■背中からの未来
■051. 堀田善衛「文学の立場」(すばるMarch2019)を読む (2019.3.1)
わずか数百キロ先の東の舞台で昭和11年、二・二六事件前夜の歴史が遡行しているのだが辿り着けそうにない。それでわたしはアントン・ウェーベルンの
オーケストラのための六つの小品なぞを聴きながらすばる3月号に掲載された中国の堀田善衛をなんどもめくっている。わずか6頁ほどの文章なのにわたしはそ
こにも辿り着けそうにない。「今日あらゆるものが私には或る精神の死を物語る。新しい或は二番煎じか三番煎じのような言葉や、その言葉のもたらす未だ不明
瞭な観念と、その現実化に多く接すれば接するほど、ここで或る一つの精神が死んでゆくのだということが明らかになるばかりである」と冒頭に作家は記す。そ
れだけでわたしの日常は重たい錆だらけの楔を穿たれたように顫える。作家はまた「我等の精神の中に重く横っている死者を風化し、これをみのり多かるべき精
神の土壌と為し得る残酷な風の吹き来たる日」を熱望する。死者を風化する残酷な風とは、なんだろう? かれはつづけて「人間は生きているものよりも寧ろ死
んだものから成り立っている」という実証主義者コントの言葉をひく。さらにこうも記すのだ。「人はつねに「意味」のある世界に住みたがるものである。戦時
ならば戦時らしい意味のある世界、ともあれ意味のある世界に住み日々の生活を基礎づけてほしいのであるが、文学を業とする者は、一切が意味を失って了う世
界の瀬戸際までもって行ってみてしかも尚その意味が意味として存在し得るかどうかを試さなければならぬ」 「戦時ならば戦時らしい意味のある世界」 そ
う、いまはまさに戦時といえるかも知れない。女たちの陰部に竹やりを屹立させ、刎ねた男たちの首を高々と掲げることが意味となり得る世界だ。「一切が意味
を失って了う世界の瀬戸際」を凝視している。風がふいている。風立ちぬ いざ生きめやも・・・ 詩人ポオル・ヴァレリーがそう歌ったのは海辺の墓地で
あった。そのとき、まさに死者たちは生者を凌駕している、「しかし
大理石でずしりと重たい夜のなかで 樹木の根に住まうぼんやりとした人々は すでにゆっくりしずかに汝に与する者たちとなっている」・・・ 死者を風化
する残酷な風とは、なんだろう?
「死
者たちは隠されて
まさにこの地の中に在る 彼らを再び熱し、彼らの神秘を干すこの地の中に」・・・ 無数のカブトガニの死骸をがつがつと踏みつけてあるくように、わたし
はきっと現在のこの歴史の実時間のなかを寄る辺なくさまよっている。生きてあるように思えるものはみんな死だ。わたしたちは死者の中からもういちど蘇えら
なければならないとわたしはかんがえる。わたしたち自身が縊り、引き裂き、投げ捨てた死者たちのうらめしい、どろどろととけてつぶやきつづけている、おそ
ろしいほどの湿気のあいだからわたしはもういちど生まれてこなければならない。1946年の中国の堀田善衛はわたしにそんなあれこれを考えさせる。わたし
はわたしを峻別するものが欲しい。たしかに風が立つのを感じられるように。 「閉じられ、聖別され、非物質の火に充たされた、 地上の断片 光に供され
た、 この場所は私の意に適う、おびただしい燭光に圧倒され、黄金と石と暗い樹木で構成された場所、 たくさんの大理石がたくさんの影の上で震えている;
忠実な海がそこに眠っている 私の墓標たちの上で!」
2019.3.1
■背中からの未来