■日々是ゴム消し log1 もどる

 

 

 

 

 あのね、南無というのは、サンスクリット語で従うってことなんです。ついていく。もっとわかりやすく言うと、アイ・ラブ・ユー。そして阿弥陀仏は、誰かを救うことで自分が救われるという教えを一番熱心に説いた。南無阿弥陀仏という言葉は、誰かを救うことで自分が救われるという考え方を、私は愛しますってことなんですね

(永六輔)

 indestructibility = 破壊し得ないこと

 

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 仏像は時には人智を超えた何かを宿しているようにも思える。また別の時には只の木片にしか、どう見ても思えぬ時もある。それらはすべてニンゲン(人智)の側からの"揺れ"だ。揺れ動く、つまり迷いがあるのは、すべてこちら側の視線だ。仏は何もしない。ただ醒めた眼差しで、人智を超えた〈時間〉、〈時間〉を超えた〈無限大の時間〉の果てを見つめている。それを仮に、〈祈り〉と言おうか。人に出来るのは、その〈祈り〉に寄り添うことだけだ。

 仏は仏にもなるし、ただの木片にもなる。

 

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 ...人間が全部滅亡してしまったときのあとの風景というのを時々思い描けるわけです。それがとてもきれいな風景なんです。何かのかげんで猛烈な風が吹いて、地上にあるものはみんな海の中へ吹き飛ばされてしまい、そのあとの、荒涼としているのか、さばさばとしているのかわからないけれども、きれいになくなったような世界というのが時々見える気がするんです

(串田孫一・辺見庸との対談で)

 

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 前世は石で、植物たちに取り囲まれ、森の深奥に眠っていた。

 

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 列車が新今宮の駅に滑り込んだ。通天閣がそびえ立つ。眼下の高架下の路上に座り込んでいる男がこちらを見上げていた。ざらついた陽の光に晒されて、俺はあの男の視線にさえ届かない、と思った。男の目には何が写っていたか。鉄の塊に満載された不自由なニンゲンどもの群れか。シンキロウのような幻か。あるいは何かもっと化け物じみて醜く膨れあがった細胞の悪腫のようなものだったろうか。俺もあの男のようにざらついた陽の下で一個の虚しい点のように座り込み、ニンゲンどもから見下げられ、遠く離れて、砂漠の幻影のように、ただ存るべきではなかったか?  

 

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 難波の町中で。煙草の販売機の前で小銭をつまんでいたら、小柄な初老の男が寄ってきて、スミマセン、昨日から何も食べてなくて、仕事もなくて、百円だけ恵んでくれませんか、と言う。一瞬迷って、じゃ、百円だけなら.. と硬貨をひとつ男の手のひらに落とした。それからG3の内蔵モデムを買うために日本橋の電気街へと向かった。カルカッタのサダル・ストリートを横切るように。

 

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 新聞書評に載っていた折口信夫論よりの抜粋。

 

 家があり、故郷があり、そこに懐かしい血縁の人々がいて祖先を祭っているという〈伝承〉の図像をもたない、また、もてない人間。

 〈家〉に定住する根元的な存在としてなど、評価されたくないのだ。出ていくものを温かくがまんづよく送り出す側になど、なりたくないのだ。私たちは、もっとわけのわからないモノになりたいのだ。

(持田叙子「折口信夫 独身漂流」人文書院)

 

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 今朝の夢。どこか見知らぬ街の空き地で、小学生の男児ふたりが無抵抗なひとりの同級生を襲い、その両腕をもぎとってしまう殺伐としたもの。夢の中で、思わず吐き気を覚えた。

  

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 京都の国立近代美術館で開催中の「ムンク版画展」を見る。確か高校生の頃友人と二人、上野で「ムンク展」を見た。メランコリックなポスターを部屋に飾り、いま思うと、あの頃の自分はただかれの雰囲気だけを模倣し、気取っていたように思う。その頃に比べると、もう少し素直に感じられるようになったのではないか、と思った。

 ムンクは象徴の画家である。かれの素朴な画面には、無意識のシンボルが声なき声を語っている。それは唱和でなく、一筋のかぼそい、きわめて鋭敏な個のうめきのようだ。

 

 立ち止まり、疲れて死んだようになって、私は手すりに寄りかかる。青黒いフィヨルドの上に、血のように赤く、炎のような形の雲がかかっていた。友人たちは立ち去り、私は、一人で恐怖に震え、底知れぬ自然の叫びを聴いた。

 

 ムンクの絵の前に立つときひとは、みずからが彼岸よりの異邦人、それも不安定な迷い人であることを思い出す。良い展示だった。北野天満宮の梅の粧いを見て帰った。 

 

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 日曜日。本日の料理。鶏もも肉を塩・コショウして小麦粉をまぶし、ピーマンとしめじとそれぞれオリーブ・オイルで炒めて、ホールトマト一缶、水、コンソメ、クローブをひとつまみ入れて煮込む。カチャトーラなる名称也と。それにレタスとオレンジにヨーグルトをかけたサラダとライス。並べてみればなかなか見栄えよし。男子厨房に立つも捨てがたい。

 

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 何でもない風景だ。錆びついた自販機の前の空き地、雨宿りの廃材置き場、陽に晒されたアスファルト、真夜中のバス停。時々ふいと、小鳥の死骸を踏んづけたように、思い出す。

 町内の公園近くの空き地で、頭部と両手首を切断された女性の死体が発見された。つれあいの実家に、無事だから安心するように、と電話をさせた。無論、冗談だけれども。冤罪を怖れていた友人がいたな。車の免許を持っていないのが幸いだと。かれはいい年をして親の世話になって、いまも無職で、ぶらぶらしている。都市のマンション群の一室に居る。レッテルを貼るには最適だ。夜中のフランケン。

 以前に棲んでいた町で、同じようなことがあった。長距離トラックの休む国道沿いのスペースに、散らかったゴミと混じって女の死体が捨ててあった。時々夜にバイクをよせて、よく立ち小便をする場所だった。死体はたいてい、そんなところに捨てられる。数日後にその場所に立ち、煙草を喫った。ざらついた夜の空気。現代の聖地だ。二度と詣でることのない廟所だ。

 

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 連日のユーゴ空爆の報道。誰であったか、以前に読んだ次のような言葉を思い出す。

 

 異郷のなかで-----あるいはまったく馬鹿げているが、宇宙のなかで-----私たちは個々バラバラの精神なのだ、という感覚があるかぎり、みんなが承認できるようないかなる"共通の"感覚も、世界の意味を理解するいかなる方法も、もてはしない。

 あなたの意見に反対だというのは、私個人の意見にすぎない、ということであれば、最終決定を下すのは、最も強引で暴力的な(したがって感受性のない)プロパガンディストだ。しかしながら、意見の衝突による混乱状態がプロパガンダの力で統合されてしまうという状況は、強力なテクノロジー支配にとってはうってつけの条件となる。

 

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 つれあいの職場で新規採用者二人。一年更新の派遣の契約だが、30代の既婚者であるYさんは、面接の際に契約中は妊娠をしないようにと何度も念を押され、採用が決まった後も自宅へ同じ用件で確認の電話が来たという。まったく神経を疑うね。そういう馬鹿げた企業論理というものは、唾を吐きかけたい気分だ。その人事の担当者はどういう気持ちで言ったのだろうか。どんな顔をして言えたのだろうか。俺がそいつで、会社の定めでそうしたことを言わなくてはならなかったら、そんな会社など辞めてやるよ。ひとつの生命の受胎というものは、なにもキリストに限らず、神秘的なものであり、喜ばしき瞬間だろう。そうした生物的な祝祭さえ受け入れる余裕のない企業論理は、愚かで、ひどく貧しい。

 

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 土曜のよく晴れた一日、大学の時の友人のN嬢と明日香を廻った。彼女は生まれつきの身障者で車椅子のため、介護の若者二人を連れて、最近一人暮らしを始めた神戸の街より。車椅子とともに歩くと、いかに観光地というものが障害者の人たちにとって不便なものかということが実感として分かる。特に古墳や史跡巡りのようなところは頻繁に階段があるし、古い建築物の社寺に至っては段差だらけだ。そのたびに三人がかりで車椅子を担ぎ上げ、持ち運ぶ。普通の人の倍は時間がかかるし、ひとりで気軽に移動することなど絶対にできやしない。それらはほんとうに実際に体験してみなければ得られない視線だ。

 介護のひとり、H君は神戸の震災のボランティアが機で東京から神戸へ移住してしまった20代の青年で、笑顔の素敵なAちゃんは姫路で老人介護の仕事をしているという。そしてN嬢の方は近い内にアメリカに短期留学をして、向こうの障害者でつくる劇団で演劇の勉強をしに行く予定。

 明日香はレンゲや菜の花が咲き揃い、まるで桃源郷の風情だった。高松塚にほど近い古墳へ向かう林道の道ばたで見つけた白いタンポポが目に清らかだった。

 

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 アメリカ・コロラド州の高校で起きた乱射事件。「狂っている。虐殺だ。狂気が隠れているとしか、言いようがない」 では安穏な生活を続けているわれわれは狂ってはいないのか。こうした事件が起こると、いつもミヒャエル・エンデさんの次のような言葉を思い出す。「狂ってしまった世界では、狂った反応をする人のほうが、いわゆる正しい反応をする人より多くなりますよ」

 誤解を恐れず、あえて言うならば、異常な世界で異常な反応をする、そのシンプルさに時として魅かれるときもある。自らの内に潜んだ狂気を鏡に移った鏡像のように見るときも。狂った世界で、正しい反応を保ち続けていることは、それ自体がすでに狂気の胎芽を孕んでいるのではないか。

 まだ抜いたことのない刃を常に隠し持っている。抜くか抜かないかは、いつもほんのわずかの偶然だ。

 

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 「正法眼蔵随聞記」を風呂の中でめくる。劫(kalpa・カルパ)という、古代インドで考えられていた時間の単位についての解説。たとえば-----

 

 四十里四方の立方体の城に芥子粒を満たし、三年目ごとにその一粒を取り去り、ついにそのすべてを取り尽くすに要する時間を一劫とし、これを芥城劫という。また四十里四方の立方体の石を、天人がその軽い羽衣で三年に一度払拭し、ついにその石が摩滅してなくなるまでの時間を一劫とし、これを払石劫という。

 

 湯舟で目を閉じ、このような荒唐無稽の観念に遊び、一瞬、軽いめまいを覚えるのもまた楽しいものだ。

 

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 NHKテレビで内分泌撹乱科学物質(環境ホルモン)に関するレポート番組を見る。「奪われし未来」の著者・シーア・コルボーン女史を中心に、環境ホルモンが生殖機能だけでなく脳神経系へも影響を及ぼしているという研究結果を、立花隆が対談とともにレポートする。このような報告を見るとほんとうに、人類という種の未来について、深い絶望感を感じられずにはいられない。友人のOではないが、「ニンゲンのいない理想郷」というものさえ、つい夢想してしまう。

 番組の中で立花隆が女史の言葉を引用して「グランド・チルドレンのそのまたグランド・チルドレンのためにという視点があるかないかで、ものの見方が大きく変わる」と言っていたのが示唆的だった。自分が生きている間に見ることのない杉の苗を植える、林業家の姿を思った。またそのような長いスタンスの中で機能する「幻の経済」について。

   

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 連休後半の一日、大阪・ミナミを中心に繰り出す。天王寺で、昨年出たものらしい、イギリス編集のビーチボーイズの全29曲入りのベスト盤を買う。'In My Room' 'Disney Girl'などの選曲に惹かれて。難波へ移動し、書籍を二冊。「アシジの貧者」(みすず書房)はクレタ島出身の詩人カザンツァキがその想像力で聖フランチェスコの生涯を描いた真摯な物語。もう一方の「生命の化学 現代生物学の基礎」(講談社ブルー・パックス)は、最近NHKで放送されている「人体。遺伝子」に触発されて、アミノ酸やタンパク質の働きについて復習したいと思ったため。御堂筋の丹青堂で篆刻用の石を購入。ウォークマンのジョン・レノンが耳元で"労働者階級の英雄"を歌い出すと、急に人の波が色褪せて見えた。ゴールデンウィークの蜃気楼。あぶくのような中産階級の幻影。心斎橋に出来たばかりの東急ハンズへ立ち寄る。あふれかえったモノと人混みに頭痛を覚える。が、丹念に見てまわる。わずかにタイのフィシュ・ソース(ナンプラー)とアーモンド・ゼリー(杏仁豆腐)の粉末を買って出る。夕刻、浪速の大阪人権博物館へ。ロビーで居合わせた木津氏と映画製作や中世の職能民等について立ち話。展示室で、識字学級の生徒たちのたどたどしい作文を読み、狭山事件の石川被告の映像を見たところで閉館となった。つれあいと天王寺の近鉄に寄り、母の日の贈り物を選び、地下で出来合いの総菜を買って夜7時に帰宅。

 

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 連休の最終日は、手すさびの篆刻で暮れる。先月、正式に籍を入れ、何かと書類に印鑑を押す機会が増えたのだが、自分がこれまで銀行印等の「実印」で使用してきたのは中学卒業の折りに学校から貰った三文判で、この際だからもう少しましな印鑑を買おうということになった。ところが黒水牛や象牙の印鑑もなかなか高価な値段で、せっかくだから自分で掘ってしまおうということになったわけである。篆刻は写経のようなものだ。気持ちがうわっつらだと、印刀の先も乱れる。朝から始め、昼飯を食べるのも忘れ無心で掘り続けて、2時過ぎにようやく完成の目をみた。幸い、仕事から戻ったつれあいはできたばかりの印を見て、ひどくお気に召した様子だった。費用・篆刻用の石、90円也。

 

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 連休中に職場のまだ若い青年が、自宅のマンションから飛び降りて命を絶った。22歳。理由は分からない。本人以外には、いつも分からないものだ。口数の少ない、おとなしい、心優しい青年だった。昼休みには染め物を吊した場所で二人だけ、いつも並んで昼寝をしていた。

 5日のこどもの日。死亡時刻は午前3時。朝になって発見された。一人住まいの部屋はいつもと何も変わった様子はなかったという。遺書もなし。昨夜が通夜で、今日が葬式だった。○○山の麓。夏のような陽射し。青空。若葉をよそおった樹木。世界は何も変わらない。家が同和地区の出身で、他家の養子となっていたこと。何故か苗字はそのままで、子供の頃から家の中でなぜ自分だけ姓が違うのかと不思議に思っていた話など、はじめて知らされた。下の名前さえも、知らなかった。たとえ知っていたとしても、ひとりの人間を理解するには測り知れない距離がある。

 出棺の直前、ひとつまみの花弁を手に死に顔を見た。瞬間、凍り付いた。安らかな顔とは、とても言えない。首が不自然に曲がり、なかば開いた目は白目を剥き、口元は歪み死んだ魚のようで、首に当てられたガーゼの端に乾いた血糊が覗いていた。それは自分の知っているY君ではなかった。どこか遠い国の戦場で死んだ兵士か、マンハッタンの安宿で殺された身元不明の死体のようだった。足元で、彼の兄さんが棺にすがり嗚咽しながら、これも食べなぁ、食べなぁと、供え物の苺をひとつづつ棺の中へ落としていた。やりきれなかった。背を向けて、外へ抜け出た。こみあげる涙をこらえた。

 声なき声はどこへいくのだろう。煙のように空にのぼって星屑となるだろうか。Y君、ぼくの中で、きみが生きていたときの感覚は、早晩死者のファイルとして閉じられる。この衝撃も次第に消えていくだろう。ひとの記憶など頼りないものだ。生きていたときの記憶は、死者の記憶と差し替えられ、やがてそれさえも薄れていく。葬式というものは、死という非日常の“得体の知れない何物か”をハレの空間によって無難に処理するための装置なのかも知れない。

 残された者は、いつもさびしい。底なしに、さびしい。言葉はもはや届きようもない。だがその距離は、遠すぎるが故に、薄い紙きれ一枚の近さのような気さえする。ぼくらにできることはきっと、死者の記憶を語り継ぐことでもなく、祈ることでさえなく、此岸と彼岸に横たわるこの深い亀裂を、風の通い路のように絶えず意識して生きていくことだろう。そう思う。Y君、いまは安らかに眠れ。そしてまたいつか縁があったら、どこかで会おうな。

 

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 ジョン・レノンにNobody Loves you (when you're down and out)〈打ちひしがれているとき、誰もきみを愛さない〉という歌がある。イマジンの裏返しだ。式場に収まりきらないほどの大勢の人間が集まったが、生きているとときのY君の苦しみを分かち合える人間は、ひとりとしていなかった。彼はひとりきりで逝った。そして、人はいつも死んだ後に集まる。自分も含めて、みな遅れてきた者たちだ。ぼくは人混みの中に立ち、レノンのその歌を思い出していた。〈きみが地下深く眠るとき、みんなは初めてきみを愛してくれるだろう〉 

   

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 仕事が終わってから、下の畑へ水をやりにいく。戻ってから、夕食の支度。チキンのステーキと人参・カボチャをケイジャン・スパイスで炒めた添え物、トマトのスライス、ライスに即席のポタージュ。食後、不燃ゴミを出しに行き、ついでに明日の夕食のための買い物を済ます。新聞に目を通し、テレビで阪神=ヤクルト戦をつけるが、ヤクルトが敗色濃いため消し、録り溜めしていたビデオをふたつ見る。辺見庸の「世紀末の風景」シリーズ。夢の島、新宿のゴミを巡る風景、捨てられたペットたちのガス室。NHKハイビジョン・スペシャル「熊野・不死の国の物語」-----熊野は闇の国家である(中上健次)

 

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 NHK・ETV特集で晩年の狂気に陥ったニーチェの写真を見た。神を殺し、人間を肯定しようとした男の顔。その果ての狂気のまなざしに後ずさりし、縛られる。

 

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 ひととひとのあわいに底無しの深い轍が在る。それをどうしても超えられない。結局、俺は己だけが愛しいだけの人間なのだ。砂漠の修道院にでも隠れて、神を呪うのが相応しかったかも知れない。どこにも逃れようのないこんな夜。ニール・ヤングのブルーズを聴きたくなった。あの美しいDown By The River。何故か理由は分からぬが、愛する恋人を銃で撃ち殺した男の独白。「彼女ならぼくを虹の彼方へ引きずっていって、ぼくを消してしまえたのに / 川のほとりで、ぼくは恋人を撃ち殺した」

 しらふのときにはいつも感じているのさ。自分は他人の痛みなどこれっぽっちも平気な人間だと。そして俺は酔っぱらって虹の端くれにしがみつこうとする。曲芸の態だ。

 かつて静寂の夜にこんな呪符を記した。

 

その石(ラピス)に書き記された意味はこうである
お前の魂はこの世に属していない
お前はこの世で、この世のものは何も与えられない

 

 Helplessを東京のスタジオで演った。Nのドラムは急いていた。

 

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 カザンツァキの「アシジの貧者」を毎夜、少しづつ読み継いでいく。詩人らしい、短い文章の滋味に惹かれる。たとえば青年のフランチェスコが夜更けに恋人の窓下で歌を口ずさむ場面に添えられた文章。

 

 彼は格子窓のむこうで眠っているはずの少女が目を醒まさないように気を遣い、小声でうたっていた。その歌は眠っている肉体にではなく、目醒めている魂にうたいかけられているようだった。

 

そしてまた彼がふと呟く次のような言葉。

 

 神がまさしく神の探求そのものでないかどうか、誰にわかろうか?

 

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 つれあいの誕生日に買ってきた鉢植えのあじさいがひと枝不注意から折れたので、彼女が花だけをきれいに摘み取り水を張った白い皿の中に浮かべた。そして静かに眺めながらこんなことを言う。宮沢賢治さんだったら、これだけでもうお腹がいっぱいになるんでしょうねぇ、と。

 

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 昼日中、近所の郵便局にて局長と口論。定期預金の新しい口座を作ろうと行ったのだが、身分証明にと提示した私の免許証が書き換えをしていないので証明にならないという。それでは、と自宅へ戻り、住所の記してある当の郵便局の通帳を再度持っていくと、これも公式な書類でないので認められない、というので思わず切れてしまった。

 伏線はこの通帳の記載を書き換えたときにある。そのときもつれあいが住所の一部変更と、また私の戸籍の正式な古い文字と普段使用していた簡略の文字が違うという理由で、何度も郵便局と自宅の間を往復したのだった。認められない理由は何故か。通帳の記載はあなたの言う公式書類を確認してあなたたちが確認したものではないのか。いや、それでは確認の上乗せになる。それが何故いけないのか。わたしたちはお客さんの財産をフォローしなくてはならないから常に公式の書類での確認が必要なのだ。等々。

 最終的には局長が根負けをして、いいでしょう、あなたを信用して今回は口座を作らせて頂きます、その代わり覚えて置いてください、と少しばかりのお説教を垂れて。あなたはまだお若いから分からないでしょうけれど、と言われて私の返した言葉は、いや、あなたの言うことは理解してますよ、しかしあまりにも杓子定規だ、もう少しケース・バイ・ケースで柔軟な対応ができませんか、ぼくは窓口のこの人たちとも顔見知りだし、この通帳で常日頃やりとりをしているのをこの人たちも重々承知している、それでもあなたは国のお墨付きの公式書類しか認めない、つまりあなたは人間よりも書類の方が信じられるというわけだ、そのうち自分の親が目の前にいても、公式の書類がなくてはそれが本当に親だと確認できなくなるでしょうよ。

 あとでつれあいが書き換えをした免許証を私の代わりに持っていった。きっと私はいつまでも子供なのだろう。「ご無理を言ったそうで..」と詫びた彼女に、局長も窓口の女性たちも全員で親切に対応してくれたそうだ。そんなとき私には、彼女が私と世間をつなぐ細い一本きりの糸のように思える。

 

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 暑い日曜の午後、CDラジカセにマーシーの「夏のぬけがら」をセットして、カレーを作り始める。彼女は隣の間でおぜんにすわり手紙を書いている。マーシーの心近しい声「夏が来てぼくら アイスクリーム食べて笑った / 木に登りぼくら 何回目の夏か数えた..」 材料を切り揃え、鍋にオリーブ・オイルとバターを落として、ニンニクとタマネギをじっくり炒める。それから鶏肉、人参、しめじ、じゃがいも、林檎に蜂蜜、酒粕、スパイスをいくつかと酢を少々。最後の曲が終わる頃、ちょうど仕込みも終わった。彼女は座椅子にもたれて眠っていた。おいしい特製カレーができるまで、もう一枚アルバムが聴ける。

 

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 ドイツ製の高価な蓋付き片手鍋をつれあいの知り合いからプレゼントされて、それまで使っていた安物の鍋の二つが不要になった。彼女が職場近くの公園で野宿をしている人に使って貰おうかしらと言うので、ぼくも賛成した。時々挨拶をする、犬を飼っている物静かな、笑顔の優しいおじさんがいるのだという。翌日、鍋を紙袋に入れて出勤したが、朝も帰りも犬のおじさんはいなかった、と持ち帰ってきた。他の人でもいいじゃないかと言うと、あの犬のおじさんにあげたいんだもの、と言う。翌朝も鍋を片手に出勤したが、目当てのおじさんの姿は見あたらず。職場で同僚の女の子が、彼女はおじさんの顔は知らないのだが犬の顔は知っていて、その犬を今朝別の場所で見かけたという。鍋と同伴の出勤に疲れたのか、それでその日の帰りに別のおじさんにあげてきたという。その鍋を貰った「別のおじさん」は大層喜んでいたそうだが、彼女の方は、犬のおじさんにあげたかったんだけど、とまだ半分浮かぬ顔でいる。

 

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 知り合いの老牧師へ、カザンツァキの「アシジの貧者」の抜粋をハガキに写して送る。

 

…私たちが踊っているとき、一人の若い貴婦人が近づいてきた。
「どうなさいましたの、修道僧様?」笑いながら、彼女は言った。
「お坊様をこんなにひどく酔わせてしまって、誰かしら?」
「神様ですよ、たくさんの酒樽をお持ちの神様ですよ」と手拍子をうちながら、フランチェスコが答えた。「あなたもごいっしょに飲みにいらっしゃい!」
「どこからいらしたの?」
「無からですよ、奥様」
「どこへいらっしゃるの?」
「神へ。私たちは無から来ましたが、その無と神とのあいだで、私たちは踊ったり、泣いたりしているのです。」

 

 先月だったか、聖フランチェスコの青年期を描いた美しい映画が深夜のテレビで放送され、録画をしておいて後日二人で見た。もうだいぶ昔に老牧師より見せて貰った映画だった。彼女があんまり感激したので、本屋でカザンツァキの著作を見つけてきた。それを読んでいるとき、彼女の知り合いがイタリアに旅行をしてきたとみやげをくれた。それはラベルにアシジの街の名が打たれたオリーブ・オイルの小瓶だった。

 ユングはこのような偶然のような必然・意味のある偶然をシンクロニシティと名付けた。聖フランチェスコは夢の中で多くの啓示を得た(「夜は神のおおいなる使者…」)。無意識はそのように夢の中で象徴を用いてさりげない合図を送るのだ。飛鳥の古社の宮守でもある藍染織館のW氏は感慨深く頷いて、それは大事な徴だよ、と言った。偶然をただの偶然と見て忘れてしまうか、意味のある必然と見てそこから何かのメッセージを受け取るか。アシジの聖フランチェスコに想いを馳せているとき、そのアシジからオリーブの聖油が届けられた。だが僕にはそれが、ただ、ごく自然のことのように思えるのだ。この世の神秘は僕には親しい存在だ。 

 

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 時々飛翔したくなるのだ。翼がないから墜ちるだけだと分かっていても。どこへ? どこでもないどこかへ。地上に築いたつましい営みを棄てて、肉を脱ぎ捨てて。あるアメリカの作家が言っていた、いま人々が金を費やすのは金銭と快楽と健康のためだけと。若きボブ・ディランがタイムズの記者を相手に言う、とにかく分かっているのは俺もあんたもいつかは死ぬという事実だと。小学生の時、死という概念を初めて感じた。それは「消滅」だった。怖くなってまだ仕事をしていた母親に、ぼくもいつかは死ぬの、死んじゃうのとすがりついた。父親が事故で死んだとき、この世界は通り過ぎるものだと知った。こんな詩を書いた。「ここは勇気が試される最後の通り」 ささやかな仕合わせはぼくにそれらを忘れさせる。どこか地の果ての砂漠の洞窟にこもって、生を超えた存在のことだけを考えたい。唐突にそんな衝動に駆られて、無口になって、いつも聴くのは自分をここまで導いてきた音楽たちだ。罪深い飛翔への苛立ち、無謀な子供じみた光への憧憬だ。彼女は悲しい気持ちを隠して、しずかに作りかけのマーマレードのジャムを台所でこしらえる。哀れな堕天使はこの地上に引き戻される。

 

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 映画「泥の河」を見る。昭和30年、ぼくはまだ生まれていないが、下町の、まだ日本が貧しかった川沿いの街、それに主人公が子供となると、もういけない。

 いつか土門拳の戦後の写真集を見て、懐かしい、と口走ったとき、年輩のW氏に、お前さんの年齢でそんなふうに感じるか? と言われたが、ぼくらの時代はそうした戦後の古き良き貧しさの泡沫が、かろうじて残されていた最後の年代、曲がり角を曲がり終える寸前くらいの時代であったように思う。土手には桜並木があって、家の前には砂利道が残っていた。

 何よりこのモノクロの映画は象徴に満ちている。河、そしてその河を通じていずこからやって来て、またいずこへと去っていくどこか哀しい異邦の神々。少年とのひと夏の淡く重い交流。それは折口のいうまろうど=来訪神であったか。ひょっとしたら、あの襤褸船に乗って物言わず去っていったのは、日本の古き良き精神であったのかも知れない。

 それから10年後、大阪では万博が開かれ、三波春夫が1970年のこんにちわを軽やかに響かせた。高度成長期。その華やかさの影に、あれらの貧しくも懐かしい風景は泥の中へひっそりと沈んでいってしまった。少年が追いかけた船の残像もまた...

  

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 昼過ぎの新幹線で大阪へ降り立った東京からの友人と、環状線の大正駅で待ち合わした。大正通りの広い道を阪神高速の高架をくぐり、さらに南へとひたすら歩いた。このあたりは沖縄出身者が多く居住している、いわば大阪のオキナワ・タウンだ。

 平尾の商店街のはずれの小さな店で沖縄そばの昼食を食べた。商店街をぶらぶらと見て歩き、沖縄そばにかけた「こーれーぐーすー」という唐辛子を泡盛に浸けた調味料と、インスタントの沖縄そば、パイン味の黒糖、沖縄のドーナツなどを買った。東に流れる木津川へ見当をつけて歩いた。小さな路地に入ると、東京の下町のような雰囲気だった。そんな路地の奥に小さな駄菓子屋があり、子供たちがまるで二十数年前の自分たちのように立ち寄っていた。

 地元の人が利用している無料の渡し船に乗って河を越えた。工場の林立する、コンクリートで固められた殺伐とした、それでいてどこか懐かしい風景。あの「泥の河」の残り香のような。向こう岸は西成区だ。浮浪者のダンボール・ハウスで賑わう西成公園を抜け、鶴見橋商店街をたどり、あいりん地区までぶらぶらと歩き続けた。

 

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 週末を利用して、和歌山のつれあいの実家へ連泊。金曜の夜に出て、土曜は向こうの両親と車で高野山を参詣。奥の院の参道では去年の台風の傷跡が生々しく、苔むした大名の墓がそこここで倒壊していた。

 大師堂の地下にて、ロウソクの灯りの奥まった背後に弘法大師の御影が御簾のような薄い布をかけて安置してある。10人ほどの信者を連れた年輩の女性が、二対のロウソクの間にちょうどお大師さまのお顔が御簾を透かして見える、と皆に説明する。今日はよく見えるから、お大師さまがここに来ていらっしゃいますよ。いらっしゃらないときは、暗くて見えないですから。皆、懸命に目を凝らして、大師の幻影を追う。なるほど、これが信仰の力か、と思う。ああ、見える見える、茶髪にしてるな、と思わず茶化してしまうのはいつもの悪い癖だ。帰途には、道すがらの物産店で地元の野菜や、天然の鮎のくし焼きなどを頬張った。

 つれあいの実家は紀伊水道を臨む、ちいさな港町の集落にある。明けて日曜は早朝、仕事へ行く彼女を駅まで送ってから、集落に一軒だけあるレトロな床屋で散髪をして貰った。彼女が気に入った私の表現に変えると“高度資本主義のシステムから落ちこぼれたような”懐かしい床屋。床屋の初老の主人から、集落の浄土宗の寺が最近落慶と成り、その寄付集めに遁走して百戸の檀家から二億の金が集まった等々の話を聞く。床屋は珍しく盛況で、順番待ちの住民はすぐ前のつれあいの実家の玄関先に席を移してよもやま話。散髪を済ませ、いつものように魚や畑の野菜などをたんまり積んで、前日も通った高野山へ至る山間の田舎道をつらつらと走り、橋本から五条を抜けて昼過ぎには早めに帰宅した。

 玄関の郵便受けには二日分の新聞がぎっしりと押し込まれていた。時間の停止したような鄙びた集落にいる間も、世間のニュースはたまり続けていく。実家の本棚に眠っていた分厚い「町史」を借りて帰った。夜、テレビでアメリカのハイテク兵器の番組を見る。リアリティという“雑音”を排除したデジカル化したテクノロジーの憂鬱。

   

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 朝日夕刊の論評より。

 

 ...ここで指摘した、土地や株式資産をはじめとして「所有」そのものを自己目的化するような意識の刷り込みを、思想の次元で取り上げるのは、熊野純彦の『レヴィナス』(岩波書店)だ。

 この本は、ひとはじぶんでないもの、つまり他なるものをこそ所有するわけで、そのかぎりで所有は他の肯定であるが、わが物として所有するとはその他なるあり方を中断するということでもあり、そのかぎりで同化という、他なるものの否定に終わると主張する。その意味での所有の不可能性から、熊野はレヴィナスとともに「所有と定住」のかなたに思いをはせる。

 

 かねてから歴史における「所有と定住」(あるいは更に農耕・富と権力・境界や差異など)の起源に着目しているが、ここには「所有」の概念をいったん解体し、それを対他のありようへと変換していく、やわらかな思想の肌触りを覚える。社会主義も資本主義も共倒れとなって断末魔の叫びをあげているいま、このような「心の貨幣」が機能するあたらしい経済のシステムが生まれないものか。

 きっと今は亡きエンデさんなら、そんな未来のファンタージェン国の市場原理を描いてくれたことだろう。替わるべき価値観を喪失したまま漂っているこの荒廃した世界の贈り物に。

 

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 わが家のアパートの玄関側に面している邸宅では時々、即席ピアニストの演奏会が開かれる。私は、生ピアノのような楽器を住宅地で弾きたければ、そしてピアノを購入するだけの経済的余裕があるならなおさらセットで部屋に防音措置を講じるのがモラルで、ましてや窓を開け放って演奏するなど言語道断と思うのだが、まあそれほど深夜でも長時間に及ぶわけでもないので黙認してきた。

 ところが先の休日、炎天下での畑の草取りを終えて昼寝をしているところをこの迷ピアニストの名演に破られた。パッヘルベルの有名なカノンをもうだいぶ以前から練習中なのだがなかなか上達しない。あげくの果ては自棄になって猫踏んじゃったをやり始めたので、私は半分抗議・半分茶目っ気で、台所用のBGMとして置いているCDラジカセにCDをセットしてパイヤール室内管弦楽団の本物のカノンを玄関を開け大ボリュームで流してやった。本当のカノンはこんな美しい音楽なのだよ、とひとりごちながら。正味6分の演奏が終わると、隣人の迷ピアニストは見事に沈黙していた。

 あとで仕事から帰った来た彼女に、そんな酷いことして、と叱られた。しかし、私も一言だけ。いわく「美しくない音楽は騒音でしかない」。

  

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 彼女と天王寺の動物園をはじめて訪ねる。夏のけだるい、市民動物園のさびれた風景。感情は二種類存る。幼少の頃の素朴な驚きに似たフィード・バックの感覚と、現在進行形の多様な神の似姿を幻視するセンス・オブ・ワンダー。ガラス越しにすり寄ってきたオラウータンと見つめ合っていると、なぜかほっとした気分になる。

 

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 NHKの番組でノモンハン事件の特番を見る。モンゴルの草原に累々と横たわる屍たち。歴史の渦に翻弄され木の葉のようにむなしく散っていった無数の命の累積。いつもそうだ。小学生の頃、近くの図書館へよく通った。区役所の出張所を兼ねた古びた建物の二階の、歴史の部屋は仕切られた狭い空間で、そこで多くの本を読み散らした。アウシュビッツの惨劇、ヒトラーの最後の7日間、日本の終戦の長い一日、沖縄戦の悲惨な顛末... 小学生の想像力ではどこまで理解していたかは定かでない。だがいつも、あの埃臭い密封された空間と共に、けだるい歴史の非情な重みのようなものをひしひしと感じていた。そしていつも、自分のちっぽけな死というものが暗澹とした波間に漂っている苦い空虚、底無しの恐怖に呑み込まれるような眩暈に襲われた。足元の地面がふいになくなり、無重力の闇へ降下していくようなあの得体の知れぬ感覚。

 先日、福島いわき市にある草野心平記念館で、詩人の吉増剛造氏が宮沢賢治の死の直前の奇怪な作品「丁丁丁丁丁」を朗読するのを目の当たりにした。

 

叩きつけられている丁
藻でまっくらな丁丁丁
塩の海丁丁丁丁丁
熱丁丁丁丁丁...

 

 詩人は伸び上がり、次の瞬間身体を折れるがごとくねじ曲げ、地面に叩きつけ、まるで賢治の言霊を彼岸からかっさらうような激しい形相だった。

 

ゲニイめ たうたう本音を出した
やってみろ丁丁丁
きさまなんかにまけるかよ
何か巨きな鳥の影
ふう丁丁丁...

 

 私の中で黒いフロックコートを着た賢治が花巻の暗い草原(くさはら)に立ち、己の魂を大地に叩きつけているのが感じられた。丁丁丁丁丁... 丁丁丁丁丁... それが戦場での累々たる屍の景色の上に重なる。 にんげん丁丁丁丁 にんげん丁丁丁丁... こんなふうに....。

 

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 思い立ち夕刻、単車にテント / 寝袋一式を積み、書き置きを残してついと家を出た。五條市を抜け、維新前夜に十津川郷士たちが集結した天辻峠を越えた頃には薄暮が迫ってきた。やがて漆黒の闇。盲(めしい)が巨象の身体をなぞるように、絶滅した恐竜の背骨を辿るような古代の回廊を這い、伝った。十津川の集落で、閉まりかけていた食堂に入り、親子丼を喰らった。十津川、遠津川。やがて大和を離れ、路は隠国(こもりく)、隠野(こもりの)、熊野へ。根の国を、あるいは黄泉還(よみがえ)り、と読む。闇の中で、樹木がぬるい息を吐いていた。濃密な植物の舌が哄笑していた。本宮の、明治の大水で流された旧大社地に広がる川原で、ひとりテントを張った。中天の月あかりが森々と雪のように積もり、石粒たちの沈黙、盆の精霊流しの石積みの跡がまるで朽ちた墓標のようだった。缶ビールを一本空け、煙草をくゆらせ、四方の低き峰々より形なきものたちが降り集い、ラアラアと言葉にならぬ韻律を唱和するまぼろしを、夜のしじまに聴いた。まるで奇怪な、真昼のごとき明るさ。

 寝袋の中で詠んだ、拙い戯れの歌が二首。

○ 月満ちて 熊野の神と 添い寝する夜

○ 月あかり 斎庭(ゆにわ)を照らす 石の寝心地

  

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 阿部謹也氏の中世ヨーロッパ社会を論じた書物の中で、中世の一般庶民の人々と事物との関わり様を、敢えて表現するならば、として「具体性(ゲルバリヒカイト)、触知性(ハントグライフリヒカイト)、即語性(ヴオルトリヒカイト)」といった言葉が挙げられていた。

 「具体性とは精神がつねに肉体や物とかかわっていることであり」、「触知性とはどんな観念でも手で触って確認できることを意味」するという。そして即語性については、例えば「マタイ伝で〈帯のなかに金銀または銭をもつな、旅の衣も、二枚の下着も靴も杖ももつな〉とあれば、シトー派の僧は衛生のことなどおかまいなしに昼の僧衣を夜着に着替えることなく、帯をしたまま寝た。〈目覚めて祈れ〉とあれば、転用された精神的な意味においてではなく、言葉どおりに昼も夜も祈ったのであった」(中世の星の下で)

 もちろん聖書や特にイエスの言葉は多分に象徴性を帯び、象徴において汲み取らねばならない種類のものではあるが、それらの側面はここでは別に置くとして、実にこうした即物的な認識の在りようというのは、逆に現代のぼくらが遠く失ってしまったものではないか。ある意味で愚直なまでの、ごく素朴で頑迷な、観念や事物との関係。さらにいえば、石ひとつあるならばあらゆる先入観を取り払い、石そのものの存在と対峙するような事物の捉え方。感情や精神や神性を、常に身近な兎の毛や麦や糸車のような感触として置き換えるような感覚。言葉や観念ばかり溢れているこの時代に、いつもぼくらは現実の事物からどんどん離れていってしまうような気がする。エンデさんの描いた、文字で出来た哀れな紳士のように。

 夜店の射的場で紳士は自分のリアリティに自信がないために、鏡に写った自分の影を撃つことができず、やがて文字だけの部品にばらばらと崩れてしまう。そのように、中世社会は現代のぼくらの姿を鏡に写し出す。

 欲しいのは言葉を裏切るほどの実存、不遜なリアリティだ。

    

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 荒馬が、まるで死んだように眠っている。冷たくしずまりかえった砂漠の地に。沁みいるような月明かりが、狂気と怖れの裏側で安らぎに笑み、これがすべてだと見守っている。だが闇が、底無しの冥(くら)い夜と荒涼とした無辺の大地が、無意識の仄暗い抵抗と残忍さで、奴の目覚めを期待している。嬲(なぶ)れ、この世のものすべてを嬲れ、そしてあの狂おしい混沌(カオス)の縁に立ち戻れ、立ってよろよろと無様に歩いてゆけ、と悪魔の声で囁く。荒馬は冷たい外気に時折肌を震わせ、白いナイフの夢を見て眠る。彼方から、黒い二つの影が近づいて来る。ゆっくりと、それは顔のない異形の姿をしている。目覚めの途上で、月の引力が奴をふたたび眠りへと引き戻す-----理由のない悪意とやさしさで。

 

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 夜のニュース。池袋の東急ハンズ前の路上で通り魔、死者2名、重軽傷6名。容疑者は地方出身者らしいが、数日前までわが古巣の足立区で住み込みの新聞配達をしていたという23才の若者。朝の配達に無断で休み、同僚がアパートを訪ねてみるともぬけの空だったという。都内のカプセル・ホテルを転々としていたという空白の数日間。「仕事がなくてむしゃくしゃしていた。誰でもよかった」という供述。無論、それだけではないだろうが。

 次のような警句が浮かぶ。

 

 -----だが、われわれの都市のすべての地点は、犯行現場ではないか? そこを通行するすべての者は、加害者ではないのか?

(ベンヤミン・複製技術時代の芸術)

 

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 SEXなんかしなくたって、彼女が愛おしい夜。すべてのものが、やさしく切ないように沁みいる夜。ぼくはビールを飲みながら、眠った彼女の顔を眺めている。ああ、こんな夜は、古いカセット・テープの音楽を聴きたいなあ。ぼくは気持ちのいい裸になって、あの静かな、魔法の空気に包まれたい。そして彼女の寝顔の向こうに、昔遊んだ原っぱや、失くしたビー玉や、自転車のタイヤや、夏休みの作文たちが、つぎつぎと懐かしい贈り物のように、入れ替わり立ち替わり、浮かんでは消えていく様を黙って見つめている。

 

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 ビデオで録り置きしておいた、写真家・故星野道夫の活動を振り返る、よい番組を見た。

 アラスカのある先住民の小さな村との出会いから、極北の動物たち、零下50度の地での荘厳なオーロラ撮影の体験、アラスカへの定住、深刻な先住民たちのアルコール中毒、草に埋もれた古代のトーテムポールの啓示、神話とアイディンティティの模索「人の内部と世界は切り離されているように思えてならない」、そしてはるかなモンゴロイドの夢の連なりを追ってシベリアへ。かれの短い旅路は、明らかにまっすぐ、シンプルなラインを描いている。

 旅の途上でかれが出会った、ボブ・サムというひとりの先住民の語り部の話が印象的だった。ボブ・サムは若い頃、他の多くの若者たちと同じように、ドラッグや酒に溺れる日々を過ごした。そして失意の心を背負ったまま、故郷の村へ戻ってくる。だがある日、ボブ・サムは突然ひとりきりで、村の片隅の荒れ果てた墓を誰に言われるでもなく、掃除し始めた。そして10年の歳月をかけて祖先の墓がきれいになったとき、かれの心も、村人のすべてのものの心も癒され、誇りを取り戻していた。これはまるで、ユングの臨床心理学の報告にでも出てきそうな、感動的で、深い意味を秘めた、魂の再生の物語だ。

 いまだ旅路の途上であった星野道夫はある日、野営中のテントを熊に襲われ、42歳の生涯を閉じた。誤解を恐れずあえて言うならば、その死は、世界中でいちばん贅沢な死に様であったように思えてならない。

   

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 日曜の夕方は早めに食事を終え、つれあいの好みで教育テレビの「大草原の小さな家」をいっしょに見る。今日のストーリーは伝染病が町中に広がっていくという、大変な話である。ローラのお父さんも自らの感染の危険を背負いつつ、医者の手助けに尽力する。

 ある実直で信仰深い若夫婦の家では、奥さんがすでに死に、ローラのお父さんが様子を見に立ち寄ると、家のなかは空っぽで、外の大きな木の下で父親が、死んだばかりの一人息子を抱きかかえながら、黙って空を眺めているのである。“やあ、元気かい。この子は遊び疲れてね、眠っているだけなんだ。今日は学校を休むと学校に伝えてくれないか” ローラのお父さんは黙って頷き、その場を立ち去っていく。

 何だこんなもの、子どもだましのホームドラマじゃないか、と思いながら、私は結構こんな場面に弱くて、つい涙が出てきそうになるのを慌てて横を向いて、つれあいに悟られないように隠すのである。常日頃、クールに生きようと心がけているのに、どうもいけない。この手の番組は、危険だ。

 ところで歴史を繙けば、中世のヨーロッパでもペストが大流行して大勢の人が死に、メメント・モリ(死を想え)などという言葉が囁かれた。「大草原の小さな家」の舞台になっているアメリカの開拓時代もそうだが、つい百年くらい前までは、人類の生活は常に危険と背中合わせの毎日だった。だが私は、かれらの日常の方が充実し、意味深く生きたのではないかと思えてならない。

 昔、ジョン・ウェインの「駅馬車」なんていう西部劇の映画を見たなあ。たぶんその映画のことを言ったのだろう、ボブ・ディランの次のような言葉が忘れられない。

 

....偉大なフォークとロックンロールをもう聴くことはできないかも知れない。馬車がもうなくなってしまったようにね。確かに、馬車の方が車よりも魂がこもっていた。目的地に着くのに時間はかかったし、途中で殺されてしまうこともあったけれども。

 

 もう何ヶ月か前になるか、つれあいがある事情で数日ばかり入院をして、私といっしょになる前に自分で入っていた保険からお金が出た。その手続きに保険会社から人が来た際、わが家の保険も勧められたのだが、私がいままで生命保険など入ったことは一度もないし、いま乗っているバイクの任意保険も数年前に切れたままだと言うと、口をあんぐりと開けて、こんな人間は見たことがない、信じられない、というような顔をしていた。

 しかし私は、後日に新聞を開き、バブルがはじけて見苦しくもエゲツない、保険会社についての信じられないような記事を読むのである。

 

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 レンタル屋で映画『死の棘』のビデオを借りてきて、つれあいと二人で見た。ときおり、奄美大島の抽象的なシーンが白日夢のように、ある種の神話の基層として提示されるが、それ以外はおおむね原作を忠実になぞったそつのない仕上がり。あの重層的な大作の映画化にしては、むしろ上々の出来だろう。岸辺一徳と松坂慶子の配役も良い。それにしてもあの赤裸々にして崇高な原作の高みには届かない。小説の勝利、ともいえる。

 

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 祝日の夜、ニュースの後で何気なく見始めたのだが、NHK総合で放映された「名作で味わうグルメの秋・文豪が描いた食の名場面」は、なかなか面白かった。「名作亭」なる虚構の料亭にグルメを自認する芸能人が集い、日本文学に描写された料理をなるべく当時の形で再現して味わう、という趣向である。

 その最初の一品が、志賀直哉の「小僧の神様」。丁稚奉公の少年が大人たちの会話で耳にしたマグロのトロに憧れるという筋や、冷凍技術などなかった大正期の保存の知恵等がひとしきり紹介されてから、ゲストの膳に、明治創業という老舗の江戸前寿司が並べられる。

 それを見ている内にどちらともなく、うまそうだなあ、食べたいねえ...。よしっ、と私はやおら立ち上がり、呆気にとられているつれあいを尻目に、電光石火の早業でバイクに跨り、閉店間際のスーパーで中トロ寿司を一パック買って戻ってきた。そして、すでに夕食にナスとピーマンのパスタ及び野菜スープを済ませ、さらに私の自家製ババロアのデザートまで食していたにもかかわらず、二人の小僧は中トロ寿司を仲良く半分こにして頬ばったのであった。テレビの力、恐るべし。

 他の品書きは、有名な佐藤春夫の「秋刀魚の歌」や、落ち鮎に日本の美学を描いた川端康成の「山の音」など。料理の中では、三浦哲朗の「お菊」という短編に登場するという東北の、食用菊を使った彩り鮮やかな郷土料理の数々が印象的だった。特に熱いお茶漬けにのせて食べる、菊の花のみそ漬けは、いつかぜひ食べてみたいな...

 

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 日曜の午前。つれあいが家の窓から見える、数ヶ月ばかり前に建った新しい教会をちょっと覗いてこない? と言う。二人とも別にクリスチャンではないのだが、かねがねマザー・テレサを敬愛している殊勝なつれあいは、あの雰囲気が好きなようなのだ。ふだんより遅い朝食を済ませて、梅の林に囲まれた小径をつらつらと上っていくと、折しも礼拝の始まるところであった。どうぞどうぞと招き入れられ、20名ほどの信者の人たちに交じって、そのまま二時間ばかりを過ごした。

 賛美歌や聖書の朗読を聞くと、いつも気になるのだが、キリスト教の「人間中心主義」的なものがどうも鼻についてしまう。その点に関しては、私はどうやら、人間も動物も隔てがない、たとえばアイヌやネイティブ・アメリカンの神話のような世界観の方が馴染むらしい。

 まだ中年くらいの恰幅の良い牧師の説教は、それでも部分的に面白いところもあった。たとえば、旧約の詩編でダビデが自らを「乏しい」という言葉と、新約のローマ人への手紙で創造主は人間を神より一段「低く」創られたというくだりの言葉とが、原語では同じ言葉であることや、またダビデの時代の歴史的背景など。

 聖書、それも特にイエスの新約は、人間の精神的変容の物語ともいうべきもので、私はそのさまざまな隠喩(メタファー)に満ちた二千年前の記述を辿るのが好きだ。だが信仰とは、つまるところ高度な論理や知識などとは無縁な“素朴な体験”であろう。要するに私は頭でっかちなのである。抱えたものを、捨てきれない。

 礼拝が終わった後で牧師氏らと共に、賛美歌の合唱の時にマイクで先導していたなかなか美人の若い女性が親身に話しかけてきた。教会の二階で居住している副牧師の細君で、在日のひとだと言う。そして、向こうでみんなといっしょにおウドンでも如何ですか、とややたどたどしい日本語で誘ってくれた。ひとり150円なのだが、はじめての人はサービスなのだという。私は正直、これから家に戻って昼飯をつくるのが億劫だったので、好意に甘えることにした。

 そこで牧師氏も交え互いに自己紹介などをし、関西の味付けや住み心地等についてしばし世間話をしたのだが、みんな実に朴訥で“いい人”なのである。私は自分があまり“いい人”ではないので、少々脇の下あたりがむずがゆいような気分でもあった。

 帰り道、どう? また来てみたい? とつれあいが訊くので、私は、...そうだなあ、昼飯をつくるのが面倒なときは行ってもいいかも知れない、と答えた。しかしサービスのうどんを食べてしまった手前、週に一度、夜にあるという聖書の研究会なるものは、ちょっと覗いてみてもいいかな、とも思う。いや、あの美人の細君のせいかも知れない。どちらにしても、こちらはあまり殊勝な理由でない。

 

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 折しも茨城県の東海村でずさんな放射能漏れの事故が起きているさなか、同県のつくば市にある某研究所に勤めている友人が東京から遊びに来た。

 翌日の土曜、二人して大阪の天王寺へくり出した。いつもの青空カラオケの歌声がかまびすしい天王寺公園を抜けて、新世界をぶらつき、ジャンジャン横町で串カツの昼飯。その後ガードをくぐり、あいりん地区をひとしきり案内してから戻ってきて、動物園に入った。

 家族連れやアベックたちで微笑ましくも賑わう売店前のベンチで、友人が携帯電話についての話をした。携帯電話で交わされる会話の多くは、手元にあればこその雑談で、わざわざ公衆電話へかけにいかなくてはならないとしたら、ほとんどは立ち消えてしまうものだろう。よほどの田舎でなければ、ポケベルで充分事は足りる。そして、そうした無駄なものに人手が費やされ、消費が拡大していくのだから、そんなことをしている人間というものはやっぱりいつか滅びるだろうなあ.... と、かれはひとりごちた。瞬間、幸福な午後の動物園の風景が逆立ちし、別の感覚の次元に自分は佇んでいる。目に映る景色もまた、別のものだ。

 チンパンジーの檻をぼんやりと見つめているとき、ふいと隣で友人が、人間にそっくりだなあ、まったく、と呟く。ぼくもまた、あの「2001年宇宙の旅」の映画の冒頭で、R.シュトラウスの劇的な音楽と共に骨片をふりあげる猿人の姿を想起していた。別の小部屋に入れられた、どこか南米の猿の顔に、物言わぬ賢者の表情を見たような衝撃を覚え、また閉園間際の食事中の象の宿舎の前では、若い両親がしきりにカメラを向けているベビー・カーに収まった赤ん坊が、見たことのない奇妙な生物のように見え、この生き物を人間の文明から遮断して育てたらどんなふうになるだろうか... と妄想し、そして何故か急に、夜中に動物園に忍び込んですべての生き物たちを町中へ解き放つという、架空のストーリーを考え始めていた。

 動物園は閉じこめられた何万年もの記憶の鎖を解放する。

  

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 夜中にゴミを出しにゆく。ほんとうは御法度なのだが、不燃ゴミは多少離れたところへ出さなくてはいけないので、つい朝出しが面倒で夜中に、二人で散歩がてらに、あるいは私が煙草などを買いに行くついでにバイクに積んで持っていく。

 線路沿いの集積場所は、今夜もすでに大小無数のゴミで埋まっていた。大家さんの話によると、近くの電気屋もこっそり、引き取りをした古い家電品を始終置いていくという。そうした電化製品の中には、まだまだ使えそうなものも時折ある。

 事実、私がほとんど身ひとつの夜逃げのような姿でこの町に越してきた当初は、ここのゴミたちに大変お世話になった。洗濯機や冷蔵庫・食器棚などは近所の親類から中古品を頂いたのだが、まず掃除機を拾った。濡らした新聞紙をちぎって部屋の四方に撒き、それを箒で掃き集めるという古典的な手法を用いていた私には、便利な代物であった。次に扇風機を拾った。これも盆地の奈良の酷暑を生き延びるには欠かせない文明の利器であった。特に恋人が来て愛の営みをするときには絶対不可欠の品であった。

 そして何よりも掘り出し物は、コンポ形式のステレオ・セットであった。壊れかけのラジカセしか持っていなかった私は、実に飛びついた。三度拾ってきてアパートの部屋で接続し、三度目に立派に使えるものを手に入れた。CDプレイヤーが音飛びをしていたが、これはよくある症状で、以前に出張修理で治して貰ったのを見て覚えていたので、ホームセンターで工業用のグリスを買ってきて、内部のシャフトに塗り込んだところ見事に蘇生した。その後カセット・プレイヤーが壊れたのを機に、実家に置いてきた自分のステレオを送って貰ったのだが、スピーカーとチューナーと修理したCDプレイヤーはいまもそのまま使用している。

 大阪/西成のあいりん地区では、日曜になると路上に売り物ともゴミとも見分けがつかない品々が溢れかえる。路上生活者のひとりが失くした靴の片方が、翌日そのガレージ・セールに出ていたという嘘のような話もある。お決まりのポルノ・ビデオから、誰かが録画した「おしん」のテープや、松本智恵子の昔のポスターや、小林旭のLPや、それから作動するのかどうか怪しい数々の電化製品、家具、下着、靴やバック、帽子、時計、おもちゃ、食品。西成のガレージ・セールには、たいていのものが揃っている。

 私はそれらの品々を眺めるのが好きだ。そしてちょいと路地を曲がると、無精髭のくたびれた男が、山積みになったゴミの中を、何か使えそうなモノはないかとしきりに漁っているのである。かれらのモノに対する感覚というのは、まだ使えるモノを次々と捨て、それが豊かな生活なのだと思っている、いわゆる「健全な」人々よりも、実に立派に正常なのではないか。私はふと、そんな思いに駆られてしまうのである。

  

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 人を殺したことはないが、人が死ぬ夢はよく見る。それもたいていは、幼い少女や子供たちで、私は彼らが自分の腕の中で今際の言葉を残して息絶えたり、首を吊ってぶら下がっているのを発見したり、高層マンションの手摺りから落ちていくのをなすすべもなく見つめていたりするのである。

 ある時は人気のない操車場で、顔見知りの高校生が物凄い形相で銃の試し撃ちををしているのを見かけ、かれのあとを尾いていくと、そのまま学校の職員室へ入っていって、教師たちを何人も撃ち殺したのだった。私は夢の中で何故か、かれの行動に理解を示していた。

 泉谷しげるの昔の曲に「春夏秋冬」という歌がある。いつ頃であったが、シオンという酔いどれシンガーがカバーしたテイクが好きだった。

 なぜそんな歌のことを言い出すのかというと昨日、東京の女子高校で生徒が遅刻を注意した先生を果物ナイフで刺すという事件があった。そして今日の夕刊に「学校生活をお終いにしたかったから」という趣旨の生徒の供述が載っていたのを見た途端、急に泉谷のその歌を思い出したのである。

〈今日ですべてが終わるさ 今日ですべてが変わる 今日ですべてが報われる 今日ですべてが始まるさ〉

 彼女はきっと、こんな歌を歌いたかったのだろう。その手段が、ナイフであったというのは短絡的だが、切実でもある。

 

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 東京の私の友人の来泊と、それに合わせて、つれあいの友人である女性がやはり泊まりに来てくれたので、気合いを入れて腕によりをかけた料理を作る。メニューはかくのごとし。

 一夜目。男のレシピでも紹介したキムチポックム(豚肉のキムチ炒め)をメインに、キムチやっこ、山芋キムチというキムチ尽くしに、じゃがいもと人参の味噌汁。

 二夜目。十八番のクリーム・ソースのパスタに、近所のベーカリーで買ってきたガーリックパンやレーズン、くるみ入りなどのパン。

 三夜目。つれあいが仕事へ出ている間、残りの三人で総力戦。包丁など持ったことのないわが悪友が馴れない手つきでタマネギを刻み、私がココナッツミルクを使ったナスと小エビのグリーン・カレーをつくり、既製のナンを添え、つれあいの友人の女性が、ブロッコリーの明太子和えとラッシー(インドのヨーグルト飲料)を作ってくれた。

 つれあいも、他の二人に交ざっておいしい、おいしいと夢中で頬張っている。それは嬉しいのだが、いったい何時から、この家の調理人は私と決まってしまったのだろうか。

 夜は夜でビールを東京ドーム一杯分くらい流し込み、朝まで生テレビ。

 後日、友人から礼のメールが届いた。「料理の腕もあがっているようで、食事も来訪の楽しみの一つとなっております」 こんな期待についつい応えつつ、いつか私は日本一の料理人になってしまうに違いない。

  

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 いつものように「大草原の小さな家」をつれあいと二人で見た日曜の夕刻、そのまま教育テレビで「ショスタコービッチ・楽譜に秘められた反逆」と題された番組を見た。

 スターリン支配のもと、粛正がすすみ国まるごとが巨大な強制収容所と化していたソビエトで、音楽家は死の危険に晒されながら作品を紡ぎだしていく。ナチス・ドイツに対する市民の抵抗を描いた交響曲「レニングラード」は誤解の元にスターリンに賞賛されるが、次の交響曲は厭世的で危険な作品と刻印を穿たれ、作曲家仲間たちが次々とかれを見捨てる中で、ひそかにスターリンを茶化した滑稽な音楽劇を作曲する。

 またその後も、生活のために“同志スターリン”を賛美する馬鹿げた宣伝映画の音楽なども手がけるものの、時代が終わってみれば、残されたかれの作品の数々は、素朴な人間に対する愛情と冷徹な時代の予見者の光芒をしずかに放っている。労働者たちが抱き合って微笑む仰々しくも嘘臭い宣伝映画のもったいぶったイヤラシサに比べ、真実を見つめ続けた音楽家のその鋼のようなか細い響きの、何と荘厳で清澄なことよ。

 暗い時代の中でかれは記す-----「われわれは幻想に包まれている。それはいつか柔らかな痛みとともに崩れ去っていく」

 ユングが、ナチス・ドイツを覆っていた集団による精神的な昂揚、あの奇怪な無意識のうねりの中では「人間の自我は無防備で、あまりにも脆い」とどこかで記していた。おそらく、自分もそうだろう。日の丸振って、万歳三唱をしていたかも知れない。スターリンの銅像は無惨にひき倒され、奪われた命は戻らない。

 〈個〉であり続けることの誠実さと困難を想った。

 

  

 

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