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■108. 和歌山・新宮 市民劇団ワカイミソラ 「ドクトルとえい」 (2021.10.26)
チェホフの短編「学生」の主人公は夕闇に包まれたロシアの田舎で焚き火を囲んでいる母と娘の二人の女にペテロが三度イエスを知らないといいきったときの話
を聞かせている。「ちょうどこんなふうな寒い晩に、使徒ペテロも火にあたっていたんだろうね」と語り始めた学生の話が終わると女の頬にとめどなく大粒の涙
が伝って落ちた。
彼は振り返ってみた。ワシリーナ(母)があんなふうに泣き出し、娘がどぎまぎしたところを見ると、たったいま自分が話して聞かせた、1900年むかしに
あったことが、現代の―――この二人の女に、そしてたぶんこの荒涼とした村に、彼自身に、すべての人に、なんらかのかかわりがあるのは明らかだった。老婆
が泣き出したのは、彼の話しぶりが感動的だったからではなくて、ペテロが彼女に身近なものだったからだろう。彼女がペテロの心に起きたことに身も心も引か
れたからだろう。
すると喜びが急に胸に込み上げてきたので、彼は息をつくためにしばらく立ち止まったくらいだった。過去は、と彼は考えた。次から次へと流れ出る事件のまぎ
れもない連鎖によって現在と結ばれている、と。そして彼には、自分はたった今その鎖の両端を見たのだ。一方の端に触れたら他の端が揺らいだのだ、という気
がした。
2019年12月に新宮で上演された「ドクトルとえい」の舞台を頂いたディスクで見た。新宮高校演
劇部OBたちによる市民劇団ワカイミソラが「太平洋食堂」の嶽本あゆ美氏に原案脚本を依頼したものだ。これも「太平洋食堂」が蒔いた種のいくつかなのだろ
う。ドクトルは大石誠之助で、えいはその妻。誠之助は44歳で国家によって縊られ、えいはその後新宮をはなれ東京でクリスチャンとして69歳まで生きた。
「ドクトルとえい」はその夫婦の愉し気な日常を、嶽本氏が新宮の図書館で見つけた大石家の女中だった老婆の聞き取り資料などから描いた。百年前に生きてい
た人びとが、たんなる文字や記録としてでなく肉付けされてこうして新宮の人々によって演じられる。「医者のことをドクトルと言うんや! 患者の毒をとるか
らドクトルとも言うんや! 何も悪いことはしてないんや、悪いことをするような人間やないんや! お金のない人から診療費や薬代をとらなんだんや! 立派
な人なんや! 情歌を読んだが、優しい人なんや! でも、あの事件の後、新宮の人は掌返して残された家族に石をぶつけたりして、とんでもない事をして、残
された家族は辛い思いをしたんや! よう覚えとけよ、立派な人間なんや」 誠之助を演じた川口氏は子どもの頃、父親が晩酌の席でなんどもくりかえした言葉
を伝えている。「ドクトルとえい」はそんな新宮の人々の鬱勃たる思いの結実である。人の思いは百年でも千年でも人によってつたわる。歴史ということを考え
るとき、わたしはこの頃いつも、前述のチェホフの小説のことを思い出す。「過去は、次から次へと流れ出る事件のまぎれもない連鎖によって現在と結ばれてい
る」 寒い晩に焚き火にあたっていた女が1900年前のペテロを再体験してなみだをながす。それをキリスト教では「回心」(conversion)とい
う。en emoi
である(ギリシャ語で「わたしの内に」を意味する。「もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわたしの内に生きている(ガラテヤ2・20)」)。
一方の端に触れたら、他方の端がゆらぐ。ゆらぐのは一方の端のわたしである。ゆらぐためにもう一方の端の過去に触れる。「ドクトルとえい」を見たわたし
は、そのゆらぎをたしかに感じたよ。
2021.10.26
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