110. 奈良・県立図書館で「下北山村史」を読む

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■110. 奈良・県立図書館で「下北山村史」を読む (2021.11.3)



宮城県大郷町石原の山中に残る六部殺しの伝承をもつ六面体地蔵尊

  
 
  昭和43年の大和郡山の古い町並みが残っている貴重なゼンリン住宅地図をコピーしに行った県立図書館で下北山村の村史も見つけて、これ幸いと筏関連の資料 をいろいろ拾い出していたら「人の動き・物の動き」なる一章があって、これがなかなかに面白い。前半は「道」に関すること。いまはさびれてしまった峠や街 道、生活道の由来が詳しく描かれ、地元を知る人にとっては懐かしいだろう。その道を多くの人や物が往来した。後半はその道をとおって外部からやってきたさ まざまな人々について記した「村を訪れる人々」。反物や小間物、薬、魚、昆布、漆器などを売りあるく行商人(アキナイド)。それらの者たちがやがて村に住 みついて始めた店屋(ミセ)や宿屋、料理屋。そして大工、鍛冶屋、桶屋、籠屋、畳屋、ワタウチ、紺屋(コウヤ)、鋳掛(イカケ)屋、ブリキ屋、コウモリ (蝙蝠傘)ナオシ、時計修理屋などの職人たちが定期的にやってきて「村の不便を補ってくれた」。わたしがとくに心寄せるのはつづいて「遊行人たち」と題さ れた多種多様な人々たちの痕跡だ。すこし詳しく紹介したい。  ▲キジヤ(木地屋)・・「村内各地の奥山にかなりの数の木地屋がいて、お椀の木地や杓子を 作っていたことが判っているのに、村人の記憶には不思議なくらい残っていない」 「旧五郷村の桃崎の先の寺谷には60年ほど前まで木地屋がいて、椀や盆な どを刳って漆をかけ、親爺や女房のダイアシ(片足がうんと太ったのでこう呼んだ)や息子が小口あたりまで売りに来たという」  ▲ヘンロ(遍路)・・「西 国三十三か所参りのお遍路さんも昔はよく通って、泊めればのどに骨が刺さった時のまじないや歯痛止のまじない、メチリ(目に塵が入ること)のまじないなど を教えてくれる人もいた」  ▲ロクブ(六部)・・「廻国六十六部の略で、諸国の霊地をめぐる行者のことである。男女を問わず笈を負い、前に箱を吊り、大 きなまんじゅう笠をかむってよくやって来た。笠のふちに何か書いた紙片をずらりと下げ、鉦をちんちん叩いてかどに立ち、金を出せば笠につけた紙(お札)を 一枚とって呉れた。中にはなかなかの学者もいた」  ▲アワシマ(淡島)サン・・「お厨子を後向けにセタロウてやって来て、かどに立って何か唱えて直ぐに 背を向けた。頼んだ人の頭痛や悩み事など紙に書いて、負うたお厨子の中やめぐりにべたべた貼り下げていた」  ▲イナリサン・ミコサゲ・・「稲荷様の御祈 祷や口寄せをする人たちで、これもちょいちょいやって来た。下北山に稲荷様の祠が多いのもこの人たちの活動によるのかも知れない」  ▲シシマイ(獅子舞 い)・・「いわゆる大神楽で、時々やって来ては村を賑わせた。お祓いをしてもらった」  ▲デコマワシ・・「エベッサマのデコ(デク=木偶)をきれいに 飾って、わらで作った小さなわらじをはかせて「エベス三郎舞い込んだ。長命する、繁盛する」などと節面白く舞わせて軒並みにカドヅケして廻った。山村の新 春には無くてはならぬ風物であった」  ▲エンコマワシ(猿廻し)・・「エンコは猿の忌み名である。これも主に正月時分に風呂敷包みを背負って、その上に エンコをちょんとのせて、家に前に来るとエンコがちょいと座敷へ跳んで、立って歩いて一寸踊ったりお辞儀をしたりして、米なり銭なり貰って行った。中には 大きな犬の背にエンコを乗せて来る者もいた」  ▲サエモン(祭文)・・「行者(山伏)さんのような恰好で、裾をしぼったカルサンをはき、錫杖をつき、法 螺貝を持っていた。中には親娘連れらしく二人とも同じみなりで、若い娘が「デデレン デデレン」と囃子を入れて、クドキ(口説)のような文句を唱えてカド ヅケをし、夜は民家に泊まって人を集めてやったりもした」  ▲チョンガレブシ・・「サエモンとよく似た姿で錫杖を持ってやってきた。ほとんどがカドヅケ ばかりだった。これも祭文と同系統で浪花節の前身である」  ▲マンザイ(万歳)・・正月頃派手な格好をして二人で賑やかに騒いで米銭を貰っていった。 「三河万歳」といった」  ▲ノゾキ・・「小さな穴から覗いて次々と変わる画面を楽しむ、いわゆる「のぞきからくり」で、紙芝居の前身といえよう。「八百 屋お七」や「金色夜叉」のような物語や「地獄極楽」といった仏教の教えなど、さまざまの芸題をもって、池峰の祭りにやって来た」  ▲カメツリ・・「どこ の者とも判らないが、昔は毎年幾組もやって来た。ヒトリボシ(独り者)もいたが、たいがいは女房子連れだった。カメツリの語源は判らないが、しまいにはウ ナギツリともいった。春になって一寸ぬくもって来ると「もうカメツリや来た」などと言って見ていた。テンマク(天幕)を川原に張って付近を転々し、主にウ ナギを目当てに、ガブやギンタ(ハヤ)を餌にナゲヅリし、また網でアメ(アメノウオ)やウグイを捕って、捕った魚は女房や売子がダンナシや宿屋などへ売り に来た。よう魚を捕らん家へばかり来たから結構捌けた。魚を米や物品と取り換えることもあれば、お金を貰って行くこともあった。子供が生まれると川原に大 きい穴を掘ってその中で焚火をし、そのあとへ水を入れて沸かしたり、岩のクボケ(窪み)に湯をとったりしてユアミさせた。余計捕れる所では半月も一月も、 長い人は三か月もいて、大川や小川を渡り歩いたが、冬はウナギが捕れないので、カンゴ(籠)を作って売りに来た」  ▲コジキ・・「コジキは年中やって来 た。二・三人連れ立って、あるいは一家揃って来た者もいた。天幕は持たず、川原の岩陰や大きな木の根株の下などにヒソンで着のみ着のままで幾晩も明かす者 もいたが、よく泊めてやったり食べさせてやったりした。おかしげなお椀を持って、オカイ(お粥)を呉れとか味噌を呉れとかいってかどに立った。米などやれ ば川原で炊いて食べた。子供の頃ロウニンボウズという人がよく来たが、これもコジキの親方だった。「こっちも辛いが向こうも辛いんで、ワガ(自分)のをヘ シ(減らし)てでも恵んでやった」と大里の福本老人は語っていた」  ▲クロクワ(黒鍬師)・・「屋敷や道路を・田などの石垣を築く専門の職人をこう呼 び、新田をホル(開墾する)時やトンネルを掘る時などにも頼んで来た。中には松葉垣内の先の小堤橋の袂に住み着いて、ヤマト言葉の美しい女房と一緒に七色 から帰る池原の筏の衆など相手にしばらく茶店をやった人もある」  奈良の都心部からでも車で三時間近く、車やトンネルなどなかったかつては徒歩で何日もか かっただろう平家落武者の里ともいわれたような山深い秘境の村でも、これだけ多くのさまざまな人々が四季を通じて往来し村人たちと交流していたことに驚 く。かつて子どもたちで賑わった駄菓子屋ひとつさえ洒落たショッピングモール内の明るいニセモノとして定着した現代にあって、十把ひとからげにできないこ れらホンモノの存在が写し出す多種多様な陰影の深さはどうだろう。「こっちも辛いが向こうも辛いんで」と言いながら外部からのまれびとを受け入れる村人た ち。もちろん、抜き差しならぬときもあっただろう。下北山村には「六部の墓」や「木地師の墓」、七人の侍が埋まっている「七人塚」、「落人墓」などが散在 していると伝わる。昔話では泊めてやった六部の財産目当てにこれを殺して埋めたなどの伝承が伝わる地域もある。それらを踏まえた上でなお、わたしはこの山 深い里の光景を豊かなものだと思い、抜き差しならぬひとの交わりもまた豊かであったと思うのだ。かつて20代の頃、道を見失って実家にこもり毎日ひと気の ない北関東の里山を徘徊し夕暮れに川原で焚火の暗い炎を見詰めながら、叢の奥から前述したカメツリ(いわゆる山窩の類だろう)の少女が現れてじぶんを平地 とは異なる山の民の世界へ誘(いざな)ってくれないかと夢想したものだった。その気持ちはいまも変わらない。この下北山村史が伝えるほんの50年前100年前の風景 は、わたしにとってまるでデジャヴュのようなどこか懐かしい風景だ。うしなわれた風景の痕跡をたどるように名も残さず消えて行ったかれらの影を訪ねてみたい。そこではわたしの魂は自然に呼吸ができる。
2021.11.3

 

 

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