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■094. 藤野裕子「民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代」を読む (2020.10.19)
「民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代」(中公新書)の冒頭で藤野裕子は、近代国家とは「ある一定の領域のなかで、レジティマシー
(legitimacy:正統性)を有する物理的な暴力行為の独占を要求する(そして、それを実行する)人間の共同体」であるというマックス・ウェーバー
の定義を紹介する。続けて藤野は次のように問う。「暴力の正当性を独占するのが近代国家の特徴であるなら、日本で近代国家が樹立される以前はどうだったの
だろうか」 明治維新を経て廃藩置県・徴兵令・学制・賤民廃止令・地租改正といった新政府による政策が次々と断行された頃に各地で「新政反対一揆」が起
こっていた明治の始まりは、武士による暴力の独占が終焉し、まさに明治という近代国家が「暴力の正当性を独占する」ために諸々の制度を整えつつあるときで
あった。軍隊組織は1871(明治4)年、廃藩置県に先立って薩摩・長州・土佐の献兵約6千人によって親兵が設置され、1873(明治6)年の徴兵制度に
より全国を六軍管に区分して鎮台と営所が配置された。一方、警察制度については1871年に東京で邏卒3千人の取締組が創設され、「翌年には司法省保寮に
よる全国警察の統合が図られ、その後、1873年に設置された内務省が全国警察を管理し、府県地方公吏が警察運営にあたる制度が整えられていった」 そ
のため「新政反対一揆」の鎮圧においては旧藩の士族の力に頼らざるを得なかったり、一揆側も強権的に鎮圧を試みる邏卒を襲撃し、官吏を殺害するなどした。
藤野は記す。「警察権力に対して民衆がかくも容易に暴力を向けたことは、国家の暴力の正当性が確立していなかった証しといえる」 「正当的な暴力の集権化
が未確立であるがゆえに、新政反対一揆の暴力は激烈なものになった。それと同時に、一揆が鎮圧される経験をとおして、国家の暴力が正当・正統なものとし
て、民衆に認知されるようになったのである」 つまり、国家の暴力とはけっして自明のものではない。それは暴力的に奪い得た「正当性」に過ぎない。わた
しは夢想するのだ。辺野古基地反対ですわりこむ地元の老婆たちが機動隊や自衛隊とおなじ暴力、武器を所有していたら国家権力は老婆たちをあのようにやすや
すと持ち上げ引き倒し排除できるだろうか。きな臭い、もと来た時代の匂いが立ち込めている。思えばあの「戦争法案」の頃からこれは憲法違反だと多くの学者
や有識者や野党の政治家たちが異を唱えたが何も変わらない。法がないがしろにされるのであれば拠って立つものはなにか。明治のはじまりの空白期といまは何が違うのか。いまや憲法違反は日常に埋もれかけている。女性をレイプした政権寄りのジャーナリストが許さ
れ、文書改竄を指示され自殺した国家職員の真実が闇に葬り去られる。わたしたちと奴らの違いはどこにあるのか? それは究極のところ、「レジティマシー
(legitimacy:正統性)を有する物理的な暴力行為の独占」だ。すべて(Dignity:尊厳)を奪われたわたちしたちは<暴力>を
みずからの手にとりもどすべきじゃないか。草取りの鎌や書類整理のカッターでやつらの喉首を掻き切って生暖かい返り血をこの身に浴びるような<暴力
>を。自明でない者たちの手から正当性のない<暴力 >をとりもどせ。
2020.10.19
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