084. 映画「PAN 〜ネバーランド、夢のはじまり〜」

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■084. 映画「PAN 〜ネバーランド、夢のはじまり〜」 (2019.12.30)

 




 

  数日前、夕食を済ませてから娘のリクエストで映画を見た。「パン」はやがてピーターパンになる孤児院の少年の物語(ファンタジー)。いまでは彼女は父親の すすめる映画はほとんど見ない。内容が重い作品にはこころが耐えられない、と言う。畢竟、彼女の見たい映画にはつれあいがつきあうことが多くなり、たまに わたしがいっしょに見ると言うと娘はとてもよろこぶ。2階のテレビの部屋で、こたつの上にポップコーンとそれぞれの飲み物。悪役の黒ひげにヒュー・ジャッ クマン、若きフック船長や、女戦士のタイガー・リリー、道化役のサム。もちろん幼い頃から原作も読んでいるから登場人物が現れるたびに狂喜する。孤児院か らさらわれてきた少年ピーターが飛翔するすべを学んで仲間のために成長していく。ポップコーンをつまみながら隣の娘を見ると、すでに画面に夢 中になっている彼女の顔は上気して目は輝いている。それから二三日して休日、リビングで娘と遅い朝食を共にしているときに「ああ、大人になりたくないな あ」と彼女はつぶやいた。「このままファンタジーの世界にずっといたい。大人になると、そういうこころをみんな失っていくんだよ。わたしはそうはなりたく ない」  大人になってもそうじゃない人はいるし、そういう場所をじぶんでつくりあげていくんだよ。かろうじてわたしの口から出たそんな有体のことばも、 思いつめたような彼女の前ではまるで安物のおとぎ話のように失速して墜落する。娘が学校へ行けなくなった中学一年生の秋から、もう5年以上が経つ。すでに 選挙権もあるし、車の免許もとれるし、最近はどこから情報を得るのか来年の成人式に向けて艶やかな振袖の広告が頻繁にポストに舞い込む。けれど彼女はまだ 通信制高校の高校生のままだ。かつての友だちはみんなキャンバス生活をエンジョイしているけれど、娘は毎日犬と猫といっしょに自室で暮らしている。通信制 高校もすでに行けなくなって3年が経つ。彼女が外の世界へ出るのは、週一回の県の教育機関によるカウンセリングと「居場所づくり」への参加。ときどき歯医 者と美容院。そして家族やわたしの母や妹たちと行く外食や買い物、カラオケ、映画館、その他あれこれ。生理痛がひどいので月の1/3は臥せっている。カ テーテルの導尿によって軽い膀胱炎になることもある。排便の薬の調整が難しく、トイレが心配で外出できないときもある。人混みが怖い。ときどき怖い夢を見 てうなされたり眠れなくなる。電車に乗るのは嫌いだから移動はいつも車。杖をついてみじかい距離ならひとりで歩けるけれど、ショッピングや展覧会などは車 椅子を車に乗せていく。疲れやすい。一日にふたつ以上の用事はこなせない、こころがいっぱいになるから。午前中がんばったら、午後は犬猫たちと自室にとじ こもる。コンサートなどの予約はできない。当日気分的に行けなくなるかも知れないし、もし行けなかったらたくさんの人に迷惑をかけると考えて余計に行けなくなってしまう。じぶんは無価値で、だれの役にも立てない、ダメな人間なんだと確信している。

  くだんの相模原の障害者施設殺傷事件には慄然とした。こころがあらぬ方向へふわふわと浮遊し出してたまらなくなって夜中に車で紀伊半島の山中を狂ったよう に走りまわった。その日、朝までいにしえの山の地形をわが身になぞることで何とか正気を保とうとした。この国の何かが(そしてあらゆるものが)溶解しつつ あった。江戸時代の古めかしい写本に描かれた鵺(ぬえ)のような実体のない瘴気が人びとの核膜孔から侵入しつつあった。「社会の役に立ちたかった」 作家 の雨宮処凛は「インターネットでランダムに流れてくる悪意」を自己学習したAI(人工知能)が植松被告かも知れない、と書いた。一方で「自衛のためやむを 得ず」父親である元農水省事務次官に殺された引きこもりの長男は、じつは「障害者は生きている価値がない」と無抵抗な19人を刺殺したこの植村被告の見事 な裏返しではないかと思ったとき、腐海の瘴気にさらされたようなこの国のリアルな姿がくっきりと立ち上がってくるような気がした。息子をみずからの価値観 でしばりつけ最後に手に負えなくなるとみずからその存在を抹殺した父親に世間の同情が集まる一方で、最後まで父の姿を仰ぎ見て悲鳴をあげていた殺された長 男のいのちは誰も惜しまない。小学校まではいつも笑いが絶えず、重たい装具を付けながらもみなとおなじ運動会の長距離走を歯を食いしばって走り通した娘の その後の苦闘は確実にこれらのものと密接にリンクしている、と思う。障碍者施設の建設に地元住民が反対の声をあげ、障害をもった児童が保育所などの施設か らはじき出され、教育現場からはじかれる。それらはすべて、ふつうの人びとのふつうの日常のおだやかな顔の裏でしずかに成されるのだ。障害者だけでない。 在日朝鮮人、被差別部落、ハンセン病者、出稼ぎの外国人、ホームレス、そしてフクシマの避難生活者。炭坑のカナリアのように瘴気はこの国の弱者から襲いか かりいのちを削ぐ。いちばんやわらかでちいさくゆたかなものたちがまっさきにたおれていく。

 .「ああ、大人になりたくないなあ」と娘が嘆息したその日の夜。夕食の席で子ども食堂の話が出た。わたしが最近、職場近くで見つけた福祉センターの経営するランチの店が子ども食 堂もしているが、母子家庭で夜の仕事をしているような母親は学校や地域からの案内など見ないので、ほんとうに必要なこどもたちが食べに来ないという、そん な話だ。するとつれあいが、郡山にも子ども食堂をやっているところがあるよ、と言う。スマホでホームページを探し、あれこれと見ていたら「ボランティア募 集」の項を見つけた。子ども食堂の手伝いやイベントの同行などの他、子ども食堂に来る小学生の学習援助、本の読み聞かせなどもある。そう言うと、「それな らわたしにもできるかも知れない。やってみようかなあ」と娘が言い出した。つれあいもわたしと同様に驚いたはずだ。つれあいの職場によく来る市議会議員が その子ども食堂の活動に詳しいようなので、こんどきたらつれあいが「さりげなく」訊いてみることになった。ボランティアに娘が参加できるかどうかは分から ない。うまくいくかも知れないし、行けなくなるかも知れないが、どちらでもいい。この5年間、わたしとつれあいが試行錯誤はあったにしろ、二人でいちばん こころを砕いたのは「娘をまもること」だった。世界がどれだけ恐怖に満ちて、つめたく、あらゆるいのちをおしつぶそうとしても、家のなかはぜったいに安全 なのだ、と。武装解除してねむれる場所なのだ、と。それだけを心がけてきた。学校なんか行けなくてもいい。友だちがいなくてもいい。ひととおなじでなくて も構わない。いつか、彼女は殻をやぶって飛び立つだろうと信じている。なぜならひとは結局、ひとをもとめるものだし、だれかの役に立つことによってじぶん というものを確かめていく生き物だから。そういう欲求をいつまでも封印しておくことはむずかしい。王蟲を愛したナウシカ自身はすでに清浄な空気のなかでは 生きられない身体になっていた。わたしはこころの闇と格闘する娘にナウシカの姿を重ねてみる。瘴気に侵されながら抗いつづける。AI(人工知能)では見つけられない山中の杣道を彼女とあるいていく。A Happy New Ear(幸福なあたらしい耳)を澄ましながら。

2019.12.30

 

 

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