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■117. 大阪城公園 反戦デモ連動型ライブ「わたしを巡らせる演劇 × ライブの非戦大芸術祭 ToMoNi」 (2022.6.23)
梅雨の合間の青空がひろがった大阪城公園へ、反戦デモ連動型ライブ「わたしを巡らせる演劇 × ライブの非戦大芸術祭
ToMoNi」を見てきた。せっかく行くなら最前列でと思い、開場の16時前に野外音楽堂へ着いたが、入場がはじまっても人数はほんの数人のぱらぱら。直
射日光のあたる座席にすわり、片手で団扇をあおぎながら、開催まで持ってきた布施祐仁『自衛隊海外派遣 隠された「戦地」の現実』(集英社新書)を読ん
だ。出演者は失礼ながらほとんど知らない。「ロシアによるウクライナ侵攻。それに呼応する日本各地の若者文化、公道に出始める。そんな日本アンダーグラウ
ンドMAPを埋めるかのように、関西でも反戦デモ連動型ライブ・演劇などのごっちゃ煮企画が緊急開催される」 開会の挨拶のあと、のっけからつげ義春の
『ゲンセンカン主人』女将のような(失礼)小倉笑さんによる「ことばを失くした痴者」による不思議なダンス・パフォーマンス。痴れものとは世界の鏡であっ
たか。ダンス・パフォーマンスがつづきながら、ステージに20名弱の舞台役者たちが横ならびにすわり、「坂手洋二リーディング演出ウクライナ反戦小説『地
の塩』第一弾」がはじまる。イベントは水の流れのように切れ目がない。舞台は第一次世界大戦の頃のガリツィア――現在のウクライナ南西部にあたる地域だ
が、キエフ大公国にはじまりポーランド、リトアニア、オーストリア、ハンガリーと周辺国に翻弄されつづけ、戦争がはじまるとロシアとヨーロッパの戦場と
なった。原作者のユゼフ・ヴィトリン(1896-1976)自身はユダヤ人で、字も満足に読めない主人公のピョートル・ニェヴャドムスキはポーランド人の
父とフツル人(ウクライナの山岳民族)の母を持ち、ポーランド語とウクライナ語を話し、「父はカトリックのポーランド人だったが、自分はギリシア・カト
リックの信者だからウクライナ人だと」思っている。個を線引きする「国家」とはなにか。日本では出版されていない未完の『地の塩』が短いセンテンスごと、
横ならびの役者たちによってリレーされる。こうした朗読の形をはじめて見たが、肉声が代わることによってことばのすきまに見えないリズムが生じて、文章が
豊穣になるようにも思われる。複数の語り手が「国家」の戦いに翻弄されていく主人公ピョートル・ニェヴャドムスキをまさに蹂躙していく。物語は7章までが
語られ、8章から9章、そして唐突に終わる10章まで、続きの舞台があるようだ。つづいて内田裕也バンドのギタリストだったという三原康可さんによるニー
ル・ヤング並みのエレキギター演奏に合わせて、「岸和田だんじり祭り他で白い鳩を飛ばし続ける鳩飼い、西野清和」によって数十羽の白い鳩がFREE
SKYを祈念して大阪の空へはなたれ、そのまま怒涛の「渋さ知らズオーケストラ」の演奏へ。はじめて体験した渋さ知らズオーケストラはのっけからハートを
鷲づかみにされた。単純だが魔力に満ちた管楽器のユニゾン、チンドンバンド的な女性キャバレー・ダンサー、地下冥府世界からの暗黒舞踏家たち。中央で指揮
をするリーダーの不破大輔氏はまるでつぶれかけた下町工場の経営者のようだ。どれも一筋縄ではいかない。「国家」が束ねることに抗う異形の集団。わたしは
確実にこの渋さ知らズに中毒した。渋さ知らズの最後の演奏をバックに、マイクを持って登場した駒込武・京大教授によるアジテーションもよかった。稼げる大
学、稼げる幼稚園、稼げる公園、あらゆるものがカネという価値観で換算され、それを生み出さない存在を不要のモノとして片づけようとする「国家」に対して
抗うこと。最後の京都大学生による誠実なメッセージもよかった。「「ウクライナがかわいそう」「ロシアが悪い」「ロシア語の表示はなくそう」「ロシア人と
は関わりたくない」「ウクライナを助けよう」……そこに、「ひと」の姿を見失ってはいないでしょうか」 「平和を願うときも、戦争に反対するときも、主
語は「自分」でありたい。いま、ロシアで平和を願う人の口が封じられているように、ウクライナで逃げたいと思う兵士がそれを口にできないように、戦争が起
きれば、「自分」を主語にして語ることはできなくなります。それを防ぐためには、「自分」を主語にした言葉が必要だと思います」 この国の政治家のなか
で、メディアにかかわる者たちのなかで、あるいは司法のなかで、あらゆる組織のなかで、彼女のいう「主語」を持った者ははたしてどれだけいるのだろうか。
最終的に会場に集まった人たちは百数十人はいただろうか。そのうちの数十人と出演者たちがチンドンバンドと変じた渋さ知らズと、ときどき横柄な口調の大阪
府警警察官たちに誘導されてその後、大阪城公園から谷町筋、途中から小雨も降り出した天満、北浜をぬけて中之島公園まで小一時間、デモ行進をした。ひさし
ぶりだったけれど、デモはいいよ。「国家」に束ねられることに抗う異形のモノになれる。一瞥もしないで通りすぎる帰宅途中のサラリーマン、ニヤニヤしなが
ら店先で腕組みして眺めている店主、手をふってくれる小さな女の子とあわてて彼女を抱き上げて立ち去る若い母親、拍手をしてくれる浮浪者のような老人、自
転車からおりてじっと見つめてくるアジアの青年、死んだ魚のような目で通過する車のなかのドライバー。この世界はほんとうにたくさんの人たちから成り立っ
ているけど、戦争のなかで「国家」は、それら一人びとりの「個」から名前を剥ぎ取る。「個」はうばわれ、その「死」さえも担保にとられる。百年前の素朴な鉄道員ピョートル・ニェヴャドムスキのようにね。おり
しも今日は、参院選の公示日だった。
2022.6.23
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