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■076. 京都・クリエイト洛 榎並和春個展「永遠のゆくえ」 (2019.3.31)
レディとはるさんの京都の個展を見に行った。高村薫の「レディ・ジョーカー」ではレディは企業恐喝で大金をせしめた犯人グループのトラック運転手・布川
の知恵遅れの聖なる娘のことだが、京都駅で待ち合わせていっしょに地下鉄に乗り込んだ今日のレディは和歌山を代表する淑女である。けれどもわたしは心の中
で「おれたちはレディ・ジョーカーなんだ」とうそぶいていた。「おれたちはこれから一世一代の勝負をするんだ。このクソのような人生に終止符をうつため
に」。木蓮の花びらが遠めに見える御所に向かってひらかれた明るい画廊にはすでに、やはり画家のTさんご夫婦が来られていた。はじめてお会いするTさんは
わたしの横のレディを見て「奥さまですか?」と訊ねた。思わず「ぼくの嫁さんはもっときれいです」と言ってしまって、わたしとレディの関係はそこで破綻し
たのだった。「レディ・ジョーカー」は解散した。はるさんの画を見つづけて、もう何年が経つのだろう。あの頃はまだ小さかった娘がいまは免許も取れる年齢
になって、ひさしぶりにはるさんの画を見たい、と言う。彼女に言わせれば「以前はぎゅっと詰まっていた画が、いまは軽やかにあかるくなって、いまの方が好
き」と言うのだ。たしかに、画家の絵筆はかろやかになったのだ。以前は地層のようなざらざらとした土色と、古墳の石棺内部のような朱が印象的であったの
が、青や白があふれ、登場する人物たちがそれぞれ動き出すような気配さえするのだ。かつて画家は「遊び」について書いていたが、古代のあそびべ(遊部)の
役割はそもそも、魂(たま)をふって活性化させたり、殯(もがり)の際にその魂(たま)をしずめることだった。山川草木、画家のことばでいえば「永遠のか
けら」がおなじ地平でかろやかにふるえている。姿は違えど、おなじ波長でふるえているのだった。そしてわたしは相変わらず、「吟遊詩人」や「シンボル・ツ
リー」などの深い地層から沁み出した「ぎゅっと詰まっている画」が好きなのだった。画はそれを見る人のこころを映し出す、とかつて画家は言った。おなじ画
を見ながら、人はそれぞれちがうものを見つけ出す。それはもともとじぶんのなかにあって気がつかないでいたもの。はるさんの個展会場を辞してから、わたし
とレディは三条通りまでぶらぶらとあるいていって、高野山で自害させられた豊臣秀次一族の墓を見に行った。処刑された39人の幼児を含む妻妾たちの骸(む
くろ)を投げ入れた穴の上に秀次の首を収めた石櫃が三条河原の中洲に建てられ、橋を行きかう人々に晒された。かつて石櫃が立っていたその場所に瑞泉寺は建
てられた。しばらくそんな場所にたたずんでから、わたしたちはまた四条通りまでぶらぶらとあるいていって、路地裏に見つけたヒッピーの隠れ家のような喫茶
店の二階のソファーに沈んで二人でそれぞれの100年の物語を語り合ったのだった。生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦。前の晩、わたしは
仏教の苦聖諦について記した書をひらいていた。「人生を正しく見よ。この人生には永遠につづく、清らかな、真実の幸せのないことを正しく知れ。そして清
浄、永遠、真実の幸せを求める心を起こして、それを仏陀に尋ね求めよ」 あそびがはじまった。わたしの眼は遡行する。おりていかなければいけないとおも
う。
2019.3.31
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