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■044. 西宮 榎並和春個展 「どこにでもある」 (2016.10.9)
夏の残り陽のような秋晴れの西宮神社境内は蒸し暑かった。かつて傀儡子たちが集っていた散所(産所)町に祀られていたという百太夫の祠に挨拶をする。近 くのベンチに腰を下ろして空と梢のあわいを眺めていたら、赤ん坊をかかえた宮参りの家族が巫女に連れられて百太夫の祠の前で拝礼をするのが見えた。艶やか な産着につつまれた赤ん坊はかつて傀儡子たちの操っていた人形のようだ。立ち上がり夙川の方向へ、はるさんの個展を覗きに行く。傀儡子たちの町は江戸の中 ごろにはすでに廃れたという。かれらはどこへいってしまったのだろう。中上健次の小説のように、巨大なトレーラーにいにしえの老婆たちを乗せて探しにいき たい思いに駆られる。 「どこにでもある」 画家の眼は地面に降りてきた。わたしはしばらく焦点が合わなかった。ピンクの家があり、夢を喰うバクが佇み、 緑色に身をつつんだ少女たちがおしゃべりし、天眼鏡をかざす老婆があり、若きゴッホの描いた炭鉱夫のような農民がいた。傀儡子たちはどこへいってしまった のか。来し方を忘却したあのさすらいの楽士たちは? かれらを見つけたのは大きな「祝い人」の両端だった。どちらもおなじ朱のなかにいて、右側の漂泊の楽 士がいまは引退して居をかまえたのが左の雨があがったとコウモリ傘をすぼめて空を仰ぎ見る初老の人物なのだと気づいたら、画廊に並んだ華やかな(そして) つましい色につつまれた他の作品たちもさながら熊野旧社地で一遍に次々と現れてはまとわりつくまぼろしの童子たちのように、自然と寄りそってきた。画家の 眼は地面に降りて、同時に山川草木に遍(あまね)くちらばって、やがて足元の小石や植物たちがおなじように地面に降り立った傀儡子や楽士たちのように仄か に光かがやくのだろうと思う。そんな空想をすることがたのしかった。夙川の駅の近くのしゃれた洋食屋に移動して、画家とそんなあれこれの話もまじえながら 上等なハンバーグとビールに舌鼓をうったのもたのしかった。
2016.10.09
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