■902. お墓
毎年お盆の頃(8月15日)に行われる奈良の大文字焼きはわが家の2階や、母の6階の団地のベランダから見えるのでいつも愉しんでいるが、この高円山の送
り火がじつは「奈良県出身の29,243柱の英霊を供養するため」の慰霊祭であることを知っている人はあまりいないのではないか。
京都
の五山送り火の始まりは江戸時代まで遡るらしいが、奈良の送り火はずっと新しく、戦後しばらく経った昭和35年、後の奈良市長で当時は三笠温泉鰍フ社長
だった鍵田忠三郎の「敗れた大東亜戦争で戦死戦没なさった2万5千柱の戒名を必ず読上げ大炬火を大文字にたき、霊を慰めると共に、遠く県内各地より、この
火を眺めて下さる人々に、戦死戦没者の霊に合掌してもらう機会をつくりたい」という思いから始まった。第1回の役員には鍵田のほか、奈良市遺族会会長や奈
良県護国神社宮司などが、東大寺長老、大安寺貫主らと名を連ねている。
行事工程表は4月の「護国神社に英霊数の確認」から始まる。そし
て当日8月15日は午後6時50分に「霊記」(29,243柱の戦死者名簿)が高円山に到着。まず春日大社神官により神式の祭儀が行われ、ついで市内30
ケ寺の僧侶による仏式の法要が営まれ、このときに「奈良県出身の戦没者29,243柱のお名前が奉読」される。遺族代表が焼香・拝礼し、その後に送り火が
点火される。
高円山には碑があり、次のように記されているという。「高円山はかつて聖武天皇が離宮を営んだ地であり、弘法大師の師匠で
大安寺の僧であった勤操が岩渕寺を創建した霊山である。また護国神社のご神体の裏に位置する。こういったことから、高円山に大文字送り火を点火することに
した。」
先日はからずも訪ねたグアムに配備された日本軍に奈良の部隊があることをお しえてくれたのはFB友の中平さんである。歩兵第38連隊は明治29年に大津 にて創設、翌年に京都深草に移駐して日露戦争、満州派遣などを経て、大正14年に奈良へ転営した。春日大社の南、現在の奈良教育大学の敷地に兵舎があり、 隣接する法務局(奈良第二地方合同庁舎)に「奈良聯隊跡記念碑」がいまも残っている。その後、満州へ駐屯した連隊は昭和12年、上海派遣軍に編入されて、 かの南京攻略戦に参加している。師団長の中島今朝吾は南京占領後に西欧からの猛烈な抗議を受けた軍司令部の調べに対して「略奪、強姦は軍の常だよ」と平然 と答えているように、上海派遣軍(第16師団)は南京に於ける日本軍による虐殺事件で最も代表的な部隊だったと言ってもいい。歩兵第38連隊は津の歩兵第 33連隊と共に、降伏後の南京市内外の「掃討作戦」に従事した。「捕虜ヲ受付クルヲ許サズ」の命令を受けて捕虜や「疑わしき」住民を殺戮し尽くした証言は 多く残っている。その後、中国各地を転戦した歩兵第38連隊は昭和19年3月にグアムへ配備され、7月のアメリカ軍上陸により全滅した。ちなみに昭和47 年に「発見」された横井庄一さんもこの38連隊の陸軍伍長であった。
南京虐殺を描いた堀田善衛の小説「時間」を臓腑に釘を一本一本打ち込むよう な思いですこしづつ読み進めていったのは年明け、出張で滞在していた北陸のレ オパレスであった。続いて中公新書の「南京事件 「虐殺」の構造」(秦郁彦)で全体像を追った。そしてはからずも、のグアム。南京とグアムとわたしが住む 奈良が「戦争」というキーワードで貫木のように嵌った。それからわたしは休日になると歩兵第38連隊の影を追うようになった。奈良教育大からさらに南、古 市の集落ちかくの丘陵地のしずかな林の中には奈良の陸軍墓地がある。いまでは訪れる人も滅多にないだろうこの墓地(グアムの慰霊塔公苑とおなじような時の 彼方に置き去りにされた空虚な静寂に満ちている)には「満州事変戦没者合同墓碑」(昭和31年5月30日建立)と「歩兵第三十八連隊将兵英霊合祀之碑」 (昭和9年3月建立)の二つの塔、そして寛城子事件(※大正8年、当時の満州の長春で日本人暴行事件に端を発した日中両軍の衝突事件)で亡くなった34人 の兵士たちの墓がある。そのうち将校の墓は巨大な慰霊塔の両脇に立派な台座と共に建ち、下級兵士たちの墓はそこから一段下がった場所に素朴な墓石が並んで いた。印象的だったのはなぜかこの下級兵士たちの墓だけ、墓石のまわりにたくさんの石が積まれていたことだ。故郷の石を遺族が運んだのだろうかと空想し た。はじめてだったが陸軍墓地よりわずかに北方、奈良佐保短大に隣接する広大な敷地の奈良県護国神社も覗いてみた。「奈良県出身の英霊3万柱を祀る」とう たったこの社の背後の峰で点火される、奈良の夏の風物行事でもあるこの高円山の送り火が、じつは「奈良県出身の29,243柱の英霊を供養するため」の慰 霊祭であり、護国神社をはじめとして大安寺、東大寺ら近在の30ヶ寺が参集して「県出身の戦没者29,243柱のお名前が奉読」されることを知ったのもお なじ頃だ。また薬師寺や唐招提寺が建ち並ぶ西ノ京の秋篠川沿いにやはり英霊を合祀した奈良市慰霊塔公苑があるのを知り、自転車で見にいったのはつい数日 前。「英霊」や「散華」といった戦前の化け物が何気ない日常の風景の裏に粘菌のように滲みついているように感じた。そしてこの国では、「戦前」と「戦後」 はけっして断絶ではなく「連続」なのだという思いをいっそう強くした。
「軍人墓」というものがある。頭部を方錐形にしてたいてい一般の墓石より高 くそびえて建っているから遠目でもよく分かる。1874年(明治7年)、陸軍 省が「陸軍埋葬地ニ葬ルノ法則」により階級により墓碑の規格を統一。以降、軍隊入営中に戦死した者は国や軍隊からの指導により、先祖代々の墓とは別にこの 規格に沿った墓に葬られたという。グアムで全滅したのが奈良の連隊であったと知ってから時折、時間を見つけて自転車で近所の墓地を回るようになった。正面 に軍隊での階級と氏名があり、側面には戒名と「○○○ニ於イテ戦死 二十二才」などの文字があり、裏面は建立者というパターンが多い。簡単に戦死した場所 と年齢だけの場合が多いが、ときに入隊してからの経緯をくわしく刻んだ墓石もあれば、年齢だけで場所を記していない墓もある。ニューギニア、比島、中華民 国、ラバウル、ビルマ、朝鮮沖、蒙古、バシー海峡、マリヤナ群島、南京、沖縄本島など、さまざまな場所で戦死した兵士たちの墓をいくつも眺め、刻まれかす んだ文字を読み、黙祷をしてから次の軍人墓へあるきだす。沁み入るような青空の下でそんなふうに一時間も二時間も広大な墓石の間をさまよっていると、おれ はいったい何をしているのだろう、とも思う。まだじっさいにはお会いしたことはないがFB友で彫刻家の安藤栄作さんはパレスチナのガザで殺された子どもた ちの像を一体一体刻み続けていつの間にか千体を越えた。それに似たものかも知れない。わたしはアーティストではないので、こうしてひとつひとつの墓石を訪 ね、墓石と対峙し、「どこで」「何歳で」死んだくらいしか分からないが、それだけでも重い魂を測りにかけるかのように、戦場における死者をこの不器用な精 神と身体に肉化していく。真昼のひと気のない墓場をあるきまわっているとどんどん体が重くなっていく。そのままずぶずぶと沈んでいきそうな気がする。それ でもわたしは何かに引かれるように墓場をあるきまわる。
戦争が激化した終戦間際の戦死だったとして、1945年(昭和20年)に 25歳で死んだ青年の母親はもう50歳近いだろうか。2017年の現在では 122歳となる計算だから、これらの墓石の前で知れず嗚咽をした母はもうとっくにこの世にはいない。子孫がおなじ墓域で建ててくれている墓はいい。参る者 もいなくなり、無線仏の石くれの山に積み上げられて、もう名前すら読めない軍人墓もたくさん見た。わたしたちはかれらを「英霊」と讃える連中に預けっぱな しで済ませていたんじゃないだろうか。ひとつの大きな墓石の左右側面に二人づつ、計4人の兄弟たちの名前が刻まれた墓石を見つけたときは呆然とした。昭和 19年9月、中国湖南省。昭和20年5月、レイテ島。同年6月、レイテ島。同年8月、モンゴル。21歳、22歳、25歳、27歳の兄弟の墓である。終戦の 混乱期を耐え抜いて、昭和32年にようやく母親はこの兄弟の合同墓を建立した。父親の名前でないのは、このときすでに夫は他界していたのかも知れない。縁 もゆかりもない見知らぬ家庭ではあるが、わたしはこの兄弟たちと母親がまだ生きていた実時間での歴史の風景が脳髄の奥の方から知れずあふれ出して来て、こ とばを失う。その母も、もういまはこの世にいない。そびえ立つ墓石の先の青空をわたしはじっと凝視する。グアムでの戦死者の墓を見つけたのも、おなじこの 共同墓地だ。25歳の若き軍曹は昭和19年9月30日に大宮島(グアム島)にて戦死していた。かれが歩兵第38連隊だったのであれば、アメリカ軍の上陸が 開始された7月には「かれ」はアガット湾に配置されていたはずだ。ちょうどわたしたち家族がレンタカーで島を回った日の夕方に、地元のスーパーマーケット で買い物をしたあたりの美しい海岸だ。けれども米軍の猛烈な艦砲射撃と空爆により部隊はたちまちに壊滅し、生き残った兵士はジャングルの奥の残存部隊に吸 収された。戦史によれば8月11日に叉木山の最後の司令部の将校たちも自決し、最後の日本兵が降伏して戦闘がほぼ終了したのは9月4日というから、9月 30日戦死の「かれ」はその後のジャングルでの日本軍兵士狩りで殺されたか、あるいは戦死した場所も日にちももはや定かでないから9月の末となったのか不 明だが、後者であるのかも知れない。おそらく遺骨もなかったろう。わたしは「大宮島」と刻まれた文字をそっと指先でなぞった。もうたくさんだ、と思った。 奈良から出征し、南京での悪夢を経て、遠く南方の小島のグアムで散った命が、いま、わたしの手にもどってきた。へんな言い方だが、もどってきたような気が した。
▼歩兵第38連隊 (Wiki) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E5%85%B5%E7%AC%AC38%E9%80%A3%E9%9A%8A
▼歩兵第38連隊 http://www.geocities.jp/bane2161/hohei38rentai.html
▼奈良歩兵第38連隊の帰還 https://ameblo.jp/fugo0330/entry-10618461112.html
▼「虐殺」命令(歩兵第38連隊兵士の証言) http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/gyakusatu.html#yamadad
▼奈良陸軍墓地 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-2nara.htm
▼奈良縣護國神社 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gokoku-nara.htm
▼大文字送り火行を創始する(鍵田忠三郎) http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/kagitadaimonji.htm
▼奈良市慰霊塔公苑 http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1147087494791/
▼軍隊と戦争の記憶 日本における軍用墓地を素材として(PDF) http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0007/SK00070L115.pdf
▼「万骨枯る」空間の形成 陸軍墓地の制度と実態を中心に(PDF) http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0082/BO00820L019.pdf
▼安藤栄作彫刻展 http://www.tamaky.com/mt/archives/2015/11/andou-eisaku.html
▼グアムの戦い(Wiki) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
2017.5.20
それでも夕方になればまた自転車に乗って走りたくなる。午前中に歯医者も 兼ねて富雄川沿いから六条山をぬけて西ノ京あたりくをぐるりと走ってきたことも あって、夕方はごく近場を小一時間ほど。いつも車で眺めながら(あの狭い路地へ)入って行きたいと思っていた若槻環濠集落へ。ここは中世までたどれる貴重 な集落。くわしくは下の調査報告所をどうぞ。自転車でしか入れないような入り組んだ集落内の路地をまわり、いい感じにひなびた天満宮とそのまわりの環濠な どを見てまわった。それから菩提仙川の土手を経由して、むかし住んでいたなつかしい県営団地の中をまわり、佐保川の土手沿いにある、むかし娘の幼稚園の帰 りにママちゃりに乗ってしばらく休憩をした土饅頭の墓地にひさしぶりに行ったら河川の改修工事による「無縁墳墓等改葬告知」が出ていて、ああ、ここもなく なってしまうのかとさみしい気持ちになった。大きな木の根元の六体の地蔵などは、これまでさまざまな風景を眺めてきたことだろう。立派な墓石でかためた墓 地より、川沿いの、木の墓標も朽ちて土饅頭だけになって、それでもお盆になれば色鮮やかな花が供えられている、こんなお墓が好きだな。しばらく墓地の中に たたずんでいた。
▼若槻環濠集落(観光ナビ) http://yamatokoriyama.locodoco.net/sightseeing/sightseeing-cate01/117.html#firstPage
▼若槻環濠発掘調査報告書 http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/1155
下の国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所のサイトによれば、ここは「埋め墓」らしい。ということは稗田に古い両墓制の集落があるということだ。
▼六地蔵(埋墓) http://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/guidemap/other_03.html
2017.8.7
今日は早朝から仕事で、昼前まで戸外で立ちっぱなし。支給された弁当を家に 帰って食べて、しばらく揺り 椅子でハン・ヨンエの韓国古典演歌集を聴きながらうたた寝をしてから、自転車で多聞城跡を見に行ってきた。東大寺の転害門から少々といったらいいのかな。 西は聖武天皇陵、東は北山十八軒戸のある東之坂だ。いまは市立若草中学校の建つ丘陵地に旧跡の碑が立っているが、かつては西側の聖武天皇陵のエリアも含む 山城だったらしい。松永久秀によって築城、のちに織田信長の命を受けた筒井順慶によって破却。一帯はもともと中世の墓地があったそうで、当時のものと思わ れる瓦、骨壺、石塔、墓石等が校舎敷地から出土しており、それらの苔むした墓石や五輪塔などが校門の東側に集められて供養されている。周辺をしばらく散策 して夕方、佐保川沿いに下った県立図書館でトイレとマグに入れてきた蓮茶を飲んで小休憩。暗くなる頃に帰宅した。走っていると体もぽかぽかして、冷たい空 気が心地よい。代休の明日もまた、どこかへ行こうかな。
◆多聞山城(Wiki) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%81%9E%E5%B1%B1%E5%9F%8E
2017.12.10
星野道夫の番組で、喋るボブ・サムの映像を見れたのも感激だった。ボブ・サムのことは大昔から知ってい る。20代のころ、ネイティブ・インディアンにはまっていて、一時は本気でかれらのネーションを訪ねようとも考えた。アラスカ先住民の指導者の家系に生ま れたボブ・サムは若いころ、白人たちからの差別のためにアルコールや薬物におぼれた。その後、毎晩のように頭蓋骨が蹴飛ばされ助けてと叫んでいる夢を見た ことから出身地へ帰り、荒れ放題だった先祖たちの墓をひとりでこつこつ修復しはじめた。10年の間、たった一人で。やがて墓地がきれいになっていくにつれ て、住民たちが誇りを取り戻すようになった。ボブ・サムはそれを一人でやり遂げたのだ。この話はそのまま、金城実さんが大阪・住吉にある夜間学校で在日の オモニたちに彫刻を教えたことにもフィード・バックする。最初はやる気のなかったオモニたちは渋々じぶんの母親の像をつくるうちに、いつのまにか母国語が 飛び交い、熱を帯び、朝鮮人民族のアイディンティティを取り戻していったという。そういうものがうつろな頭の中をぐるぐると回っている。
わたしはボブ・サムになりたい。くだらない周囲のすべてを忘れて、毎日一人 でだれとも会話することもなく、先祖たちの墓場の草を刈り、石を積み、土を運び、そして夕暮れには祈りを捧げて帰宅する。ニセモノでない、じぶんのいのち を見つけたい。
2018.2.11
土 日に仕事が入ったため、本日代休。ひさしぶりの平日は特に何をするでもなく、三度の食事を担当し(朝、野菜のオリーブオイル蒸し。昼、手製サラダチキン とトマト煮ミックス豆。夜、ホットプレートの定番豚もやし)、午前中はつれあいとコープへ買い物、午後は一人でぶらぶらとごく近所を徘徊した。まずは柳町 5丁目の西向寺にて、かつて東岡町にあった遊郭の娼妓供養碑を確認した。本堂の右手の狭い通路を奥へ入ると、小山のように積み上げられた無線墓に並んでひ ときわ背が高くそびえている。表に「岡町遊郭接待婦之精霊塔」、裏は昭和27年8月の日付で「岡町特殊料理業組合」の名が刻まれている。先日見た洞泉寺の 供養碑は「病没娼妓」であったが、こちらは「遊郭接待婦」である。一人ひとりの顔はなにひとつ見えてこないが、ひざまづいて、手を合わせた。折りしもFB 友の鄭玹汀さんの紹介で取り寄せた曽根富美子『親なるもの断崖』(1992年)を読み始めたばかりだったので、何やらいたたまれなかった。続いて洞泉寺遊 郭の旧川本邸へ寄ってみた。建物の南側を撮ろうと隣接する大信寺の境内へ入ったところ偶然、グアム島戦死の文字が目に飛び込んできた。25才、死者が「育 次」で、墓の建立者が「育三」は、戦後に弟が建てたのだろうか。旧川本邸は「雛祭りイベント」が終わって、遊郭自体の展示が追加されていないかと思ったの だったが、当日は立ち入れなかった3階へ上がれるくらいしか変わりはなかった。その代わりに常駐していた、FB友のアライさんのお知り合いだというボラン ティア・ガイドのSさんが安堵町のガイドも兼ねている人でいろいろと話が弾み、昭和30年頃の遊郭の見取り図などを写真に撮らせてもらった。洞泉寺墓地の 「病没娼妓之碑」裏にあった「石橋屋」の名前もある。遊郭も紡績工場も九州からの女性が多く、中には紡績工場から遊郭へ移ってきた女性もいたとか。市が 「町屋物語館」としてオープンさせてから、かつて客として遊んだというお年寄りがやってくることもあるという。平日なので見学者はほかにだれもなく、内部 はひっそりとしずまりかえっている。3階の三畳の狭い部屋の窓から下をのぞくと、隣接する浄慶寺の墓地が見えた。かつてこの苦界に生きた女性たちも、ここ から立ち並ぶ墓石を眺めて何かを思ったことだろう。誰もいないのをいいことに、しばらくその三畳の愛欲苦界に寝そべって、目を見開いていた。旧川本邸を出 て、最後に向かったのは紡績工場の工女の供養碑があると思われる誓得寺だ。門はすべて固く閉じていて、正面玄関のインターホンを何度か鳴らしてみたが応答 がない。後日にまた来ることにした。何となく手持ち無沙汰で、すぐ隣の良玄禅寺の墓地にも何か紡績工場に関する手がかりがないかと覗いてみた。小春日和の のどかな平日の午後に、どうもおれは墓場ばかりだな、一人苦笑する。ここはだいぶ大掛かりな墓地整理をしたらしい。西面のおなじ境内にある弁財天の堂と道 路との間のすき間に数メートルの高さの塀のような形で無数の無縁墓が積み上げられている。そのひとつひとつを目を凝らして見て行ったら最後、いちばん奥の どんつきの端っこに、扇形をした小さな石仏のような石に刻まれた「矮狗福塚」の文字が気になった。帰って調べると矮狗は「ちん」。かつてこの国では、小型 犬を総称して「ちん」「ちんころ」なぞと呼んでいたらしい。FB友の民俗専門家、歌詠みでもある勺 禰子女史にメッセージで尋ねてみても「わんちゃんのお墓かなあ」とおっしゃる。年代は分からねど、石の見た目から江戸から明治あたりか。家族同様だった愛 犬のために誰かが建てたのかと思えばほほえましい。
◆曽根 富美子『親なるもの断崖』 https://matome.naver.jp/odai/2142964407932922301
◆大阪 DEEP案内「大和郡山市東岡町」 https://osakadeep.info/koriyama-shinchi/
◆町屋 物語館(旧川本邸) https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kankou/kanko/info/004886.html
2018.3.23
夕食後、娘とつれあいがポータブル・テレビをテーブルの上に乗せて、アスレチック・ゲームのような挑戦番組を見始める。二人で熱心に小さな画面を覗き込 み、笑ったり、小さな悲鳴を上げたり、歓声をあげたりしている。ふだんであったらわたしは、部屋のすみのソファーに二人の姿が見える向きに寝そべって、新 聞をひろげながら彼女たちの声を聴き、ときおり様子を眺めたりしているのが好きだ。それはだれにも邪魔されたくないかけがえのない時間だ。けれども今日は 違った。わたしのなかで何かがうごめいている。食べ終えた食器を洗って、それからじぶんの書斎へ閉じこもった。PCの iTunes でひそやかなクリスチャン・ソング(Audrey Assad)を大音量でかけ、揺り椅子にもたれて、唯一スマホに入れているMLBのベースボール・ゲームを始める。目の前の重みに耐えるために、あえてい ちばんつまらないことで時間をやり過ごすのだ。そのうちにわたしの手は凍りついたようにとまる。スマホを置き、銃を投げて投降する殺人犯のように目を閉じ る。わたしに欠けているのは「神」だろうか。ユングが夢に見たような「大聖堂を排泄物で破壊する」神か。わたしは無力で、ひとかけらの価値もなく、みじめ に消えていくだけのシミのような存在に過ぎない。わたしの内なる存在は何をもとめているのだろう。願ったものはすべてあるはずなのに。今日は休日だった。 娘と二人で昼を済ませてから、紡績工場の女工の供養碑があるという寺へあるいていってインターホンを押したがやはりだれも出てこない。困り果てて思い切っ て寺の向かいの旧家のインターホンを押してみた。初老の男性が出てきて、ここのお寺の住職は橿原の寺に嫁いでいまはここに住んでいないが、週に一二度は法 事や何かでやってくる、水色の軽自動車が停まっていたら寺の門も開いているはずだ、とおしえてくれた。檀家といってもこのお寺さんは墓地がないんですねと 訊けば、ここじゃない、墓はあのイオンへ行く途中の道のはたの田んぼの中にひろがっているところと言うので、思わず「ああ、あの石の鳥居がある墓地です か」と声のトーンがあがった。それで自転車に乗ってさっそく見に行ったのだ。死んだ女工の手がかりの石けらでも残っていないかと。あたたかな小春日和だ。 家族連れが一組、バラックのような四阿(あずまや)でお弁当を食べていた。わたしはうっすらと汗ばむような熱につつまれて黒ずみ、落剥し、倒壊した墓石を ひとつひとつ見てまわった。何も残っていない。残っているはずもない身よりもなく死んだ女工の墓など。風呂に湯を落とし入る。浴槽につかりながら岸和田の キリスト教会にいた朝鮮人のひとびとの聞き取りを読む。「大阪南部の泉南地域には、かつて石綿紡織の零細工場が集中していて、その多くは在日韓国人・朝鮮 人に支えられていた。また同和地区や僻地出身の人々、炭鉱離職者らも多く働いていた。そこには、差別と貧しさゆえに石綿から逃れられない構造があった」 車椅子に座り、酸素呼吸器をつけた李善萬さん(80歳)は、「石綿のほこりが体に悪いという予感があり」他の職場へ履歴書を持っていったがどこでも「朝 鮮人はあかん」とはねつけられた、という。三人の子どもを食わせるために石綿の仕事を続けるしかなかった。李さん夫婦は朝鮮半島南部の出身で日本で結婚 し、つてを頼って泉南に移り住んだのが1950年だ。通称「石綿村」と呼ばれたその地域は日本人より在日が多かったという。戦争が終わってからも、この国 は他国の弱者たちに容赦なかった。まるで鬼のような国だと愕然とする。それでわたしの魂はまたあの昼間の、小春日和ののどかな田んぼの中の墓地へ飛んでい くのだ。いまでは墓か石くれかも分からない黒い団子のようなかけらの前でらあらあらあらあといまも哭いているのだ。
2018.3.26
小学生のときにいっしょに住んでいた祖父が死んだ。明け方、まだ暗いうちからなにやら家の中がばたばたとあわただしい。おぼろな気配のなかでそう思ってい たら、朝にはもう祖父は動かない人になっていた。バスに乗って、はじめて火葬場というところへ行った。高い煙突からうっすらとした半透明の煙が天へ立ち昇 り、祖父はしろい骨のかけらになった。その火葬場を自転車でさがして、後日に訪ねたのだ。コンクリートの壁の向こうの煙突から煙が立ち昇るのを、そうして 長いこと眺めていた。小学3年生くらいのじぶん。
夜中の墓地はさすがに行く気にならないが、昼間の墓 地はなぜかむかしから親しい。とくに夏だ。強い日差しを浴びて、むっとするような草いきれに、なにかやわらかな存在が偏在していて、がらんどうのわたしに 寄り添うような心地がする。欲望にまみれた、生臭い息の生者どもの世界よりも、わたしにはいっそ心地よい。かれらはもうきっとこの世には未練はないのだ。 永い永い年月がおだやかに少しづつ、花弁が閉じるようにあらゆるものを諦めさせたのだ。その代わりといってはなんだけれど、かれらにはすこしだけ伝えたい ことがある。がらんどうのわたしに、放心したように墓石にもたれて腰をおろしたわたしに、そのしずかな半透明の思念のようなものがはいってくる。がらんど うのわたしのなかで、ことばが反響する。
「存在の深みから、亡き者を含む『神さま』たちに照らし出さ れる」ことが石牟礼道子のいう「荘厳」であるなら、百年も前に死んだ見知らぬ紡績工場の女工や殺された朝鮮人や大逆の刻印を穿たれて縊られた者たちの、い までは粉塵のように宙を舞っているにすぎないかすかな足跡をたどりながら、わたしが浴びている光はまさにそれだ。
代表作『苦海浄土 わが水俣病』には「杢(もく)」という名の少年が登場する。彼は水俣病を患い、言葉を発することができない。しかし、耳はよく聞こえ る。当然、良いことばかりが聞こえるのではない。差別の声も聞こえてくる。杢少年の心に、声にならない微細なおもいが蓄積する。だから、彼の祖父は杢少年 のことを「ひと一倍、魂の深か子」と語った。
若松は言う。「『苦海浄土』には杢少年と同様、語らざる者たちのおもい、言葉になろうとしないうめき の声が響きわたっている」
石牟礼にとって、書くことは沈黙という声なき声を聴くことだった。彼女の執筆作業は、「語ることを奪われた者たちの言葉をわが身に宿し、世に送り出すこ と」に他ならなかった。だから、彼女は言葉の「器」になろうとした。言葉にならないものに出会うことで、彼女は作家となった。
石牟礼は、若松と最後に会った別れ際に「どうしたら自分の心を空(から)にできるか考えています」と言ったという。何かを表現することは、自分の思いを吐 露することでも、自分の考えを主張することでもない。大切なのは思いや考えを鎮めること。そして、無音の「声」を聴くこと。そうすることで、人は言葉の通 路になる。言葉は過去や彼方からやってくる。
『苦海浄土』について、石牟礼は次のように書いている。「(水俣病)患者さんの思いが私の中に入って きて、その人たちになり代わって書いているような気持ちだった。自然に筆が動き、それはおのずから物語になっていった」
だから、彼女は『苦海浄土』が第一回大宅壮一ノンフィクション賞に内定した時、これを辞退した。真の 作者は自分ではない。自分は言葉の器であるに過ぎない。そんな実感があったのではないかと、若松は推察する。
若松は、石牟礼がしばしば使う「荘厳(しょうごん)」という言葉に注目する。「荘厳」とは仏教用語で、仏像や仏堂を美しくおごそかに飾ることを意味し、ま た智慧(ちえ)や徳によって仏の身を包むことを言う。しかし、石牟礼がいう意味は、仏教用語に限定されない。「それは存在の深みから、亡き者を含む『神さ ま』たちに照らし出される」ことを意味する。
私たちのいのちは儚(はかな)く、悲しい。しかし、その悲しみは世界を「荘厳」する。私たちの苦しみ に満ちた世界に光が差し込み、聖なるものに包まれる。
「荘厳」に包まれた者の悲しみは、語り得ない。この言葉にならないものを言葉によって表現することこそが、石牟礼にとっての文学だった。だから、『苦海浄 土』は「詩」として存在した。そこにあったのは「自らの心情を語ることができないまま逝かねばならなかった者たちの声をどうにか受け止めようとする営み」 だった。
石牟礼は、常に死者と共にあることを大切にした。私たちの世界は、生者だけで成り立っている のではない。死者を含むメンバーによって構成されている。私たちの日常は、死者たちが紡ぎあげてきた経験知や暗黙知によって支えられている。死者たちが保 持し、歴史の振いにかけられた叡知(えいち)によって、世界は存立している。
しかし、私たちは傍らにいる不可視の死者を忘れがちである。声なき声を存在しないものとして扱い、生 者によって世界を独占しようとする。だから、私たちは沈黙に堪えられない。常に雄弁によって時間を埋めようとする。
石牟礼は、いつも沈黙の中で死者たちと対話していた。沈黙は空白の時間ではない。そこには「ある意味 のうごめきが存在」している。沈黙こそが、彼女の語りだった。
(今週の本棚 中島岳志・評 『常世の花 石牟礼道子』=若松英輔・著 毎日新聞2018年8月12日 東京朝刊)
2018.8.14
昭和4年建立、と刻まれたその「大日本紡績高田工場・合墓」は町の東のはずれの、どこかも のさびしい川べりの市営墓地に大昔の遺失物のように建ってい た。道向かいには古びた葬儀屋が間口を構え、その背後にはひと気のない殺伐とした二戸一の住宅が軒を並べている。町の墓地はたいてい、そんな場所にある。 そそり立った墓石の裏の赤錆びた鉄扉には南京錠がかかっている。このなかにどれだけの寄る辺ない遺骨が眠っているのか、遺骨すらもない魂が暗闇でいまもま んじりともしない顔と顔をつき合わせているのかと思うと足元が底なし沼に吸い込まれていくような錯覚を覚える。錯覚ではないだろう。わたしたちのこの国は これまでいったいどれだけのものを蔑ろにしてきたのだろう。穴を掘り、蹴り落とし、埋めてきた。忘却してきた。わたしのなかにはたくさんのそのような寄る 辺ない魂が堆積してまるで放射能を浴びた皮膚のように焼き爛れ膨れ上がり、わたしはじぶんがいつか見たこともないような奇怪な生物に変わり果てるのではな いかと思うのだ。無数の腕や足や人面を呑み込んで流動する可変動物のような存在になってビルを覆い尽くすほどに巨大化してこの世のあらゆるものに復讐をす る。それもいいかも知れない。そのためにわたしはこうして歩きまわっているのかも知れない。毒を溜め込み、おのれがいつか本物の毒になることを夢見て。そ れでもわたしはこのごろ人間どもの間にいるよりもこうして死者たちの中に佇んでいる方がいっそ心がやすらぐのだ。日は翳っていて、師走の空気は指先に冷た い。斎場のひっそりとした受付で合墓について訊ねたが「シルバー人材」のジャンパーを着た老人は何も分からない、役所の環境衛生課に訊いてくれと答えた。 紡績工場のことは覚えている。むかしの女工はほら、遊郭みたいなものだったんじゃないか。それであなたはいったい何が訊きたいのか、とかれは言った。わた しがほんとうに訊きたいこと。わたしがほんとうに訊きたいことを知ったら、あんたの命は縮まるだろうな。墓地からほど近い土手沿いのラーメン屋に入った。 ふつうの人なら横目で通りすぎるかも知れない掘っ立て小屋のような店だ。土曜日のお昼どきなのに客はわたし一人だけで、芯の強そうなおばちゃんにわたしは テール・ラーメンを頼んだ。メニューはほかにホルモン・ラーメン、油カス・ラーメン、油カス・チャーハン、フクの天ぷらなどなど。途中からおばちゃんの娘 が小学生くらいの孫娘を二人連れて入ってきて、おばちゃんは彼女らにもラーメンをつくりはじめた。骨付き肉が乗ったテール・ラーメンは旨かった。骨の髄ま で温もった。勘定をする際に「すごくおいしかったです」と言うと、おばちゃんははじめてにっこり笑って「また寄ってくださいね」と応えた。何の気取りもな いが、人間の顔のあるラーメンだった。合墓に眠る女工たちにも食わせてやりたい。
2018.12.15
15年前、兵庫県のある施設でわたしに仕事をおしえてくれたTさんが癌で入院をしたと知っ たのは最近のことだ。退院をして、いまは自宅で小康を保ってい ると聞き、年が明けたら見舞いに行きたいとTさんと親しい同僚にお願いしていたら昨日、亡くなったという連絡がメールで届いた。ムガル帝国の皇帝によって 建設されわずか14年で放棄された北インドの都市・ファテープル・シークリー(Fatehpur Sikri)の城門には、つぎのような碑文が刻まれているという。「イエスが言った。“この世は橋である、わたっていきなさい。しかしそこに棲家を建てて はならない”」 橋はひとによってさまざまだ。ながいながい橋もあれば、ひょいと跨げるようなみじかい橋もある。豪華絢爛に飾った橋もあれば、質素などぶ 板のような橋もある。どんな者であれ、わたしたちはそこをとおりすぎていく。わたりおえてしまえば、どんな橋であったかなど忘れてしまうし、もはや何の価 値もないだろう。けれど橋をわたったその痕跡のようなものがきっと、わずかな匂いか光のささやかな明滅のようなものとして風の通い路にとどまる。残された わたしたちはそれを感じることができる。痕跡も、ひとさまざまだ。
わたしの住む町にかつてあった紡績工場の「寄宿舎工女」として明治33年に死んだ宮本イサとの出会いについてふりかえりたい。というのも、わたしのささや かな生にあって彼女の存在はいつも中心を占めているからだ。「亡工手之碑」という紡績工場で死んだ人たちの供養碑が残る隣町の寺で、紡績工場の死亡者だけ をまとめた過去帳を見せてもらったのはことしの初夏の頃だったか。本堂の後戸に祀ってあったというその過去帳には明治後半から昭和初期にかけて延べ96人 の戒名などが並んでいた。そのなかで出身地や年齢が分かっているのは30人に満たない。住職によれば引き取り手のない死者は町の火葬場で荼毘に付し、共同 墓地の無縁の納骨所に収めるのだという。96人うち59人が女性で、年齢が分かるほとんどは20代前後の若い女性たちだ。なかには13歳の少女もあり、多 くは九州の山間部の(おそらく貧しい山村の)出身であった。18歳の「朝鮮慶尚南道」出身の少女の名も記されている。
宮本イサの無縁墓は、かつて平城宮の羅生門があったという佐保川沿いの古い歴史のあるその共同墓地で見つけた。墓地の片隅に積み上げられた墓石の側面に偶 然、「株式会社郡山紡績」の刻字が覗いていたのだ。両隣の墓石にかくれていた部分に「寄宿舎工女 宮本イサ」と「明治三十三年」という文字をかろうじて読 むことができた。彼女の名も戒名も寺の過去帳にはなかった。明治33年というのは明治27年に操業を開始した郡山紡績が業績悪化や社長交代などを経て操業 時間が短縮された年だ。翌年には工場での虐待に耐えかねて脱走した女工2名が大阪にて保護されたという記事が警察の資料として残っている。引き取り手のな い「寄宿舎工女」であれば墓石もつくられずに無縁の納骨所へ収められただろうが、わざわざ会社が墓を建 てたということは特別の事情があったのか。寄宿舎住まいであれば近在の出身ではないだろうと思いながらも、この地元資本で設立された紡績会社がそもそも禄 をうしなった旧郡山藩士の窮状対策として旧藩士の子女を雇ったという記述を読んで、幕末の藩士名簿をめくったりもしたが手がかりはなかった。120年は遠 すぎるのか。わたしは犬の散歩の折にはこの宮本イサの墓に立ち寄り、ときには野辺の花をたむけ、ひさしぶりだねとか、寒くなってきたねとか、墓石に語りか けるようになった。さながら恋人のようだ。もう会うことのできぬ。
わたしのなかに見知らぬ「寄宿舎工女 宮本イサ」の存在があって、それを胸の奥にしまいな がら、岸和田の広大な共同墓地に眠る朝鮮人女工の墓といわれる ちいさな自然石をさがしたり、尼崎の川で渡船が沈んで死んだ女工たちの供養碑を訪ねたり、あるいは「悔恨と激憤の現場で、いま、わたしたちの行くべき道を 問う」と刻まれた名古屋の軍事工場で地震で生き埋めになった朝鮮人の少女たちの亡くなった現場を歩き、そっと手を合わせた、そのひとり一人が宮本イサであ り、多くは父や母のもとへかえれないまま無縁のほとけとなった寄る辺なき魂である。休日のたびにわたしは自転車で、あるいは電車に乗って、そんな見捨てら れたような場所や墓地を歩きまわった。わたしはなぜ、そんなことをするのだろう。いつしかわたしは「悔恨と激憤の現場で」死んでいった無数の彼や彼女たち の痕跡を巡礼しながら、その寄る辺なき魂がわたしのなかに澱のように蓄積していって、いつかじぶんは人間でない奇怪な生物に変化(へんげ)するのではない か、それを望んでいるのではないかと思うようになった。
120 年前の明治、100年前の大正、80年前の戦前の昭和すら、いまではたどることが難しい。旧藩士名簿、地方新聞、警察資料、古地図、もろもろの行政資料、 企業資料、個人の手記、埋火葬許可証、県立図書館や国立国会図書館関西館に幾度も足を運び、黄ばんだ資料をめくり、ぼやけたマイクロフィルムをまわし続け ても、出てくるものはほんとうにわずかな断片だけだ。「寄宿舎工女 宮本イサ」がどんな女性で、明治33年にどのような事情で亡くなり、古里の地ではなく 「寄宿舎工女」として参る者もない無縁墓になって忘れ去られたのか、だれもなにも分からない。「金壬守 妹」と過去帳に記された18歳の「金◆順(戒名: 釈尼妙順)」が大正9年に郡山紡績で死んでから遺骨は故郷の「朝鮮慶尚南道普州郡普州面」に帰れたのだろうか。姉妹はどのように異国の地にやってきて、な ぜ18歳という年齢で橋をわたりおえてしまったのか。なにも分からない。無数の「寄宿舎工女 宮本イサ」や「金壬守 妹 金◆順」がこの国のあらゆる場所 に金剛遍照のようにあまねくただよっている。けれどわたしたちはそれを見ない。記憶もしない。死者を送ろうともしない。一輪の花をたむける者もない。「悔 恨と激憤」を溜めたわたしは、いつか人間でない奇怪な生物に変化するだろう。
夢をたずさえてこの国へ やってきた外国人技能実習生が3年間で69人も亡くなっていたというニュースに接したとき、わたしのなかで120年の時空がストレートにつながった。郡山 紡績についてある大学のゼミの学生が戦後の従業員たちに聞き取り調査をして「郡山紡績に“女工哀史”はなかった」と記したが(住田文「女の街―大和郡山と 紡績工場をめぐる人びと―」関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ)、わずか13歳から27歳までの若い女性たちが毎年10人単位で死んでいく過去帳のデー タは、まさにこの技能実習生たちの異常な実態と同じだ。150年の明治のこの国の負の記憶から、この国の現在がまさに透けてくる。朝鮮人徴用工問題につい ても戦前・戦時中にこの国へ強制的に連れてこられたアジアの人々の「悔恨と激憤」の記憶が、過去も現在もどのように扱われてきたか扱われているか、現地を 歩いてきたら分かる。「女子挺身隊」と呼ばれた朝鮮人少女たちの遺体が瓦礫に埋もれたまま放置された工場跡はいまは明るいショッピング・センターになり、 奈良天理柳本の海軍飛行場にあった朝鮮人慰安婦に関する説明板は「国の意向に合わない」とする市長によって撤去された。人々は口をつぐみ、多くの記録を処 分し、墓石を始末し、土地を整地し、供養碑を拒み、記憶を消そうとしてきた。「悔恨と激憤」はもはや、行き場もない。
かつて作家の辺見庸はソマリアで見た餓死する幼子について「餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではない か」と記した。わたしはみずからの中心に120年前に郡山紡績工場で死んだ「寄宿舎工女 宮本イサ」を置く。そうして見えてくるものは、この国が明治と称 した時代からの百数十年の歴史の実時間の実相だ。無名のまま死んで無縁墓地へ積まれた寄る辺ない「寄宿舎工女 宮本イサ」から見えてくるのは、現在日本の 沖縄、フクシマ、マイノリティへの差別、政治腐敗、教育現場の崩壊、だれも責任を取らない「和」の精神、ヌエのような隠蔽体質、天皇制、歴史改変、そう いったもろもろの諸相である。明治から150年、この国は過去をいちども清算してこなかった。だから150年前と現在と、本質的にはなにも変わらない。外 国人技能実習生が明治の紡績工場の女工たちのように毎年数十人ベースで命を落としていても驚かない。「寄宿舎工女 宮本イサ」もきっと、驚かないだろう。 わたしもそうして殺されたのだから、と言うかも知れない。そしてやがてだれもがわたしのことなど忘れていったのだから、と。
いろいろ思うことはあるけれど、わたしは橋のことを考える。じぶんの橋のこと、そして「寄宿舎工女 宮本イサ」がわたった橋のことを考える。考えながら歩 いているうちにふと、じぶんの橋と「寄宿舎工女 宮本イサ」の橋が交差する瞬間がある。わたしは「寄宿舎工女 宮本イサ」の橋を思いがけずにあるいてい る。これでようやく彼女に会えるとよろこんでいると、やっぱりそれはわたしの橋なのだった。「餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと 思考が戦闘化してもいいのではないか」と辺見は書いた。しずかな年の暮れに「寄宿舎工女 宮本イサ」の墓のたもとにひっそりとたたずんでこよう。ほかのだ れにもきこえぬささやきのようなことばをかのじょとかわそう。わたしは、そんな大晦日がいい。
2018.12.31
「死
者たちは隠されて
まさにこの地の中に在る 彼らを再び熱し、彼らの神秘を干すこの地の中に」・・・ 無数のカブトガニの死骸をがつがつと踏みつけてあるくように、わたし
はきっと現在のこの歴史の実時間のなかを寄る辺なくさまよっている。生きてあるように思えるものはみんな死だ。わたしたちは死者の中からもういちど蘇えら
なければならないとわたしはかんがえる。わたしたち自身が縊り、引き裂き、投げ捨てた死者たちのうらめしい、どろどろととけてつぶやきつづけている、おそ
ろしいほどの湿気のあいだからわたしはもういちど生まれてこなければならない。1946年の中国の堀田善衛はわたしにそんなあれこれを考えさせる。わたし
はわたしを峻別するものが欲しい。たしかに風が立つのを感じられるように。 「閉じられ、聖別され、非物質の火に充たされた、 地上の断片 光に供され
た、 この場所は私の意に適う、おびただしい燭光に圧倒され、黄金と石と暗い樹木で構成された場所、 たくさんの大理石がたくさんの影の上で震えている;
忠実な海がそこに眠っている 私の墓標たちの上で!」
私たちはみな
死んでいる
生きているというのは
間違いなのだ
私たちは
みな
死んだ人の
夢なのだから
加藤典洋「たんぽぽ」
先日ライブを聴いたきしもとタローさんがFBのTLにこんなコメントを寄せてくれた。 「先日、とても興味深い体験をした方に会いました。 ずっと訪れ たかった沖縄の集団自決の地を訪れた際、その場で命を絶ったある見知らぬ女性の人生経験の全て(生まれてから亡くなられる前までの経験)が、その場に立っ た瞬間に、バケツの水を頭からかけられたような衝撃と共に飛び込んできて、そしてその女性が死の一瞬に想い描いた「こういう人生も歩みたかったのに、とい う人生」 …それが何と、今の自分の人生とほぼ一致している、ということに気付かされたそうです。 不思議な体験ですね。」 ユングはかつて、「人が 夢を見るのではない。人は夢の中で見られるのだ。われわれは夢という過程を経るのであり、夢の対象なのだ」と記した。そういうことは、あっても不思議では ないと思うな、われわれがユングが言うような夢の対象なのだとしたら。そして先日亡くなった加藤典洋が書いたように「私たちは / みな / 死んだ人の / 夢なのだ」としたら。夏の熱に晒されて見知らぬ墓地をさまよいあるくわたしは、おのれの夢の原型をさがしているのかも知れない。そしてわたしという 存在は充分に生きられずに死んでいった者が死に際の瞬間に見た夢なのかも知れない。わたしたちは死者の代わりを生きている。いや、死者たちの夢のつづきを 夢見ている。沖縄を訪ねたその人は、おのれの原型にもどっていったのだろう。ひとがたの蜜に群がっていたまっくろな蝿の群れが一斉に飛び立ち移動するよう に。そのとき、夢をみていたものも、夢それじしんであったものも、きっとたいした違いはない。つまり、いま、たまたまこの世にあるわたしたちは、死者たち の見果てぬ夢を生き切れば良い、ということになる。 わたしたちはみな、原型を夢みている憧れだ。
2019.6.13
台風一過の蒸し暑い一日だが家で料理をつくってばかりでも豚になるばかりなので、豚は減量
と自由を目指して自転車で走
り出た。行き先は東大寺念仏堂の裏にある英霊納骨堂。奈良の「英霊三万柱」を祀るというが、仏教に於いて、また仏陀の教えに於いて「英霊」とは何ぞやと、
巨大組織にあぐらをかいてすでに腐臭を放っている坊主どもに訊いてみたい。
追記)
鐘堂に向き合う念仏堂には「毎年8月11日に
戦没者慰霊法要営まれる」と書いているが、背後にある納骨堂についての記載はない。ちょうどすぐ横の寺務所のようなところから若い女性が出てきたので「こ
の納骨堂の由来を知りたい」と訊くと、奥からその母親ほどの年齢の女性が代わり、さらに裏手から祖母ほどの年齢の女性を連れてきて、念仏堂の内陣へと招い
てくれた。東大寺が戦没者の分骨を置くようになったのはその人の記憶では昭和12年頃という。経緯は分からないが、とにかく彼女の曽祖父が念仏堂の管理を
していて、当初は遺骨は念仏堂の内陣の地蔵菩薩を取り囲むように遺骨が置かれていて、まだ幼かった彼女はよくその蓋をあけたりして遊んでいたとか(!)。
引き出しから昭和23年頃と書かれた古びた「分骨名簿」を幾冊か出してくれて、後ろの納骨堂ができたのは昭和30年代、遺族の人たちがお金を出し合って建
てたという。数は減ったが、いまでも遺族の人がここにお参りに来る。護国神社に寄ってからここへ来るのが定番のコースらしい。この念仏堂で個々に法要を
し、人によっては納骨堂へ入って分骨にもお参りする。「納骨堂は見られますか?」と訊かれて、一瞬ひるんだが、口は「ぜひ」と応えていた。錠前の鍵を開
け、二重の扉を開くと、一階の間は小ぶりの地蔵菩薩像を中心にさまざまな供養碑や位牌、そして名簿を収めた棚や、小さな分骨を収めた木箱がまるでパズルの
ように収められた木枠が足元に広がっている。空母瑞鶴の額縁に入った絵、ニューギニア部隊の慰霊碑、そして昭和16年4月の金沢第四高等学校ボート部の
11名が亡くなった琵琶湖遭難事故の位牌などもある。コンクリートの階段を下りた地下1階と2階は名前順に並んだ引き出しに収められた小さな手の平大の遺
骨の入った棚が図書館の収蔵庫のように並んでいる。昭和16年頃の木箱は中に陶器の骨壺が入っているという。昭和20年頃の木箱は箱をふっても何も音がし
ない。氏名が書かれた紙切れが一枚、入っているだけだ。「ほら、こんなふうに」と幼いころに蓋を開けて遊んでいたという老婆がじっさいに開けて見せてくれ
る。そうして一時間ほどを納骨堂の中で過ごした。8月11日の法要は朝10時から。一般者でも参列できると言う。仕事の都合がついたら来たいですと言っ
て、納骨堂を出た。そしてお礼を言って、二月堂も大仏殿もなにも見ずに、海外からの観光客も多い境内の賑わいをあとに自転車を走らせた。
2019.6.29
郡山へ来る前に住んでい た河合町の介護施設へ、昼から母と、母のいとこにあたるおばさんを訪ねた。おばさんは当年84歳。もともとは十津川村の出身で、おばさんの母親がわたしの 母の父親の妹になる。若い頃からずっと小学校の先生をしてきて十津川村で6年、結婚をして河合町へ嫁いできてからも54歳まで教師を続けた。おばさんの嫁 ぎ先が地主であちこちに土地とアパートを持っていた。和歌山のつれあいを追って関東から単車に乗ってやってきたわたしは、とりあえずそのおばさんのアパー トに転がり込んだわけだ。さいしょに入った線路沿いのアパートは木造の古い二階建てで、草だらけの空き地を耕してトマトや胡瓜や茄子を植えたりした。つれ あいと正式に籍を入れて次に高台のハイツに移って、そこで娘が生まれた。つまりおばさんはわたしたち家族の恩人といえる。そのおばさんも15年ほど前に脳 溢血で右半身が不自由になってしまった。ホームを訪ねると、おばさんは車椅子に乗ったまま廊下で他のお年寄りたちと簡単な体操をしている最中だった。終わ るのを待って、母と三人でおばさんの入っている四人部屋へ移動した。ひとしきり四方山話をしてから、じつはねおばさん、と先日の東大寺念仏堂で見せても らった分骨名簿の一部のコピーを唯一動く左手に手渡した。そこに記された「昭和19年1月13日に亡くなった歩兵79連隊伍長・十津川村の切畑屋彦九郎」 はおばさんの父親の末の弟だった。「父・虎彦」と書かれた人はおばさんの祖父である。おばさんの記憶では「切畑屋彦九郎」はニューギニアで餓死したと。も ちろん遺骨も還ってこなかった。戦争へ行く前は本宮あたりで学校の先生をしていたという。もう一人、おばさんの父親のキンペイと彦九郎の間にヘイゾウとい う兄弟がいた。ヘイゾウは医者として朝鮮半島に渡っていたが、腸チフスで昭和15年頃に現地で亡くなった。還ってきた遺骨を引き取りに、当時5歳くらい だったおばさんは父親に連れられて新宮へ行ったことを覚えているという。おばさんの母親が、仲の良かった義弟の死に泣き暮れた。彦九郎もヘイゾウも、やん ちゃで村でも優秀な人間だったそうだ。「そんな人間ほど先に死ぬ」とおばさんはさみしく微笑んだ。独身だった二人の墓は十津川の山間にある。20代のわた しはいちど単車でそこに泊めてもらい、静かな山道を歩いてシキビを供えてきたのを覚えている。けれどおばさんは「切畑屋彦九郎」が東大寺の念仏堂に分骨さ れていたことは知らなかった。よくそんなものを見つけたものだ、と笑った。わたしは寺の堂守のおばあさんが引き出しから出してくれた分骨名簿のすべてをめ くったわけではない。そのうちの一冊を何気なくぺらぺらとめくっていて偶然、「切畑屋彦九郎」の名前が目に飛び込んだのだった。それからおばさんの十津川 村での教員生活についてすこし話を聞いた。おばさんが小学校の先生になったのは20歳。6年間で村内の三つの小学校を異動したそうだ。どの学校も家から遠 かったのでそれぞれ学校の近くの教員用宿舎に泊まって、週末に自転車で実家に帰った。「おばさんの青春時代だね」と言うと、そう、とても楽しい6年間だっ たと、おばさんはうなづいた。ところで、昭和31年の消印があるからおばさんが教員生活をスタートしたばかりの頃だ。十津川村のおばさんが東京にいるわた しの母の二番目の兄(省くん)に書いた手紙を最近、死んだ叔父さん(わたしとシベリアを旅行した叔父さんだ)の遺品の中に見つけた。母によれば、おばさん はこの省くんのことが好きだったという。そう言われてみれば便箋二枚に記された当たり障りのない文面の中にほのかな好意の若芽が感じられないでもない。手 紙を見つけたときに「おばさんに見せてあげようか」と言ったわたしに母も、わたしのつれあいも、「そんな手紙ならなおさら、もういまさら見せない方がい い」と断言した。「省くん」はその頃、結核で療養中だった。戦争中、和歌山の北山村の母の実家に疎開をしていたときに母親から感染したという。わたしの見 知らぬ母方の祖母は祖父を戦争にとられ、女手一つで生活を支えるために馴れない土方や運搬などの重労働をして体を壊し、やがて結核の病に臥せって、わたし の母が幼いうちに亡くなったのだった。「省くん」もその後、後を追うようにして亡くなった。叔父さんの遺品の中には、「省くん」が通っていた治療所のカー ドや、家計簿のように当時の買い物をこまごまと記した手帳や手紙などが遺っている。そのおばさんが「省くん」に送った手紙を、わたしはこっそりリュックの 中に忍ばせてきたのだった。そしておばさんの四人部屋を辞してエレベーターの前まで戻り、母がトイレに行った隙に、廊下で車椅子にすわってまだわたしたち を見送っていたおばさんのところへ走った。「あれ、どうした?」といぶかしむおばさんの左手に、わたしは封筒を握らせて「おばさんが書いた、むかしの手 紙。あとで見て」と目で合図を送ってまた走って戻り、ちょうどトイレから出てきた母とそのままエレベーターに乗り込んだ。今夜、おばさんのベッドの上では 64年前の馥郁とした風が舞っているかも知れない。
2019.7.6
気温33度、湿度70%の中ツ道を自転車で南下する。首がもたげ、足元がゆらぐ。夢で逢ったような気がするのだが、それが誰で、ほんとうに逢ったのかどう かさえ記憶が熱にかすむ。軽い吐き気がして、じぶんが夢から醒めていることを確認する。長柄の駅前をぬけて、たどり着いたのは大和(おおやまと)神社だ。 鳥居のはたに日清戦争の記念碑があり、「約束に背いた清人を皇帝が成敗した」と刻む。この国のあまねく社にヘイトスピーチが息づいている。また別の場所の 忠魂碑には昭和の戦時に亡くなったこの地区の260柱の御魂が息をとめてひそんでいる。八月七日戦艦大和みたま祭。境内の戦艦大和展示室。長大な参道 270メートルは大和の全長とほぼおなじで、幅は参道の5倍と宣う。祖霊社に祀られているという沈没時の死者2,736名はいまもまだ南の海の深海で腹を 食われ眼窩をねぶられているのだろうか。大和(おおやまと)神社はけだし荒唐無稽のまぼろしのような社だ。そこからふたたび西へ移動し、かつて海軍の滑走 路がつくられたというあたりを見当で走る。道幅がむやみに広く、物流の会社が軒を連ねる。スポーツ公園に面した老人ホームの東側の児童公園。その入口近く に顔を剥がされたカオナシが立っている。飛行場の建設のために朝鮮人を含む多くの人々が駆り出され、また朝鮮人の女性が慰安所で働かされていたと書かれた 説明版が「国の見解と合わないから」と市長が撤去したのが2014年だ。全身を包帯で巻かれたかのようなかつての説明版の台座はそのままこの国の恥部をさ らけ出している。そこからさらに南の畑のはたに偶然見つけた三界萬霊供養尊の地蔵がすっくとそびえ立つ。滑走路造設の際に移転した寺の墓地諸霊を供養する と記す。これも夢で逢ったような記憶かも知れない。柳本の駅に出る。駅の南側周辺は海軍施設部が在った。その中央に慰安所が在った。その場所は暗渠のよう な用水路がゆるやかに蛇行する北側の、住宅地に囲まれた畑だった。胡瓜やトマトが成っていた。乾いた土が熱を放射していた、天に向かってあの世の風景に向 かってそれらはゆらゆらと立ち昇った。水筒のハーブティーで唇を湿らせた。この国には英国人兵士や独逸人兵士の墓はあるが朝鮮人労働者や朝鮮人慰安婦や朝 鮮人女工の墓はない。それでもわずかに残った罪悪感のカケラのようにこの場所に家を建てることはできないから畑にするわけだ朝鮮人慰安婦の流した血と汗と 涙が畑の作物を実らせる。もうひとつの「大林組慰安所」と推測された場所にはすでに一般の戸建てが立ち並んでいた。けれどその東側でバラックのような、低 い軒にトタンを張り合わせたような崩れかけた家々が並ぶ一画が在った。家と家が身を寄せ合い、そのすきまに人ひとりがかろうじて通れるような路地が在っ た。閉鎖されたはなれの便所も在った。なかを覗くとなつかしいぽっちゃんの便所が三つ、仕切り板をはさんでならんでいた。ほとんどは空き家のようだったけ れど、一軒だけ洗濯物を出しているところと、それから真新しい発泡スチロールの函を玄関横に積み重ねた家が在った。その家の表札は創氏改名で朝鮮の人がよ く選んだ姓だった。かつて海軍施設部があった場所に敗戦後の混乱期に徴用された朝鮮の人々がバラックを建てて住み着いたというのはあながち見当違いな推測 とも言えないだろう。家々は夏草に占領されていた。ナウシカの腐海のような植物たちが血を吐くような思いを吸い上げ天にもどすのだろう毒気を地に散じなが ら。2014年に撤去された説明板はことし2019年に市民の活動グループの人々によって土地を提供してくれた協力者の田んぼのはたに装いをあらたにふた たび建てられた。それを探しに来たのだが、走り始めてはやくも3時間以上が経つ。この広大な田園風景のどこかにと自転車を闇雲に走らせてそれはようやく見 つかった。けっして通行量が多いとは言えない小さな用水路にかかった橋ともいえない橋のそばの田んぼのへりだった。ともかくそれは在って、慰安婦のまま亡 くなって近在の寺に葬られた女性たちのことも記されていた。こんな広い田園風景の中でこれに気づいて立ち止まってくれる人はどれだけいるだろうか。なぜか の国の人々が徴用工のことも慰安婦のこともいまだこの国を許さないのかおれには分かるよ。だれも弔わないからだ。じぶんたちの国の死者には立派な供養碑や 忠魂碑や慰霊碑を建てて記憶を刻むが、それ以外の死者たちの記憶は打ち棄てられ夏草が生い茂っている。ああ、おれは夢ですらさだかでない記憶のはしくれ で、 一方の端に触れたら他の端が揺らいだようなそのあえかな空間のねじれのなかで、記憶が熱にかすむその場所で、もうとりかえしようもないかれやかのじょたち のいのちにひざをついてただだまっててをあわせたいんだよ。うそにまみれたこちらがわのにんげんどもよりけんめいにいきてそんざいすらけされてしまうかれ やかのじょたちのそばにいるほうがいっそここちよい。
2019.7.29
ひさしぶりに皿を割った。詰まらぬ言い合いから激高して、食卓の菜を庭に叩きつけたのだ。白い食器が夜目に砕けた。世界が安定している姿は嘘だと思う。 ジャニスは言ったものだ。わたしたちは醜いけど、音楽があるわ。神は汚物の地下の黄金だ(ひょっとしたら汚物自身かもしれない)。わたしはわたし自身の荒 ぶる神をどうすることもできない。荒ぶる神をたたえよう。わたしは部屋の揺り椅子に身を沈めてヘッドホンのボリュームを最大にする。そして待つ。静脈に 打った薬が全身にまわってくるのを。だれかがこの身を十字架に打ちつけてくれないかと思いながら。昼間は東大寺の念仏堂の前で催された盂蘭盆(英霊供養) を見てきた。世俗にまみれた坊主どもが高揚するひちりきの響きとともに「散華」と題された声明を唱える。低く高くそのうねりのような波が背後の英霊殿の冷 たいコンクリートに囲まれた地下の遺骨やそれすらもない小石や紙切れだけのかれらに押し寄せるのを感じながらおれたちはこれに勝てないと思った。いくらし たり顔で「英霊」を否定してもおれたちは勝てない。死者は嘘でも慰謝されることを望んでいる。いや生き残ったものたちがそれをいちばん必要としている。わ たしはじぶんが冷たいコンクリートの地下室に置かれて忘れられた小さな木箱のなかの喉仏のような気がする。坊主どもの声明がかわいたこころを浸す。木箱の なかでまるで父や母の声のようにがらんどうのように反響する。気にすることはない、醜くてもおれたちには音楽(声明)がある。おれは木箱のなかの英霊なの かも知れない。ずっとこんなふうにだれかがやってくるのをまっていたのかもしれない。荒ぶる神をたたえよう。 おれたちはどうせだれもが朽ちていく。
2019.8.12
今朝、夢のなかで、つれあいが先に死んで、娘が自立して家を出ていったら、おれは墓地の真ん中に小さな堂を建ててそこで墓守として暮らそう、それがじぶん のやりたかったことだ、と思っているじぶんがいた。
2019.11.12
昼下がり、映画「野火」を見た。 戦場での兵士の遺体処理、死者儀礼、霊魂の物象化、そんな本ばかりを読んでいるといつか白々と河原 に屹立す る骨の夢まで見る。腹が裂け、脳漿が飛び散り、腕や足がもがれ、皮膚がめくれ、蛆が湧く映画のなかの兵士たちはだれもが平和な日常のなかでは滅多にないま さに野辺送りの死者儀礼とは真逆のだれにも看取られることもない無残な亡骸を野に晒して打ち棄てられるだけの「非業の死者」たちばかりだ。かれらが「うつ くしき眞砂(留魂砂)に天下った英霊」になったとはおれにはどうしても思われない。白骨は屹立したままどこへも辿ることもできぬ鬼となるだろう。その鬼か ら目を背けてうつくしき眞砂を白木の箱に入れ神として祀ることで手を打ったのがこの国の為政者たちでありおれたち卑しき臣民どもだ。その白木の箱を地面に 叩きつけて夢から醒めよ。流浪する鬼を呑み込め。眼裏から気泡のような黒い血を流せ。そして現在につらなるあらゆるからくりから脱出せよ。「野火」はふた たび近い。おれは喰らうよ。
2019.11.14
2019.11.23
まるで皮膚が鞣(なめ)されたようなあの感覚はまだおぼえている。20代ではじめてインドを旅して、剥き出しの国でもみくちゃにされて日本へ帰ってきたあ
の日。成田空港から乗ったバスの窓からひさしぶりに眺めるこの国の景色はなにやら空気がうすい、奇妙に現実感を喪失したのっぺりとした明るいビニールの気
球のなかの世界のようだった。もうひとつの感覚もはっきりとおぼえている。一年後にふたたびインドの地を踏んだときのことだ。やはり空港から夜のカルカッ
タの市街へ走るオートリクシャーの上で、あらゆるこの世の夾雑物をたっぷりと含んだような湿気に満ちた生ぬるい風に髪をなびかせて、ああ、おれはかえっ
て来たんだ、息のできる場所へ、とこころが叫んでいたあの日。以来、わたしはこの国にそぐわなくなった。皮膚に刻まれた刺青のような違和感がいつもこびり
ついてはなれない。額に貼り付いた逆三角形だ。そうして数年後、嗤われて、はじかれて、干されて、こぼれ落ちたわたしは北関東の実家に引きこもり、夜は明
け方までひとり自室のスタンドの灯りの下でユングや聖書をノートに書き写し、昼すぎに起きてバイクで山へ行って道なき山中をうろつきまわり、夜の渓流で焚
き火の炎を見つめて家に帰る、そんな毎日を送っていた。隣家の老齢の主人はそんなわたしにいつも挨拶をしたが、目は冷たくわらっていた。わたしにとって世
間と
はその冷たいわらいだった。あのジャック・フィニイのSF『盗まれた街』(The Body
Snatchers)のなかの人間の皮をかぶった未知の生物だった。わたしはかれらを憎んだ。そしてフィリップKディックの『ヴァリス』に出てくるこんな
言葉。 一、おまえに同意する者は狂っている。
二、おまえに同意しない者は権力を持っている。それはわたしの鉄の玉条であった。わたしは古い墓地をめぐるのが好きだ。死者は裏切らないからだ。あやふや
でも
ないし、ひとを冷笑したりもしない。はるか遠い南の島で飢え狂い死にをした兵士、国家権力によって縊られたもの、朝鮮人というだけの理由で嬲り殺されたも
の、
紡績工場で死んだ身寄りのない女工、満州の開拓村で殺された家族たち、昏い海の底で引き揚げ船とともに眠っているひとびと、墓石にさえ差異の刻印を畜生と
して刻まれたひとびと。かれらを数としてではなく、生であった存在として肉に刻みつけるために、わたしはそのひとつひとつの墓石を訪(おとな)う。見舞い
で
あり、弔いであり、告解である。そうしてわたしはやはり、あたりまえのなかで挨拶を交わしながら目は冷たくわらっているかれらを許さない。許すわけにはい
かない。善人たちのつどう風景とは<悪>である。なぜならかれらは歴史に背を向け、歴史を簒奪するから。真実をやさしい善意
で鞣すから。かれらがおだ
やかに語り、微笑むその
日常の連続に不合理な屍が累々と横たわっている。反吐が出る。この腐った果実のような日常のなかで、アフガンで米軍の爆撃を受け脳味噌を飛び散らかせて
死んだ愛らしい少女ナジーラのことは忘れられる。反吐が出る。蒸気がもうもうとこもる紡績工場で使い捨ての部品のように酷使され無縁墓の山に積み上げられ
た寄宿舎工女・宮本イサのことは忘れ去られる。反吐が出る。コロナウィルスがあぶり出すもの。それは一見あかるく取り繕い、豊かに見えて、ニセモノだらけ
の世界
が背後に隠し
持っていた本物の<悪意だ>。それは黴のように、腐海の胞子のように、ひとのこころをゆっくりと詰まらせる。
近江の古い集落の裏山に伝わる百年前の伝病焼屍場跡を叢のなかにさがした。目に見えぬウィルスによっていのちを奪われた肉親の亡骸を人々はかついでこの昏
い杣道をたどった。遺体を焼く炎が人々の頬を赤く照射した。百年前のそのときの人びとといまのわたしたちは何が違うのか。かれらは世界の終わりを見ていた
か ?世界はいつか良くなるだろうと信じていたか? あれから百年の歳月を経て分断はさらに深く進行したのではないか。今回のコロナ禍によってあぶりだ
される風景は、どれもこれも百年前から厚いコンクリートの石棺を侵食していた腐海の臭いだ。政治も官僚も司法
も、
教育も暮らしも階級も、差別に満ちたひとの心も、どれも耐え難い腐臭を放っている。わたしたちの肺はすでにその汚染された空気に侵されている。清浄な空気
の中でわたしたちはもう、生きられない。ウィルスがあぶり出したものはそれらすべての実相である。微笑みの奥の冷たい目が秘めていたものたちだ。腐臭を隠
した花よ
りも、剥き出しにされた汚濁の方がいっそ良い。多くの人々が理不尽に死んでいく。パレスチナでもアフガニスタンでもずっとそうだったさ。殺される前に
<尊厳>を剥ぎとられて。きみが見てきたものはかれらが見せてくれたものだけだ。あの巨大な津波も原発事故の惨劇もいまでは
もうすっかり忘れ
去られてしまった。百年前から繰り返してきたように、いとも容易に歴史を簒奪する。300万人が死んでも何も変わらない。だからこんどもきっと&
lt;元
の反吐の出る日常>へ還っていくだろうよ。コロナウィルスに有効な薬が見つかったかも知れないという記事を見ると、ほっとすると同時に、い
やいや、
まだ足りない。まだまだ、だめだ。もっともっと多くが死んで、野に焼かれ穴に投げ込まれ、混乱し騒擾し欲望し阿鼻叫喚し、あらゆるものが二度と蘇らぬくら
い徹底的に破壊し尽くされるべきだ、ともうひとつの声がしずかに確実に耳元でささやく。
京都・八坂神社の南、親鸞の墓所である大谷本廟からつらつらと尾根筋をのぼって清水寺へ至
るあいだにひろがる東山の広大な墓域はかつて化野や蓮台野とな
らぶ平安京の三大葬送地のひとつであった。身分の高い者は荼毘に付され墓がつくられたが多くの死者は野ざらしであった。一説には山の枝に遺体をかけて鳥が
食べやすいように処理して風葬にしたことから鳥辺野とよばれたとも聞く。その鳥辺野墓地の入口に堂々たる軍人墓に囲まれた自然石の肉弾三勇士の墓がある。
「然るに三勇士は実に吾真宗門に出づ。亦以て宗門の栄誉と謂ふべきなり」 沖仲仕や炭鉱夫などの貧しい家の出の若きいのちが四肢四散し軍や坊主や部落解
放の宣伝に担ぎ出され人びとは熱狂し歌舞伎や映画はてはレコードやグリコのおまけにまでなってそのままの電通姿で眠っている。男根の如くそそり立つ軍人墓
は
参道沿いに多かった。三勇士から5,6年後のいわゆる「支那事変」で斃れた奈良の耳成村の兄弟の墓もあった。歩兵38連隊である。「資性温厚篤實ニ
シテ慈愛ニ富ム」 「昭和13年11月1日英霊凱旋同月6日村葬」 いつものように報われぬ死者たちの名を読み上げながら鳥辺野一帯をさまよって清水
寺のはたにたどりついてアテルイ・モレの碑に挨拶だけしていこうかと歩をすすめれば拝観料エリアだったために引き返して親鸞御旅所ならぬ御荼毘処など覗い
てこんどは鳥辺野の火葬・野辺送りの地であったと伝わる六道珍皇寺門前の六道の辻をくぐればおりしも特別公開中で冥土にくだりて閻魔大王にも仕えたという
小野篁(たかむら)像やかれが使った冥府への井戸も間近に見れてますますこの世とあの世の境が溶けていく心地であった。そのままギャラリー白川を訪ねれば
画廊主の女性と彼女の38年間のギャラリーの歴史をつらぬくジョン・ケージの銅版画やマルセル・デュシャンのサイン便器との馴れ初め話で大いに盛り上がり
人為を排した偶然はめぐりめぐって必然なのだそれが宇宙のリズムなのだと拝聴していたら本個展の今尾さんご本人もやってこられてはるさんの
ギャラリーCreate洛以来。今尾さんの作品について画廊主は抽象の奥に具象がひそんでいると言ったがさらに言えば山川草木が細胞レベルの始原にたちも
どりもういちどなにかを企てようとしているのだった。つまり肉弾三勇士も阿弖流為も小野篁も親鸞もみな解き放たれた光の粒子であってこの世とあの世を自由
に行き交い明滅している。それはジョン・ケージが企てたチャンス・オペレーション=あそびなのかも知れなかった。気がつけばおよそ一時間半をわたしは今尾
作品であそび、もう一時間半をケージの偶然の必然宇宙の会話であそんですでに昼飯も忘れて3時になっていた。菊乃井本店の裏に道元の荼毘跡を見つけたのよ
という画廊主の言葉にさそわれて舗装の果てた草道の奥に道元禅師荼毘御遺跡の碑を見つけ思い出していたのは以前に松本の美術館で見た細川宗英の自由なのか
不自由なのか豊饒なのか欠損なのかすべてをつきぬけて存在が対峙する道元の立像だった。道元のこの世の肉体が炎につつまれてくずれおちる。わたしたちは解
き放たれた光の粒子にまいもどりふたたびのあそびをはじめる。
わたしが軍人墓をめぐるようになったのは、例の「戦争法案」反対の国会前デモに参加した翌 日に生涯ではじめて訪ねた靖国神社・遊就館でこちらを見つめる 無数の「英霊」たちの写真を目の当たりにして立ちすくみ、この「英霊」たちをやつらの手からとり戻さなければいけないと思ったからだ。目に入った共同墓地 を訪ねて軍人墓をさがし、名前を読み、墓石に添えられた履歴を読んで、わずかな時間だが失われたいのちに思いを馳せる。記録を残すわけじゃない。いやむし ろ記録など残さない、一期一会の出会いでいい。そうやって何百の「英霊」たちを訪ねたか。シベリア抑留で亡くなった4万6300人の名前を1人ずつ読み上 げて47時間がかかった。米粒で300万ともいう戦没者を数えて掌ですくえば指の間から漏れ落ちる一粒ひとつぶもその残像が眼裏(まなうら)にのこる。わ たしはまだほんのひとにぎりの「英霊」たちに出会ったにすぎない。
思いもかけずSNSの縁で近所の寺に無縁墓の残る「島村先生」(「チベット旅行記」の河口
慧海の親友であり、有吉佐和子が「複合汚染」で描いた五條の医
師・梁瀬義亮にも多大な影響を与えた大和郡山の数学教師・仏教者)の縁者の方とめぐり会い、昨夜から恋人同士のようにメールのやりとりを交わしている。向
こうは現在から過去の先祖を遡上して、わたしは百年前の無縁墓から現在へ流れ着いて、そうしてちょうど出会ったんだねと昨夜、つれあいがわたしに言った。
どんなきっかけでもいい。身近な百年を見つけて穴を掘っていけば、この国のいろんな姿が見えてくるよ。わたしの場合はたまたま近所の寺で見つけた紡績工場
の女工たちの供養碑と「島村先生」と書かれた無縁の墓石だった。この数年、百年をめぐる旅はわたしをさまざまな場所へ連れて行ってくれた。そこでわたしは
教科書や歴史の大舞台には出てこない歴史の実時間を生きた人々の生温かい吐息に触れたのだった。そしてまだまだこの旅は終わらない。
そ
んなふうに恰も百年前に向かってメールを書いているような錯覚をおぼえながら、ふと密林で20年前、飛鳥の古い造り酒屋の建物で開いたつれあいとの入籍報
告会で、当時大阪の人権博物館の理事長をやっていたKさんから頂いた球磨焼酎「六調子」を見つけてなつかしくなって注文した。あの頃はこんなお酒は高価で
とても買えなかった。おいしいおいしいと言っていたら、Kさんは後日にもう一本持ってきてくれたのだった。その「六調子」で、今夜はいろんなことを思い出
しながら、とりあえず「島村先生」と百年の旅に祝杯だ。
梅田の東方、天六(天神橋筋六丁目)からもほど近い長柄地区はかつて、いわゆる貧民窟と呼 ばれる一帯であった。町の中央に大阪七墓の一部を統合した長柄 墓地が広がり、鶴満寺(かくまんじ)は近世の一時期にコレラ患者を受け入れた。斎場があり、隣保館があり、内鮮協和会があり、戦後は「罹災者、復員者、外 地引揚者の世話を目的として」宿泊所が設置された。Yさんはその長柄で生まれ、地元の豊崎小学校に通った。長柄墓地と斎場に隣接した小学校はよく焼場の匂 いが窓から入ってきたという。墓地の西側に面した南北の道は「ハカスジ(墓筋)」と呼ばれ、南下したあたりには遊郭があり、街娼が立っていたという。早く につれあい を亡くしたYさんの父親は日雇い人足で、毎朝西成へ仕事をもらいにいった。ふだんはやさしい父親だったが、大の酒好きで、日当が入ると呑んで景気よく使っ てしまう。Yさんは兄と姉の三人で食べるものがないと、近所の祖母の家へ行き、祖母があつらえてくれた食事を家に持ち帰って食べた。毎日が、そんな具合 だった。祖母は父親の兄にあたる長男と暮らしていたが、王冠の内側にポリエチレン樹脂のライナーという裏張りを貼りつける内職をしていたそうだ。ときどき 祖母がやってきて、呑んだくれている父親を「いったいどうすつつもりだ!」と叱った。その祖母はのちに自転車に乗っていて長柄墓地へ向かう野辺送りの車に 轢かれて死んでしまった。Yさんの兄や姉が父親を捨てて出て行ったように、Yさん自身も父親が嫌で豊崎中学校を卒業してから家を出て、最初は生野あたりで 数年を暮らした。それから知り合いにすすめられて八尾の空港近くにあたらしく出来た豆腐やうす揚げの製造工場で働いて、やがて結婚をして子どももできた。 30歳を過ぎた頃、疎遠になっていた兄から父の死を聞いた。54歳で、お酒がもとで死んだという。晩年は兄が面倒を見ていた。父も祖母も一心寺に納骨して 骨仏になり、ときどきお詣りに行く。40代のときに豆腐の製造工 場が倒産して、つてを頼ってこんどは豆乳の製造工場に就職した。だが誘ってくれた社長が死んで会社を継いだ息子との折り合いが悪く、退職してタクシーの運 転手になった。そして65歳で定年退職。そんなYさんの話を聞いていたら、いまはすっかり様変わりしたそうだが、俄然長柄を歩いてみたくなったぞ。
ジップ散歩。春がちかづいてき て、田圃のへりには色とりどりの野の花々が咲き始めた。タンポポを一本摘んで来世墓の、郡山紡績工場寄宿舎工女・宮本イサ ちゃんの無縁墓をひさしぶりに訪ねた。ずいぶんと手を尽くしたけれど、120年前に死んだたった一人の女工の来歴さえわたしたちは届かない。年老いた女性 がついてきたキャリーカートにすわって田圃をながめている。むかし産婆さんをやっていたという近所のおばあさんだ。たしか90歳に近いともつれあいが言っ ていたけれど、彼女の年齢を遡上しても工女・宮本イサの生きていた時代には届かない。じっと動かないおばあさんは風景に同化してまるで山川草木ほとんど遍 照金剛南無阿弥陀仏のようだ。紡績工場で死んだ工女・宮本イサはきっとおばあさんの1/3の時間も生きられなかっただろう。でも彼女はたしかにこの土地を あるき、この空をながめた。昼間はうごいていれば汗ばむような陽気だけれど、陽が傾けばまだ空気は冷たい。でも植物たちはきたる春を予感して華やぐ。あま ねくひかりというのはきっときみやあのおばあさんたちのことをいうのかもしれない。
県立図書館へ120年前の娼妓の証文を撮影に行った折、「観光地・奈良の姿」と題した資料展示を見た。1900(明治33)年。奈良公園の大改良計画の 許可が下りる。若草山の山焼き、夜間実施に変更。大阪鉄道、関西鉄道へ合併。帝国奈良博物館、奈良帝室博物館に改称。奈良公園内に春日山周遊道路完成。ど れも郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサが死んだ年のことだ。彼女の無縁墓を見つけて以来、1900(明治33)年がわたしのなかの基点となった。1900(明 治33)年。パリでは万国博覧会が開かれ、中国では「扶清滅洋」を掲げる義和団の外国人排斥運動(義和団の乱)が起きた。日本では足尾銅山鉱毒事件の被害 者農民らが東京へ陳情へゆく途中で警官隊と衝突した川俣事件があり、東京市がペスト予防のため鼠の買上げを開始し、 治安警察法公布された。愛知県の光明寺村の織物工場では女工31名が焼死する事件が起きた。その年、郡山紡績工場は綿糸価格の暴落により操業短縮を余儀な くされ、女工三人が「会社の虐待を恨み」脱走する事件も起きている。すべて郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサが死んだ年、彼女が生きて、呼吸し、最後の風景を 見ていた歴史の実時間だ。1900(明治33)年を軸に世の中を考えると、たいていのことはたどれない、と気づく。宮本イサはどこの出身で、どんな生い立 ち で、なぜ死んだのか。どんな人生を送ったのか。なにも分からない。1900(明治33)年を軸に世の中を考えると、わたしはこの世にだれも知り合いがいな くなる。そのくせ、 世の中のすえた匂いはどことなく似ている。わたしはそのまま、2021年の日本で生活しながら1900年にはまだ生きていた郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサ と彼女があるいたかも知れない紡績工場のはたの天満宮や佐保川の堤を二人だけであるく。イサちゃん、百年経ったって人間なんぞは猿のままだよ、いやいっそ 猿の方が賢いかも知れないな。わたしの横で彼女はだまって土手の草を抜いている。ぼくは百年前に死んだきみのことをいつも考えている。ぼくはまるで記憶を なくしたにんげんのようだ、じぶんがどこのだれで、いったいどこからやってきたのかすら分からない。きみの顔すら思い出せない。風がわたる。過去からも現 在からも切りはな されてわたしは立ちすくむ。
2021.4.11
落剝した墓石を前におれは知らず会話をしているわけだ。ドラッグで逝っちまった男が残した曲なんていかしてるじゃないか。むかしからこの世が嫌いだった からあの世と話をしていたんだ。あちら側はもう変わることがない、こちら側はふらふらとあてどなく醜いばかりだ。醜くたっていいじゃないの、あたしたちに は音楽があるわと、じゃにすじょぷりんが云っていた彼女の尖った乳首が好きだった。死者は裏切ることがない。かれらはみずからの死をもってかれらが生きた 真実を語る。イエスがそうしたように、だよ。かれらが残したかったもの・ほんとうにつたえたかったものに目をこらせ。そうでない連中は抜け殻でしかないこ の世の遺体のまわりをうろついては現世の利益に花を咲かせる。おれはうんざりだね、もっとしずかなところへいってひとりですわっていたいんだよ。苔むした 墓石は生者よりもたしかだ。ほんとうはじぶんたちが死んでいて、かれらの方が生きているんじゃないか。そう思うことがあるよ。長い時間、だれもいない共同 墓地にすわって、露の光や幻の夢などと刻まれたわらべの墓石をながめているとそんな気持ちになる。百年前など一瞬だった。おれたちは永遠にじぶんを含むこ の世界が続くと勘違いしている。富をこの世に積むことの卑しさよ。おのれの死の瞬間になにを手離し、なにを残し、なにが伝わるのか。あの世へ持っていくも のなどなにひとつない。古い伝承歌にうたわれているだろ、切符は要らない、ありがとうの気持ちだけだ。もとの星屑へもどるだけ。墓場でひとりすわっている と、もともと手離すものなど、はじめからなにもなかったのだという気がしてくる。
まず、「終戦」ではない。敗戦だ。かの戦争を終わらせたのではなく、人間も大地も焼き尽くされて無条件降伏したのだ。それをこの国は、ずっと「終戦」だと 言い続けてきた。ここに欺瞞の一が在る。敗戦の半年後に発表された「堕落論」の最後を、坂口安吾はこう結んでいる。「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが 必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちきることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」 は たしてこの国は正しく堕ちる道を堕ちきったのだろうか。ここに欺瞞の二が在る。広島の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬ から」と刻まれている。過ちを行ったのはだれなのか? だれが責任を負ったのか? そして過ちを繰り返さないのはだれなのか? ここに欺瞞の三が在る。 2021年8月15日の毎日新聞朝刊をめくってみる。戦災孤児のつらい戦後があり、大阪・京橋大空襲の慰霊祭があり、池上彰と吉永小百合の対談「朗読に込 める平和」の特集記事があり、平和を祈る戦争体験者の投稿があり、「人命を最優先させる社会に」と題した社説が載っている。奈良版では靖国の遊就館に収め られているという吉野町の特攻隊員15名が寄せ書きをした飛行マフラーについての記事があり、「平和祭」と称した大和郡山市での戦争に関する展示パネルに ついての記事があり、東大寺の坊主どもが「天災・人災犠牲者」のための慰霊法要を行ったという記事がある。展示パネルの主催者は言う。「戦争を繰り返さな いためには、思いを継承していくことが何よりも大事」と。思いは、継承されてきたのだろうか。戦争の悲惨さと平和を謳うことによって失って来たもの。ここ に欺瞞の四が在る。つまり、2021年8月15日の毎日新聞朝刊には、被害の記憶はあまた語られているが、加害の記憶は一行たりとも存在しない。中国前線 で連行させられていた中国人女性の抱いていた赤ん坊を日本兵が谷底へ投げ落とすと絶望した女性もみずから谷へ身を投げた、などという話は8月15日には語 られない。これがあのアウシュビッツ収容所などのナチス・ドイツによる人種絶滅計画を経験したユダヤ国家が現在、パレスチナの人々に同じような残虐無道の 行いを繰り返していることの歴史的回答である。つまり、かつて堀田善衛が、古代ギリシャでは過去と現在が(可視化される)前方にあり、見ることのできい未 来は背後にあると考えられていたと前置きをしてから記した「われわれはすべて背中から未来へ入って行く」ことの回答、「可視的過去と現在の実相」(辺見 庸)を見ぬくこともなく盲目のまま背中から未来へ入って行くわたしたちの「平和がたり」の欺瞞である。いまだにこの国の主要寺社の坊主どもは英霊散華の経 なんぞを唱えては済ました顔をしている。仏教的世界に於いて「英霊」はありうるのか。これもまたあまたある欺瞞の一、要するにこの国の戦後は欺瞞の巣窟で あったわけ だ。みなでそれを許容してきた。 「・・犠牲者の記録などを残す場を「笹の墓標展示館」と名前をつけたのは、まさに死者たちはね、まったく追悼されること もないまま熊笹の下に眠り続けてきたという、そういう意味をぼくらは込めて、そういう名前をつけた、と」 北海道山中の熊笹から掘り起こされた多数の朝鮮 半島の強制徴用・強制労働の犠牲者たちを弔う日本人僧侶の男性のことばこそが、この国の8月15日にふさわしい。戦後80年。いまだに熊笹の下に眠る無数 の死者たちを忘却し、理不尽なむごいだけの死者を「英霊」と賛美し、盲目のまま、なにひとつ未来のイメージを持てぬままで背中から未来へ入って行く日本人 よ。わたしたちの肺腑は、いまだ欺瞞だらけだ。息を吸っても吐いても、白骨がからからとむなしくふるえる音がする。
2021.8.15
昨日の国会図書館(関西館)、主には金沢の新谷さんから依頼されている尹奉吉(ユン・ボンギル)の大阪での足跡調査であったが、その合間にいつもの紡績工
女に関する新聞記事検索も。
最
近分かったことだけれど、従来の新聞各社データベース検索では拾いきれなかった記事が、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)で検索をするとヒットす
ることがある。エル・ライブラリーの方が記事の内容まで検索がかかるらしいのだが、そこから直接元の紙面までは見れないので日付などを控えておいて、新聞
各社データベースと契約している公共図書館などでじっさいの紙面を確認したりプリントすることになるのがチト面倒だ。郡山紡績工場寄宿舎工女・宮本イサが
死んだ1900(明治33)年にしぼってみても、紡績女工に関する悲惨な記事がたくさん出てくる。
誘拐、折檻、逃走などは序の口で、強姦
されたり、遊郭へ売り飛ばされたり、過酷な工場勤めに16才の少女が川に身投げしたり、9歳で連れてこられたという11歳の少女が故郷帰りたさに汽車が通
るのを見ては泣いているという記事など。極めつけは大阪の天満にあった紡績工場で、紡績機械の不具合のために16才の少年職工が巻き込まれ「456回の運
転を継続したることとてあはれ治三郎はその脆弱なる四肢五体を巻き込まれては梁の上なる繋ぎに打ちつけられ巻き込まれては打ちつけられすることまたじつに
456回転したることなれば何かは以って足るべき四肢五体は粉砕微塵となって二三丈四方は肉の雨を降らし血煙立ちて目もあてられず・・・」といった光景に
なった。この事故は会社の不注意に起因することからと「治三郎の死体は社葬を以って之を葬り第1号職工残らずをして会葬せしめる事と」なったと記事は結ん
でいる。いまは無縁墓とはいえ「郡山紡績工場寄宿舎工女」の名で立派な墓石がつくられた宮本イサも、じつはこうしたいわく付きの社葬ではなかったかと、わ
たしは思って瞑目する。
尼崎紡績福島工場で、工女の多くが礼拝しているという寄宿舎の大広間に設けられた仏壇の写真を載せている記事が
あった。工女には真宗信徒が多いと書かれているが、これは貧しい地域の出身者と同義でもあるだろう。「中央には金色燦爛たる立派なお仏壇を置き、その〇側
には死亡した工女の位牌を安置してあります」と説明されたこの写真はある意味、すさまじい。宮本イサの位牌も、こんなふうに金色燦爛たる仏壇のかたわらに
ならんでいたのだろうか。
昨日、ジップの散歩で立ち寄った郡山紡績工場寄宿舎工女・宮本イサの無縁墓がある来世墓で、あんまり隅の方にひっそりとあっていままで気がつかなかった、
わずか16歳の少年・西本清蔵の「軍人墓」。満蒙開拓青少年義勇軍のために「内原訓練所ニテ訓練中殉職」と刻む。ウチハラ、ウチハラ、どこかで聞いたよう
なと思ったら、茨城県の内原であった。かの地に昭和13年から敗戦の昭和20年まで、『「第二の屯田兵」とか「昭和の白虎隊」と褒めそやされ、「片手に
鍬、片手に銃」を合い言葉に満蒙で大地主になることを夢』見た15歳〜19歳の青少年たちが農業実習とともに軍事教練を受けた。所長は、関東軍将校で満州
国軍政部顧問の東宮鉄男と共に満蒙開拓移民を推進した加藤完治である。かれのもとから86,530名の青少年義勇軍が満州の地へ旅立ち、そのうちの約
24,200名は悲惨極まる最後をとげた。加藤は敗戦後、公職追放によりA級戦犯となったが許され、『日本国民高等学校の校長に復職したり、旧満州開拓関
係のあらゆる団体や組織の枢要な役職に就いたり、はたまた、様々な会合や講演に招かれて昔ながらの熱弁を振るった』 わずか16歳の若さで訓練所で死んだ
西本清蔵はどんな死に方をしたのだろうか。内原訓練所で訓練生たちによって建設された日輪兵舎といわれた宿泊・研修を兼ねた円形の建物は建築家の古賀弘人
による設計で、日輪を現す円形は加藤完治の皇室崇拝と農本主義を現しているという。全国でこの日輪兵舎は作られていった。佐保川のほとりののどかな共同墓
地の片隅に、こんな歴史の一端が眠っている。
◆満蒙開拓青少年義勇軍 内原訓練所
https://www.asahi-net.or.jp/~un3.../0815-manmou-uchihara.htm
◆加藤完治と戦争責任
https://blog.goo.ne.jp/.../74e5d19af288605e24221117b65de075
◆水戸市・満蒙開拓青少年義勇軍訓練所跡
https://mainichi.jp/articles/20200330/dde/014/040/009000c
◆日輪兵舎 ―戦時下に花咲いた特異な建築
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E8%BC%AA.../dp/43060467452021.9.6
2021.9.6
幾日も清涼な山の風景を経めぐっていると細胞という細胞の隅々にKumanoが沁みわたってくるような心地がする。熊野とはなにかと問う、その問いによっ て輝くものが真の熊野である。問いがなければ、熊野もない。かつて中上がそう言ったKumanoがウィルスのように身体に侵入して遺伝子の改変を目論む。 書き込まれたものはしかしうしなわれた遠い記憶であった。草いきれ、贖(あがな)い、ねぶるもの、石、くずれおちた皮膚が自明のものに抗いながら悲鳴をあ げる。人跡たえた源流の河原でわたしは後へのこしていく墓石をなんどもふりかえった。家族の待つわが家へ暗い山中の筏みちを急いだ求愛する鹿の声が遠くで 響いた。この世のすべての縁を断ち切って人知れぬかったい道をさすらった。闇夜にのびる巨人のような山の影がわが身におおいかぶさる。岩に南無阿弥陀仏を きざむ。ニューギニアで狂い死にした少年が姉と石堤のみちをあるいてゆく。丸太を鳶口でひきよせる。鷹が旋回している山頂の王者のように。炎のなかで小石 が爆ぜる蒸気があがる飯の匂いとともに。座棺に入れられた祖母の肉体はどのように腐敗していったろうか。百年、三百年、千年、山々の襞で人びとは生き死に を繰り返した。麦が実り蕎麦が実り血が流れ皮膚が破れる。Kumanoはまるで下からの矢のようだ。それによって人はときに命をうしなうが再生もする。古 来、死んだ人の魂魄は山へのぼった。黄泉還りという魂もある。
&
nbsp; 相可様
「「ヒロポン」と「特攻」」を拝読し、昨夜のエルおおさかでの講演会も拝聴させていただきました。戦争の馬鹿らしさについて、戦前戦後とつづくまやかしに
ついて、また天皇制、特攻、教科書問題等々について、ときに仁王の憤怒すら覗き見えるような相可さんの苛立ちに、わたしはやはりニンゲンというものは
Web上の文字ではなく生の声を聴き表情を見体温を感じないと駄目なのだと、それが今日奈良から大阪までこの講演会を聴きに来たじぶんのいちばんの理由
だったと得心しました。講演が夕方からということもあり、日中はひさしぶりの大阪の町を無軌道に徘徊していたのですが、1891(明治24年)の濃尾地震
で倒壊した浪華紡績工場にて死んだ無名の女工たちの供養碑を正蓮寺の境内の片隅に積み上げられた無縁墓に仰ぎ見、また周辺の日本初の鋳綱所(現住友金属)
発祥の地(1899(明治32)年)、鴻池財閥の旧本店建物(1910(明治43)年)、そして鴉宮境内にそびえ立つ明治三十七八年戦役祈念碑などを見な
がら京橋へ移動、造幣局前の大塩の乱を物語る石碑(1837(天保8)年)や大逆事件で縊られた菅野須賀子が洗礼を受けた(1903(明治36)年)天満
教会を横目で見ながら京阪天満橋の駅ビルを対岸に眺める公園のベンチにたどりついて、すでに日も暮れて紅葉した木々が曼荼羅のように色鮮やかにライトアッ
プされていましたが気がつけば夜気もせまり、じぶんがもし宿なしであったらいまこの場所で眠れるだろうかと考えていたらすでにすぐそばの奥まったベンチに
自転車を止めて蚕のように夜具にくるまっている浮浪者の姿を見つけたのでした。そうしてきらびやかな街の灯りを対岸から眺めながら小一時間を過ごしたあと
で会場へ向かいました。前のメールですこしばかり書かせて頂きましたが、わたしが墓地の軍人墓を巡るようになったきっかけは、数年前に家族で行ったグアム
旅行でした。レンタカーを借りて一日、観光客の行かない戦跡を巡り、そこで奈良の部隊(歩兵第38連隊)がこの地で全滅したこと、二万に近い日本兵がリ
ゾート地と化したこの島で死んでいることなどを知りました。また戦時中に日本軍によって斬首された神父の眠る教会や、チャモロの地元住民が虐殺された丘な
ども訪ねましたが、そこには日本人の影すらもありませんでした。日本へ帰ってから近所の寺の墓地でグアムで戦死した兵士の軍人墓をたまたま見つけたことか
ら、週末に自転車で奈良盆地のあちこちの墓地に眠る軍人墓を見て歩くようになりました。それらはまさにエピタフ(epitaph・墓碑銘)、「生者によっ
て死者を語り直す」物語です。戦後十数年を経ておそらく母親の名で建てられた息子3人の合同墓もあれば、生い立ちから語り始める墓もあります。見知らぬ異
国での詳細な死に様(頭部貫通、腹部裂傷)、あるいは死んだ場所を記述する(K村東北500m)墓があれば、君が代を歌い天皇陛下萬歳を叫んで死んでいっ
たと刻まれた墓もありました。敗戦後にシベリアや中国奥地で死んだ日付けの墓もあれば、満蒙開拓団青少年義勇軍の国内の訓練所で死んだ少年の墓もありまし
た。そのひとつひとつが重く圧しかかるそんな死がまさに「水漬く屍/草生す屍」のごとくこの国のあちこちに無数に横たわっている。なぜこれだけたくさんの
若いいのちが不条理に奪われなければならなかったのか。相可さんの憤怒を垣間見ながらわたしがまず思い出したのは上野英信が「天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序
説」で記した次のような言葉です。「彼らの<死>は<天皇>と結びつかぬかぎり、
実体をもちえません。<天皇>もまた、兵士の<死>と結びつかぬかぎり、実体をもちえません。
両者がひとつに結びつくことによっ
て、<天皇>と<死>とは、はじめて共に実体を獲得したのです。そうでないかぎり、しょせん、
<死>は<いわ
れのない死>にすぎず、<天皇>は<いわれのない神>にすぎません」 デモと
いうものにはじめて参加した2015年8
月、戦争法案反対の国会前デモの翌日にこれも生れてはじめて行った靖国神社の遊竣館でこちらを凝視するあまたの「英霊」たちの眼。あれらを一人びとり
<いわれのない死>に還してやらなければならない、それがわたしがいまもなお各地の軍人墓を巡る旅を続けているもうひとつの
理由かも知れませ
ん。靖国の「英霊」たちは深夜の招魂斎庭で名を呼ばれその霊璽簿と共に御羽車(おはぐるま)に乗せられ本殿へすすむ。その幽冥たる世界にわたしたちは死者
を置き去りにして戦後を過ごしてきてしまった。そんな忸怩たる思いがあります。特攻という外道の戦に出発する若者にヒロポン入りの菓子を与える。その菊の
紋章の付いたヒロポン入りの菓子を勤労奉仕の女学生たちが包み箱詰めする。まさに外道にふさわしいそれらの風景を語り続けることが幽冥たる世界に住む「英
霊」たちを不条理な<いわれのない死>へ還すことのまたひとつの方法だとも思われるのです。もうひとつ講演のさなかにわたし
が思い出したの
は、しばらく前に見た「緑の牢獄」という台湾人の監督による沖縄県・西表島にあった旧西表炭鉱史に迫るドキュメンタリー作品のことでした。通貨すら握られ
た奴隷のような密閉空間で、台湾から連れて来られた坑夫たちは阿片漬けにされる。奇跡的に島から逃れられても、阿片欲しさにまたもどってくる。そのドキュ
メンタリーで暗示される歴史の暗部は、おなじようなヒロポンの裾野もじつはもっと広範囲だったのではないかという疑いに連なります。「タチソ」のような軍
事機密施設あるいはまた山中の閉鎖された軍部による鉱山開発現場などでの突貫作業などにヒロポンは使われていなかったか。日本人だけでなく中国人や朝鮮
人、台湾人などの徴用された労働者たちが残した証言にそれらの痕跡は語られていなかったか。外道の風景は特攻の兵士のみならず、かれらのような異化された
他者たちにこそより強く立ち上がるものだからです。そしてこの国はそれらすべてを黙殺する。今朝の新聞で作家の五木寛之氏が母親を亡くしたみずからの満州
引揚体験と重ね合わせて、人をおしのけて生きのびた者、ソ連の兵士へ日本人女性を差し出した者たちを念頭に、「だから優しい人は日本に帰れず、帰ってきた
人間はみんな悪人である」と言って「随分叱られた」ことを語っていました(毎日新聞・11月21日朝刊)。舞鶴の引揚げ記念館に決定的に欠けているのはそ
の視点です。戦後のこの国が黙殺してきたのもやはりおなじ視点です。わたしたちは「帰ってきた人間はみんな悪人である」というところから、もういちど始め
なければいけないのではないか。そうした思いを一層つよくさせられた二時間あまりの熱のこもった講演でした。ありがとうございました。ヒロポン入り菓子を
女学生たちが箱詰めしていた学校跡、多くの朝鮮人労働者が過酷な労働を強いられ虐待されていた「タチソ」の地下施設、そして地蔵院裏の共同墓地に眠ってい
るという当時の朝鮮人労働者の墓を近いうちに訪ねて、外道の風景を語りつづけ<いわれのない死>をとりもどす孤独な覚悟につ
いて考えてみたい
と思います。
墓に、参る。花を立て、線香に火を点け、手をあわせて瞑目する。そのとき、意識はどこへ向けられているか。地表に立った石塔(墓石)ではないか。だから墓
石を磨いたり、水をかけたりもする。地下の納骨スペースに収納された遺骨ではなく、目の前の墓石がまるで故人であるかのようにわたした
ちは振る舞い、ときに墓石に話しかけたりするわけだ。そして「お墓」といえば、わたしたちはその墓石を想起する。ところがその墓石(石塔)の下に、かつて
死者たちは
眠っていなかった。
「墓」がカロウトとよばれる地下の納骨スペースを持つようになったのは、ごく最近のことだ。いや、そもそも「墓」が、わたしたちがふつうに思い浮かべ
るような墓石を持つスタイルになったのも、じつはそれほど長い歴史を有しているわけではない。鎌倉時代に作成された「六道絵」のひとつ「餓鬼草子」には、
平安〜鎌倉時代にかけての墓域の様子が描かれている。火葬した遺骨を埋葬して石を積み上げた「集石墓」が二基、土葬部分を土盛りした「土坑墓」が三基。そ
のうち石塔である五輪塔が置かれているのは一基だけで、残りは卒塔婆や、ささやかな樹木が植えられているにすぎない。さらにその間には蓋の開いた木棺の遺
骸が一体、野ざらしの遺骸が三体横たわり、餓鬼や獣たちに食い散らかされている。京都の東山や化野の異界には、このような光景がひろがっていたのだろう。
出典は失念したが、京都の公家か誰かがじぶんの伯父の墓を探したが、すでに卒塔婆も朽ちて場所が分からなくなっていたという日記のくだりを読んだ記憶があ
る。「墓」はやがて不明になるもの、であった。
柳田民俗学によって定着した日本社会の「霊肉分離の観念」(「一定の年月を過ぎると、祖
霊は個性を棄てて融合して一体になる」先祖の話)の説明として、村はずれの遺体の埋葬地点(埋め墓)と集落内に設けられる石塔(参り墓)を有する「両墓
制」がその典型例として位置づけられてきたが、「「お墓」の誕生 死者祭祀の民俗誌」(岩波新書)で岩田重則はそれに疑義を呈している。地下のカロウトに
一族
縁者の遺骨が並べ置かれる現代のスタイルになる以前の「墓」は、火葬であれ土葬であれ、石塔(墓石)の下に遺骨はなかった。従来でいう「両墓制」のような
離れた場所であれ、墓石の隣接地であれ、遺体や遺骨の埋葬地点とは異なる地点に、しかも時間的な隔たりの後に石塔は置かれた。埋葬の後に、何らかの事情で
石
塔が置かれないままの場合もあった。柳田民俗学がいう「固有信仰」としての先祖祭祀の象徴である石塔(墓石)が日本の墓制の歴史に於いて現れるのは近世以
降、
2004年の「大和における中・近世墓地の調査」(国立歴史民俗博物館)などによれば、現代の「お墓」につながる「石塔一基における複数死者祭祀」の角柱
型石塔が出てくるのが1800年頃からであるから、わずか200年程度の歴史しか持たない。「“固有”と呼べるほどの歴史的蓄積がないことはいうま
でもない」と岩田は前掲書で記している。
岩田はさらに出棺から埋葬地への葬列、墓掘り、埋葬後に土をかけた上に枕石や草刈り鎌を置き、割り竹や玉垣でそれらを囲うような設営がすべて集落内で選ば
れた「葬式組」によって行われ、そこに僧侶の関与が一切ないことに着目する。キリシタンの取り締まりのために寺檀制度として「宗門人別帳」などの寺単位の
登録簿が整備されていくのは江戸時代、前述した石塔(墓石)の出現や変遷の歴史と重なる。「いわば、この遺体埋葬地点の世界は非仏教的存在であった。「葬
式仏教」の言葉に代表さ 考えてれるように、もともとは外来文化である仏教が葬送儀礼を通して民間へ浸透していることは確実であるが、その「葬式仏教」に
よって浸潤されていないのが、この遺体埋葬地点の世界であった」(「「お墓」の誕生 死者祭祀の民俗誌」) 柳田民俗学は石塔(墓石)に日本社会固有の
「霊肉分離の観念」を見たわけだが、岩田は石塔以前、「「葬式仏教」によって浸潤されていない」遺体埋葬地点の世界に仏教以前からの死霊祭祀の名残りを見
ている。
1936年の「岡山県下妊娠出産育児に関する民俗資料」(桂又三郎)は、出産前あるいは出産直後に死んだ嬰児の埋葬地に床下・
軒下・土間などの家屋内が多いことを記録している。「死産は男の子の場合は家の入口の内側へ、又女の子の時は入口の外側へ埋めていた。又家の軒下へ埋める
こともあった」(小田郡新山村) これはたとえば縄文時代の住居跡の入口付近にしばしば「甕の形をした深鉢形の土器」=埋甕が見つかることと酷似してい
る。「それによると当時の人たちは,死んで生まれたり,あるいは生後すぐに死んでしまった赤ん坊を特別に憐れんで,住居に住むその母親がいつもまたいで通
る場所に,逆さにした甕に入れて埋葬した.そうすればその甕の上を母親がまたぐときに,死んで埋葬された子の魂が股間から体内に入って,また妊娠し生まれ
てくることができると信じられていたからだという.母の胎内に帰りまた生まれてほしいという願いを示す一種の呪術的行為と考えられる」(渡辺誠「再生の祈
り―祭りと装飾」)。 アイヌの人々もかつて、同じような理由から「幼児の遺体は大人とは別に家の入口のところに埋められ,人がよく踏むようにして,早
く次の子になって再生することを願って葬られ」た(梅原猛「縄文土偶の謎」)。
またムソバという共同墓地への埋葬が行われていたという
記述もある。ムソバというのは「他国の変死人及び犬猫等総て其場限りにて後を弔わないものを葬る場所」である。これらは「江戸に流入してきた庶民の埋葬実
態が示されている」という東京・新宿区「黄檗宗圓應寺跡」にて発掘された非檀家の「墓標なき墓地」の光景と重なる。それは「狭隘な空間に重複して埋葬さ
れ、副葬品はほとんどなく「早桶」に入れられ」、「木製の卒塔婆はあるが、石塔は建立されていない。いわゆる「投げ込み」同様」の墓域である。出産前後の
嬰児はそのような場所に、寺の過去帳や人別帳に記載されることもなく葬られた。これらはまた前述した「餓鬼草子」の中世の墓域の光景にも似ていないだろう
か。岩田は「こうした子供の墓の現実を見たとき、子供の墓には、石塔が建立されるようになる前の、日本の墓制が残存していたと考えることができそうであ
る」と記している。
僧侶の関与が一切ない埋葬地点の世界は仏教以前の中世、場合によっては遠く縄文時代まで遡るかも知れないこの国の人
々の死霊祭祀の残滓を宿していた。一方でわたしたちが一般的に「お墓」であると認識している石塔(墓石)の世界は、「もちろん中世には存在せず、近世に発
生した石塔からの発展形態であった。近世社会からの連続性の上に成立してはいるものの、近現代社会で形成されてきているものであり、それは、現在進行形で
ある。このような「お墓」の形成をめぐる歴史的現実を見たとき、「お墓」とは前近代的残滓でもなく、はたまた、伝統的といえるほどの生活習慣でもなかった
ことは明らかであろう」。 「そして、こうした現象の背景には、近世社会の政治支配の影響、近世幕藩体制下における「葬式仏教」の浸透による「〇〇〇〇居
士」「〇〇〇〇大姉」、あるいは「〇〇家先祖代々之墓」「〇〇家之墓」と刻まれた石塔の普及があった。いわば、一般的常識における現代の「お墓」とは、
「葬式仏教」の浸透および近世の政治支配の残影が、生活世界に巣食っている現象にほかならないともいえる」。
考えてみれば天皇制神話、
国家神道、靖国神社、天皇陵、わたしたちは「“固有”と呼べるほどの歴史的蓄積がない」古びた衣装にどれだけ惑わされていることだろう。わたしたちが一般
的に思っている古い慣習やしきたり、文化、歴史のなかには、じつはそうでないものが多く混じっているのかも知れない。「お墓」同様に、それらは案外とあた
らしいもので、現在進行形である。古そうに見えるものは、ときに「日本固有の歴史的蓄積」の衣装をまとい偽証する。歴史を偽証するものは政治的なたくらみ
を持っている。
わずか二〜三百年の「お墓」(石塔)の歴史をばらしていけば、そこにはキリシタン禁圧に端を発して整備された権力者によ
る民衆の支配体制が透いて見えてくる。戸籍や檀家制度、付随する「葬式仏教」に寄生してきた坊主たちなどがそれだろう。それらを無自覚に、日本人固有の歴
史的蓄積を有する古くからの慣習として受け入れているわたしたちがいる。全国で「〇〇家先祖代々之墓」の墓が維持できなくなり、墓仕舞いが流行り、葬式や
埋葬が多様化しつつある現在において、「お墓」の在り方とともに、歴史を偽称するものたちについて再考することは良い機会かも知れない。
「親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし」 死んだら遺骸は鴨川に捨てて魚の餌にでもしてくれ。そう言った親鸞の言葉を弟子は聞か ず、いまでは立派な大伽藍の奥に鎮座している。自転車で天理の里山ちかくを徘徊していたら「天理教教祖墓地」という道標を見つけて、はじめて立ち寄ってみ た。小高い丘の頂上部にまるで天皇陵かと見紛えるような教祖・中山みきの改葬された立派な陵が整備され、その周囲を真柱といわれる彼女の血統者や高位の者 たちの墓が取り囲み、一般の者たちの墓になるに従って段差が下がってくるさまは、死後も階級が厳然と存在する陸軍墓地のようだ。1887年(明治20年)に 中山みきが身罷った当時、 「魂は屋敷にとどまり、体は捨てた衣服のようなもの」との「おさしづ」があったにも関わらず、残された人々は親鸞とおなじく立派な伽藍をこしらえた。その 豊田山墓地の入り口に近い「旧墓地」には生い茂った草木になかば埋もれるようにして、明治から大正に至る頃の古い信者たちの墓が林立している。苔生した墓 石にきざまれた「帰幽」という表現が好きだ。神道用語だそうだが、御霊(みたま)は幽世(かくりよ)に帰する、と云う。草に分け入り、そんな幽世(かくり よ)をさまようていると、ここではめずらしい軍人墓を見つけた。「明治37年11月28日 二百三高地戦」で斃れた柳沢八十松は、第一師団の右翼隊に増援 された後備歩兵第38連隊であったのだろう。御魂は幽世(かくりよ)へ帰ったか、あるいは鬼となったか。鬼は幽世(かくりよ)で安住できただろうか。魂魄 はいまだここにとどまり、叢(くさむら)をわたしのように徘徊しているか。帰り道、西名阪の高架をくぐり、横田の集落へ抜ける道沿いに、まっしろな風景の なかに木の墓標が大地に直立した土饅頭が密集する墓地を見つけた。わたしには湖畔の避暑地のように見える。墓地の入り口に六地蔵と並んで古い時代の五輪塔や宝篋印 塔が立ち、奥の東屋には棺台と黒ずんだ迎え仏が暗がりにひっそりと坐している。わたしはそんな処に居ることが心地よい。幽世(かくりよ)に帰する前にわた しはすでに「帰幽」してしまったかのようだ。幽世(かくりよ)はまた隠世でもあるが、常世(とこよ)である補陀落を目指して熊野を発ったものたちのニライ カナイ(理想郷)でもあった。この世にニライカナイ(理想郷)をさがす。棺台の上に寝そべってみる。すると、風景が逆転する。
行基は魅かれる。京終駅ちかくに、行基が亡き母の弔いに建てた「まぼろしの寺院」があったという記事をWebで読んで自転車でそのまぼろし
を徘徊した。かつての平城京の東を東大寺、興福寺、元興寺と南下して、五条大路をこえた都のはずれにあったとされる福寺(服寺)は、行基の母を祀った尼影
堂があり、弁財天で名高く、また勧進舞がたびたび催されたと云うが、1503(文亀3)年の土一揆で蜂起した馬借たちに悉く焼き尽くされた。その推定地は
1960年代まで福寺池として名を残し、1970年に近鉄油阪駅の廃止による残骸をつかって埋め立てられ、現在は住宅地がひろがっている。その福寺池の
あった南東角、能登川のはたに無数の古い石仏が集められているのを以前に見つけたが、それらはその埋め立て工事の際に、池底から浚いあげられたほとけたち
であった。池跡の北西角に「福寺の跡」の碑があり、裏に「京終福寺池改廃記念」の文字を刻む。そこから京終駅にちかい踏切をわたって北京終の路地へすすむ
と、古くは「京終阿弥陀」ともよばれた京終地蔵院がある。板塀の奥に大きな石造りの阿弥陀三尊像が立ち、その両脇に無数の石仏たちがつどっている。霊験あ
らたかとの阿弥陀三尊像はかつて、福寺池の南西にあった「辻堂」にあったものだと云う。足もとのおびただしい石仏たちはやはり、福寺池の池底から浚いあげ
られたのかも知れない。奥にはこじんまりとした墓地があり、敷地は広くはないが端に積み上げられた無縁墓はものすごい数で、どれも相当に古い。「奈良市史
社寺編」に拠れば「桃山時代から江戸初期の背光五輪碑(※光背形墓石)がある」。おそらくこれらの墓石を移して現在の墓域を整理したのだろう。軍人墓が
数基、マリアナ諸島が多い。古い石組の井戸が残っている。入口前で人の声がしたので見ると、自転車で通りかかった年配の女性が、白髪の男性に声をかけてい
た。その男性が地蔵院の堂庫裏に向き合って建つ住宅に住んでいる人のようであった。ここの本尊の大日如来台座に像が福寺に祀られていたという陰刻銘があっ
たという話を向けると、その像はたしかにこの庫裏にあるが、もう長いこと閉めたままだと云う。毎年7月に石造の阿弥陀三尊像の祭りをやっていたが、それも
コロナ禍で三年ほど途絶えていると。わたしも地の者ではないんだけれどと言いながら、墓地も案内してくれ、元興寺で無縁墓の調査が行われたことなどもおし
えてくれた。男性が出てきた住宅にかつては堂守りの僧侶が住んでいたが、檀家が少なく暮らしていけないので廃れ、いまは近隣の自治会で管理しているそう
だ。地蔵院を後にして、ここまで出てきたのだからと、東大寺へ走った。修学旅行の団体が次々と南大門をくぐっていき、かつての賑わいがすこしづつもどって
きているようだ。大仏殿の東の回廊横をぬけて奥へすすむと、北のはずれに寺の案内板では名前も書かれていない龍松院がある。ここはかつて、三昧聖たちの総
本山であった。かつて葬送儀礼にかかわる特権を一手にしていた畿内の聖集団たちは、時代を経るにしたがってみずからの地位の保全のために東大寺の権威にす
がったのだった。龍松院の周辺をぐるりとまわってみたが、しかしそんな歴史の残滓は何ひとつ残されていない。大仏や行基の威光は残るが、名もない三昧聖た
ちは歴史の果てに消えていった。もともとわたしは残滓もないまぼろしを追い求めているのだった。けれど行基を慕い、かれの名をいにしえの墓地に刻みつづけ
後世につたえたのはかれらだったのだ。