■体感する
■045. 奈良県立 同和問題関係史料センター (2016.11.9)
このごろ滅多にない平日の休日午前を利用して「奈良県立 同和問題関係史料センター」を覗いてきた。年にいちど展示替えをするので(といっても内容が ごっそり変わるわけではないが)、HPで気がついて見に行く一年にいちどのわたしのささやかな愉しみ。家から車で十数分ほど、旧国道の大安寺交差点近くに ある。二階の展示室へ行くと廊下も暗く扉も閉まっているので、まず三階の「研究室」にいる学芸員の方へ声をかけるのは毎度のこと。ひさしぶりのお客さんと いったちょっと驚いた笑顔とともに「どこから来られたんですか?」と言いながらいっしょに階下へ降りて鍵を明け電気をつけてくれ、それから部屋の真ん中で 所在なく待機されているのを「たぶん一時間以上はゆっくり見るので、どうぞお気遣いなく・・」と「研究室」へもどっていただくのも、これも毎度の儀式。そ うして展示パネルを眺めていると、しばらくして過去の企画展のときの残った小冊子を「よかったらどうぞ」とくれたことも二三度あったな。
家からほど近い、かつて穢多寺の本山もかねていた浄土真宗の寺の法要のときに三昧聖(火葬・埋葬や墓地の管理にあたった聖)、 座頭、非人頭、そして癩者へ布施を与えた記載のある台帳がひろげられていた。穢多村がかねてから既得権として持っていた草葉の権益について説明したパネル があった。生駒山の十三峠で貴種の姫を保護した言い伝えから、穢多村の「細工」村が朝廷に献上するようになったという御根太草履があった。台風による凶作 のために普請や仏事・婚礼などを簡略にする簡略仕法が交付され、従来より穢多や非人たちが受け取っていた祭礼・仏事の出店や、興行の際の芝銭、櫓銭、勧進 者・芸能者・乞食の出入りなどが禁止になったという記録があった。また部落解放令の後にもなお、被差別部落の人々に対して一般の人々が抱く「何トナク異ナ レルガ如キ感」、「何カナシニ嫌フ」といった言葉が記録されたフィールドワークがあった。時代から取り残されたようなこのひっそりとした展示室でこれらの 史料に囲まれて、したたかに生き、悔しさをこらえ、ときに唾することもあったろう無数の無名の人々の風景を空想することが心地よい。
最後にふたたび三階の「研究室」へあがって閲覧を終えた旨を伝え、展示パネルにあった、大正期の「明治之光」なる雑誌に県内の部落の地名にまつわる伝承 などを記した小川幸三郎の「? 旧部落名」をどこかで読めないかと訊くと、各号にまたがっているのですぐには出せないが、後日でよければコピーして送って くれると仰るのでお言葉に甘えることにした。そうして誰もいない「研究室」に招かれて、「ついでにもうひとつ。最近大逆事件について調べているのだが、あ の事件が奈良県内のとくに部落運動などをしている人々の間でどのように受け止められ、また何か記されたものが残っていないか興味があるので、そんな史料が もしあれば・・」と言うと、それも調べて後日に(もっと詳しい)所長氏の方から連絡をしてくれる、と。そうして郡山の寺に集った種々多様な賤民や、奈良・京都の境に位置した東 之阪の被差別部落の人々の話などに小一時間ほど花が咲いたのだった。先日はじめて見学に行った少年刑務所も、もともとはあのあたりは郷墓といわれる集落ご との墓地がひろがっていて、その葬送や墓地の管理に携わっていたのが東之阪の被差別部落の人々であったという話や、それから当の刑務所の敷地内にあった江 戸期の木製の独房もおなじような(西の)境界の被差別部落であった油阪から持ってこられたものであるといった話も面白かった。
わたしの方も大阪・千日墓にあった刑場の話や、新宮や大阪・天満での大逆事件絡みの話なども調子に乗ってしたのだけれど、「ところでどうしていま、大逆 事件なんでしょうか?」と問われたわたしは、一瞬考え込んでから、「ん・・ 何でしょうか。むかしはせいぜい幸徳秋水や大石誠之助くらいしか知らなかった のですが、国のでっちあげで死んでいった人々が書き残した言葉や、残された遺族の人々のその後の人生に触れると、いまもじぶんたちがかれらを踏みつけてい るような堪らない気持ちになるのです」と、そんなようなことを答えたのだった。
▼奈良県立 同和問題関係史料センター http://www.pref.nara.jp/6507.htm
2016.11.9
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