの狂信的な「かたくなさ」は、いくらこちらが誠意をもって対話を重ねても見事なほどにびくともしない。要塞堅固。自分にはそれをどうにもできない。ひとはいかにたやすく、ひとつの観念に凝り固まった醜い石のような存在に閉じてしまうものか....。そんな思いが、休日の空気をたちまちにして澱ませてしまう。

 

*

 

 つれあいと二人で大阪の鶴橋へ行く。鶴橋駅の、JRと近鉄が十字に交差する東南に隣接した一帯は、アーケードに覆われた迷宮のような商店街が連なっている地域である。駅の出口から、昼なお暗いそんな狭い路地のひとつへ入っていくと、やがて朝鮮の民族衣装である色鮮やかなチマ・チョゴリを陳列した店が現れる。さらに進めば、通称コリアン・タウンの中心部である。裸電球と人いきれの下で、目にも鼻にも鮮やかな各種のキムチがずらりと並び、また手作りの唐辛子味噌、乾燥のナツメの実、真空パックの栗や、激辛ラーメンの袋などが積まれている。暗い裏道へひょいと曲がってみる。おばちゃんが一人、道ばたにしゃがみ込んで青いバケツに白菜をせっせと漬けている。饐えた匂いの暗がりから一転、皓々とした灯りの下に何やら艶めかしい一個150円の豚足や得体の知れない肉の皮や塊が現出する。鉄板の上のチヂミや円形に固められた菓子のようなものもある。大袋に入ったトウモロコシのヒゲ、これは何に使うのだろう。アーケードの果てしない路地はさらに奥の卸売市場へもつながっている。魚の巨大な頭が積まれ、お好み焼き材料の専門店があり、各種の海苔や鰹節、昆布を揃えた乾物屋があり、大豆や黒豆に交じって粟や稗が量り売りで並んでいる。野菜があり、総菜があり、めざしがぶら下がり、揚げ物が湯気を立て、店頭の道ばたに狛犬のように座り込んだ婆ちゃんが買っていかんかネエと声をかけ、店の奥で煙草を銜えた兄ちゃんが包丁をふるっている。じゃあ、その大豆を一升、きずものの焼き海苔を一袋、とつれあいが指さしている間に私は奥の棚から格安のナンプラーのビンをとりあげる。シラスを100グラム、葛きりの大袋をひとつ、煮干しを一袋。ついでに節分の豆を買うと、今年の方位を書いた紙と小さな紙製の鬼のお面をつけてくれた。帰りは難波の服地屋へ立ち寄り、和風のトンボの文様が描かれた生地を70センチにファスナーをふたつ買い求め、これは後日にお揃いの枕カバーになるのである。

  

 

 

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