■019. 舞鶴の港に沈んだ浮島丸慰霊碑を訪ねる
日曜の朝。車の運転席にひとり乗り込み、舞鶴の引揚記念館をナビで設定する。USBでつないだ iPod でかけたのは新村ブルースの歌姫、ハン・ヨンエ(Han Young Ae)が2003年に録音した Behind Time だ。1925年から1953年、関東大震災の朝鮮人虐殺から朝鮮戦争に至る朝鮮半島の人びとが「尋常でない辛酸を舐めた時期にテーマを絞って歴史的意味の 濃い大衆歌ばかりを集めた」アルバムは重苦しいが今回の旅にふさわしい。「うしろの実時間」に目隠しをされて走り出すわけだ。数日前に舞鶴の話をしたつれ あいが「いいなあ、行きたいなあ」と言っていたので、今朝は彼女が仕事に出かけるまで言い出せずにいた。今回は慰霊の旅だからひとりでいく。慰霊とは 1945年に舞鶴湾内で沈没して多数の犠牲者(主に朝鮮の労務者たち)を出した浮島丸のことである。1965年に慰霊碑建立を呼びかけた舞鶴市民の声名を ここに引く。
「日本海を平和に海にしよう。海の向こうの国々との貿易を、もっと盛んにしよう。アジアの諸民族との友好を深めよう。 取 り組みをいろいろすすめているこの京都の舞鶴の港に、大変悲しい出来事が、今からちょうど20年前の1945年8月に起こりました。 浮島丸事件がそれな のです。36年間の日本の植民地支配の結果、土地も仕事も一切の民主的な権利も奪い去られて、日本の炭坑等に強制的、半強制的に狩り出され、牛馬のような 生活と労働を強いられていた朝鮮人労働者も、続々と本国へ引き揚げはじめました。 東北、北海道方面の炭坑やドッグで働かされていた朝鮮人労働者とその家 族、あわせて 3,735名もとるものもとりあえず、青森県大湊港から浮島丸(4730トン)に乗船し朝鮮に向けて出港しましたが、その途中舞鶴港に寄港することになり ました。 8月24日午後5時頃、舞鶴港に入って間もなく、浮島丸は大爆発を起こし、瞬時にして幼児、小学生を含む524名が死亡し、多数が重軽傷を負い ました。それだけではなく、敗戦のどさくさにまぎれて ・・・・とは言いながら、遺体は、スクラップにして売るために船体が引き揚げられるまで、その後十 年間海底に放置されていましたし、遺骨は今も日本のどこかにあって、故郷へは帰っていません。また舞鶴港の底深く、今なお幾柱の殉難者の遺骨がうずもれて いるかも確認されていないのです。生前は勿論、死後においてさえ、人間としての待遇をうけていない、これらの殉難者のことを忘れて、日本海を平和の海に、 日朝両民族の友好と親善を ・・・といっても、それは意味のない、白々しいものとなってしまうでしょう。(後略)」(浮島丸殉難者追悼実行委員会「浮島丸 事件の記録」)
浮島丸に乗船した朝鮮人のほとんどは下北半島で働かせられていた労務者とその家族たちだった。公式の記録ではその数 3,700名と言われているが、これを逃すと次の船はないと言われて駆け込みで乗船した者も多く、実際は6,000から7,000名近く乗っていたという 説もある。またその沈没原因には不審な点も多々あり、大湊出港前からこのまま目的地の釜山へ行ったら日本へ戻ってこれないと危ぶむ船員たちの不穏な行動を 伝える証言もあったり して、当初は寄港予定になかった舞鶴で自爆させたという説も根強く残っている。敗戦と共にそれまで牛馬のように酷使されてきた朝鮮人労働者の暴動を恐れた 軍が釜山へ帰すと船に乗せて・・・ という算段である。この浮島丸沈没の真相については過去にNHKが「爆沈」という番組で当時の乗組員たちの証言も交え て検証している(1977(昭和52)年8月放送)。
朝の8時半に出発して高速道路をひたすら走り続け、11時頃に舞鶴湾の東に位置す る舞鶴引揚記念館に着いた。ここに引揚記念館が出来たのは館の北側、いまは工場群が立ち並ぶ海岸沿いの敷地にかつて海軍の平海兵団から転用された舞鶴引揚 援護局があり、 戦乱を経て帰国した人々を(あるいは死して無言の帰国をした人々を)迎えた桟橋があったからだろう。記念館の裏手の小高い丘の上にのぼればその全景が見え る。つらい体験を経てあの日、やっと踏んだ故国の地とその思い出を偲ぶにはまさに絶好の立地というわけだ。ここに立ち寄ったのは舞鶴港やかつての軍都に関 する資料や古い図面でもないかと期待して来たわけで、それらを確認してから先にある浮島丸の殉難碑へ行くつもりだった。それでも折角来たものだから展示は 丁寧に見ていく。入口の「赤紙きたる」から始まり、敗戦によって海外に残された660万人の日本人、ソ連の侵攻と逃避行、シベリヤのラーゲリ(収容所)で の過酷な環境、セメント袋を切ってつくったメモ帳や白樺の皮に書かれた日記や死亡者名簿、そして待望の故国、引き揚げ船、岸壁の母。ひとつひとつが重た い。何よりもわたしのこころをいちばんつらぬいたのは、図書閲覧コーナーで見つけた一冊の写真集の引揚げをめぐる風景だった(「在外邦人引揚の記録 ―こ の祖国への切なる慕情」毎日新聞社.1970)。逃避行のさなかに死んだ母の遺骨を抱きかかえて立つ断髪の少女。引き揚げ船の中で死に、水葬された夫の遺 体が沈んでいった海面をいつまでも見つめて動かない母と子の後ろ姿。舞鶴港に着いた日に息絶えた母の枕もとで泣く幼女。遺骨になって帰ってきた息子を両手 をあげて慟哭し迎える年老いた母。一枚一枚のモノクロの写真がわたしを凍り付かせる。引揚げの当時の記録フィルムがリピートで流されている薄暗い部屋の片 隅でわたしはそれらを息をつめながらめくり続けた。そして思った。この“慟哭”ということばすらもするりと滑り落ちてしまう耐え難い記憶を感情をこの国は いったいいまどこに有しているのだろう? この忘れがたい一人ひとりをわたしたちはすっかり忘却してしまったのではないか? そしてなお思った。ここには なぜこんなことが起きたのか、なぜこんな目に会わねばならなかったのか、なにが起きていたのか、隠されていたのか、責任を問い、過去を裁こうという意志が 何ひとつとして見当たらない。戦争だから仕方なかったんだ。大変な目に会ったけれど、みんな頑張ったんだ。悲しいことつらいこともたくさんあった戦争が やっと終わって、必死の思いで生きのびて、この舞鶴の桟橋でたくさんの心やさしき人々が温かく迎えてくれた。そうやって何も問わず、過去の実時間を見つめ ず振り返らず、悲しみや怒りをカタルシスのように浄化して日常へ投げ返す場所、それが引揚記念館。無謀な国策であった満州開拓団や、国策にもろ手をあげて 協力した人々や国防婦人会・青年団・在郷軍人会、ソ連兵の慰みに自国の女性を差し出して帰国してからもそれを嘲笑した男たち、同じように樺太や日本に残さ れたアジアの人びととその後の生きざま、そうしたことには何ひとつとして触れない。触れることなどできないだろう。触れればこのカタルシスが自壊してしま うからだ。だから申し訳ない。極寒のラーゲリで酸っぱく硬い黒パンを齧りながら白樺の皮を剥がして故郷を思いながら歌を書き綴った記録が世界遺産に認定さ れましたああそうですかそれはよかったですねごくろうされましたとどこか背中がうすら寒い。わたしとおなじくらいだろう年代の父親が学生くらいの息子に 「むかしはこんなことがあったんだよ」と教えている。息子はあまり興味がなさそうに形だけうなずいている。なぜ、目と鼻の先の湾内で起きた悲惨な浮島丸の ことはこの記念館にひとことも記述がないのだろう? 引揚げの年表にもない、「思い出の引き揚げ船」の一覧にもない。戦争のために多くの人々が大変な思い をしてこの舞鶴の港に引き揚げてきた。戦争のために無理やり狩り出されて日本の炭坑や危険な工事現場で働かされてきた朝鮮人を乗せた船が舞鶴で沈んでもう 少しで故郷へ帰れるはずだった人たちが何百人も海の藻屑となった、それは記憶しないのか? せめて小さなコーナーでも設けて然るべきなんじゃないか? 「岸壁の母」や「抑留者救済の父」や引揚者の情報を家族へハガキで知らせ続けた男やシベリヤからついてきた犬の黒などの美談の連続にどうにも白けてしまう わたしは非国民なんだろうか。まあ非国民でもいいさ。わたしはわたしの内なる国家を滅ぼしたい。こんなひどい目にあって奴隷のままでいつづける事には耐え られない。大変な苦労をして帰国しました、ふざけるな、だ。わたしだったら「天皇はおれのまえで土下座しろ!」と奥崎謙三のように咆哮するよ。愛するつれ あいと娘が引き揚げ船のなかで死んで日本海のどこかの海域で遺体が沈められてしまったとしたらおれは一生涯、国家というものを呪って生き続けるよ、そうだ ろ? でもこの国の人びとはそうしないんだ。愛する息子が戦場で無残に殺されて石ころの入った白木の箱だけで還ってきても靖国神社に英霊として祀られてあ りがたいことですと涙を噛み締めて絶望を噛み締めて耐えてしまうんだよ。だからきっとまたおんなじことが繰り返されるだろうおれは覚悟している。
記念館のなかのレストランの「海軍カレー」や「元祖肉じゃが定食」などのランチ・メニューにはいまいち誘われなかったから、浮島丸殉難者に供える花を買い にいくのもあって、町の方へもどって地元のスーパーを探した。わたしは旅先で地元のスーパーを見るのが好きだ。フクヤというスーパーで小さな花束と、港町 だけあってネタが良さそうな海鮮丼、そして地元手づくりの平天などを買って戻った。ふたたび引揚記念館までもどり、現在の平工場団地の敷地の南端(実際の 場所から 20メートル南側)に1994(平成6)年に復元された「引揚桟橋」を見に行った。橋のたもとに「招魂の碑」というのがあり、「死没者の鎮魂のため、各収 容所跡、墓地、自決地付近の小石を蒐集、納石し」たと解説にある。たくさんのむごたらしい死が、その死を抱えた生者がこの地を行き交ったのだ。桟橋の先ま で行き、かつての舞鶴引揚援護局の敷地を眺める。敗戦後の10月7 日、朝鮮半島の釜山から陸軍軍人2,100人を乗せた引揚第一船雲仙丸はここではなく舞鶴の西港へ入港した。翌1946(昭和21)年3月に舞鶴引揚援護 局がこの平海兵団跡の庁舎を利用して設置された。それより半年以上前になる1945(昭和20)年8月25日、浮島丸が沈没した頃はここはまだ海軍の海兵 団の敷地だった。救助されて何とか生き永らえた人々はこの海兵団まで歩かされて収容された。死者の遺体については当時の証言がいくつか錯綜していて、旧舞 鶴海兵団(引揚記念館より南の、現在の海上自衛隊・舞鶴教育隊)敷地に仮埋葬した(昭和28年の第二復員局残務処理部資料)、また教育隊のボートダビット 付近と大浦中学校の海寄りの畑に仮埋葬した(池田淳郎「舞鶴海軍始末記E浮島丸事件の真相(昭和53年舞鶴よみうり)」)、あるいは「毎日のように浮き上 がってくる遺体は軍の指示で(沈没した浮島丸の)水面に出ているマストに結わえておけ」「そして多くなると(現教育隊の)北側の空き地で荼毘に付していた が、やがてそれも出来なくなって平海兵団のところに埋葬した」(当時救助活動にあたった地元佐波賀住民)という証言などがある(いずれも前掲「浮島丸事件 の記録」収録)。一方「報告・浮島丸事件訴訟」(日本国に朝鮮と朝鮮人に対する公式陳謝と賠償を求める裁判をすすめる会)の訴状では「事件当時、海岸に打 ち上げられた遺体は、舞鶴海兵団敷地に仮埋葬され、船とともに沈んだ遺体はそのまま放置された」とある。舞鶴と平の旧海兵団はどちらもいまとなっては中に 入れないし、おそらく当時の痕跡など残ってもいないだろうが、わたしは両海兵団敷地、そして「大浦中学校の海寄りの畑」の三か所とも実際に埋葬されたのだ ろうと思う。それらのすべてかは今となっては確認しようもないが、仮埋葬された遺体は後に掘り出されて火葬にされ、後にスクラップとして引き揚げられた船 体から見つかった多数の遺骨と共に舞鶴の東本願寺別院で1955年まで保管されていたがその後、広島の呉地方援護局、東京の厚生省援護局とたらいまわしに され、1971年から東京目黒の祐天寺で保管されていることが関係者の調査で判明した。1970年代に身元が判明した遺骨は韓国に返還されたが、身元不明 の遺骨はそのまま残され、2010年に身元不明のまま残りの遺骨も韓国へ返還されて無縁仏のまま忠清南道天安市の「国立無縁墓地・望郷の丘」に安置され た。のちに1980年代になって「発見」された犠牲者の名簿(大湊海軍施設部による「浮島丸死没者名簿」のガリ版刷り写し。日本政府は一貫して名簿は存在 しないと言っている)は「浮島丸事件の記録」巻末に収録されているが、その多くは創氏改名された日本名が多く、元の朝鮮名は書かれていない。以前にピース おおさかで見た戦後樺太に残された朝鮮人がつてを頼って見つかった唯一の親せきと電話で会話した際に「日本名は分からない、朝鮮名を言って」と言われてい たが、創氏改名された日本名だけでは朝鮮側の遺族の手掛かりにもならない。
海の見える場所に停めた車の中でスーパーで買った昼食を食べ てから、いよいよ浮島丸殉難の碑を目指す。引揚者でにぎわった平の入り江を巻くようにして、ひなびた海岸線をミヨ崎灯台から佐波賀の集落へすすむ。記念館 から車で十数分ほ ど、上佐波賀、下佐波賀の集落を過ぎて夏は賑わうのだろう牡蠣小屋を過ぎたあたりの海の前の小さな棚地にその公園はあった。スピードを出していたら気づか ずに通り過ぎてしまうかも知れない。かつてはほとんど知られていなかった浮島丸の事件を後世につたえるために舞鶴市の学校の元教員たちが活動を起こして町 の人びとや市にも協力を募り、趣旨に賛同してくれた人が土地も提供してもらって出来た公園だ。その中央に建つ殉難の碑の像は市内の学校の美術の教師たちが ボランティアでつくりあげたものだ。日本人みずからが、日本の負の歴史のなかで犠牲になった朝鮮の人びとの記憶を後の世に残していくために市民の協力を得 てつくった。その経緯は「爆沈・浮島丸 歴史の風化とたたかう」(浮島丸殉難者を追悼する会・品田茂 高文研)に詳しいが、わたしはじつにうらやましいこ とだと思う。奈良では天理・柳本飛行場の建設に伴った朝鮮人慰安婦を物語る説明版が行政により撤去されたが、ここ舞鶴では殉難の碑を抱いた公園はいまもき れいに保たれている。敷地内に建てられた説明版には植民地支配と強制連行にも触れられている。これが引揚記念館の展示の片隅にでもあったら、わたしはあれ らの展示をもう少しすなおに見れただろうと思う。けれどたいてい日本人以外のこと、日本が他国の人々にしてきた負の歴史については、なかったことにされて いるか、撤去されるか、あるいはどこかの目立たぬ繁みに朝鮮やチャモロや台湾などの遺族の人びとによってひっそりと祀られ、悼まれている。だからわたしは それを露わにしてやりたい。この国の偽善を、嘘といつわりを、誤魔化しを。そうでなければ自国の犠牲者たちを悼むことすらもできないだろう。嘘といつわり の「英霊」たちをとりもどすために、この国の非道によって犠牲になった朝鮮やチャモロの人びとを悼み、記憶を露わにしたい。殉難の碑の前に、わたしはスー パーで買ってきた花束を供えて、それから手元の iPod でハン・ヨンエが歌う「哀愁のセレナーデ(애수의 소야곡)」を流した。これは1938(昭和13)年に流行った悲恋のトロット(韓国演歌)だから、あるいは浮島丸の犠牲者も耳にしたことがあったかも知れ ない。故郷の調べをかれらに聴いてもらいたかった。
それからわたしは道路をまたいでガードレールの向こう側に海を正面にして腰を下ろし た。足元には波止の石がかたちばかり並んでいるが、海はたゆとうばかりにしずかで穏やかだ。手近な場所で釣り人が三々五々に竿を垂らして世間話をしている から余計にここで、 いまじぶんが目の前にしている波一つない海で何百人もの人々が死んでいったことがなかなか想像できない。先に紹介した当日救助活動にあたった地元佐波賀の 住民の証言をふたたび引こう。「浮島丸に近づくと、径50メートルくらいにわたって海面がふくれ上がり、坊主のようになっています。すでに息絶えた人の体 が爆風でうち上げられたのか、「砲座」のあたりに折重なっていました。一度目は波が洗う浮島丸の甲板から自分の船へ移して磯へ。二度目は泳いでいる人を引 き上げて陸へ、と何度も繰り返しました。でも厚さ1センチにもわたって海面をおおう重油のために、手がすべってなかなか引き上げられません。なかには見つ からない子どもを求めて、いくらすすめても船に乗ろうとしない人もいました」 「磯へ揚げられた人々は、軍の指示で平海兵団(現合板の所)へ収容されるこ とになり、人々は恐怖と不安に疲れ切った体で、海岸伝いに平まで歩いたのです。その列がきれる間もなくズーッと海岸道に続いていました。たいていが着のみ 着のままの素足で、村の年寄り達は冬の間に作った草履をあげていました」 「予期せぬ惨禍に、必死に叫ぶ「アイゴー!」の声がいまだに耳から消えません し、また祖国帰還の夢をもちながら不遇の事故で亡くなられた人々のくやしさが、ほとんどの人が両方のこぶしを固くにぎって水面に突き出していた遺体の有様 からもうかがわれ、これまたまぶたの裏から離れません」 もうひとつ、「浮島丸 釜山港へ向かわず」(金賛汀・講談社)にある元乗組員のこんな証言も引 く。「 艦内も大混乱で、カッターを降ろす者、走り回る者、叫んでいる者、朝鮮人たちが必死で甲板まで上がろうとしている。アイゴー、アイゴーと叫んでい る女性や泣き叫ぶ子供。もう混乱の極みにありました。艦から降ろされていたカッターを吊っているロープが切れ、カッターが海の中に転覆するという事故も目 撃しました。その時、私は地獄を見ました……。爆発で甲板にあった船倉の蓋が吹っ飛んだんでしょう。その近くにいた私は、ふと船倉の底をのぞき込んだので す。なんと水がごうごうと渦を巻いているんです。その渦に朝鮮人の女・子供が巻き込まれ、必死になって手を上げて「アイゴー!」と叫んでいるんです。そし て水の中にのまれていきました。地獄でしたね……」 他にも「お宮さんに固まっていたが、重油がベットリ、生きた顔をしていなかった」 「何日も死体が 流れ着いた」等の証言も残されている。
それらの当時の証言を思い出しながら平方面へ向かう海沿いの道をしばらくあるいてみたりした。下 佐波賀の集落には年季の入って傾きかけた納屋があって、ひょっとしたらこの建物は当時のままかも知れないと思ってみたりした。新しそうなトンネルの横に位 置した天満神社は台 座があたらしく、おそらくトンネルの開通に合わせて移設されたのではないかと思われた。「重油がベットリ、生きた顔をしていなかった」かれらが固まってい たというのは、あるいはこの神社の境内だったろうか。若しくは上佐波賀の宮谷神社か、平の八幡神社の境内だったかも知れない。このあたりからかつての平海 兵団まで、徒歩であれば優に一時間以上はかかるだろう。まさに「恐怖と不安に疲れ切った」無数のまっくろな顔が切れる間もなく海岸沿いの道に続いていたの だ。すでに日はとっぷりと暮れていただろう。「死没者名簿」によれば犠牲者の多くは20代から30代の働き盛りの若者がいちばん多い。家族と共に働いてい た者もいたから妻や幼い子どもたちもその名簿には載っている。かれらの多くは遺骨になってさえも故郷の肉親たちの元へもどれなかった。もう何度か書いてき たことだけれど、作家の堀田善衛はかつて、過去と現在は見えることができる前方にあり、未来は見ることのできない背後にあるというホメロスの「オディッセ イ」の訳注を見つけて、「これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未来へ入って行く、ということになるだろう」(「未来からの挨拶」)と書い た。未来は背後(過ぎ方)にあるが、わたしたちはその背後すら持ち得ていない。とにかくわたしはその日の午後、いつまでもいつまでもそのとろりと微睡んだ ような海を眺めていた。ときどき眠たくなって後ろのガードレールの根元に頭をぶつけそうになったりしながら。いちどだけ、それまでそよとも波ひとつ立たな かった海が急にざばんざばんと波打ち、荒れ出した。海面が手を叩いて、まるで深海から無数の存在がおいでおいでとこちらに手招きをしているかのようだっ た。嫌な感じはしなかった。それはほんの数分だけのことで、また海はなにもなかったのようにとろりと微睡み続けたのだけれど、あのときわたしは、ああ、 行ってもいいかも知れない、過去も未来も見えず、寛容さを失っていくばかりのこの世界に残っているよりもかれらといっしょに深海の竜宮で「夜叉ヶ池」の魔 物たちのようになって暮らすのも悪くはないかもしれない、とふと思った。
◆ハン・ヨンエ Behind Time ・1925-1955 https://blog.goo.ne.jp/lunaluni/e/101d1126340d8eedd949860eae0b9d6c
◆舞鶴引揚記念館 https://m-hikiage-museum.jp/
◆映画「エイジアン・ブルー 浮島丸サコン」全編 https://www.youtube.com/watch?v=s8tE8-qdWsY
◆在外邦人引揚の記録―この祖国への切なる慕情 https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001218733-00
◆哀愁のセレナーデ http://kazenomatataki.blog133.fc2.com/blog-entry-216.html
◆演劇『荷(チム)』で初めて知った歴史事実 http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120324.html
◆浮島丸の史実を次世代に https://www.sankei.com/region/news/150627/rgn1506270046-n1.html
◆浮島丸殉難の碑 http://hasiru.net/~maekawa/mine/maizuru.html
2019.10.21