■背中からの未来
■045. 奈良・平群のメガソーラー建設現場で足し算の文明を憂う (2021.9.2)
無残に削り取られた600年前の摩崖仏
山の登りはじめはきつい。身体中の毛穴という毛穴から汗がふきだし、息があがる。肉体がひきずっているだけの無用な荷物のように感じられる。生存のために
は必要でない荷物、だ。毛穴からふきだしべたべたと身体中にまとわりつく汗はまるで肉体が貯めていた不快な毒素のようだ。丸太のように思える重い足をひき
ずって、それでも黙って足もとの岩や土くれをひとつづつ踏んづけてゆく。陽に透ける植物の緑だけが目に涼しい。座禅とおなじだな。平地でのあれこれの雑念
がまだ頭の中を経めぐっている。それがいつしか、消える。30分も一時間もそんな登攀を続けていくと、あるときを境に肉体がすっと軽くなる。じぶんが岩や
土くれに近づいたような気がする。鳥の声や草いきれや樹木の呼吸とおなじように、じぶんもそれらの一部になったのだと思える。そうなるためにいろいろなも
のが邪魔だった。わたしにとって山へ登ることはマイナスの行程だ。引き算の所作。不要なものを脱ぎ捨てるために、山へ登る。どうせまた平地へもどれば不要
なものを抱え込むことになるのだから、それは刹那の勝利ともいえる。だからなんどでも登る。ひとはそうして、バランスをとってきたのではないか。山とは人
類がかけらもなかった太古に海底から隆起したり地底のマグマの噴出によってせりあがりあるいは降り積もった大地の記憶だ。その太古の記憶に参与する。平地
では、ひとは足し算ばかりに熱狂する。莫大な広告費用が上乗せされたブランド品、常にバージョンアップを強制される最新鋭のコンピュータ、時速250キロ
よりもさらに高速で人や物を運ぶリニアモーターカーの開発、そのほか自他を差別するためだけのさまざまな品々。ほんとうに必要なものはわずかしかない。豊
かな生存のためには不要なものばかり。往古から修験者たちが人里をはなれ山へ参与したのはそのためだろう。かれらは平地の足し算を捨てて、単身で山にこも
り、瀧に打たれ、ときに木や岩に神や仏を刻んだ。平地の人々はその足跡を拝むことによって足し算と引き算のバランスをわが身に写実した。平群町の山あいで
進行中のメガソーラー開発の現場で目の当たりにした600年前ともいわれる摩崖仏が剥ぎ取られた巨石は、現代の無残な象徴である。足し算ばかりに熱狂する
者たちにとって、山はなんの利益ももたらさない無用の長物にしか見えない。この山や谷をくずして巨大なメガソーラーを設置すればたくさんの利潤が生まれる
じゃないか。かれらにとって数百年もむかしにだれかが岩に刻んだほとけの姿などは何の価値もなさない。山と谷と鳥の声と草いきれと樹木と、ひとびとが獣を
真似てつないだささやかな古道とそこに鎮座する巨石と刻まれたほとけの姿はぜんぶがひとつの宇宙なのだということが、かれらには分からない。足し算の価値
観ではないから。巨石に穿たれた大口径のドリルの孔はそのままわが身をえぐり出す残像だった。ドリルが到達しただろう背骨のあたりがぎりぎりと痛んだ。北
極海で崩落しつつある氷山もこの巨石とおなじような悲鳴をあげて海へ崩れ落ちていくのだろう。このメガソーラー開発の現場で倒された何百という木々の悲鳴
を重ね合わせたらどんな音になるだろう。足し算ばかりに熱中する者たちはじぶんたちを止められない。この平群の山あいのようにこの惑星のあらゆるものを喰
い尽くすだろう。わたしたちはもう、山や海や水や空気を売り買いする世界とはオサラバしようじゃないか。ここにいると、ほんとうにそれがはっきり分かる。こんな世界
が長続きするわけがない。たくさんの豊かな引き算と、ほんのすこしの足し算があればいいんだよ。
2021.9.2
■背中からの未来