048. 『徹底検証 昭和天皇「独白録」』を読む

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■048. 『徹底検証 昭和天皇「独白録」』を読む (2017.1.4)

 





 正月三ヶ日を働いて、やっと本年はじめての休日。前日に届いた『徹底検証 昭和天皇「独白録」』(大月書店)の冒頭、藤原彰氏の文章がとてもよくまと まっていて分かりやすかったので、朝からプリンタとOCRソフトでせっせと取り込み作業をしていたら、「朝ごはんができたよー」のつれあいの声にリビング に行って新聞をひろげたところ、なんと一面「修正重ね 勅語に「平和国家」」 「敗戦翌月 当初案は「国体護持」」―――敗戦後初の昭和天皇による国民に 向けた勅語の起草過程の記事で、なにやらそのシンクロニシティに驚いたよ。

 記事によれば当初の「第一案」では「光輝アル国体ノ護持ト国威ノ発揚トニ邁進」との文言があって、これがさまざまの人の手による削除・修正を経て「平和国家」の文言へと変わっていったのだとしている。

 以前にも触れたがこの昭和天皇の「独白録」は、「昭和天皇が敗戦の直後、数人の側近たちの質問に答えて語った、昭和初期から敗戦までの回顧談」であり、 もちろんこれからアメリカによる占領が始まり、戦争犯罪人の処罰などが予想される非常に危機的な時期に天皇の戦争責任の回避を目的として作成された文書で あるわけだけれど、対日米開戦にこだわる陰で中国やアジアへの経緯説明がノー・ガードであったり、ある意味で、天皇が如何に戦争に反対で平和を望んでいた かということを熱弁するあまりについつい余計なことを喋ってしまっていたりで、そのうち発禁処分になるんじゃないかな、世が世になれば。とにかく面白い。

 4人の学者による対談という形をとっているこの『徹底検証 昭和天皇「独白録」』の冒頭で、共著者の一人の藤原彰氏が「独白録」のポイントをコンパクト にまとめてくれているのだが、個人的にいちばん読んで欲しいのは「しかしこの、「天皇は立憲君主であり平和主義者であった」という主張は、いままで出てい る史料からだけでみても、正しいとは言えません。むしろ歴史を捏造している、と言うこともできるのであります」という部分。そしてもうひとつ「この記録を 読んで感じるのは―――いままでも知られていたことではありますが―――昭和天皇が天皇制、とくに天皇の地位とその正統性を示すものとしての三種の神器に 非常にこだわっているということです。いっぽうそれに反して、日本の国民をどう思っていたのかということについてみると、国民に対するはなはだしい愚民観 があります」というくだりである。

 敗戦(「終戦」ではない)はよく言われているように世の中が大きく変わった(軍事独裁から民主主義の世の中へ)わけではじつはなく過去との断絶ではなく 連続であり、300万人もの自国民と1千万人以上の他国民という眩暈がするほどの膨大な死者を出した責任をだれも取らず考えず放置した、というのが歴史を ひもとけばひもとくほどわたしの中では揺るぎない確信となっていく。しばらく前に現行天皇が自身の退位を言い出したときに、いわゆるリベラルといわれる人 々の中で「戦争寄りのアベ政権の暴挙を防ぐために(皇室規範等の改正論議によってアベ政権が目論んでいる憲法改悪を妨害するために)、平和を希求する天皇 ヘイカが投じた捨て身の一石だ」などといった有り難い論調が一時FB上でも賑わっていたけれど、以下の文で藤原氏が指摘しているように、平和を愛する天皇 という「歴史の捏造」が戦後から如何に上手に刷り込まれてきたかを物語っているように思えてならない。ほんとうにそうですか?

 フランス革命が起こった際に、フランスの人々の多くは当初、まだフランス国王であったルイ16世に親愛の念を抱いていて、国王のもとでの社会改革を支持 していたといわれる。フランス人が国王を見限ったのは、ルイが革命に嫌気がさして家族でフランスからの脱出を企てて捕らえられたときである。そのときに、 さすがのフランス人もかれらの国王を見限った。

 こんなことを書くと、言いすぎだろうといわれたり、忌避されたりするんだろうけど、―――「終戦のさいについても同じことが言えます。天皇が終戦の決意 をするのは、たいへん遅い時期です。軍事情勢に非常に通じていながら、なかなか戦争をやめるために積極的に行動しません。最終的には、連合軍の本土上陸が せまり、三種の神器の保持があぶなくなったというのが、天皇に終戦決意をさせたたいへん強い理由であるということが、この「独白録」からわかります」 ――― こんな内容が世間に出た時点で、この国の人々は無残に死んでいった無数の人々のためにもっと本気で怒って、天皇というものを見限るべきだったとお れは思うよ。

 人はなにかに寄りかからなければ生きていけないのかな。やっぱりおのれ以外に拠りどころが必要なのかな。「象徴」がなければ「国家」はまとまらないのか な。そんな「国家」は必要なのかな。そういうことを思うたんびに、あの夢想的スーパー地球ソングのイマジンや、「神はおれたちの苦痛を計る観念に過ぎな い」(GOD)と歌ったレノンのことをいつも思い出す。多感な中学生のときに、かれの歌にがつんと頭を叩かれておれは仕合せだったな。お陰で麻原ショー コーの弟子にもならずに済んだし。

 

 一 「独白録」を読んで


 昭和天皇「独白録」を読んでの私の感想と、そしてこの「独白」が、いままで議論されてきた天皇の戦争責任論とどういう関係があるのかということについて、簡単にお話してみたいと思います。

 去年(1989)1月7日に、ちょうど昭和天皇が亡くなったその朝、閣議決定を経たうえの竹下内閣総理大臣謹話というのが出ました。これは、閣議決定を 経ているということで、いわば昭和天皇の生涯に対する政府の公式な総括ということになります。それは次のような文章で、

 

 この間、大行天皇には、世界の平和と国民の幸福とをひたすら御祈念され、日々躬行してこられました。お心ならずも勃発した先の大戦において、戦禍に苦し む国民の姿を見るに忍びずとの御決意から、御一身を顧みることなく戦争終結の御英断を下されたのでありますが、このことは、戦後全国各地を御巡幸になり、 廃墟にあってなす術を知らなかった国民を慰め、祖国復興の勇気を奮い立たせて下さったお姿とともに、今なお国民の心に深く刻み込まれております。

 爾来、我が国は、日本国憲法の下、平和と民主主義の実現を目指し、国民のたゆまぬ努力によって目ざましい発展を遂げ、国際社会において重きをなすに至りました。

 これもひとえに、日本国の象徴であり、国民統合の象徴としてのその御存在があったればこそとの感を一入強く抱くものであります。

 

云々というのですが、要するに、天皇はつねに世界の平和を祈念し国民の幸福を念願したこと、さきの大戦は天皇の真意に反したものであるということ、天皇の 英断で戦争は終わったのであり、その後の日本の経済発展は天皇のおかげであるということを主張しているものです。

 そしてこの日、『朝日新聞』 『毎日新聞』 『読売新聞』 いずれも社説を掲げましたが、その社説も大同小異の見解を表明しております。各新聞の見解で 共通していることは―――天皇は平和主義者であった。しかし、天皇は立憲君主の枠を守って戦争に向かっていく事態をとめることをあえてしなかったし、でき なかった。終戦は天皇の英断によるものであって、その後の日本の発展は天皇のおかげである―――という数点に要約できるものです。

 こういった論理は、じつは戦後一貫して言われてきたことで、戦犯裁判対策が問題となってきた1945年11月5日の幣原内閣の閣議決定、「戦争責任に関 する件」でも、天皇は立憲君主であって、閣議決定などの責任機関の上奏を却下したことはなかったと言っております。東京裁判もその点を強調し、天皇への責 任追及を防いだわけですし、天皇自身の口からもそういうことは言われているのです。たとえば、アメリカ訪問を前にして行なわれた1975年9月8日の NBCテレビとの記者会見、あるいは同年9月20日の『ニューズ・ウイーク』の記者会見、あるいはその二日後、9月22日の在京外人記者団との会見でも、 一貫して天皇は、立憲政治を尊重することが自分の考え方の基本であった、したがって自分自身の決断をくだしたことは二回しかない、一回は二・二六事件のと き、他の一回は終戦のときであるというふうに主張していました。

 また、1981年4月17日、天皇の80歳の誕生日を前にして、大新聞社や全国ネットのテレビ会社社長と会見したさいには、「自分の生涯において、いち ばん印象深かったことは、青年時代にヨーロッパを訪問したことである。そのとき自分は立憲政治の大切なことを学んだ。そして、その後は立憲君主としてふる まうことをつねに心がけた。しかし、あまりにも立憲政治に拘泥しすぎて、戦争を防ぐことかできなかったのかもしれない」と悔いが残ったという意味のことを 自分で語っています。これらはいずれもその論理―――立憲君主であったために、平和を求める気持ちはあったが、それができなかった、ということを一貫して 主張しているのであります。

 しかしこの、「天皇は立憲君主であり平和主義者であった」という主張は、いままで出ている史料からだけでみても、正しいとは言えません。むしろ歴史を捏造している、と言うこともできるのであります。

 たとえば、すでに公刊されている史料である『西園寺公と政局』『木戸幸一日記』『本庄日記』あるいは防衛庁の『戦史叢書』『太平洋戦争への道・資料篇』 『現代史資料』等々にもとづいても、その所々で天皇は立憲君主とはとても言えない行動をしているという事実は、いくらでも明らかにされております。
 いちばん有名なのは、この「独白録」にも出てくるわけですが、田中(義一)内閣を倒閣に導いた天皇の発言です。それだけでなく、満州事変以後の(これは あとでくわしく述べられると思いますが)戦争指導のそれぞれの局面における天皇の判断や意見が、大きく歴史を動かしたことは事実でありまして、そういうこ とからみると、天皇は立憲君主で無問責だといったような天皇弁護の論理は実証的には成り立たない、歴史を偽造したものであると言うことができます。しか し、そういう史料にもとづいて天皇の言行についてあたり、その戦争責任を追及してきたのはごく少数の歴史の専門家でありまして、一般国民の多くはいまのよ うな、天皇についてのつくりあげられた神話を信じてきたのです。とりわけ、終戦は天皇のおかげである、だが開戦は軍部がかってにやったことで、天皇はそれ をとめることができなかった、軍部に押し切られたんだと信じさせられてきたのです。

 そういったことを集大成したのが、竹下総理の謹話です。とくに天皇の病気の前後から天皇の戦争責任が議論される中で、マスコミの多くは天皇無問責論を主張しましたし、国民の多くもそれを信じるようになってきたということは、たいへん問題だと思うわけです。
 歴史家の一部は、天皇に責任がないという主張にかんして、「実証的におかしいのではないか、歴史の事実に反するのではないか」と反対してはきましたが、それが国民全体の中での大きな声とはならなかったのです。

 「天皇独白録」が出てきたことは、そういった点ではたいへん衝撃的でありまして、天皇自身の口から戦争責任があることを認めるにひとしい発言がくりかえ されたのです。とくに『文藝春秋』という商業雑誌で、非常にたくさんの部数が売れて、それについてのいろいろな反響もひろく関心をもたれるようになってき たということは、戦争責任問題の点では一歩前進したというふうに言えるのではないかと思います。

 「天皇独白録」が出ますと、『週刊文春』をはじめとして、『週刊朝日』やさまざまな雑誌・週刊誌の類が、これについていろいろな反響をのせました。その反響は二つに分けられます。

 一つは、これによって天皇の戦争責任論が一定の前進をみせたことでしょう。天皇自身はけっして立憲君主の枠を守って政治にかかわらなかったのではなく て、戦争のそのときどきにいろいろな命令をし、人事にまで介入していたことは明らかになったと認めざるをえない、ということです。他方では、こういう事実 がありながら、それに目をつぶって依然として天皇無問責にこだわっていたり、あるいは論理をすり替えてしまったりして、天皇は人間としては国民の心情をつ ねにおもんばかった慈愛深い平和的な君主であったということを強調しようとする人もおります。読み方も二つに分かれているなという気がします。

 

 ニ 「独白録」が明らかにしたこと

 そこで、あとに問題を発展させるため、いくつか私の感じたことを申し上げます。

 一つは、天皇が立憲君主としてふるまっていたかどうかという問題です。とくに政務において、関係機関、とくに内閣の上奏をそのまま裁可していたかどうか という点についてです。そうではなかったという事実をみずからが語っている。そのうえ人事にも深く介入していたということが、この「独白録」で明らかに なったということです。

 すでにいままでに明らかにされていたことですが、阿部信行内閣の陸軍大臣の人事について、畑俊六か梅津美治郎のどちらかにしろ、と天皇が直接総理大臣に 命じたという、とんでもない人事介入をしていることをはじめとして、いくつもの人事介入の事例をみずから認めています。

 もう一つは、そういった人事に介入する前提として、個々の人間についての天皇の非常にはっきりした好ききらいや評価があることです。

 天皇のために一生懸命働いたにもかかわらず、いま生きていたらとても立つ瀬がないだろうなと思われるような評価をされている人もいます。平沼騏一郎・宇 垣一成・松岡洋右といったような人です。まるでヒトラーに買収されたかのように言われている松岡。彼は死にましたけれど、遺族はとてもいたたまれないよう な人物評価をされているわけです。その人物評価においても、天皇個人の感情的な問題、好ききらいがあるような気がしますね。きらわれている人には人間のタ イプとして共通点があるような気がします。これについては、またあとで議論していただきたいと思います。

 それにしても、そこまで深く立ち入って、たとえばまだ陸軍省の一課長にすぎない有末精三を排除するために大臣を決めたなどということまで天皇が言ってい るなど、信じられないような発言です。いずれにしても、人事へのかかわり、人物への好悪という感情的な在り方というのは、たいへんな問題だと思います。

 もう一つ、この記録を読んで感じるのは―――いままでも知られていたことではありますが―――昭和天皇が天皇制、とくに天皇の地位とその正統性を示すも のとしての三種の神器に非常にこだわっているということです。いっぽうそれに反して、日本の国民をどう思っていたのかということについてみると、国民に対 するはなはだしい愚民観があります。

 たとえば、戦争を始めるときに、戦争に反対だったのにとめなかったことの言い訳としてあげているのは、もしこのとき戦争をやめるよう命令したならば、か ならずクーデター、内乱が起こっただろうと言っている。つまり、国民を信じていないのです。そしてその結果起こる戦争、戦争の結果起こるたいへんな国民の 被害についての配慮をほとんどしていない。それは次の事実にもはっきりとあらわれています。

 開戦の前に、近衛文麿内閣が総辞職して、東条英機を次期首相に任命するときに、陸軍はむしろこのさい皇族内閣を出せと主張したのに、天皇と木戸と近衛 は、「皇族内閣を出して敗戦になったならば国体に傷がつく」、要するに天皇制があぶなくなるという理由で、皇族内閣に反対し、、敗戦によって国は滅びない けれど革命によって国は滅びるという判断に立っていました。そのこと自体は、いままで言われてきたことですが、それを天皇の口から明らかにしているわけで す。近代戦争とその結果予想されている敗戦で、どれだけの損害を国民がこうむるかという配慮がほとんどなくて、天皇制を守るため、内乱や革命を防ぐことの ほうにより大きな配慮があったと言わざるをえません。

 終戦のさいについても同じことが言えます。天皇が終戦の決意をするのは、たいへん遅い時期です。軍事情勢に非常に通じていながら、なかなか戦争をやめる ために積極的に行動しません。最終的には、連合軍の本土上陸がせまり、三種の神器の保持があぶなくなったというのが、天皇に終戦決意をさせたたいへん強い 理由であるということが、この「独白録」からわかります。

 つまり、天皇にとって国民はまさに臣下であり赤子である、統治している対象であるわけです。国民すべての生命だとか幸福だとかに対する配慮より、むしろ 統治する体制―――天照大神からひきついできた天皇の支配する国家―――の継承のほうが大事であったということが、「独白録」からわかります。それは大き な問題だと思います。そういう考え方で戦争をなかなかやめなかったとするならば、ここにも非常に大きな戦争責任があったと言わざるをえないと思うのです。

 以上が、この「独白録」を読んでまず感じたことですが、全体として、この「独白録」は天皇の戦争責任論をさらに一歩進めるためのいい材料だと思います。 それから、そういうふうに考えたくない人々のこの「独白録」への言い分は、これの史料批判をしなければならない、これは特別な条件のもとで書いたもので、 実証性が疑わしいという議論であります。これは予期していたことですが、この点も検討してみる必要があるのではないかと思います。この「独白録」は、たし かに一定の目的をもってつくられた文書です。これは東京裁判を前にして天皇の戦争責任が問題にされることを前提としてつくられた文書でありながら、逆にこ の中にあげられている事実がかえって戦争責任論に説得性をあたえているという気がします。

 この「独白録」は、天皇に戦争責任はないという立場の人にとっては、たいへん都合の悪い資料です。だから、これは後年の回想にすぎないもので、史料的価 値は低いと言っているのでしょう。たしかにこれは、原田日記や木戸日記のようにそのときどきに記録された日記ではなく、あとからの回想録です。だから記憶 違いもめだちます。しかし、1946年春の東京裁判の開廷を前にした時点で、昭和天皇が戦争をどのように考えていたかを示すという点では、貴重な史料であ ると言えましょう。

 さらにこれは、東京裁判に対する天皇の証言の準備であるか、少なくとも寺崎英成をつうじてアメリカ側に伝えられることを予期して作成した文書と考えられ ましょう。それはもっと後年になってからのように、立憲君主論に逃げ込んでいるのではありません。裁判の争点になりそうな問題についてなまなましい証言を していることになります。その中で自分の立場については弁明に終始していながら、ターゲットにされた何人かの臣下に責任を転嫁しているとさえ言えるもので す。

 それだけに諸局面について、きわめて具体的に事実が証言されています。それぞれの時点で、天皇がどのように事態を受け取り、どのように考えて行動したか を示すという点でも、価値のある史料と言えます。そして、天皇は戦争の全期間をつうじて、みずからが最高の統治権着であり、大元帥であるという自覚をもっ て戦争を指導していたことがここで明らかにされているのです。

 後年の回想であることは、たしかに史料としてはマイナスな点です。しかしこの回想を補強し、傍証する材料はきわめて豊富です。従来から私たちが利用でき た原田日記や木戸日記に加えて、最近相次いで刊行または紹介された入江相政や木下道雄、奈良武次などの側近者の日記を対照すれば、「独白録」の史料として の意義はさらに高まるでしょう。

『徹底検証 昭和天皇「独白録」』(大月書店)より 藤原彰「報告1「独白録」の史料的価値」

2017.1.4


 


 



 

 

 

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