■体感する
■086. 和歌山・新宮 御燈まつりに参加する (2020.2.6)
真の闇のなかで、荒ぶる自然のなかで、人がいちばん待ちのぞむものは火だ、始原の到来。火によっていのちが興り、火によっていのちが滅する。熊野の火まつ
りとは、みずから死装束をまとい、火によっておのれを滅し、火によって黄泉還(よみがえ)る再生の古代儀礼である。山上にそそり立つ太古の磐座の膝元にま
るで胎児のようにうずくまり寒さに耐えている。足指がちぎれるように痛い。満月にわずかに足りない月が仄かな光を地上に照射している。透徹としてすがすが
しい光。眼下の街の灯りが奇怪な生物の巣穴のようにも見える。しかしここは冥く冷たい、そして森厳だ。まるで死者の国のようだ。大きな石棺のなかに置き去
りにされたように感じる。めくらであり、つんぼであり、おしである。火が恋しい。火はまだか。到来が待たれる。すると、磐座の膝元で突如として火柱があが
る。奈辺の空間が朱に染まる。おおお、おおお、おおおおおおお。どこからともなくだれともなく地中から腹の底から声が響きわたり沸き起こる。われわれは太
古の原始生命である獣である。畜生であり、魚であり、河原に屹立しらあらあと唱和する一本のまったき白骨である。火はまるで王の行進のように鳥居をくぐ
り、やがて巨大な松明にうつされてまた駆けもどってくる。カンナ屑があつめられ、そこへうつされた炎がまた四方八方へところがり、先々で男たちがわれさき
と松明を重ねる。熱が頬を嬲る。煙が目鼻を刺す。熱がもどり、色がよみがえる。無機の鉱物から細胞を抱えた死すべき存在へ。だが気をつけろ。明滅した灰が
最後のモールス信号のように宙を舞っている。松明が秘匿した種火をぽろりと落とし足元をすくう。下半身を炎につつまれた少年が無言のまま岩場にくずれる。
相撲取りのような男がその体躯を圧しつけて炎を圧殺しようともがく。無数の掲げられた松明の火が蛇身のようにうねっている。おれたちはいま出口をもとめて
いる! この熱と煙から解き放たれる刻を熱望している囚人のようにあらたに飛翔する夜の蛾のように。「熊野とは、農民のいない国である」と谷川雁は看破し
た。「稲作が意味を持ちえない社会に響きわたる石の音は、たちまちのうちに私たちの目と耳を不具にする」 鳥居下の門が開け放たれた。めくらであり、つん
ぼであり、おしであるおれたちは松明を掲げ、ただ黙々と暗がりの乱杭歯のような石段をころがりおちていく。火によって滅し火によって黄泉還ったわが身はあ
の土車に乗って引かれる小栗のような餓鬼阿弥であった。見えるけれど見えないめくら、聴こえるけれど聴こえないつんぼにされることの至福。畜生から、魚か
ら、一本のさみしい白骨からこの世にもどった餓鬼阿弥があああ、あああああと言葉にならぬうめきを発しながら神倉の石段を果てしなくころげおちていく。は
じまりの母音。
2020.2.11
*
かねてからの念願がかなって先日、新宮の御燈まつりに参加してきた。足袋に草鞋、白装束に身を包み、カンナ屑をライオンのたてがみのように垂らした松明を
かかげ、新宮の町をねり歩きながら「たのむぜー」とすれ違う上がり子同士で松明を叩きあう。古代の磐座でもある神倉山のゴトビキ岩の膝下で寒さに耐え、火
の到来を待ち望み、煙に燻され、解放されて暗い石段を駆け下りる体験も格別のものだったが、白装束を着て山に登れば誰だろうが隔てなくまつりの一員になっ
て町の人びとが見守ってくれる、あの一体感がいまも忘れられない。
その新宮の町で百年前に国家権力のでっちあげによって命を奪われ、存
在を踏みにじられた者たちがいた。この嶽本あゆ美さんの手になる戯曲集には、そのうちの二人の人物が登場する。一人は洋行帰りの医師であった大石誠之助。
もう一人は浄土真宗の末寺の住職であった高木顕明。大石は幸徳秋水らと共に絞首刑に処され、高木は本願寺によって僧籍を剥奪されて秋田の独房でみずから縊
れた。片や紀州の資産家の家に生まれ、片や浜松の菓子職人の息子だった両者は来歴こそ違えど、二人とも貧者に寄り添い、遊郭設置に反対し、日露戦争で昂揚
する社会のなかで反戦を唱え、海外の知識なども積極的に取り入れる開明的な人々であった。それが「国家」により縊られた理由であった。では、「国家」とは
そもそも何をまもるものなのか。
新宮の南谷墓地にある大石の墓は昭和の戦後になってようやく建立された。高木家の墓(竿石)は1996
年に浜松にて発見され、のちに新宮の南谷墓地で顕彰碑となった。共に遺族は事件後に新宮の町を離れ、とくに寺を放逐された高木の妻子は辛酸をなめた。九つ
で芸者に売られた養女の加代子が晩年に天理教信者として弱者の「お助け」に生きる道を見つける過程が本書の「彼の僧の娘―高代覚書―」に描かれている。一
方、平和主義者(パシフィスト)にかけて大石が明治37年、新宮市内に開設した洋食レストラン(The pacific refreshment
room)が戦争景気に沸く町内で荒波に揉まれ座礁してゆく様を描いたのが「太平洋食堂」である。その終盤で大石は次のように語る。
「この明治42年が此の世の終わりでない限り、この先も失敗、敗北が繰り返される。だが負けて、負け続けて、いつかは正義が来る。勝てなくても前に進まなくては! ただ、声を上げる、その瞬間、瞬間にだけは、我々は刹那の勝利を手に入れる、それだけは誇れるはずや。」
新宮の御燈まつりは一説によれば、死に装束をまとって火によって滅し、ふたたび蘇る再生の儀式であるともいう。凍てつく冬に山上へのぼり、炎と煙でいぶさ
れ、その火をかかげて地上へおりてくる。そんなシンプルなまつりを古来からくり返し、共有している町は、火と共に人々もまた更新されていくのだろうと思
う。男たちは松明を叩きあい、ときに喧嘩をして血だらけになり、女たちはそんな阿呆のような男が暗がりの石段を駆け下りてくるのをきらきらと輝いた顔で出
迎える。大石誠之助や高木顕明が生きた新宮はそんな町だ。そこには見かけとは別の溶鉱炉のような底流が脈々とあり、それが「国家」というものとぶつかり弾
けたのが大石や高木たちの大逆事件だったかも知れない。この町は火まつりのたびに更新される。この戯曲集もまたそれらと同期している。
(遅ればせながら嶽本さんの戯曲集「太平洋食堂」のレビューを書いた)
2020.2.13
■体感する