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■103. 大阪・九条 シネ・ヌーヴォ キム・ミレ監督「狼をさがして」 (2021.4.24)
韓国人のキム・ミレ監督が東アジア反日武装前線を撮ったドキュメンタリー作品「狼をさがして」を大阪・九条のシネ・ヌーヴォで見る。「日本人であること
の加害者性」。いまではそのカケラすら見出せないこの国で、しかし百年の遡行が日常と化したわたしにはこの映画は不可欠であった。百席も満たない客席は予想以
上に埋まっていた。やはりわたしより一回り以上、年長の世代が多い。わたしからひとつ置いていちばんうしろ端の席に苦労して着座した杖をついた男は、一
時間ほど前に地下鉄九条駅付近でわたしが1939(昭和14)年に建てられた「八紘一宇」の国旗掲揚塔を探していたときによろよろととおりすぎていった男
だ。その男とわたしの間に上映開始間際に飛び込んだ白髪の小男は上映中、耳元で「ほー」「そうか」「けっ」「あー これは」やたら独語が多くて五月蠅かっ
たが許してやった。主に事件の経緯を淡々とたどる前半は単調ですこしばかり眠気にさらわれかけた。いやふたつの世界のあちらとこちらをさまようていたか。
かれらの軌跡を追った松下竜一の「狼煙を見よ」を読んだとき、もうひとりのじぶんがそこにいるような気がした。それにしてもなぜ韓国人の監督なのか。もう
ひとつ見たいと思っている沖縄の島の炭坑での強制徴用を描いた「緑の牢獄」も台湾人の監督による作品だ。この国の歴史をこの国の者がとりあげない対峙しな
い。池田浩士という京大名誉教授が云った「この国では司法の公権力やそれによる死者も含めてすべての暴力は国家権力が持っている。権力側がすべて持ってい
て、わたしたちには何も持たない。そういう状況にあって、わたしたちが持ち得る暴力など、かれらの有する暴力に比べたらどれだけちっぽけでささやかなもの
か。暴力は圧倒的にこちら側にない。まずはその再認識から始めなくてはいけない」はいちばん印象的だった。「大地の牙」に参加し、後にダッカ事件によって
海外の日本赤軍に合流した浴田由紀子は出所後、「テロリスト」として故郷にもどれなかったという。大逆事件の明治でなく2007年の話だ。絞首刑にされた
「国賊」の大石誠之助はどんな暴力的武器を持っていたか。フライパンか? 「さそり」のメンバーだった桐島聡はいまも「極左暴力集団 指名手配」のポス
ターが全国に貼られている。しかしこの国の国家権力が直接的にも間接的にも殺めてきた「殺人」の方が、じつは桐島聡の犯した罪よりも数百倍も重いのではない
か。辺野古デモのおばあを羽交い絞めにしたり、財務局職員の赤木さんを自殺に追い込み済ましているやつらの方がいっそ許しがたい「暴力集団」なのではない
か。しかしこの国の家畜は見事に飼い馴らされてしまった。わたしはひそかに東アジア反日武装前線(のこころざし)を継ぎたいと願っている。中心もセクトも持たない自発的散
発的遊撃的組織もわたしには近しい。かつて五木寛之がかれの作品のなかで主人公に「暴力は持たざる者の最後の武器じゃないか」と語らせたそのことばを、わ
たしはいまも旨の内によく研いだナイフのように隠し持っている。狼は絶滅してしまったのだろうか。百年前に十代で死なねばならなかった紡績工場の女工か
ら、虐殺された朝鮮人や被差別民から、炭坑を脱出して極寒の穴の中で震えていた中国人労働者から、自由を求めて縊られた者から、この国の真実の暴力を語
れ。狼はなんどでも立ち上がるだろう積み上げられた無数の死の深みからなんどでも。
2021.4.24
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