■901. 紡績工場
休日。朝からつれあいのベッドの微調整をし、その合間に明日の夜のカレーと、今日の昼のお蕎麦をつくる。場所を三の丸会館に変更した回覧板5班分を印刷 し、つれあいが昼までに各班長へ配ってまわった。午前中頑張って、午後は自由時間をつくろうと思っていたのだが、どうしても睡魔に勝てず昼食後、夕方まで ソファーでうつらうつらと。夕方、ジップの散歩に出る。FB友のアライさんに教えて頂いた、洞泉寺墓地にある「病没娼妓之碑」を確認に行く。カイチビルの 裏手駐車場から入り、オークワ側の南端に供養碑は建っている。裏に「石橋屋」とあるのは店の名前だろうか。手を合わせ、しばし黙祷する。ここの墓地は他に もかなり古そうな無縁仏や石仏がたくさん、墓域のすみっこにかたまっている。もうひとつ、こんどは岡町の遊郭の娼妓供養碑があるという柳5丁目の西向寺に 向かうが、商店街わきの小さなお寺でジップをつないでおく適当な場所がなかったので、今回はあきらめた。アライさんの送ってくれた写真では「岡町遊郭接待 婦之精霊跡」なる供養碑が無縁仏にならんで建っているらしい。家に帰って、ちょっと体調がもどってきた娘と夕飯。天理の「麺屋 一徳」へラーメンを食べに 行った。これまで何度かトライして、休みだったり、駐車場が空いてなかったりで機会を逃してきた一徳だが、今日は開店間際に行ったせいか空いていた。二人 で塩ラーメン。小松菜とうすいハムのような味わい深いチャーシューと葱だけのシンプルな構成。わたしが頼んだ〆ご飯は、海苔とほそく裂いた鶏胸肉、そして 柚子胡椒が添えてある。「いごっそうには負けるけど」と娘は笑っていたが、満更でもなさそう。奈良で、確実に片手には入るラーメンだな。帰宅してからこん どはあるいて、つれあいが9時まで勤務している図書館へ。郷土資料のコーナーを漁り、紡績工場や遊郭については市史をはじめ、ろくな資料もないことは分 かった。どうせ、残すつもりもないのだろう。関西学院大学の社会学部のゼミの学生の「女の街 〜大和郡山と紡績工場をめぐる人びと」という卒論の写しを見 つけて、一部をコピーしてきた。この中に、わが家からもほど近い誓得寺に、紡績工場で亡くなった女工さんの供養碑があることを見つけたのが大きな成果だ。 地方出身の身寄りのない女工の葬儀一切をおこない供養したという住職の言葉も載っている。明日あたり、見に行ってくるかな。紡績工場と遊郭。それぞれの過 酷な場所で若い命を散らせた少女たちの記憶は、いまでは殆ど忘れ去られようとしている。それを、救い出したい。
◆「女の街 〜大和郡山と紡績工場をめぐる人びと」 http://d.hatena.ne.jp/shimamukwansei/20110113/1294922850
◆大日本紡績の誕生と摂津紡績 (PDF) https://www.unitika.co.jp/company/archive/history/pdf/nichibo01.pdf
◆あっさりシンプル。そして美味!『麺屋 一徳』@天理市 http://small-life.com/archives/11/03/1819.php
2018.3.17
土日に仕事が入ったため、本日代休。ひさしぶりの平日は特に何をするでもなく、三度の食事を担当し(朝、野菜のオリーブオイル蒸し。昼、手製サラダチキン とトマト煮ミックス豆。夜、ホットプレートの定番豚もやし)、午前中はつれあいとコープへ買い物、午後は一人でぶらぶらとごく近所を徘徊した。まずは柳町 5丁目の西向寺にて、かつて東岡町にあった遊郭の娼妓供養碑を確認した。本堂の右手の狭い通路を奥へ入ると、小山のように積み上げられた無線墓に並んでひ ときわ背が高くそびえている。表に「岡町遊郭接待婦之精霊塔」、裏は昭和27年8月の日付で「岡町特殊料理業組合」の名が刻まれている。先日見た洞泉寺の 供養碑は「病没娼妓」であったが、こちらは「遊郭接待婦」である。一人ひとりの顔はなにひとつ見えてこないが、ひざまづいて、手を合わせた。折りしもFB 友の鄭玹汀さんの紹介で取り寄せた曽根富美子『親なるもの断崖』(1992年)を読み始めたばかりだったので、何やらいたたまれなかった。続いて洞泉寺遊 郭の旧川本邸へ寄ってみた。建物の南側を撮ろうと隣接する大信寺の境内へ入ったところ偶然、グアム島戦死の文字が目に飛び込んできた。25才、死者が「育 次」で、墓の建立者が「育三」は、戦後に弟が建てたのだろうか。旧川本邸は「雛祭りイベント」が終わって、遊郭自体の展示が追加されていないかと思ったの だったが、当日は立ち入れなかった3階へ上がれるくらいしか変わりはなかった。その代わりに常駐していた、FB友のアライさんのお知り合いだというボラン ティア・ガイドのSさんが安堵町のガイドも兼ねている人でいろいろと話が弾み、昭和30年頃の遊郭の見取り図などを写真に撮らせてもらった。洞泉寺墓地の 「病没娼妓之碑」裏にあった「石橋屋」の名前もある。遊郭も紡績工場も九州からの女性が多く、中には紡績工場から遊郭へ移ってきた女性もいたとか。市が 「町屋物語館」としてオープンさせてから、かつて客として遊んだというお年寄りがやってくることもあるという。平日なので見学者はほかにだれもなく、内部 はひっそりとしずまりかえっている。3階の三畳の狭い部屋の窓から下をのぞくと、隣接する浄慶寺の墓地が見えた。かつてこの苦界に生きた女性たちも、ここ から立ち並ぶ墓石を眺めて何かを思ったことだろう。誰もいないのをいいことに、しばらくその三畳の愛欲苦界に寝そべって、目を見開いていた。旧川本邸を出 て、最後に向かったのは紡績工場の工女の供養碑があると思われる誓得寺だ。門はすべて固く閉じていて、正面玄関のインターホンを何度か鳴らしてみたが応答 がない。後日にまた来ることにした。何となく手持ち無沙汰で、すぐ隣の良玄禅寺の墓地にも何か紡績工場に関する手がかりがないかと覗いてみた。小春日和の のどかな平日の午後に、どうもおれは墓場ばかりだな、一人苦笑する。ここはだいぶ大掛かりな墓地整理をしたらしい。西面のおなじ境内にある弁財天の堂と道 路との間のすき間に数メートルの高さの塀のような形で無数の無縁墓が積み上げられている。そのひとつひとつを目を凝らして見て行ったら最後、いちばん奥の どんつきの端っこに、扇形をした小さな石仏のような石に刻まれた「矮狗福塚」の文字が気になった。帰って調べると矮狗は「ちん」。かつてこの国では、小型 犬を総称して「ちん」「ちんころ」なぞと呼んでいたらしい。FB友の民俗専門家、歌詠みでもある勺 禰子女史にメッセージで尋ねてみても「わんちゃんのお墓かなあ」とおっしゃる。年代は分からねど、石の見た目から江戸から明治あたりか。家族同様だった愛 犬のために誰かが建てたのかと思えばほほえましい。
◆曽根富美子『親なるもの断崖』 https://matome.naver.jp/odai/2142964407932922301
◆大阪DEEP案内「大和郡山市東岡町」 https://osakadeep.info/koriyama-shinchi/
◆町屋物語館(旧川本邸) https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kankou/kanko/info/004886.html
2018.3.23
娘が桂枝雀の落語を聞き出したのは、小学校の3,4年生あたりだったろうか。中学になって学校を不登校になった頃も、枝雀さんの落語は癒されるから、と毎 晩のように iPod で聴きながら眠りについていた。その娘が最近は米朝さんにはまっているのだが、「代書屋」という演目の中に、済州島出身の男が大阪に紡績女工として働きに 来る予定の故郷の妹のために「渡航証明」を取るのに必要な書類の代書を依頼する場面がある、とおしえてくれた。「ワダシ郷里(くに)に妹さん一人あるテ す。その妹さんコント内地きてボーセキてチョコーさんするです」 この最後のところがなかなか聞き取れなかったのだが、父がこのところ遊郭や紡績工場の話 ばかりしているものだから、ボーセキてチョコーさん、ああ、紡績で女工さんか、と閃いたそうなのだ。
◆越境する民の記録:上方落語「代書」に聞こえる済州島方言
上 方落語に「代書」あるいは「代書屋」と呼ばれる演目がある。昭和10年代、 大阪市東成区今里の自宅で副業として今日の行政書士のルーツである代書人を営んでいた四代目桂米團治が、その実体験に基づいて創作した新作落語で、 1939年4月初演された。そのなかに、済州島出身の男が駆け込んできて、大阪に紡績女工として働きに来る予定の故郷の妹のために「渡航証明」を取るのに 必要な書類の代書を片言の日本語で依頼する場面がある。杉原達『越境する民』によれば、なんと最後には依頼主のセリフに済州島の方言が音写されているとい う。
◆記憶の彼方へ http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20100925/p3
2018.3.24
夕食後、娘とつれあいがポータブル・テレビをテーブルの上に乗せて、アスレチック・ゲームのような挑戦番組を見始める。二人で熱心に小さな画面を覗き込 み、笑ったり、小さな悲鳴を上げたり、歓声をあげたりしている。ふだんであったらわたしは、部屋のすみのソファーに二人の姿が見える向きに寝そべって、新 聞をひろげながら彼女たちの声を聴き、ときおり様子を眺めたりしているのが好きだ。それはだれにも邪魔されたくないかけがえのない時間だ。けれども今日は 違った。わたしのなかで何かがうごめいている。食べ終えた食器を洗って、それからじぶんの書斎へ閉じこもった。PCの iTunes でひそやかなクリスチャン・ソング(Audrey Assad)を大音量でかけ、揺り椅子にもたれて、唯一スマホに入れているMLBのベースボール・ゲームを始める。目の前の重みに耐えるために、あえてい ちばんつまらないことで時間をやり過ごすのだ。そのうちにわたしの手は凍りついたようにとまる。スマホを置き、銃を投げて投降する殺人犯のように目を閉じ る。わたしに欠けているのは「神」だろうか。ユングが夢に見たような「大聖堂を排泄物で破壊する」神か。わたしは無力で、ひとかけらの価値もなく、みじめ に消えていくだけのシミのような存在に過ぎない。わたしの内なる存在は何をもとめているのだろう。願ったものはすべてあるはずなのに。今日は休日だった。 娘と二人で昼を済ませてから、紡績工場の女工の供養碑があるという寺へあるいていってインターホンを押したがやはりだれも出てこない。困り果てて思い切っ て寺の向かいの旧家のインターホンを押してみた。初老の男性が出てきて、ここのお寺の住職は橿原の寺に嫁いでいまはここに住んでいないが、週に一二度は法 事や何かでやってくる、水色の軽自動車が停まっていたら寺の門も開いているはずだ、とおしえてくれた。檀家といってもこのお寺さんは墓地がないんですねと 訊けば、ここじゃない、墓はあのイオンへ行く途中の道のはたの田んぼの中にひろがっているところと言うので、思わず「ああ、あの石の鳥居がある墓地です か」と声のトーンがあがった。それで自転車に乗ってさっそく見に行ったのだ。死んだ女工の手がかりの石けらでも残っていないかと。あたたかな小春日和だ。 家族連れが一組、バラックのような四阿(あずまや)でお弁当を食べていた。わたしはうっすらと汗ばむような熱につつまれて黒ずみ、落剥し、倒壊した墓石を ひとつひとつ見てまわった。何も残っていない。残っているはずもない身よりもなく死んだ女工の墓など。風呂に湯を落とし入る。浴槽につかりながら岸和田の キリスト教会にいた朝鮮人のひとびとの聞き取りを読む。「大阪南部の泉南地域には、かつて石綿紡織の零細工場が集中していて、その多くは在日韓国人・朝鮮 人に支えられていた。また同和地区や僻地出身の人々、炭鉱離職者らも多く働いていた。そこには、差別と貧しさゆえに石綿から逃れられない構造があった」 車椅子に座り、酸素呼吸器をつけた李善萬さん(80歳)は、「石綿のほこりが体に悪いという予感があり」他の職場へ履歴書を持っていったがどこでも「朝 鮮人はあかん」とはねつけられた、という。三人の子どもを食わせるために石綿の仕事を続けるしかなかった。李さん夫婦は朝鮮半島南部の出身で日本で結婚 し、つてを頼って泉南に移り住んだのが1950年だ。通称「石綿村」と呼ばれたその地域は日本人より在日が多かったという。戦争が終わってからも、この国 は他国の弱者たちに容赦なかった。まるで鬼のような国だと愕然とする。それでわたしの魂はまたあの昼間の、小春日和ののどかな田んぼの中の墓地へ飛んでい くのだ。いまでは墓か石くれかも分からない黒い団子のようなかけらの前でらあらあらあらあといまも哭いているのだ。
2018.3.26
休日。今日はとくに何もしない日だった。やらなきゃいけないこと、やりたいことはたくさんあるのだけれど、何もしない日だった。犬や猫とリビングの床に寝
そべって、いっしょに庭に来た雀や蝶を眺めたりしていた。それからうとうとしたり。
午前中。例の紡績工場で亡くなった女工の供養碑がある(らしい)お寺――橿原に嫁いだ尼さんの住職が法事やなにかで帰っていないかと休みのたんびに見に
来ているのだがさっぱり現れないので、えい! こうなったら忍び込んじまえ、と寺の裏に接しているむかしの城の外堀をつたって侵入したのだが、肝心の本堂
前へ抜ける通路がすべて木戸や鉄柵で閉ざされていて断念。それでも鉄柵越しに見えた墓地のはたに、写真にあった供養碑によく似た感じの石碑がちらと見えた
のがささやかな収穫だった。
2018.4.29
役所からもどってから、起きてきて朝食を食べている娘と話をしたり、しばらく新聞を読んだりしてから、自転車で買い物へ。ホームセンターで掲示板の補強用 のボルトを買い、イオンのカルディでコーヒー豆二種類を買い、もどってきたら、なんと件の紡績工場の供養碑がある誓得寺の門が開いている! 急いで家へ 戻ってコーヒー豆などを入れてから、ふたたび誓得寺へ。門は開いているのだが、一応玄関の方へまわって呼び鈴を押すと60代くらいの男性が出てきて、その 人が橿原の寺の住職で、この誓得寺の住職(尼さん)が嫁いだ夫君であった。事情を説明して、本堂の横手に建っていた慰霊碑を見せていただいた。碑は高さ1 メートルほど、正面に「大日本紡績 郡山工場 亡工手之碑」と刻まれ、裏には「明治四十年七月建 昭和二年八月改碑」とある。 「工手」は一般的には土 木や電気・機械等の工事に携わる者をいうらしいが、紡績工場で働く女性たちも「工手」「女工手」などと呼ばれていた。明治40年から昭和2年は、ちょうど 紡績工場の操業もピークであった頃だろうか。住職(細君)がいま向かいの家の法要へ行っていてじきにもどってくると言うので、夫君と雑談をしながら待って いると20分ほどで帰ってこられた。先代の住職、つまり現在の住職の父親(89歳)が一人でこの寺を守ってきたのだが、一年ほど前に転んで怪我をしてから 娘の嫁ぎ先の寺に身を寄せて、いまは訪問介護サービスやリハビリを受けているという。慰霊碑が建てられた頃はさらにその父親の代だろうか。夫君の寺と宗派 が異なるので、娘さんが後を継ぐ形にしているが、寺はふだんは無住で檀家で法要や葬式などがあるときにしか来ない。娘さんは幼い頃に見た、すでに操業をや めた紡績工場の赤煉瓦の塀だけ覚えているという。かつては本堂の前のスペースがすべて墓域で古い墓が並び、慰霊碑も当初はその中にもっとちゃんとした基礎 の上に立っていたが、檀家の減少などと共にそれらの墓も整理したときにいまの場所に移した。亡くなった工女たちの墓は分からないが、古い過去帳にはそれら しい女性たちの名前が残っていて、住職の記憶では東北の出身者が多かったという。たしか先代が本堂の中にそれら亡くなった女工たちの名簿をつくって弔いを していたから、残っているはずだと仰る。今日はそろそろ橿原へ戻らなければならないというので、来週の日曜の昼過ぎにもう一度伺って、それらの過去帳や名 簿などを(支障のない程度に)見せていただくことになった。「紡績工場の資料はとても少ないんです。ましてやそこで亡くなって身寄りのないまま葬られた工 女の記録は、おそらくここだけです。もう5年10年したらだれももう思い出さなくなるかも知れない。だれかが残してあげなければ」とわたしは熱弁したの だった。ここ一ヶ月以上、休みのたんびに門が開いていないかと必ず一日に一度は見回っていた報いが訪れた。そんなわけで今日は大収穫の一日。
2018.5.14
東近江を訪ねた翌日の日曜。早めの昼食を済ませて、先週に約束していた12時半頃に誓得寺へ行くと、門は開いていたが、呼び鈴を押しても、玄関先に声をか けても反応がない。出かけているのだろうかと思って、しばらく本堂の階段にこしかけて、慰霊碑の前の陽だまりをぼんやり眺めていた。五月の光が遍照金剛と いったふうに満ちていて、かつては墓域だったという花壇に咲いた花の色がまるで死んだ女工の息のようにも感じられる。開いた山門のむこうをときおり近在の 年寄りが手押し車を引いて通り過ぎていくのが見え、その書割のような場面が逆にあの世の風景のようにも見える。あちらがあの世であれば、こちらはなんだろ う。そんなことを考えていたら、どうやらはじめから家の中にいたらしい普段着の住職が本堂の前にひょいとあらわれた。
過去帳をそのまま見せるのはためらわれたのだろう。便箋に丁寧な字で、判別している出身地と人数だけを書いた紙を住職は用意していた。明治43年2月から 昭和12年1月にかけて、全員で96名(内女性59名、男性37名)。これは寺の過去帳から紡績工場に関する過去帳だけを別個に書き出してまとめたもの で、寺の本堂の裏手にある小部屋に祀ってあったものだという。わたしは、不満足であった。せめて本物の表書きだけでも見せていただけないかと頼み込んだ。 本堂の奥から持ってきてくれたそれは黒い光沢の板で綴じられた立派なもので、表には「過去帳 大日本紡績工場」とあり、こんな感じなんですよとめくって見 せてくれた中身は、上から法名(戒名)、亡くなった日、そして名前(俗名)の枠があって、なかにはその名前の枠の中に小さく出身地や年齢、生年月日などが 記された者もあるがそれは少ない方で、中には法名や亡くなった日すらなく、ただ名前だけが書いてある者もある。出身地は長崎や鹿児島、宮崎など九州が多 い。ついで石川県や島根県の日本海側。奈良県が一人。そして朝鮮人と思われる名前が2名。出身地が書いてあるのは、おそらく遺骨の引取りがあった者だろう と思われる。誰々長女や、誰々私生子といった記述も見られる。逆に出生地も書いていない者は引き取り手がなかったということか。
年齢が分かる範囲ではやはり20歳前後の若い女性が多く、最年少は16歳。育ち盛りの少女がこれほど亡くなっていること自体、工場での過酷な環境がしのば れる。かつて関西学院大学社会学部(島村ゼミ)の卒業論文でこの郡山紡績工場をとりあげ、フィールドワークをもとに「女の街 大和郡山と紡績工場をめぐる 人びと」を記した住田文氏は、戦後にこの紡績工場に勤めていた工場側の総務課と思われる部署で働いていた男性と、やはり戦後に女工として働いていた女性か らの聞き取りを行なった上で「郡山紡績工場では女工哀史はなく、女工たちは自分の時間やお金を自由に使い、有意義な青春時代を送っていた」と結んでいる が、安易な結論と思わざるを得ない。ちなみに大正9年1月23日に「釈尼妙順」の法名で供養された18歳の少女は現在の韓国の慶尚南道普州から働きにきて いた。藤永壮「植民地期・在日朝鮮人紡績女王の労働と生活 −大阪在住の済州島出身者を中心に-」によれば、「紡績工として働くことを目的に、朝鮮人女性 が日本への渡航をはじめるのは、韓国「併合」から問もない 1910年(明治43年)代前半のことである。 1913年12月のある新開記事は、大阪の紡績会社では日本人だけでは女工が不足するため、最近では朝鮮人女工を使用するようになっており、皮切りとなっ た摂津紡績の54名、三重紡績の40名のほか「五六人位宛は彼方此方にも見るやうになったと伝えている」という。亡くなった少女の過去帳には姉の名前も添 えられているので、姉妹で異国の地に働きに来たのかも知れない。彼女はいまでは故郷の墓に帰って眠っているのだろうか。
誓得寺の成立ちは古く、当初のおそらく念仏道場のような始まりから数えれば400年近い歴史があるという。現在の佐保川沿いの田んぼの中にある墓地に隣接 して建っていた寺を、いつの時代か現在の地へ移築したらしい。その旧寺地はかつて平城京の都があった時代に羅城門が建っていたといわれる場所にほぼ近い。 前述の住田論文は、おそらく住職の父親だと思われる先代からの聞き取りを伝えている。「ここでは、大日本紡績工場で亡くなられた女工さんを葬っている。特 に、地方から出てきた女工は身よりもなく、葬儀等を全て行っていた。当事うちのお寺は大日本紡績の檀家のような役割をしていたからね(誓得寺主人)」 「亡工手之碑」がはじめに建てられたのが明治40年で、昭和2年に「改碑」されている。まさにこの「過去帳 大日本紡績工場」に記された死者たちに重な る。先代が父親からこの寺を受け継いだのは昭和30年代だったそうで、その先代がこの「過去帳 大日本紡績工場」を編んだのであれば、ちょうど昭和34年 に織布工場を閉鎖し、さらに昭和39年に操業を全面停止した紡績工場の終焉とも重なる。住職が子どもの頃に、父親が紡績工場に関する法要を行った記憶があ るというから、最後にこの「過去帳 大日本紡績工場」を編んで、その後も本堂の裏の小部屋に祀り、供養を続けてきたのだと思われる。
工場で亡くなり、檀家代わりの誓得寺が葬儀一切を執り行い、身寄りのある者は遺骨を引き取られていった。では身寄りのない者、遺族などと連絡がつかない者 の遺骨はどうなったのか。住職の話では、法名(戒名)が記されている者はおそらく誓得寺で弔い、墓石をつくることもなく、遺骨は無縁供養の場所(供養塔な どの納骨スペース)に収められたのだろう、と言う。前述した佐保川沿いの誓得寺の墓地(来世墓)の井戸の横に、先代が整理をした無縁墓が積み上げられた小 山があるが、その頂上に無線供養の塔があり、納骨の空間があるという。またこの来世墓は石の鳥居が立っている不思議な墓地だが、かつては墓守がいて、中央 の道が交差し広くなっているところに石の台座が置いてあるのが、かつての堂のあった場所だとも聞いた。このあたりはWebで見つけた次のような話とも合致 する。「たまたまお墓参りの人から聞いたところでは、昭和の初めまで墓守がいて、墓地のお堂に住み込み、いつも白い服を着ていたという」 この墓守で あったら、墓もつくられずに葬られた工女たちの話も知っていたかも知れない。
ところで誓得寺の慰霊碑の背後、寺の壁にひっつきそうなすみに建っている「島村先生」と書かれた墓石がある。側面に「昭和七年三月 遺弟建之」と刻まれ、 後ろは壁との距離が近くて見えにくいのだが「大正十五年」とあるのがこの「島村先生」の亡くなった日だと思われる。じつはこれは生徒たちが建てた学校(郡 山高校)の先生の墓で、遺骨は納められていない、いわゆる詣り墓で、住職が子どもの頃にはまだ当の生徒たちがお参りに来ていたのを覚えているという。建立 時に25歳だったとしても、昭和が終わる1989年にはすでに90歳になる。もうだれも生き残っている生徒はいないだろう。ほんとうなら無縁墓になるのだ が、先代の配慮で境内のすみに残している。寺の正門から本堂に至る数メートルの空間はかつて古い墓石で埋まっていた。住職のうろ覚えの記憶では、正門から 入ってすぐ左手の角にその「島村先生」の墓が階段を上る立派な台座に乗っかり、また右手の本堂に近い角にこちら側を向いて「亡工手之碑」がこれも立派な台 座に乗って立っていた。
この「過去帳 大日本紡績工場」も将来、また次の本山から派遣された住職に引き継がれるときにあるいは処分されるかも知れないと聞いて、わたしはじつに勿 体ない。紡績工場について残っているのは現在、跡地に建てられた団地のはたにひっそりと置かれている「大日本紡績工場跡」の碑と、ここの慰霊碑だけしかな い。しかもここで働いて、歳若くして亡くなった女工さんの記録がリアルに記されたこの過去帳はぜひ残すべきだ、残してやりたい。どうでしょう。わたしが市 の教育委員会あたりにかけあって、正式にデジタル資料か何かで残すように話をします。その説明のための資料として、わたしからは公開はしませんので、いっ たん写真に撮らせてもらえませんか。必死の思いで熱弁をかさねて、ついに住職の了解をもらって「過去帳 大日本紡績工場」をすべて撮影してきたのだった。 「もちろん、教育委員会には近いうちに話しに行くよ」と家に帰って得意そうに語る父の顔を、娘はオレオレ詐欺の犯人でも見るような疑いの眼でじっと見つ めるのであった。
◆郡山紡績 https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/rekisi/src/history_data/h_094.html
◆
女の街―大和郡山と紡績工場をめぐる人びと― (島村ゼミ卒業論文要旨集)
http://d.hatena.ne.jp/shimamukwansei/20110113
◆ 平城京羅城門と来世墓の鳥居 http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm028.html
2018.5.27
愉しい、密度の濃い時間でした。池田先生が指定された郡山のフジエダ・コーヒーが朝10時にしてすでに待ち客がいるほどの賑わいで、仕方なくわたしの愛車 のジオスをフジエダ・コーヒーに置いたまま、わたしたちは先生の車でイオンモールのコメダ・コーヒーへ移動しました。それからの二時間はあっという間でし た。先生も途中から興が乗ってきたのか、歴史認識についてのご自身の考えやそれが研究者の間でも少数派であることを滔々と述べられ、わたしはわたしでその 間隙をぬってじぶんの言いたいことをいつ言ってやろうかと手ぐすねをひいているという、そんな時間の絶え間ない連続でした。肝心の誓得寺の「大日本紡績工 場 過去帳」については、それらを取り巻く資料についてもひとつひとつ丁寧に目を通されて、「あなたはとてもよく調べてらっしゃる」とほめていただきまし たが、「問題は、この過去帳にどのような価値を見出すのか。そしてあなたが調べたことを含めて、どのような形で世の中に出すのか。それにかかっているで しょう」と仰られました。また「本気で調べようと思ったら、それこそライフ・ワークの仕事になるでしょう」とも言われました。先に嶽本さんが聞かれたよう に、江戸期以降の過去帳については現状、新しすぎて子孫が辿れるなどの怖れがあるため、大学等の研究機関で預かることは難しい、ということでした。「祀 る」という宗教的な要素を内包した過去帳の扱いとして、寺が無住になったり廃寺になったりした場合で考えられるのは、ひとつは檀家も散り散りになってし まったのであれば過去帳を供養をして処分をすることはある。もうひとつは本山か近隣のおなじ宗派の寺が預かるという道。「わたしの感覚では、この「大日本 紡績工場 過去帳」は宗教的な過去帳というよりも、元の過去帳から抜粋して写しまとめた資料的なものと思うが、どちらにしろ現段階では、たとえ現在の住職 が寄贈したいと言ったとしても大学が受け入れることは困難だろう。(誓得寺の属する)真宗興正派の本山に資料館(室)のようなものがあればそこに保管され るのもいいだろうが、宗派を越えて保管することはやはり難しい」 いま思い浮かぶ真宗興正派の知り合いはいないが、帰ってもういちど探してみましょう、と 言ってくれました。「わたしのような研究者は資料を事実として扱うのでどうしても制約がある。調べたことで、そのまま公開できないものもたくさんある。嶽 本さんのような人がいいのは、調べた事実をベースにして、自由に創作できることだ。あなたが個人として、たとえばこの過去帳にある九州からの、おそらく口 減らしのために貧しい山村から働きに出された少女の故郷を訪ねて調べることは、一定の配慮があれば何も問題はない。けれども問題はさいしょに言ったよう に、それをどのような形でまとめて世の中に出すのか、ということです。たとえばあなたが言われるように、この朝鮮半島から働きに来た少女に焦点をあてるの もひとつの方法です。それによってこの「大日本紡績工場 過去帳」の価値がどこにあるか、が見えてくる」 だいたい、そのようなお話でした。もうひとつ、 わたしが訊きたかった西ノ京の救癩施設・西山光明院については、驚いたことに池田先生の方が疾うに先回りをしていました。当時、薬師寺の副住職だった松久 保秀胤氏から先生は、壮年期に西山光明院を管理する龍蔵寺の住職をしていた初代の管主・橋本凝胤氏が大正5年に亡くなった最後の癩患者である西山ナカの背 中を風呂場で洗い流した話などを訊いたそうです。西山ナカの死後、西山光明院の建物一切は警察と保健省立会いの下に焼却されたといいます。池田先生は奈良 の山村その他の地域で癩患者の家族に聞き取り調査をしたそうですが、「振り返ったときには、もう家に火をつけられていた」という話も聞いたそうです。火は 穢れを払うためのもの。当時はそれが当たり前の感覚だったそうです。焼かれなくても家が真っ白になるほど消毒をされて結局、それ以上住むことができずに残 された家族も離散していった。「おなじ救癩施設でも、奈良市の北山十八間戸は有名なのに、西ノ京の西山光明院はほとんど知られていませんよね」 そう問う と先生は、それは北山十八間戸が明治のはじめにすでに患者もなく建物だけが空家で残されていたのに対して、西山光明院には現実に患者がいたからです、と答 えた。現実に患者がいたから西山光明院は警察と保健省立会いの下に焼却された。ああ、なるほど、とわたしは得心をしました。そして「一言でいうと西山光明 院はリアルだったから燃やされたわけですね」と答えました。西山光明院について、わたしが大きな課題として残していた、長島愛生園書記の宮川量が記した 「薬師寺に保管された」「(光明院の)本堂付仏像什器の一部」の行方について、池田先生も前述の松久保秀胤氏に依頼して薬師寺内をかなり探してもらったそ うですが結局、見つからなかったそうです。あるいは什器は処分され、仏像などはどこかの末寺に移されたのか、とにかくいまとなってはもう何も分からない、 ということでした。わたしは遠いむかしからの尋ね人が、とっくに亡くなっていて、その墓の前にいまじぶんが佇んでいるような、そんな感慨にとらわれたもの です。まだまだたくさんのことを話しましたが、とても書ききれません。別れ際に「資料を送ってあげましょう」と言われ、わたしは昨夜PCで急ごしらえに作 成した手製の名刺を先生に渡しました。また柳本の海軍飛行場に於ける朝鮮人強制連行のことなども詳しい人間がいるので紹介しましょう、と約束してくれまし た。とにかく「名誉教授」とはいえ横柄さのかけらもない物腰の柔らかな、そしてなかなかこちらに話をさせてくれない熱い紳士でした。なにより、とても多く のことを知ってらっしゃいます。わたしの知りたいことばかりを。これからもご助言を頂けたらありがたいですが、先生ご自身は昨年、半年をかけて大学の研究 室を整理して、蔵書の多くは自宅に持ち帰ると奥様に叱られるので学生に譲ったり、学内のバザーにだしてしまったそうなので、わたしが先生の家の蔵にこもっ て整理をすることはどうやらなさそうです。夕方、わたしはまたもジップをさそって佐保川沿いの共同墓地へ行きました。「またやってきたよ、イサちゃん」な ぞと墓石に声をかけて、まるであたらしい恋人ができたようです。そうして118年前に死んだ工女の無縁墓に掌を置いて、池田先生から言われたことをあれこ れと思い返していました。
2018.6.3
草 さえそよともなびかない。日はまるで熱い霧のようにふりつもる。石も土もじっとこらえている。青々としげった草だけが陽炎のように一瞬ゆらいで、人に は見えない瘴気がたちあがる。どこまでもどこまでもはてしなくつづく、この奇怪な磐座のような大小不揃いの墓石の散在のなかをさまよいあるいているうち に、わたしはじぶんが何者であるかをわすれる。熱の放射によろめき、時の堆積にたえかねて、おもわず足元の黒ずんだほとけを蹴とばしそうになってすわりこ む。草いきれのむこうにだれかの熱い吐息がある。堺の街中にある智禅寺を訪ねたのは十時頃だった。熊野、と書いて「ゆや」と読む町だ。かつて河口慧海とも 親しく交わり仏教にも造詣が深かったという郡山の数学教師・島村清吉は大正15年、この寺に葬られた。もし子孫がいるのなら、郡山のある寺にもかれを偲ぶ 生徒たちが建てた墓がいま無縁仏になりかけていますよ、と伝えたかったのだが、境内の数少ない墓地には「島村」の名は見つからなかった。母屋の呼び鈴を押 した。高齢の住職は不在だったが、娘さんらしい女性が親切に話を聞いてくれ、当時の過去帳まで見てくれたが名前はない。昭和20年の空襲で堺の中心部だっ たこのあたりはほとんど焼けたそうだ。それから区画整理や道路の拡張などで無縁仏80体ほどを、南の鉢ヶ峰墓地にうつしたという。あるいはそこに眠ってい るかも知れない。ああ、すでに「島村先生」はその古里ですら無縁仏となっていた。わずか百年の間に。かれが生きていた明治の時代にはじまったこの国の紡績 産業の現場では、かれが死ぬる頃にはすでに多くの朝鮮やこの国の被差別民、そして遠方の貧しい山村から働きに来たうら若き女工たちがぼたぼたと腐った果実 のように落ちて草葉の陰に臥したのだ。持参した「島村清吉」に関する資料と連絡先を置いて、何か分かったらお願いしますとつたえて、南海本線の堺駅まであ るいていった。ザビエル公園の裏手のUR団地の角に「明治3年、日本で二番目に建てられた」という堺紡績所跡の案内板を見つけて、それから南海本線で岸和 田のひとつ先、蛸地蔵で降りた。そこから20〜30分、海の方へあるいていけばかつての寺田紡績工場の当時の赤煉瓦がそのまま、現在はユニチカ(旧大日本 紡績株式会社)の子会社である合成樹脂加工会社の工場として使われている。いまはなき郡山紡績工場のたたずまいを思い描くために、その赤煉瓦を見にきたの だ。ぐるりと工場の周囲を一周してから、そのまま近くをとおる紀州街道に沿って春木をめざした。かつての商家が立ち並ぶ趣きのある旧道は岸和田城のはたを 通り、やがて、かつて朝鮮人集落の町だったという一角をぬけて、そうしてたどりついたのが下野町にある岸和田市管理の共同墓地だ。入口わきに紀州日高出身 の徳本上人筆による名号塔がそびえているのを横目にすぎて、それからかれこれ一時間、広大な草葉の陰を徘徊した。一万基は優にあるだろう大小さまざまな墓 石の中から、そしてついに見つけ出した。青味をおびた小ぶりな自然石に「咸月」と刻まれた、紡績工場で亡くなった朝鮮人女工のものといわれる無線仏を。 「咸」は朝鮮半島の咸鏡道を指すのではないかとも言うが、朝鮮人の「姓」のひとつでもあるらしい。「月」は朝鮮半島でよく女性にあてられるそうだ。墓石を 見つけてから、そういえば向こうの墓地のはしっこにきれいな野花が咲いていたと取りにいって、雨水がたまっていた花立に挿して、水筒のハーブ茶を墓石にか けた。それからしばらく、放心したようにそこにすわっていた。おまえはどうしてこんな見も知らぬ異国の女工の墓なんぞを探しにきたのか。そう誰かに問われ ても、わたしにもよく分からない。ただ、来たくて仕方がなかった。そして百年前、多くの彼女たちが歩いただろう土地の上をじっさいにあるいてみたかった。 なにも考えずに、汗をぬぐい、足をひきずり、わが身に写実したかった。「海を見に行こうか」 ふと思いついて、そう墓にむかって言っていた。そうだ、海が 見たい。金賛汀氏の「朝鮮人女工のうた」には、過酷な環境の中で月に二回の休みの日に、「二銭か三銭ぐらいのお金で」「野菜の揚物などを二つ三つ買っ て」、それを持って浜辺に行ったという思い出話が出てくる。彼女たちが見た海を見たい。そう思って「岸和田渡船」の看板のある海岸沿いまで歩いていったけ れど、当時の景色とはきっとすっかり変わってしまったのだろう。埋立地の工場や倉庫群に囲まれたその先に、きらりと白い海面が光った。それは何だかとても 遠く感じた。遠い、遠い海だった。湾岸沿いの味気のない広いバイパスからふたたび春木の住宅街の路地にもどって、最後に春木中学校にたどりついたのはもう 3時をすぎていた。半日、昼飯を食うのも忘れてあるきまわっていた。ここはかつて岸和田紡績の春木工場の跡地で、当時、紡績工場を囲っていた赤煉瓦の塀が いまも一部、学校の塀としてそのまま残されている。現在の校舎のあたりがかつて工女たちの寄宿舎があった場所だという。その赤煉瓦塀をぐるりと見てから、 近くの八幡山公園の木陰で小休止する。公園に隣接する弥栄(やえい)神社に寄った。「玄界灘を渡った女性信徒たちの物語 岸和田紡績・朝鮮人女工・春木樽 井教会」によるとこの弥栄神社のわきに1941年まで伝染病の隔離病舎、避病院があり、専用の焼き場と高い煙突があったという。労働環境の劣悪な紡績工場 ではコレラやチフスなどの伝染病が多発した。最盛期で春木工場に働いていた朝鮮人女工の数は200名ともいう。多くの女工たちが故郷へ帰ることもなく亡く なり、焼かれ、身寄りのない無縁仏として共同墓地へ葬られた。そのうちのひとつがあの「咸月」と刻まれた無縁墓だろう。それ以外の多くの女工たちは、忘れ 去られ、路傍の石くれとなった。
2018.7.2
今 日は自転車で県立図書館。自転車で走りたくて堪らないのだけど、図書館の往復だけで溶けてしまいそうだ。
本日のメインは明治初期の郡山藩士に関する公文書。「 明治二十年 貧民施与願綴」は貧困にあえぐかつての藩士たちに支援して欲しいと訴える柳澤元藩主の嘆願書。紡績工場の設立が明治26年で、元藩主も資金援 助をしているので、やはり当初は相当数の旧藩士の子女が工女として雇用されたのは間違いない。無縁墓の「宮本イサ」もそのひとりだったかも知れない。つい で「 明治四年 士族卒禄高人名其他」はその藩士たちの名簿。墨書なんで癖もあったりでかなり見づらいが、「宮本」らしい名字はいくつかあった。けれども家族の 名前までは書いていないので、そのうちの誰かが「イサ」の身内の者であったかどうかは推測の域を出ない。かなり分厚い綴りを一枚づつ丹念に見ていった。
もうひとつは幼年期に大和郡山に暮らしていたという詩人の小野十三郎。
「そ のことは、小野にとっての第二の故郷ともいうべき大和の自然が「すべて、そこから伝わってくるおそろしい倦怠感で、わたしの意気を沮喪させる以外のなにも のでもなかった」と回想されている点からも、よくうかがえる。たとえば「郡山城趾の夜桜のながめも、梅雨時に一日ふりしきる雨に煙っている金魚池の風景 も、わたしにはなにかしら暗いやりきれない記憶としてしか残っていない」。「郡山からのぞくと、頂がややコニーデ状をなしている富士山の亡霊みたいな山」 にいたっては「ためいきが出るほど退屈したことをおぼえている」。反対に、小野が大和の自然のなかで「自由になり、開放的な気分になった」と感じるのは、 その穏やかで風光明媚な自然によってではなく、あくまでも「国鉄の大和郡山駅のすぐ近くにある大日本紡績の工場」構内に咲く「真黒な菊」と出会った瞬間だ けである。「その時間には異常に明るい光があたっている」。」
この自伝的エッセイが収められた「奇妙 な本棚 詩についての自伝的考察 」もひとつの目的だったのだが、なんと書庫の機械のトラブルで閉架の本が出せず、いつ復旧するか分からないというから途中で帰ってきた。かれは明治の終わ り頃の紡績工場を間近に見ているので、何か書き残しているかも知れない。郡山城跡にかれの「ぼうせきの煙突」の詩碑がある。
たそがれの國原に
ただ一本の煙突がそびえてゐる。
大和郡山の紡績工場の煙突である。
ぼうせき。それはいまは死んだやうな名だが
私は忘れることあ出來ない。
明治も終りの夏の夜である。
七十六年の週期をもつハリー彗星の渦が
涼しくあの紡績の裾齒状屋根の
紺青の空に光つてゐたのを。
最後は「平城京羅城門跡発掘調査報告」 ここに「宮本イサ」の無縁仏のある野垣内の共同墓地である「らいせい墓地」について短い記述がある。「ここ、佐
保川にかかる橋は「来世橋」とよばれている。また、第三次発掘地である金魚池の南西には市道をへだてて、「らいせい墓」とよぶ墓地がある。この墓地の一角
には、かつては小さな草堂があり、周囲に土塀がめぐっていたといわれるが、現在はない。墓石は年紀のあるものでは元禄年間のものが一番古い」 「らいせ
い」は羅城門の「らじょう」が時を経て訛っていったもの、というのが定説らしい。
まだつくり出したばかりだが、エクセルで簡単な年表を作成した。こうして表にしてみると、宮本イサが亡くなった明治33年は郡山紡績の経営が悪化し、世界 的な状況下で在庫がだぶついたために操業時間短縮に踏み切った、まさに社長交代の前年だし、誓得寺にさいしょの「亡工手之碑」が建てられた明治40年はつ いに摂津紡績に吸収合併されたその年であることが分かって、いろいろと面白い。
◆小野十三郎と「抵抗の科学」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4111/onob.htm
◆近鉄電車と生駒山。新緑の大和郡山で川崎彰彦と小野十三郎をおもう。
http://d.hatena.ne.jp/foujita/20120619/p1
2018.7.16
「前(さき)を訪(とぶら)う」ということばを、FB友の山内さんが送ってくれた「遠松
忌法要講演録」(明治の大逆事件で死刑判決を受け、秋田の監獄で
縊死した新宮の僧侶・高木顕明を想うつどい)
のなかで知った。親鸞が「教行信証」のなかでひいている「安楽集」に出てくることばだそうで、「何となれば、前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、
後に生まれん者は前(さき)を訪(とぶら)え、連続無窮にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と」
またおなじFB友の塩崎さんがコメントで記していた。過去を告発するものはもうだめだ、現在の自らを磔にするものでないとだめだ、と。気がつけばいつ
の間にやら53度目の夏が来て、ブルーハーツが歌った沁み入るような青空の下で、いまのわたしはそんなことばに躓きそうになる。いや躓きそうになりながら
も、そんなことばをみずからに招(お)ぎ寄せようとしている。みずからを磔刑に処するために、前(さき)を訪(とぶら)う。のこされたわずかな時間を、そ
のために生きていこう。三輪車と共に被爆し庭先に埋められた幼子の記事を読みながら、癌細胞によって意識が混濁するまで抗い続けた沖縄県知事の死去の
ニュースに接しながら、そしていまは無縁仏として眠る紡績工場の女工の墓を思いながら。
わが郡山紡績株式会社が設立されたのは明治26年。その後、明治40年に摂津紡績株式会社 に合併され、その摂津紡績が大日本紡績株式会社(現ユニチカ) に合併されたのが大正7年、つまり変転の果ての郡山紡績工場の終の住処が大日本紡績だったわけだから、明治33年に本社事務所として竣工した赤煉瓦造りの 建物をそのまま利用した「ユニチカ記念館」は永らくわたしの行ってみたいリストの上位を占めていたのだけれど、平日の水曜日のみ開館という敷居は案外と高 かった。尼崎市はご存知のように大阪湾の河口で切りとられたパズルのピースのように大阪市の西淀川区と接している。明治22年に有限責任尼崎紡績会社とし てスタート、明治30年には敷地面積17,903坪、工場建物計140棟を擁する大規模紡績工場の先駆的存在であった。かつて阪神電鉄の大物駅から杭瀬駅 まで広がっていたその敷地の残滓は、広大な小田南公園や大物川緑地として一部の名残をとどめている。記念館はその大物駅から徒歩5分ほどの距離だけれど、 駅周辺には何の表示も見当たらない。じっさいに2時間ほどを費やしたわたしの滞在中、訪問客はほとんど皆無であった。2016年のNHK連続テレビ小説 「あさが来た」の主人公・広岡浅子の夫がこの尼崎紡績の設立に関わっていたことから一時期、来場者が増えたこともあったようだが、事務所の人は「最近の若 い人はユニチカといっても、名前すら知らない」と嘆いていた。二階建ての内部はいくつかの展示室に別れていて、1階は戦後の昭和天皇行幸写真を飾った「玉 座の間」、そして「肖像権があるので、ここだけは写真を撮らないで下さい」と言われたユニチカの歴代マスコットガールのポスター展示の部屋、二階にかつて 「東洋の魔女」と謳われた女子バレー(ニチボー貝塚)のトロフィーやユニフォームなどが飾られた部屋、そしていちばん大きな展示室が明治から大正・昭和に かけての紡績工場に関する資料が、まるで大昔の博物館の岩石標本でも収めたかのようなガラス張りの陳列台のなかで息をひそめている部屋だった。もともとが 明治の建物で、古式めいたクロスオーバーのカーテンに囲まれた静かな部屋にたった一人でいると、そのうちにいったいじぶんがいつの時代に生きているのかお ぼろになってくる。合併時の郡山紡績の社長の顔写真、郡山工場長の辞令、稼動人数を記した帳面、昭和39年の郡山工場閉鎖決定を伝える新聞記事など、いく つかの小さな断片(資料)は見つけたものの、いわば大正時代に合併した摂津紡績の、そのまた合併された紡績工場とあれば、巨大企業となった大日本紡績株式 会社からしてみればほんとうにおまけのような存在に過ぎぬ。それでも大量の資料が残されているだろうからと事務方に訊いてみたのだが敵もさるもの、「展示 してあるもの以外はお見せすることはできない」の一点張りであった。しかもこの記念館の今後の展望も含めて、古い資料はこれから徐々に整理されていく予定 だと言う。やっぱり革命でも起こして無理やりに接収をしなくてはダメなんじゃないか。この国はほんとうに過去から学ばない。曇り硝子の向こうの立ち入り禁 止の部屋にはたくさんの古めかしい資料が棚につまっていたが、あれらの中には貴重なものもたくさんあるだろう。手放したら、二度と戻らない。歴史を残そう というつもりなんかないんだよ、ましてや都合の悪い「影」に関するものなど。展示室に並べられている資料は「光」と、当たり障りのない選ばれた資料だけ。 ほんとうの歴史はそんなところにはないんだよ。おれたちがこれから「もどされていく」歴史も。「影」を見つけに阪神電車で千船駅へもどって下車した。尼崎 市側の左門殿川と西淀川区側の神崎川にはさまれた糸杉のようなかたちの中州だ。駅から北西の住宅地の一角にある佃墓地に、その悲しみの記憶はひっそりと 立っている。大正2年11月2日、現在のJR尼崎駅南東の杭瀬団地のあたりにあった大阪合同紡績神崎工場の仕事を終えて帰宅途中だった男女31人の労働者 を乗せた渡し舟が沈没し、女工のみ18人全員が亡くなったという痛ましい事件があった。巨大な自然石に刻まれた慰霊碑は新聞を通じた義捐金などを元に遺族 が建立したものだが、いまでは地元以外はほとんど知る人もいないだろう(だいたいブロック塀で囲まれた墓地の入口は引き戸があって一見住宅の玄関のようだ し、周辺に解説版もないのでふらりと訪れてもまず分からない)。この事件に関するWeb上の情報も乏しい。『尼崎市史』第13巻所収年表に「神戸又新日報 を典拠として記載されている」ようなので、国立国会図書館東京館にあるらしいマイクロフィルムの該当記事の遠隔複写を頼んだところだが、さてどうだろう。 浅学なわたしがかろうじて判読できた碑文をここにあげておく。末尾に記されている「源應」は明治36年天台座主となり、のちに四天王寺住職も兼ねた吉田源 應という僧侶らしい。
人事常なく禍福忖りかたし古人巌牆(がんしょう)乃戒め畏れさるへからず兵庫 縣川
邉部小田村なる大阪合同紡績株式會社神崎支店工場乃男女工手三十一
人が去る大正二年十一月二日の昏已に其日乃労を終へ欣然隊●為●
家路に就き佃津を渡らむとて虞ら●小艇沈没乃難に遭ひ同行乃内女子
のみ十八人是に死を●載量乃過重なりし小因ると云ふ噫傷きかな是に
依りて工手乃母新聞社ハ為●同志に訴へて義捐を募り●て遺族を慰め
傷者を恤みかつ此碑を神崎川の畔に建て予をして其由を識さしむ
[遭難者西成郡千船村大字大和田] 田中せい 西條やす 井上そよ 佐藤やえ 村上よね 井上みさ 藤原ゆい 岸本まつ 井上むめ
[大字佃] 森岡みね 森岡ちえ 廣●いよ 八木はな 梶とせ 堀すえ [大字大野] 樋口まさ 大字百島 北田ちよ [稗島村] 善やく
大正三年孟夏 四天王寺大僧正源應篆 釋坤陸選書
花台にはまだそれほど日も経っていない墓花が挿されている。犠牲になった18人の、おそらく年若い少女たちの名を一人ひとり、声に出して読んでいった。お なじ苗字が続くのは、姉妹であった可能性もある。佃墓地をはなれて、左門殿川の川沿いに出た。川沿いといってもくすんだ灰色のコンクリートの堤が遮って川 自体は見えない。歩道もろくにない堤防の道を北へすすむと、やがて左門橋に出る。Webで事前に明治後期頃の付近の地図を見つけて印刷してきた。国道2号 線をまたいでさらに北へすすむと、糸杉の先端近くに田蓑神社がある。かつては住吉明神と呼ばれていたという境内には徳川家康から特権を与えられたという佃 漁民の由来や、謡曲「芦刈」の舞台であるという説明版などが立っている。この田蓑神社の「北方向100メートルには左門殿川を尼崎方面へ渡る「渡し船」 あった」と伝える資料がある。「大正期の地形図には神戸酢酸工業今福工場(塩野義製薬杭瀬工場の前身)から対岸の佃に渡る渡しの名称が「横渡」と書かれ て」おり、これが往古の「宮の渡し」ではないか、とも。おそらくこのあたりだろうと思われる付近もやはりコンクリートの高い堤で閉ざされ、川は臨めない。 仕方なく元の左門橋南詰めへもどって、橋の欄干からようやく女工18名を呑み込んだ川の風景を眺めることができた。明治の地図では左門殿川は現在よりもか なり蛇行している。おそらく暴れ川だったのではないか。11月の、仕事を終えた「昏已」といえばすでに日没後だろう。風はふるえるほど冷たく、闇は不気味 なほど深かった。わたしは波間に没していった少女たちの無念の思いに瞑目する。わたしたちはけっして「光」のなかだけをあゆんできたわけではない。むしろ 「影」の方がずっと多かった。無数の「影」に支えられた「光」がおぼつかない足元を照らすのだ。たくさんの「影」を吸収して、その思いにふるえあがって、 ときには立ち尽くして、慄然として、仄かな「光」をおびる。そうでない「光」などすべてうすっぺらなニセモノだ。糞のまがいものだ。ニセモノの「光」が大 手をふって輝けば輝くほど、おれはほんものの「影」が欲しくなる。そんなことをおだやかな左門殿川の橋上で風に吹かれながら考えた。
◆ユニチカ記念館 http://www2.city.amagasaki.hyogo.jp/bunkazai/siseki/unitika/unitika.html
◆女工さん遭難の碑(佃) http://www.aozora.or.jp/ecomuse/archives/765
◆レファレンス事例詳細(尼崎市立地域研究史料館) http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000179473
◆明治末期の佃地区 http://elmopc.lolipop.jp/tsukuda_tizu.html
2018.11.29
寄宿舎工女・宮本イサがまさに息絶えたそのとき、おれはいったいどこにいたのだろうかということは考えるな。この世界とは異なる世界にいたのか、この世 界にはいたがまったく別の感覚器官を有していたのか、あるいは世界が生成し破壊する一大劫の果てを漂っていたのか。おれが愛する家族とささやかなひととき をいとおしんでいる刹那は、寄宿舎工女・宮本イサが感じていたいとおしい刹那と重なるのだろうか。いつか重なる。おれがこの世界の感覚をはじめたとき、彼 女はすでに冷たい墓石の下だった。ではおれがおなじようにいつか冥府のつちくれとして永遠の眠りを貪るとき、だれかがまたおなじような刹那を感じて向こう 側からおれの墓石を覗き込んであああああああと声にならぬ深い嘆息を吐き出すのだろうか。そのときおれは寄宿舎工女・宮本イサともおれの墓石を覗き込んで いるやつともおなじ刹那を共有しているのか。おれの手元をはなれていったいとおしい家族との刹那はおれのもとにもどってくるのかそれともその見知らぬ男が うばっていくのかもともと寄宿舎工女・宮本イサのもとにあったものなのかそのどれとももうおれには分からない。寄宿舎工女・宮本イサがささやかな恋をした り夕空を見上げたり母の手を握ったりしていたときにこのおれはちゃんとそこにいたんだな彼女のそばに。無限とも思える一大劫の果てを漂いながらおれはちゃ んとそのことを知っていた。おれが幼い娘にかけたことばはつい数日前に寄宿舎工女・宮本イサの父親が彼女にかけたことばとおなじものなんだ。寄宿舎工女・ 宮本イサが死んで遠い大和の地で葬られたという便りを聞いて獣のように絶叫した父親はおれだったんだよ。そのことをおれは久しいあいだ忘却していたがいま は思い出せる。おれたちはときに一大劫の漂流の果てで立ち尽くす。刹那は落ち葉のようにこぼれるが、根が地中でうけとめる。記憶せよあらゆることを語りつ づけよ。記憶されるものは生き続ける。
2018.12.11
昭和4年建立、と刻まれたその「大日本紡績高田工場・合墓」は町の東のはずれの、どこかものさびしい川べりの市営墓地に大昔の遺失物のように建ってい
た。道向かいには古びた葬儀屋が間口を構え、その背後にはひと気のない殺伐とした二戸一の住宅が軒を並べている。町の墓地はたいてい、そんな場所にある。
そそり立った墓石の裏の赤錆びた鉄扉には南京錠がかかっている。このなかにどれだけの寄る辺ない遺骨が眠っているのか、遺骨すらもない魂が暗闇でいまもま
んじりともしない顔と顔をつき合わせているのかと思うと足元が底なし沼に吸い込まれていくような錯覚を覚える。錯覚ではないだろう。わたしたちのこの国は
これまでいったいどれだけのものを蔑ろにしてきたのだろう。穴を掘り、蹴り落とし、埋めてきた。忘却してきた。わたしのなかにはたくさんのそのような寄る
辺ない魂が堆積してまるで放射能を浴びた皮膚のように焼き爛れ膨れ上がり、わたしはじぶんがいつか見たこともないような奇怪な生物に変わり果てるのではな
いかと思うのだ。無数の腕や足や人面を呑み込んで流動する可変動物のような存在になってビルを覆い尽くすほどに巨大化してこの世のあらゆるものに復讐をす
る。それもいいかも知れない。そのためにわたしはこうして歩きまわっているのかも知れない。毒を溜め込み、おのれがいつか本物の毒になることを夢見て。そ
れでもわたしはこのごろ人間どもの間にいるよりもこうして死者たちの中に佇んでいる方がいっそ心がやすらぐのだ。日は翳っていて、師走の空気は指先に冷た
い。斎場のひっそりとした受付で合墓について訊ねたが「シルバー人材」のジャンパーを着た老人は何も分からない、役所の環境衛生課に訊いてくれと答えた。
紡績工場のことは覚えている。むかしの女工はほら、遊郭みたいなものだったんじゃないか。それであなたはいったい何が訊きたいのか、とかれは言った。わた
しがほんとうに訊きたいこと。わたしがほんとうに訊きたいことを知ったら、あんたの命は縮まるだろうな。墓地からほど近い土手沿いのラーメン屋に入った。
ふつうの人なら横目で通りすぎるかも知れない掘っ立て小屋のような店だ。土曜日のお昼どきなのに客はわたし一人だけで、芯の強そうなおばちゃんにわたしは
テール・ラーメンを頼んだ。メニューはほかにホルモン・ラーメン、油カス・ラーメン、油カス・チャーハン、フクの天ぷらなどなど。途中からおばちゃんの娘
が小学生くらいの孫娘を二人連れて入ってきて、おばちゃんは彼女らにもラーメンをつくりはじめた。骨付き肉が乗ったテール・ラーメンは旨かった。骨の髄ま
で温もった。勘定をする際に「すごくおいしかったです」と言うと、おばちゃんははじめてにっこり笑って「また寄ってくださいね」と応えた。何の気取りもな
いが、人間の顔のあるラーメンだった。合墓に眠る女工たちにも食わせてやりたい。
2018.12.15
15年前、兵庫県のある施設でわたしに仕事をおしえてくれたTさんが癌で入院をしたと知ったのは最近のことだ。退院をして、いまは自宅で小康を保ってい ると聞き、年が明けたら見舞いに行きたいとTさんと親しい同僚にお願いしていたら昨日、亡くなったという連絡がメールで届いた。ムガル帝国の皇帝によって 建設されわずか14年で放棄された北インドの都市・ファテープル・シークリー(Fatehpur Sikri)の城門には、つぎのような碑文が刻まれているという。「イエスが言った。“この世は橋である、わたっていきなさい。しかしそこに棲家を建てて はならない”」 橋はひとによってさまざまだ。ながいながい橋もあれば、ひょいと跨げるようなみじかい橋もある。豪華絢爛に飾った橋もあれば、質素などぶ 板のような橋もある。どんな者であれ、わたしたちはそこをとおりすぎていく。わたりおえてしまえば、どんな橋であったかなど忘れてしまうし、もはや何の価 値もないだろう。けれど橋をわたったその痕跡のようなものがきっと、わずかな匂いか光のささやかな明滅のようなものとして風の通い路にとどまる。残された わたしたちはそれを感じることができる。痕跡も、ひとさまざまだ。
わたしの住む町にかつてあった紡績工場の「寄宿舎工女」として明治33年に死んだ宮本イサとの出会いについてふりかえりたい。というのも、わたしのささや かな生にあって彼女の存在はいつも中心を占めているからだ。「亡工手之碑」という紡績工場で死んだ人たちの供養碑が残る隣町の寺で、紡績工場の死亡者だけ をまとめた過去帳を見せてもらったのはことしの初夏の頃だったか。本堂の後戸に祀ってあったというその過去帳には明治後半から昭和初期にかけて延べ96人 の戒名などが並んでいた。そのなかで出身地や年齢が分かっているのは30人に満たない。住職によれば引き取り手のない死者は町の火葬場で荼毘に付し、共同 墓地の無縁の納骨所に収めるのだという。96人うち59人が女性で、年齢が分かるほとんどは20代前後の若い女性たちだ。なかには13歳の少女もあり、多 くは九州の山間部の(おそらく貧しい山村の)出身であった。18歳の「朝鮮慶尚南道」出身の少女の名も記されている。
宮本イサの無縁墓は、かつて平城宮の羅生門があったという佐保川沿いの古い歴史のあるその共同墓地で見つけた。墓地の片隅に積み上げられた墓石の側面に偶 然、「株式会社郡山紡績」の刻字が覗いていたのだ。両隣の墓石にかくれていた部分に「寄宿舎工女 宮本イサ」と「明治三十三年」という文字をかろうじて読 むことができた。彼女の名も戒名も寺の過去帳にはなかった。明治33年というのは明治27年に操業を開始した郡山紡績が業績悪化や社長交代などを経て操業 時間が短縮された年だ。翌年には工場での虐待に耐えかねて脱走した女工2名が大阪にて保護されたという記事が警察の資料として残っている。引き取り手のな い「寄宿舎工女」であれば墓石もつくられずに無縁の納骨所
へ収められただろうが、わざわざ会社が墓を建 てたということは特別の事情があったのか。寄宿舎住まいであれば近在の出身ではないだろうと思いながらも、この地元資本で設立された紡績会社がそもそも禄 をうしなった旧郡山藩士の窮状対策として旧藩士の子女を雇ったという記述を読んで、幕末の藩士名簿をめくったりもしたが手がかりはなかった。120年は遠 すぎるのか。わたしは犬の散歩の折にはこの宮本イサの墓に立ち寄り、ときには野辺の花をたむけ、ひさしぶりだねとか、寒くなってきたねとか、墓石に語りか けるようになった。さながら恋人のようだ。もう会うことのできぬ。
わたしのなかに見知らぬ「寄宿舎工女 宮本イサ」の存在があって、それを胸の奥にしまいな がら、岸和田の広大な共同墓地に眠る朝鮮人女工の墓といわれる ちいさな自然石をさがしたり、尼崎の川で渡船が沈んで死んだ女工たちの供養碑を訪ねたり、あるいは「悔恨と激憤の現場で、いま、わたしたちの行くべき道を 問う」と刻まれた名古屋の軍事工場で地震で生き埋めになった朝鮮人の少女たちの亡くなった現場を歩き、そっと手を合わせた、そのひとり一人が宮本イサであ り、多くは父や母のもとへかえれないまま無縁のほとけとなった寄る辺なき魂である。休日のたびにわたしは自転車で、あるいは電車に乗って、そんな見捨てら れたような場所や墓地を歩きまわった。わたしはなぜ、そんなことをするのだろう。いつしかわたしは「悔恨と激憤の現場で」死んでいった無数の彼や彼女たち の痕跡を巡礼しながら、その寄る辺なき魂がわたしのなかに澱のように蓄積していって、いつかじぶんは人間でない奇怪な生物に変化(へんげ)するのではない か、それを望んでいるのではないかと思うようになった。
120 年前の明治、100年前の大正、80年前の戦前の昭和すら、いまではたどることが難しい。旧藩士名簿、地方新聞、警察資料、古地図、もろもろの行政資料、 企業資料、個人の手記、埋火葬許可証、県立図書館や国立国会図書館関西館に幾度も足を運び、黄ばんだ資料をめくり、ぼやけたマイクロフィルムをまわし続け ても、出てくるものはほんとうにわずかな断片だけだ。「寄宿舎工女 宮本イサ」がどんな女性で、明治33年にどのような事情で亡くなり、古里の地ではなく 「寄宿舎工女」として参る者もない無縁墓になって忘れ去られたのか、だれもなにも分からない。「金壬守 妹」と過去帳に記された18歳の「金◆順(戒名: 釈尼妙順)」が大正9年に郡山紡績で死んでから遺骨は故郷の「朝鮮慶尚南道普州郡普州面」に帰れたのだろうか。姉妹はどのように異国の地にやってきて、な ぜ18歳という年齢で橋をわたりおえてしまったのか。なにも分からない。無数の「寄宿舎工女 宮本イサ」や「金壬守 妹 金◆順」がこの国のあらゆる場所 に金剛遍照のようにあまねくただよっている。けれどわたしたちはそれを見ない。記憶もしない。死者を送ろうともしない。一輪の花をたむける者もない。「悔 恨と激憤」を溜めたわたしは、いつか人間でない奇怪な生物に変化するだろう。
夢をたずさえてこの国へ やってきた外国人技能実習生が3年間で69人も亡くなっていたというニュースに接したとき、わたしのなかで120年の時空がストレートにつながった。郡山 紡績についてある大学のゼミの学生が戦後の従業員たちに聞き取り調査をして「郡山紡績に“女工哀史”はなかった」と記したが(住田文「女の街―大和郡山と 紡績工場をめぐる人びと―」関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ)、わずか13歳から27歳までの若い女性たちが毎年10人単位で死んでいく過去帳のデー タは、まさにこの技能実習生たちの異常な実態と同じだ。150年の明治のこの国の負の記憶から、この国の現在がまさに透けてくる。朝鮮人徴用工問題につい ても戦前・戦時中にこの国へ強制的に連れてこられたアジアの人々の「悔恨と激憤」の記憶が、過去も現在もどのように扱われてきたか扱われているか、現地を 歩いてきたら分かる。「女子挺身隊」と呼ばれた朝鮮人少女たちの遺体が瓦礫に埋もれたまま放置された工場跡はいまは明るいショッピング・センターになり、 奈良天理柳本の海軍飛行場にあった朝鮮人慰安婦に関する説明板は「国の意向に合わない」とする市長によって撤去された。人々は口をつぐみ、多くの記録を処 分し、墓石を始末し、土地を整地し、供養碑を拒み、記憶を消そうとしてきた。「悔恨と激憤」はもはや、行き場もない。
かつて作家の辺見庸はソマリアで見た餓死する幼子について「餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではない か」と記した。わたしはみずからの中心に120年前に郡山紡績工場で死んだ「寄宿舎工女 宮本イサ」を置く。そうして見えてくるものは、この国が明治と称 した時代からの百数十年の歴史の実時間の実相だ。無名のまま死んで無縁墓地へ積まれた寄る辺ない「寄宿舎工女 宮本イサ」から見えてくるのは、現在日本の 沖縄、フクシマ、マイノリティへの差別、政治腐敗、教育現場の崩壊、だれも責任を取らない「和」の精神、ヌエのような隠蔽体質、天皇制、歴史改変、そう いったもろもろの諸相である。明治から150年、この国は過去をいちども清算してこなかった。だから150年前と現在と、本質的にはなにも変わらない。外 国人技能実習生が明治の紡績工場の女工たちのように毎年数十人ベースで命を落としていても驚かない。「寄宿舎工女 宮本イサ」もきっと、驚かないだろう。 わたしもそうして殺されたのだから、と言うかも知れない。そしてやがてだれもがわたしのことなど忘れていったのだから、と。
いろいろ思うことはあるけれど、わたしは橋のことを考える。じぶんの橋のこと、そして「寄宿舎工女 宮本イサ」がわたった橋のことを考える。考えながら歩 いているうちにふと、じぶんの橋と「寄宿舎工女 宮本イサ」の橋が交差する瞬間がある。わたしは「寄宿舎工女 宮本イサ」の橋を思いがけずにあるいてい る。これでようやく彼女に会えるとよろこんでいると、やっぱりそれはわたしの橋なのだった。「餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと 思考が戦闘化してもいいのではないか」と辺見は書いた。しずかな年の暮れに「寄宿舎工女 宮本イサ」の墓のたもとにひっそりとたたずんでこよう。ほかのだ れにもきこえぬささやきのようなことばをかのじょとかわそう。わたしは、そんな大晦日がいい。
2018.12.31
その町は室町時代より栄えた潮待ちの港を持ち、遊郭が繁盛し、やがて紡績工場も立ち並び、工場から港まで鉄道も敷かれ駅もあった。地元近くに住むS君か
ら、遊郭の女郎たちが産み落とした父なし子たちの子孫が多く住むから、あのあたりはいっとき精神薄弱などの子どもも多く、独特の雰囲気を持っていたという
話を聞いた。それらはおそらくいろんな意味で、人間の醜さの鏡のような話だ。けれどもわたしはその一方で、そのように語り継がれる町に不思議な親しみを覚
えてやまない。○○駅の南東のあの一画が、とかつて鉄道マニア少年だったというS君が指をさす。
西の港町から帰宅して、風呂につかりながら読んだ今日の大事なことば。ヴェイユはやはり近しいな。
「キ リスト教が地上で受肉することには、絶対に超えられないひとつの障害があります。それは《破門》という言葉の行使です。言葉があるということではありませ ん。今日までそれが行使されてきたという事実です。私が教会の敷居をまたげないのはこのためでもあるのです。(中略) 全体主義的であったローマ帝国が没 落して後、アルビ宗派戦争を経て13世紀のヨーロッパにはじめて全体主義体制の下ごしらえを仕上げたものは教会だったのです。この木は多くの実を結びまし た。そしてこの全体主義体制の原動力というのが、この《破門》という言葉の行使なのです」
「とにかく新しい宗教が必要だ。変貌して別の姿になったキリスト教か、さもなければ別の新しい宗教が必 要なのだ」
シモーヌ・ヴェイユ「超自然的認識」
2019.1.3
大阪・十三の風俗店に囲まれた繁華街の雑居ビルで、朝鮮人学校の歴史と現状を描いたドキュメンタリー「アイ(子ども)たちの学校(ハッキョ)」を見た。 予定よりも早く着きすぎてしまったために昭和の匂いのするアーケードの商店街などを見てまわり、十三公園の寒空の下でジャンパーを着込んだおっちゃんたち の将棋をしばらく観戦して、上演40分前くらいに6Fの「第七藝術劇場」へ上がっていったらすでにたくさんの人だかりで、当日券に並んだわたしの三人前の おばちゃんグループが「ここから立ち見になります」と宣言されたのであった。公園のおっちゃん将棋を一瞬悔み、テロルの如き赤色壁の階段で並んで待ちなが ら「日本人は立って見るのが逆にふさわしいだろう」と思いなおしたけれど結局、最後のひと席にありつけた。客席のぐるりを囲む通路に立ち見が30〜40人 ほど。「もう入れないと言われた」と帰っていった人もいた。上映初日で、監督のトーク・ショーも企画されているからだろう。やがて照明が落とされ、スク リーンに映し出される光景は、日本なのに日本人のわたしたちが見たこともない光景ばかりだ。「4・24(サイサ)阪神教育闘争」、はじめて聞いた。大阪城 大手門前の広場で16歳の朝鮮人の少年が警察官の発砲により命を落としたことも知らなかった。国を蹂躙され、家族を引き裂かれ、ことばも文化も奪われ、日 本の炭鉱や工場で牛馬のように使われ捨てられてきた朝鮮人たちが「解放」されたのは日本の無条件降伏の日であった。希望に胸を膨らませ公園や墓地や粗末な 建物で始められた朝鮮語による子どもたちの学校は、しかし1948年(昭和23年)に早くもGHQと日本政府により閉鎖命令を受ける。子どもたちは校舎か ら放り出され、学校は鉄条網で囲われた。抗議のために大阪府庁前に3万人もの在日朝鮮人が集まったのが「4・24阪神教育闘争」である。人々に向けて消防 隊が放水を行い、警官隊が実弾を発砲し、16歳の金太一(キム・テイル)少年が頭に銃弾を受けて死亡した。この発砲については長いこと「威嚇射撃の数発の 流れ弾がたまたま金少年に当たってしまったのだろう」と朝鮮人側も思っていたと上映後のトークで高監督が語っていたが、最近の調査で第8軍司令官アイケル バーガー中将の残した記録にこの日、日本の警官隊が20発の実弾を撃ったと記された報告書が新たに発見された。この国の警官隊は徒手空拳の朝鮮人たちを殺 すつもりで撃ったのだ。繰り返すが日本の敗戦からわずか3年に満たない日のことだ。そして現在もこの国は教育制度から朝鮮学校だけを排除し(朝鮮学校は現 在でも一条校(通常の課程)としてではなく、自動車教習所などと同じ各種学校としてしか認められていない。ために高校を卒業しても大学受験資格が保証され ない)、教育無償化からの除外や補助金の停止といった圧力を各自治体にも迫り、それに乗じた一部の馬鹿どもが「キムチくせえんだよ。日本から出て行け」と いったヘイト・スピーチを校門で繰り広げ生徒たちが泣き出すといった事件も起きている。それがこの国。映画の終わり頃で弁護団の一人の日本人が言っていた 「過去の過ちに向き合うこと」を、いちどもしてこなかった国。シモーヌ・ヴェイユのいう『根を持つこと』から背を向け、過去を破壊し魂を殺す集団の国。わ たしは近所の無縁墓で偶然見つけた「寄宿舎工女・宮本イサ」を中心として世界を見る、と書いた。同時にわたしはおなじように近所の紡績工場の過去帳に記さ れた、大正9年にわずか18歳で亡くなった「朝鮮慶尚南道普州郡普州面」出身の「金●順」もまたこの世界を考える中心に据える。異国からはるばる海を越え てやってきた彼女はなぜ18歳という若さで死ななければならなかったのか。
「金
●順」は30年後の金太一である。そして現在のこの国の朝鮮学校に通い、校舎の中でひっそりとチマチョゴリに着替える女生徒である。映画の中の彼女は演劇
部の舞台で警官隊に撃ち殺される金太一を演じる。根を持つ人たちは時を越えてなんどでも甦り、魂はつながっていく。朝鮮学校を出てから苦学して東大に入学
した男子学生の言った話が印象的だった。ひとはみんなじぶんの袋を持っている。朝鮮人であるわたしの袋。朝鮮人学校はそのわたしの袋にいいことをいっぱい
入れてくれた。日本の社会は入れてくれなかったものを。だから朝鮮人学校はわたしは必要だと思う。チマチョゴリを着て父や母の国のことばや文化を学ぶこと
がゆるされない子どもたち。靴磨きの仕事場から朝鮮人学校閉鎖の抗議に加わり警官から撃ち殺される子どもたち。異国の地で過酷な労働を強制されて無縁仏と
なって忘れられていく子どもたち。かれや彼女たちはハンディを背負って苦しんでいるわたし自身の娘の姿にも重なる。だからわたしの胸はぎりぎりと締めつけ
られる。頭を撃ち抜かれていままさに死にゆくわが子に慟哭する。根を持つものは、つながるのだ。このドキュメンタリーはわたしにその思いを一層つよくさせ
た。
◆朝鮮学校年表 https://seesaawiki.jp/mushokamondai/d/%C4%AB%C1%AF%B3%D8%B9%BB%C7%AF%C9%BD
◆阪神教育闘争70周年!朝鮮学校の歴史と現状を描くドキュメンタリー映画を制作します
https://a-port.asahi.com/projects/kochanyu/
◆高賛侑監督ブログ http://blog.livedoor.jp/ko_chanyu/
◆大阪)朝鮮学校、映画でエール 作家の高賛侑さん撮影中 https://www.asahi.com/articles/ASL4952ZRL49PTIL00Y.html
◆在日韓人歴史資料館 http://www.j-koreans.org/index.html
2019.1.13
しばらく前、関東に住むやはりFB友だちである彫刻家の含さんが与謝野晶子の「私の生い立ち」という回想録の中に「明治11年堺生まれの彼女が「紀州のお ふかさん」という7頁の章で大石誠之助の令嬢のことを書いている」と教えてくれて、さっそく図書館でその岩波文庫を見つけてきたのだが、そのなかの「堺の 市街」という晶子が幼い頃の町の風景を思い出しながら記したこれも数ページの章のなかに、いつかわたしが南海電車の堺駅近くの団地の一角で案内板を見つけ た紡績工場のことも出てきた。それはこんな数行だ。 「停車場の横に泉州紡績の工場があります。赤煉瓦塀の上に地獄のような硝子かけを立てた厭な所です。 夕方と朝に髪へ綿くずを附けた哀れな工女が街々から通って行く所は其処なのです」 ちなみに大石誠之助の「太平洋食堂」を芝居にした脚本家の嶽本さんによ れば、大逆事件で誠之助と連座した新宮の僧・高木顕明の日誌に西村伊作が描いた与謝野晶子の似顔絵があることなどから彼女は大石誠之助の招きで新宮を訪ね た可能性が高いのだけれど、公式には大逆事件以前に晶子は新宮を訪問したことはないということになっていて夫の鉄幹もそう断言している、おそらく事件の影 響を避けるためだったのだろうということだ。「私の生い立ち」には少女時代に晶子が新宮に来て、牧師の沖野岩三郎宅に泊まって誠之助の娘のふさと交流した ことなどが描かれている。
ところで誓得寺の過去帳には全員で96人の名前があり、そのうち住所(出身 地)の記載があるのはわずか24人だけで、そのなかでいちばん多いのは長崎県の南高来郡、いまでいう島原半島のあたりである。今日は昼間、国会図書館のデ ジタル・データなどをあれこれ漁っていて、福岡地方職業紹介事務局による昭和3年発行の「出稼女工に関する調査」なる資料を見つけたのだが、やはりこの地 方はむかしから出稼女工の「優良なる供給地」であったことが記されている。一部を引く。「是は帰村当時病体であるというのは少ないが、帰郷半ヶ年或は一年 間の中に発病するというのは可なりある様であった。統計的に調査することは出来なかったが其の地の医師の言う所を総合すると病名は呼吸器、消化器病が多 い、次に花柳病に懸かって居るのが少なくない。一般に医師に診察を乞う事をせず自宅で姑息療法を施して居る状態で花柳病罹病者の如きはもっと多数にあると 思われると称して居た。其外医師の言葉として病気に罹って居るのを知りつつ解職帰郷せしめるという工場側の態度と、僅か尋常小学を終えるか終えない少女を 工場に入れて毎月送金を手にして生活して居る父兄を無理解なものであるとして非難して居る向きが多かった。尚父兄を訪問して話を聞いた中に次ぎの様なのが あった。「今より四ヵ年程前、娘が15才の春近所の15、6人の娘と共に、大阪地方某紡績会社募集人に募集されて(募集人は土着者にして其家より約十町を 距る箇所にあり)上阪し、二ヵ年半其工場に従業し、其間毎月欠かさず17,8円の送金をなし、其の時同時に上阪した者の中で一番成績が良く(工場を休まな い事、着物を着ない事、買食いをしない事が成績の良い事の説明で中には情夫が出来て子供を流産したという様な話もあった)他家から羨れていた。帰村後一ヶ 月を経て身体がだるいと称していたが其儘数月を経て医師の診察を受けた所肋膜という事で非常に心配した。後に腹膜となって帰郷後一年ぶらぶらして19才を 一期に死去した。其の間に費消した金額は紡績会社で得た賃金の約三倍を要した」というのである。そこで一般病気帰郷という事には時間の許す限り可なり具体 的に聞いて見た。結果は若年の女で多方面に出稼して病気となり帰村して居るもの例えば旅館料理家女中、女給等に従事中罹病したもの等も多数にあって、特に 女工出稼者が多い様にも思われなかった」(五、女工出稼が供給地に及ぼす影響>病気帰) 古里の地で死ねた者はまだいくらかはましであったということ か。見えぬ死者の分、過去帳はさらに重みを増したようだ。
明治から大正、昭和初期にかけて長崎の島原 半島から出稼ぎに来て死んだ哀れな女工たちが供養されたのが誓得寺であったら、誓得寺の西を流れるかつての外堀をはさんだほぼ対面にあるのが良玄禅寺(か つての雲幻寺)で、本多忠勝の孫・正勝の菩提寺であったこの寺に大和郡山藩に流配された長崎の浦上キリシタンたち76名がしばらく収容されたのが1870 年(明治2年)暮れのことであった。そんなことも、何やら時間をへだてた偶然のからまりのようにも思える。この島原半島から来て遠い大和郡山の地で亡く なった女工たちは、わたしの手元の過去帳写しでは13歳から26歳に至る少女ばかりだ。その8人は小字までの住所、名前、死亡日、戒名などが分かっている (過去帳のなかには戒名だけで、名前も年齢も死亡日すら分からない者も多数いる)。 当時の住所なので、現在の市町村から名称が変わったところもあるが、 調べれば何とか地図上に洗い出せる。この島原半島にしぼって能う限りマッピングをして資料をつくり、いつか彼女たちの古里をじぶんの足で巡ってみたいと考 えている。郡山で死んだ彼女たちが最後に見たかっただろう故郷の風景を彼女たちの目に代わって見て歩く。そのことによってわたしも、百年前に死んだ彼女た ちの無念の思いをわが身に肉化したい。そんな旅をしてみたい。なぜなら、百年まえから現在に至るまで、この国の根本はなにひとつ変わっていないからだ。百 年前に死んだ女工たちの目でわたしが見るこの国の風景はけっして百年前の風景ではない。わたしはそのことを確信している。
もちろん、いつか韓国の普州市も訪ねて「金 占順(김점순)」の古里を探し求めたい。その ためにはもっと下調べもして、韓国のことも勉強する必要があるだろう。けれどこれまで「金 ●順」としか書きようがなかったが、ようやっとキム ジョンスン(Kim Jeom Sun)と声に出してその名前を読んであげることができる。「金 占順(김점순)」と正しい名前を書くこともできる。そのことがひどくうれしい、今日とい う一日。
2019.3.3
ジップ散歩。春がちかづいてきて、田圃のへりには色とりどりの野の花々が咲き始めた。タンポポを一本摘んで来世墓の、郡山紡績工場 寄宿舎工女・宮本イサ ちゃんの無縁墓をひさしぶりに訪ねた。ずいぶんと手を尽くしたけれど、120年前に死んだたった一人の女工の来歴さえわたしたちは届かない。年老いた女性 がついてきたキャリーカートにすわって田圃をながめている。むかし産婆さんをやっていたという近所のおばあさんだ。たしか90歳に近いともつれあいが言っ ていたけれど、彼女の年齢を遡上しても工女・宮本イサの生きていた時代には届かない。じっと動かないおばあさんは風景に同化してまるで山川草木ほとんど遍 照金剛南無阿弥陀仏のようだ。紡績工場で死んだ工女・宮本イサはきっとおばあさんの1/3の時間も生きられなかっただろう。でも彼女はたしかにこの土地を あるき、この空をながめた。昼間はうごいていれば汗ばむような陽気だけれど、陽が傾けばまだ空気は冷たい。でも植物たちはきたる春を予感して華やぐ。あま ねくひかりというのはきっときみやあのおばあさんたちのことをいうのかもしれない。& nbsp; ブレンダ・リーの声には「それ以上の何か」がある。陽炎のような夏草の陰で石ころの姿になってまだ見ぬ夢を見続けている朝鮮人女工の魂のよう なものだ よ。夜になるとそうしたものにからめとられてしまう。それで彼女の声を聞きながら会話をする亡者との会話。夜中にいつもぎりぎりでこの世にかえってくるの さ。草いきれに逢瀬して。この世では会えないから。
2021.3.16
県立図書館へ120年前の娼妓の証文を撮影に行った折、「観光地・奈良の姿」と題した資料展示を見た。1900(明治33)年。奈良公園の大改良計画の 許可が下りる。若草山の山焼き、夜間実施に変更。大阪鉄道、関西鉄道へ合併。帝国奈良博物館、奈良帝室博物館に改称。奈良公園内に春日山周遊道路完成。ど れも郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサが死んだ年のことだ。彼女の無縁墓を見つけて以来、1900(明治33)年がわたしのなかの基点となった。1900(明 治33)年。パリでは万国博覧会が開かれ、中国では「扶清滅洋」を掲げる義和団の外国人排斥運動(義和団の乱)が起きた。日本では足尾銅山鉱毒事件の被害 者農民らが東京へ陳情へゆく途中で警官隊と衝突した川俣事件があり、東京市がペスト予防のため鼠の買上げを開始し、 治安警察法公布された。愛知県の光明寺村の織物工場では女工31名が焼死する事件が起きた。その年、郡山紡績工場は綿糸価格の暴落により操業短縮を余儀な くされ、女工三人が「会社の虐待を恨み」脱走する事件も起きている。すべて郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサが死んだ年、彼女が生きて、呼吸し、最後の風景を 見ていた歴史の実時間だ。1900(明治33)年を軸に世の中を考えると、たいていのことはたどれない、と気づく。宮本イサはどこの出身で、どんな生い立 ち で、なぜ死んだのか。どんな人生を送ったのか。なにも分からない。1900(明治33)年を軸に世の中を考えると、わたしはこの世にだれも知り合いがいな くなる。そのくせ、 世の中のすえた匂いはどことなく似ている。わたしはそのまま、2021年の日本で生活しながら1900年にはまだ生きていた郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサ と彼女があるいたかも知れない紡績工場のはたの天満宮や佐保川の堤を二人だけであるく。イサちゃん、百年経ったって人間なんぞは猿のままだよ、いやいっそ 猿の方が賢いかも知れないな。わたしの横で彼女はだまって土手の草を抜いている。ぼくは百年前に死んだきみのことをいつも考えている。ぼくはまるで記憶を なくしたにんげんのようだ、じぶんがどこのだれで、いったいどこからやってきたのかすら分からない。きみの顔すら思い出せない。風がわたる。過去からも現 在からも切りはな されてわたしは立ちすくむ。
2021.4.11
& nbsp; 大阪へ着いた途端に豪雨。歯医者を経て梅田まであるいて、阪神電車で尼崎へ向かう。商店街をぬけた穂乃香で手打ちうどんの昼を済ませてから駅の反対側、尼 崎市立歴史博物館。三階の地域研究史料室(あまがさきアーカイブズ)へ。数日前のエル大阪(大阪産業労働資料館)での電話で、老朽化のために閉鎖されてい るユニチカ記念館の資料がここへ移管されたという話だったがその事実はなく、どうも新聞記事で報じられていた解体された記念館外塀の煉瓦が一部ここへ寄贈 されたというものとごっちゃになったかも知れない。それでも来訪の意図を伝え、こういうものならありますがと、郡山紡績工場の明治33年から39年までの 営業報告書並びに株主人名簿の原本を出してもらった。綴じていた封印から「尼ヶ辻の福山」氏から寄贈されたものらしい。ほとんどは営業状況と会社の経理・ 収支に関する報告だが、特に1900(明治33)年はあの寄宿舎工女・宮本イサが亡くなった年だ。この年の営業報告の「処務要件」に、「1月10日 ペス ト病予防費ノ内ヘ金一百円寄付ノ義 奈良県知事ニ願出タルニ2月26日許可セラレタリ」、また「5月21日 工女寄宿舎ニ於テ腸チフス患者一名発生シタル 為メ本県検疫官来社セラレタリ」の件を見つける。宮本イサがまさに働いていたその当時の、郡山紡績工場の状況であることが貴重だ。その他、「ユニチカ百年 史」 「ニチボー75年史」などの社史からいくつかコピーを取らせてもらった。特筆すべきは以前にユニチカ記念館でなんの解説もなく写真だけが展示されて いて硝子越しに撮ったそこに写っているまだ子どもの年齢の女工たちの面影を、無縁墓の宮本イサもきっとこのなかの一人のような面立ちだったろうと勝手に大 事にしていたその写真が、じつは明治39年に鹿児島の知覧から尼崎紡績工場へ集団就職した少女たちだったと判明したことだ。これは昭和35年の鹿児島県川 辺郡知覧町「図書館協会報」に発表された「鹿児島出身者糸姫の先駆者知覧乙女」の全文が「ニチボー75年史」に収められたもので、写真の少女たちの氏名と 年齢もすべて判明している。14歳から24歳までの少女たちだ。百年前の資料でも、こういうものが残っているのだと感動を覚えた。その後、閲覧・コピーを 終えてついでに来たのだからと二階の常設展をかるく見て回っていたところ、「近代史」の展示室で大きな額に飾られた「尼崎紡績創立10周年記念で撮影され た本社工場労働者の集合写真」なるものに出くわした。これがやはり、1900(明治33)年。これが優に二、三百はいるだろう人数の集合写真で、ほとんど がやはりまだ年端のいかない少年少女のように見える。三階の地域研究史料室へ取って返し、あの写真をコピーしてもらうことは可能だろうかと訊けば、一階の 事務所の担当者へ引き継いでくれ、そこで複写依頼の申請書を書いて提出したのだった。何でも原本は尼崎紡績の役員だった者の家から発見された個人蔵の写真 で、展示されているのはその複写であるという。所有者に許可をもらった上で複写をして後日に送付してくれるとのことで、料金も送料も必要ないとのこと。宮 本イサが郡山紡績工場で働いていたそのおなじ年に撮影された尼崎紡績工場でのこの写真が送られてきたら、わたしは額に入れて部屋に飾るつもりだ。まだいま はわたしは、ここまでしか無縁墓の宮本イサにたどりつけていない。
2021.8.12
&
nbsp; 昨日の国会図書館(関西館)、主には金沢の新谷さんから依頼されている尹奉吉(ユン・ボンギル)の大阪での足跡調査であったが、その合間にい
つもの紡績工女に関する新聞記事検索も。
最
近分かったことだけれど、従来の新聞各社データベース検索では拾いきれなかった記事が、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)で検索をするとヒットす
ることがある。エル・ライブラリーの方が記事の内容まで検索がかかるらしいのだが、そこから直接元の紙面までは見れないので日付などを控えておいて、新聞
各社データベースと契約している公共図書館などでじっさいの紙面を確認したりプリントすることになるのがチト面倒だ。郡山紡績工場寄宿舎工女・宮本イサが
死んだ1900(明治33)年にしぼってみても、紡績女工に関する悲惨な記事がたくさん出てくる。
誘拐、折檻、逃走などは序の口で、強姦
されたり、遊郭へ売り飛ばされたり、過酷な工場勤めに16才の少女が川に身投げしたり、9歳で連れてこられたという11歳の少女が故郷帰りたさに汽車が通
るのを見ては泣いているという記事など。極めつけは大阪の天満にあった紡績工場で、紡績機械の不具合のために16才の少年職工が巻き込まれ「456回の運
転を継続したることとてあはれ治三郎はその脆弱なる四肢五体を巻き込まれては梁の上なる繋ぎに打ちつけられ巻き込まれては打ちつけられすることまたじつに
456回転したることなれば何かは以って足るべき四肢五体は粉砕微塵となって二三丈四方は肉の雨を降らし血煙立ちて目もあてられず・・・」といった光景に
なった。この事故は会社の不注意に起因することからと「治三郎の死体は社葬を以って之を葬り第1号職工残らずをして会葬せしめる事と」なったと記事は結ん
でいる。いまは無縁墓とはいえ「郡山紡績工場寄宿舎工女」の名で立派な墓石がつくられた宮本イサも、じつはこうしたいわく付きの社葬ではなかったかと、わ
たしは思って瞑目する。
尼崎紡績福島工場で、工女の多くが礼拝しているという寄宿舎の大広間に設けられた仏壇の写真を載せている記事が
あった。工女には真宗信徒が多いと書かれているが、これは貧しい地域の出身者と同義でもあるだろう。「中央には金色燦爛たる立派なお仏壇を置き、その〇側
には死亡した工女の位牌を安置してあります」と説明されたこの写真はある意味、すさまじい。宮本イサの位牌も、こんなふうに金色燦爛たる仏壇のかたわらに
ならんでいたのだろうか。
夕食後。手製の郡山紡績MAPを片手に、百年前の夜をさまよってきた。無縁墓の宮本イサや、18歳で死んだ慶尚南道出身の金占順(김점순、キム
ジョンスン)たちが寝起きをしていた寄宿舎、亡くなった女工たちの位牌が置かれていたという講堂、息を引き取ったかも知れない病室や、故郷からやって来た
両親に会っただろう面会室、食堂や一日の疲れを癒した浴場など。やはり日中よりも夜の方がいい。いまはURの団地になっている建物のすみや角や植栽のむこ
うから、彼女たちの気配や息遣いが沁み出してくる気がする。工場の高圧電線に触れてまともな治療も受けられずに死に、工場側の誠意ない対応に抗って一週間
遺体が放置され腐臭を放ったという徐錫縦(서석종、ソ・ソクチョン)もかつてこの木の影、石の上にすわっていたことだろう。故郷から遠く離れた高い煉瓦塀
と有刺鉄線で閉ざされた世界で彼ら彼女たちは懸命に生きて、そしてここで死んだ。ときに小雪がちらつくような冬の夜なのに、こころなしか空気がねっとりと
重たく感じるのはなぜだろう。闇はわたしたち自身の内にあるのか。その闇の向こう側から彼ら彼女たちの影がゆらゆらとたちあがってくる。語られなければ、
彼ら彼女たちはずっとここを離れることはできない。百年経ったいまも、ここにいる。この場所に。