1923.9 橘宗一少年墓碑 (名古屋・日泰寺)

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■1923.9 橘宗一少年墓碑 (名古屋・日泰寺)

 

 名古屋での打ち合わせが早めに終わったので、かねてから思っていた日泰寺を訪ねることにした。

 1923 年(大正12年)9月16日、関東大震災直後の混乱の隙をつくようにアナキストの大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、そして大杉の甥である橘宗一(むねかず)の 3名を憲兵隊特高課が東京憲兵隊本部に連行して殺害、それぞれ裸にされた遺体は菰包みにされ麻縄で縛られた状態で敷地内の古井戸に投げ込まれ、その上から 馬糞や煉瓦を投げ込んで埋められた。戦後見つかった「死因鑑定書」によれば大杉と野枝の二人については「胸骨完全骨折」など、激しい暴行を受けた痕跡があ ることが記されている。大杉の妹の長男・橘宗一は父親の橘惣三郎がアメリカ在住の貿易商で二重国籍を持ち、たまたま母親と日本に帰国していてこの虐殺にま きこまれた。子どもが殺されたことを知った母親のあやめがアメリカ大使館を通じて日本政府に抗議したために日本政府は事件を隠蔽できなくなったとも言われ ている。この当時わずか6歳だった宗一の墓碑は死の4年後の幼子の誕生日に父親によって建立されたが「その後の時代背景もあり,人知れず草むらに放置され ていた」のを1972(昭和 47)年、偶然犬の散歩をしていた女性が「犬にひかれて踏みこんだ小道で、たけなす夏草に埋もれた」墓碑を発見し朝日新聞の「ひととき」欄に投書したこと がきっかけで世間に知られ(9月13日付)、その後設立された「橘宗一少年墓碑保存会」によって日泰寺墓地内に設置されたのだった。じつに50年近く墓は 草むらのなかに突っ伏していた。無数の得も云われぬ思いを抱えて。その墓に会いにゆく。

  後続の方のために行き方を記しておく。Web上にあるほとんどの資料は「日泰寺境内」や「墓地内」とあるだけで、わたしも最初は地下鉄東山線「覚王山駅」 を降りて、いい感じのひなびた商店街の参道をつらつらとあるいてだだっ広い日泰寺へやってきたのだが、墓地がさっぱり見当たらず途方に暮れた。本堂横手の 寺務所に訊くと「墓地係」なる若い僧侶姿の男性が図面をくれて丁寧に教えてくれた。日泰寺は本堂や塔を有する境内敷地から東へ向かって、およそ1キロほど の距離で墓地が伸びている。日泰寺の北東角にある「姫ヶ池通1」の交差点から地下鉄名城線「自由ヶ丘駅」方面へすすむ幹線道路沿いがそれで、見通しのいい ゆるやかな斜面の墓地と住宅地の間をあるいていくと、やがて「日泰寺 1号墓地入口」と書かれた看板の右手から墓地へ入っていく細い道が分かれている。 下っていったすり鉢上の底の中央の交差路でななめ左へすすんでいくとやがて、その小路沿いの左手に見つかる。日泰寺境内からだと歩いて15〜20分ほど か。距離的には裏手に位置する「自由ヶ丘駅」からの方がずっと近い。直線距離でわずか100メートルほどだ。(帰りは自由ヶ丘駅から帰った)

  きれいな砂利が敷き詰められた敷地は分譲したての墓のように新しい。そこに「たけなす夏草」から生還した90年前の墓碑が建っている。サンタクロースのよ うな小さな青い人形がひとつ、何かの景品のような玩具がひとつ。まだ新しい林檎がひとつ、供えられていた。すっかり枯れて茶色くなっていた花立の花束を とって地面へ置いた。そして遅かれながら気がついて途中の販売機で買ってきた「バナナ・オレ」の缶を墓碑の前に置いて、手を合わせた。

  墓碑の正面、上半分には横文字で二行にわたり「Mr. M.Tachibana/Born in Portland Org./12th 4.1917.USA」とある。「Org」とはオレゴン州のことだそうだ。下半分には縦四行で「吾人は 須らく愛に生べし 愛は神な ればなり 橘 宗一」と彫られている。わたしたちはみな愛に生きねばならない。なぜなら愛は神そのものであるから。

  墓碑の背面に回ると、上半分にまずは縦八行で「宗一(八才)ハ 再渡日中東 京大震災ノ サイ大正十二年 (一九二三年)九月十六 日ノ夜大杉栄 野枝ト 共ニ犬 共ニ虐殺サル」との激しい文字が連なり、その下に横文字で「Build at 12th 4.1927 by S.Tachibana」と建立日が記されている。4月12日は宗一の誕生日であり、1927年に生きていれば10歳であった。そして背面の下半分には縦 六行で殺されたわが子への哀悼歌が彫られている。「なでし子を 夜半(よわ)の嵐に た折られて あやめもわかぬ ものとなりけり 橘 惣三郎」 引用資料は以下のように解説する、「この歌の「なでし子」は,花の「なでしこ」と「愛する子」との掛詞.「あやめもわかぬ」は,「はっきりと分 らない」それほどの酷い状態だったということと,宗一の母の名前「あやめ」との掛詞である.最愛の我が子を理不尽にも失った無念さが碑文からにじみ出てい て,前に立つと誰しも胸がつまる墓碑である.」

  ちなみに前述の昭和47年の朝日新聞「ひととき」欄の投稿について、みずから元朝日新聞記者だった田中伸尚氏が調べたところ、東京本社の縮小版には見当た らないので名古屋本社にだけ掲載されたらしいことと、掲載原稿には碑文中の「犬共ニ」の三文字が落ちていて、「記者による故意かケアレスミスか、あるいは デスクが削ったのか今となっては分からない」と「飾らず、偽らず、欺かず  管野須賀子と伊藤野枝」(岩波書店)の中で記している。

  わたしは、そうだ一時間以上はそこに佇んでいたろうか。気持ちのいい青空で、すり鉢上の墓地は広く明るく、ほとんど人気もなく、閑かだった。そして寒かっ た。墓碑の正面に座り込み、背面に座り込み、90年前に彫られた文字を指でなぞり、「たけなす夏草」に突っ伏していた墓碑のかどをてのひらで包み、いくど もいくどもそんなことを繰り返してはまたすわりこんだ。古代人は石にスピリットを託した。石に神も魂も、宿った。この墓碑にはなにが宿っているか。悲痛な 祈りと、鬼の形相のような憤怒と、そして果てしない詠嘆だ。それらがこの墓碑の中で混じり、共鳴し、格闘し、渦を巻いている。わたしは崩れ落ちてしまいそ うになる。わたしたちはみな愛に生きねばならない。なぜなら愛は神そのものであるから。わたしはじぶんが涙のつまった革袋のようなものにでもなって千切れ てしまいそうになる。犬共ニ虐殺サル。そう記さずにはおれなかった父の鬼のような形相にわたしは思わず立ち尽くす。あやめもわかぬものとなりけり。馬糞や 汚泥にまみれた愛しいわが子の見るに耐えない無残な姿を記憶した父のすべての物質を突き抜けるような叫びにわたしはふるえあがる。ふたたび暗黒の世へと滑 り出したこのいかれた平成の世に、だれかこの墓碑の語ることばに耳を傾けるものはいるか。これは昔話ではない。

  形ばかりの軍法会議によって事件の三ヵ月後、首謀者とされる甘粕大尉に懲役10年(後に3年足らずで仮出所)、憲兵隊特高課員の森慶治郎曹長同3年の判決 が下されてそそくさと事件の幕は下ろされた。このとき在郷軍人会などが中心になって進められた甘粕減刑嘆願署名運動に、当時人口7万5千人だった四谷区か ら5万の署名が集まり、東京府下だけで65万人分が集まったとされる。そこにはこれが「軍人による許し難い国家犯罪」だという視点も、自由な思想の弾圧だ という危機感も痛憤もじつにあっけらかんとするくらいに、ない。わたしはそこに、所謂「世間一般」の底なしの怖ろしさを感じる。その顔の見えない一人ひと りが、わたしたちである。

 自由ヶ丘駅から地下鉄に乗ったわたしは疲労困憊だった。名古屋駅からの帰りの近鉄特急のなかではずっと死んだように眠っていた。あるいは「たけなす夏草に埋もれ」て死んだように眠っていたのかも知れない。

 

▼遠隔地に建立された関東大震災の慰霊碑−名古屋市の日泰寺・照遠寺と長野市の善光寺における調査−(PDF)

http://www.n-buturi.co.jp/contact/pamphlet/pdf/geotechnology_13/1_takemura.pdf

▼一年に一度くる日 私の、見知らぬ名古屋 その1「橘宗一(たちばなむねかず)少年の墓所」

https://cdn.ampproject.org/v/zoushigaya.seesaa.net/article/404447887.html?amp=1&amp_js_v=5

▼一年に一度くる日  http://saluton.asablo.jp/blog/2007/09/16/1801366

▼名古屋はもっと日泰寺のこと全国に宣伝してもいい http://utusemibiyori.com/blog-entry-873.html

2016.11.11


 

 

 

 

 

 

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