■903. 島村清吉
郡山中学校(当時)の数学教師で仏教学者であった島村清吉との出会いは、紡績工女の慰霊碑を見に行った寺のすみに教え子たちが建てた参り墓を見つけた偶然 からはじまった。島村清吉は幕末の1863(文久3)年に堺で生まれ、1926(大正15)年に郡山で亡くなった。当初は紡績工場のおまけのつもりで調べ 始めた清吉だが、「チベット旅行記」を記した河口慧海を竹馬の友とし、清吉を郡山へ呼び寄せたのちに東京美術学校校長となる正木直彦を同郷に持ち、本願寺 を痛烈に批判して破門された浄土真宗本派寶満寺住職の梁瀬齊聖の心酔を受け、死後にも有吉佐和子が「複合汚染」で描いた息子で五條の医師・梁瀬義亮に多大 な影響を与えるなど、調べるうちに清吉を取り巻く多彩な人間模様と明治―大正の時代背景に徐々に惹かれていった。清吉は生前、関西を中心に各所で仏教の講 座を頻繁に行っており、それらをもとにした町人や商人を含むネットワークがあり、現在でも大和高田や五條の寺ではかれを慕う人たちが存命である。しかし残 念ながらここ大和郡山に於いては、島村清吉のことはほとんど忘れ去られている。これまでのわたしの拙い調査で、堺の生家のあったあたり、鉢ヶ峰の堺公園墓 地に眠る父・喜八の無縁墓、郡山堺町の島村邸跡、長男の賢一が昭和二十年に佐賀で亡くなっていることなどが分かっている。また教え子たちが刊行した語録集 や歌集の他、多くの関連資料をストックしているので、いつか島村清吉についてまとめたいと考えている。ここでは主にWeb上で書き残したものをFBのメモ 書き程度のものも含めてまとめてみたが、じっさいにはもっとたくさんの場所を訪ね、資料をさがしもとめた。
東近江を訪ねた翌日の日曜。早めの昼食を済ませて、先週に約束していた12時半頃に誓得寺へ行くと、門は開いていたが、呼び鈴を押しても、玄関先に声をか けても反応がない。出かけているのだろうかと思って、しばらく本堂の階段にこしかけて、慰霊碑の前の陽だまりをぼんやり眺めていた。五月の光が遍照金剛と いったふうに満ちていて、かつては墓域だったという花壇に咲いた花の色がまるで死んだ女工の息のようにも感じられる。開いた山門のむこうをときおり近在の 年寄りが手押し車を引いて通り過ぎていくのが見え、その書割のような場面が逆にあの世の風景のようにも見える。あちらがあの世であれば、こちらはなんだろ う。そんなことを考えていたら、どうやらはじめから家の中にいたらしい普段着の住職が本堂の前にひょいとあらわれた。
過去帳をそのまま見せるのはためらわれたのだろう。便箋に丁寧な字で、判別している出身地と人数だけを書いた紙を住職は用意していた。明治43年2月から 昭和12年1月にかけて、全員で96名(内女性59名、男性37名)。これは寺の過去帳から紡績工場に関する過去帳だけを別個に書き出してまとめたもの で、寺の本堂の裏手にある小部屋に祀ってあったものだという。わたしは、不満足であった。せめて本物の表書きだけでも見せていただけないかと頼み込んだ。 本堂の奥から持ってきてくれたそれは黒い光沢の板で綴じられた立派なもので、表には「過去帳 大日本紡績工場」とあり、こんな感じなんですよとめくって見 せてくれた中身は、上から法名(戒名)、亡くなった日、そして名前(俗名)の枠があって、なかにはその名前の枠の中に小さく出身地や年齢、生年月日などが 記された者もあるがそれは少ない方で、中には法名や亡くなった日すらなく、ただ名前だけが書いてある者もある。出身地は長崎や鹿児島、宮崎など九州が多 い。ついで石川県や島根県の日本海側。奈良県が一人。そして朝鮮人と思われる名前が2名。出身地が書いてあるのは、おそらく遺骨の引取りがあった者だろう と思われる。誰々長女や、誰々私生子といった記述も見られる。逆に出生地も書いていない者は引き取り手がなかったということか。
年齢が分かる範囲ではやはり20歳前後の若い女性が多く、最年少は16歳。育ち盛りの少女がこれほど亡くなっていること自体、工場での過酷な環境がしのば れる。かつて関西学院大学社会学部(島村ゼミ)の卒業論文でこの郡山紡績工場をとりあげ、フィールドワークをもとに「女の街 大和郡山と紡績工場をめぐる 人びと」を記した住田文氏は、戦後にこの紡績工場に勤めていた工場側の総務課と思われる部署で働いていた男性と、やはり戦後に女工として働いていた女性か らの聞き取りを行なった上で「郡山紡績工場では女工哀史はなく、女工たちは自分の時間やお金を自由に使い、有意義な青春時代を送っていた」と結んでいる が、安易な結論と思わざるを得ない。ちなみに大正9年1月23日に「釈尼妙順」の法名で供養された18歳の少女は現在の韓国の慶尚南道普州から働きにきて いた。藤永壮「植民地期・在日朝鮮人紡績女王の労働と生活 −大阪在住の済州島出身者を中心に-」によれば、「紡績工として働くことを目的に、朝鮮人女性 が日本への渡航をはじめるのは、韓国「併合」から問もない 1910年(明治43年)代前半のことである。 1913年12月のある新開記事は、大阪の紡績会社では日本人だけでは女工が不足するため、最近では朝鮮人女工を使用するようになっており、皮切りとなっ た摂津紡績の54名、三重紡績の40名のほか「五六人位宛は彼方此方にも見るやうになったと伝えている」という。亡くなった少女の過去帳には姉の名前も添 えられているので、姉妹で異国の地に働きに来たのかも知れない。彼女はいまでは故郷の墓に帰って眠っているのだろうか。
誓得寺の成立ちは古く、当初のおそらく念仏道場のような始まりから数えれば400年近い歴史があるという。現在の佐保川沿いの田んぼの中にある墓地に隣接 して建っていた寺を、いつの時代か現在の地へ移築したらしい。その旧寺地はかつて平城京の都があった時代に羅城門が建っていたといわれる場所にほぼ近い。 前述の住田論文は、おそらく住職の父親だと思われる先代からの聞き取りを伝えている。「ここでは、大日本紡績工場で亡くなられた女工さんを葬っている。特 に、地方から出てきた女工は身よりもなく、葬儀等を全て行っていた。当事うちのお寺は大日本紡績の檀家のような役割をしていたからね(誓得寺主人)」 「亡工手之碑」がはじめに建てられたのが明治40年で、昭和2年に「改碑」されている。まさにこの「過去帳 大日本紡績工場」に記された死者たちに重な る。先代が父親からこの寺を受け継いだのは昭和30年代だったそうで、その先代がこの「過去帳 大日本紡績工場」を編んだのであれば、ちょうど昭和34年 に織布工場を閉鎖し、さらに昭和39年に操業を全面停止した紡績工場の終焉とも重なる。住職が子どもの頃に、父親が紡績工場に関する法要を行った記憶があ るというから、最後にこの「過去帳 大日本紡績工場」を編んで、その後も本堂の裏の小部屋に祀り、供養を続けてきたのだと思われる。
工場で亡くなり、檀家代わりの誓得寺が葬儀一切を執り行い、身寄りのある者は遺骨を引き取られていった。では身寄りのない者、遺族などと連絡がつかない者 の遺骨はどうなったのか。住職の話では、法名(戒名)が記されている者はおそらく誓得寺で弔い、墓石をつくることもなく、遺骨は無縁供養の場所(供養塔な どの納骨スペース)に収められたのだろう、と言う。前述した佐保川沿いの誓得寺の墓地(来世墓)の井戸の横に、先代が整理をした無縁墓が積み上げられた小 山があるが、その頂上に無線供養の塔があり、納骨の空間があるという。またこの来世墓は石の鳥居が立っている不思議な墓地だが、かつては墓守がいて、中央 の道が交差し広くなっているところに石の台座が置いてあるのが、かつての堂のあった場所だとも聞いた。このあたりはWebで見つけた次のような話とも合致 する。「たまたまお墓参りの人から聞いたところでは、昭和の初めまで墓守がいて、墓地のお堂に住み込み、いつも白い服を着ていたという」 この墓守で あったら、墓もつくられずに葬られた工女たちの話も知っていたかも知れない。
ところで誓得寺の慰霊碑の背後、寺の壁にひっつきそうなすみに建っている「島村先生」と書かれた墓石がある。側面に「昭和七年三月 遺弟建之」と刻まれ、 後ろは壁との距離が近くて見えにくいのだが「大正十五年」とあるのがこの「島村先生」の亡くなった日だと思われる。じつはこれは生徒たちが建てた学校(郡 山高校)の先生の墓で、遺骨は納められていない、いわゆる詣り墓で、住職が子どもの頃にはまだ当の生徒たちがお参りに来ていたのを覚えているという。建立 時に25歳だったとしても、昭和が終わる1989年にはすでに90歳になる。もうだれも生き残っている生徒はいないだろう。ほんとうなら無縁墓になるのだ が、先代の配慮で境内のすみに残している。寺の正門から本堂に至る数メートルの空間はかつて古い墓石で埋まっていた。住職のうろ覚えの記憶では、正門から 入ってすぐ左手の角にその「島村先生」の墓が階段を上る立派な台座に乗っかり、また右手の本堂に近い角にこちら側を向いて「亡工手之碑」がこれも立派な台 座に乗って立っていた。
この「過去帳 大日本紡績工場」も将来、また次の本山から派遣された住職に引き継がれるときにあるいは処分されるかも知れないと聞いて、わたしはじつに勿 体ない。紡績工場について残っているのは現在、跡地に建てられた団地のはたにひっそりと置かれている「大日本紡績工場跡」の碑と、ここの慰霊碑だけしかな い。しかもここで働いて、歳若くして亡くなった女工さんの記録がリアルに記されたこの過去帳はぜひ残すべきだ、残してやりたい。どうでしょう。わたしが市 の教育委員会あたりにかけあって、正式にデジタル資料か何かで残すように話をします。その説明のための資料として、わたしからは公開はしませんので、いっ たん写真に撮らせてもらえませんか。必死の思いで熱弁をかさねて、ついに住職の了解をもらって「過去帳 大日本紡績工場」をすべて撮影してきたのだった。 「もちろん、教育委員会には近いうちに話しに行くよ」と家に帰って得意そうに語る父の顔を、娘はオレオレ詐欺の犯人でも見るような疑いの眼でじっと見つ めるのであった。
◆郡山紡績 https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/rekisi/src/history_data/h_094.html
◆
女の街―大和郡山と紡績工場をめぐる人びと― (島村ゼミ卒業論文要旨集)
http://d.hatena.ne.jp/shimamukwansei/20110113
◆ 平城京羅城門と来世墓の鳥居 http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm028.html
2018.5.21
数 日前から例の過去帳を少しづつ、エクセルに入力してデーターベース化している。年齢が書いていない者も生年月日と命日で年齢が出るようにもした。そうし て判明した13歳の少女もいた。法名(戒名)、俗名、死亡日、ときに年齢、生年月日、そして出身地などを、PCの手書きパッドで漢字を探したり、グーグル 検索で村の名前や場所などを確認していく。そんなことを数日やり続けていたら、ある日、夢で彼女たちの故郷を訪ねあるいているじぶんがいた。どうにもいけ ない。最近は週末に出かけてばかりいたので、今日は家でのんびりしようかと思っていたのに、気がついたら自転車で県立図書館へ走って紡績工場の資料を漁っ ていた。昭和18年に皇后が奈良県を視察したときの分厚い資料の綴りはじっくり見たら興味深いかも知れない。大日本紡績の50年史でははじめて見る工場の 門の写真があった。奈良歴史研究会なる冊子の21頁に及ぶ「郡山紡績の設立と経営動向」(北井直樹)は冊子自体が30ページしかなかったので、規定どおり 半分の15頁のコピーを見せて、残りはリュックに隠した。「職工事情」と題した全三巻からは明治34年に郡山紡績から逃げ出して保護された2名の女工や、 5人の大阪の男たちに誘拐され強姦された紡績工女の警察資料などを写した。誓得寺の境内のすみの墓石「島村先生」の写真も「郡山高校百年史」の中に見つけ た。優秀な数学の教師だったが仏教にも造詣が深く、 大阪の寺院などに招かれて仏教や哲学に関する講演をたびたび持ったそうだ。紡績工場ではないが、「古 都の弔旗」と題された奈良R.Rセンター(戦後の数年だけ奈良三条通りに設置された米軍向けの慰安施設で、多くの日本人女性が「占領軍向け慰安婦」として 「提供」された)の「調査報告書」なる一冊も貴重な収穫だった。これは状態が良くなかったので、はじめて遠隔コピー機で複写した。はじめてと言えばマイク ロフィルムもはじめて閲覧したが、じぶんが操作方法を知らないものだから手短な説明でさっさと立ち去りたい感ありありの女性司書スタッフが腹立たしかった ので、逆に何度も呼びつけて説明を求めた。最後は勝手にじぶんでフィルムを取り外して返却したが、ネガ・ポジ逆転のマイクロ文書を早送りで延々眺めている と車酔いすることがよく分かった。ふらつきながらジップにウンチをさせにゃならんと自転車を漕いで急いで帰った。そんな慌しい日曜日。
2018.5.27
な
んと、誓得寺のすみに残る「島村先生」と、あの「チベット旅行記」の河口慧海がつながっていた!
世間って、すごいな〜
なお、このときの奈良県尋常中学校の校長が東京美術学校(現東京藝術大学)校長も務めた正木直彦で、その正木から慧海の話を聞き、チベット行きを目論んだ
後の薬師寺管主・橋本凝胤はかつて、わたしが調べた西ノ京にあった救癩施設「西山光明院」を管理していた龍蔵院の住職だった若い頃に最後の患者・西山なか
の死亡時に立ち会って遺言書の作成までした。
紡績工場を調べていて、チベットや救癩施設につながった。世間って、すごいな〜
◆高山龍三「河口慧海と堺の人びと」(PDF)
https://www.city.sakai.lg.jp/.../ann.../36-kenkyuhoukoku.pdf
2018.5.28
草 さえそよともなびかない。日はまるで熱い霧のようにふりつもる。石も土もじっとこらえている。青々としげった草だけが陽炎のように一瞬ゆらいで、人に は見えない瘴気がたちあがる。どこまでもどこまでもはてしなくつづく、この奇怪な磐座のような大小不揃いの墓石の散在のなかをさまよいあるいているうち に、わたしはじぶんが何者であるかをわすれる。熱の放射によろめき、時の堆積にたえかねて、おもわず足元の黒ずんだほとけを蹴とばしそうになってすわりこ む。草いきれのむこうにだれかの熱い吐息がある。堺の街中にある智禅寺を訪ねたのは十時頃だった。熊野、と書いて「ゆや」と読む町だ。かつて河口慧海とも 親しく交わり仏教にも造詣が深かったという郡山の数学教師・島村清吉は大正15年、この寺に葬られた。もし子孫がいるのなら、郡山のある寺にもかれを偲ぶ 生徒たちが建てた墓がいま無縁仏になりかけていますよ、と伝えたかったのだが、境内の数少ない墓地には「島村」の名は見つからなかった。母屋の呼び鈴を押 した。高齢の住職は不在だったが、娘さんらしい女性が親切に話を聞いてくれ、当時の過去帳まで見てくれたが名前はない。昭和20年の空襲で堺の中心部だっ たこのあたりはほとんど焼けたそうだ。それから区画整理や道路の拡張などで無縁仏80体ほどを、南の鉢ヶ峰墓地にうつしたという。あるいはそこに眠ってい るかも知れない。ああ、すでに「島村先生」はその古里ですら無縁仏となっていた。わずか百年の間に。かれが生きていた明治の時代にはじまったこの国の紡績 産業の現場では、かれが死ぬる頃にはすでに多くの朝鮮やこの国の被差別民、そして遠方の貧しい山村から働きに来たうら若き女工たちがぼたぼたと腐った果実 のように落ちて草葉の陰に臥したのだ。持参した「島村清吉」に関する資料と連絡先を置いて、何か分かったらお願いしますとつたえて、南海本線の堺駅まであ るいていった。ザビエル公園の裏手のUR団地の角に「明治3年、日本で二番目に建てられた」という堺紡績所跡の案内板を見つけて、それから南海本線で岸和 田のひとつ先、蛸地蔵で降りた。そこから20〜30分、海の方へあるいていけばかつての寺田紡績工場の当時の赤煉瓦がそのまま、現在はユニチカ(旧大日本 紡績株式会社)の子会社である合成樹脂加工会社の工場として使われている。いまはなき郡山紡績工場のたたずまいを思い描くために、その赤煉瓦を見にきたの だ。ぐるりと工場の周囲を一周してから、そのまま近くをとおる紀州街道に沿って春木をめざした。かつての商家が立ち並ぶ趣きのある旧道は岸和田城のはたを 通り、やがて、かつて朝鮮人集落の町だったという一角をぬけて、そうしてたどりついたのが下野町にある岸和田市管理の共同墓地だ。入口わきに紀州日高出身 の徳本上人筆による名号塔がそびえているのを横目にすぎて、それからかれこれ一時間、広大な草葉の陰を徘徊した。一万基は優にあるだろう大小さまざまな墓 石の中から、そしてついに見つけ出した。青味をおびた小ぶりな自然石に「咸月」と刻まれた、紡績工場で亡くなった朝鮮人女工のものといわれる無線仏を。 「咸」は朝鮮半島の咸鏡道を指すのではないかとも言うが、朝鮮人の「姓」のひとつでもあるらしい。「月」は朝鮮半島でよく女性にあてられるそうだ。墓石を 見つけてから、そういえば向こうの墓地のはしっこにきれいな野花が咲いていたと取りにいって、雨水がたまっていた花立に挿して、水筒のハーブ茶を墓石にか けた。それからしばらく、放心したようにそこにすわっていた。おまえはどうしてこんな見も知らぬ異国の女工の墓なんぞを探しにきたのか。そう誰かに問われ ても、わたしにもよく分からない。ただ、来たくて仕方がなかった。そして百年前、多くの彼女たちが歩いただろう土地の上をじっさいにあるいてみたかった。 なにも考えずに、汗をぬぐい、足をひきずり、わが身に写実したかった。「海を見に行こうか」 ふと思いついて、そう墓にむかって言っていた。そうだ、海が 見たい。金賛汀氏の「朝鮮人女工のうた」には、過酷な環境の中で月に二回の休みの日に、「二銭か三銭ぐらいのお金で」「野菜の揚物などを二つ三つ買っ て」、それを持って浜辺に行ったという思い出話が出てくる。彼女たちが見た海を見たい。そう思って「岸和田渡船」の看板のある海岸沿いまで歩いていったけ れど、当時の景色とはきっとすっかり変わってしまったのだろう。埋立地の工場や倉庫群に囲まれたその先に、きらりと白い海面が光った。それは何だかとても 遠く感じた。遠い、遠い海だった。湾岸沿いの味気のない広いバイパスからふたたび春木の住宅街の路地にもどって、最後に春木中学校にたどりついたのはもう 3時をすぎていた。半日、昼飯を食うのも忘れてあるきまわっていた。ここはかつて岸和田紡績の春木工場の跡地で、当時、紡績工場を囲っていた赤煉瓦の塀が いまも一部、学校の塀としてそのまま残されている。現在の校舎のあたりがかつて工女たちの寄宿舎があった場所だという。その赤煉瓦塀をぐるりと見てから、 近くの八幡山公園の木陰で小休止する。公園に隣接する弥栄(やえい)神社に寄った。「玄界灘を渡った女性信徒たちの物語 岸和田紡績・朝鮮人女工・春木樽 井教会」によるとこの弥栄神社のわきに1941年まで伝染病の隔離病舎、避病院があり、専用の焼き場と高い煙突があったという。労働環境の劣悪な紡績工場 ではコレラやチフスなどの伝染病が多発した。最盛期で春木工場に働いていた朝鮮人女工の数は200名ともいう。多くの女工たちが故郷へ帰ることもなく亡く なり、焼かれ、身寄りのない無縁仏として共同墓地へ葬られた。そのうちのひとつがあの「咸月」と刻まれた無縁墓だろう。それ以外の多くの女工たちは、忘れ 去られ、路傍の石くれとなった。
2018.7.2
そんなわけで、非常に欠点がよくわかるから、人が信じられないのです。確かに悪い癖だと、私も思った事がある。どの偉い先生の噂をしても「あれか。うん、 大したことはない」とすぐに言うのです。同じように学んでいたので、当時の偉い学者を大勢知っているのです。私もその偉い先生方の教えを受けて、それで 帰って父にその先生の話をすると「うん、あれか、あれは大した事ない」ちすぐに言う。父を尊敬はしておったけれど、反面「なんと冷たい人だな、あの人は」 と思った事がある。人を褒めて「そうか」と言った事がない。だから、どうも信心が上手くいかなかったようです。人を信じることが出来なかったのです。
それでも、親鸞聖人は信じようと一生懸命になるけれども、何やら信じられない。やはりお言葉しか残ってなくて、直にお目にかかれない。そうすると、何か言 葉の欠点が見えて来るというのです。と云うのは、父が勉強していたのは真宗学です。真宗学というのは、徳川時代からずっと来て、私がいつも言いますが、明 治以来ずいぶん変形したのです。人間が変形したから、その欠点が見えるのです。だから、そうも信じられないと、非常に悩んでおったのです。
それが、島村先生が五條の桜井寺さんに講演に来たのです。例によって私の父は「そんな、大したことな い」と思って行ったのです。そしてその講演を聞いて、後で島村先生にお目にかかって話をして、それ以来一生、島村先生のことは菩薩の化身として疑わなかっ たのです。
その時の話は面白いのです。ちょっと申しますと、「ワシはともかく、問答して負けた事がないのだ」というのが自慢だったのです。先生の講演を聞いてから 「後から出会って、講演の話は皆にする話だから、ひとつ立ち込んだ話をして、あの人をいっぺん、問答でやっつけてやろう」と思って行ったらしいです。そし てちょっとやりかかると、もう話にならない。レベルが違うのだそうです。これは偉い人だなあと思ったけど、それでもまだ負けん気を出しておった。そしたら 島村先生が「貴方は、なかなか偉いお方だけれど、一体どういう態度で仏法のご勉強をしているのですか?」と言うので「私は、やはり仏教者として偉くなろう と思ってやっています」というと、「そこですよ、仏法は偉くなろうと思ってやったのでは、絶対に分かりません。仏法は信者になるためにしなければいけない ので、学者になろうと思ってやったら、絶対に分からないのですよ。お分かりでしょうか」と、こう言われた。
その時にハッと自分に応えて、思わずひれ伏した。その時の先生のお顔は、あまりに、やっつけるのではなく慈悲に満ちていて、そのお姿を見て、もう思わずひ れ伏した。「先生、申し訳ありませんでした。ワシこれからもう一度、仏法のやり直しをさせて頂きます。今まで愚かな事をして、おごった事をして、何とも申 し訳ありませんでした」と言って謝ったそうです。そうして謝っても、先生は何も言われない。あまりに長いこと頭を下げていても、先生は何もおっしゃらない から、ちょっと頭をあげたそうです。そしたら先生は合掌して、ぽろぽろ涙を流してうちの父のことを拝んでおられたそうです。そして「新発意の菩薩が、大願 を起こした姿でございます、ほんとうに有り難い事です」と言ったそうです。
それ以来先生は、毎年一回 夏休みに、父を郡山までお呼びになるのです。そして行ったら、たくさんの本が積んであって、全部に栞が入れてあるのだそうです。そして父を上座に据えて、 先生は下座に座って、そして、教えないのだそうです。「これはどういうご意見でございますか?」と言って、父がそれについて言うと「私はこう思うのですけ れど」と先生がおっしゃる。「あ、なるほど。それは先生のおっしゃる通りです」と言ったら、「いや、ご賛同頂きまして有り難うございます」と言って次の本 を出す。「たくさんの本が積んであって、そりゃもう、冷や汗の出づめだった」と言っていました(笑)。その後ご馳走して、人力車でわざわざ郡山の駅まで送 り届けてくれたそうです。それで「そんなにして頂かなくても、こちらから出かけて参ります。もうしないで下さい」と頼んでも、必ずきちんと呼ばれるのだそ うです。それは立派な学者でした。
あれほど信じる事の出来なかった人が、直にお目にかかったら、いっ ぺんにそれほど信じられた。我々には、全く仏法と違う近代思想、人間が最高であって仏陀なんて人間と変わりがないのだ、生命なんて死んだらお終いだ、自他 断絶だ、エゴを主張するのは当たり前なのだと云うような思想、これが叩き込まれてあるのです。だから信じられないのです。
(梁瀬義亮先生 第439回 仏教会講話禄 1991年8月11日 「父と島村先生との出会い」)
島村清吉が大和郡山で死去したのは1926(大正15)年、梁瀬義亮はまだ6歳であった。のちに京都大学で医学を学び、フィリピン戦線に軍医として出征し 九死に一生を得て帰国する。復員後、県立尼崎病院に勤務するも一帯の粉塵公害により呼吸器系統を患い、郷里の五條に戻って開業し(その間一時、大和高田の 紡績工場の医務室に勤務している!)、それから森永砒素ミルク中毒をいち早く告発、医者としての仕事を続けながら農薬の害を訴え、有機農業や食育の活動を 広めていく。その義亮が大和高田の善正寺に於いて「第1回島村外賢先生追悼法要」を始めたのは1963(昭和38)年、「島村先生」が亡くなってすでに 37年後のことである。この「島村外賢先生追悼法要」は以降、1987(昭和61)年まで毎年二回行われた。白木がふんだんに使われた居心地のいい資料室 にわたしは一人っきりで長居した。収穫は予想以上だった。そして義亮の生家であり、父の梁瀬齊聖が住職をしていた寶満寺をおしえられて訪ねてみることにし た。梁瀬義亮の資料はすべてこの資料室に移動しているが、「島村先生」とじっさいに親しかった父・齊聖の遺品などは、もしあるとしたらその寶満寺だろうと いうのだった。寶満寺はかつての五條の中心であったろう紀州街道沿いの古い町屋の並ぶ新町の真ん中あたりにある。雨が降ってきたので車で移動した。車が やっとの曲がりくねったせまいむかしの路地だ。洒落た太鼓楼の建つ寺の前では、水路が弧をえがいて小さな橋がかかっている。この場所を島村清吉も訪ねたこ とだろう。寺は留守のようで、裏手の墓地にまわってみた。入口近くに「陸軍歩兵大尉 梁瀬義諦墓」が建っていた。昭和14年、中国大陸で戦死。36歳。あ とで訊いたら梁瀬齊聖の長男、義亮に「戦地に来るなら医者の資格を持って来い」と助言したという兄の墓であった。そんなものを眺めているうちに車の音がし て、お寺の人が帰ってきたようだった。さっきはなかった軽自動車が車庫に止まっている。あらためて呼び鈴を押すと、どうぞ、おはいりください、と返事をし て迎えてくれたのが坊守の75歳になる尼僧さんであった。義亮氏を「おじさん」と呼んでいたから従妹になるのだろう。夫君が幼くして両親を失くして老僧 (梁瀬齊聖)の弟子となって後を継いだ。その夫君も数年前に亡くなって、もともと僧侶の資格を持っていた彼女がいまは坊守として寺を守っているらしい。ど こか気品のある、やさしい目をした尼僧であった。そして「島村先生」とこちらが言ったとたんに、その人の口から島村清吉の詠んだ句がすらすらと飛び出して きたのに驚いた。この尼僧も、夫君も、義亮氏とおなじようにじっさいの島村清吉に会ったことはないのだ。老僧である梁瀬齊聖の思いを継いでいるにすぎな い。それにしてはかれらのなかにすでに百年近く前に死んだ「島村先生」はいまだ清々と生きている。そういえば、と尼僧が奥から一冊の本を持ってきてくれ た。「島村自責居士語録集」と題された非売品で526頁、1975(昭和50)年に「在世中を知る遺弟達」によって出版された。わたしが古書で入手した郡 山中学による追悼冊子に、講演録などを追加したものである。亡くなった夫君(前住職)がはさんだままというボールペンもそのままで、その頁には「先生最後 の御病気の時、宝満寺様等と一しょに御見舞申し上げました。御病気の話は全然なく信仰のお話でした。宝満寺様にお向ひなされ、“高祖が七高祖をお択びに なった標準は何ですか”。宝満寺様御返事なし。先生は、“宗乗学者は申して居りません。島村一家言として聞いて下さい、之は本願念仏を中心としてお択びに なったのです”。」という件が記されている。前住職は法話の際などにしばしばこの本を捲ってメモを取り、それを元に檀家の人たちに話をしていたという。ま た老僧から聞いたと言うこんな話もしてくれた。「島村先生」が亡くなるしばらく前に老僧が郡山の自宅を訪ねたところ、奥さんが出て「今日は具合が悪くて臥 せっている」と言う。それではまた出直しますと帰ろうとしかけたところ、奥から「島村先生」が呼び、入ると「あなたは明日も変わりなくわたしがいると思っ ていたのですか。明日のことはだれも分からないから、今日訊きたいことがあれば今日のうちに訊きなさい」と言って話しを聞いてくれたという。わたしは「島 村先生」の詣り墓を偶然見つけたこと、その無縁墓が市道の拡張工事による寺の本堂の立替と住職の代替わりで今後どうなるか分からないこと、堺の菩提寺のあ たりは空襲で焼け野原となり過去帳も何も残っていないこと、郊外の共同墓地にある無縁墓の中に「島村先生」の父親の墓石だけが残っていること、大和郡山で の「島村先生」宅には昭和40年頃まで「腰の曲がった老婆」が一人住んでいたがその後は分からないこと、などを伝えた。尼僧は「島村先生」のことが忘れら れてしまうのはとても悲しいことだと言った。そんなふうに気がつけばかれこれ2時間近く、薄暗い玄関の上がり框にわたしは腰をおろし、正座する尼僧と向き 合って百年もむかしに死んだお互いに会ったこともない「島村先生」の話をしていたのだった。それはとても不思議な感覚だった。この寺の玄関先の薄暗がりだ け、時間が停止しているのか遡行しているのか。それまではある意味、紡績工場工女慰霊碑の「おまけ」くらいのつもりで調べていた「島村先生」が、この五條 の町にきて何だか懐かしい叔父さんのようにその面影が動き出してくるのだった。ここでは「島村先生」がいまも生きていて、廊下の端や境内の松の下などを ゆったりとあるきまわっている。わたしは、ほんとうの歴史というのはこういうことなのかも知れないと思った。人を信じることができず、親鸞の言葉すら信じ る確信が持てなかった若き僧侶が、間近に接した人間の放つ存在に激しく打たれる。そうしたものはついに文字には残らないものではないか。それは人から人へ こころからこころへのみ、つたわるものなのかも知れない。百年もむかしに、二日に一度銭湯へ行く時間がきっちり決まっていて町の人が時計代わりにした、あ るいは仏教の戒を厳しく守り帰宅して夫人が出かけて家の中にお手伝いさんしかいないときはずっと玄関で立っていたなどの話が伝わる名物教師がいて、深く仏 教のおしえに帰依していたその講話はたくさんの人々のこころに強固な根を下ろした。その目には見えぬ歴史のつながりの端にわたしは触れたのであった。前述 の「語録集」をお借りできないかと尼僧に頼むと、どうぞお持ちくださいとあっさり渡してくれた。そして、ほかに「島村先生」に関するものがないか、この次 までに探しておきます、と言ってくれた。わたしはどこか満ち足りた気持ちで寺の門をくぐった。ふたたびこの町を訪ねる理由ができた。
◆梁瀬 義亮記念資料室
http://www.jiko-kai.org/about/material.html
◆五條新町ルート
http://www3.pref.nara.jp/miryoku/masumasu/2482.htm
2019.3.10
【尋 ね人】明治・大正時代に奈良の大和郡山で教師をしていた「島村清吉」
大
和郡山市在住の友人・會田陽介さんが、明治・大正時代に奈良の大和郡山で教師をしていた「島村清吉」について調べています。「チベット旅行記」の河口慧海
等に多大な影響を与えた人物で、その足跡を後世に残したいとのこと。ご遺族や情報をお持ちの方、お知らせください。以下、會田さんより
…………
「チ
ベット旅行記」の河口慧海を始め、後に有吉佐和子が「複合汚染」で描いた五條の医師・梁瀬義亮にも多大な影響を与えた島村清吉ですが、現在は残念ながら忘
れ去られています。かれの足跡を後世に残し、そのよすがである碑(無縁墓)を守るためにご遺族や関係者の方を探しています。ご協力願います。
明 治・大正時代に奈良の大和郡山で教師をしていた島村清吉のご遺族を探しています。郡山中学の数学教師であった彼は仏教にも造詣が深く各地で法話も行い、 「チベット旅行記」を記した河口慧海とも昵懇でした。大正15年に死去し、後に遺弟達が建てた詣り墓が現在無縁となり、撤去の可能性があります。
島 村清吉(号として外賢、自責居士、三端舎主、等)は大阪法円坂に生れ堺市戎町に育ち後に郡山堺町に転居、死去時には妻ひろ子、長男賢一、長女きよ子、次女 すが子がありました。昭和40年代の住宅地図の当該地に「島村鎮目」の名がありますが、現在は別の家になっています。
島 村家の菩提寺であった堺市の寺一体は空襲で焼けて当時の過去帳もなく、ただ清吉の父親の喜八(明治13年死去)の無縁墓が堺市郊外の共同墓地に眠っていま す。この島村清吉に関すること、またご遺族に関することで情報を持ちの方、どんなことでも結構ですのでお知らせ頂けたらありがたいです。
島
村清吉
1863(文久3)年6月21日、大阪鈴木町(現・法円坂)に生まれる。父喜八、母はる。
1926(大正15)年1月13日、大和郡山市堺町にて死去。享年62歳。「夫人ひろ子との間に二女一男あり。長女きよ子、次女すが子(高等女学校教諭と
して名古屋に在り、国語科)、長男賢一(大阪高等学校在学2年生)」
※ 寮さんのTwitterで情報提供を求めた。
2019.3.25
「郡山紡績亡工手乃碑」と「島村先生」の詣り墓が残る誓得寺本堂がついに解体され更地に。女工の宮本イサや金占順らが見たかも知れず、島村先生がほぼ確実 に立ち寄っただろう本堂はもうない。この不埒者は草の生い茂る外堀から侵入してあちこち歩き回ったのだが、幸い「郡山紡績亡工手乃碑」と「島村先生」の詣 り墓はいまのところ無事を確認、ほっと胸をなでおろした。本堂裏に祀っていた紡績工場関連の過去帳はいまどこに。せめてもの形見にといちばん太い梁に刺 さっていたむかしの釘を一本抜いて頂戴してきたよ。ああ、さみしいな。
2019.4.21
吉
村浄祐様
本
日、予定通りご実家にお邪魔させていただき、貴重な資料も見せて頂いて、島村先生が法話をされた日のままの本堂も見せて頂き、先々代のご住職のお墓もお詣
りさせて頂き、気がつけば3時間も長逗留してしまいました。お母様が郡山高校へ通われていたとのことで、当時の駅や通学途中にあった紡績工場のことなども
伺い、予想以上に実りの多い時間でした。いろいろありがとうございました。
貴重な資料や当時のお写真などはカメラに収めさせていただきま
したが、一部、光の具合などでスキャナーできっちりデジタル化したいと思い、図々しくもお願いをして拝借してきた資料もあり、また近いうちにお返しにあが
る予定です。五条の宝満寺様からもお預かりしている資料があり、同じように大切に扱わせて頂くということでご了承を頂きました。責任をもってお返しします
ので、どうぞご理解を頂ければと思います。
今回の訪問で、昭和47年の大和郡山市堺町の住宅地図に記載されていた「島村鎮目」が、じつは
「島村」と「鎮目」の二つの苗字のことであり、最後に残っていたのは島村先生の次女の「鎮目すが子」さんだということが判明しました。昭和60年代頃まで
はいらしていたようです。大きな発見でした。
貴重な機会をもうけて頂き、大変うれしいです。島村先生をつなぐ仏教に深く帰依していた人々の生きたあかしを、何らかの形で後世に残し、伝えることができ
たらと願っています。
2019.6.8
大阪住ノ江の護国神社の戦没者名簿にも、島村先生の長男・賢一の名前はなかったよ。
連休三日目は、昼間はほぼあたらしいデスクトップPCの入れ替え作業で、ハードディスクを移設したり、その他もろもろの設定、復旧作業などで、ほぼ最低限
の環境は整えた。古いオフィスを入れるのが面倒だったので、はじめて無料のLibreOfficeを入れてみた。それにしてもSSDは早い! 起動までほ
んの数秒。メモリ16Gは作業も早い。気持ちいい!
夕方からは例の金食い虫の神社の夏祭りの手伝い。アンモナイトの食えない爺さんたち
ばかりなんで、去年は最初の会食も居心地が悪かったが、ことしはなんと隣の席にすわったのがあの「島村先生」がかつて住んでいた堺町の自治会長さんで、し
かも品のよさそうな白髪の紳士だったので思わずこちらから声をかけて、食事をしながらずっと「島村先生」の話を説明していた。「島村・鎮目」の名前が載っ
ている昭和43年の住宅地図を持参して後日にお宅をお邪魔する約束をして頂いた。そんなわけでことしは気分よく輪投げの景品係。ぼーっと立っているだけの
じーさん連中を尻目に、菓子パンの配置を変えたり、うどんの在庫を補充したり、その合間に引換券を持ってきた子どもたちを次々とさばき、よく働いた。明日
は仕事なので、つれあいが代わりに出てくれる。
で、来週末は選挙の立会人でまた頑張ります(日当1万五千円)!!
2019.7.15
週 末は堺へ行こうと思っている。いま河口慧海の伝記を読んでいるのだけれど、慧海は岸和田藩士だった土屋弘が堺市戎之町の自宅で開いていた私塾・晩晴書院に て島村清吉と知り合い、後年には大和郡山市堺町の島村の家にも一週間逗留している。後に東京美術学校(現東京藝術大学)の校長を長年勤め、当時自ら校長を していた郡山中学に島村清吉を招いた正木直彦もこの晩晴書院の縁である。堺はまだまだ何かがありそうだ。そう思いながらネット検索をしていたらこの堺市立 町家歴史館周辺で2016年に企画された「慧海と堺展」に島村清吉の名前を発見(島村清吉(竹馬の友・数学教師で歌人))。企画展自体はとうに終わってし まっているけれど何か資料が残っているかも知れない。それに前回の訪問時は見逃していた慧海の生家跡や近くの天神さんの灯篭台座に残る慧海の生家の屋号 「樽善」も見てみたい。そしてもうひとつ、島村清吉が両親と暮らしていた堺の車之町東二丁目あたりにいまも残る老舗の和菓子屋、創業200年の八百源の肉 桂餅を買って、島村家の足跡も訊いてみたい。さあ、またたのしい旅になりそうだぞ。
8時40分、南海線七道駅前。お目当ての堺市立市町家歴史館・清学院の開館は10時だ。朝、つまらぬことでつれあいと喧嘩して予定よりはやく家を出てきて
しまった分だ。まあ、見るものはなんでもあるだろう。まずは駅前ロータリーの天上に屹立する河口慧海の像にあいさつする。前回、もう何年か前にこの七道駅
から始めた旅はかつての七堂ヶ濱にあったまぼろしのハンセン病者の救済施設とかれらにクロスする堺のキリシタンたちの影をもとめての旅だったが、今回は河
口慧海とこの堺で深くむすびついていたわが「島村先生」(島村清吉)の影を追うちいさな旅だ。おなじ駅前にある「鉄砲鍛冶射的場跡」の碑もちらりと見てか
らまず目指すは七道駅の南、環濠をわたってすぐにある菅原神社御旅所だ。ここの石の灯篭の台座に慧海の父親の屋号「樽善」の文字がいまものこっている。御
旅所ということでふだんは参る必要がないのだろう、ぐるりをフェンスで囲まれていて中に入れない。見ると「御花御芳名」と書かれたボードに商店名や個人名
を書いた紙がたくさん貼られ、昨日と今日が菅原神社の「八朔祭」だときらびやかなポスターが宣っていた。「海船濱」と大きく書かれた背の高い倉庫が社地内
に見える。ここから布団太鼓も繰り出すのだろうか。さいわい、道から近い方の灯篭の足元をフェンスに顔を圧しつけて凝視していたら「樽善」の文字を見つけ
た。灯篭には「天保」の年号があるそうなので古くから桶樽製造を営んでいたことが分かる。その「樽善」があった場所、慧海の実家があったのが御旅所から直
線距離で100メートルほどの北旅籠町西の路地で、間口のせまい家と家の間をブロック塀でコの字に切り取ったスペースに「河口慧海生家の跡」と刻まれた石
碑と案内板が設置されている。ちなみにそこからさらに東へ筋をふたつほど抜ければ幼少期の慧海が通った清学院内にあった清光堂という寺小屋である。有名な
堺の鉄砲鍛冶の屋敷なども並び、この界隈がいわば幼少期の慧海ワールドの舞台といえる。もちろん、まだ島村清吉とは出会っていない。清学院の開館までその
後、鉄砲鍛冶の屋敷跡や、紀州街道沿いに残る珍しいグレーの煉瓦の紡績工場社屋(現在、SPinniNG
MiLLというイベント・スペースで再利用されている)、行基が開いたといわれる「千日井」(近泉紡績会社社長建立の行基石像板や、水難者の供養碑があ
る)、そして七道駅前にあたらしくできたイオンモールの敷地内に残された堺セルロイド工場の赤煉瓦社屋などを見て回った。「堺大絵図」に「山伏清学院」と
も記された清学院はかつて醍醐寺の当山派に属する修験道の寺院であった。清光堂は江戸後期から明治初期まで敷地内に営まれていた寺子屋で、清学院第11世
が教師を務め、慧海が「入学」した明治4年には「男子48名、女子35名の合計83名が在籍」していたという。その後、慧海は岸和田藩の漢学者だった土屋
弘(鳳州)の私塾「晩晴書院」へ家業を終えた夕刻から通い、そこで島村清吉のほか、正木直彦(東京美術学校(現東京藝術大学)の校長を長年勤め、明治初期
の美術行政に関与。自ら郡山尋常中学校(現郡山高校)校長時に島村清吉を堺から呼び寄せた)、肥下徳十郎(慧海のチベット行の資金援助をした堺の町年
寄)、河野学一(浄土真宗本願寺派・萬福寺の長男で、後に帝大へすすみ植物学を専攻)、河井醉茗(堺出身の詩人)らと知り合ったわけだが、明治4年の廃藩
置県につづき翌年に学制が公布されて私塾寺小屋が廃止されたこの頃から島村清吉が堺市内の熊野(ゆや)小学校の教師として赴任する明治10年代までは、い
わば試行錯誤で学校の中身、教科書や授業内容に至るすべてが形づくられていっただろう時代で、いろんな意味で面白い。島村清吉はそんな「学校創成期」を教
師として駆け抜けた、ともいえる。清光堂はそんな成り立ちから不動明王を本尊とするお堂をエル字に囲むようにささやかな玄関と土間があり、畳6畳ほどの座
敷が二間つらなっている。ちいさな文机のならんだ座敷はかつての寺子屋の子どもたちの風景が目に浮かぶようだ。残された当時の墨書の教科書を見ると、たと
えば町人の子どもたちの学習用に編まれたという「世話千字文」などは漢字を使いながら、内容は「市店交易、廻船運送、荷物米穀、駄賃員数、勘定算用、商売
繁昌」と現実的だ。もともとこの堺市立市町家歴史館・清学院に目をつけたのは2016年にここを拠点として近在の店舗スペースを利用した【慧海と堺展】が
開催され、そのうちのひとつに「・八花堂:島村清吉(竹馬の友 数学教師で歌人)」という記載があるのをネットで見つけたからで、当時の資料でも残されて
いないかと思って訊いてみたのだが、ボランティア・ガイドのおじいさんは手持ちの虎の巻以上の知識はなく、3年前なら市役所の企画だろうからこちらでは何
も分からないとの返答だった。清光堂を辞してから、路地の角に薫主堂なる風情のある店を見つけてふらふらと入った。店のおばさんの解説をひとしきり聞き、沈
香のお線香を自分用に、手づくりのにおい袋を和歌山の義母に購入した。白檀はそのままでもよく匂うが、沈香は火をつけないと匂わないので人工の香料のもの
と騙されると言う。あとで調べてみれば伝統工芸士の店主を擁する明治20年創業の老舗であった。沈香の香りは気を落ち着かせる効能があるから寝る前に焚く
といいとおばさんが言うので、「夫婦喧嘩になりそうなときもいいですね〜」とリアルタイムな発言をわたしがして、事情を知らぬおばさんもいっしょにそうそ
うと笑ってくれたのだった。こういう店が何気にあるから堺はやはり、懐がふかい。北旅籠町を東へ抜け、阪堺線の路面電車も越えてJRの浅香山駅を目指す。
電車で三国ケ丘駅へ。駅舎の屋上が展望広場になっていて大山古墳(旧仁徳天皇陵)が間近に見れるが「展望」とは言い難い。古墳があまりに巨大すぎて全体が
臨めないのでこんもりしたちょっと大きめの神社の杜くらいにしか見えない。折しも帰宅した夕刊のトップで世界遺産登録を機に空からの古墳見物が企画された
ものの騒音の苦情が多くストップがかかっているという記事が載っていたけれど、写真で見るような全体像を俯瞰するためにはあべのハルカスとおなじ300
メートルの高さが必要で、当初企画された気球では100メートルしか上がらないそうだ。駅の西口に降りて、古墳を周回する遊歩
道を時計逆回
りに半周する。旗を持った団体の観光客やランニングをする人たちと行きかう。遊歩道から見えるのは緑色に濁った濠の水面と林だけで、訪れた人々はきっと一
周40〜50分を回って「やっぱり大きかったねえ」なぞと話して土産話にするのだろう。わたしは歩きながら五木寛之の「風の王国」をまた読み返したいと
思っていた。「風の王国」の物語はこの大山古墳から始まる。当時は最大の天皇陵とされていた古墳のすそ野にまつろわぬ山の民の遺体を葬ったというストー
リーの設定自体がテロリストの爆弾のようではなかったかと思える。昼過ぎに隣接する大山公園の北端にある堺市立中央図書館に着いた。大きいが全体的に古び
た図書館。100年の歴史があるらしい。堺にゆかりの人びとの棚があって、与謝野晶子をはじめ、阪田三吉、河井酔茗、安西冬衛などらのパネル写真が並んで
いるが、もちろんそこに島村清吉の名はかけらもない。「資料調査」と書かれたカウンターでスタッフの女性に「河口慧海と親しかったおなじ堺出身の島村清吉
について調べている」旨を伝えるのだが、やはりあんまりぴんとこないようだ。しばらくはその女性が集めてきた当たり障りのない慧海に関する書籍や冊子を渡
されてなかば放置されていたのだが、昼休みに行っていたという地域資料の男性の担当者が戻ってきてから目的はスムースに回り出した。収穫は昭和5年
(1930)に刊行された『堺市史』のための元資料を綴った「堺市史 史料」(百三十 教育)に収められていた「明治天皇堺行幸記」。すでに郡山中学の嘱
託の身分であった島村清吉から寄せられた原稿を写したものだという。明治10年は西南戦争の年だ。この年の2月、堺を行幸した明治天皇は創立間もない熊野
尋常小学校を訪ね、授業を「天覧」した。堺県700校から優等生487名が選抜されて模擬授業を行い、このとき正木直彦が生徒を代表して天皇の前で書を読
んだという。島村清吉は当時堺師範学校に入学したばかりの15歳で、この「優等生487名」に選ばれていたらしい。おそらく堺市からの要望でそのときのこ
とを回想して小文を寄せたのだろう。大正13年8月、島村清吉が逝去する二年前のことだった。これはそのまま『堺市史』の「堺市史 第六巻(資料編第
三)」731頁に「明治十年 主上堺臨幸熊野小學へ行幸之概略」として一頁半を占めている。もうひとつの収穫は前掲の正木直彦が半生をふりかえった「回顧
七十年」で、これは天理大学付属図書館に在庫があるのを確認していたが幸いにも一足早く見ることができた。そのなかの奈良県尋常中学校(郡山中学校のこ
と)での校長時代の思い出として島村清吉について書き残している。少々長いがここに引く。「斯うして外部に対して強気で行く一方、私は内部の充実に大童で
あった。先づ、それには第一に、良い教員を集める事である。そこで招聘した偉い先生の第一が、島村清吉という人であった。此の人は、私とは堺の河泉学校時
代の同窓であったが、私とは異なって数学の天才で、殆んど独学でもって英独の書物を原書によって研究し、文部省で初めて中等教員の検定試験と云うものを
行った際、算術、代数、幾何、三角、解析幾何、微分、積分まで一遍に受けて免許状を取ったという人であった。当時は、藤澤喜太郎訳の「クリスタルの代数
学」という本が大学あたりで用いられていたのであるが、島村清吉はそれを研究して、それに一二ヶ所誤訳のあることを指摘し、藤澤さんもそれを訂正されたと
いうような事もあった。此の人は一方国文学をも研究し、その方の中等教員の免許状も取ったし、更に学校関係以外のことでは仏教を相当深く研究され、大阪の
寺院等に招かれて仏教の講義を連続して行った事などもあり、儈俗の聴講者が常に堂に溢れる、という有様であった。更に又一方では、耶蘇教の研究もし、大分
深い処まで研究されて居った模様で、実に珍しい篤学者であった。 非常に謹厳な人で、家に居る時は、机の前に終日起坐し、机の上には線香をたて、線香の
煙が真直ぐに立上るのを見ながら読書する、というような人であった。此の人があったが為に、奈良県尋常中学校の初期の卒業生には、数学の出来る者が多かっ
た」 余談だが後の薬師寺管主になる橋本凝胤は中学の校長であったこの正木から慧海の話を聞き、中国に渡ってチベット行を目論むが成就できなかったとい
う。その橋本凝胤は若き頃、西山光明院の最後のハンセン病者・西山ナカの最後を看取った。糸の端をひっぱると、どこでどうしてつながっているのか分からな
いもう一方の思わぬ端がゆれる。歴史というのはこういうところが面白い。いろいろ資料を探してくださった堺市教育委員会事務局副主査のOさんと名刺を交換
し、中央図書館を辞したのはもう2時を過ぎていただろうか。まだ昼飯を食べていない。とりあえず最後の目的地である島村清吉が両親と住んでいただろう実
家、南海本線堺駅にほど近い車之町東を目指して歩き出す。以前は南海高野線の堺東駅から戎之町にある島村清吉の菩提寺である智禅寺やかれが教師として勤め
ていた前述の熊野小学校などを訪ねてから南海本線の堺駅へぶらぶらと歩いていったわけだが、今回は大山公園の端から何となくそちら方面を追いながらザビエ
ル公園に近い、かつて島村清吉の実家があっただろう車之町東二丁四十九番地が最後の目的地。この住所は明治12年に島村清吉・藤野幸重名で出版された「下
等小学一級課用 筆算四則雑題集」の巻末に島村清吉の自宅として記されていたものだ。ときおり手元のグーグルマップを確認しながら祭りの屋台が準備をして
いる開口神社のわきをぬけて、途中「泉州・水なす」に誘われて入った商店街の店で水なすといっしょに娘に与謝野晶子一筆箋(文豪ストレイドッグス版)など
を買い、これまた祭りの装いの菅原神社前を抜けたらその先がもう車之町東のエリアだ。あらかじめ下調べをしていた「創業200年」を謳っている和菓子屋・
八百源来弘堂で江戸時代からつくり続けているという肉桂餅を買った。いかにも老舗といった薄暗い店内で包装をしてもらっている間に、じつはむかしのことを
ちょっと調べていましてと女性の一人に車之町東二丁が書かれた「筆算四則雑題集」の巻末コピーを見せると一瞬奇妙な沈黙が店の空気をこわばらせ、しばらく
して若主人らしい男性が奥から出てきて、「昭和7年作製」と書かれた古い手書きのこの付近の住宅図のコピーを差し出しながら「古いことはなにもわかりませ
ん。これを差し上げますからじぶんで調べてください」とにべもない。それでもすこしだけ食い下がって、このあたりも昭和20年の空襲でほとんど焼けてし
まって、一部を残して古い建物は何も残っていない。いまの店舗も戦後になって建てたものだ、ということは教えて頂いた。きっと堺で老舗の店なぞをやってい
ると、いろんな人からさまざまなことを訊かれるのだろう。お礼を言って肉桂餅の紙袋を手に店を出て、すぐ近くの公園のベンチに腰を下ろして水筒のお茶で喉
を湿らせた。そして、このあたりの路地を島村清吉が百年前にあるいていたのだと想像してみた。ここからザビエル公園はもう目と鼻の先だ。かつて戦国期にフ
ランシスコ・ザビエルを歓待した堺の豪商・日比屋了慶の屋敷があったその同じ場所に、こんどは明治の世に岸和田藩の漢学者だった土屋弘(鳳州)が私塾「晩
晴書院」を開き、島村清吉や河口慧海らが交流した。その距離感が身近に感じられる。ひょんなことから無縁墓の存在を知った島村清吉という一人の個性的な教
師の影を追うことによって、わたしはこの国の百年前のもろもろの場面を思いもかけず遡行している。いまはもう影も形もない百年前の人びとがまるで影絵のよ
うに町の辻々に出現しては生き生きと動き出す。その影絵たちにわたしはいつからか魅了されるようになって、いつしかかれらはわたしのこころのなかに棲みつ
いている。
◆堺市立市町家歴史館・清学院 https://www.city.sakai.lg.jp/smph/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/seigakuin.html
◆堺探検クラブ「七道まち歩きマップ」 http://mutsu-satoshi.com/2007/11/16/%E4%B8%83%E9%81%93/
◆SPinniNG MiLL https://www.spinningmill.info/
◆【慧海と堺展】https://www.facebook.com/sakaishimachiya/photos/a.1796909770568773.1073741828.1794364307489986/1807167119543038/?type=3
2019.9.12