■904. 和歌山・北山村 母方のルーツを遡行する
(9月25日 22:20 · 和歌山県北山村下尾井 おくとろ道の駅)
さすがに前鬼のあたりは霧がもののけのように地面をはっていた。ネズミより大きく鹿より小さいものを轢きそうになった。ずっと土砂降りの山道を三時間半。車中泊の旅、始まる。百年前の先祖の地から。
(9月26日 7:06 ・北山村神護)
北山川の難所、太古にマグマの熱により焼締めされた地層を川の流れがV地に削り取った「オトノセ(音乗)」を見下ろして立つ「音乗新水途開墾 祈念碑」。
曾祖父の「中瀬古為三郎」、為三郎の妻の兄で明治の世に筏師70名を引き連れて朝鮮・鴨緑江まで出稼ぎに行った「川邊熊太郎」の名が刻まれる。
(9月26日 9:34 ・熊野川町請川)
土砂降りの北山村を逃れて(笑) 本宮大社近く、請川の成石兄弟の墓を訪ねた。「明治政府 架空の大逆事件」 「無告の幽魂を弔う」等と刻まれた碑の前
で、しばし瞑目する。おまへは、明確な抵抗の意志を内蔵してゐるか。橋向かいの筌川神社へ立ち寄る。雑草が墓標のように立つさびれた社殿。鳥居の横の斜め
に切り取られた灯篭は大逆のからみかとも邪推する。筌とは竹細工の漁具をいう。竹もまた賎視されたものたちの職能である。雨もやんできた。
(9月26日 11:57 ・熊野川町宮井)
大台からの北山川と十津川からの熊野川が合流する熊野川町宮井に残る、こちらも「大逆の徒」高木顕明が布教に訪れた松沢炭鉱跡。昭和38年の閉山だが石積
みや道、建物の土台など、結構かつての炭鉱夫たちの暮らしの痕跡が残っていて興奮した。ほとんどは廃屋だが奥に一軒だけ、軒につるした鳥籠に文鳥を飼って
いるおじいさんがいた。炭鉱へ向かう山手の斜面には蜜蜂の巣箱が竿石のように並んでいる。いったんやみかけていた雨がまたひどくなってきたので、山道の途
中で引き返した。狭い谷筋にかつては建物がぎっしり並び、人々の汗と熱気がこもっていたろうこの路地々々を、顕明もまたあるいたのだと思うとじつに感慨深
い。かれはここから山形の監獄へつながれ、そこで自死したわけだが、もし無告の幽魂というものがあるのなら、このなつかしい炭鉱跡もふらふらと帰ってきて
いるだろう。
(9月26日 12:18 · 熊野川町宮井 「黎明」)
いちおう煮炊きもできるよ
う、マナスルストーブや米や簡単な調味料も持ってきてるのだけど、こう土砂降りじゃとても無理です。昼は悩んだのだけど、「昭和のラーメン」に誘われまし
た。餃子がやけにちっちゃく、ラーメンも具がさみしい限りだけど、あっさりめのスープはなかなかわたし好みだったよ。成石兄弟の墓の近く。
(9月26日 19:16 · 北山村大沼)
北
山川を見下ろす墓地をめぐり、ひっそりと死んだような集落をめぐる。百年前のひとびとはにぎやかにそちこちに出没する生きていたころとおなじようなしぐさ
で。ニューギニアで死んだ廉平と守、娘の最後を看取ったはん婆さん、結核で故郷の墓に座棺で埋められた祖母。あなたたちの仕合わせだった頃の写真だとスマ
ホの画面を墓に見せた。ほそい石段をあがっていくと人様の敷地だった。どこへ行くんだね、と縁側から覗いた老婆が訊ねた。戦時中に母が祖母と疎開して暮ら
していたあの家にいきたいんですと答えると、老婆はうれしそうに、行きなさい、行きなさい、ここを通って行ったらいい、とうなずいた。そうして集落と青い
北山川を見下ろす小さな平屋のベランダのような前庭に長いことたたずんでいた。みんなが仕合わせだった頃、悲しかった頃。それらを考えながら集落を見下ろ
し、ふいとうしろを振り向くと祖母を看病するはん婆さんが笑っているような気がして、ねえ、はんさん、と思わず言いかけた。ほんとうにひとびとは、いまも
この山あいの集落のそちこちを笑ったりうつむいたりしながらにぎやかに動き回っているそんな気がしてならない。
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(9月26日 19:55 · 北山村下尾井 おくとろ温泉)
先祖の地の写真をLINEでいろいろ送っていたら70年前に疎開していた母が、二日も続けて車の中で寝るな、一泊プレゼントするから宿に泊まれとしつこく
言ってくるので、おくとろ温泉のカウンターで訊いてみると、バンガロー一棟貸しなら当日でも対応可能と言うので、それでお願いした。素泊まりで1万円。お
くとろ温泉のレストランで唐揚げ定食の夕飯を済まし、夜の山影を見ながら露天風呂に浸かり、もうすっかり旅行気分ですわ。売店でつまみと缶ビール、太平洋
の小瓶を買って、バンガローってずいぶん離れたところにあるんだな。利用者はほかにだれもいなくて、ちょっとさみしいぞ。布団はまだあるから、だれか来な
い?
(9月27日 14:00 · 北山村四ノ川上流)
そこは谷筋をいくつも重ねた人跡も絶えたさ
みしい場所だった。谷と谷が合流する流れの激しい場所をいくどかすぎて、水が生来のたおやかさをたもっている場所だった。長いことその峪に座して、はじめ
に浮かんできたのは、「この流れを下っていけば里があり交わりがありゆたかさがある。けれどわたしはこの流れをひとり遡上していく」ということばだった。
このあたりには古き木地師たちの遺跡があちらの谷こちらの山間に眠っているはずだった。それから時間がゆったりとすぎていった。しずかな流れの上に木の間
からいちまいの葉がひらひらと落ちた。水はちいさな石によって無数の文様を描いた。対岸の苔むした岩場にその水のながれを反射した陽がゆらゆらと映えた。
そのすべてがここではうつくしく、思わずなみだが出そうになった。気がつけばわたしはいくどか眠っていたらしい。おぼえていないが、うつくしい夢を見たよ
うな心地がする。この流れを下っていけば里があり交わりがありゆたかさがある。けれどわたしはこの流れをひとり遡上していく。
(9月27日 15:23 · 北山村四ノ川上流)
北山村四ノ川上流。かつての鉱山跡を求めて熊出没の看板が立つ人跡途絶えた源流の林道で、人生初のタイヤ交換。さあ、タイヤ交換が先か、熊に食われるのが先か。
(9月28日 20:00 · 和歌山県 新宮市 · 速玉大社 西村伊作記念館)
新
宮。速玉大社境内の忠魂碑を見に行った。だいぶ奥まったところにあって、いままで気がつかなかった。日清日露の戦勝を祝って地元有志と仏教界により建てら
れた。唯一、これに反対した高木顕明はますます地元からはじかれた。かつては何か勇ましい文字が刻まれていたのだろう銅板の大部は消されている。そのまま
残しておくべきだったな。そして顕明一人が反対したこと、熱狂的に賛成して顕明をつまはじきにした連中の名前もしっかり刻んでおくべきだ。
も
うひとつの新宮は、これもはじめて訪ねた西村伊作記念館。大石誠之助の甥っ子である。かれが家族のために設計したマイホームを保存・展示しているが、建て
られたのは大正3年なので、誠之助はすでに刑場の露となっていた。見たかったろうな。じつにすばらしいわが家で、家具を含めてすべて新宮の大工たちが伊作
の設計をもとにこしらえて、のちに東京の家を建てたときも新宮から大工を呼び寄せたらしい。このステキな建築や伊作については記念館のサイトなどを見ても
らうとして、わたしが注目したのは飾られていた熊野川河口の貯木場の絵。まさに長い旅をしてきた筏の終着場の光景を西村伊作が描いている。そういえば山林
王であったかれの実家は下北山なのだ。そこに伊作のおばあさんの家がまだ残っていて、また伊作や林業、筏流しに関する資料館があると聞いたことがあると祈
念館の女性がおしえてくれた。そうだ、伊作と北山村の筏師の線もあった。しかもその上桑原は筏師組合長をしていたわが曾祖父・中瀬古為三郎が若干40代で
亡くなった地でもある(除籍謄本に記載されている)。これは行かなくてはと、あわててオークワ新宮店で中上健次愛飲の清酒・太平洋を二瓶買い込んで車に乗
り込み、念のためにと上桑原にある下北山村歴史民俗資料館に電話をしてみたところ、村の教育委員会が出て、資料館は現在、毎週木曜日の午後1時から4時ま
でのみの開館という。伊作の祖母の家はまだ残っていて、西村山林という会社が所有しているので、事務所に言えば見せてもらえるだろうとのことであった。ま
た次の機会か。伊作と筏師の件はもうすこし調べてみたい。伊作自身が何か書き残しているものはないだろうか。
その後、たまたま見つけた、かつての中上の「路地」、春日の番地を見つけて、ニコイチ住宅の並ぶそのあたりをうろついていたら雨が降ってきたので、新宮を離れることにしたのだった。あ、川口さんが教えてくれた大逆事件の記念碑、見に行くの忘れた!
(9月29日 9:00 · 北山村役場)
最
終日の朝は北山村役場に立ち寄った。262世帯、426人の小さな所帯(2020年統計)だが合併もせずに、じゃばらと筏で独立を守っている村だ。えーっ
と総務課、住民福祉課・・ 教育委員会はどこだろうかなぞと入口で考えていると、わたしと同世代くらいの女性の職員さんが「なにか?」と声をかけてくれ
た。
「北山のむかしのことを調べているんですが」
「どんなことですか?」
「主には二点です。ひとつは明治・大正期の筏流しについて。もうひとつは戦時中に四ノ川にあったコバルト鉱山について、です」
し
ばらくして一人の年配の男性職員に引き継いでくれて、二階の部屋に案内してくれた。わたしはじぶんのルーツの話、とくに明治40年に筏師の組合長だった曽
祖父・中瀬古為三郎について、朝鮮へ筏師を引き連れて出稼ぎに行った為三郎の義兄の川邉熊太郎について、そして戦時中にコバルト鉱山でじっさいに働いてい
た朝鮮人労働者の証言などについて説明した。
しかし残念ながら和歌山市の文書館の方が危惧していたとおり、2011年の紀伊半島大水害に於いて、北山村の古文書等を含む資料や村史の在庫などを保管していた旧小学校が水没して貴重な資料はすべて水に浸かってしまったのだった。
「それはもう、乾かして何とかなるとかいうレベルじゃなくて?」
「はい。もうどうにもならなくて、ぜんぶ廃棄されました」
そんな話をしていたら、暑いのに黒の背広を着たちょっとくたびれたジョンリーフッカーのような老人が前の廊下を通りかかったのを職員氏が呼び止めて部屋に招き入れた。
あ
とで名刺を頂戴したが、久保姓のジョンリーは村議会の議長であった。ひとしきりわたしの説明を聞いて「なんだ、あんたはそうするとわしの家系にもつながっ
てるのか」「そうかも知れませんね」 前の日に立ち話をしたおばちゃんも久保だった。久保がたくさん、みんなだれかとつながっている。
村議会議
長・久保ジョンリーの父親はもともと薬局をしていて、当時、村で唯一のカメラを持っていてじぶんで現像をしていたという。「それで、その写真は」思わず身
を乗り出したわたしに、ジョンリーは「ああ。北山村のあれこれを撮った写真やネガが古い箱にたくさんあって〇〇の畑に置いていたんだがな、わしも数年前に
あの世へ行きかけて、戻ってきたんだが、それから終活をしなくてはと思ってつい一年ほど前だ、ぜんぶ焼いてしまった」
ジョンリーは若い頃に北山村を出て都会へ働きに行って、歳をとってから実家へもどってきたので「そういうわけで、わしは北山村に思い入れがもともとないんだよ」 ・・ジョンリー、それでもあんたはいま村議会議長じゃないのか。
い
くつか村の風景を撮った写真が区民センターに飾っているというので、見せてもらうことになった。ジョンリーは悲しいブルーズを歌って「わしはこれから法務
局へ行かんといけないので、すまんな」と名刺を置いて出て行った。職員氏が携帯でどこかへ電話して喋っている。「あ、ナカさんかい。すまんね、ちょっと区
民センターに飾ってる写真を見たいという人が来てるんで、鍵を開けておいてもらえるかな」
階下へ降りるとさいしょにわたしに声をかけてくれた女性
の職員氏がいた。「そういえば、この人も川辺さんですよ」と言われ、「先祖に熊太郎さんとか、いませんか?」 なかば冗談めかして言ったのだが、「はい。
わたしの曽おじいさんです」 ストレートど真ん中が返ってきて、わたしは思わず「マジですか!」と叫んでいた。わたしは手元の作成中エクセル家系図を取り
出して「わたしの曽祖父で筏の組合長だった中瀬古為三郎の妻が川邉たつさん。たつさんのお兄さんが熊太郎です」と説明した。相手の女性もとても喜んでくれ
て立ち話をして盛り上がったのだが、とりあえずメールアドレスを交換して、あとはメールでやりとりしましょうということになった。熊太郎の写真が残ってい
ないか探してみてくれるという。
区民センターは歩いて1分。玄関をあがったすぐの壁に引き延ばしたモノクロの写真がならべてあるが、どれも昭和
20年代30年代の戦後のものだ。青年会の集合写真、旅芸人を招いての時代物の舞台風景、昭和28年テス台風の水害、小学4年生の久保ジョンリーが写った
小学校の写真、ダムができる前の河原での運動会、おそらく最後の頃だろう観光でない筏流しの風景等々。写真を撮らせてもらった。
区民センターから
の帰りしなに職員氏が、一時期村長を務めた祖母の父親・久保八十次郎について「村長をやったのだったら、議場に写真があるんじゃないかな」と二階の奥の部
屋へ招いてくれた。教室ほどの大きさの議場で、正面の上壇に右から初代を皮切りに過去の村長たちの写真が額に入れて飾られている。久保八十次郎は第11代
の北山村村長である。八十次郎も筏方の総代で「久保組」を名乗っていた。はじめての対面である。
その後、役場の玄関前で出会ったもう少し若い職員
氏に話をしてくれて、かつてNPO法人が村おこしの一環で活動をしていたときに収集した古い写真のなかに、たしか朝鮮へ出稼ぎに行く直前に撮った記念写真
があったはずだが、とPC内のデータを探してくれた。写真のデータが見つかった。ロープを丸くくくりつけた櫂を手にすっくと立つ若者二人のセピア色の写
真。「大正7年 渡鮮祈念」の裏書が添えられている。コピーを頂いた。
最後にもとの部屋に戻って、職員氏がコバルト鉱山跡へ行く道をおしえてくれ
た。この人は村史のからみで木地師の墓の残る立会川上流の八丁河原も行ったことがあるという。林道雨谷線から入って途中まで車で、あとは歩きの杣道があっ
たという。「でも最近は山に入る人がいなくなって、道も残っているかどうか」
コバルト鉱山跡については、わたしが目星をつけていた途中から川へ下
る鉄の階段は後世のものでもうすこし先に、林道からは若干見えにくいが吊り橋があってそれで対岸へ渡り、そこから山道を30〜40分ほど登ると廃坑跡があ
り、砂利を積んだコンテナのようなものも残っているという。その先の川筋でわたしが見つけた対岸の石積みなども、おそらく飯場などの遺跡ではないかとい
う。そして説明につかった詳細な「北山村管内図」を差し上げますんでと呉れた。
9時間もなくに訪ねて、役場を出るときはもう昼に近かった。たくさ
んの人が親切丁寧に対応してくださって、収穫は予想以上だった。役場を出る時にはかの熊太郎の曽孫の職員氏は姿が見えなかった。ほんのすこし、日にちや時
間がずれていたら会うこともなかっただろう。これも運命の赤い糸か。帰宅してからメールが届いていた。
「本日はお訪ねいただきありがとうございました。
曾祖父さんと繋がっている人と会えたことにびっくりしていますしものすごく嬉しかったです。
川辺熊太郎の写真を探さないといけないので、申し訳ございませんが少し時間を下さい。
宜しくお願い致します。」
過去を遡上するとぼんやりと見えてくる未来のかたちってあるよね。
(9月29日 13:51 · 奈良県下北山村上桑原)
下北山村上桑原に残る、西村伊作の実家と墓。実家は現在は西村山林の営業所として使われている。伊作の墓のことを教えてくれた男性は地元の人で、祖父が筏師として満州へ働きに行ったという。