■背中からの未来
■030. エルおおさかへ相可文代さんの講演「「ヒロポン」と「特攻」」を聞く
相可様
「「ヒロポン」と「特攻」」を拝読し、昨夜のエルおおさかでの講演会も拝聴させていただきました。戦争の馬鹿らしさについて、戦前戦後とつづくまやかしに
ついて、また天皇制、特攻、教科書問題等々について、ときに仁王の憤怒すら覗き見えるような相可さんの苛立ちに、わたしはやはりニンゲンというものは
Web上の文字ではなく生の声を聴き表情を見体温を感じないと駄目なのだと、それが今日奈良から大阪までこの講演会を聴きに来たじぶんのいちばんの理由
だったと得心しました。講演が夕方からということもあり、日中はひさしぶりの大阪の町を無軌道に徘徊していたのですが、1891(明治24年)の濃尾地震
で倒壊した浪華紡績工場にて死んだ無名の女工たちの供養碑を正蓮寺の境内の片隅に積み上げられた無縁墓に仰ぎ見、また周辺の日本初の鋳綱所(現住友金属)
発祥の地(1899(明治32)年)、鴻池財閥の旧本店建物(1910(明治43)年)、そして鴉宮境内にそびえ立つ明治三十七八年戦役祈念碑などを見な
がら京橋へ移動、造幣局前の大塩の乱を物語る石碑(1837(天保8)年)や大逆事件で縊られた菅野須賀子が洗礼を受けた(1903(明治36)年)天満
教会を横目で見ながら京阪天満橋の駅ビルを対岸に眺める公園のベンチにたどりついて、すでに日も暮れて紅葉した木々が曼荼羅のように色鮮やかにライトアッ
プされていましたが気がつけば夜気もせまり、じぶんがもし宿なしであったらいまこの場所で眠れるだろうかと考えていたらすでにすぐそばの奥まったベンチに
自転車を止めて蚕のように夜具にくるまっている浮浪者の姿を見つけたのでした。そうしてきらびやかな街の灯りを対岸から眺めながら小一時間を過ごしたあと
で会場へ向かいました。前のメールですこしばかり書かせて頂きましたが、わたしが墓地の軍人墓を巡るようになったきっかけは、数年前に家族で行ったグアム
旅行でした。レンタカーを借りて一日、観光客の行かない戦跡を巡り、そこで奈良の部隊(歩兵第38連隊)がこの地で全滅したこと、二万に近い日本兵がリ
ゾート地と化したこの島で死んでいることなどを知りました。また戦時中に日本軍によって斬首された神父の眠る教会や、チャモロの地元住民が虐殺された丘な
ども訪ねましたが、そこには日本人の影すらもありませんでした。日本へ帰ってから近所の寺の墓地でグアムで戦死した兵士の軍人墓をたまたま見つけたことか
ら、週末に自転車で奈良盆地のあちこちの墓地に眠る軍人墓を見て歩くようになりました。それらはまさにエピタフ(epitaph・墓碑銘)、「生者によっ
て死者を語り直す」物語です。戦後十数年を経ておそらく母親の名で建てられた息子3人の合同墓もあれば、生い立ちから語り始める墓もあります。見知らぬ異
国での詳細な死に様(頭部貫通、腹部裂傷)、あるいは死んだ場所を記述する(K村東北500m)墓があれば、君が代を歌い天皇陛下萬歳を叫んで死んでいっ
たと刻まれた墓もありました。敗戦後にシベリアや中国奥地で死んだ日付けの墓もあれば、満蒙開拓団青少年義勇軍の国内の訓練所で死んだ少年の墓もありまし
た。そのひとつひとつが重く圧しかかるそんな死がまさに「水漬く屍/草生す屍」のごとくこの国のあちこちに無数に横たわっている。なぜこれだけたくさんの
若いいのちが不条理に奪われなければならなかったのか。相可さんの憤怒を垣間見ながらわたしがまず思い出したのは上野英信が「天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序
説」で記した次のような言葉です。「彼らの<死>は<天皇>と結びつかぬかぎり、
実体をもちえません。<天皇>もまた、兵士の<死>と結びつかぬかぎり、実体をもちえません。両者がひとつに結びつくことによっ
て、<天皇>と<死>とは、はじめて共に実体を獲得したのです。そうでないかぎり、しょせん、<死>は<いわ
れのない死>にすぎず、<天皇>は<いわれのない神>にすぎません」 デモというものにはじめて参加した2015年8
月、戦争法案反対の国会前デモの翌日にこれも生れてはじめて行った靖国神社の遊竣館でこちらを凝視するあまたの「英霊」たちの眼。あれらを一人びとり
<いわれのない死>に還してやらなければならない、それがわたしがいまもなお各地の軍人墓を巡る旅を続けているもうひとつの理由かも知れませ
ん。靖国の「英霊」たちは深夜の招魂斎庭で名を呼ばれその霊璽簿と共に御羽車(おはぐるま)に乗せられ本殿へすすむ。その幽冥たる世界にわたしたちは死者
を置き去りにして戦後を過ごしてきてしまった。そんな忸怩たる思いがあります。特攻という外道の戦に出発する若者にヒロポン入りの菓子を与える。その菊の
紋章の付いたヒロポン入りの菓子を勤労奉仕の女学生たちが包み箱詰めする。まさに外道にふさわしいそれらの風景を語り続けることが幽冥たる世界に住む「英
霊」たちを不条理な<いわれのない死>へ還すことのまたひとつの方法だとも思われるのです。もうひとつ講演のさなかにわたしが思い出したの
は、しばらく前に見た「緑の牢獄」という台湾人の監督による沖縄県・西表島にあった旧西表炭鉱史に迫るドキュメンタリー作品のことでした。通貨すら握られ
た奴隷のような密閉空間で、台湾から連れて来られた坑夫たちは阿片漬けにされる。奇跡的に島から逃れられても、阿片欲しさにまたもどってくる。そのドキュ
メンタリーで暗示される歴史の暗部は、おなじようなヒロポンの裾野もじつはもっと広範囲だったのではないかという疑いに連なります。「タチソ」のような軍
事機密施設あるいはまた山中の閉鎖された軍部による鉱山開発現場などでの突貫作業などにヒロポンは使われていなかったか。日本人だけでなく中国人や朝鮮
人、台湾人などの徴用された労働者たちが残した証言にそれらの痕跡は語られていなかったか。外道の風景は特攻の兵士のみならず、かれらのような異化された
他者たちにこそより強く立ち上がるものだからです。そしてこの国はそれらすべてを黙殺する。今朝の新聞で作家の五木寛之氏が母親を亡くしたみずからの満州
引揚体験と重ね合わせて、人をおしのけて生きのびた者、ソ連の兵士へ日本人女性を差し出した者たちを念頭に、「だから優しい人は日本に帰れず、帰ってきた
人間はみんな悪人である」と言って「随分叱られた」ことを語っていました(毎日新聞・11月21日朝刊)。舞鶴の引揚げ記念館に決定的に欠けているのはそ
の視点です。戦後のこの国が黙殺してきたのもやはりおなじ視点です。わたしたちは「帰ってきた人間はみんな悪人である」というところから、もういちど始め
なければいけないのではないか。そうした思いを一層つよくさせられた二時間あまりの熱のこもった講演でした。ありがとうございました。ヒロポン入り菓子を
女学生たちが箱詰めしていた学校跡、多くの朝鮮人労働者が過酷な労働を強いられ虐待されていた「タチソ」の地下施設、そして地蔵院裏の共同墓地に眠ってい
るという当時の朝鮮人労働者の墓を近いうちに訪ねて、外道の風景を語りつづけ<いわれのない死>をとりもどす孤独な覚悟について考えてみたい
と思います。
2021.11.21
◆〔週刊 本の発見〕「ヒロポン」と「特攻」ー女学生が包んだ「覚醒剤入りチョコレート」
http://www.labornetjp.org/news/2021/hon210
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