■体感する
■096. 大阪・九条 シネ・ヌーヴォ 貞末麻哉子監督「普通に死ぬ」 (2020.11.28)
「生物学の知見によれば、ダウン症候群を発現する人間の染色体の中で、二十一番染色体に形態と数量の異常が見られる。正確に言い直せば、二人の人間の二
十一番染色体の間に、形質の差異と数量の差異がある」 ジル・ドゥルーズはそう言ってから、次のように記す。「繰り返すが、顔面の差異を認知すること
と、染色体の差異を知覚することは、まったく等価である。したがって、染色体の差異を理由として胚細胞を流すことと、顔面の差異を理由にして人間を殺すこ
とは、まったく等価である。もちろん人びとは、理屈を並べて両者の道徳的価値の違いを言い立てるだろう。そのとき何が見失われるか。染色体の差異を発生さ
せる場、顔面の差異を発生させる場が見失われる。差異を発生させて二つの個体を分化する原理、二つの個体を個体化する原理、要するに、生きる力が見失われ
るのだ。」(小泉義之『ドゥルーズの哲学・講談社現代新書』より) 差異。人と人を切り離すもの。いつからかわたしはそれらが発生する場にこころを寄
せるようになった。被差別、カースト、朝鮮人、癩(らい)病、障害者、そして共同体から排除され、周縁を醜く漂い、時には惨殺され、卑しめられ、放逐され
続けてきた古くは乞食者(ホカイビト)や賤民・河原者・芸能者・六部・流浪の聖や一処不在のものたち。わたしにとってかれらの存在は「にんげん」を映し出
す鏡であった。突出したものが、かくれた顔を暴き出す。かれらはつねにあやうい場所にいる。それをいとも容易に切断したのが、くだんの「津久井やまゆり園
事件」の植松聖であった。「自分が何者であるかもわからず、意思疎通がとれないような障害者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけであるので殺害しても
よい」 この社会はある喫水線を越えてしまったのだ、と思った。足元をすくわれ宙ぶらりんになったわたしはその日、朝まで車で冥府のような熊野の山中の
夜道をひたすら走りつづけた。「顔面の差異を理由にして」46人ものいのちを否定した植松聖に抗い、かれが切断した<生きる力>を力強くとり
戻そうとする試みが貞末監督のドキュメンタリー作品「普通に死ぬ 〜いのちの自立〜」である。「津久井やまゆり園事件」に、「普通に死ぬ」は屹立する。冒
頭から正直、わたしは馴染めなかった。もとより「障害は個性」なぞということばにも反吐が出る。そんなことは簡単に言いたくない。何よりもなぜみんな、良
い人ばかりなのか。24時間かれらに付き添い、よだれを拭い、口元へ食事をはこび、排泄を手伝い、重たい裸の身体をかかえあげる。親を亡くしたかれらをわ
が家に迎え入れる。わたしにはとてもできそうにない。それらが氷解したのが、後半に登場した西宮の青葉園元園長の清水氏のことばであった。学生時代に出
会った一人の重度障害者の強烈な存在感に圧倒され、相手の「こころのふるえ」がこちらの「こころのふるえ」であることに気づいた、といったようなことをか
れは語った。こころふるえることの豊かさ。それは何物にも代えがたい豊かさ。ああ、このひとはそれを体験したのだ。一見豊かな生活を投げ捨てて癩(らい)
病者たちの世話をし始めたフランチェスコもまさにそうであったろう。こころふるえることの豊かさ。「普通に死ぬ 〜いのちの自立〜」はこころふるえること
の豊かさについての作品だ。こころふるえる豊かな人たちを、おなじくこころふるえる豊かな貞末監督が撮った。フランチェスコが神さまの美酒と歌った豊かさ
である。ある重度の障害者が親元をはなれて自立生活をはじめ、やがて親が年老いて死期を迎えるとき、かれは病院へおもむき看取りをする。親はすべてやり
切ったという満足した顔で子の手を取りながらこの世をはなれる。そしてかれは親の葬式を喪主として行う。「それが、ふつうのことじゃないですか」と清水氏は問う
のだ。障害を持った子どもの行く末を最後まで案じながら親が死んでいかねばならない社会はどれほど貧しいのだろう。かれらが<生きる力>を取
り戻すことは畢竟、わたしたち一人びとりを含む社会が<生きる力>を取り戻すことである。すべてわたしたち一人びとりにはねかえってくる。い
のちの自立。大阪・九条のシネ・ヌーヴォでの終映後、わたしは天王寺までながれていって満州開拓民の慰霊碑や強制徴用された朝鮮人の無縁仏や軍人墓などを
見たがそれらはなべて「予期しない不幸な死」ばかりである。こころふるえる豊かさを見失った時代には「予期しない不幸な死」ばかりが増える。わたしたち自
身のことであり、わたしたちのいま生きている時代のことだ。植松聖の事件に抗えるのはわたしたち一人びとりの「こころのふるえ」しかない。「こころのふるえ」は、見えるか?
2020.11.28
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