102. 京都・クリエイト洛 榎並和春個展「いつものように 京都日和」

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■102. 京都・クリエイト洛 榎並和春個展「いつものように 京都日和」 (2021.4.4)

 




  
 
 たとえば、百年の人が生きた痕跡さえたどるのがむずかしい。それでは百年前、二百年前のゴッホやセザンヌのような画家たちの作品はどのように残されて現 在に至ったのか。花曇りの京都御所の堺町御門を見下ろすギャラリーの二階でそんな話をしたのは画家の大作15点がこのたび、地元山梨の大学に寄贈されたこ とを受けてであった。画家みずからが選んだそれらの作品は校内の教室やホール、図書館などに飾られた。それと併せて、間もなく古希を迎えようとする画家は 倉庫にのこされた他の多くの作品をまた裁断した。ゴッホは生前、一枚の絵も売れなかったというのは、どうも正しくはないらしい。弟のテオと専属契約を交わ していたゴッホは描いたすべての作品を弟へ渡す代わりに月決めの報酬を受け取っていた。やり手の画商であったテオは兄の作品の価値を確信していて、作品を 貯め、その価値が高まる頃合いを見て高く売るつもりでいた。実際にゴッホの死後、テオは兄の作品をあつめた個展を開いて成功させるが、その半年後に病没し てしまった。戦死した画学生たちの「慰霊」美術館である無言館の作品たちはどうであろう。戦死という異常死によってはからずもかれらの作品は後世に伝えら れている。かたやおのれの来歴をこの地上に何ものこさず摩耗する無縁墓にかろうじてその名を刻んだ紡績女工もあれば、石くれひとつも置かれずこの国の大地 に眠っている朝鮮人坑夫もある。百年前は知らぬものがいなかった流行作家がいまではほとんど忘れ去られ、逆に夭逝の詩人が遺したわずか数編の詩がいまも人 々の心を照射しつづける例もある。演劇や舞踏などの舞台上でのパフォーマンスは本来一回性のものであり記録には残らないが、わたしたちはいにしえの世で 舞っただろう白拍子や傀儡たちの業(わざ)を夢想することはできる。イエスのことばはどうだろう? かれのことばは新約聖書に記録されたが、記録されな かったことばが千年後二千年後にだれ かの心の内にふりそそぐこともあるいはあるのではないか。ついに書かれなかった詩が、うしなわれた絵が音楽が、人のこころにふと到来することもあるのかも 知れない。

  はるさんの絵を購入するのは二度目だ。いちどめはまだ娘が赤ん坊でわが家がいちばんお金がなかった頃で、画家に頼んでたしか十回くらいの分割払いにしても らった。もちろん複製でないほんものの絵を買うなどというのははじめての経験だった。毎月の振り込みが終了したときにはほっとした、とつれあいはいまでも 言う。それくらい余裕がなかったけれど、不思議なことに、人はパンのみに生きるわけではない。ナチスによる強制収容所やシベリアの日本人捕虜収容所のよう な絶望的な場においてこそ詩や歌や絵は真に渇望される。つまり、豊かになると、人は見えなくなる。はじめの絵は生きる糧であった。二度目の絵はそれとはす こしばかりちがう。雑多な書籍に埋めつくされたわたしの書斎に画家の絵をひとつ、置きたいと思った。本のなかにあってそこだけ空気がかようような場所だ。 「ピエロとユニコーン」というドローイングの一点を決めていた。娘にそれを買うつもりだと耳打ちすると、彼女はわたしはこっちの方がいいと思うと言う。そ れは woman という作品で腕で円を描くような長身の裸婦が林檎を落としているかひっぱり上げているかのような絵だった。三時間ほど滞在したギャラリーで娘はその作品を 見ていた時間がいちばん長かったと言った。するとそばで父娘の会話を聞いていた画廊主の女性がわたしもこれが大好きなのよと娘に言った。この裸婦のライン はじつに魅力的で、絵じたいも見ているとさまざまなものがあふれ出してくる。そういえばみずからの詩句に添えたブレイクの色鮮やかなデッサンにも似てい る。二人の女性は意気投合して笑い合っている。わたしはじぶんが抱いている従来のはるさんの作品のイメージからある意味自由になれなくて「ピエロとユニ コーン」という具象に誘われたが、娘はもっと自由な感覚でこの絵を選んで気に入ったのだと思った。それで購入額の6割をわたしが出して、4割を娘が出し、 絵は娘の部屋に飾ることになった。いちどめにはるさんの絵をわたしが選んだときは赤ん坊だった彼女が、成人になってわが家で二度目の画家の作品を目の肥え た画廊主のように選んだ。絵はそんなふうに空間や時間や人のあいだをいきかう。

 夕方に帰宅してさっそく娘の部屋の壁に飾られた作品は、 京都のギャラリーの自然光のもとで見ていたより部屋の暖色系の照明でまたすこしちがって見える。明日の朝はまたちがって見えるだろう。いつも眺めていたい から、と娘はじぶんの机の真横のそう高くない場所に設置した。いろんなものが浮かんでくるからこの作品が好きなのだと彼女は言う。立派な美術館に収蔵され る作品もあれば、こうしてささやかな場所で呼吸しつづける作品もある。画家やわたしがこの世を逝ったあとも、絵は娘のそばにありつづけて、見るたびに彼女 のときどきの思いを映して生きつづけるのだろう。

2021.4.4

 

 

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