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■074. 神戸市塩屋 井波陽子+熊澤洋子 アルバム「邂逅」リリース記念ライブ (2019.2.7)
このごろ死について意識するようになった。じぶんの父親が思いがけぬ事故とはいえ死んだ歳におのれもなったのだ。死は浪の上にたわむれる光のきらめきの
ようなものだろうか。あるいは葉のかたちをそのままたもった枯葉が敷きつめられた地面のそちこちにとどまる風のなごりのようなものだろうか。思えば塩屋の
町のあちこちからひとり海を見ていたのだった。降り立ったJRの駅のホームから。源平合戦のつわものたちを悼む苔むした五輪塔がひっそりとねむる丘の裏山
の山道から。猫とかくれんぼうをした高台の塩屋若宮神社の境内から。昼めし代わりに駅前で買ったコロッケをほおばった肌寒い漁港から。そして旧グッゲンハ
イム邸の二階のサンルームのようなだれもいないベランダから。ベランダのまんなかあたりに置いてあったアンティーク風の椅子に腰をおろして海を眺めている
と、公演前の練習にはげむ井波さんのピアノの音が階下から漏れつたってくる。そのかすかなピアノの音を聴きながら五連のアーチ窓のむこうにひろがるおだや
かな海を眺めながらわたしはうつらうつらとしてしまう。駅をおりて、ちいさな迷路のような路地の商店街をぬけて「右毘沙門」の道標を横目に急な坂道をの
ぼっていくとやがて丘のうえに戦災孤児の施設としてはじまったという「神戸少年の町」の古びた施設があらわれ、その芝生のグラウンドの裏手の山道をのぼっ
ておりていくと苔むした供養塔がちらばったちいさな空間が藪のなかにひらけていた。だれもいないひみつのひだまりのような、しずかでとてもいい場所。わた
しはそこでしばらく、きざまれた文字すらとっくにかすれて形自体もちいさくすりへったような石くれたちといっしょにたたずんだ。施設のグランドから子ども
たちの「はないちもんめ」の歌が聴こえてくる。勝ってうれしいはないちもんめ負けてくやしいはないちもんめあの子がほしいあの子じゃわからん。はないちも
んめはかなしい人買いの歌だろうか。旧グッゲンハイム邸の二階のベランダでうつらうつらとしながら、階下から聴こえてくるピアノはひだまりのなかにたたず
むそんな石くれたちの間できらきらとはじける光のように思うのだった。歌は光だろうか。無限の深みをたたえた海は死でその死の水面をきらきらととびはねる
光のかけらが歌だろうか。やがてコンサートがはじまる。旧グッゲンハイム邸の一階のピアノの置かれた部屋で、さいしょの歌が何という曲なのか知らないが、
光は数百年も前に死んだつわものどもの墓標をすべりおち、堆積した落ち葉のもう光合成をすることのない葉脈をつたい、かわいた土の上をころころところが
る。わたしは五輪塔の立つひとけのない陽だまりの草むらにたたずんでそれをみつめていた。熊澤さんのヴァイオリンとおなじように井波さんの歌もながれてい
くのだ。光がしずかにたわむれる場所を。最前席で曲がはじまると決まって目をつむっている男性がいた。目をつむると見えてくるもの。目をつむるとはこの世
とあの世のあわいに目をこらすことではないか。五輪塔の裏山の山道をしばらくすすむと木陰のあいだからのっぺらとした浄土のような海が見える棚地があって
そこにだれかが置いたのか古いパイプ椅子が樹の根元にぽつねんとあったのでわたしはそれにすわって海を眺めた。ながれて立ち止まることがない。ながれつづ
けていく、そんな場所に存る歌。光のように風のように枯れ草のように石くれのようにヴァイオリンもピアノもうたも山川草木悉皆成仏が骨に沁みる。
◆井波陽子 Website http://cuorelife.net/
2019.2.17
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